2022年6月5日(日)の毎日新聞の『人生相談』欄(回答者・高橋源一郎氏)に、『母を許す気になれない』として次のような相談が載っていた。
<母は昔から口が悪く、感情的な面があり私は「産むんじゃなかった」と何度も言われて育ちました。わだかまりは残っていますが、少し前に結婚が決まり、夫になる外国籍の彼を紹介しようとしたところ「納得いかない」「都会からコロナを持ち込まないで」とラインが届き結局、会わずじまいです。母も80代になりましたが、完全に許す気にはなれません。(50歳・女性)>
もし本書の著者が回答者だったら、どんな答えになっただろうか。
著者は「家族と葬送」をテーマに取り組んでいるライター。「日本葬送文化学会」に所属し、「タブー視されがちな、問題を抱えた家族とその葬送について」取材を重ねている。
「すさまじい!」
印象をひと言で表すならこう言うほかはない。絶縁と終焉とは、生死を問わず家族の「完全な断絶」を意味するのだと思う。徹底した憎悪が家族をひき裂いてしまう。「そんなことが・・・ある?」という言葉さえ拒絶している。
著者は26年前に父を亡くした。一周忌を境に母や兄と絶縁。その理由は・・・それが普通に考えられるような次元ではないのだ。著者はそれをきっかけに「家族と葬送」を考えるようになり、「崩壊した家族の別れ」の取材を重ねて7年。本書の「はじめに」で言う。
「どんなに確執を抱えていても、『親子愛神話』で終わる永別を期待される社会の中で、語られない『家族の別れ』」がある。「むしろそうしたした家族の弔いこそ、社会に知ってほしい」し、「それがまた、『人間というもの』を知ることではないだろうか」と。さらに、
「悲しいのは『死』ではない。生きとし生けるものの命にはすべてに終わりがある。本当に悲しいのは『死を悲しめない家族の関係』なのだと思う」。そして、「この本が家族に悩む人たちの苦しみを和らげる一助となれば、幸いである」と述べている。
本書は序章を含めて6章から構成され、著者自身のケースも含めて取材の中から印象的な話を記し、考察を行い、いくつかの提案(本稿では省略)をしている。諸々の事例は詳細かつ膨大なものだが、本稿ではスペースの関係からエピソードを絞って紹介する。機会があれば直接読んで欲しいと思う。なお〇印は各章の中の項目名。
まず序章「多くの人が“家族”に苦しんでいる」から
〇親が子に葬式に出ることを許さない
シンガーソングライターのEPOさん。彼女はもの心のついたころから母による虐待を受ける。あるとき母が送ってきた葉書には、「自分が死んでも、おまえには知らせない」と書かれていた。初めてのことではない。父が亡くなった時もすぐに知らせてもらえず、「栄子(EPOさんの本名)にだけは知らせるなと、お父さんから言われていたから」というのが母の言葉だったという。
その後母が亡くなった時も、葬儀や四十九日の法要について知らされなかった。「親が子に自分の死を知らせない目的は何なのだろう?自分に背いた子どもに自分の死後も後悔させる、最期に呪いをかけて逝くのだろうか・・・」と著者。「人が亡くなると、生前のその人の姿が、みごとなまでに残された人に映し出される」(EPOさんの日記)。
〇囲い込み問題
ここでは2つの事例。
・三女が独居の母親(80)の世話をしていたが、長女・次女が母親を連れ出し、三女には会わせず居場所も知らせない。姉たちはその間に、判断能力が低下した母の利益を代理する任意後見人になっていた。
三女は訴訟を起こす。長女たちは、「母自身が三女と会うのを嫌がり、会わせれば健康に支障がでることになりかねない」と主張した。しかし東京地裁は、「三女が独自に母の居場所をつかみ、一度だけ面会した際の三女と母の会話内容などに基づいて、母側に会いたくない意向はうかがえないと判断」し、面会が母親の健康に影響を与える根拠はない」と長女らの主張を退け、賠償を命じた。裁判官は、「『親と面会交流したいという子の素朴な感情や、面会交流の利益は法的保護に値する』とし、合理的な理由なく拒めない」と指摘した。
・両親の財産を処分しようとする長男の動きを長女が察知。施設にいる親と会おうとしたが、長男の反対で施設は面会を認めない。裁判所は「長女と両親との面会を妨害してはならない」という仮処分決定を言い渡した。
このような例は子ども側に問題があるように見えるが、現実には親が老いに向かう間に、どの子に老後を頼ろうかと、あからさまな兄弟差別をしている場合も少なくないという。「頼りにしている子に見捨てられないように、他の子どもには辛くあたることもある」し、「長男の嫁が気にいらなければ、手のひらを返して娘や次男に乗り換えようとする親」もあるからだ。また「息子の嫁とは折り合いが悪く、さんざん娘夫婦の世話になりながら、嫁いだ娘に財産を渡すよりも、やはり長男にと遺言を遺す親もいる」のだと。
著者は、「相続で揉める原因も、決して子どもだけではなく、親のほうにも問題があることを付け加えておきたい」と言っている。
第1章は「絶縁家族のおみおくり」
〇姉妹が見ていた別の家族
2年前に癌で亡くなった9歳年下の妹の朋美(享年45)と母との長年にわたる厳しい対立。姉の晶子は「まさか?」というような話を妹の遺品から初めて知った。
妹が遺したノートには、「幼い時に母親から虐待を受けたことが綴られ」、「幼い時に兄から性的な悪戯をされていたこと」や、学校や近所の友だちから日常的にいじめを受けていたことが書かれていたという。
母は長男の嫁との折り合いが悪く、兄と姉が実家を出たあと朋美は30歳まで両親と暮らしていた。ある時、食あたりで苦しむ朋美の横で、母は娘の体調を気にかけることもなく、「あんたに老後は頼むからな」と言ったそうだ。その言葉で我慢の限界を越えて独り住まいをするようになり、その後約10年間母親と絶縁を続けることになった。
朋美は同じように母のことで悩む友人(女性)に亡くなる少し前までLINEで相談をしていたという。母が「亡くなっても、まだ母を許せないと思う私は間違っているのでしょうか?許さなくてはと思うのですが、どうしても母を許すことができないのです・・・』」と言っていたそうだ。
朋美の他界を知ったその女性から著者への電話。それによると、「思いつめた様子で、彼女が勇気を出して伝えてくれたのは、母と同じ家の墓には入りたくない、散骨してほしいという遺志を彼女に託して」旅立ったということ。彼女が献体を選んだのも、「葬儀で家族の手を煩わせたくなかった理由の一つだった」のではないかということだ。
毎日のように見舞いに通った姉にも彼女は何も話さなかったので、もしその友人への伝言がなければ家族は何も知らないままだった。「母と朋美にいったい何があったのか?なにがそれほどまでに朋美に母を拒ませたのか?」、二人とも亡くなった今では永遠にわからない。
〇死後事務委任契約に託したイギリスでの散骨
吉村行政書士事務所に、子宮頸がんの末期で余命3カ月の宣告を受けた44歳の独身女性一本のメールが来た。死後事務委任契約を依頼したいという。医師からは、治癒の見込みがなく、積極的な治療はほとんどできない状況だと説明を受けていた。
5年ほど前に離婚した彼女は、それをきっかけに親や兄弟と絶縁をした。家族は自分の味方ではないと強く感じたそうだ。病気がわかったときに会社も辞め、親や兄弟にはすべてが終わるまで何も知らせないでほしいというのが彼女の強い願いだった。
「直葬で構わないが、骨も家族には拾ってほしくない」。若い頃留学したイギリスでの散骨を希望していた。
彼女の願いは叶えられた。
吉村は、散骨を手伝った女性とともに東北の町を訪ねる。両親と姉に会い依頼された経緯を伝え、散骨も、「家の墓に入りたくないというネガティブな気持ちからではなく、思い出のイギリスの地に眠りたいという本人の希望であった」ことを言い添えた。葬儀社が用意した白木の位牌も届け、同行した女性も、「散骨の写真を見せながら、詳しく説明」をしてくれたという。
しかし両親は言葉にも表情にも娘の死を悼む感情を見せることはなかった。吉村はそこに、彼女が「抱えていた家族への悲しみの深さを改めて知った」という。同席した姉だけは涙を流して聞いていたが、「両親は娘の闘病や、最期の話にも関わろうとはしなかった」。二人は重い気持ちでその場を後にした。
第2章は「絶縁家族の乾いた別れ」
〇「愛着障害に悩んできたヤクザの息子」
ヤクザだった父が出所したあと母に暴力の限りを尽くすのを見てきた幼いころの佐野さん(59)。しかし父は彼には不思議に手をあげず、行儀作法には厳しかったが勉強も見てくれたという。
父が服役している間、母はキャバレーのホステスとして働き、夜逃げのような引っ越しを何度も経験した。彼自身もずっと対人関係に悩み人生に蹟きながら生きてきた。あらゆる業種の仕事をしたが長続きせず、転職は30種以上。
「自分はなぜ、人と同じことが出来ないのか?普通に働けないのか?」
鬱病になり、引きこもり、生活も困窮。何もかもがどん底に追い詰められ、6年前に初めて生活保護を受け、カウンセリングも受けた。そこで、自分が抱えていた生きづらさの原因が「愛着障害」によるものだったことがわかって救われたという。
彼は母の料理を一度も美味しいと思ったことはない。今でも舌が覚えているのは「オヤジの味」だ。「素材を活かした料理の知恵を引き継げたのは、父からの一生モノの贈り物」だという。30年近く前に他界した父の葬式では一粒の涙も出なかったが、彼のキャッシュカードの暗証番号は父の命日になっている。彼の父への想いには愛憎半ばの情が現れるが、話に母は現れない。抱かれた記憶もなく、今も親しさを一切感じないという。
母は夫の愚痴も暴言も吐かなかったし、彼を虐待することもなかった。夫の暴力に耐え忍ぶ鬱憤を子どもに向ける母親もあるのに、彼女はしなかった。「母に対しては憎しみもないし、嫌いでもない。だが別に気にもならないし、感謝の気持ちも湧いてこない」のだ。
カウンセリングで、母には「軽度の知的障害があるのでは」と言われ、それが「愛着障害」の原因となったのではないかと気づく。彼はそこから母を客観的に見られるようになり、「初めて自分のそれまでの人生に納得がいき、自分とむきあうことができた」と言う。
「軽度の知的障害では一般的な家事や子育ては十分に可能であり、日常生活を送るうえでは周りからみてもほぼ気づかれない」場合が多い。「子供を含めて他人に対して、共感することが苦手なのだ。共感の仕方がわからない」のだろうとされている。
「愛着障害」の人がそれを克服するためには、親との関係を回復させるか関係を絶つか、二つの道があるという。一人で暮らす母とは2年間会っていない。彼には今母親と距離を置くことが必要なのだ。
なお、愛着障害については本年2月号の「Web会だより-私の瞑想体験-」にも具体的に記されているので参照されたい。
〇「『あなたはお葬式には来ないで』と母に言われて」
両親は父方の祖父が立ち上げた病院の医師。絶縁している亜紀さん(38)に朝7時、実家の妹から来た電話は父(享年67)の死去の知らせだった。闘病のことも知らなかった彼女がその間の事情や葬儀のことを聞こうとすると、替わった母から「パパがあなたには来てほしくないって、家の恥だから。わかったわね」との冷たい声。電話は一方的に切られた。
彼女は3歳下の妹とともに幼いころから医者になることが決められ、親戚も医者ばかりでそれを不思議に思わなかった。医学部を目指す子女が集まる難関の中高一貫の女子校に進学。しかし家庭に親のぬくもりはなかった。
彼女が熱を出してもただ薬を与えられ、「薬を飲んだか?なら塾を休む必要なし」と、それで終わり。
「褒められたこと?ないですね。だって自分たちの遺伝子を継いでいるのだから、勉強はできて当たり前。親が与えた知能であって、子どもの努力だなんて思う人たちじゃないですから」
家族で食卓を囲んだ思い出は少ない。祖母が元気な時には祖母と食べていたが、その後はお手伝いさんが用意したものを食べるか、塾にお弁当を持っていくことが多かった。
「子どもの日常の衣料品も通学の靴も外商担当者の裁量にゆだねて、成長を考慮の上でサイズを揃え、箱単位でまとめて買い置きをして無駄な時間と労力を省く」のが暮らしの知恵だったそうで、「ショッピングセンターでお母さんと娘で下着を仲良く選んでいる光景を見て、びっくりしました」という。
高校生になると偏頭痛や摂食障害となり、成績も下降。両親は、「亜紀の教育の失敗を互いのせいにしては罵り合い、父は看護師との不倫を繰り返して、家の中にはいつも怒鳴り声が飛び交っていた」。
一浪の末に私大の医学部に寄付金を払って入学したが、そこまでが限界で休学。一方、妹は現役で国立大の医学部に合格して家を出る。そうすると、母からあからさまに罵詈雑言をぶつけられるようになった。
生きる希望を失った彼女は睡眠薬を大量に飲んで自殺未遂。そのまま精神科に入院させられ、「自律神経失調症による鬱病、就学困難」という診断でようやく退学が許された。それからは「攻撃もされないけど、腫れ物に触れないように無視をされているような感じ」になったという。
そんな時見つけた生花店のアルバイト。花のことを調べるうちその勉強が楽しくなり、バイト代でフラワーデザインの学校に通うようになる。
「生きていてよかったって、思いましたね。それまで受験勉強しか知らなかったけど。『自ら学ぶ喜び』を初めて知りました」
フラワーデザイナーの資格を取って教室で教えるようになった時に出会ったのが、「とにかく自由人でビックリしました!」という生徒だった今の夫。まもなく同棲を始めた。
ところが、両親にとって彼は許しがたい相手だった。なぜか。それは、彼女がフラワーデザイナーになることには反対しなかったものの、見合いで医師と結婚させ婿養子を迎える算段だったから。
母は、「あなたという子はどこまで、親に恥をかかせる気なの?!絶対にあなたを許さないから」と言ったそうだ。
妊娠したのをきっかけに結婚。長女、長男が誕生した時に写真を添えて報告の手紙を送ったが返事はなかった。
保育園や花屋で出会った人たちには、温かく優しいだけではなく積み重ねられた知恵があった。「自分はいったい何を学校で学んできたのかと思いましたよ。頭がいいのと勉強ができるのは違うんだってことも」。
長女の小学校入学記念の写真を手紙とともに親へ送った時の母からの電話。
「なんであんな手紙を送ってくるの?」
「だから無事に元気にしていることを知らせようと思ったから・・・」
「あなたが幸せに生きているのを、喜ぶとでも思っているの?二度とこんな手紙をよこさないで頂戴。美紀が離婚していい気味だと思っているんでしょう?結婚して子どもを産むなんて、誰にだってできることじゃない?もうあなたはこの家の人間じゃないんだから。さようなら」
その電話で親へのかすかな希望も消えた。「もう二度と会うこともないし、孫の成長を伝えることも必要ないと思った」。
自分が母親になった今、彼女は初めて自分の成長に欠けていた『親のぬくもり』に気づいたという。「母親に心配してもらえるだけで、子どもは安心するもの。『親のぬくもり』こそ、副作用の心配もない一番の良薬だと亜紀は思う。亜紀の娘はまだ8歳だが、娘の成長を楽しみにしている」。
〇「息子に離婚を迫る85歳の母親」
銀行員だった田川さん(63)は、実家に一人暮らしの母親(85)の世話に通っている。彼はその母親から、別居中の妻との離婚を迫られている。
彼の父親は脱サラで会社を興し、小さいながらも着実に業績を伸ばして「都内にいくつかの不動産を所有していた」が65歳の時に脳溢血で急逝してしまう。
彼の妻と両親とは当初から折り合いが悪く、この10年は「孤立した母親の面倒を長男として一手に引き受けてきた」。妻は自分の親の介護を理由に実家に戻る。
そのことを知った母は嫁の実家に電話をし、嫁の母に息子夫婦の離婚を迫った。「当然ながら、両家の亀裂はこれで決定的」なものとなる。
妹もまた母の虚言が原因となって絶縁している。
「すぐに離婚しなさい!どうせあなたたち夫婦はずっと別居をしているんじゃない。それだけでも立派な離婚の理由になるのよ!」
妻に連絡をしても返信は一度もないし、送ったLINEが既読になることもない。
「母は私に譲った財産が、私が妻より先に逝くことで、妻と妻の家のものになることは絶対に許せないと言いますけどね。正直、私は母が私より長生きすることのほうがずっーと恐怖なんですよ。母に100歳まで生きられたら、私は78ですからね・・・」
「社会的にはそれなりに恵まれた人生を送り、離婚もせずにきた彼の孤独を人は誰も知らない」
3章は「絶縁の彼方に見たもの」
〇「離婚した元夫の墓と位牌を別れた妻が守る理由」
子のない旧家の新倉夫妻が家を守ろうと甥を養子にもらい、そこに見合いで嫁に来た慶子さん(70)。
嫁入り前に義父は他界。義母はかなり気難しい人だったが、彼女のことは気に入り可愛がってくれた。嫁いでひと月後から、義母が会長を務める看護婦家政婦紹介所の仕事を手伝うことになる。そのために義母の勧めで看護学校に通い、准看護婦の資格を取り、「その間に三人の子ども(長男、長女、次男)を生み育てた」。
10年目に義母が亡くなると、夫は葬儀の場で、「母が会長を務めていた看護婦家政婦紹介所を慶子が引き継ぐ」と勝手に公言し、さっさと赴任先の福岡に行ってしまったという。
義母の死後、夫はますます金遣いが荒くなり、財産を湯水のごとく浪費する。A子という20歳を越えたばかりの女性を受取人にした2億円もの生命保険が掛けられていたという、映画のような話が現実に起きて彼女は夫との離婚に踏み切る。
だが彼女は離婚後も、「婚家の姓の新しい戸籍を作り、子どものために新倉の姓をそのまま変えずに名乗る」ことにした。そして、付添婦廃止による経営難をも乗り越え、自身もケアマネージャーの資格を取得し、今では「居託介護支援、訪問介護、小規模多機能型居託介護施設など幅広い介護支援サービスを展開している」事業の代表を務めている。
離婚後に酒を浴びるほど飲むようになった元夫は糖尿病が悪化、目も全く見えなくなって人工透析と入退院を繰り返す日々。見舞いに行かせた子どもによると、「家に帰ってこられたら困ります!」とA子は医師に言っていたらしい。「高収入だった将司には月に三十万もの年金が入っていたはずだから、A子にとって入院してもらうことに越したことはないのだ」。
亡くなった(享年68)との連絡を受け、火葬場で三人の子どもが父の亡骸と対面。「花も戒名も僧侶の読経もない、本当に焼くだけ」の葬儀。子どもが用意した花がなければ、棺に入れる別れ花もなく荼毘に付されるところだった。つまり、「お金がないからこういう葬儀しかできないということをにおわせる目的の場」だったということ。
一戸建ての自宅の売却金、生命保険金2億円、10年前に支払った3千万円の相続税からはかなりの資産があったはずだが、3人の子どもの父は「A子によって根こそぎ奪われて」あの世に旅立った。A子には今も元夫の遺族年金が支払われている。
彼女は、「血をつなげようとした新倉の父と母の願いだけは一応叶えて、家族の絆を繋げることができたかと思っています。日々、ご先祖様に見守られているなって感じますよ」と。
著者は言う。「彼女がしっかり次世代の心へ守り引き継いだものの豊かさ、大きさを改めて思う。それは目には見えないもので、お金でも買えないものだった」。
〇「『西の空』まで往路の旅もまた良し!」
健一さん(80)は長年、映画やTVドラマの撮影に携わってきた元カメラマン。4年半前に、結婚して43年の最愛の妻、榮さんを78歳で突然亡くした。
実母は彼が2歳の時に他界したが、それを知ったのは高校入学の手続きで戸籍謄本を見たときだった。母だと思っていたのは実母の妹だった。あからさまな差別はなかったが、母らしいぬくもりを感じられなかった理由がその時やっとわかったという。父との間には7歳下の弟が生まれている。家には実母の写真はない。
「25歳で実家を出たばかりの頃、父の実家がある富山に実母の墓があることを人づてに聞き、ひとり夜行列車で墓参りに行った。しかし、その直後に寺から養母に連絡がいき、養母は実の姉の遺骨を墓から持ち出して、彼が二度と墓参りが出来ないようにしてしまった」
その後、映画製作に携わっていた時に2歳年上の榮と出会い、監督に仲人をお願いして33歳で結婚。けじめだと思って二人で結婚の報告に行ったが、父も養母も黙ったままで何も言わない。すぐに帰ったという。
それから7年ほどのち養母が亡くなる。礼節だと考え再び二人で葬式に出向いた。その親族が揃った場で弟から、「兄貴、実はこういうものがあるんだ」と見せられたのは、「父の家の財産のすべてを弟に相続させるという公正証書遺言だった。その場にいた養母の妹たちが立ち会い人として捺印していた」。
つまり、実母ともども長男の彼の存在も消されていたということ。「まさに養母という人が見える葬式」だった。それをきっかけに父や弟ともきっぱり絶縁した。
その後、良心がとがめたのか、「すべてを隠すように厳しく言い渡されていて、どうしても事実を打ち明けることが出来なかった」と詫びてきた養母の妹から渡されたのは、40歳を過ぎて初めて目にした実母の写真だった。彼は今でもその写真を大切にしている。
養母の葬式から10年、弟から父が亡くなったとの電話をもらったが、「そうか、わかった」とだけ言って切った。結局、父は息子の苦しみに触れようともせず、何もせずに逝った。彼は相続権を放棄。葬儀には行かず供養にも一切関わろうとしなかった。
「それでよかったのだと、後悔はない。実母の墓は養母に動かされてしまったし、父の墓参りも一度もしていない」。ただ、「妻に舅姑の苦労をさせずに済んだのは幸いだった」という。
その後テレビドラマの仕事で出会ったのがKさん。Kさんはテレビの仕事から退いたあと寺の住職になっている。さすが元活動屋だけあった法話が上手いと「なかなか評判が良い」らしい。
彼は、「いつか自分があの世に旅立つときが訪れたら、遣った自分のマンションなどをKさんに譲り、亡き妻と共に島根の彼の寺で眠りにつきたい」と考えている。しかしKさんは、「それは宗教者冥利につきるけど、こればっかりはどっちが先かわからんよ。でも、うちの寺でいつか健兄と一緒に眠るのもええでしょうなあ~」と。
第4章は「悩める家族を救うお助け人」で、「『親を捨てたい人』を救えますか?」から始まり、遺品整理や葬式、お墓の話までがそれぞれ述べられているが、ここでは割愛する。
第5章、「『弔う』弔うことの意味を求めて」の中からは、著者が自ら体験してきたケースのみを紹介する。
著者は先ず、よく聞かれる「家族の絆」というのは日々の努力があってこそ、もし共感や信頼を失うようなことが続けば脆くなるのは当然であって、むしろ「家族の愛」などへの過信がそれを崩壊に向かわしてはいないかと言っている。
〇私の家族の三十年戦争
著者の家族の綻びは31歳、第一子の臨月に突如始まったという。
いま著者は娘を育てながら、母親にとって娘の出産ほど幸せなものはないというのは本当だと実感しているそうだ。しかし彼女の母は違っていた。なんと出産予定日に、「母から『死産を予言する』呪いの手紙が届けられた」というのだ。次男の時だけは必死で隠し通し、生まれても知らせなかったおかげで、母からの呪いの手紙をもらわずに済んだ。
なぜ憎悪されたのか。それは、内孫を望む両親が、兄(35歳)には授からない外孫の誕生を憎んだため。
「『なぜ、お前はこの家の跡取りになりたがる?この家の跡取りは〇〇(兄の名)だ!』。これが、長男が誕生したとき、私が親に言われた言葉だった。私は嫁いだ夫の姓を名乗っていて、兄も私も家業を継いでいないのにもかかわらず」。そして、「長男を無事に産むと、親から家への出入りを禁じられ、絶縁を言い渡された」。
それまで仲の良かった兄(子供はいない)もすっかり子ども嫌いになり、また、兄を不憫に思う親のすべては著者への攻撃につながった。
ところが、父が急逝すると母は、「何もなかったかのごとく、毎日孫に会いに来ては、私の家に入り浸った」。しかし第3子(女の子)を懐妊すると、「兄と母がこんなに苦しんでいるのに、三人も産む私の気が知れない」と平気で言ったそうだ。
臨月に入ると狂気の攻撃は再び始まった。10日ほどかけて実家から荷物の運び出しをさせられた時、「2階から大型のスーツケースを降ろそうとして、突き出たお腹と階段に挟まり、そのまま一気に落ちそうになった。危機一髪だった。『気を付けなさいよ、流産したら大変よ』と母が薄笑いを浮かべて見ていた」。
流産が母の狙いだったのだ。母は「自分で手を汚さずに、こうして人を陥れる人だった。母はまともではなかった」「出産予定日には、母からトドメのように『死産予言』の呪いの手紙が再び届いた。もう涙は出なかった」。
入院中に我が子に危害が及ぶことが心配で、警察に母からの手紙を見せて保護を求めたが、事件にならない限り「警察としては動けないと」言われた。それでも、その警察官が心配して福祉事務所に連絡を取ってくれたおかげで、入院中から産後しばらくは、シニア用送迎車で息子たちを保育園まで有料で送り迎えをしてもらうことになったという。
保育園にも、「祖母が迎えにきても今後は絶対に子どもを渡さないように約束をしてもらった。孫にとっても危険極まりない祖母だったのである」。
著者はこう反省している。
「母や兄の命令など無視して、お腹の赤ちゃんを第一に守るべきだった。私も母親失格だった。今でも、身重の身体で母と闘ったことは、私の人生最大の過ちだったと後悔している。一歩間違えば母の願い通りに、取り返しのつかないことになっていたかもしれない」
再び絶縁して3年後、兄が海外赴任中に母が手術を受け、また母と復縁した。そうすると、「母はまたしても何もなかったかのように、三人の子の祖母として私の家に入り浸るように」なった。
しかし、ついに終わりの日が来る。「母は次男を特別に可愛がっていたが、なんと次男を勝手に自分の養子にして墓守をさせようとたくらんでいたことがわかったのである。次男には生まれた時から自分の養子にもらう約束だと偽」って傷つけていたのだ。
もう迷いはなかった。「母と永遠に絶縁しなければ、私の家庭が壊されてしまう。子育てができないと思った。今度こそ、母を許せなかった。今までに送られてきた呪いの手紙や、嫌がらせのメールなどすべて証拠を保管してあり、母が死んだらすべてを兄や孫、親戚に公開すると手紙に書いて母と完全に絶縁した」「それから12年になるが、一度も後悔をしたことはない」。
しかしそれでも、「もしも母に最期の日がきたら、連絡をもらえば会いに行くつもりでいた。私は娘として母を看取り、見送る覚悟でいた」という。でも3年前、大切な用で思い切って訪ねたところ、家の敷地にも入れずに門前払いを受けた。その時85歳の母は、「老いのすべてを私のせいにして恨みをぶつけた。私も膵臓に嚢胞があり定期的にがんの検査をしていると伝えると、『なら、あなたもすぐ死ぬね』と、母は含み笑いを浮かべて、二度同じ言葉を繰り返した」という。
「母はずっと私の死を願っていたのだ。娘に握られた証拠を恐れていたのだろう。実は私も心の底で、母の死で母から解放される日をずっと待っていた。互いに死を願う母と娘。悲しいことに、こうした親子がこの世にはいる・・・」「もう二度と会うことも骨を拾う必要もない」と思った。
著者は言う。「母を看取り送ることで娘のつとめを果たそうとしていたのは、私の自己欺瞞だったのだ。母がどんな末路を背負い、最期を迎えるか、この目で見定めてやろうと思っていただけだった」と。
そして、「でもそんな気持ちを抱えているうちは、憎しみを手放せなかった。初めて、もう母とは関係のないまったく別の人生を生きようと決めた」。「気づくまでにこんなにも長い年月がかってしまった。あの時、母と絶縁をしなければ、自分の家族を守り、子どもたちを育てることはできなかっただろう。私自身が壊れていた。57歳のこの日が、私の心の中で母が死んだ日となったのである」。
「『親なのだから』という言葉は、子ではなく親に対して「親の責任」を問う言葉ではないだろうか?」
○おわりに
ここで著者はおおむね次のように言っている。
人は決して一人でこの世に生まれ、一人で生きてきたわけではない。
死に目に立ち会わなかった、葬儀にも出なかったことは、表面的な事実の違いであって、心の中でそれぞれが苦しみ、その死と向き合っている。
ただ、自分の家族の問題を書くのは母が不帰の人となってからと心に決めていたが、「明日の命は誰にもわからない」と世界に知らしめた「コロナ」が、私の躊躇いを振り払い、覚悟を決めさせてくれた。私が躊躇っていたことは、伝えるべきことに比べたら、あまりに小さな自己保身にすぎなかったと思う。
家族っていったい何なのだろう?親の最後のつとめとは?親が自身を振り返り、家族を見つめ直す時間はたっぷりとあるのだ。この時間をどう生きるかが、大きく家族を変えることにつながるのだろう。
幼い頃、徹夜してサンタの正体をつかまえると意気込み、一つのベッドに三人仲良く並んで寝ていた我が子たちが、親の死後に断絶しないことを祈るばかりだ。
本稿のはじめのところで記した以外にはとても出てこない読後感であった。ただ本書はタイトルにあるように「家族」が中心となっているが、そのほかにも当然ながら家族以外の人間関係にも触れ、また第4章においては積極的な提言もされており、やむなくカットせざるを得なかったエピソードと合わせて、ぜひ直接手に取ってみられることをお勧めしたい。(雅)
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