月刊サティ!

2022年2月号  Monthly sati!  February  2022


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:『懺悔物語(1) -宿業の力-』
  ダンマ写真
  Web会だより ー私の瞑想体験-:『怒りの根源の発見』(2)
  ダンマの言葉:『悟りの道への出発』(2)
  今日のひと言:選
   特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (9)
  読んでみました:大治朋子著『歪んだ正義』(毎日新聞出版 2020)

                

【お知らせ】
 「Web会だより」は1月号より「Web会だより -私の瞑想体験-」といたしました。
なお、検索の便宜のため、バックナンバーについては変更を加えておりません。

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
  

     

              巻頭ダンマトーク

        『懺悔物語 (1)
 -宿業の力-』

 ★私の修行生活は懺悔の瞑想から始まった。懺悔は「ネガティブな過去からの解放」と定義することもでき、心の清浄道の中心的命題として何度も繰り返し言及してきた。
  20余年前に懺悔修行について何本もの原稿を書き、その掉尾を飾ったのがアングリマーラ尊者の評伝だった。加筆して本欄に3回連載したが、改めてその他の懺悔関連の原稿を再読してみると、捨てがたいものがあり、このまま埋もれて散佚させるのも忍びないと感じた。
  最終章を最初に提示してしまった形だが、この際に懺悔関連稿を加筆して「懺悔物語」としてまとめておこうと思った。

  さて、ヴィパッサナー瞑想を始めたからには、修行が進むことを期待しない人はいないだろう。これまでに数多くの人が瞑想合宿に入ったが、皆、真剣に修行に取り組んできた。
  しかしその成果は千差万別、短時日で素晴らしい瞑想体験を得る人もいれば、努力が実ることなく不発のまま下山する人もいる。全員が同じ条件でスタートし、同じ屋根の下で同じ食事を摂り、ダンマトークも面接も同じように受けているのだが、なぜ大きな差異が如実になるのだろうか・・・。
  当たり前のことだが、一定の成果を上げ成功を収めるためには、それに必要な条件をすべてクリアーしなければならない。

  「ひとびとは因縁があって善い領域(天界)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(地獄など)におもむくのである。ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。
  このように、このことは因縁に基づいているのである」(感興のことば26-9)

  この世のいかなる事象もデタラメに生じ滅しているのではない。必ず原因となるエネルギーが一瞬の事象を形成しながら因果を帰結させているのである。仏教では、すべての出来事を生起させ、展開し、消滅させていく根源的な力を「サンカーラ()」と呼んでおり、サンカーラ()は業(カルマ)と同義と理解される。
  したがって瞑想の修行が成功するのも破綻するのも、その原因となるエネルギーが過去に放たれたからであり、いずれも業の結果であるということになる。
  もしブッダと同じ境地に達したいのなら、ブッダになるための必要条件である十の波羅蜜を完全に具足しなければならない。
  阿羅漢や預流道の状態が達成されるのも、当然それに相応した徳のエネルギーが原因となっている。

  瞑想は才能である。
  才能という意味は、過去世から今日まで瞑想のために努力し訓練してきたエネルギーの総和という意味である。
  怠けた者もいれば、よく精進した者もいるし、遅まきながらやっと今世でスタートした者もいるかもしれない。
  人は絶対的な公平で生まれてきているから、天賦の才能は歴然である。過去に自分が放ったエネルギーの結果が、公平に現前してくる法則が働いている。公平だからこそ環境も力量も不平等になり、千差万別の落差が生じてくる。なんと悲しく、そしてありがたいことだろう。
  しかし才能は波羅蜜の一部であり、才能だけで悟ることはできない。
  修行が進むための内的・外的なあらゆる条件がすべて揃わなければ解脱は完成しないのだ。健康・時間・家族の協力・よき師よき仲間・修行環境・体調・悟りの覚支のバランス…など、無量・無数の全条件が「その一瞬」のために結晶しなければならない。
  そのためには「衆善奉行」の教えに基づき、日々ありとあらゆる善行を行じ奉り、カルマを善くして波羅蜜を熟させていくしかない。

  だが、それだけで良いのだろうか。プラス+プラス+・・と、善なるエネルギーの足し算を重ねても悟ることはできないだろう。なぜなら、諸々の妨害要因が絶妙のタイミングで修行の完成を阻むからだ。事が成就するのに必要にして十分な条件が完備しても、賽の河原の積み上がった石を崩す鬼のようなネガティブ現象が一瞬にして全てを破壊してしまうかもしれないのだ。 
  私たちは一人の例外もなく、悪業も善業もない交ぜに、ゴッチャにして集積してきている。「仏もかつては凡夫なり・・」の戯れ歌の如く、ブッダですら数々の不善業を作り、長い輪廻のある時には地獄に堕ちて悪業の一括返済をさせられていたことが伝えられている。
  至高の存在であるブッダになってからですら、罵倒されたこともあれば、こいつに妊娠させられたなどと危うくハメられそうになったり、足指に棘を刺したり、托鉢の鉢に3ヶ月の長きに渡って粗悪な馬麦しか得られなかったこともある。いずれも、前生譚にはその原因となった行為の説明がなされている。
  ブッダですらかくの如きなのだから、どんな人も間違いなく、善いカルマも悪いカルマもおしなべて作ってきているのだと心得なければならない。
  修行の成功を阻むマイナス要因を除外しない限り、達成したものがチャラにされ、成就したものが破壊されてしまうことだろう。

  いろいろなことが起こる。
  ・・クーティに忍び込んだサソリの毒針に刺され、ヤンゴンの病院にかつぎ込まれたドイツ人比丘。
  朝の食事が、昼には腐敗している熱帯である。食物に当たれば吐き気と下痢でガタガタに崩れていく。
  リトリートが佳境に入った時を狙ったように、実兄が危篤という報に接し、迷った末、命懸けの修行を断念し帰国して行ったスイス人・・・。
  突然至近距離で改修工事が始まり、連日、耳に鋭く残る電気のこぎりの音や、トーン、トーン、と内臓にまで響くようなハンマーの音、大声で呼びかける大工の声、等々で完全に破壊された森林僧院の閑けさ・・・。
  在家なのに布施をしないで1年間も寺で修行していたフランス人が、出入りする工事の者か何者かに全財産を盗まれ茫然自失した・・・。
  まったく一寸先は闇、何が起こるか予断を許さず、危うく難を逃れてギリギリセーフになる者もいれば、タッチの差でアウトになる者もいる。

  私自身も例えば、スリランカの山頂の僧院で修行していたある日、谷底から大音響のアザーンが鳴り響いてきた。
  アザーンとは、イスラム教の礼拝への呼び掛けだが、朗々とした男声で唄い上げるアラブ版民謡といった趣で耳を直撃してくるのだ。麓の村に1軒だけモスリムの家があり、運動会で使うような大音量のスピーカーでアザーンを流し続けてくる。
  当然サティを入れるのだが、その目に余る大音量から、ギラギラした攻撃的な印象を受け「コーランか、剣か」などという言葉が連想されてくる。サティを入れつつも、脳裏の片隅では昨日までの静寂を惜しむ気持ちや、イスラム侵攻によってインドの仏教寺院が徹底的に破壊され、1203年ヴィクラマシーラ寺の消滅をもってインド仏教が終焉した・・などという妄想がスルスルと脳裏を過ぎり、サティが追いつかなくなる。
  さすがに『おのれ、モスリムめ!』などという言葉は浮かばなかったが、修行を深めるために遥かスリランカの森林僧院まで来たのに、ラッパ状の谷間の底から異教徒の大音響で大打撃を被ったのはいかなる不善業の結果か・・・と自問自答した。
  修行のレベルはガタ落ちしたものの、過去世で他宗教に嫌がらせや邪魔立てをした報いだろうと定番の思考法で甘受することにした。修行は続行したが、私にはこの種の体験が数多くあり、過去世で誰かの修行の邪魔をしたことは間違いないと確信している。同じ体験が重なるにつれて免疫ができ、やがて修行が決定的に破壊されるような事態が生じても、『またか・・、いつまで続くのか、私の不善業よ・・・』ともはや怒りが立ち上がることはなくなった。

  ラクラクと修行が進み、いとたやすく解脱できる人は慶賀すべきだ。宇宙銀行に貯えてきた波羅蜜のエネルギーが、満を持して放たれ修行の後押しをしてくれたのだ。「衆善奉行」の善行を蓄積したのみならず、「諸悪莫作」にも徹して他者を煩わすことなく、いかなる危害も加えることがなかったのだろう。
  他人に苦を与えなかった者は、他から苦を与えられることがない原則である。つまり、妨害要因とは「諸悪莫作」の禁を犯して他者を苦しめた者が受けなければならない苦悩だと理解される。
  現象世界の仕組みが構造的に絵解きされてくれば、「ああ、やらなきゃ良かった・・」と思うだろが、もはや後の祭りである。その当時は愚かにも目先の現象に反応し、メラメラと嫉妬に怒り狂い他人の修行を邪魔したり、悪い教えにハマッて仏法僧を罵倒したり、托鉢をする聖者の鉢の中に唾を吐いたり・・、とさまざまな不善業を重ねてきたであろう私たちが、なかなか思うように修行が進まないのは因果関係の当然の帰結なのである。

  「わたし、そんなことしてません!」
  と抗議したい向きもいるだろうが、それは今世の記憶の範囲であって、永い輪廻転生のなかでどのような不善業を作ってきたかは量り知れないのである。
  どうせ過去世でもなんらかの宗教をやっていただろう。むろん悟っていた訳ではないから我執がある。あれば必ず自らを高め、他宗教の悪口を言っては貶めていたにちがいない。
  邪教の神々を崇拝しながら仏弟子に石を投げ、侮辱していたかもしれない自分が、今度はその仏教を学び、ヴィパッサナー瞑想に励むこととなり「どうもなかなか進まないナ。間違っているんじゃないだろうな」などと呟いているのだ。
  過去に作ってしまった不善業に対しては、なす術がないのだろうか。
  ありがたいことに、テーラワーダ仏教には立派な対処法がある。その代表的なものが懺悔の修行である。その効果には瞠目すべきものがあるが、果たしてどのような行法なのだろうか・・・。(以下次号)




 今月のダンマ写真 ~
 
「タイ森林僧院の脇侍仏」

先生より

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『怒りの根源の発見』(2) K.M.

  ヴィバッサナー瞑想に出会い実践に着手したものの、貪瞋痴の煩悩、特に瞋(怒り)の制御が思うようにいかず思い悩んでいた時に、グリーンヒルのHPで地橋先生講師の朝日カルチャーセンター「ブッダのヴィバッサナー瞑想」オンライン講座が始まる事を知り申し込みしました。

◆長年の問題(怒り)へのフォーカス
  事前に質問を送り、それに対して地橋先生がインストラクションしてくださるスタイルを基本として、私の場合は「怒り」の問題が中心議題となりました。

【私からの質問】
  「職場で同じ失敗を繰り返す人に怒ってしまいます。怒らない様にするにはどうしたらよいでしょうか?」

【地橋先生からのインストラクション】
  ・因果論の理解を徹底的に深める(→怒れば自分のカルマが悪くなる)
  ・基本的に腹が立つのは、プライドが傷つけられた時と思い通りにならない時であり、エゴ感覚がある限り怒りは出てしまうので、そのことを自覚すること。
  とのインストラクションをしていただきました。

  それを基に職場に臨みましたが、怒ってしまうシチュエーションになると怒っていることに気づきはするが、止めることが出来ず結局怒り続けていました。
  次のオンライン講座でそのことを質問しました。

【地橋先生からのインストラクション】
  ・いくらサティを入れても怒りが止まらないのは本気で止める気がないからではないか。容認する心がある限り、怒りの抑止は難しい。
  ・一瞬のサティよりも怒りの妄想の方がはるかに強烈なので怒りが止められない状態。
  ・今自分は怒っているという客観視は出来ているので2030点程度のサティはあるものの、怒りの対象化ができていません。
  ・怒りや嫌悪が立ち上がりやすいプログラムを書き換えないで、サティだけで止めることは前回のレポートからも多分出来ないでしょう。
  ・本格的に視座を転換させる修行をしないと怒りの構造は変わりません。
  ・「これから怒らないようにしよう」といった程度の決意では反応系のパターンは変わらないので、1週間休みを取って内観の修行をすることをお勧めします。
  ・瞑想の現場でサティを深めるという問題ではなく、反応系の修行を優先すべきということ。
  とのインストラクションをしていただきました。

  これまでの人生「怒り」で失敗することが多かったので、何とか怒りを克服したくアドバイスを求めていましたが、怒りとは別の問題についても質問をしました。私は別の問題と考えていましたが、実はこれこそ怒りの根源だったのです。

【私からの質問】
  「幼いころから寂しく、何か満たされない漠然とした気持ちがあり、この歳になっても続いています。若い頃は心身ともに活力があり、仕事に対するバイタリティーや趣味に没頭することで、そういう気持を抑えこむことができていましたが、年齢とともに体力も衰え、仕事に対しての出世欲や趣味に没頭する気持が薄れてきました。それによって幼い頃からあった漠然とした不安、寂しさが出てくることが増えてきており、日々苦しみを感じてしまいます。
  特に一人で家にいる時は顕著に続きます。あるがままに自分の気持を観るのは心随観なので観ようとしますが、漠然とした不安、寂しさから逃れたい気持が強く、観ることを拒んでしまいます。なぜこの様な漠然とした不安、寂しさが起こるのでしょうか?何を起因としてこの様な幼い頃からある気持が今でも続くのでしょうか?」

【地橋先生からのインストラクション】
  ・このことは、今まで申し上げませんでしたが、直感的にこれが怒りの根源であり深い根っこにあるものと思っていました。「愛着障害」だと思います。
  ・もし赤ちゃんが普通に優しいお母さんに育てられたら、どんなことがあっても自分は見捨てられないし、必ず守られていて大丈夫だという心からの安心感が母子関係の最初期に形成され、情緒の基盤となります。
  ところが諸々の理由でそうはならなくて、例えば、お母さんが病気だったり、虐待の環境があったり、あるいは仕事がとても忙しくて接触がなかったり等々。それで子供との愛着が形成されない場合、どうしてもネガティブな気持ちが赤ちゃんの方に生じます。これが心の奥底にある怒りの根源となります。
  ・本来的な親子関係に展開せず、幼少期に不満と怒りが集積されていくと、自分への不遇な対応に対する根本的な怒りが諸々の場面で表出されがちなのです。これを「愛着障害」と言います。
  ・まず「愛着障害」のことを勉強してください。自分の心の反応パターンがどのような歴史で形成されてきたか。なぜ漠然とした淋しさがつきまとうのか。些細なことでキレやすくなるのはなぜなのか。いろんなことが読み解けると思います。
  ・本当に根源的に怒りを乗り越えられる可能性は、今差し掛かってきたと見ました。こういうレポートが出てきたと言うことは、一番大事な奥の院に入ってきたと思われます。
  ・この愛着の問題、ネガティブなかつての環境そのものは変えられないが、認知を変えることはできます。過去を受け容れることが上手くいかなければ、私にサポートできることはします。何があったかわかりませんが、もし幼少期にネガティブな環境があったなら、それは輪廻転生論を使って過去世の業の結果が人生の最初期に引き継がれたという理解をします。現象世界は自業自得の構造なのだから仕方がないのです。不善業の結果は苦受を受ける法則、善いカルマの結果は楽受を受ける法則です。
  だから自分が人生の最初期に何の責任も無いのに苦を受けたとしたら、それは過去世の業の結果と考えて怒りを手放し受け容れる発想をするのが仏教です。受け容れられれば怒りが終るし、受容できなければこれからもその怒りが続くのです。
  ・因果論、業論を徹底していくと、どれほど不遇でネガティブな幼少期の環境も受け容れていくことが出来るはずです。それを今まで私は何人もサポートしてきました。自分のエゴの発想では上手くいかないでしょうが、仏教の力を使えば発想の転換が可能になります。こうしたサポートをすることによって、とても難しい問題ですが乗り越えられた方は何人もおります。
  ・これは、今世でやるべき最大の仕事ではないかと私は思います。やり遂げることができれば、人生の最期に、今世は成功した生涯であった、良い人生だった、と言って死ねるというか、再生していくことが出来ると思いますので、頑張っていただきたいと思います。
  とインストラクションしていただきました。

  怒りの根源が幼少期の愛着障害であるというインストラクションに、納得する気持と情けない気持ちの両方がありました。家庭環境を振り返れば、決して満足のいく情態ではなかったので、なるほどと思いつつ、大人になっても子供のころの影響を引きずるなんて情けないとも思いました。
  先生の懇切丁寧なインストラクションに感謝し、この愛着障害を克服することは「今生での最大の仕事」との言葉に問題の重要性を感じ、また「サポートはします。」との言葉に感激し、アドバイスいただいた「愛着障害」を勉強し自分の幼少期を振り返ることにしました。(続く)
 

雪を纏いながら・・・関ヶ原にて

 (先生提供)
 








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ダンマの言葉

1月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話を掲載しています。今月はその第2回目です。

    覚りの道への出発

(承前)
2.日々の経験からの智慧
  そのようなわけで深く考えることの実践が私たちを理解へと導くのはここなのです。
  一つ喩えをあげましょう。大きな魚のかかった網をたぐりよせる漁師の喩えです。漁師は網を引き寄せながらどのように感ずると思いますか。もし魚が逃げるのではないかと不安を感じたとしたら彼は慌てて網と奮闘し始め、わしづかみにしたり、強く引っ張ったりするでしょう。気がつくとその大きな魚は逃げてしまっています。彼は性急にやり過ぎたのです。
  昔であればこんな風に話すことでしょう。獲物はゆっくりと扱い、収穫するときは注意深く獲物を逃さないようにしなければならないと言われているではないかと。これは私たちの修行にもあてはまります。一歩づつ手探りで進み、修行の道を失わないように注意深く、積み重ねていきます。時として修行をしたくないと感じることもあるでしょう。見たくない、知りたくないと思うかもしれません。でも修行をし続けます。手探りで進み続けます。修行とはこういうものです。したいと思っている時にも進めるし、したく釦、と思っている時にも同じように進めます。ただ修行し続けるのです。
  修行に熱が入れば、「信」の力が私たちの行為に活力を与えてくれるでしょう。しかしこの段階では私たちにはまだ智慧がありません。たとえ私たちが活力に満ちていたとしても修行から得るものは少ないでしょう。長い間修行を続けても正しい道に向かっていないのではないかと感じるかもしれません。平穏や静寂を見いだすことが出来ない、あるいは修行を行うための準備が充分でないと感じるかも知れません。あるいはまた正しい道に達するのはもはや不可能と感じるかも知れません。それで私たちは締めてしまうのです!
  この時点では私たちはとりわけ注意深くあらねばなりません。根気と忍耐とを最大限に発揮しなければなりません。これはまさに大きな魚を引き寄せるようなものです。手探りで目的とするものをゆっくりと手に入れます。獲物を注意深く引き寄せます。獲物との格闘もさほど困難なものではないはずです。そして休むことなく獲物を引き寄せるのです。
  しばらくすれば魚は疲れ果て、抗うのを止めて容易に捕らえることが出来るようになります。通常、物事はいつもこんな調子であり、私たちは修行により、ゆっくりと目的を遂げるのです。
  私たちが瞑想するときはこのようにします。もしブッダの教えの論理的な側面に関して特別な知識や学識を持ち合わせていない場合は日々の生活に照らし合わせて熟考するようにします。既にも持ち合わせている知識、日々の経験から得た知識を使うのです。このような知識は心に自然に備わっています。実際、私たちが心の真の姿を観察してもしなくてもそれは既に今ここに存在しているのです。私たちが知っていようがいまいが心は心なのです。
  私たちはブッダがこの世に降誕してもしなくてもすべての事物があるがままに存在していると言いますがそれはこのためです。すべての物事はその本性に従ってすでに存在しています。このような生来の状態は変わることがないし、どこかへ行ってしまうこともありません。ただそのようにあるだけです。これが真理の法(sacca dhamma)と呼ぼれるものです。しかしこの真理の法についての理解がなければ私たちはにそれを認識することはできません。
  そのようなわけで私たちはこのように熟考する修行を行います。もし経典に長けていないならば心そのものを学習と読解の材料とします。休むことなく深い考察(文字どおりには自分自身との対話)を続ければ徐々に心の性質についての理解が生じるでしょう。何ごとも無理に行う必要はありません。(続く)

 

       

 今日の一言:選

(1)苦しんで、苦しんで、生きてきたのに、その苦がなくなると、物足りなくなってしまう人もいる・・・。

(2)鏡がなければ、自分の姿を見ることができない。
  鏡の前に立てば、他人を眺めるように、自分自身の姿を映し見ることができる。
   頭の中は、エゴ妄想でいっぱいだが・・・。

(3)サティが入れば、思考の流れが止まり、妄想から生まれる煩悩は出現しない。
   余計なものが頭の中から一掃されると、その瞬間瞬間の事象の本質が垣間見えてくるだろう。
   例えば、痛みも妄想も眠気も素晴らしい瞑想状態も、どんな幸せも嫌なこともやがて終わりが来るし変滅していくではないか・・・。

(4)いくら夢を実現しても、馬の鼻先のニンジンを追う構造は変わらない。
   幸福の限界を知れば、無常の苦に出会う。
   因果性の支配する業の世界にいる限り、果てしない不満足性との闘いである。
   沈々たる静けさと恍惚のサマーディに没入しても、やがて終わりが来て、日常性に引き戻される・・・。


       

          特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (9)
  本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌月号より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは6月号をご覧ください。
         

アビダンマの解説と手引き PART 9

6節 ヴィラティ(節制):3種類

 V.(1)サンマーヴァチャー、(2)サンマーカンマントー、(3)サンマーアージーヴォー チャ ティ ティッソー ヴィラティヨー ナーマ

 V.(1)サンマーヴァチャー(正しい言葉)、(2)サンマーカンマンタ(正しい行い)、(3)サンマーアージーヴァ(正しい生計) この三つがヴィラティという名前で呼ばれます。

6節へのガイド
不善を慎む:
  
ヴィラティに分類される三つのソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカは言葉、行為、生計の点で、不適切な行いから故意に離れさせるチェータスィカです。ローキヤ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域の)チッタの場合、ヴィラティ(節制)が機能するのは、誤った行いをする機会が生じても意図的にそれをしない時だけです。邪悪な行為を行う機会が無い場合でもその行為を慎む場合はヴィラティ(節制)ではなく、純粋に道徳的な行動、スィーラ(戒律)になります。


  注釈書では3種類のヴィラティ(節制)が区分されています。(1)自然に生じるヴィラティ(節制)、(2)戒律を受け入れ守ることによるヴィラティ(節制)、(3)不善行為の元となる煩悩を根絶することによるヴィラティ(節制)の3種類です19

  (1)サンパッタ(自然に生じる)ヴィラティ(節制)は邪悪な行為に携わる機会が生じても、自分の社会的地位、年齢、教育レベルなどを考慮し、その行為をしないようにすることです。例をあげると、もし捕まったら自分の名声が傷つくと考えて盗みをしない場合がこれにあたります。

  (2)サムッチェーダ(戒律を受け入れ守ることによる)ヴィラティ(節制)はスィーラ(戒律)を受け入れて守ることにより邪悪な行為から離れることです。例えば、五戒を守って、殺生をしない、盗みをしない、不適切な性行為をしない、真実でないことを語らない、お酒など人を酔わせるものを摂取しない、などです。

  (3)サマーダーナ(不善行為の元となる煩悩を根絶することによる)ヴィラティ(節制)はロークッタラマッガ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における道の)チッタに関連して不善行為から離れることです。ロークッタラマッガ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における道の)チッタは不善行為に向かう心の癖を根絶します。最初の二つのヴィラティ(節制)はローキヤ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域)であり、最後のヴィラティ(節制)はロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)です。

  ヴィラティ(節制)は三つの異なるチェータスィカから構成されるとテキストに書かれています。サンマーヴァチャー(正しい言葉)、サンマーカンマンタ(正しい行い)、サンマーアージーヴァ(正しい生計)の三つです。

  (1)サンマーヴァチャー(正しい言葉):サンマーヴァチャー(正しい言葉)は正しくない言葉、すなわち嘘、中傷、きつい言葉、無駄話から意図的に離れることです。

  (2)サンマーカンマンタ(正しい行い):サンマーカンマンタ(正しい行い)は正しくない身体の行為、すなわち殺生、盗み、不適切な性行為から意図的に離れることです。

  (3)サンマーアージーヴァ(正しい生計):サンマーアージーヴァ(正しい生計)は正しくない生計、すなわち毒、酒などの中毒性のあるもの、武器、奴隷、動物(屠殺目的)の売り買いから意図的に離れることです。

  三つのヴィラティ(節制)はそれぞれ、「正しくない言葉、正しくない身体の行為、正しくない生計により罪を犯すことがない」という特徴を持ちます。その働きは「尻込みして邪悪な行為から離れること」です。その直近の原因は「サッダー(ブッダ・ダンマ・サンガとブッダの教えに対する確信)、ヒリ(不善な行為を恥じること)、オッタッパ(不善な行為を恐れること)、願望が少ないこと、などの特別な性質」です。ヴィラティ(節制)は「心が正しくない行為を嫌悪すること」と理解しておいてください。

7節 アッパマンニャー(対象に制限のない)チェータスィカ:2種類
 VI.(1)カルナー、(2)ムディター パナ アッパマンニャーヨー ナーマー ティ

 VI. (1)カルナー(他の生命の苦しみに対する哀れみ)、(2)ムディター(他の生命の幸せに対する喜び)、この二つがアッパマンニャー(制限なく全ての生命に向けるべき)チェータスィカと呼ばれます。

7節へのガイド
  アッパマンニャー(対象に制限のない):アッパマンニャー(対象に制限のない、対象が測り知れない)と呼ばれる他の生命に向けた四つの姿勢があります。名前の由来は「全ての生命に対して育てるべきなのでその範囲に制限がない」ことです。アッパマンニャーと呼ばれる四つの状態とは、メッター(他の生命に対する慈しみ)、カルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)、ムディター(他の生命の幸せに対する喜び)、ウペッカー(他の生命の置かれた状況を業の結果として冷静に受けとめること、全ての生命を平等に見ること)です。この四つは「ブラフマヴィハーラ(梵天の生き方)」ないし「崇高な状態」とも呼ばれています。

  アッパマンニャー(対象に制限のない)と呼ばれる四つの心は、生命に対する理想的な姿勢とみなされています。しかしチェータスィカの場合、アッパマンニャー(対象に制限のない)の名前のグループに含まれるのはカルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)とムディター(他の生命の幸せに対する喜び)の二つだけです。その理由は、既に説明したようにメッター(他の生命に対する慈しみ)がアドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)の一つの形であり、また、ウペッカー(他の生命の置かれた状況を業の結果として冷静に受けとめること、全ての生命を平等に見ること)がタトラマッジャッタター(執着から離れ、偏りが無く、調和の取れた心の態度)の一つの形だからです。もちろんアドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)は必ずしもメッター(他の生命に対する慈しみ)として現れるわけではなく、他の形で現れることもあります。それでも心にメッター(他の生命に対する慈しみ)が生じる時、それはアドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)というチェータスィカの一つの形として現れるのは確かです。ウペッカー(他の生命の置かれた状況を業の結果として冷静に受けとめること、全ての生命を平等に見ること)とタトラマッジャッタター(執着から離れ、偏りが無く、調和の取れた心の態度)も同様の関係にあります。

  ここで説明されているカルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)とムディター(他の生命の幸せに対する喜び)は他のチェータスィカの一つの形としてではなく、独立したチェータスィカとして現れます。メッター(他の生命に対する慈しみ)とウペッカー(他の生命の置かれた状況を業の結果として冷静に受けとめること、全ての生命を平等に見ること)の土台となる、アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)とタトラマッジャッタター(執着から離れ、偏りが無く、調和の取れた心の態度)は全てのソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカにみられますが、カルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ)とムディター(他の生命の幸せに対する喜び)はその機能を個別に働かせた時にのみ生じます。

  (1)カルナー(他の生命の苦しみに対する憐れみ):カルナーの特徴は「他の生命の苦しみを取り除くように努める」ことです。その働きは「他の生命の苦しみに耐えられないこと」です。そして「残虐ではないこと」という形で現れます。その直近の原因は「苦しみに打ちひしがれた人々が為すすべもなく困窮している状況を見ること」です。「残虐性」が少なくなればカルナーはうまく働いており、「悲しみ」が生じる場合はカルナーがうまく機能していません。

  (2)ムディター(他の生命の幸せに対する喜び):ムディターの特徴は「他者の成功を嬉しく思うこと」であり、その働きは「他者の成功に嫉妬しないこと」です。そして「嫌悪の排除」という形で現れ、その直近の原因は「他者の成功を見ること」です。「嫌悪」が少なくなればムディターはうまく働いており、「歓楽、ばか騒ぎ」が生じる場合はムディターがうまく機能していません。

8節 アモーハ(真理が分からず混乱した状態から離れること):1種類
 VII. サッバター ピ パンニンドゥリイェーナ サッディン パンチャヴィーサティメー チェータスィカ­ー ソーバナー ティ ベーディタッバー

 VII. パンニンドゥリヤ(物事をありのままに観る智慧の能力)と合わせて全部で25種類となるこれらのチェータスィカをソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカとして理解してください。

8節へのガイド
  パンニャー(物事をありのままに観る智慧):パンニャーは物事をありのままに観察することです。ここでは物事をありのままにとらえる働きが主となるため「能力」という言葉が使われています。パンニャー(物事をありのままに観る智慧)、ニャーナ(洞察の智慧)、アモーハ(真理が分からず混乱した状態から離れること)は同義語として使われます。パンニャーの特徴は「物事の真の性質を見抜く(ヤターサバーヴァパティベーダ)」です。その働きは「対象となる領域をランプのように照らし出すこと」です。そして「うろたえることが無い」という形で現れ、その直近の原因はヨーニソーマナスィカーラ(認識の過程で正しい対象に注意を向けること)です。

9節 まとめ
  エッターヴァター チャ:

  テーラサンニャサマーナー チャ チュッダサークサラー タター ソーバナー パンチャヴィーサー ティ ドゥヴィパンニャーサ パヴッチャレー 

  このように:
  アンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)チェータスィカが16種類、アクサラ(不善な)チェータスィカが14種類、ソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカが25種類、合計でチェータスィカは52種類となります。

           ************************************

  チェータスィカサンパヨーガナヤ(チェータスィカがどのようにチッタに付随するかについて):16通り

第10節 導入の偈文
  テーサン チッターヴィユッターナン ヤターヨーガン イトー パラン
  チットゥッパーデース パッチェーカン サンパヨーゴー パヴッチャティ
  サッタ サッバッタ ユッジャンティ ヤターヨーガン パキンナカー
  チュッダサークサレースヴェーヴァ ソーバネースヴェーバ ソーバナ

  それぞれのチェータスィカがどのようなチッタの状態に付随するかについて、ふさわしい方法で以下に説明します。

  7種類のチェータスィカは全てのチッタに結びつきます。パキンナカ(状況に応じてチッタに付随する)チェータスィカはふさわしいチッタにふさわしい方法で連結します。14種類はアクサラ(不善な)チッタにのみに連結します。そしてソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカはソーバナ(道徳的に美しい)チッタにのみ連結します。

アンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)チェータスィカ:7通り

第11節 分析
  カタン?
  (i) サッバチッタサーダーラナー ターヴァ サッティメー チェータスィカー 
  サッベース ピ エークーナナヴゥテイ チットゥッパーデース ラッバンティ
  パキンナケース パナ:
  (ii) ヴィタッコー ターヴァ ドゥヴィパンチャヴィンニャーナ ヴァッジタ 
  カーマーヴァチャラチッテース チェーバ エーカーダサス 
  パタマッジャーナチッテース チャー ティ パンチャパンニャーサ チッテース 
  ウッパッジャティ
  (iii) ヴィチャーロ パナ テース チェーヴァ エーカーダサス 
  ドゥティヤッジャーナチッテース チャー ティ チャサッティ チッテース 
  ジャーヤティ
  (iv) アディモーッコー ドゥヴィパンチャヴィンニャーナ ヴィチキッチャーサハガタ
  ヴァッジタ チッテース 
  (v) ヴィリヤン パンチャドゥヴァーラヴァッジャナ 
  ドゥヴィパンチャヴィンニャーナ サンパティッチャナ サンティーラナ ヴァッジタ チッテース
  (vi) ピーティ ドーマナッスペッカーサハガタ カーヤヴィンニャーナ 
  チャトッタッジャーナ ヴァッジタ チッテース
  (vii) チャンドー アヘートゥカ モームーハ ヴァッジタ チッテース ラッバティ

どのようにアンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)チェータスィカはチッタに付随するのでしょうか?
  (i) まず、サッバチッタサーダーラナ(どのチッタにも共通して付随する普遍的な)チェータスィカ7種類は、89種類全てのチッタに付随します。
  特定のチッタにのみ付随するチャータスィカのうち
  (ii) ヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ)は55種類のチッタに生じます。カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域の)チッタ54種類のうちヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)を除いた44種類のチッタ(5410=44)、これにジャーナ(禅定)の第一段階のチッタ11種類を加え、全部で55種類となります(44+11=55)。
  (iii) ヴィチャーラ(対象に向かった注意を持続させるチェータスィカ)はヴィタッカが付随する55種類のチッタに、ジャーナ(禅定)の第二段階のチッタ11種類を加えた66種類(55+11=66)のチッタに生じます。
  (iv) アディモッカ(決意)は全部で89種類のチッタのうち、ヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)とヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)を伴うチッタを除いた78種類のチッタに生じます(8911=78)。
  (v) ヴィリヤ(努力するエネルギー)は、パンチャドゥヴァーラーヴァッジャナチッタ(五つの感覚門に注意を向けるチッタ)、ヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、サンパティッチャナチッタ(感覚対象を受けとめるチッタ)、サンティーラナチッタ(感覚対象を調べるチッタ)、合計16種類を除いた全てのチッタ73種類に生じます(8916=73)。
  (vi) ピーティ(喜び)は、ドーマナッサ(精神的な苦しみ)とウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴うチッタ、カーヤビンニャーナ(身体に感覚を感じたという意識)、ジャーナ(禅定)の第四段階のチッタを除いた全ての種類のチッタ51種類に生じます(121-(2+55+2+11=51)。
  (vii) チャンダ(目標に向かって行動を起こしたいという願望)は、アヘートゥカ(チッタを安定させる根が無い)チッタ、モーハ(真理が分からず混乱した状態)を伴う2種類のチッタを除く全てのチッタ69種類に生じます(8920=69)。

11節へのガイド
  ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせるチェータスィカ):最も基本的なタイプのチッタであるヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識;眼、耳、鼻、舌、身体という五つの感覚器官それぞれにクサラ(善業の結果として生じる)、アクサラ(不善業の結果として生じる)の二通りあるため合計10個)には、サッバチッタサーダーラナ(どのチッタにも共通して付随する普遍的な)チェータスィカ7種類しか生じません。それ以上に複雑な機能を有するチェータスィカは付随しません。ヴィタッカはこれらの基本的なチッタには見られません。また、ルーパーヴァチャラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタ、アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタ、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタ)の中でジャーナ(禅定)の第二段階以上に該当するチッタにも生じません。瞑想レベルの向上によりヴィタッカが克服されているからです。ジャーナ(禅定)の第一段階のチッタ11種類に関しては第1章、第32節とそのガイドを参照してください。

  ヴィチャーラ(対象に向かった注意を持続させるチェータスィカ):ヴィチャーラはジャーナ(禅定)の第一~第二段階のチッタに見られますが、それより上のレベルのジャーナには生じません。

  アディモッカ(決意):アディモッカはヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)を伴うチッタには生じません。ヴィチキッチャーがあると決断が出来なくなるからです。

  ヴィリヤ(努力するエネルギー):ヴィリヤは、パンチャドゥヴァーラーヴァッジャナ(五つの感覚門に注意を向ける)チッタ、2種類あるサンパティッチャナ(感覚対象を受けとめる)チッタ、3種類あるサンティーラナ(感覚対象を調べる)チッタには生じません(第1章、第810節)。なぜならこれらのチッタは力が弱く、受動的だからです。

  ピーティ(喜び):ピーティは、常にソーマナッサ(精神的な楽しみ)と共に生じますが、ジャーナ(禅定)の第四段階のチッタの場合、ソーマナッサ(精神的な楽しみ)のみでピーティは生じません。

  チャンダ(目標に向かって行動を起こしたいという願望):ここで使っているチャンダの意味は行動したい、目標を達成したいという願望です。そしてモーハ(真理が分からず混乱した状態)を伴う2種類のチッタは、あまりにも濃密なため目的をもった行動をとることが出来ません。

第12節 まとめ
  テー パナ チットゥッパーダー ヤターッカマン:
  チャサッティ パンチャパンニャーサ エーカーダサ チャ ソーラサ
  サッタティ ヴィーサティ チェーバ パキンナカヴィヴァッジター
  パンチャパンニャーサ チャサッティッタサッタティ ティサッタティ
  エーカパンニャーサ チェークーナサッタティ サパキンナカー

  これらの種類のチッタを順に並べると、パキンナカ(状況に応じてチッタに付随する)チェータスィカを伴わないものが66種類,55種類,11種類,16種類, 7種類, 20種類です。

  パキンナカ(状況に応じてチッタに付随する)チェータスィカを伴うものが55種類,66種類,78種類,73種類, 51種類, 69種類です。

12節へのガイド: まとめの前半は6種類あるパキンナカ(状況に応じてチッタに付随する)チェータスィカを伴わないもの、後半はパキンナカ(状況に応じてチッタに付随する)チェータスィカを伴うもの、です。チッタの総数が二通りに示されていることに注意してください。計算上、マッガ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における道の)チッタおよびパラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における果の)チッタをジャーナ(禅定)の段階に応じて分ける必要がある場合はチッタを121種類とする方法ととります。一方、そのような区分が不要な場合はチッタを89種類とする方法をとります。例えば、ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせるチェータスィカ)の場合は前者で、55種類のチッタにはヴィタッカが付随し、66種類のチッタにはヴィタッカが付随しません。アディモッカ(決意)の場合は後者で、78種類のチッタに付随し、残りの11種類のチッタには付随しません。



   読んでみました
大治朋子著『歪んだ正義』(毎日新聞出版 2020年)

「『あなたは、自分や自分の家族が無差別殺人を犯す可能性があると思いますか』
  そう聞かれて、『はい』と即答する人はほとんどいないだろう。・・・もしあなたが咄嗟にそう感じたのなら、本書は一読する価値がある」
  こんな言葉で始まる本書は、なぜごく普通の人がどのような背景と経緯を経て過激化するのか、それを防ぎ、あるいは引き返すには何が必要なのかを論じ、示そうとしている。
  著者は、1989年毎日新聞に入社以来、ワシントンやエルサレムの特派員、英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所客員研究員、イスラエルのヘルツェリア学際研究所大学院(テロ対策・国土安全保障論、サイバーセキュリティ専攻)修了、同研究所併設のシンクタンク「国際テロ対策研究所」研修生、テルアビブ大学大学院(危機・トラウマ学)を経て現在は毎日新聞編集委員(専門記者)。
  特派員時代に過激派による衝突現場を目撃し、取材したことで、無意識的に「テロリズムといえば特異な人々によるもの」というイメージが形成された。しかしその後イスラエルの大学院で研究生活を送ったことで、「テロリズムはイスラム系に限らない」「どんな人も過激化しテロリストにすらなりうるのだという認識に達し」たという。こうしていっそう研究を進めるに従い、私たちの中に潜む暴力のメカニズムを説き明かし、過激化するプロセスの「地図」を作り、多くの人と情報を共有することに大きな意義があることを意識するようになる。
  まず著者が記すところを略して各章の構成を紹介する。

  1章:2015年秋から約1年間続いたパレスチナの若者らによるユダヤ人への波状攻撃と、それに対するユダヤ人の反応も含めた双方の個人、集団による過激化現象について検証する。
  2章:20151月のイスラム国による日本人男性2人の誘拐・殺人事件を中心に、イスラム国の元戦闘員たちへのインタビューなどから、組織がいかに個人を過激化させるかについて考える。
  3章:イスラム主義に限らず、世界各地で起きるさまざまなロ-ンウルフによる攻撃のパターンや、「一匹オオカミ像」の変遷を追う。
  4章:彼らが過激化する過程に注目してそのプロセスを明らかにする。また過激化を促すものとして人間の認知バイアスや、ユーチューブなどソーシャルメディアが果たす役割についても分析する。
  5章:多くの人が貧困や厳しい家庭環境のもとで、また移民やイスラム教徒として平穏に暮らしているにもかかわらず、なぜ、どのように一部の「普通の人」が過激化するのかを探る。
  6章:東京オリンピックでのローンウルフがもたらす脅威、新型コロナウイルス禍で相次いだ「歪んだ正義」に基づく差別やいじめ、さらに、日本での過去の事件について過激化メカニズムをもとに検証する。
  7章:私たち一人ひとりがちょっとした工夫でできる過激化抑止のための試みについてまとめる。

  本書は著者のこれまでの研究の集大成とも考えられると同時に、おびただしい実験、研究、報告、論文などが掲載されている。そのため、本稿では便宜上一部を除いて出典や発言者を記せず、また著者自身の文章との区別をはっきりさせていないところや、さらに章によっては触れていない部分もある。したがって、機会があればぜひご一読されればと思う。

  1章、著者はテルアビブ北方にあるヘルツェリア学際研究所で、「テロリズムの心理」という授業を担当するエラン・シャダク博士から、冒頭のような衝撃的な言葉を聞いた。博士は、「テロリストの頭の中を考えるには、まず普通の人々の頭の中を考える必要がある。そうしていくと、大半の人は状況さえ整えばテロリストになるのだということがわかる」と言い、その根拠として米スタンフォード大学での有名な「監獄実験」の動画を見せたという。
  またこの章では、過激化していく「意見」と「行動」の、それぞれ4段階に分けられたピラミッド図が示される。要点は、テロリズムに共感する割合はおおむね8割前後と高くても、「実際にそれを実行することを正当化したり本当に実行したりするレベルとの間には大きな差があり」「意見の過激化=行動の過激化、と単純に結びつけることはできない」と言うことである。なので、イスラム過激化の潜在的テロリストを見つけたいなら、「治安当局がよくやるイスラム礼拝所のモスク周辺での諜報活動ではなく、射撃場で張り込むほうが効率が良い」と、皮肉交じりに提案している教授たちもいると言う。

  2章、イスラム国を脱したシリア人の元戦闘員8人へのインタビューなどから、イスラム国に入った経緯と過激化のプロセス、そしてそこからの脱出について語られる。
  取材当時26歳だった青年の証言からは、「組織が促す過激化プロセスに特徴的な要素がいくつもちりばめられている」ことがわかる。それらには、家族や友人を失う、荒廃する故郷への怒りや喪失感、政権側と過激派との戦闘や割拠にさらされて国民としてのアイデンティティを失う、新しい国の建設へ向かうという未来や希望という虚構、戦闘参加や帰属意識がもたらす一時的な興奮や満足感、善なる内集団と悪としての外集団を峻別する二元論的な発想、結束を促すための踏み絵と裏切り者への制裁などがあげられると言う。
  著者はその時点で警視庁長官であった松本光弘氏の著書『イスラム聖戦テロの脅威-日本はジハード一と闘えるのか』(講談社)を引き、カルト教団によるマインドコントロールとの類似性を指摘している。それは、
  (1)儀礼や住居、衣服、食事などの「行動コントロール」
  (2)身につけさせた教義、言語体系以外について思考停止させる「思想コントロール」
  (3)罪悪感と恐怖感で感情の幅を狭くする「感情コントロール」
  (4)自らの判断をさせないため、外部からの情報をシャットアウトする「情報コントロール」
である。
  では、脱出の引き金となったのは何か。ここであげられているのは、「70歳の女性から金品を強奪し強姦した」とされた15歳の少年の処刑を偶然目にした若者が、亡くなるまでの3日間、少年の母親が、「毎日、彼の顔を水で洗い、唇を湿らせてやっていた。その姿がずっと頭から離れなくなってしまった」例、また、自爆テロに向かわされそうになった青年がふと母親の声を聞こうと電話した時に、母親が「死んではダメ。一緒にシリアを出ましょう、トルコに逃げるのよ」と泣きながら繰り返したことからだった。共通するのは、これまで閉じこもってきた「思考の殻」の外に目を向けて、不信心者とされる外集団の中に人間としての姿、また自分とのつながりを見出したことだ。

  3章は、組織に入らずに自己過激化に終始するいわゆるローンウルフのパターンである。そのありようは9.11以前と以降では変わってきたと言う。
  第一点は、過去に過激派団体に所属していた割合が少なくなってきたこと。(9.11以前:63%、以降:48%)。
  第二点は、ローンウルフになる経緯。以前にはなんらかの理由で組織から離れたことにより、以降は「はじめからひとり」なのではないかと考えられる。
  それでは、もしローンウルフが「仲間意識」を持っているとすれば、それは何によるものか。一つにはネットで情報を提供している組織に対してのもの、また一方では、ある事件や人物の行動を「先駆的」「先駆者」として共感したり崇拝したりすることによるものではないかと言う。
  第三点は、自殺的な要素が強まってきたこと。9.11以前には容疑者が「数ヵ月から数十年間と長期にわたりつかまらなかった例が全体の約4割」だが、以降には、「4分の3は付近で数時間以内に拘束されるか、現場で治安当局者に殺害されるか自殺している」と言う。
  では動機は何か。過激派組織によるものは個人的なものが見られないが、ローンウルフの場合は個人的な喪失感、不満、恨みといった要素と、宗教的、政治的な問題を結びつけたものだと言う。モサドのシモンズ博士は、「よくあるのが恋愛です。初めはパレスチナの占領問題とかいろいろと話すのですが、どうも聞いていくと発端は失恋であることも少なくない」と話していたそうだ。
  こうした傾向を著者は、「ローンウルフは自我が大きく、すべての物事を自己から見る『自分主義』を貫くタイプ」で、個人の不満と政治的な問題を自力ではうまく結びつけられないのだと言う。そのため、過激派組織がインターネット上で掲げる物語や過去に行った者の論を借りて、行動は単独にもかかわらず精神的にはそれらから影響を受けている、と記している。
  この章ではこのほか、ローンウルフが実行までどのような心理的プロセスを辿るか、いきなり実行されたように見えても、社会によってはすでに発火直前条件が揃っていた可能性を示唆している。

  4章は、ローンウルフも含めて組織のメンバーが過激テロに至る筋道を考察する。まずはトラウマとそれがどう人に影響してくるか、から。
  トラウマは、対処能力を超えた外的な出来事を体験した時に被る非常に深刻な心の傷だが、それは個人ばかりではなく、グループや社会全体が受けることもある。そしてそれが一定レベルになると、無意識的に「退行」と「分裂」という防衛機能に入ることが少なくないと言う。
  ここで問題になるのは「分裂」で、これは善か悪か、敵か味方か、全か無か、というような二元論的な考えに至る。この思考回路に落ち込むと、自分の所属する内集団を完全な善、外集団を完全な悪と位置づけ、外集団の人々を非人間化して貶めることで相対的に自尊心を高めることになる。
  もちろんこれは頭の中でのことで、大多数の人々は行動に移すことはしない。しかし少数はエスカレートしたあげく対象を人間ではなくモノと意識するようになる。こうなるともはや一般的モラルは通用せず、「外集団の殺害は正当な『正義』以外のなにものでもなく」なってしまう。
  さらにトラウマを抱える根底には、被害者意識からくる復讐の意識が強いことも共通していると言う。そうすると、「被害者意識を持つこともそれに対する報復としての無差別攻撃を正当化する『歪んだ正義』」も、決して「限られた人の極めて異常な行動」というふうには言えないのだ。であれば、「シャダク博士が言った、誰でも状況次第ではテロリストになりうるという指摘」は、なおさら現実味を帯びることになる。
  ここから、著者が作成した過激化のプロセスモデルが示されるが、ここではその4つのステップがどのようなものなのかだけを記すことにしたい。
  先ず第一のステップは、「私的な苦悩、政治・社会的不正義の疑問や怒り」を「なぜ」と問い、わかりやすい答えを探す段階。
  第二のステップは「物語」作り。
  第三のステップは著者が過激化トンネルと名づける視野を非常に狭めていくカテゴリー化。
  第四のステップは「宣伝グセ」としての予告。
  第五のステップは過激な行動へと踏み出させるきっかけと、抑止して踏み止めさせるきっかけ。

  5章は、過激化するプロセスを踏まえた上で、ではなぜ過激化する人もいればしない人もいるのかということについて。性格や環境は過激化の誘因にはなっても、それがすべてではないのだ。
  人は自分では対応できない脅威を感じるとそれが負荷となり心身のバランスが崩れそうになるが、そうすると平衡を保つために意識的、無意識的に何らかの行動をとる。それにはおおむね2種類あって、ひとつは問題自体を解決しようとするもの(根本治療:編集部)、もうひとつは苦痛自体を和らげようとするもの(対処療法:編集部)である。後者にはスポーツなど健全なものもあるか、中には不健全なものもある。この場合どちらをとるかは世界観の違いにあると著者は言う。
  もしその人の世界観が極端に否定的でなければ、「周囲に助けを求めて切り抜けることもできる」けれど、「世界観が非常に否定的で人を信頼できず、孤独になって」いればそうはいかない。ただ、それでも自分で何とかしようとしている時に隙間があると、「資源(酒や薬物など)に依存したり、ネット上に仕掛けられた過激派のわなにひっかかったり、過激思考に活路を見出したりしてそれを取り込んでしまう」。そんな時に「その人は過激化の入り口に立つことになる」と言うのだ。

  6章は日本の場合で、現在進行中のコロナ禍についても取りあげている。
  もともと差別的な感情が潜在的にあった人も、冷静な時にはそれを抑制しているが、社会不安が高まると抑制力が低下してそれが攻撃性に転化しやすくなると言う。しかしそれは「置き換え」にすぎない。自分の不快な感情を「八つ当たり」で晴らしているということだから。
  こうしたことを避けるためには、個人的には親しい人々との交流や趣味によって、また社会的には政府やメディアの発信、そうしたものが大切だと主張しているが、そうしたことは現今の世相を見ればおおよそ納得できる。
  この章ではさらにローンウルフ型の例として、障害者施設で起きた「相模原殺傷事件」、秋葉原で起きた「トラック暴走事件」、またオウム真理教事件の被告を組織型の例として検証している。

  7章では過激化をどのように防ぐかについて論じつつ、私たちがストレスを感じた時にはどうすれば良いのかについて記している。
  著者はここで、イスラエルの心理学教授ムーリ・ラハド博士らが提示した、自分自身、あるいは家族や親しい人と協力して心身のバランスを保つための応急措置的なやりかたを紹介している。それは、人のタイプにより有効と思われる6つの方法で、どれが自分に向いているかを自覚的にチェックする表も提示されている。
  B:「信念と価値」・・・宗教、祈り、スピリチュアルなことに支えを求める人々に有効。
  A:「感情と情動」・・・感情を発散したり押し込めたりしてバランスを取ろうとする傾向が強い人。
  S:「社会的」・・・他者を助けたり助けてもらったりしながら自分の力に変えていくタイプ。
  I:「想像」・・・空想にふけったり自分を問題から切り離したりして心の安寧を図ろうとする人。
  C:「認知的」・・・理論や理解を重んじ、現実的怠り組みを好む人。問題に集中し解決を図ろうとする。
  Ph:「肉体的・生理的」・・・行動で気晴らしする。スポーツや体を動かすのが好きな人に向く。ただし、これにはやけ食いやアルコール、暴力行為、薬物等への依存など、有害なものもある。
  この章ではこれらのほか、「確証バイアス」「認知的不協和」「認知的完結欲求」などの、私たちが落ち込みやすい「認知のクセ」を自覚することが大切なこと。特に疲れている時などは決して「即断即決」をしないようにすべきだと述べている。
  また、「自分の考え」がイコール「自分」ではないという認識を持つことが大切だという。つまり「頭の中に浮かぶ考えは空の雲のようなもの」で、「現れては形を変えながらやがて消えてゆく。しかし、雲(考え)は自分ではない。いわば自分はその雲を眺めている存在」なのだと。
  さらに物語には物語で対抗することにも触れている。シンガポール、サウジアラビア、アメリカでの例をあげ、その内容以上に、誰が言うかがその影響を左右すると言う。
  そのほか、相手を非人間化していく過程をくい止めるためのやりかた、小さな攻撃やいじめから目をそらさず傍観者であることをやめること、コミュニティーの重要性、そして、過激派と治安当局など組織双方の思い込みを事実を元にして認識していくこと、等々が大切であると力説している。
  まるで本書は膨大なジグソーパズルのように感じられたが、なかでも、私たちの判断においては、きちんとしたデータに基づいた客観的な視点をもつことの重要さをあらためて知らしめてくれたように思う。(雅)

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