2022年6月号 | Monthly sati! June 2022 |
今月の内容 |
巻頭ダンマトーク:『懺悔物語 (5) -業論からの解明- 』 | |
ダンマ写真 |
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Web会だより ー私の瞑想体験-:『苦を乗り超える瞑想の検証』(2) | |
ダンマの言葉:『悟りの道への出発』(6) | |
今日のひと言:選 | |
読んでみました:情報文化研究所『認知バイアス事典』( 2021年) |
【お知らせ】
今夏、地橋先生がタイでの修行に入られておりますので7月号は休刊とさせていただきます。コロナ感染が急拡大しております。皆さまにはこれまでと同様、十分お気を付けくださいますように!
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
巻頭ダンマトーク 『懺懺悔物語 (5) -業論からの解明- 』 |
*業論からの解釈 |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
『苦を乗り超える瞑想の検証』(2) 佐藤剛 |
(承前)
*気づきの深まりが浮き彫りにする苦の正体 瞑想だけでなく日々行なっているジャーナリング(頭の中にあることや感情をひたすら紙に書き出す「書く瞑想」)も大いに内面の気づきを深めてくれた。生活や仕事に追われる中で様々な悩み・不安・不満が巻き起こるが、何について苦しいのか、何を思っているのかは、案外すぐ分からなくなる。仕事のプレッシャーがきついのか、それとも家族や同僚・上司からの評価を気にしているのか、部下から良い上司と言われたいのか、あるいは将来や老いが不安なのか・・・。 何はともあれペンを持って白紙に臨むと、ぼやっとしていた内面の悩み苦しみがつらつらと書き出されて自分の外側に移動する。すると心の内側の重荷が降りて落ち着くだけでなく、客観的に整理したり苦しんでいることを自覚し直したりできるのだ。 かくしてジャーナリングと瞑想によって気づきを深める日々が、徐々に苦の輪郭をはっきりさせていった。かつては漠然と苦しく生きづらいと感じていたが、とうとう自分の苦の正体が、幼少の頃より優秀で良い人でなければならない人生を作り上げたことであったと明らかになった。さらには優秀で良い人でありたい、そうでないと恐ろしい、どうにか幸せになりたい、という煩悩に基づいた「自我」が根深く存在し、絶え間なく苦を産み出し続けていることが浮き彫りになっていった。そうか、だから自分は苦しかったのか、そういうことだったのか・・・!? *内観に飛び込んでみる ところが、苦の存在と原因が分かっても次に待っていたのは「分かったところで解決できない、今日もやっぱり苦しい」という冷酷な苦の続きであった・・・。改めて人生の苦にぐったりさせられていたそんな頃、瞑想会に参加し地橋先生に自我の問題を解決するにはどうすれば良いかと相談したところ、先生は「それなら内観です」と即答なさった。 内観というものは外部との連絡を絶った個室に1週間こもって父母にしてもらったことなどを内省する合宿、という程度のことは知っていたが、「え・・・内観?ほんとに意味あるんですか?」と正直疑問を感じた。いやそれより1週間休みを作ることが面倒なので行かない言い訳を作りたいのだ、とすかさずサティが入る。 やれやれこの怠け心の素早さよ・・・。しかし先生があれだけズバッと言い切るのだからまず間違いはなかろうし、この際修行になる事は何でもやってみよう、むしろ今行かなかったら一生行かないだろう、と観念した。そして瞑想会の帰りの電車の中ですぐ内観をネット検索し、「仕事の工面は後で考える!ためらうなかれ、エイヤッ!」と申し込みメールを送ってしまった。送ってすぐ後悔もしたが、それでも内観に飛び込んだこの「エイヤッ!」は私の人生におけるファインプレーであり、一つの転機となった。 *父の苦しみ、母の苦しみに気づく 内観合宿でも案の定、怠け心が生じたり居眠りしたりもしたが、それでも1週間も籠もって続けていると徐々に内観が深まっていった。そしてある時、父や母が必ずしも悪い面だけではなかったことに気づく。また冷静に振り返ると膨大な時間とお金を注いで自分を育てていたことにも気づく。 そうやって感謝の気持ちが生じてからもなお内観を続けると、ある瞬間、父も母も自分と同じように苦しんでいたのではないか?自分を苦しめながらも、自分と変わらぬほど深く苦しんでいたのではないか?という驚愕の気づきが生じた。 そうだ、間違いない。戦後の貧しさの中で育ち、学校や会社では人と比較され、経済発展に沸き立つ社会に飲み込まれ、子供と家を持ってお金持ちになるのが正とされた人生。祖父母や親戚からもそういう価値観で見られ、その視線に苦しんだことだろう。そんな状況下では、父はしゃかりきに頑張って仕事をして一家を養うことで存在を示し、母は教育によって父や親戚や近所に自分の存在を示す生き方しか出来なかったのではなかろうか?自分が苦しい生き方を余儀なく選んでいったように、母も父もそれぞれ苦しい生き方を選ばされていた。そしてうまくいかぬ人生にもがきながら父は妻や子に肉体的な暴力を振るい、母は我が子の心を無視して教育という形での暴力を振るってしまった。それでも心は何一つ安まらなかったはずだ。そんな過去をもって生きている今も、老いながら自分の犯した業に苦しみ続けているだろう・・・。 *父と母を赦す こうしてみると父母の苦は、もはや生きた環境や時代背景から必然的に生じた苦であり、因果の流れに沿った不可避なものではないか。別に父や母が悪いわけではないのだ、父も母も望んで自分を苦しめたわけではないのだ・・・!そう気づいた時、私の中に「これ以上父母が苦しむことを望まない」という強い思いが自然と湧き起こった。さんざん私を苦しめ、こんな人生の源流である父と母ではあるが、その二人もそれぞれもっと上流から来る苦の流れに呑まれてもがいていた哀れで小さな命だったのだ。 かくして私の中に、父を赦そう、母を赦そう、という心が生じた。こう思うに至ったのは、内観に意義を感じて望んだ2度目の内観合宿の終盤だった。 *因果の流れでできあがっている自分 そして同時に知る。私もまた父と母から生じた苦の流れ、因果の流れでできあがっている。私の苦しい今の人生は全く必然の結果であった、と。私はいつも怯え優秀なふりをして体裁を守っているが、実際はそうするしかなかった哀れで小さな命だったのだ。 *自分を赦す、そして生じた諦観 私は因果の流れに揉みくちゃにされながらもがいている哀れで小さな命。何ら自立してもいない。何ら優秀でもない。いつも心の中に欲や怒りや慢心といった不善心が生じていて、いつも苦が存在していて、感情も思考も思い通りにできない。私はそんな私の正体を赦すようになった。そして「なんだ、自分とは、人生とはこういうものか」という諦めにも似た心境で事実を受容するようになった。かつて地橋先生が「自分を知ってがっかりする」と仰っていたが、それがこれか。・・・「諦観」。いやそれは自分だけでなく人というもの全てに関する「諦観」だった。 *諦観から生じる安心 しかしその諦観はどこか安心感もあった。自分が苦しんでいたことや原因がようやく分かったという安心、苦しかったのは至って自然であると理解された安心だ。そして今はこうやって不善心を抱え難渋しながらも瞑想を続けていけば、それで充分であり、人生はこれで良いのだ、生きているだけで充分なのだと分かって安心したのだ。 *安心から生じる慈悲 また自分の苦と不善心の正体を知ると、人も同じように苦しんでいるのだ、皆辛いのだと理解され、慈悲の念も自然に湧いてくるのだった。私を苦しめた両親も、妻も友人も、会社の人や社長も、世の中も、みんな自分と同じように苦の中でもがいている。恐れ、焦り、貪りながら幸せになりたいともがいている。その様が見えるようになり「ああ苦しかろうに、さぞや苦しかろうに」と心が痛むようになった。 幸い自分は瞑想とジャーナリングと内観によって気づきを深め、苦を知ることで、いくらか楽になることができた。今度は周囲の人達にも心の安らぎをもたらしてあげたい。しかし苦は人の内面深くに根付いていて、本人が苦に気づき手放していくのを見守るしかない。そういう新たな苦に向き合い、ただその人達の隣で「気づき」を深める生き方を示すのが、自分の慈悲の施だと思うようになった。 *そして安寧の始まり かつては我が身のための「利己的な利他」で狡猾に動いていたが、今は本質的な同機が違う。ただ淡々とニュートラルな感情を保ったまま、物事がうまくいき、皆が楽になりますように・・・と願いながら思考し行動するように変わってきた。物事がうまくいかなくても「ああそういうものか。仕方がない。では、次のことをやろう」と淡々と受け入れ手放すことができるようになってきた。多忙で暴風雨のような人々の中でも、ひとり無風地帯にいるような、あるいはガラス越しに眺めているような感覚でいられることが増えてきた。 体裁を取り繕ったり、優秀であることで自我を保とうとしていた自分は居なくなりつつある。良い生活や娯楽で憂さ晴らししていた日々は去りつつある。もはやどこかに行かなくても、何を得なくても、何を為さなくても、ただ生きて、ただ死んでいけばいい。そんな充足感が時折湧いてくるようになってきた。なるほど、このようにして生きることも死ぬことも苦ではなくなっていくのか・・・。 今なお忙しさや欲や不安に呑まれる日の方が多いが、それも日に日に薄れていくのだろう。そのことが分かってきたので焦らない。今はただブッダの教え、地橋先生のご指導に沿って淡々と瞑想実践を積むのみ。いつかこの苦がすっかり消え失せ、智慧と慈悲がこの心身から溢れ出し、その恩恵が私の周囲の人に及ぶ日まで。(完) |
(N.N.さん提供) |
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7.サマタ瞑想 |
情報文化研究所『認知バイアス事典』 (フォレスト出版 2021年) |
2022年1月5日付けの毎日新聞に、『オシント新時代-荒れる情報の海(5)』の欄に「医療デマSNS攻防」として、反ワクチン活動とそれに対応する医師をめぐる記事が載った。同じく3月31日付の夕刊には『コロナ「陰謀論」家族崩れ』として、誤った情報のために人間関係にひびが入って家族関係に問題が起こり、離婚にまで至った事例も載せられた。 このような記事を見れば、「反ワクチン」を主張する人々の認識は明らかに間違っていると思えてくる。しかし、世界ではこのようなことがさまざまなレベルで起こっているのは事実だ。言うまでもなく、それは私たちの認識が「あるがまま」ではないためで、そのような現象は「認知バイアス」と称される。 では、「認知バイアス」とはどのようなものなのか、なぜ起こるのか、その影響は、など、たとえ詳しくはなくともあらかじめ知っておけば、少しは「あるがまま」の手助けになるのではと思い、紹介することにしたい。 もちろんこれまでにも、「人は○○しやすい」などは断片的に目にしてきた。ただ、たまたま本書を手に取ったところテーマ別に、しかも簡潔に説明されていたので、頭の整理として役立つのではないかと感じた。 監修者によれば、内容は論理学、認知科学、社会心理学という3つの分野に則しており、徐々に理解を深められるようになっているので、「本書を読み終える頃には、『認知バイアス』の全体像をつかめるような仕組みになっている」という。ただ『事典』ということで本書の項目すべてを挙げたため、それぞれはやむなく短い紹介となった。元の説明は多岐にわたっているので、機会があれば手に取ってみられることをお奨めしたい。 各部および項目の<>内の文章は基本的に本書によるが、字数の関係から、一部削除、また表現を改めた(文責:筆者)箇所がある。また筆者の解釈に誤りがある可能性も無いとは言えず、その点もあらかじめご承知ください。 なお「情報文化研究所」と各部の担当者、監修者については本稿の末尾に触れるにとどめた。 第Ⅰ部 認知バイアスへの論理学的アプローチ <どこか腑に落ちないものの反論できなかった経験、あるいは同じ日本語を使いながら伝わらなさに驚いた経験などはおそらく誰にでもある。第Ⅰ部では、会話や議論を中心にして、このモヤモヤした違和感の正体に迫っていく> ★01【二分法の誤謬】<実際には多くの選択肢が存在するにもかかわらず、限られた選択肢しかないと思い込んでしまうことにより生じる誤謬> 「壺を買うと幸福になる」「壺を買わないと不幸になる」というような「二者択一」と思い込ませられるとしても、実は「壺を買う不幸」「壺を買わない幸福」もあるはず。「四者択一」であることを知っておく。 ★02【ソリテス・パラドックス】<定義が曖昧な語を用いることによって生じる誤謬> 「新しい」「最近の若者」などの言葉があらわす意味は?砂山の砂を少しずつ削っていって、最後に一粒残ったものは砂山と言えるか?言葉の意味を自他ともに明確にすること。 ★03【多義の誤謬】<2つの前提の中で同じ言葉が、関連はあるが異なる意味で用いられることにより生じる誤解> 「財産」と言っても、「親の財産」と「親友は財産」とでは意味が違う。同様に、「適当」「結構」なども使い方によって意味が異なる。そんな言葉に注意したい。 ★04【循環論法】<論証されるべき結論を前提として用いる議論> Aさんは「信用できる」、なぜなら「いろんな人を助けてきた」から。「人を助けてきた」のは「いい人」だから。「いい人」だから「信用できる」。これは複雑にするほどわかりづらくなる。 ★05【滑りやすい坂論法】<比較的小さな最初のステップが、望ましくない一連の結果を不可避的に引き起こしてしまうので、その最初のステップを引き起こさないようにしなければならないと主張すること> 曖昧な因果関係による主張。「風が吹くと桶屋が儲かる」は笑い話で済むが、「弁護士になれないとお金に困る」に証拠はない。 ★06【早まった一般化】<十分なデータが揃う前に一般化を行うこと> 個別の性質を帰納的に一般化するようなこと。年代、性別、国民性など、けっこう陥りやすい。ただし、十分なデータをもとにすれば説得力を持つ可能性もある。 ★07【チェリー・ピッキング】<都合の良い特定の証拠だけに着目し、それ以外の不都合な証拠を無視すること> 人には見たいものしか見ない、見せたいものしか見せない傾向がある。常識的には「うまい話には裏がある」ということ。裏を返せば、たとえ不都合なことでもきちんと伝えれば相手の信頼を得ることにつながる。 ★08【ギャンブラーの誤謬】<赤黒のルーレットのような、1回ごとは独立しているにもかかわらず、一方が連続で出た後は、もう一方が出るに違いないと考える誤り> 赤・黒、偶数・奇数などの出方は本来独立しているもの。ただ人生において「次にはいいことがあるかも・・・」と前向きに考えることもまったく意味がないとは言えない。 ★09【対人論法】<問題の論点ではなく、論じている論者が持つ性質などを批判することで、相手の主張を退けること> 本人の意志では変えがたい属性(性別、国籍など多々思いつく)による批判は不可だろう。生まれつきの茶髪を黒染めに指導され、学校が授業への出席や修学旅行への参加を認めないなどもあって不登校になった例もある(裁判が起こされた)。 ★10【お前だって論法】<相手の主張の論点をそらして、相手を負かそうとする論法> 「お前だって〇〇」の〇〇は議論の本筋とは関係のないこと。もしそう相手に言われたら、「今そのことは関係ない」と言い返せるかどうか。これに嵌まると人間関係が泥沼化する。 ★11【藁人形論法】<こちらが勝手に相手の主張を単純化や極端化して、そうして歪めた主張をターゲットに反論する> 「煙草を止めろ」と言われた時、それを嗜好品一般にすり替えて「おまえもコーヒーを止めろ」と言う類いのこと。いわゆる「ご飯論法」もこの仲間。 ★12【希望的観測】<ネガティブな結果より、望ましい結果が起こることを期待すること> 希望的観測には確かな根拠がなく、これに依存するとリスクが大きくなる。原発事故もこの例か。しかしそれが個人的なものなら、十分な熱意と責任があれば成功の可能性も出てくる。 一方で、絶望的観測においてはリスクが低減する。 ★13【覆面男の誤謬】<知識不足のために、何かに置き換えると誤りとなってしまうこと> これは少々わかりにくいし、「だから何?」とも思われるけれど。 例えば、旅姿の老人=水戸光圀の時、もし悪代官が「旅姿の老人は知っているが、水戸光圀は知らない」と言えば、それは誤りだということ。なぜなら、旅姿の老人はもともと水戸光圀なので、悪代官が「旅姿の老人」を知っているならすでに「水戸光圀」も知っているということになるから。素人考えだが、これは法廷ドラマなどにありそうな感じだ。 ★14【連言錯誤】<「A」と「AかつB」が示されたとき、「AかつB」である確率の方が高いと判断してしまうこと> 人には代表的な性質に着目して判断する傾向がある。「高機能パソコン」と「高機能&使いやすいパソコン」という選択肢では、単なる「A」より「AかつB」の方を選ぶ確率が高いという。「リンダ問題」が有名で、大枠の条件と部分に分けられた条件とをきちんと整理したい。 ★15【前件否定】<「もしAならば、Bである」→「Aではない」→「したがってBではない」の形をした推論に関わる誤り> パスタを食べると炭水化物を摂ることになる。だからパスタを食べない。代わりにリゾットを食べる。それなら炭水化物を摂ることにならない。といった論法。 ★16【後件肯定】<「もしAならば、Bである」→「Bである」→「したがってAである」の形をした推論に関わる誤り> 「AならばB」だと言っても、必ずしもその逆は成り立たない。「インフルエンザに罹ると熱が出る」と言っても、「熱が出たからインフルエンザだ」とは言えない。 ★17【四個概念の誤謬】<三段論法で用いられる3つの概念に4つ目を加えることで、生じてしまう誤り> ①生後3か月以下の子どもがいる社員は、②育休が取れる。③子どもを産んだばかりの社員は全員3か月以下の子どもがいる。ここまでは正しい。これに、④子どもを産んだ社員、という余計な概念を加えると、「子どもを産んだ社員は全員育休を取れる」という誤った結論が導かれてしまう。 ★18【信念バイアス】<結論に着目した際、その結論をもっともらしく感じるか否かが論理的な判断をしようとする際にも影響を与えてしまうこと> たとえ間違った結論でも、自分の信念に合えば正しいと考える。それほど信念というものは強固だと言うこと。命題は明らかか、論証は適切か、信念に偏りはないか、などをひとつひとつ見直してみることが大切。 ★19【信念の保守主義】<情報が与えられても直ちに、また適切に信念を改めることが出来ない> 冷静に、また論理的に考えて自分の信念に誤解が含まれていたことに気づいても、信念そのものを改めるには時間がかかるということ。 ★20【常識推論】<人間が日常生活の中で行っている推論> 「郷には入れば郷に従え」という格言のように、社会において互いに秩序を保つ上では重要な心の働き。例えば、「割り込みは不可」「イヌの糞は飼い主が始末」「車内での電話は控える」などがこれにあたる。 第Ⅱ部 認知バイアスへの認知科学的アプローチ <同じ長さのものが違って見えるのはなぜか?なぜ騒がしい所でも特定の音声だけを聞き分けることが出来るのか? 脳の「バグ」のように見える現象も、その背後のメカニズムに迫れば多くのことがわかってくる。 第Ⅱ部では、これらの現象から、私たちがどのように世界を知覚しているのかをひもとき、さらに日々をうまく乗り越えていくコツについて解説している> ★01【ミュラー・リアー錯視】<同一の長さを持つ線分であっても、それぞれに向きの異なる矢羽根を付けられると、長さが異なって見える錯視図形のこと> これはよく知られている。こうした心の働きは、私たちが生活する上でスムーズな行動や危険を避けたりに役立っていることもある。 ★02【ウサギとアヒル図形】<右向きのウサギにも、左向きのアヒルにも見える反転図形。ウサギとアヒルの両方を一度に見ることは出来ない> これもよく知られている。右回りにも左回りにも見える回転する影絵、正面から見た単色の仮面が凸に見えたり凹に見えたり、などもこの類ではないどうか。 特定のものの見方に捉われていないだろうか、時には「反転」して見ることが必要なこともある。 ★03【ゴムの手錯覚】<視野から自分の手を隠し、目の前の自分の手とそっくりなゴム製の手を撫でられると、それがまるで自分の手のように感じられる> 「拡張する自己」の一例だと思う。車や衣服その他なんでも、自分が大切にしている諸々が自分の感覚と重なる対象となる。これは人間関係にも当てはまると思う。 ★04【マガーク効果】<声と一緒にその音声とは一致しないような話者の口の動きの映像を見せると、提示された音声とは別の音に聞こえるという錯覚のこと> 私たちは一つの感覚(例えば視覚)で周りの環境を正しく把握していると思いがちだが、実はすべての感覚から得た情報を「解釈」したものにすぎないということ。 ★05【サブミナル効果】<意識できないほど短い映像や、ごく小さい音量の音声などであっても、それを見聞きした人に知らず知らずのうちに影響が出る現象> 気づいていればこの効果は生じにくい。 これに関連した「好ましさ」についての研究がある。例えば、かつて経験した対象に再び接した時、それは(たとえ忘れていても)比較的スムーズに知覚され、その「ズムーズな感じ」を「好きだから」などと誤って解釈する。 ★06【吊り橋効果】<吊り橋の上など、心拍数の上昇が起きやすい状況で異性がそばにいると、そのどきどきを恋愛感情であると勘違いしてしまう効果> 海外旅行中の恋愛感情についてよく言われる。こうした勘違い現象は、のちに「誤帰属」と称されるようになった。 「目が冴える薬」として偽薬を渡された不眠患者は、「リラックスできる薬」として渡された患者よりも寝付きが良かったという。これを「逆プラシーボ効果」といい、「眠れないのは薬のせい」と考えて(勘違い)むしろリラックス出来たからと解釈されている。 ★07【認知的不協和】<自分の本音と実際の行動が矛盾しているなど、自分の中で一致しない複数の意見を同時に抱えている状態> キツネが、届かないところにあるブドウの実を「どうせ酸っぱくてまずい」と無理に自分を納得させるイソップ童話で有名。 ブラック企業の社員が「やりがいのある面白い仕事をしている」と思ったり、過酷な作業ほど「面白い」という自分の言葉に引きずられやすい。 本書では本来の気持ちを口に出したり日記に記録することを勧めている。 ★08【気分一致効果】<落ち込んだときには物事の悪い面ばかり見て、それをよく記憶する。逆に、うれしいときには良い面ばかり見たり記憶する> 悲しい時にはその気分に結びついた脳が活性化され、それに近い情報の処理が促進され記憶されるという「ネットワーク活性化仮説」がある。 逆に、落ち込んだ時には楽しい経験を思い出して気分を和らげる「気分不一致効果」というのも知られている。 ★09【デジャビュ】<実際は一度も体験したことがないはずなのに、すでにどこかで体験したように感じる現象> 日本語では「既視感」と言われるが、「話」でも生まれることがあるという。 本書では、その理由とする理論のなかから「類似性認知」を取りあげて説明している。それは、かつて似た景色を見たことがあり、その記憶が無意識に浮かんだのではないかというもの。実際の調査では、デジャビュを経験した場所の3割以上が、あちこちにあるようなありふれた景観だったという。 ★10【舌先現象】<ある内容をもう少しで思い出せるのに思い出せない、という状態のこと。tip of the tongueを縮めてTOT現象とも> これはよく体験する。これは「覚えているはず」という感じがある時、もしくは、最初の1文字だけ思い出したなどの手掛かりがあって、無意識的にも「思い出せる」と推測している時という説がある。完全に忘れてしまったわけではないので、焦らず思い出すのを待っていると良いという。 ★11【フォルス・メモリ】<実際には経験していないのに経験したかのように思い出す現象のこと。虚偽記憶、あるいは過誤記憶とも呼ぶ> 幼少期の記憶で比較的鮮明に思い出せるものでも、それが真実とは異なっていることがある。アメリカでの実験では、25%の人が経験していないはずの出来事を思い出したという。なので、「記憶回復療法」は現在ではほぼ行われていない。 同様に、たとえ実際に見聞した現象や出来事でも、後からの情報によって新しく作られてしまうことがあり、これは「記憶の汚染」と呼ばれる。 したがって、自分では明確に覚えていると思っても事実とは異なる可能性があるし、また、たとえ誰かの体験談が事実とは異なることがわかっても、それをただちに「悪意を持った嘘」とは言えない。 ★12【スリーパー効果】<信頼性の低い情報源から得たものでは、初めのうちは意見が左右されなくても、時間の経過とともに意見や態度が変容する> 同じ情報でも、はじめは専門誌による方が信頼性が高かったが、4週間後には大衆紙との差が消失したという。 つまり、何らかの情報の信頼性は、その後に触れる幾多の情報によって左右されやすいと言うこと。 ★13【心的制約】<問題解決を阻む無意識的な先入観のこと> 上下左右等間隔に3つずつ並んだ9点の上を4本までの直線で通らなければならないとしたらどうするかという9点問題が有名。正答率は20~25%程度だという。 これは、9つの点から何となく正方形を思い浮かべ、そこから外へ出る発想が浮かぶかどうかの問題。この無意識的なとらわれを心的制約と呼ぶ。“think autoside the box”と言う熟語が頭を柔らかくして考えることを指すのはこの問題に由来するのだそうだ。 ★14【機能的固着】<ある物の使い方について、ある特定の用途に固執してしまい、新たな使い方についての発想が阻害されること> これを「収束的思考」と呼ぶが、日常生活では新しい発想の「拡散的思考」が必要だ。★13と同様、広い視野と柔軟な発想を心掛けたい。 ★15【選択的注意】<周囲のざわめきの中でも特定の話者の言葉だけを聞くことが可能なように、多くの情報の中から必要なものを取捨選択すること> ザワザワしている中で特定の会話がけっこう聞き取れるのは「カクテルパーティ効果」と呼ばれる。これは音声(聴覚)だけではなく画像(視覚)でも起こる。 注意というのはスポットライトのようなもので、注意からはずされると比較的大きな変化にも気づきにくい。これを「変化盲」と呼び、実験動画「selective attention test」「the“Door”study”」を視聴できる。 本書はここで「ながらスマホの」危険性について大いに注意を喚起している。たとえ自転車に固定したとしてもその危険性が軽減することはない。 ★16【注意の瞬き】<注意を払わなければならない対象が短時間内に複数現れるとき、後続のものが見落とされがちになる現象> 混雑状態の場では同時に注意を払わなくてはならない対象が多い。そこでは、一つの対象や動作(例えば自動車運転で右折)にしっかり注意を向けたとしても、「見逃し」が生じて事故に結びつく可能性がある。よく心得ておきたい。 ★17【賢馬ハンス効果】<ひとや動物が何らかのテストや検査を受ける際、検査者の挙動から「望ましい」答えを察知して回答すること> 19世紀末頃のドイツの天才馬ハンス。周りの人々の表情や顔の向きの微妙な変化を読み取って正解を出していた。このように、誰かの行動の影響で結果を歪めてしまうような現象を「実験者効果」と呼ぶ。 これに関連して目上からの評価が影響を与える「ピグマリオン効果(教師期待効果)」というものがあるが、それが偏見や贔屓につながらないようよく気をつけなければならないだろう。 ★18【確証バイアス】<自分の考えや仮説に沿うような情報のみを集め、仮説に反するような情報は無視する傾向のこと> このバイアス大変よく知られている。仏教で言う「我見」や「執着」に通じると思う。 ★19【迷信行動】<偶然起きた2つの別々の出来事を、因果関係があるかのようにとらえてしまうこと> 「縁起を担」いだり「ジンクスを気にする」のもこの例だと思う。 ただ、たとえ無関係でも、緊張を静めるルーティンなど、それで落ちついたり前向きになれるのならあまり目くじらを立てるほどのことではないかも。ただし、それで努力をやめたり幻の因果関係に陥ったりしないようにしなくては。 ★20【疑似相関】<直接的な関係のない2つの事象を、それぞれ関連する第3の要因の存在に気づかずに、因果関係があるように見えてしまうこと> 統計に表れた2つの変数に正相関、逆相関が認められたとしても、そこに因果関係があるとは限らないということ。 本書の例の一つ。ある島の健康な者にはだいたいシラミがいるが病人にはめったにいない。シラミが健康な人の血を好むためか? 実は、本来ほとんどの住民にシラミがいたのだが、病気で「体温」が上がると居心地が悪くなって去って行った結果だった。この「体温」という第3の変数を「潜伏変数」(あるいは交絡変数)と呼ぶ。 統計が、①どのようなデータに基づいて、②どのように解釈されたものか、に注意を払う必要がある。コップに半分の水。「もう」半分なのか「まだ」半分なのか。 第Ⅲ部 認知バイアスへの社会心理学的アプローチ <やせると固く誓っても食べてしまうのは、ただ単に意志が弱いだけなのか? 悪いとわかっていても、ルールや約束を破ってしまうのはなぜか? イジメや差別、戦争がいつまでもなくならないのはなぜか? 第Ⅲ部では、人間特有の不合理な行動とそれが積み重なって営まれる社会を、科学的な見地から解説していく> ★01【単純接触効果】<特別な反応をもたらさないような物事(刺激)に繰り返し接触すると、徐々にその刺激に対し好意的な感情を持つようになる現象> はじめて何かを理解しようとすると多くのエネルギーが要るが、2度目3度目になると負担が減ってきて楽になる。そうすると、それを対象に対する好ましさと勘違いしてしまう。これは人間関係に限定されない。 これはセールスや選挙などにも活用できる。ただし、第一印象がニュートラルであることが前提条件。それが悪いとかえって逆効果になる。 ★02【感情移入ギャップ】<対象に対して、怒りや好意など何らかの感情を持っていると、その感情を持たない視点から考えることが難しくなってしまうこと> 俗に「恋は盲目」「あばたもエクボ」というが、逆もまた真。冷静な時には興奮した時の状態には思いが及ばない。これは「共感」とも関連するという。 ★03【ハロー効果】<どこか優れている点(劣っている点)を見つけると、その他においても優れている(劣っている)と考えがちになる現象> 容姿によって小論文の評価が分かれたという実験結果があるそうだ。いわゆる「親の七光り」もその類いではないか。ただ「七光り」はせいぜい言葉だけにしたい。なぜなら、それがプラスになるかマイナスになるかはさまざまだから。 また、変化の幅が大きいほど人には強い印象を与える(「ゲインロス効果」という)ので、「悪そうな人が良いことをすると、良い人が同じようなことをするより評価が上がる」そうだ。 ★04【バーナム効果】<ほとんどの人に当てはまるような、性格についてのありがちな説明を、自分のことを言い当てているとして受け入れてしまう現象> 占い師に「あなたの性格はこれこれです」と言われると当たっていると感じる傾向。なぜなら、人の性格にはさまざまな側面があり、自分の中に「これこれ」を探してしまうから。まして自分に都合の良いものは信じ込みやすく、言葉も曖昧ならなおさら受け入れやすい。 知り合いに「占いで出た悪い方角」へわざと何度も行ってみたという人がいた。何もなかったそうだ。 ★05【ステレオタイプ】<性別・出身地・職業などの特定の集団やカテゴリに対して、個人の違いを無視し、1つの特徴でまとめてとらえること> これは陥りやすい。本書では血液型を例にあげているが、国籍、人種、性別、年齢層、文化集団などすぐに思いつく。一人の人間でも時と場合で違うのだから十分気をつけなければならない。 ★06【モラル信任効果】<社会的に意義のある活動をしている人が、その価値ゆえに少しくらい非論理的な行動をしても世間は許すだろうと考えること> あんな立派な(はずの)人がなぜ?と言うようなこと。本書ではいわゆる聖職と考えられる職業や権力者にも言及している。おそらく人気とか有名などというのも入るのではないだろうか。さらにこれは家庭内での横暴な振舞い(「おれが稼いで喰わしている」とか)にも当てはめられる。 いずれにしても、「これくらいなら許されるだろう」というのは通らない。 ★07【基本的な帰属の誤り】<他者の行動の原因について説明するとき、その人の能力や性格などを重視しすぎて、状況や環境などの要因を軽視する傾向のこと> 極端だが、役者の例が分かり易い。善人役の人はもともとそのように思われたりする。それなら悪人役は引き受けたくなくなるかも。 なぜこんな誤りが生じるのか。それは、他人についての外的要因はもともと把握しにくいので、本人自体にかこつけると楽だから。この誤りは起こしやすいのでよく気をつけなければ。 ★08【内集団バイアス】<自分の所属する集団(内集団)やその集団のメンバーを高く評価したり、好意的に感じたりすること> スポーツなどでは多少ともそういうことが見られると思う。しかしそれが相手を傷つけたり観客同士の衝突とか、疑惑のジャッジなどになってはならないのは当然。 この延長線上に、国内の不満の矛先を逸らすために特定の国や国民を共通の敵に仕立てることがある。常に「ステレオタイプ」への警戒を意識しようと思う。 ★09【究極的な帰属の誤り】<自分が所属していない集団(これを「内集団」に対して「外集団」と呼ぶ)やそのメンバーが成功したときには状況(外的要因)が、失敗したときには才能や努力(内的要因)が原因であると考えること。一方で、自分が所属している集団(内集団)やそのメンバーが成功したときには才能や努力が、失敗したときには状況が原因であると考えること> これは自分の側に都合の良い解釈を当てはめるもの。これによって内集団への過大評価、外集団への過小評価が生じる。自分たちを客観的に認識できなければ切磋琢磨する機会を逃してしまう。 ★10【防衛的帰属仮説】<良くないことが起こったときに、その加害者もしくは被害者に自分の立場を重ねて、異なる立場の人の責任を過大に評価すること> この仮説は、例えば児童虐待に対する刑罰を重くする変更がなかなかされない原因を、「変更を検討する側に、当事者や当事者と同じ立場の人が少ない」とされていることに当てはまる。これを防ぐためにはさまざまな属性の人の参加が重要となる。 ★11【心理的リアクタンス】<自分の選択や行動の自由を制限されるように感じると、制限するものに対して反発し、逆らう行動をとろうとすること> 「鶴の恩返し」や「鶯の部屋」のように、強い禁止は逆効果を誘う。また相手のことを思ってのアドバイスもこれが働くと逆効果になる。 また本書では、「ロミオとジュリエット」のように「障害が多いほど魅力的に思える」現象もこの例であるという。 希少性もこれにつながることがあるので、何かを欲しくなった時は一度立ち止まってもう一度考えたい。 ★12【現状維持バイアス】<何かを変化させることで現状がより良くなる可能性があるとしても、損失の可能性も考慮して、現状を保持しようとする傾向> 「変化に対応しようとの意欲や労力の不足」等々がこのバイアスを強め、組織に問題があってもなかなか改革が進まない理由とされる。「入管は何も変わらない」(毎日新聞2022年1月13日夕刊)という記事などを見るにつけ、極めて深刻な問題だ。 ★13【公正世界仮説】<良い行いには良いことが、悪い行いには悪いことが帰ってくるとする認知的な誤りのこと> これはもちろん仏教の因果論とは別なもの。イジメや性犯罪などでよく見られるが、被害者にもかかわらず本人が悪いと周囲から責められるようなこと。御嶽山の噴火で災難に遭ったのは自己責任だと強調していた専門家?がいた。「ひどいことを言うなあ」と思っていたら、さすがにその後その人は見なくなった。 では良い行いについてはどうか。「努力は必ず報われる」というものがその典型。しかしものごとはそう単純ではない。ただ、結果はともあれ努力それ自体が意味をもたらすことはある。 ★14【システム正当化バイアス】<特定の人に対して不便・不利だったとしても、未知の新たな方法に挑戦するよりも従来の方法を維持しようとする傾向のこと> 人は「わからない」「不安定な状態」はとても嫌で耐えがたい。だから、病気でも診断がつくまでの不安は大きい。アウトローの排除もそうした心理の延長線上か。 だから、たとえ社会の仕組みが理不尽に見えても、折り合いをつけるためにこのバイアスが働くことがある。しかし、そのために「不当に低い立場に置かれている人たち」がそのままにされることはあってはならない。これは本書で特に強調されている。 ★15【チアリーダー効果】<1人でいるときよりもグループの中にいるときのほうが、人の顔は魅力的に見えるという現象> これはアメリカのテレビドラマのエピソードにちなんで付けられた名称だそうだ。 この効果には性差があって、その一つは女性が評価する場合だ。男性集団に所属する男は、本来の姿よりも多少格好良く見えるらしい。 「だからどうなの?」って言いたくなるが、1対1ではその魔法は解けてしまうという。リンカーンが言ったように、40歳を過ぎたらやはり自分の顔に責任を持つべきかも。 ★16【身元のわかる犠牲者効果】<特定の個人を例として示すと高い共感や関心を示すが、示されたものが人数や割合だと共感や関心が低くなる現象のこと> ・情報文化研究所:「情報文化論および関連諸領域に関する研究の推進と交流」を目的として1996年に発足した情報文化 研究会を基盤に2018年に設立。 ・山崎紗紀子(第Ⅰ部執筆):東京医療保健大学非常勤講師。 ・宮代こずゑ(第Ⅱ部執筆):宇都宮大学共同教育学部助教。 ・菊池由希子(第Ⅲ部執筆):長野県林業大学校非常勤講師。 ・監修者 高橋昌一郎:國學院大学数授。 |
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