2022年2月号 | Monthly sati! February 2022 |
今月の内容 |
巻頭ダンマトーク:『懺悔物語(1) -宿業の力-』 | |
ダンマ写真 |
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Web会だより ー私の瞑想体験-:『怒りの根源の発見』(2) | |
ダンマの言葉:『悟りの道への出発』(2) | |
今日のひと言:選 | |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (9) | |
読んでみました:大治朋子著『歪んだ正義』(毎日新聞出版 2020) |
【お知らせ】
「Web会だより」は1月号より「Web会だより -私の瞑想体験-」といたしました。なお、検索の便宜のため、バックナンバーについては変更を加えておりません。
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
巻頭ダンマトーク 『懺悔物語 (1) -宿業の力-』 |
★私の修行生活は懺悔の瞑想から始まった。懺悔は「ネガティブな過去からの解放」と定義することもでき、心の清浄道の中心的命題として何度も繰り返し言及してきた。 |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
『怒りの根源の発見』(2) K.M. |
ヴィバッサナー瞑想に出会い実践に着手したものの、貪瞋痴の煩悩、特に瞋(怒り)の制御が思うようにいかず思い悩んでいた時に、グリーンヒルのHPで地橋先生講師の朝日カルチャーセンター「ブッダのヴィバッサナー瞑想」オンライン講座が始まる事を知り申し込みしました。
◆長年の問題(怒り)へのフォーカス 事前に質問を送り、それに対して地橋先生がインストラクションしてくださるスタイルを基本として、私の場合は「怒り」の問題が中心議題となりました。 【私からの質問】 「職場で同じ失敗を繰り返す人に怒ってしまいます。怒らない様にするにはどうしたらよいでしょうか?」 【地橋先生からのインストラクション】 ・因果論の理解を徹底的に深める(→怒れば自分のカルマが悪くなる)。 ・基本的に腹が立つのは、プライドが傷つけられた時と思い通りにならない時であり、エゴ感覚がある限り怒りは出てしまうので、そのことを自覚すること。 とのインストラクションをしていただきました。 それを基に職場に臨みましたが、怒ってしまうシチュエーションになると怒っていることに気づきはするが、止めることが出来ず結局怒り続けていました。 次のオンライン講座でそのことを質問しました。 【地橋先生からのインストラクション】 ・いくらサティを入れても怒りが止まらないのは本気で止める気がないからではないか。容認する心がある限り、怒りの抑止は難しい。 ・一瞬のサティよりも怒りの妄想の方がはるかに強烈なので怒りが止められない状態。 ・今自分は怒っているという客観視は出来ているので20~30点程度のサティはあるものの、怒りの対象化ができていません。 ・怒りや嫌悪が立ち上がりやすいプログラムを書き換えないで、サティだけで止めることは前回のレポートからも多分出来ないでしょう。 ・本格的に視座を転換させる修行をしないと怒りの構造は変わりません。 ・「これから怒らないようにしよう」といった程度の決意では反応系のパターンは変わらないので、1週間休みを取って内観の修行をすることをお勧めします。 ・瞑想の現場でサティを深めるという問題ではなく、反応系の修行を優先すべきということ。 とのインストラクションをしていただきました。 これまでの人生「怒り」で失敗することが多かったので、何とか怒りを克服したくアドバイスを求めていましたが、怒りとは別の問題についても質問をしました。私は別の問題と考えていましたが、実はこれこそ怒りの根源だったのです。 【私からの質問】 「幼いころから寂しく、何か満たされない漠然とした気持ちがあり、この歳になっても続いています。若い頃は心身ともに活力があり、仕事に対するバイタリティーや趣味に没頭することで、そういう気持を抑えこむことができていましたが、年齢とともに体力も衰え、仕事に対しての出世欲や趣味に没頭する気持が薄れてきました。それによって幼い頃からあった漠然とした不安、寂しさが出てくることが増えてきており、日々苦しみを感じてしまいます。 特に一人で家にいる時は顕著に続きます。あるがままに自分の気持を観るのは心随観なので観ようとしますが、漠然とした不安、寂しさから逃れたい気持が強く、観ることを拒んでしまいます。なぜこの様な漠然とした不安、寂しさが起こるのでしょうか?何を起因としてこの様な幼い頃からある気持が今でも続くのでしょうか?」 【地橋先生からのインストラクション】 ・このことは、今まで申し上げませんでしたが、直感的にこれが怒りの根源であり深い根っこにあるものと思っていました。「愛着障害」だと思います。 ・もし赤ちゃんが普通に優しいお母さんに育てられたら、どんなことがあっても自分は見捨てられないし、必ず守られていて大丈夫だという心からの安心感が母子関係の最初期に形成され、情緒の基盤となります。 ところが諸々の理由でそうはならなくて、例えば、お母さんが病気だったり、虐待の環境があったり、あるいは仕事がとても忙しくて接触がなかったり等々。それで子供との愛着が形成されない場合、どうしてもネガティブな気持ちが赤ちゃんの方に生じます。これが心の奥底にある怒りの根源となります。 ・本来的な親子関係に展開せず、幼少期に不満と怒りが集積されていくと、自分への不遇な対応に対する根本的な怒りが諸々の場面で表出されがちなのです。これを「愛着障害」と言います。 ・まず「愛着障害」のことを勉強してください。自分の心の反応パターンがどのような歴史で形成されてきたか。なぜ漠然とした淋しさがつきまとうのか。些細なことでキレやすくなるのはなぜなのか。いろんなことが読み解けると思います。 ・本当に根源的に怒りを乗り越えられる可能性は、今差し掛かってきたと見ました。こういうレポートが出てきたと言うことは、一番大事な奥の院に入ってきたと思われます。 ・この愛着の問題、ネガティブなかつての環境そのものは変えられないが、認知を変えることはできます。過去を受け容れることが上手くいかなければ、私にサポートできることはします。何があったかわかりませんが、もし幼少期にネガティブな環境があったなら、それは輪廻転生論を使って過去世の業の結果が人生の最初期に引き継がれたという理解をします。現象世界は自業自得の構造なのだから仕方がないのです。不善業の結果は苦受を受ける法則、善いカルマの結果は楽受を受ける法則です。 だから自分が人生の最初期に何の責任も無いのに苦を受けたとしたら、それは過去世の業の結果と考えて怒りを手放し受け容れる発想をするのが仏教です。受け容れられれば怒りが終るし、受容できなければこれからもその怒りが続くのです。 ・因果論、業論を徹底していくと、どれほど不遇でネガティブな幼少期の環境も受け容れていくことが出来るはずです。それを今まで私は何人もサポートしてきました。自分のエゴの発想では上手くいかないでしょうが、仏教の力を使えば発想の転換が可能になります。こうしたサポートをすることによって、とても難しい問題ですが乗り越えられた方は何人もおります。 ・これは、今世でやるべき最大の仕事ではないかと私は思います。やり遂げることができれば、人生の最期に、今世は成功した生涯であった、良い人生だった、と言って死ねるというか、再生していくことが出来ると思いますので、頑張っていただきたいと思います。 とインストラクションしていただきました。 怒りの根源が幼少期の愛着障害であるというインストラクションに、納得する気持と情けない気持ちの両方がありました。家庭環境を振り返れば、決して満足のいく情態ではなかったので、なるほどと思いつつ、大人になっても子供のころの影響を引きずるなんて情けないとも思いました。 先生の懇切丁寧なインストラクションに感謝し、この愛着障害を克服することは「今生での最大の仕事」との言葉に問題の重要性を感じ、また「サポートはします。」との言葉に感激し、アドバイスいただいた「愛着障害」を勉強し自分の幼少期を振り返ることにしました。(続く) |
(先生提供) |
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2.日々の経験からの智慧 そのようなわけで深く考えることの実践が私たちを理解へと導くのはここなのです。 一つ喩えをあげましょう。大きな魚のかかった網をたぐりよせる漁師の喩えです。漁師は網を引き寄せながらどのように感ずると思いますか。もし魚が逃げるのではないかと不安を感じたとしたら彼は慌てて網と奮闘し始め、わしづかみにしたり、強く引っ張ったりするでしょう。気がつくとその大きな魚は逃げてしまっています。彼は性急にやり過ぎたのです。 昔であればこんな風に話すことでしょう。獲物はゆっくりと扱い、収穫するときは注意深く獲物を逃さないようにしなければならないと言われているではないかと。これは私たちの修行にもあてはまります。一歩づつ手探りで進み、修行の道を失わないように注意深く、積み重ねていきます。時として修行をしたくないと感じることもあるでしょう。見たくない、知りたくないと思うかもしれません。でも修行をし続けます。手探りで進み続けます。修行とはこういうものです。したいと思っている時にも進めるし、したく釦、と思っている時にも同じように進めます。ただ修行し続けるのです。 修行に熱が入れば、「信」の力が私たちの行為に活力を与えてくれるでしょう。しかしこの段階では私たちにはまだ智慧がありません。たとえ私たちが活力に満ちていたとしても修行から得るものは少ないでしょう。長い間修行を続けても正しい道に向かっていないのではないかと感じるかもしれません。平穏や静寂を見いだすことが出来ない、あるいは修行を行うための準備が充分でないと感じるかも知れません。あるいはまた正しい道に達するのはもはや不可能と感じるかも知れません。それで私たちは締めてしまうのです! この時点では私たちはとりわけ注意深くあらねばなりません。根気と忍耐とを最大限に発揮しなければなりません。これはまさに大きな魚を引き寄せるようなものです。手探りで目的とするものをゆっくりと手に入れます。獲物を注意深く引き寄せます。獲物との格闘もさほど困難なものではないはずです。そして休むことなく獲物を引き寄せるのです。 しばらくすれば魚は疲れ果て、抗うのを止めて容易に捕らえることが出来るようになります。通常、物事はいつもこんな調子であり、私たちは修行により、ゆっくりと目的を遂げるのです。 私たちが瞑想するときはこのようにします。もしブッダの教えの論理的な側面に関して特別な知識や学識を持ち合わせていない場合は日々の生活に照らし合わせて熟考するようにします。既にも持ち合わせている知識、日々の経験から得た知識を使うのです。このような知識は心に自然に備わっています。実際、私たちが心の真の姿を観察してもしなくてもそれは既に今ここに存在しているのです。私たちが知っていようがいまいが心は心なのです。 私たちはブッダがこの世に降誕してもしなくてもすべての事物があるがままに存在していると言いますがそれはこのためです。すべての物事はその本性に従ってすでに存在しています。このような生来の状態は変わることがないし、どこかへ行ってしまうこともありません。ただそのようにあるだけです。これが真理の法(sacca dhamma)と呼ぼれるものです。しかしこの真理の法についての理解がなければ私たちはにそれを認識することはできません。 そのようなわけで私たちはこのように熟考する修行を行います。もし経典に長けていないならば心そのものを学習と読解の材料とします。休むことなく深い考察(文字どおりには自分自身との対話)を続ければ徐々に心の性質についての理解が生じるでしょう。何ごとも無理に行う必要はありません。(続く)
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特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (9) |
本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌6月号より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは6月号をご覧ください。 アビダンマの解説と手引き PART 9 |
大治朋子著『歪んだ正義』(毎日新聞出版 2020年) |
「『あなたは、自分や自分の家族が無差別殺人を犯す可能性があると思いますか』 |
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