月刊サティ!

2022年4月号  Monthly sati!  April  2022


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:『 懺悔物語 (3) -懺悔の事例- 
  ダンマ写真
  Web会だより ー私の瞑想体験-:『怒りの根源の発見』(4)
  ダンマの言葉:『悟りの道への出発』(4)
  今日のひと言:選
   特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (11)
  読んでみました:『証言 我ラ斯ク戦ヘリ 兵士たちの戦争秘史』(ビジネス社 2021年)  ほか(後)

                

【お知らせ】
 「Web会だより」は1月号より「Web会だより -私の瞑想体験-」といたしました。
なお、検索の便宜のため、バックナンバーについては変更を加えておりません。

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
  

     

              巻頭ダンマトーク
 『懺悔物語 (3) ―懺悔の事例-
  なぜ懺悔をすると痛みや眠気など瞑想修行の妨害要因が消えてしまうのか。これを科学的に説明するのは容易ではないが、こと瞑想に関しては、問題が解決し修行が進みさえすれば良いではないか。合理性に欠けても、暗礁に乗り上げた瞑想の苦境を脱することができれば結構、と瞑想マキャベリズムになる。毒矢の成分が科学的に判らなくても、取りあえず毒矢を抜くことができれば良しとする現場主義の発想だ。
  これまでオーソドックスな対応で万策が尽きた時には、打開策として懺悔の瞑想を試みる瞑想者が数多くいた。結果的に成功事例が増え続け、「懺悔効果」ともいうべき有効性が鮮やかに浮かび上がり、図らずもスリランカで教えられた対応の証左となった。

*痛みと眠気
  懺悔効果が特に著しいのは、痛みと惛沈睡眠の現場である。物理的な身体症状が伴うので必死に取り組みやすく、有効性があったか否かの検証も歴然である。
  懺悔も慈悲も、瞑想者の心の変容を旨とするのが本来である。だが集中すれば強い意志(チェータナー)が放たれ、カルマを形成する現象生起力となって当事者の相手にまで不可思議な変容を及ぼすことになるのも、多くの人が体験している。
  慈悲の瞑想で強く祈ったら、なぜかニコニコ顔で機嫌よく挨拶してくれた・・・。泣きながら懺悔の瞑想を続けていたら、向こうから和解を申し出てくれる奇跡が起きた・・等々の逸話は枚挙に暇がない。慈悲であれ懺悔であれ、強い意志の出力が自動的に業を形成し、因果が帰結していくのは業論の基本理解である。
  集中が悪ければ出力されるエネルギーも微弱となり、迷いがあればエネルギーの方向性がブレまくって形をなさないだろう。真剣に、本気の修行をしなければ、効果は期待できない。効果がないという意味は、直面している現象にさしたる変化が生じないということである。
  逆に余念のない強い集中力があれば、ドラマチックな現象の転変を経験することができるだろう。慈悲の瞑想の<ヨロズもめごと解消効果>は、多くの人が体験的に検証している。同様のサンカーラ()のエネルギーが現象生起力となって働くので、不可思議な<懺悔効果>が起きるのだろうと推測される。事例に即して、懺悔の意味と効果を考察していこう。

*事例その1
  Aさん。瞑想合宿の直前に首筋が曲がらなくなり、なんとかゴマかしていたが3日目に我慢ができないほど痛み出した。
  セオリー通り最初は痛みの観察に集中し、「痛み」とラベリングするが一向に改善しない。苦痛に反応している心にもサティを入れるが、ラベリングの言葉が上すべりして「痛みの想い」に巻き込まれ、のめり込んでいる状態から抜け出せない。この時点で「懺悔」をするようにインストラクションされる。
  現象世界は、因果のエネルギーが生じては滅していく構造である。苦痛を経験するからには、それ相応の原因があった筈である。その原因を正確に特定することは不可能だが、五戒の1番目(生命を傷つける)に関係してはいるだろう。物を失くしたり、ダマされたりという現象が起きているのではない。肉体に苦痛が襲来しているのだから、殺生戒に関する不善業を推測するのが妥当ではないかと説明し、さらにAさんにたたみかけた。
  「・・今世に限っても一度も昆虫や小動物を殺傷していないですか。体の小さい級友にプロレスの関節技をかけたり、ヘッドロックで痛い目に遭わせませんでしたか。校内シューズを入れる袋で頭をひっぱたいたり、耳に輪ゴムを引っ掛けてパチンと痛くしたり・・・。
  過去世にまで遡れば、長い輪廻の中で一度も狩猟や戦争に加わらなかったという自信がありますか。人類の歴史に部族闘争や集団殺戮のなかった時代はないですよ。敵の首級を挙げんと槍を突き刺し、おびただしい返り血を浴びながら体に戦慄を走らせていたかもしれないでしょう。
  過去世がピンと来ないなら、甲虫の手足をもいだり、雀の首をひねって殺しませんでしたか? 蛙の口に爆竹を突っ込んで爆破させた人もいるんですよ、その人はその後、顎関節症か何かで口が開かなくなって入院したそうですけどね・・。 
  あるいは、新聞紙を丸めてゴキブリを追いつめ、何度も叩いて腹綿が飛び出し、それでも死に切れず仰向けで転がり続けているのをハア、ハア、言いながら眺めていませんでしたか。
  どんな生物にとっても最大の苦痛を与えておきながら、その因果がめぐって今、我が身に苦受が経験されているのだとすれば、殺傷してきたであろう膨大な命に対して懺悔をしてはどうかということです。今後は二度と殺生戒を犯しません、と五戒を確認して締めくくってください」
  Aさんは面接後すぐにブッダの像に額(ぬか)ずいて真剣に懺悔の瞑想をし、そのまま座禅を始めた。たちまち襲ってくる右首筋の痛みにサティを入れていると、突然、死闘を繰り広げている前世の記憶が甦り()、自分の刀剣が相手の肉と骨をメッタ突きにする感覚が生々しく浮かび上がってきたという。衝撃を受け、相手にひたすら詫び、赦しを乞い、真剣に懺悔し祈った。
  すると、畳に擦りつけていた額を上げた時には、あのひどい痛みが完全に消失し、以後、二度と痛みは戻らなかった。懺悔の威力に心底驚きました・・という翌日のレポートである。
  私も最初は半信半疑だったが、こうした鮮やかな現象の変化を報告する事例が続出するに及んで、メカニズムの解明はさておき、懺悔と身体症状の変化の因果性を疑えなくなってきたのである。

*事例その2
  Bさん。合宿初日から異様な惛沈睡眠に襲われていた。サティの瞑想はおろか前座の慈悲の瞑想が最後の行までたどり着けずに、毎回途中で眠りこけてしまう程であった。体を合宿態勢に整え5日経っても、慈悲の瞑想すら完成できない異常な眠気は前例がなかった。
  Bさんの唱える慈悲の言葉を嘲笑うがごとくに、関係のないセリフが大きくなったり小さくなったりしながら耳元に囁かれてくる感じだという。頭が混乱し、誰に対してどの言葉を唱えているのか分からなくなるうちに惛沈睡眠でドロリとしてしまう繰り返しであった。
  「・・この眠気の異様さには、ヴィパッサナーや慈悲の瞑想に対するなんらかの不善業が働いているのかもしれませんね。
  スリランカの寺では、惛沈睡眠の原因として、仏法僧に対する誹謗中傷や聖者冒涜の不善業を強調していました。<ariya upavada>と言います。
  今世でそのような所業をおやりになっていなければ、過去世が疑われます。飽くまでも推定の域を出ませんが、最後の切り札として懺悔を試してみる他ないでしょう。
  もし仮に、過去世でテーラワーダ仏教の比丘を罵倒したり邪教だと言いふらしたりしていたとしたら、そのことを謝りもせず、知らん顔で今度はヴィパッサナー瞑想をやってやるから修行を進ませろ・・というのはおかしいでしょう。
  慈悲の瞑想でつまづくということは、慈悲の瞑想について説法していた比丘の邪魔をしたのかもしれませんね。鉦や太鼓を打ち鳴らし、大声で喚いて説法が聞こえないように邪魔してたり()・・妄想ですけど。
  文言のサンプルとして例えば、『三宝誹謗と聖者冒涜の罪業を深く懺悔いたします。私のことですから過去世で仏法僧を罵ったり、預流道や阿羅漢の聖者を冒涜したに違いありません。無知ゆえに愚かなことをしました。お赦しください。申し訳ありませんでした。今後二度と同じ過ちを繰り返しません。
  これからは篤く三宝を敬い、仏法僧に帰依し、殺さない、盗まない、不倫をしない、嘘をつかない、酩酊しない、の五戒を守り、仏弟子としてしっかり精進していきますので、修行が正しく導かれていきますように・・・』
  これは、相手に謝るというよりも、自分の過ちを認めて懺悔し、これから未来に向かって正反対の善エネルギーを放っていくことを決意するのがポイントです。
  誹謗や冒涜のエネルギーを打ち消すには、尊崇の念をもってブッダとダンマとサンガを敬っていくのです。なぜ五戒を確認するかというと、非を詫びて懺悔するのに、これからも破戒行為をやっていく予定だが、取りあえず謝る・・では筋が通らないからです。
  心からの実感を込めるためには、定番の言葉を自分の表現に翻訳したほうがいいですよ」

*懺悔の効果
  5日目。Bさんはまたも惛沈状態になり、最初からやり直そうと懺悔の言葉に集中した瞬間、不意に石を投げつけられている比丘の姿が眼に浮かび、思わず涙がにじんだ。のみならず投石をしていたのは他ならぬ自分だったことに強いショックを受け、痛切に詫びて懺悔に没頭した。
  すると、感情の昂ぶりもあってか霧が晴れたように頭が冴えわたり、初めて慈悲の瞑想を最後まで完結することができた。
  翌日になると、さらに、今世で迷惑をかけてきた会社の同僚や両親への懺悔の言葉が素直に浮かび、涙がとめどなく溢れた。心のこもった懺悔の思いで、一行一行確かめるように「慈悲の瞑想」が完成してからというもの、ヴィパッサナー瞑想が急速に進み、画期的なサマーディ感覚でサティが連続し始めた。瞑想にすらなっていない最低レベルから一気に高度な修行に飛躍したのである。<懺悔>がリトリートの大きな転換点になったケースである。
  さて、首筋の痛みが劇的に消失したAさんや、Bさんの懺悔の修行から、われわれは何を学ぶべきなのだろう。懺悔修行の意味とその問題点を整理してみよう。

  ①なぜ懺悔をしたら苦の現象(昏沈睡眠や痛み)が消失したのか? 懺悔行為と現象の因果関係は?
  ②AさんとBさんは、前世の記憶を思い出したのだろうか?
  ③過去世に対する意識の集中(懺悔)が、今世の現象に変化を与えたのだろうか?
  ④現象になんの変化も起きなかった場合、懺悔にはどのような意味があるのだろうか?
                                                                                   (以下次号)



 今月のダンマ写真 ~
 
タイ、バンコックの大富豪が森林僧院に寄進した白亜堂大伽藍エントランス

先生より

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『怒りの根源の発見』(4) K.M.

  地橋先生からのアドバイスを受けて、幼少期を振り返り得られなかった愛着に対する不満怒りにより愛着障害があることを痛感しましたが、自分だけが被害者で両親祖父母が悪いのか?そこを明確にする為に母親の幼少期も振り返りました。

◆母も被害者
  母親の実母は幼い頃に離婚して、母は後妻さんに育てられました。母親は長女だったので、その後、生まれた弟妹とは全て異母妹弟です。私が幼い頃に、母方の祖母は本当(血縁)の祖母ではないことは聞いて知ってはいましたが、母方の祖母や叔父叔母には可愛がってもらいました。ただ、少し祖母には遠慮する気持ちがありました。
  母の死後、叔母から聞いた話しですが、「母親が生き別れになった実母を訪ねて、幼い頃に隣町の実母に会いに行ったが、会うことを拒絶されて帰って来た。」と教えてもらった時に、さぞ母親は悲しかったろうと胸が痛くなりましたし、実母もさぞ会いたかったはずだが、色んな事を考え悩み苦しんだ上での決断だったはずと思い、胸が痛くなりました(わが子に会いたくない母親はいない)
  母にはそんな経験があるからか、私を連れて母親の実家に泊まりに行き、夜寝る時に何故か押し入れの中に布団を敷いて私と一緒に寝ていました。義理の叔母に「お姉さん畳の上で布団を敷いて寝て下さい」と言われても、母は「私は押し入れの中がいい」と返答していました。幼心に「なぜ押し入れの中で寝るのだろう?変だなぁ?」と思いながら、母親と一緒に寝ていました。今思うとこれは母親が幼少期に実母と別れて会いたくても会えなかった愛着障害からの行動だったのではないかと思います。

【母親の幼少期の境遇のレポートに対しての地橋先生からのインストラクション】
  ・母親がもっとまともに優しく愛してくれたら・・との思いがあったと思いますが、お母さんご自身も苦しい生い立ちを生き抜いてこなければならなかった被害者であり、温かい愛情をたっぷり受けることができなかった背景があったのてす。理想的な子育てのやり方が経験的に分からなかったのも当然のことでしょう。愛情の出力も他のどんなことも、自分が受けてきた通りのものを与えてしまうのは致し方ないことてす。世代間連鎖というものがどうしても起こってしまうのです。
   とインストラクションしていただきました。

  それで母親も自ら選んで幼少期の苛酷な環境に育ったのではなく、好き好んで幼少期の私に厳しい態度を取ったのではない。親もどれだけ苦しい幼少期から自我形成をして自分を生んで子育てをしてきたか?「親も被害者だ」と知ることが出来ました。
  父親、祖父母についてもそれぞれの幼少期があっての自我形成があるので、誰が悪いという事でなく誰もが被害者なのだと思えるようになりました。
  ただ、どうしても祖母が亡くなった時に母親に「おばあちゃんが死んで良かったね」と言ってしまった罪悪感が残っていました。

【地橋先生からのインストラクション】
  ・私達のどの瞬間の心も真実なのです。母親と接する時も、おばあちゃんと接する時も、上司や部下、恋人や友人と一緒にいるどの瞬間も本当の自分なのです。私達は状況によって、相手によって、その時その場のシチュエーションによって、反応も対応も態度もさまざまに異なる複数の人格というかキャラクターがあると考えるのです。(→分人主義)。暴力的で怒りっぽい人が孫娘に対しては信じられないほど優しくなったりするのです。エゴが一つと考えると矛盾だらけですが、誰でも複数のエゴを持っていて、そのどれも本物だという発想です。
  ・嫁姑の関係で辛く苦しい思いをしてきたお母さんの姿をつぶさに見てきたし、自分もその板挟みになってきたのだから、お母さんの立場になって考えれば、姑がいなくなったらもう苦しまなくてすむ、良かったね、と言って上げて何が悪いのですか?母を思いやる優しい男の子がいただけでしょう。
  同時に自分を愛してくれたおばあちゃんを喪ったことがどれほど悲しいことだったか、どちらも本当なのです。
  ・だから自分を責める必要はないし、そんなことを言った少年の心を私は赦してあげるべきだと思います。
  とインストラクションしていただきました。

  これまで祖母に申し訳なく、また自分に情けなく思い続けていた罪悪感と、忸怩たる思いが初めて赦してもらえたのだと思えました。
  この様に幼少期の過去を振り返ることにより、愛情を求めていながら得られなかった不満と怒りが蓄積され、心の反応パターンが形成されていった。それ故に幼少期から漠然とした不安・悲しみ・寂しさが今でも続き、あらゆる場面で発現する怒りの根源となっている事に得心がいきました。
  原因は解りました。では、どの様にしたら問題(幼少期からある不安・悲しみ・寂しさを起因とした怒りの根源)を改善することが出来るのか?心の拠り所となる愛情を求めたかった両親とも他界しました。両親と話をして心のわだかまりを解くことは出来ません。そのことを地橋先生に問いかけました。

【地橋先生からのインストラクション】
  ・愛着障害の問題は、安全基地(揺るぎない信頼関係で結ばれた安心安全の拠り所となる対象)になってくれる人を見つけて心底から安心できる体験をすることが大事です。
  ・良き伴侶に恵まれれば、その伴侶が安全基地になってくれたりするのですが、そのような縁に恵まれない人もいます。そのような場合には「プリズン・ドッグ」というNHKのドキュメンタリーをご覧になるとよいでしょう。
  とインストラクションしていただきました。

【プリズン・ドッグとは】
  犬を用いて行われる刑務所内での更生プログラムで、凶悪事件を犯した二十歳前後のアメリカの少年たちが刑務所で虐待や飼育放棄などによって保護された犬のお世話やトレーニングを行い新たな飼い主を見つけることや、セラピードッグや介助犬として社会で活躍することができる手助けをし、少年達は無条件に犬たちに愛情を与え、犬から愛情を感じることで人間らしさを取り戻し、他者を思いやる気持ちが芽生えるようになる。さらに犬のお世話やトレーニングについて同じプログラムを受ける仲間とアドバイスしあうなどして協調性や絆が生まれる。

  プリズン・ドッグを見て、犬(生命)を一生懸命に愛し世話をして信頼関係が作られれば、人は変わることが出来るのだと感動しました。

◆怒りの克服の方向性
  インストラクションを通して長年の問題(怒り)の原因とその解決策を提示していただきました。

◇怒りの原因
  ・愛着障害による幼少期からの満たされない気持ちを根源として、心に反応パターンが構築された。
◇怒りの解決策
  ・五戒、慈悲の瞑想、懺悔の瞑想を徹して行い、怒らない決意を固める。
  (文言だけを唱えるのでなく、五戒などは単純な禁止事項だけに止まらず、それぞれの戒がどのような意味を含んでいるのか発展させていく等)
  ・徹底した因果論の納得、その為にも教学を深めることの継続。
  ・内観に行き視座を転換させてエゴを克服する。

  まだ内観にも行ってはいませんし、五戒にしても何とか戒には触れない様なレベルで、慈悲の瞑想も親しい生命範囲ぐらいなら対象に出来る程度です。懺悔の瞑想にしても完全に自分が悪かったと思えない対象もありエゴが拭えない程度です。いわゆる、まだまだ道半ばの状況なのですが、それでも長年の問題の原因と解決策を提示してもらった喜びと安心感の証が体調面に現れました。幼いころから便が緩くずっとそれが当たり前でしたが、問題の原因と対策のインストラクションを受けてから軟便が改善しました。記憶にある限り長期に渡り軟便で無くなった事は初めてです。
  ただし、自分の悪いところは、解決策がわかるとそれに安心してしまい、気が緩む傾向があることです。そこに注意して提示していただいた解決策を日々実行して、内観にも行き心の反応パターンを改善させて、ヴィパッサナー瞑想による心の清浄道の完成に向けて努力精進していきます。
  長々となりましたが、私のつたない幼少期からの人生経験と苦悩に関するレポートが参考になる方がいらっしゃれば幸いです。
  また、この様な法施の機会を与えて下った地橋先生に感謝いたします。 合掌
       

・・・「気品」「崇高」(花言葉)に・・・

 

(先生提供)

 






このページの先頭へ

 『月刊サティ!』
トップページへ

 


ダンマの言葉

  1月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話(「悟りの道への出発」)を掲載しています。今月はその第4回目です。

5.理論と実践
  そのような訳で私達はこの実践を続けます。実践のセンスを身に着けるまで続けます。それぞれの持つ特別な傾向や能力によりますが、やがて新たな理解が生じます。これを法の究明(DhammaVicaya:択法)と呼びます。このようにして7つの悟りの要素(七覚支)が心に生まれるのです。残りの6つは気づき(念)、努力(精進)、歓喜(喜)、平安(軽安)、集中(定:サマーディー)、平静(捨)です。
  七つの悟りの要素について学べば、それについて書かれた本の内容を知ることはできます。しかし真の悟りの要素を見ることはできません。本当の悟りの要素は心の内に生じます。このようにしてブッダはあらゆるすべての教えを直接私達に説くようになりました。
  正覚者はすべて苦しみから脱する方法を教え示しました。そして正覚者の教えの記録を理論的な教えと呼びます。この理論はもともと実践から得られたものです。しかしそれは単なる本による学習、ことばの羅列と化してしまっています。
  真の悟りの要素は消え去ってしまっています。それは私達自身の中に、すなわち心の中に悟りの要素をみようとしないことが原因です。悟りの要素が生じるとすればそれは実践から生まれます。悟りの要素が実践から生じるなら、それは法の悟りに導く要素といえます。そしで悟りの要素が生じることで実践が正しいと知ります。実践方法が間遠っていれば、このような要素が現れることはありません。
  正しい方法で実践するなら法を見て取ることが出来ます。それで実践をし続けるのです。一歩ずつ道を手探りしながら絶え間なく探究を続けます。探し求めるものがここを置いて他に見つかると考えてはなりません。
  先輩の修行者の一人はここに来る前に学習寺で長いことパーリ語を学んでいました。学習の成果があまり芳しくなかったため彼は次のように考えました。
  「瞑想を実践する修行僧はただ坐るだけですべてを見、理解することが出来ている。私もそのようにしてみよう」
  彼はこの地、ワット・パーポンにやって来て、坐って瞑想をすればパーリ語の経典を翻訳できるようになるだろうと考えました。彼は修行実践についてこのように理解していました。まったく過って理解していたのです。ただ坐ってすべての物事を明らかにするのが簡単なやり方だと考えていました。
  法の理解について話す時は学習僧も修行僧も同じ言葉を使います。しかし実際は理論を学ぶことで得る理解と、法の実践から得られる理解はまったく同じというわけではありません。この二つは同じように見えるかもしれませんが一方はより高尚で、深遠なものです。実践から生まれる理解は放棄、諦めへ繋がっていきます。完全な放棄が生じるまで、耐えます。熟慮を続けるのです。
  もし欲ないし怒り、そして嫌悪が心に生じるなら、無関心ではいられません。単にこれらから逃れるのではなく、むしろこれらを取り上げて、よく調べ、どこからどのように生じたかを見極めます。このような傾向が既に心に備わっているなら、深く考察しこれらの感情がいかにして不善な作用を及ぼすかを観察します。これらの感情をはっきりと観察し、それらを実体と信じて追い求めることにより、自らが苦難を作り出していることを理解します。このような理解は自身の純粋な心以外のどこにも見い出すことはできません。
  このようなわけで理論を学ぶ人々と瞑想をする人々のお互いが相手を誤解します。通常学習を重んじる人々はこんなふうに言います。
  「瞑想実践しかしない修行僧はただ自分の意見に従っているだけだ。彼らの教えには土台が無い」と。
  実際は「学習と実践」という二つの方法はある意味でまったく同じものです。これらを手の平と甲のようなものであると考えれば、理解の助けとなるでしょう。手の平を差し出せば手の甲は消えてしまったように見えるかも知れません。実際、手の甲はどこかへ消え去ったのではなく、下に隠れているだけです。手の甲が見えないといってもそれが完全に消え去ったわけではなく、下に隠れています。
  差し出した手をひっくり返すと、今度は手の平が見えなくなります。その場含も手の平はどこかに去ったのではなく、ただ下に隠れただけです。
  実践について考える時はいつもこのことを忘れないようにしてください。実践が「見えなくなった」と思うと、結果が出ることを期待して学習を始めます。しかし法についてたくさん学んだかどうかは重要なことではなく、それだけで理解を得ることは決して無いでしょう。なぜなら真理に従うということを知らないからです。法の真の性質を理解すれば自ずとしがみ付いている物を手放すようになります。これが放棄です。執着(upādāna:取)を取り除くことです。二度と対象にしがみつかないことです。あるいはまだしがみついているとしてもそれがどんどん少なくなります。学習と実践という二つの方法の違いはこのようなものです。
  学習について語る時、次のように理解することができます。目は学習の対象である、耳は学習の対象である――すべては学習の対象であると。形態がこのようなもの、あのようなものと知ることはできるでしょう。しかし形態に執着し、それから逃れる術を知りません。私たちは音を識別することができます。しかし今度は識別した音に執着するのです。形態、音、臭い、味、身体の感触、心に起こる印象はすべて生命を捕獲する罠です。
  これらの事柄を究明することが法を実践する方法です。なんらかの感覚が生じたら理解をそれにむけて本質を見極めます。理論について周知していれば、すぐそちらに注意を向けて、これこれの物がこのように生じてあのようになった、などと即座に分かります。しかし、このように理論を学んだことがない場合は、自然の状態にある心とともに実践します。この自然な心が私達の法です。
  智慧があれば自分の自然な心を検証し、学びの主題とすることができます。まったくそれは同じもので、自然の心は理論なのです。ブッダはどのようなものであれ思考や感覚が生じたら、それを究明するようにと説かれました。自然な心の真実相を理論として使います。この真実を拠り所とするのです。
 

       

 今日の一言:選

(1)深い悲しみに襲われてしまうことがあるのが人生だ。
  「悲しみ」とサティが入らなければ、泣いてよいのだ。
  存分に泣くだけ泣き、心底から悲しみに浸らないと、わだかまり、抑圧され、引きずってしまう。
  一時停止のサティでは根本解決にならない。
  見るべきものを視るためのサティ・・・。

(2)最悪の事態に「不善業の返済ができてよかった」と祝う向きもあれば、超ラッキーな出来事に「ああ、徳のポイントが減ってしまった」と感じる人もいる。
  法としての事象はただそれだけのことであって、 福なのか禍いなのかを決めるのは人の心である。
  誰でも、今、その場所で、幸せになれるよ。

(3)サティの瞑想も慈悲の瞑想も、「瞑想が進む」とは、基本がいかに血肉化し深化していくかである。
  「理解」から「体得」へ・・・。

(4)もう、これで終わった・・と卒業したつもりでいたのに、土壇場になると、まだ捨てられていなかったことに愕然とするものだ。
  人の心は多層構造である。
  薄皮を何度も剥ぐように、知的に理解し、人生の現場で検証し、瞑想の中で垣間見、渇愛の根が引き抜かれる瞬間に近づいていく・・・。


       

          特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (11)
  本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌「2021年6月号」より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは当該号をご覧ください。なお、この先の解説は現在中断を余儀なくされており、今後の再開が待たれます。
         

アビダンマの解説と手引き PART 11

17節 ニヤターニヤタベーダ:
  ニヤタ(組合わせの相手となるチッタには必ず生じる)チェータスィカとアニヤタ(組合わせの対象となるチッタであっても生じない場合がある)チェータスィカ

  イッサー マッチェーラ クックッチャ ヴィラティー カルナーダヨー   
  ナーナー カダーチ マーノー チャ ティーナミッダン タター サハ
  ヤターブッターヌサーレーナ セーサー ニヤタヨーギノー
  サンガハン チャ パヴァッカーミ テーサン ダーニ ヤターラハン

  イッサー(嫉妬)、マッチャリヤ(強欲、物惜しみ)、クックッチャ(後悔)、3種類のヴィラティ(節制)、カルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)、ムディター(他の生命の幸せに対する喜び)、マーナ(自惚れ・傲慢)は個別に生じます。また状況に応じて生じなかったり生じたりします。ティーナ(怠惰)とミッダ(無気力)も同じですが、この二つは組になって生じます。

  上で述べた11種類以外のチェータスィカ(52-11=41)は、ニヤタ(組み合わせの相手となるチッタには必ず生じる)チェータスィカと呼ばれます。それではこれからそれらの組み合わせについて説明します。

17節へのガイド
  52種類のチェータスィカの中で11種類は、アニヤタヨーギー(組み合わせの相手となるチッタであっても生じない場合がある)チェータスィカと呼ばれます。そのチェータスィカが組みとなる可能性のあるチッタであっても必ずしも生じるわけではないからです。残りの41種類はニヤタヨーギー(組となるチッタには必ず生じる)と呼ばれます。なぜなら、組み合わせの相手となるチッタには例外なく必ず生じるからです。
  これに続くセクションでアーチャリヤ・アヌルッダ尊者は、121種類あるチッタを、付随するチェータスィカの観点から分析します、この分析方法はサンガハナヤ(結びつきに基づく分析方法)と呼ばれます。
  チェータスィカサンガハナヤ(チェータスィカの結びつき):33通り

18節 導入の偈文
  チャッティンサーヌッタレー ダンマー パンチャティンサ マハッガテー 
  アッタティンサー ピ ラッバンティ カーマーヴァチャラソーバーネー
  サッタヴィーサティヤプンニャンヒ ドゥヴァーダサーへートゥケー ティ チャ
  ヤターサンバヴャヨーゲーナ パンチャダー タッタ サンガホー

  31種類はロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタに生じます。35種類はルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタないしアルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象とした禅定に関連する意識の領域の)チッタに生じます。38種類はカーマーヴァチャラソーバナ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、道徳的に美しい)チッタに生じます。

  27種類はアクサラ(不善業を作る)チッタに生じます。12種類はアヘートゥカ(チッタを安定させる根を持たない)チッタに生じます。このようにどのような組み合わせで生じるかによって5つに分類されます。
  ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタ:5通り

19節 分析
  カタン?
(i)ロークッタレース ターヴァ アッタス パタマッジャーニカチッテース 

  アンニャサマーナー テーラサ チェータスィカー アッパマンニャーヴァッジター

  テーヴィーサティ ソーバナチェータスィカー チャー ティ チャッティンサ 

  ダンマー サンガハン ガッチャンティ

(ii)タター ドゥティヤッジャーニカチッテース ヴィタッカヴァッジャー

(iii)タティヤッジャーニカチッテース ヴィタッカ ヴィチャーラヴァッジャー

(iv)チャトゥッチャッジャーニカチッテース ヴィタッカ ヴィチャーラ 

ピーティヴァッジャー

(v) パンチャマッジャーニカチッテース ピ ウペッカーサハーガター テー エーヴァ サンガヤハンティー ティ サッバター ピ アッタス ロークッタラチッテース 

パンチャカッジャーナヴァセーナ パンチャダー ヴァ サンガホー ホーティー ティ

  どのように結びつくのでしょうか

(i)まず、8種類のロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)パタマッジャーナ(禅定の第一段階の)チッタについては、36種類のチェータスィカと結びつきます。すなわち、アンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)チェータスィカが13種類、アッパマンニャー(対象に制限のない)チェータスィカが2種類(カルナーとムディター)を除いたソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカが23種類です(13+23=36)。

(ii) 同様に、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)ドゥティヤッジャーナ(禅定の第二段階の)チッタについては、(i)36種類のチェータスィカからヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ)を除いた35種類と結びつきます。

(iii) ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)タティヤッジャーナ(禅定の第三段階の)チッタについては、(i)36種類のチェータスィカからヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ)とヴィチャーラ(対象に向かった注意を持続させるチェータスィカ)を除いた34種類と結びつきます。

(iv) ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)チャトゥッチャッジャーナ(禅定の第四段階の)チッタについては、(i)36種類のチェータスィカからヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ)、ヴィチャーラ(対象に向かった注意を持続させるチェータスィカ)とピーティ(喜び)を除いた33種類と結びつきます。

(v) ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)パンチャマッジャーナ(禅定の第五段階の)チッタについては、(iv)33種類のチェータスィカのうちソーマナッサ(精神的な楽しみ)がウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)に入れ替わり、合計33種類と結びつきます。

  このように、8種類のロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)は五つの禅定の段階に応じて、5
通りの結びつきがあります。


19節へのガイド
  ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)パタマッジャーナ(禅定の第一段階の)チッタ:ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における禅定)については第一章、第3132節を参照してください。
  アッパマンニャー(対象に制限のない)2種類を除いて:アッパマンニャー(対象に制限のない)に属するカルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)とムディター(他の生命の幸せに対する喜び)はロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタには見られません。なぜなら、カルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)とムディター(他の生命の幸せに対する喜び)は常に生命という概念を認識対象にしています。一方、マッガ(道の)チッタ、パラ(果の)チッタはニッバーナ(涅槃)を認識対象とするからです21。(ii)(iv)にみられる除外項目は、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における禅定)の禅定のレベルに応じて、粗大な禅定の要素が段階的に取り除かれるためであることを理解してください。

20節 まとめ
  チャッティンサ パンチャティンサー チャ チャトゥッティンサ ヤターカマン
  テーッティンサ ドゥヴァヤン イッチェーヴァン パンチャダーヌッタレー ティター


  ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の)チッタとチェータスィカとの結びつきは5通りで、それぞれ36種類、35種類、34種類、33種類、33種類となります。
  マハッガタ(禅定に関する意識の領域における)チッタ:5通り

21節 分析
マハッガテース パナ:
(i)ティース パタマッジャーニカチッテース ターヴァ
  アンニャサマーナー テーラサ チェータスィカー ヴィラティッタヤバッジター 
  ドゥヴァーヴィーサティ ソーバナチェータスィカー チャー ティ パンチャティンサ 
  ダンマー サンガハン ガッチャンティ カルナームディター パネーッタ 
  パッチェーカン エーヴァ ヨージェータッバー

(ii)タター ドゥティヤッジャーニカチッテース ヴィタッカヴァッジャー

(iii)タティヤッジャーニカチッテース ヴィタッカ ヴィチャーラヴァッジャー

(iv)チャトゥッチャッジャーニカチッテース ヴィタッカ ヴィチャーラ 
  ピーティヴァッジャー

(v) パンチャマッジャーニカチッテース パナ パンナラサス アッパマンニャーヨー
  ナ ラッバンティー ティ 
  サッバター ピ サッタヴィーサティ マハッガタチッテース 
  パンチャカッジャーナヴァセーナ パンチャダー ヴァ サンガホー ホーティー ティ

(i) マハッガタ(禅定に関する意識の領域における)チッタ(=ルーパーヴァチャラチッタ+アルーパーヴァチャラチッタ)の場合、まず3種類あるパタマッジャーナ(禅定の第一段階の)チッタに結びつくチェータスィカは35種類です。その内訳は、アンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)チェータスィカが13種類、3種類のヴィラティ(節制)を除いたソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカが22種類です(13+22=35)。しかし、ここではカルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)とムディター(他の生命の幸せに対する喜び)は別個に結びつきます。

(ii) 同様に、ドゥティヤッジャーナ(禅定の第二段階)のチッタについては、(i)35種類のチェータスィカからヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ)を除いた34種類と結びつきます。

(iii)タティヤッジャーナ(禅定の第三段階の)チッタについては、(i)35種類のチェータスィカからヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ)とヴィチャーラ(対象に向かった注意を持続させるチェータスィカ)を除いた33種類と結びつきます。

(iv)チャトゥッチャッジャーナ(禅定の第四段階の)チッタについては、(i)35種類のチェータスィカからヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ)、ヴィチャーラ(対象に向かった注意を持続させるチェータスィカ)とピーティ(喜び)を除いた32種類と結びつきます。

(v)パンチャマッジャーナ(禅定の第五段階の)チッタについては、(iv)32種類のチェータスィカのうちアッパマンニャー(対象に制限のない)チェータスィカ(=カルナーとムディター)が生じないので30種類となります。

  このように、27種類のマハッガタ(禅定に関する意識の領域における)チッタ(=ルーパーヴァチャラチッタ+アルーパーヴァチャラチッタ)は五つの禅定の段階に応じて、五通りの結びつきがあります。

21節へのガイド
  3種類あるパタマッジャーナ(禅定の第一段階の)チッタ:クサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として生じる)、キリヤ(機能だけの)の3種類です。
  アンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)チェータスィカ:ヴィラティ(節制)はマハッガタ(禅定に関する意識の領域における)チッタ(=ルーパーヴァチャラチッタ+アルーパーヴァチャラチッタ)には生じません。なぜなら、ジャーナ(禅定)に没入すると不善な行為から離れることになりますがそれは意図的ではないからです。
  カルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)とムディター(他の生命の幸せに対する喜び)は別個に結びつきます:カルナーは苦しんでいる生命を対象にし、ムディターは成功をおさめ幸せになった生命を対象にします。カルナーは憐れみという形で、そしてムディターは喜びという形で生じます。このように、この二つのチェータスィカは対象と生じ方が正反対です。したがって同じチッタに同時に生じることはできません。どちらかが生じるか、どちらも生じないかです。

22節 まとめ
  パンチャッティンサ チャトゥッティンサ テーッティンサ チャ ヤターッカマン
  バッティンサ チェーヴァ ティンセーティ パンチャダー ヴァ マハッガテー

  マハッガタ(禅定に関する意識の領域における)チッタとチェータスィカとの結びつきは5通りで、それぞれ35種類、34種類、33種類、32種類、30種類となります。



   読んでみました
平塚柾緒編 太平洋戦争研究会著
『証言 我ラ斯ク戦ヘリ 兵士たちの戦争秘史』(ビジネス社 2021年)ほか(後)
  第5章 見捨てられた戦場
  玉砕の島ペリリユー島で、米軍が占領してから2年半、敗戦も知らず洞窟に潜んで奇跡的に生き抜いた34人、帰国後「三十四(みとし)会」という戦友会を作ってつきあいを続けたという。
  軍歌「比島決戦の歌」(1944)の歌詞にある「いざ来いニミッツ マッカーサー」、そのニミッツ元帥は著書『ニミッツの太平洋海戦史』(実松譲/冨永謙吾・共訳、恒文社刊)こう書いているそうだ。
  「ペリリユー攻撃は、米国の歴史における他のどんな上陸戦にもみられない、最高の損害比率(約40%)を出した。すでに制空・制海権をとっていた米軍が、死傷者あわせて1万人を数える犠牲者を出したことは、今もって疑問である」と。
  工兵隊の一等兵だった波田野八百作さんは「日本が負けるなんて、考えてもみなかったですよ」。同じ工兵隊の上等兵だった斎藤平之助さんは「鍾乳洞に潜んでどのくらい経ってからかなあ、アメリカ兵の数が少なくなったもんで、野郎ら、状況が悪くなったんで移動しやがったな、と思っていた」。
  海軍上等水兵だった土田喜代一さんも「投降して捕虜になるなんて、誰も思わんです。友軍の機動部隊がいまに来る、それを待って敵をたたきつぶそう、ちゅうてですなあ」。
  陸軍上等兵だった滝沢喜一さんも日本は必ず勝つと信じて疑わず、「ペリリユーは玉砕したが、やがて、日本軍が奪還に来る。そのときわれわれは島の地理に明るいから、後方撹乱でもやって一旗上げるつもりだったな」と口を揃える。
  陸軍上等兵だった程田弘さんは言う。
  「海軍にいられなくなって、大隊本部のある防弾兵舎に飯島さんと引き揚げまして、水を飲ませてくれといったら、ないという。なにか食うものはないかといったら、ないという。本部の連中は敵の顔も見てないくせに、第一線から下がった者にこんな仕打ちをする。〈よし、いまにみていろ〉と思って、富山の陣地にわれわれが行きかけた直後に敵の戦車が来て、防弾兵舎がバーンとやられた。こっちはもう、敵も味方もなくなってきとるから〈ざまあみろ〉ってわけです」
  ペリリユー島には珊瑚岩で出来た鍾乳洞がいたるところにある。そこを火炎放射器とダイナマイトで狙われ、コンクリートに塞がれ、3カ月もの間閉じ込められた。その一人、陸軍兵長の片岡一郎さん。
  「中には六人いましたよ。海軍壕だから食糧はあったし、水も小人数なので、そのほうの不自由はなかったです。しかし、閉じこめられて3カ月のあいだに発狂して自殺した人もいるし、ようやく脱出したときは足がふらついて逃げきれずに射殺された人もいるし・・・」
  3カ月後に思いもかけず娑婆に出て、生存者たちと合流できたのは、片岡さんと鷺谷平吉さん(当時一等兵)の二人だけだったという。
  「日本が不利だということは、わかっていた。米軍のゴミ拾場で拾う『ライフ』のAP電なんかが、東京から発信になっとるでしょ。マッカーサーが東京にいる写真や、皇族の写真もある。ですけどね、デマ宣伝だと思っていた。日本が負けるなんて・・・」(少尉だった山口永さん)。
  昭和22年に入ってから、日本海軍の少将と名乗る人物の投降勧告のスピーカーの声が、壕の中に伝わってきはじめていた。
  土田喜代一(海軍上等兵)さん。
  「帰って24年間になるが、あそこの2年半の生活も同じ重みがあるです。この間、ペリリユー島に遺骨収集に行ったとき思うたですが、いろいろな思い出の残るペリリユー島に、自分の骨を埋めてもらいたかですね。この前は一番先に出たけんど、今度は一番先にあの島へ戻りたいと思うとるです」
  この章には、フィリピンでもマニラ虐殺、インファンタ事件の軍事法廷の件が描かれている。

  第5章の全項目:「死よりも残酷だったペリリユー島の白兵戦」「玉砕のペリリユー島に生き残った34人」「ペリリユー島の34人が生きた極限の3年間」「投降か死か! 米軍に包囲された34人」「死刑を宣告されたインファンタの14人」「私は見た! マニラ虐殺の惨劇」

  第6章 戦いに敗れて・・・・・・
  沖縄戦の悲惨さは目を背けたくなる。ここで取りあげるのはほんの一部でしかない。
  沖縄戦初期に軍馬手であった知念栄章さんが見た米軍上陸直前の出来事。
  「首里さんという南方方面に長く行っていて、帰ってきたばかりの人がいました。それだけでスパイと決めつけられ、殺されたんです。柱にくくりつけて、もんぺ姿の雑役婦たち十数人に銃剣でメッタ突きにさせたんですよ。女の人たちは顔をしかめ、横を向いて泣きながら突いたというんです。これが友軍だったんです」
  壕の中には避難民も兵隊も一緒に潜むこともあり、赤ん坊の泣き声が米兵に聞こえたらいけないというので兵隊が赤ん坊を銃剣で刺した話、また、母親が自発的に赤ん坊を抱いて壕を出て一人だけで帰ったのを見た話もある。
  沖縄の方言を使うとスパイと見なされた。
  「怖い、怖いばかり。友軍の兵隊さんは、本当に怖かった。スパイが本当にいたかどうか知らないけど、なんでわざわざ自分の身内がいる壕を撃たせるかしら?」(宮城トヨさん)。
  「ウチたち、国頭(北部)へ逃げたものは助かった。けど、栄養矢調で、みんなマラリアに罹って、子ども一人をおぶって一人を抱いて、あとは捨てて逃げた人もいる。そのうち子どもが重荷で動かれず、一人を捨て、もう一人を捨て・・・」
  しかし、「なにも兵隊さんが怖かったから、捕虜にならないように、ならないように逃げたのと違います。やっぱり、最後まで日本人らしく立派に行動しようと思っていましたからね。ウチの親戚の人なんか夫婦で手榴弾で自決したし、手榴弾がなくて首くくったり、岩で頭を打って死んだりした人も知ってます。誰から命令されたのでもない。自分でね、自決したんです」(比嘉賀ハツ子さん)。
  米軍は捕虜にした住民のなかから何人かを選んで投降勧告に行かせた。しかし「渡嘉敷島では、伊江島の住民6人(女5人、男1人)が、降伏勧告状を持って陣地に向かわせられ、日本軍に斬殺された」が、「このとき、自分たちの墓穴を掘らされた女3人は、首をはねる前に歌を唄わせてくれといい『海ゆかば』を唄いながら殺されて」いった。また「伊江島では、女性が五人斬り込み隊を志願し、丸坊主になり戦闘帽をかぶり、爆雷とマッチと赤十字カバンを持って突進していった」という。

  第6章の全項目:「住民を虐殺した沖縄の日本軍」「竹ヤリで戦わされた沖縄県民の惨苦」「斬殺の沖縄県民にスパイはいたか」「ビールで末期の水を取った牛島中将」「屍と避難民で埋まる敗走のソ満国境」「国共内戦で激闘を強いられた元日本兵」「英軍捕虜が暴く収容所の3年間」「『占領国』の独立戦争に参加した敗残兵」

<追加として>
(1)蒋介石と毛沢東
  日中が国交回復するずっと以前、何によったか覚えていないが、蒋介石が日本に対する賠償請求権を放棄しており、中国共産党も今のところ請求していないという文章を読んだことがある。当時は、「そうなんだ」と思っただけあったが、本書を読んでその背景が理解された。
  本書第6章の「国共内戦で激闘を強いられた元日本兵」には次のようにある。
  「昭和208月無条件降伏した日本軍は、いっさいの武装を解いて捕虜にならねばならなかったのだが、中国大陸では奇妙なことに中国共産党軍(以下中共軍)との戦闘状態だけは続行する方針をとったのである。これはアメリカの意志であった。蒋介石が戦後の中国の指導者になることを望んだアメリカは、毛沢東の中国共産党が支配勢力となることを妨げるために、みずから約10万人の部隊を送りこむと同時に、日本軍が国民党軍に協力するよう要求したのである」
  これについては共産党もまた同様であった。
  以下、遠藤誉著『習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』(ビジネス社2021年)による。
  1955年のこと、毛沢東は日本軍の元中将だった遠藤三郎ら訪中団に、「『日本の軍閥が中国に進攻してきたことに感謝する。さもなかったら今われわれはまだ北京に到達していませんよ』と言った。またその後訪中した多くの元日本軍や左翼系団体に対しても毛沢東は、「『皇軍に感謝する』ばかりで、謝罪にはうんざりしているニュアンスの言葉をくり返して」いたと言う。
  「毛沢東は抗日戦争勝利記念日を祝賀したことがなく、それを祝うことは国民党に『おめでとう』と言っているようで不愉快だという意思を死ぬまで貫いている。いわゆる『南京大虐殺』などに触れたことは一度もない」
  「大日本帝国」は「中華民国」と戦っていたわけで、毛沢東側からは、日本軍が蒋介石率いる国民党軍を倒してくれることを喜んでいたことになる。日本が降伏したとき毛沢東は「日本軍がもうあと1年くらい頑張ってくれていれば、わが軍はもっと兵力を高めることができたのに」と残念がったという。
  遡って、有名な「西安事件」によって第2次国共合作がなった後、毛沢東は共産党の戦力を「70%はわが党の発展のために使い、20%は(国民党との)妥協のために使い、残りの10%だけを抗日戦争に使え」という戦略を秘かに命令していたという。
  敗戦の後、食糧がすべて絶たれていた日本軍捕虜に白米や野菜、鶏肉などを大量に渡して懐柔した。こうして日本の元関東軍第二航空軍団第四練成大隊に所属する20人のパイロット、24人の機械技術士、72人の戦闘機製造技術員など200人ほどが中心となって、194631日に「東北民主聯軍航空学校」が誕生したのである。これがのちに誕生した中華人民共和国最初の航空学校となり現在の中国人民解放軍空軍の基礎の基礎を作っている。

(2)「『ヒロポン』と『特攻』」という冊子
  2022113日の毎日新聞夕刊に次のような記事があった。ここでは当該記事のリードだけを紹介する。(本文は有料記事なので不掲載)
  「チョコレートを一口食べたら、カッと体が熱くなった」。太平洋戦争中の1945年、梅田和子さん(91)=大阪府高槻市=は通っていた高等女学校の勤労奉仕で軍事物資のチョコを包装した。「特攻隊が最後に食べるもの。何か入っているみたい」と上級生に聞かされた。この「チョコレートの記憶」を元教員の相可(おおか)文代さん(71)=同府茨木市=がたどり、冊子にまとめた。美化されること、語られぬこと。太平洋戦争開戦から80年、何をどう伝えるのか――。(以上リード記事)
  2021年に発行された冊子の題名は「『ヒロポン』と『特攻』 女学生が『覚醒剤入りチョコレート』 -梅田和子さんの戦争体験からの考察-」。
  著者の相可文代さんは元大阪府中学校社会科教員。冊子は大変多くの文献・資料を参考にしており、その意味でも考察の幅は広く非常に価値のあるものと思う。
  著者は「はじめに」で、戦争を止めるために必要なことは何かとして、次のように言う。
  「ひとつは、戦争の実相をリアルに伝えることである。美化したくても、とうていできないくらいの悲惨な加害と被害の絡み合った現実を、伝えなければならない。(略)しかし、体験の継承だけでは不十分だと考える。そのような悲惨な戦争を、なぜ、止められなかったのか。なぜ、多くの人々が積極的にしろ、消極的にしろ、受け入れ・加担していったのか。当時の政治や経済、社会の状況にまで踏み込んで、原因を突き止めなければ、戦争反対の意志は情緒のレベルでとどまってしまう。(略)戦争という歴史的出来事の因果関係を掘り下げる歴史認識と統一されてこそ、戦争体験の継承も生きた力となる」
  この冊子はまた、『「名将」「愚将」大逆転の太平洋戦争史』(新井喜美夫著 講談社2005年)という本について触れていた。そこで、図書館から借り出して読んでみたところ、特攻隊の責任者と言われる大西滝次郎が敗戦の翌未明に自殺を図った際のことが描かれていた。そしてなんとその時、当時海軍航空本部の嘱託だった児玉誉士夫に、革袋に入ったヒロポンを金に換えて日本の再建のための資金にするように託したという。
  著者の新井氏は、かつて某製菓会社の重役から、「そこではヒロポンが大量に供給され、回りをチョコレートでくるみ、菊の紋章を刻印したものを、定期的に軍に納めていた」と聞いたことがあるそうだ。
  さらに、「ここに出てくる『某製菓会社』が、どの会社を指すのかは不明としながら、「製造していた当の会社の重役が証言しているのだから、『ヒロポン入りチョコレート』が作られ、特攻兵に提供されたことは明白だろう」と述べる。「しかし、『ヒロポン入りチョコレート』は特攻兵にだけ提供されていたのではない。『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実』(吉田裕著 中公新書 2017年)には、薬剤将校だった宗像小一郎の戦後の証言が出てくる」と述べている。
  さらに、「ヒロポン」入りの「元気酒」とか「ヒロポン」錠剤、「ヒロポン」注射などが、文献をもとに述べられているが、ただ、使用証言が少ないことも記している。著者はそれについて「やはり関係者が生きている間は、社会的に明らかにすることへのためらいがあったのではないかと思う」としている。
  「ヒロポン」とは関係ないが、最近読んだ本の中に次のようなものがあったので紹介しておこうと思う。「めぐり来る八月」という津村節子さん(作家)の文章である。女学校の4年生だった彼女は昭和19815日から下丸子の北辰電機へ動員された。そこでは、
  「各班がごく一部分をやっているので、一体何を造っているのか誰にもわからなかったが、部屋部屋の入り口には赤い文字で『軍機保護法により許可なく立ち入りすることを禁ず』と書いた札が出ていた。海軍監督室には海軍大佐が来ていたし、若い海軍技手が職場を見廻りに来ていたから、海軍の要請で重要な仕事をしていることは想像された。(略)
  友達の班では、自分たちの造っている物は何か教えて欲しい、それがわかれば張り合いが出て、もっと頑張れる、とある日みなで班長に迫った。両親にも秘密を守る約束をして、とうとう特殊潜航艇用の羅針儀を造っていることを聞き出したのだそうだ。自分たちが作っている羅針儀を装備した人間魚雷で、若者たちが死んでゆくことを知り、彼女らは激しい衝撃を受けたという。
  無論彼女らは親にも秘密を守り、私がそれを聞いたのも、戦後だいぶたってからである」。(『少女たちの戦争』中央公論新社 2021年、底本は『合わせ鏡』朝日新聞社、1999年)より。

(3)石橋湛山著『石橋湛山評論集』(岩波文庫 1984年)から
  韓国でたいへんお世話になった方が私にこんなことを言われたことがある。それは、韓国(当時は大韓帝国)が日本の支配下になるに至った当時の(韓国の)為政者たちの行動を知れば知るほど、なんと愚かであったかと言うことだった。
  これは、日本を滅亡の淵に追いやった人々(為政者、ジャーナリズムも含めてすべての関係者)のことについても同じだろう。そのような文献も数多くある。例えば、最近読んだ『昭和陸軍七つの転換点』(川田稔著 祥伝社 2021)には、陸軍に限ってだが、満州事変から始まり日本を戦争に導いていった指導者層の思惑、行動が著者の視点から縷々述べられている。一読して思うことは教育の影響の大きさであり、立場に支配された人間の頑迷さだ。それはもちろん、本稿で取りあげた戦場という現場の思いや実情とはかけ離れたもので、いかに立場の違いとは言え愕然とした。
  しかし、なかにはこのような先人もいたことを忘れてはいけないと思う。後に首相になった石橋湛山である。病気のためにやむなく短い期間で首相を辞してしまったが、あえて「if」を言えば、もし長く首相を務めていたならまた今日の社会の形も違っていただろうと思われる。石橋湛山に関する書籍は実に数多く、昨年も『石橋湛山の65日』(保阪正康著、東洋経済新報社2021年)が出版されている。
  ここでは、『石橋湛山評論集』から紹介して本稿の締めとしたい。かつてこのようなことを主張していた人もいたのである。
  「一切を棄つるの覚悟」としての一部である(大正10723日号の『東洋経済新報』の社説)。
  「我が国の総ての禍根は、しばしば述ぶるが如く、小欲に囚れていることだ、志の小さいことだ。吾輩は今の世界において独り日本に、欲なかれとは注文せぬ。人汝の右の頬を打たば、また他の頬をも廻して、これに向けよとはいわぬ。否、古来の皮相なる観察者によって、無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ、大欲を満すがために、小欲を棄てよと教えたのだ。さればこそ仏者の『空』は『無』にあらず、無量の性功徳を円満具足するの相を指すなりといわるるのだ。しかるに我が国民には、その大欲がない。朝鮮、や、台湾、支那、満州、またはシベリヤ、樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。従って積極的に、世界大に、策動するの余裕がない。卑近の例を以ていえば王より飛車を可愛がるヘボ将棋だ。結果は、せっかく逃げ廻った飛車も取らるれば、王も雪隠詰めに会う。いわゆる太平洋および極東会議は、まさにこの状況に我が国の落ちんとする形勢を現わしたものである」
  「・・・何もかも棄てて掛れば、奪われる物はないということに気づかぬのだ。
  しかり、何もかも棄てて掛るのだ。これが一番の、而して唯一の道である。(略)
  例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか、また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つを得ぬに至るからである。その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に、日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ立つだろう。これ実に我が国の位地を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の位地に置くものではないか。我が国にして、一たびこの覚悟を以て会議に臨まば、思うに英米は、まあ少し待ってくれと、我が国に懇願するであろう。ここに即ち「身を棄ててこそ」の面白味がある。遅しといえども、今にしてこの覚悟をすれば、我が国は救わるる。しかも、こがその唯一の道である。しかしながらこの唯一の道は、同時に、我が国際的位地をば、従来の守勢から一転して攻勢に出でしむるの道である」

  以上本稿では何冊か紹介してきたが、いずれも「ヒロポン」の冊子を除いては、公立図書館で借りられる。
  こうして読んできて、現実に当事者になった時には、判断にあたっては客観的な見方がいかに大切か、そしてそれがなんと難しいことかが実感された。しかしそれでもなお、「こころ」の奥をしっかり捉まえる勇気が貴重であることを再認識させられた。(雅)
 このページの先頭へ
 『月刊サティ!』トップページへ
 ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)トップページへ