月刊サティ!

2022年5月号  Monthly sati!  May  2022


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:『 懺悔物語 (4) -懺悔効果の解明-
  ダンマ写真
  Web会だより ー私の瞑想体験-:『苦を乗り超える瞑想の検証』 (1)
  ダンマの言葉:『悟りの道への出発』(5)
  今日のひと言:選
  読んでみました:幸田正典著『魚にも自分がわかる』 (ちくま新書 2021)

                

【お知らせ】
 「Web会だより」は1月号より「Web会だより -私の瞑想体験-」といたしました。
なお、検索の便宜のため、バックナンバーについては変更を加えておりません。

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
  

     

              巻頭ダンマトーク
 『懺懺悔物語 (4) -懺悔効果の解明-

★なぜ、懺悔をしたら痛みや眠気の現象が突然消えたのだろうか。
  設問①「懺悔と現象の因果関係」を考察していこう。

  この種のことが起きるときのポイントは、真剣であること、強い実感のこもった想念が発信されていることの2点である。ヘラヘラした言葉だけの懺悔がめざましい成果を上げた実例はない。「想念の集中」プラス「情動的昂揚」が欠かせない必要条件なのである。
  医学的な説明としては、喜怒哀楽を司る情動脳(大脳辺縁系)が強く働くときに身体現象に大きな変化が生じることが知られている。ストレスで胃に穴があく。恥ずかしいと顔が赤くなるし、緊張すると口の中がカラカラに乾く。怒れば血が沸騰し、好きな人の顔を見れば快感ホルモンが分泌される。このように喜怒哀楽の感情が振動すると、強烈に生体エネルギーの流れが一定方向に押しやられるのである。
  「懺悔効果」が起きるメカニズムを整理すると、
 ①真剣な涙ながらの懺悔をすると、情動脳(大脳辺縁系)にスイッチが入る。
 ②すると情動脳とリンクしている視床下部が、自律神経やホルモン系に指令を発する。
 ③血流量や血液成分比の変化、各種ホルモンの分泌など諸々の変動が、調和的に生体秩序を整え好転させる。
 ④痛みや頭痛、眠気などが緩和し、時に劇的に消失する・・・。

*心身一如
  本気モードで気分を出せば、肉体に変化が生じるのは心身医学の常識である。人間は心と体が相関し合った統合体であり、病気になるのも健康なのも、どのような体調や体のコンディションにも心理的要因が皆無であろうはずはない。
  骨折や外傷の物理的なアクシデントも、それを惹き起こした引き金はストレスや失恋、心に重圧をかける心配事や上の空になる気がかりなど、精神の乱れが関与していたであろう。
  極限状況に陥った兵士が一夜にして白髪になることもある。疲弊しきったリタイア寸前のマラソン選手が角を曲がり陸橋を過ぎた途端、拍手と大歓声に包まれるや信じがたいスパートをかける・・・。

*怒りと葛藤の引き算
  心と体の相関関係は当たり前のことだが、懺悔が体調を悪化させるのではなく、好転させる方向に作用するのはなぜだろう。
  怒りや怨みが身体にネガティブな影響を及ぼすのはよく知られている。破壊のエネルギーである怒りは、蛇毒に次ぐ猛毒とも言われる怒りホルモンを全身に巡らせ、病気や怪我、痛みの主たる原因になっている。怒りは、心を壊し、体を壊し、関係を壊し、情況を壊し、あらゆるものを破壊していく根本エネルギーである。
  後悔はその怒り系の心所に分類されているが、懺悔はどうなのだろうか。
  後悔と懺悔は紙一重の印象だが、後悔は自らの失敗や愚行に腹を立て、否定する心である。なぜ、あんなバカなことをしてしまったのか・・と怒りの矛先を自らに向け、怒り、自己否定をしているのだ。
  あるいは、なぜ助けてやらなかったのか、介護しなかったのか、与えなかったのか、優しくしなかったのか・・・と、やるべき善行や義務を果たさなかった自分を否定し腹を立てている不善心の状態である。

  一方、懺悔の特徴は謝罪である。己の愚かさや過ちに腹を立てるのではなく、自らの咎を認めて謝りたい、申し訳なかった、と当事者に赦しを乞うのである。自らの非を自覚するのは後悔も懺悔も同じだが、後悔は自らに腹を立て、怒りのエネルギーが自虐的に放たれている。
  しかるに懺悔には、相手に対しても自分に対しても怒りを出力してはいない。自分がかけた迷惑で苦しんだ他者の心事を慮ってお詫びする方向に意識が向いている。
  後悔は自らの所業に腹を立て、過去を否定するエネルギーに囚われているが、懺悔はネガティブな過去を受け容れ、反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓って未来志向に切り換わっているのだ。

  懺悔ができる心に、怒りはない。怒りは「対象を否定する心」と定義されるが、怒りが無ければ葛藤もなくなるだろう。自らの過ちや落ち度を認め、相手にお詫びできる精神には必死で自己正当化しようとする矛盾がない。
  本当はこちらに非があるのを直感しながら、その本心を無理やり抑圧している引き裂かれた心が問題なのだ。この怒りと葛藤の不在が癒し効果に直結しているのではないかと思われる。

*モーガンの公準
  懺悔をしたら惛沈睡眠や痛みの現象が消失したのは確かなことである。私自身がインストラクターとして一部始終を目の当たりにしている。だが、そのメカニズムや因果関係を考察するにあたって、いわゆるモーガンの公準を念頭に置くべきだろう。
  モーガンの公準とは、「原始的な能力でシンプルに説明できることを、高次な能力によるものと解釈し高等な説明をしてはならない」というものだ。
  例えば、潜在意識から浮上したアイデアと解釈できることに対し、背後霊からの霊的メッセージではないか、などと真っ先にスピリチュアルな解釈を当てはめてみたりするのは慎むべきだということである。

*暗示効果
  すでに紹介したAさんとBさんには鮮やかな懺悔効果が見られたが、モーガンの公準に従うなら、二人は前世の記憶を思い出したのだろうか?と問う前に、暗示効果の可能性を検討すべきだろう。
  そもそも瞑想合宿の最中というのは、暗示効果が起きやすい条件が整っているのである。列挙してみると、
 ①サティの瞑想では、思索や考察など一切の考え事が禁じられている。
 ②一日中沈黙行に徹し、サティを入れ続ける日々が続く。
 ③一切の情報収集が遮断され、唯一インストラクターによるダンマトークと面接時にのみ、瞑想と仏教思想に関する情報が得られる。
 ④瞑想者はインストラクターに信頼感を寄せて合宿入りし、基本的にその信頼感は強まっていく傾向にある。
 ⑤この情況下で、瞑想者が切実な痛みや眠気など深刻な問題を抱えた場合、信頼するインストラクターのアドバイスは、乾いた砂が水を吸うように心に浸透しやすくなる。
 ⑥法話や面接で過去世に言及されれば、たまたま浮上したイメージを過去世の印象ではないかと思い込みや錯覚が生じやすい。

  禅の接心でも、沈黙行を厳しく守り昼夜を通して座禅に専念するし、「提唱」と呼ばれる老師の法話と「独参」と呼ばれる面接も、ヴィパッサナー瞑想のリトリートと酷似している。
  禅や瞑想の修行に限らず、親子関係の躾けや教育全般の教師と生徒の関係にも暗示にかかりやすい条件は整っていると言える。個人の資質によっても、被暗示性の強いタイプと暗示にかかりにくいタイプがいる。瞑想合宿の特殊な環境では、通常よりも被暗示性が強まるので劇的な懺悔効果の現象が生起しやすくなるのは自然なことだろう。
  となると、過去世の記憶云々よりも暗示効果ではないかと解釈するのは的を得ているし、その可能性は大である。

  ちなみに、暗示効果が悪用されるとマインドコントロールの由々しい問題が生じてくる。詐欺商法、カルト宗教、過激な政治組織・・などさまざまな分野で意図的にマインドコントロールが企てられている。
  ヴィパッサナー瞑想では、悪を避け、善をなすことが強調されており、倫理的な方向性が厳しく示されているので問題ないが、主催者が邪悪なカルト教団だったなら、マインドコントロールや洗脳がなされて危険な思想を鼓吹されたテロリストが養成されかねないだろう。

*プラシーボ(偽薬)効果
  痛みや眠気などのネガティブな症状が劇的に消失したのは、既に見たように、心身医学のメカニズムで説明することができる。病状に劇的な変化を及ぼす心理的要因と暗示効果は、いずれも人間本来の自然治癒力にスイッチを入れる同じメカニズムではないかと考えられる。
  偽薬の服用で症状が改善したと感じる「プラシーボ(偽薬)効果」も、暗示効果をさらに強化する装置と言ってよいだろう。例えば、同じ偽薬でも1錠10セントの薬と説明された時よりも、1錠2ドルの新薬と説明された方が痛みの軽減効果が大きいという。高価な薬の方が良く効くだろうという思い込みの力が物を言うのだ。
  プラシーボ効果とは逆に、無害な偽薬を有害だと思い込めば実際に病気になる「ノーシーボ効果(反偽薬効果)」もある。処方された薬に「副作用がある」と妄想すれば実際に副作用が起きてしまうのだ。症状の改善も悪化も、人体に劇的な変化を及ぼす思い込みの力の証左である。

*二重盲検法
  こうした心理的要因をできるだけ排除して、純粋に薬理的、物理的なメカニズムの解明を目指すのが自然科学の基本的傾向である。例えば、プラシーボ効果を明確にするための「二重盲検法」などは面目躍如たるものがある。
 これは、暗示作用などの心理的影響を排除して、新薬の純粋な薬理的効果を評価するための検定法である。被検者を2つのグループに分け、一方のグループには本物の薬を、他方のグループには外見や味が本物そっくりの偽薬を与え、その際どちらの被検者も投薬する医師も誰もどの薬が投与されたか分からないようにして結果を判定するのである。
  「二重盲検法」は、ものごとを純粋な物理的法則や化学的変化のプロセスとして捉えようとする優れた科学的技法である。同時にそれは、暗示などの心理的要因がいかに強力な変化や影響を及ぼすか量りしれないことを物語っている。

  ルネッサンス以降のヨーロッパの科学的志向は、妄想と迷信だらけだった中世の暗黒時代に対する反動だった。近代科学の頂点でもあるニュートン力学までは、人の心理や意識から完全に切り離された物理法則の数学的な美しさを賛美できた。
  しかし物理法則の究極である量子論の極微の世界が観測されるようになると、素粒子の物理的現象世界と観測者の意識の影響が切り離せない不可分のものであることが知られてきた。
  つまり物質的存在の根源では、物理的現象と純粋な心理的現象とが融合して展開している可能性を示唆している。

  かつてサマーディの力で水虫を治したことのある私にとって、心が身体現象を劇的に変化させるのは自明なことであった。謎だったのは、なぜ、どのようなメカニズムで、心の力が外界の事象を動かし、業が形成されていくのか、だった。
  懺悔の修行が心身一如の身体現象に影響を及ぼすのは当然のことだが、業論のメカニズムとどのような関連性があるのか、さらに分け入ってみたい。(以下次号)




 今月のダンマ写真 ~
 
[「タイ森林僧院厨房裏手」

先生より

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『苦を乗り越える瞑想の検証』 (1) 佐藤剛

*気づけば生きているのがずっと苦しかった
  なぜだか分からないけれど毎日がずっと苦しく、生きているのが辛かった。いや、そう自覚することさえないままにずっと苦しんでいた。優秀になろうと勉強したり、良い生活や結婚を急いだり、家族にも友人にも会社にも体裁を取り繕ったり・・・。
  いつから生きることが苦しくなったのだろう? 40歳を過ぎた今、ようやく考えるようになった。
  振り返ってみると30代の頃は特に苦しんでいたと思い出される。その始まりは社会人になった頃か?いや大学生や高校生の頃も色々あったじゃないか、と思い返すうちにあれよあれよと幼少期まで遡ってしまった。そんな小さな頃から生きるのが辛いと感じていたことに気づき、今さら驚く。一体自分の人生に何が起きているのだろう?どうしてこんなことになったのだろう?人生って幸せなものじゃなかったのか・・・?

*いつの間にかできあがっていた生き方   
  思えば幼い頃から我が家は荒れていた。毎日のように両親は大喧嘩し、食器が飛ぶこともしばしばあった。父親は母や兄や自分に暴力も振るった。恐ろしくて、父が帰ってくると逃げ隠れするようになった。
  幼い頃の母は優しかったが、荒れた心のはけ口か、或いは学歴が無かったという深いコンプレックスを晴らすためか、小学校に入った辺りから自分にとても強引な教育をするようになっていった。鬼気迫るように勉強をさせる母がいつからか怖くなり、顔が見られなくなった。
  荒れている家庭の中で兄からも辛く当たられるようになり、居場所がなかった。恐怖と孤独を感じながら過ごしていた私は、子供ながらに何度も家出しようか、何度も自殺しようかと考えていた。
  いつしか身を守るため、また愛情を惹くために、都合の良い優秀な子になるという生き方をするようになっていた。実に狡猾だった。必然的に成績優秀となり、まるで漫画に出てくる優等生のように、学校のテストでは100点しか取ったことがなかった。だがその優秀さを盾に身を守っているようで、その優秀さが檻となって自分を苦しめていた。
  100点以下を取ることは、存在を保てないことと同義になってしまったのだ。100点しか取れなくなってしまった。人より優秀でなければ暴力と孤独が待っているという世界になってしまっていた。更には、人の役に立てるよう優秀になることが大切だという嘘の論理ができあがっていった。それは弱い生き物が必死で身につけた生き方であったが、それが自分自身を苦しめ続けるなどとどうして予見できただろう?いや予見していたところで一体どうしろと言うのだ?仕方なかったじゃないか・・・。

*苦しみに気がつかないまま苦しんでいた
  社会人になっても、結婚しても転職しても、管理職になって活躍していても、ずっと苦しかった。だが苦しいという自覚さえもなく、ひたすら勉強し優秀なふりをし、仕事に躍起になり、もっと社会を良くすれば自分も満たされるのだと信じて心身を壊しながら過ごしていた。
  そうしてようやく苦しい、生きづらいと自覚しはじめるようになった。スポーツに入れ込んでみたが、成果や体裁に追われているようで一向に楽にならなかった。酒や娯楽にも逃げ込んだが、来る日も来る日も渇き続けやはり何も変わらない。漠然とした正体のつかめない苦しみが相変わらず続いていた。
  ようやく30代半ばを過ぎた頃に、「何かが根本的に、そう、根本的におかしい」と感付き始めた。問題は外ではなく、自分の内側にこそあるのではないか・・・?という気づきが始まった。

*苦の終わりの始まり  
  「自分の心の中の問題」、ということにはじめて意識が向くようになったある時、まるで惹きつけられるように瞑想の入門書を手に取って、なんとなく始めるようになっていた。1年ほど我流で続けるうちに「瞑想は何か意味がある、ちゃんと学びに行きたい、生き方を知りたい」と思うようになった。
  そうして改めて瞑想の教えを探しているうちに地橋先生の著書、ヴィパッサナー瞑想、そしてブッダの教えにたどり着いたのはなんとも自然な導きだった。ここに確固たるものを感じ、これぞ歩むべきといえる道の端にようやくたどり着けたのだった。そしてようやく「苦の終わりが始まった」のだ。

*右往左往?    
  とはいえ、瞑想実践の道は真っ直ぐでは決してないものだった。
  すぐに瞑想の仕方に迷いが生じ、瞑想やブッダの教えに関する本に手を伸ばすようになる。しかしブッダの教えは深遠ながらも決して長大ではないので、何冊か当たればじきに一つの教えに収束して「本はもういいや」となる。今度は、やっぱり体験的な理解こそ大切だと認識し直して瞑想実践に臨んだり瞑想会に参加したりするが、しばらく続けるとやはり疑念や迷いが生じ、学び直したくなる。この繰り返しだった。一見、瞑想実践と本による教学の間で右往左往しているだけではと不安になる瞬間もあった。
  さらには、「真摯に瞑想に励んでいる殊勝な人物」になったのかといえば、残念ながらそうはならなかった。瞑想をやっていることが真面目な人間であるかのようで、それを人に吹聴したくなったりする。そして忙しく騒がしい世の中の風潮や、うまくいかぬ社会や貪瞋痴でできた宗教に対して失望や嘲りの心が生じることを、今度はそれをサティが捉えて見過ごさない。苦に向き合うための瞑想なのに、新たに慢心が生じ心が乱れ汚れるという、それが自分の実際だった。
  それどころか、日常のあらゆる場面で欲、苛立ち、慢心が巻き起っている 我が人生の実態に気づいていき、瞑想を始める前より今の方が辛いと感じる瞬間さえあった。

*感覚の観察の日々、時折進む苦の理解 
  それでも瞑想を続け、日々自分の内面に気づきながら過ごしていると、日常のあらゆる場面において痛いとか熱い寒いといった「感覚」と、嫌だとか恐ろしいといったような「反応」が瞬時に起きていることが徐々に分かってきた。人生の悩みや不安についてさえ、何らかのイメージ=感覚と、不安や恐れといった感情=反応が生じていて、瞬時かつ連鎖的に起きているが厳密にはそれらは違うことが分かってくる。そうすると、感覚が生じた時ではなく、反応してあれこれ感情や妄想が動いたときこそが苦しいのだと特定され、さらには、いたずらな反応さえしなければ、周囲の物事が不快でも、世の中や人生が満たされていなくても、ただちに苦になるわけではないのだと理解されてくる。
  それなら、不運な家庭に生まれても、身近に不快な人が居ても、仕事が山積みになっていても、体に不調があっても、生活費の残高や老後資金の数字が目に入っても、いたずらに反応しさえしなければただの事実として傍観するように受け入れ認める余地があるのではないか・・・?
  こうして、何の意味があって歩く瞑想やら呼吸の瞑想で感覚の観察をやっているのだろうと思う日々の中で、希にほんの一瞬だけ「この為か!?」と予感めいたものが走る。

*曲がりくねった一本道
  こんなふうにして、苦は反応から始まるという教えの意味が我が身のこととして体験され、智慧が一気に深まる瞬間が時々あった。また気づきや智慧を自分なりに感じた後にブッダの教えを学び直すと、その深い教えが自分が感付いたことを整理し後押ししてくれるようだった。
  そして瞑想と智慧の深まりを時折体感すると、右往左往しているのではなく、蛇行してはいるが確かな一本道を地道に歩んでいるのだと理解された。1年過ぎ、2年過ぎ、徐々にではあるのだが、焦らずに結果がやってくるまでただ瞑想していれば良い、と思えるようになっていった。瞑想を習い始めた頃、地橋先生に「まあ、そう難しいことは考えないで、ただ瞑想に臨みなさい」という趣旨の事を諭されたことがあったが、今こそその意味が明らかになっていく。(つづく)

       

桃紫の躑躅(つつじ)・・・狭山にて

 (K.U.さん提供)
 






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ダンマの言葉

覚りの道への出発

  2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話(悟りの道への出発)を掲載しています。今月はその第5回目です。

6.洞察瞑想(ヴィパッサナー:vipassanā
  皆さんに信があるなら理論を学んだかどうかはそれほど重要ではありません。信心により瞑想実践が進展し、精進と忍耐を持ち続けることができるならば理論を学ぶことは大切なことではありません。
  瞑想実践の礎となるのは気づきです。坐っていても、立っていても、歩いていても、寝ていても、いつも姿勢に気づくようにします。そして気づきがあるところには明確な理解が生まれます。気づきと明確な理解は同時に生じます。瞬時に生じるため両者を区別することはできません。しかし気づきがあればいつも明確な理解が現れます。


  心が揺るがず、安定していれば気づきはすぐさま、容易に生じます。同時に智慧も現れます。しかし智慧が不十分であったり、適当な時に現れないこともあります。気づきと明確な理解が生じたとしてもそれだけでは状況をコントロールするのには十分ではありません。一般的には、心の土台に気づきと明確な理解があれば、そこに智慧が現れて補います。

  しかし智慧は洞察瞑想を通して、常に育てていかなくてはなりません。心に浮かんだものは何であれ気づきと明確な理解の対象にできるのです。ただし物事は無常(anicca)、苦(dukha)、無我(anatta)に基づいて観察しなければなりません。基本は無常です。苦とは満たされることがない性質のことです。そして無我とは物事に実体がないことを意味します。

  感覚が生じたら、ただ感覚があるとみるだけにします。感覚を自分自身と同一視したり、実体があるものとみなしたりしないようにします。そして生じた感覚が自ら消え去るのをただ観察します。ただそれだけです。心が汚れた者、智慧の無い者はこの機会を逃してしまいます。感覚という現象を心の向上のために使うことができません。
  智慧があれば、気づきと明確な理解も同時に生じています。

  しかし初期のこの段階においては、智慧はまだ十分に洗練されていない可能性があります。その場合は、気づきと明確な理解があっても、すべての対象を捉えることができないのです。しかし、智慧が現れて助けの手を差し伸べます。智慧により気づきの質がどの程度か、生じた感覚がどのようなものかを見極めることができます。あるいはおおざっぱな見方をすれば、どのような気づき、どのような感覚もすべてが法(Dhamma)であるといえます。

  ブッダは洞察瞑想を礎として修行されました。ブッダは気づきも明確な理解も不確実で不安定であると見ました。不安定なものは何であれ、それが安定したものであって欲しいと願う私たちに苦をもたらします。私たちは物事が思い通りであってほしいと願いますが、現実にはそうならないために苦しまなければならなくなります。これが清らかでない心、智慧を欠く心がもたらす影響です。

  修行実践する時も、私たちはそれが簡単であってほしいと願う傾向があります。好ましい方法であってほしいと思うのです。このような態度を理解するのにわざわざ遠くまで出向く必要はありません。ただ自分の身体を見れば良いのです。
  身体が私たちの望む通りになったことがあるでしょうか。ある時は身体がこのようになって欲しいと願い、また別の時はあのようになってほしいと願います。身体が願い通りになったことが一度でもあるでしょうか。この点では身体と心はまったく同じ性質を持っています。身体や心の性質はただ然るべき姿のままに存在しているだけです。

  修行実践ではこの点が見のがされやすいのです。通常、感じたものがなんであれ、気に入らなければそれを捨て去ります。楽しくないものはなんであれ捨ててしまいます。好き嫌いをすることが正しいかどうか考えなくなります。好ましくないことは間違いで、好ましいことは正しいと単純に思い込みます。
  ここから貪りが生じます。眼、耳、鼻、舌、身、意を通して刺激を受け取ると、そこに好き嫌いの感情が生まれます。これにより心は執着で満たされているとわかります。
  それ故ブッダは無常の教えを説かれました。ブッダは物事を注意深く観察する方法を教えられました。永遠ではないものにしがみつこうとすると、苦しみを味わうことになります。

  好き嫌いに合わせて物事を求めなければならない理由はどこにもありません。物事を自分の感情に合わせようとしてもそれは不可能です。私たちにはそんな権限も力もありません。物事がこうあって欲しいといくら願っても、物事はすべてあるがままになるだけです。自分の好きなように望むことは苦しみから離れる道ではありません。
  汚れた心と、汚れのない心の理解の仕方は違うということがここでわかります。例えば智慧のある心がある感覚を受け取ると、心はその感覚についてしがみついたり自分と同一視したりすべきものではないと見なします。智慧はこのように示されるものです。智慧がなければ単に自分の無知(痴)に従うだけとなります。無常、苦、無我を見ないという無知(痴)です。好きなものを良いもの、正しいものとみなし、嫌いなものを良くないものとみなします。このようなやり方では法(Dhamma)に触れることはできません。智慧は現れません。
  しかし、このような有り様を見据えれば智慧が生じます。

  ブッダは心の内で洞察瞑想の実践を確固たるものとしました。そして洞察瞑想によりあらゆる精神的印象を探究しました。心にどのようなものが生じてもブッダは次のように探究されたのです。心に現れたものを好ましいと思ってもそれは確実なものではない、対象を好ましいと思ってもそれは絶えず生滅し、心の作用に従わないから苦しみであると。
  対象は実在するものでも、自分自身でもなく、自分のものでもありません。ブッダは物事をただあるがままに見るようにと教えられました。修行においてはこの原則を拠り所とします。

  次に、自分の感情を望み通りに生じさせることは出来ないことを理解します。良い気分も悪い気分も現れます。役に立つものもあれば、役に立たないものもあります。正しい理解がなければ、正しい判断を下すことはできません。むしろ貪りを追い求め、欲に従って道をそれてしまうことになるでしょう。
  時には幸せと感じ、またある時には悲しいと感じますがこれがありのままの姿なのです。喜びを感じることもあれば失望する時もあります。好きなものを良いもの、嫌いなものを悪いものと思い込みます。このようにして私たちは法(Dhamma)からはるか彼方へと達ざかってしまうのです。このような状況になると、法(Dhamma)を認識することができなくなり混乱します。心は汚れそのものとなり、欲が増すことになります。

  心について語る時はこのようにします。正しい理解を求めて自分自身から遠く離れたところへ赴く必要はありません。心の状態が永遠に続くわけではないとただ観察するだけです。心の状態は満足できるものではなく、永遠に変わらない自己ではないとみます。修行をこのように進めていくならば、それがヴィパッサナーあるいは洞察瞑想の実践となります。それは心の内容を理解することであり、そうやって私たちは智慧を開発するのです。(続く)

       

 今日の一言:選

(1)悪を避け善をなしカルマを良くしていけば、苦しい人生から解放され、必ず幸せになれる。
  その幸せを味わい尽くし、幸福の限界を知った者達に残された道はただ一つ、「The 修行」。
  世の歓楽を極めた果てに、一切皆苦の構造世界から解脱する道を示した王子に続いて、瞑想する・・・。

(2)涅槃経のサンスクリット本には、パーリ原典には存在しない一行が付加されていて、古来から多くの人を惑わしてきた。
  「この世界は美しいものだし、人間の命は甘美なものだ」
  幸福の無常性を説き、一切の存在に苦の本質がひそむことを生涯に渡って伝えてきたブッダが述懐するはずのない言葉だ。

(3)どの瞬間にも、意識が完璧な「無」のイメージを再生産し続ける無想三昧の至福が破れ、日常意識に回帰すると、見えてしまう。聞こえてしまう。感じてしまう。思考の泥沼に引きずり込まれてしまう。
  否応のない力で、一瞬の間断もなく意識が刺激されてしまう「行苦」の世界が始まってしまう・・・。

(4)心が折れてしまえば、人は孤独に耐えられない。
  心が折れるのは、妄想に巻き込まれるからだ。
  サティが入れば折れた心は霧消し、ただの状態があるばかりだ。
  と、わかっているそのサティが入らなくなる悲しさ。
  人には、語り合い共感し合える存在が必要だ。
  解脱するまでは・・。



       



   読んでみました
幸田正典著『魚にも自分がわかる
                           (ちくま新書 2021年)
  ひとことで言えば驚きと痛快さに満ちた内容だった。
  著者の研究室では魚類の自己意識に関する問題に取り組んでいるが、その成果は、「これまでの常識と大きく異なり、魚の自己意識、その他のいくつかの『賢さ』、そして『こころ』さえも、どうも人間とかなり近い面があることを示している」として、こう明言する。
  「動物の賢さについてのあなたの常識をひっくり返したい。このような内容であるが、決してかたくはない。面白いことは請け合う」と。
  「『魚が鏡を見て、自分の体についた寄生虫を取り除こうとする』。そんな研究が世界を驚かせた。それまで、鏡に映る像が自分であると理解する能力は、ヒトを含む類人猿、イルカ、ゾウ、カササギでしか確認されていなかった。それが、脊椎動物のなかでもっとも『アホ』だと思われてきた魚類にも可能だというのだ。実は、脳研究の分野でも、魚の脳はヒトの脳と同じ構造をしていることが明らかになってきている。『魚の自己意識』に取り組む世界で唯一の研究室が、動物の賢さをめぐる常識をひっくり返す!」(カバーより)

  著者は大阪市立大学大学院理学研究科教授。アフリカのタンガニイカ湖の魚や珊瑚礁魚などを主な対象に、行動、生態、社会、認知を研究。それまで潜水調査をしてきたが、50歳の時に病気のためそれが制限され、以降は実験室で水槽飼育してさまざまな認知に関する研究を幅広く行ってきている。多数の著書がある。
  本書は次の7章からなっている。
  第1章:魚の脳は原始的ではなかった
  第2章:魚も顔で個体を認識する
  第3章:鏡像自己認知研究の歴史
  第4章:魚類ではじめて成功した鏡像自己認知実験
  第5章:論文発表後の世界の反響
  第6章:魚とヒトはいかに自己鏡像を認識するか
  第7章:魚類の鏡像自己認知からの今後の展望

  本書の意図と内容については著者自らが「はじめに」でわかりやすく述べているので、一部を除いてほぼそのまま紹介したいと思う。
  「ホンソメワケベラという小さな熱帯魚が『鏡に映った自分の姿を見て、それが自分だとわかる』という研究を、ここしばらく行ってきた。その研究の、きっかけ、失敗談、発表するまでの苦労などの研究の過程を中心に、さらにその結果から見えてくるものを、書き下ろしたのが本書である。
  魚が自己認識できる、あるいは自己意識や自意識を持つという、あまりにも常識からかけ離れた主張であり、『ほんまかいな』と思われる向きも多いことだろう。そう思われる方にこそ、ぜひ本書を読んでいただきたい」
  「これまでの、そして現在の世界の自然観や動物観は、人間が頂点にあり、知性や社会性などにおいて、順に霊長類、その他の噂乳類、鳥類、爬虫・両生類、魚類と劣っていく、あるいはより原始的な存在であると見なしている。その底辺に置かれる魚類に至っては、本能的にしか生きられず、感情すらないと見なされていた。もっと言うと、10年前までは痛みさえわからないとされていた。そのような、しかも10cmに満たない魚が鏡を見て自己を認識できるというのだから、にわかには受け入れられないのは無理もない。
  しかし、本書を読めば、おわかりいただけると思う。これまでのヒトを頂点とする価値体系がおよそ間違っているのである。脊椎動物は、形態や知覚だけではなく、知性の面でも連続的であって、決してヒトや類人猿だけが特別な存在なのではない。控えめにいって、人と動物との間にはルビコン川はないというのが私の立場だ。
  本書は動物に対する感情移入や擬人化による思い込みとは、もちろん無縁である。都合のよい資料や解釈では話にならない。きちんとした仮説検証の結果に基づいているし、そうでない場合はきちんと断っている」
  およそ10 年前のスウェーデンで開かれた国際学会(病気のため代理になった)では、「研究方法の問題や結果の解釈などに批判が集中し、まともに内容を受け取ってもらえなかったそうだ」が、「その後、この研究は論文として発表され、批判だけではなく、賛同の声も数多く挙がりだす。さらに研究を続けると、むしろこれまでの『魚はバカだ』という考えこそが間違いであることがわかってきた。現在、その研究はさらに進んでおり、それらも併せて紹介したい」

  各章についても「はじめに」でその内容が記されているので、<>内にそのまま転記した。

  第1章では、<ヒトを含めた脊椎動物の脳の捉え方の歴史を振り返りたい。賢さを考えるには、脳の理解は避けては通れないからだ。実は前世紀までは、晴乳類の脳が優れ、魚類の脳は最も原始的とされていた。現在の脊椎動物の脳の捉え方とは、まったく異なっていた。ここでは、現在の魚類の脳の正しい捉え方を述べる>
  つまり原始的な脳に新しいものが少しずつ付け加わって、最終的に複雑な哺乳類の脳になったのではない。「魚類の段階ですでに大脳・間脳・中脳・小脳・橋・延髄と脳は完成して」いたと言うのだ。
  哺乳類の大脳新皮質は6層の構造になっていて大脳の表面を覆っているのに比べ、鳥類ではそれが大脳の中に固まりとして存在している。そしてそれは、どうやら起源も機能も大脳新皮質と同じで、「さらに最近ではこの大脳新皮質に相同(違う生物の器官として形状や機能が異なるが発生的には同一起源)な固まりが、魚類の大脳にも存在することがわかった」と言うのだ。
  デボン紀のユーステノプロテロンという肉鮨類の魚の化石からは、大脳から延髄までが前方から同じ順で並び、また12本の神経系(嗅神経から舌下神経まで)も人と同じ順番で並んでいることがわかった。それも1本の増減もなかったし、出ている場所も同じだったと言う。もちろん現在の魚類も同様だ。
  この章ではこのほか、タンガニイカ湖におけるカワスズメ科の魚の一夫多妻の雄や一妻多夫の雌が、囲っている配偶者同士の喧嘩の仲裁に入ることがあること、カラスとカケスの仲間におけるエピソード記憶についても触れている。

  第2章では、<魚が相手個体を個別に認識するとき、どのようにして行うのか、我々が調べた結果を述べる。我々ヒトは、視覚で相手を区別するとき、相手の顔を見る。驚かれると思うが、どうやら多くの魚類が、ヒトのように相手の顔を見て行っていた>
  魚には魚食魚と藻食魚がある。前から見ると前者は丸顔でその中に大きな目と大きな口があり、後者は縦長で細い顔で目と口は小さい。デバススメダイの稚魚は魚食魚の顔のモデルを見た時に早く逃げ出した。これは顔を認知する神経系が生得的に備わっていることを表している。
  共同繁殖を行うプルチャーという魚類は、両親のほかに「ヘルパー」と呼ばれる子育てを手伝う魚が515匹ほどいて、彼らは互いに顔の模様、つまり視覚によって個体識別をしている。なぜそれがわかったかというと、個体によって顔の模様に多少の違いが認められる(胴体にはない)ことから、顔と胴体を入れ替えて合成写真を作り、それを見せた実験からだ。
  ペアで子育てをするディスカスとかクーへという魚も、同様の実験によって顔の模様でパートナーを識別していることがわかった。それは、子育て中にペアを間違えると子どもが被食の危険にさらされるからだと考えられている。そのほか、グッピー、めだか、イトヨにも言及している。
  最初に相手のどこを見るか、視線を調べる方法に「アイトラッキング法」がある。魚には測定機器を付けることは出来ないので、プルチャーの水槽にレーザーポインターを当てて実験したところ、はやり最初は顔を見ていることがわかった。
  また顔倒立効果というのがある。これは、人は顔のパーツを個々別々ではなく全体的に捉えているため、逆さにして見ると認識が遅れる現象で、顔以外では起こらない。これは顔の認識を専門にする神経系があるためで、「チンパンジー、アカゲザル、ヒツジ、ウシ、イヌと様々な噂乳類、さらに鳥類のセキセイインコでも」見つかっているそうだ。
  これも実験でプルチャーにも顔倒立効果が存在することが確かめられた。このことから、魚にも顔神経系が存在することを示唆しており、「顔認識相同仮説」が立てられた。
  「この仮説は、ヒトの顔認知様式は、ヒトや類人猿が複雑な社会生活に応じて獲得したとする現在主流の考えにまったく逆行する」ものだが、まだ研究は始まったばかりで、「関連する顔細胞や顔ニューロンのタンパクの遺伝子組成などを調べれば案外すぐにわかるのかもしれない」と述べている。

  第3章では、<これまで動物でなされてきた、鏡像自己認知研究の流れを振り返る>
  この章では、かつては人間を精神と肉体とを峻別して捉え、また動物は自己を振り返る能力を持たないとする考えが唱えられていたが、やがて鏡を使った研究から人間中心主義が崩されていく過程が述べられている。
  マークテストという方法がある。先ず動物に鏡像自己認知が出来たと思われるまで鏡を見せる。その後本人には見えない場所にマークを付けた時に、鏡を見て試行錯誤すること無くそれを触るかどうかを観察するのである。
  ここではこの章の末尾の著者による記述のみを挙げる。
  「今のところ鏡像自己認知ができる動物は、類人猿、アジアゾウ、ハンドウイルカ、カササギくらいである。魚に鏡像自己認知ができるということは、その子孫である両生類、爬虫類、鳥類、晴乳類の多くの種にも潜在的能力がある可能性を示唆する。その意味でも相当に過激な話になる。(略)
  もし魚にも自己認識ができるということになると、これまでの動物観や人間観にも影響するだろうし、また、人間だけが賢いという常識に大きな疑問を投げかけることになる」

  第4章以降は<魚類の鏡像自己認知の話題になる。まず第4章では、魚の鏡像自己認知の研究のきっかけ、失敗、成功や苦労話など、我々の研究の流れと実態について述べる>
  この研究を一段と進めたのはコンソメワケベラ(以後ホンソメ)を使ったことだ。なぜかというと、ホンソメは他種や同種の魚の体表から小さな寄生虫を見つけて摘みとって食べる性質があること、また自分の体表にも寄生虫が多いことが知られていて、互いに掃除をし合っているからだ。なので、もし寄生虫やそのような模様が自分の体についているのに気づけば敏感に反応するだろう、と言うことから使うことになった。
  また他にも都合の良いことがある。それは、ホンソメが高い認知能力を持つことがすでに知られていたからだ。「ホンソメは、自己制御(目的のために我慢ができる)、意図的だまし(相手が騙されることをわかって騙す)、罰(「悪い振る舞い」をした他個体を罰する)など、魚でありながら霊長類並みの賢い行動をとることが知られていた。このため、ホンソメは鐘像自己認知の研究には打ってつけの材料だった」と言う。
  チンパンジーの鏡像による自己確認行動はよく知られている。それは、先ず社会行動(攻撃:他の個体と勘違い)、次に随伴性の確認(不自然な行動:自分かどうかの確認)、そして自分の顔を何度も見る(自己指向行動:指で額のマークを触るなどの行為で自分を認識)の3段階を経るものだ。
  もちろんホンソメの場合は手も指もないので、痛みや痒みなどを感じるとそこを砂や石に擦り付けて掻く性質を利用した。そこで、本人が鏡を利用しないと見えない所に寄生虫に似た茶色のマークを付けて4匹で実験した。
  その結果、3匹がそれぞれ16回、10回、6回、喉を砂底で擦った。残りの1匹は擦らなかった。
  「もう一度言うが、擦った3匹は鏡がないときは誰も茶色マークをまったく擦らなかったのである。鏡を見せたときだけマークを擦ったのだ。この結果は、ホンソメはマークテストに合格していることを見事に示している!魚類で鏡像自己認知がはじめて示されたのである」
  さらに面白いことに、喉を擦る前に、各個体はその直前に鏡で喉を見ているが、「喉を擦った直後、なんと擦った喉を鏡に映してもう一度見ているのである。まるで、擦った後、『寄生虫』がとれたかどうかを確認しているかのように」見えたという。
  さらにほとんどの場合、「喉を擦った後、一目散に鏡に向い喉を映すのだ。喉を映すとき、鏡の前でじっと静止すらする。鏡の前でしばらくの間じっとしているこんな行動は、喉を擦った後にしか見られない」し、喉を擦るのに「空振りした場合は、その後鏡で喉を覗きに行かないのだ。喉が擦れていないことが、わかっているのだ」としか思えないと。
  このような行動は、ホンソメが鏡像は自分だと理解し、自分が何をしているのかを正しく認識しているのではないかと著者は言う。
  そして、「この解釈が正しいとすると、ホンソメのこれら一連の振る舞いは、もはやチンパンジーと大きく違わない。チンパンジーは擦った後に指についたマークが何かを確かめていた。チンパンジーと同じようなことをしているのであり、魚に自己意識があることを強く物語っている。これは大変なことになってきた」。
  第5章は、<その後出された様々な批判に対して行った研究を述べる。むろん、ほぼすべての批判は、我々の実験で反論できるし、むしろこれまでの研究方法の批判を展開することになる>
  ここでは研究の原則(自分の専門の教科書を勉強すること。自分が見たことと食い違っていた時の対処の仕方。必ずしも教科書が正しいとは限らないこと。疑問は常に考え続け適当に終わらせてはいけないこと)を記したのち、マークテストの落とし穴について述べている。
  多くの動物でなされている鏡像自己認知実験は、ほとんどマークテストに合格しないし、合格した動物でも合格率は低い。また、一旦は合格しても翌年には不合格となることもある。その理由は、そこで使われているマークが、「実験動物にとって意味のないマーク」ばかりだからだ。なぜこんな単純なことが長年見過ごされてきたのだろうか、と著者は疑問に思うほどだ。
  おそらくそれは、最初にチンパンジーでなされたマークテストで赤色マークが使われたためだ。それが実にパイオニア的だったのであまりにも有名になって、後に続く研究者もそれを踏襲した。しかし結局、それが大きな足かせになってしまったと言うことだ。
  無意味なマークによるテストは、そのマークへの興味の度合いを調べるいわば「関心度テスト」のようなものに過ぎない。したがって、マークは動物の生態や暮らしぶり(ホンソメの場合は寄生虫)に応じたものにしなければならないのだ。
  適したマークを使えば、おそらくもっと多くの動物がマークテストに合格できると思われる。そうなると、「自己意識はもっと広い動物分類群にも認められることになり、(略)賢いのはヒトと類人猿であり、それ以外はおバカという人間中心主義の見方から、そんなことはなく、脊椎動物の多くの種類はそれぞれ思われてきた以上に賢いという、まったく異なる動物観、あるいは世界観」が生まれるのではないだろうか。
  例えば、「ほとんどの霊長類、イヌ、ネコ、ブタなど、鳥類でもオウム、カラスの仲間数種などは、鏡の性質が何であるのかがわかっているが、マークテストには失敗している」のは、直接見たときに触ろうとしたり(ホンソメの場合の寄生虫)、欲しいもの(美味しいバナナやリンゴなど)ではなく、興味のない黄色や赤のボールを使ったためだろう。気づいても無視するようなマークではそもそも実験にならない。つまりそもそも出題にミスがあったと言うことである。
  またマークのほかのハードルとして、もとより相手の顔を見ない習性をもつものもいる。そもそも鏡を見ないとマークは見られないわけで、ゴリラやニホンザルなどマカク属のサルもこのため不合格になるひとつの原因と考えられる。

  第6章では、<魚がいかにして鏡像自己認知をしているのかという、さらなる問題を明らかにする。魚独自の方法でしているのか、あるいはヒトと同じように、顔を見て行っているのか? どちらの可能性かを検証した。最後に、魚の自己意識や「こころ」の問題にも触れている>
  私たちが鏡に映った自分の顔を見た時、それが自分だとわかるのは自分の中にそのイメージ(鋳型)を持っているからだとされる。このことを「内面的自己意識」があると言い、他者についても同様で、この顔のイメージを称して「顔心象」と言う。
  人の場合、鏡を見てまず自分だとわかる段階がある。次に髭を剃るか髪を梳くか、等々を考え行動する。この次の段階の働きは、「顔心象」の働きからは切り離された、脳の別の働きと考えられている。ただそうした考えや行動を起こすための前提として、「髭や髪の状態についての自覚」がなければならないが、その自覚のもととなる意識を「内省的自己意識」と言い、それを持っているから次の行動に移れるのだと言う。
  ホンソメの場合も、鏡の自己顔を見て自分だと認識する段階を経てから、自分の喉に寄生虫がついているのに気づいて擦り落とそうとする。それは、寄生虫がついていることを自覚してはじめて出来る行動で、その時のホンソメは「内省的自己意識」を持っていると言えるのではないか。
  その上、岩で擦って落としたはずの喉のマークがちゃんと落ちているかどうかを確認するために、「わざわざ鏡に喉を映しているように見える」のだそうだ。「もし、ホンソメがそのような意図で喉を鏡に映しているなら、自分の体の寄生虫の有無が視認できないことを自覚していることに」なる。これも「内省的自己意識」を持つ例であろうと言う。
  このことから著者は、このような感覚や意識が進化の途上で途切れるとは考えにくいとし、「魚もヒトも自己意識の起源は同じではないか」という「自己意識相同仮説」を提唱している。「魚類の進化段階ですでに、脳の基本的仕組みや、各種感覚器官と連絡する脳神経は出来上がっている」こともあり、この仮説は「あながち外れていないのではないかと思っている」と述べている。

  第7章では、<魚類や動物の自己意識のあり方についてさらに考察している。最後に、魚がどのタイミングで鏡像自己認知をするかという問題に取り組む。そこから、魚が「わかる」「ひらめく」という、さらに踏み込んだ最新の話もする>
  ホンソメには、「知らない個体なら攻撃し、妻やお隣さんなら寛容」という反応が見られる。これは、人の社会関係にも似て、ホンソメも、相手を見た途端に識別して、「個々の性質と自分との社会関係を把握しており、それに応じて振る舞いを素早く変える」。そして、「もはやヒトやチンパンジーの社会関係の把握能力と基本的には変わらないかもしれない」と言うのだ。
  ホンソメも(人のように)相手によってへコヘコ、他の個体には偉そう態度を変えるそうで、これも「自分が相手を、相手も自分をどう思っているのかを認識していることの自覚があるからこそ」で、「相手に応じたふさわしい臨機応変な対応をとることができると考えられ」、これも、「むしろ、内省的自己意識なしには、彼らはあのような柔軟な社会生活を送れないと思われる」としている。
  さらにこの章では、ホンソメが「内省的自己意識」をもつことをさらに証するため、現在はメタ認知(自分の認識状態を認識できること)の研究に取り組み中だと言う。
  もし、ホンソメにメタ認知ができるとなると、「ヒトや類人猿のレベルでの内省的自己意識を持っていること、つまり、立派な『こころ』を持っていることになる」が、この仮説は「今後検証していくべき大きな課題として位置づけてよいように思われる」し、「これから次々と検証例が出され」て支持されていくだろうとも明言している。
  さらに、メタ認知と並行して今著者が取り組んでいるのはホンソメがどのタイミングで鏡像認知をするのかについての研究で、これはアルキメデスの逸話から「ユーリカ」(Eureka!わかったぞ!)研究として現在進行形だと言う。「魚類どころか動物すべてを見ても、このような『ユーリカ』研究は世界中のどこにもない。こんなことを熱っぽく書いていると、『幸田もついにおかしくなったか』と言われそうだが、たぶん大丈夫だと思います」と。
  また最後に著者は改めてこう言う。似ている現象が生物で見られる理由には相似性と相同性という大きく2つの場合があるが、「私は、相同性の面がむしろ強いと考えている。4億年前の古生代で、硬骨魚頬に自己認識や他者認識能力、自己意識が進化し、それらの能力は陸上脊椎動物とヒトに引き継がれた、という筋書きが導かれる。『こころ』の起源は、魚にまで遡る可能性があるのだ」。
  そして、「これらの挑戦的な仮説は検証可能である。もちろん間違っているかもしれないが、その正しさはいずれ確かめられるだろう」と著者は確信している。
  「魚のほんとうの賢さについては、我々はこれまで誰一人、何も知らなかったのである。いよいよ人間中心の従来の世界観を見直す時期が来ているのかもしれない」と著者は結ぶ。

  本稿では概略のみを紹介せざるをえなかったが、どこをとっても面白いので、ぜひ手にとって直接お読みになることをお勧めしたい。ともかく、常識をひっくり返すような本であるとともに、私たちにとって「すべての衆生」という言葉になおのこと具体性を持たせる上でとても有益だと思う。
  なお、本欄で「雅」として紹介した書籍は、いずれも公立図書館で借り出されたものであることを付記しておきたい。(雅)
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