2022年3月号 | Monthly sati! March 2022 |
今月の内容 |
巻頭ダンマトーク:『懺悔物語 (2) -悟れないのか…- 』 | |
ダンマ写真 |
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Web会だより ー私の瞑想体験-:『怒りの根源の発見』(3) | |
ダンマの言葉:『悟りの道への出発』(3) | |
今日のひと言:選 | |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (10) | |
読んでみました:『証言 我ラ斯ク戦ヘリ 兵士たちの戦争秘史』(ビジネス社 2021年) ほか |
【お知らせ】
「Web会だより」は1月号より「Web会だより -私の瞑想体験-」といたしました。なお、検索の便宜のため、バックナンバーについては変更を加えておりません。
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
巻頭ダンマトーク 『懺悔物語 (2) -悟れないのか…-』 |
★タイの僧院で修行していたとき、どうやっても悟れないと心の折れかかった比丘が、惰性で修行を続けていた。黄昏時に長時間の座禅から立ち上がり、回廊の手すりに両肘を突き、虚ろな眼で夕陽の残照を眺めながらペットボトルの水を飲んでいた。 『今日も虚しく暮れていくのか・・・』という内語が聞こえてくるかのような、たまらなく寂しい悲しい波動が全身から漂っていた。夜の闇が迫り黒ずんだ夕焼けを背景にシルエットになって浮かび上がっている姿を何度も目撃したのは、この比丘のすぐ隣に私のクーティがあったからだ。 外国人の私が寺に入り必死に修行している姿を見て刺激され、断念していた修行を再開したのだと私に教えてくれた修行者は、「He is a hopeless monk.(彼は道を見失っている)」と評していた。 今世で悟れる見込みはまったくないが、何度生まれ変わっても必ず解脱する!と明るく、前向きに眼を輝かせている比丘も多いのだが、負け戦と知りながら投げやりに出陣する将のように打ちひしがれた比丘にも何度も会った。 牛歩のごとく漸進的ではあっても、日々修行が進んでいく手応えがあれば、仏道を歩み抜く覚悟が揺らぐことはないだろう。モチベーションが維持されるのは、通常は脳の報酬系が刺激されるからだ。ワクワクする結果や褒美があれば頑張れるのだ。 報酬系の問題点は、快情報が得られなくなるとアホくさくなり止めてしまうことだろう。しかるに褒美なしで始めたお絵描きや瞑想修行は、ただそのことが好きだから続けるという展開になることが多い。 心が折れるのは、報酬系よりも、もっと積極的にネガティブな出来事が経験されたからではないか。妨害要因に打ちのめされるのは不善業の帰結であり、カルマの問題である。 *妨害要因 「カルマの悪い人は今世では悟れませんから・・」と修行を諦めていく人がどのくらいいるのだろう。必要十分な徳がなければ、解脱はおろか出家することも、10日間のリトリート(集中修行)に入ることすら難しい。衆善奉行を旨として、あらゆる善行を心がけて波羅蜜をたくわえ、円滑現象の流れに乗れる因を作るのも修行の一環である。 善業の力で修行態勢に入れても、修行の妨害要因である五蓋に襲われ悩まされて集中できないのは不善業の結果と心得なければならない。 五蓋の①「瞋恚」も、②「欲貪」も、③「掉挙&後悔」も、④「惛沈・睡眠」も、⑤「疑」も、原因や切っ掛けもなしにデタラメに発生してくるのではない。悪業が因となり、寺に入ってからも不祥事に巻き込まれてイラついたり、不満や後悔、落ち込み、痛み、眠気・・と次々と浮上し、想いが乱れ、サティが乱れるのである。 インストラクタ-として五蓋の対応策は数々用意してあるのだが、万策尽きて手の打ちようがなくなる時もある。掉挙(妄想多発)や痛みの場合もあるし、異様な惛沈・睡眠がどうしても消えないケースも多い。 スリランカ屈指の名僧ニャ-ニャナンダ長老の下で指導を受けるまでは、そうした最悪のケースにはお手上げだったのである。 何かの不善業だろうと推測はできても、さてどうしたらよいのかが分からないのだ。タイやミャンマ-では、ひたすらサティの修行に専念するように、という指導ばかりであった。だが死ぬほど頑張ろうとも、修行が頭打ちになってしまえば、いかんともしがたいのである。 *信仰と懺悔 スリランカに来て驚いたのは、懺悔が本格的な瞑想修行の一環であることを厳しく教えられたことである。 いつの世も煩悩のエネルギーを力いっぱい放ちながら生き、煩悩の心で死に、再生すると再びその煩悩を引き継いで輪廻を繰り返してきた私たちである。自覚しようがしまいが、不善業を作らなかった人はひとりもいないのだ。悪業の負のエネルギーを相殺しながら、修行を阻む要因を取り除いていかなければ修行の成功はおぼつかない、というのである。 カルマの世界を貫いているのはエネルギー不滅の法則などの物理法則である。過ちを犯し不善業を作ってしまったならば、正反対の善なるエネルギーを出力することによって正しく修正し、償うのが懺悔の修行である。 悪をしても神を信じれば、神が罪を赦してくれる。「神を知らずに犯したあなたの罪科は、唯一絶対の神の存在を知った今、全て消滅する」などと言われれば、感動し、嬉し涙にむせび泣きながら入信するかもしれない。 だが、体験に裏打ちされていない「根拠なき信仰」を維持するのは難しい。疑惑が生じれば、抑圧されていた罪業感が浮上して苦しむだろう。何よりも、それまでの悪業が縁に触れて現象化すれば様々なドゥッカ(苦)が襲来するだろうし、そうなれば神に赦され守られているという信仰が揺らぐのではないか・・・。 信仰は、常に疑惑との戦いである。科学的根拠で実証されたものを「信仰する」とは言わない。存在証明できない神を信じるか否かが問われるのだ。 「お母さんは女性だと信じている」「今日も夕方になれば陽が沈むのを信じるね」「手を放せばガラスのコップが床に落ちて割れるだろうと僕は信じています」などと言うだろうか。 私たちは、事実として確定しているものを信じ仰ぐことはしない。実証されず、不確定なものに対して、信じるか、信じないか、という信仰の問題が発生するのだ。かのマザーテレサですら、晩年、いくら呼べども沈黙し続ける神に対する疑念に悩み苦しみ抜いたことが赤裸々に告白されている。信仰に内在する根本的な問題だろう。 しかるにヴィパッサナー瞑想は、およそ信仰の世界とはかけ離れていて、科学の実証性との親和性が深い。理系の瞑想者が多い所以だろう。 存在証明できない不確かなものを信仰することには、限りなく妄想に近い際どさがある。「神は、存在しないが故に万能であり得る」とさえ考えられる。あらゆることが解釈の問題で片づけられるからだ。 この世の事象が生滅変化しているのは、神の意志によって差配されているからではなく、物理法則や業の法則に則った因果性に支配されていると見た方が理にかなっているだろう。 生命を傷つけたなら命を慈しみ、奪い取ったなら与え、傲慢に人を見下したなら謙虚に身を低め、敬うべき人を敬う心のエネルギーを放つ・・・。 不善業とは、過去に出力したネガティブなエネルギーが現象化することによって、苦受が経験されるのを待っている状態である。 何もしなくても、苦を受ける瞬間に因果がひとつ帰結するのだから、ひたすら苦しい人生に耐えていくのもよい。だが、積極的に不善業のエネルギーを抹消していくやり方もある。 どんな不善業に対しても、まず非を認め、反省して謝罪することから始めるのが懺悔である。殺し、盗み、欺き、裏切って、人に苦しみを与えた行為を潔く認めて謝るのだ。さらに、人に苦を与えた行為が不善業を作ったのだから、正反対の楽受や幸福を与えれば相殺されるだろうと考える。 愚かな人は、訳も分からずただ苦受を経験することによって無自覚に不善業を返済している。賢い人は、懺悔の修行によって、不善業のエネルギーを相殺する方向を目指すのだ。 訳も分からず苦受に耐える人は、無知ゆえに同じ過ちを繰り返すだろう。不善業の再生産がエンドレスで繰り返される所以である。 因果の理法を心得た人は、懺悔の修行によって苦の発生メカニズムに終止符が打てる可能性がある。懺悔修行は、明晰な構造的理解に支えられてなされるのが望ましい。 *心の解放 懺悔は不善業を根本的に解消していく最初の修行である。懺悔のカルマ的効果の事例は枚挙に暇がないが、その前に、なぜ懺悔が瞑想修行たり得るかを考察してみよう。 まず何よりも、懺悔をすれば心が安らぐという効用がある。 どんな人も、悪いことをして良心の呵責をまったく感じない、完全にゼロということはあり得ない。自覚に上ろうが上るまいが、たとえ1パーセントでも良心が痛み、自責の念が潜在意識に影響を及ぼしているはずである。人間とは、そういうものだ。 ライオンが殺生をしても、微塵も罪業感を覚えることはないだろう。ライオンにとって殺すことは生きることであり、それに対して否定的印象を形成するようにはそもそも設計されてはいない。しかるに人間は、殺しや盗みや嘘に対してネガティブな印象を持つように刷り込まれており、悪いことをすれば心が翳り、微弱であっても良心の呵責に苦しむのだ。 その証左が、心の抑圧である。悪いことをしたというネガティブな印象を自覚するのは苦しいので、自動的に抑圧して眼を背けようとするのだ。これは学んで身に着けたものではなく、誰の心も自動的にそうしてしまうものであり、万人に普遍的である。 かくして心の葛藤が多層的に複雑化していく。人の心は常に矛盾した命令が葛藤を起こすように設計されている。本能の脳が命令する貪瞋痴を、大脳の新皮質が制御するように命じてくる。「やりたい」と「やってはいけない」の永遠のバトルが繰り返されるのだ。 のみならず、利己的な煩悩反応を否定し抑圧する第二の葛藤が意識下で絶えず展開している。かくして人の心は落ち着かず、翳り、一点の曇りもない青空のように澄み切るのが難しくなる。最清浄の心を目指す瞑想者が戒を厳守しなければならない所以でもある。 生きていくことは汚れることであり、日々黒いものが心の底に沈殿していく。海底の泥を浚渫するように、懺悔の瞑想は人の心を浄らかにしていく。 女遊びの居直り論を展開しながら放蕩していた男が、老いさらばえてヨイヨイになった頃「妻には苦労の掛けどおしでした」などと言ったりするが、遊蕩していた時代でも、本心では妻に対する罪業感を抑圧していたはずである。 眼を背けるためには、自分を客観視して内省的に振り返ってはならない。その反対に、次々と新しい刺激を外界に求めて我を忘れ、自身の内奥の心を自覚しないようにするのだ。これが、悪事をはたらき、遊興に耽り、暴力と色と欲に溺れる無頼の徒の心中である。 ギンギンの強烈な原色の世界で生きている渡世人や煩悩マンは、些細な罪業感など屁とも思わず無視することに長けている。 だが、瞑想者はそうはいかない。心に刺さったわずかなトゲのようなものですら、瞑想の修行には多大な影響を及ぼしてしまうのだ。五蓋の遠因であり、サマーディの完成を阻げる妨害要因になってしまう。 心を完全に清浄にするというのは並大抵のことではない。生きていくだけで汚れていく心を守るには、諸悪莫作、衆善奉行、自ら心を浄め、総力戦で力を尽くさなければならない。どのようにか。懺悔の瞑想によってである。 懺悔が本気でなされるとき、心的状態は一変する。本当に非を認め詫びる気持ちになった者の心は、善心所で満たされ安らぐのである。修行が進み始めるのだ・・・。(以下次号) |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
『怒りの根源の発見』(3) K.M. |
(承前) |
(先生提供) |
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3.たゆまぬ努力 |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (10) |
本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌6月号より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは6月号をご覧ください。 アクサラ(不善業をもたらす)チェータスィカ:5通り |
平塚柾緒編 太平洋戦争研究会著 『証言 我ラ斯ク戦ヘリ 兵士たちの戦争秘史』(ビジネス社2021年)ほか (前) |
本書をこの欄に取りあげるのが適当かどうかやや躊躇するところがあったが、直接の戦争体験をほとんど聞けなくなりつつある現在、たとえそれが加害と被害との目を背けたくなるようなものであってもやはり知っておくべきと思い、あえて紹介することにした。とくに私たちは、仏教を学んでいるという面からも、「こころ」の奥にひそんでいるものを直視しなくてはならないと思う。ただ、私見ではあるが、本書を読み進むうちに、早くおしまい(敢えて言えば敗戦を迎えること)に進んで欲しいとの思いが浮かんできたのは事実である。 先の戦争に対してはさまざまな視点から、出版物だけに限っても数え切れないほどのものがある。しかし本書はその中でも、おそらくきわめて貴重なものではないかと思われる。なぜなら本書は、戦場から辛くも生還された元兵士をはじめ、戦場における住民の人々、捕虜、そして従軍看護婦ほかの女性たちの生の声を取りあげているからだ。 当時(昭和45年)これを執筆したグループには軍隊の経験者は一人もいなかったが、次のような約束事をして取材を開始したという。それは、 (1)取材相手は一般兵士を中心とする。 (2)執筆にあたっては、証言者は実名を基本とし、できるかぎり生の声を反映させる。 (3)特定の史観にとらわれず、事実を伝える。 というものであった。 そして、その証言者の体験が「たとえ『悪』であっても、それが事実なら書くべきである」と言う信念で取材を進めた結果、なによりも明らかとなったのは、「戦争とは醜く、おぞましく、卑劣で、格好の悪い」「人と人との殺し合い」という現実であった。 本書の基になったのは、『週刊アサヒ芸能』(徳間書店)の昭和46年の新年号から1年間、51回にわたって掲載された記事である。そのきっかけは、70年安保や学園紛争等の激動の時代に、その社会の中心にいた当時50歳前後の壮年層がなぜか沈黙気味で、その沈黙と戦場経験は何か関係があるのではないかとの漠然とした疑念からだったという。 では、なぜ兵士を中心にしたのか。それは、「将校など元指揮官クラスの人からは、なかなか本当の話は聞けないのではないかと思った」からだった。なぜならそれらの人々は職業軍人として「いわば国家公務員、官僚」であって、「決して自分や軍が不利になることを言わないよう訓練されて」おり、また「同期を中心とする横の連携は強固で」あることも知られていたからである。 「はじめに」の最後にはこうも断言している。 「昨今は太平洋戦争も含めた十五年戦争を、あたかも日本の“正義の戦争”だったかのように装おうとする人たちがいる。戦争を美化しようとする人たちもいる。戦争には正義も美もない。それは、本書に収めた証言記録をお読みいただければ、一目瞭然であると思う」 本書の内容は、これまで断片的に理解してきたものを遙かに超えるものだった。また量的にも紹介しきれるものではないため、やむなくごく一部だけを取りあげるにすぎない。ただ、各章の全ての項目(各章末に記した)も記したこと、また合わせて他の文献からも引用したく思ったので、やむなく2回に分けることにした。 本稿ではとくに悲惨な面を取りあげているように思われるかも知れないが、今も世界に絶えない戦いの生々しくも悲惨な実態を少しでも直視するためと了解してほしい。 なお今回に限らず、「雅」の署名で紹介した文献は、すべて公立の図書館での借りることが出来ること、つまり購入する必要は無いことを付記しておきたい。また、漢数字はローマ数字にあらためた。 第1章 日本軍「快進撃」の真実 |
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