月刊サティ!

2022年1月号  Monthly sati!  January  2022


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:『懺悔物語 極悪の聖者-
                       アングリマーラの光と闇 ③』
  ダンマ写真
  Web会だより ー私の瞑想体験-:『怒りの根源の発見』(1)
  ダンマの言葉:『悟りの道への出発』(1)
  今日のひと言:選
   特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (8)
  読んでみました:
   ターリ・シャーロット著『事実はなぜ人の意見を変えられないのか
』 (白楊社 2019)

                

【お知らせ】
 「Web会だより」は今月号より「Web会だより -私の瞑想体験-」といたしました。
なお、検索の便宜のため、バックナンバーについては変更を加えておりません。

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。

 
  

     

              巻頭ダンマトーク
 『懺悔物語 極悪の聖者-アングリマーラの光と闇 ③

●殺人鬼と化していたアングリマーラの人生は偉大な師との出会いにより劇的な回心をとげ、新たな仏弟子としての修道生活に入ることができた。しかし血まみれの惨劇を繰り返した彼の心がいかばかりであったかが「テーラガータ887」の偈(詩句)にいみじくも表現されている。

  「あるいは森の中に、あるいは樹の下に、あるいは山の中に、あるいは洞窟に、いたるところで、わたしはその時、おびえた心をもって立っていた」
  これは、アングリマーラの瞑想修行が破綻していた表現として読めるだろう。どうしても瞑想に集中できず、「森の中に、樹の下に、山の中に、洞窟に・・・」と必死で座所を替え、心機一転しようとしている姿が髣髴とする。

  瞑想が上手くいかないのは劣悪な環境のせいだと、近隣の生活音や目障りな修行者を敵視し、座る瞑想→歩く瞑想→喫茶の瞑想・・と、せわしなくやり方を換えたりする人に何人も出会ってきた。

  物が壊れていたり、何か不具合が見つかった瞬間、「誰だ!やったのは・・」と、まず最初に他人を疑い、自分のせいだとは思わない傾向も普遍的である。
  人の心は、真っ先に内省や懺悔をするようにはできていない。生まれた時から自己中心的な視座が設定されており、意識的に修行しない限り、自分を対象化したり客観視したりはしないものだ。長じて痛い目に遭いながら、外界が思い通りにはならないのだと覚った時に初めて、意識の矢印を自分自身に向けてみるのが順番である。瞑想が上手くいかないのは、場所が悪いのではなく、自分の心に問題があるのではないか・・・と。

  捨て置けば風化していくかすり傷の自責の念もある。痛くても、辛くても、根本原因に向き合い、根っこから引き抜かなければならない深傷の罪業感もある。
  その感受性には個人差があり、微罪を怖れる人もいれば、相当の悪をしながらふてぶてしく居直るタイプもいる。表面意識のエゴ感覚と深層の本心は常に乖離する傾向があるが、アングリマーラほどの極悪がなされれば徹底した懺悔の瞑想をしない限り、自己客観視を旨とするヴィパッサナー瞑想の修行を進めることは不可能だったはずである。
  幼かった頃、人差し指の付け根に棘を刺し、すぐに抜いたが途中で切れてしまい、根っこを残したままカサブタが固まってしまった。やがて魚の目が形成され日増しに巨大化し、ついにメスでえぐり取る外科手術の激痛に泣き叫ぶことになった・・・。
  一点集中型の瞑想なら、強引な集中力の荒業で乱心を鎮めることができる者もいない訳ではない。しかし、それとても一時的に抑圧が功を奏しているに過ぎず、サマーディが解ければ心の闇に苦悶するのは必至である。

  アングリマーラがサイコパスだったなら、平然と瞑想修行を続けたのではないか・・という仮説は成り立たないだろう。大胆不敵を通り越し、人を殺しても白菜をザク切りにするようにしか感じない、先天的に恐怖心の欠如したサイコパス脳の持主が「怯えた心」で苦しむことはないからだ。
  アングリマーラの犯してきた悪行の凄まじさは、眼を背けたり抑圧できるレベルのものではない。「テーラガータ」に史実として垣間見えるのは、己の罪業に怖れおののき怯えた心で立ち尽くしている姿である。そんな罪深い心が、懺悔の行なしに煩悩を滅尽させ、究極の清浄心である阿羅漢果に到達することはない。
  いったいアングリマーラはどのような懺悔の修行をしたのだろうか・・・。その具体的なやり方は杳として知れないが、中部経典第86「アングリマーラ経」 に次のような出来事が記されている。

  ・・・ある日、アングリマーラは托鉢の食を乞うサ-ヴァッティの街で、難産に苦しむ婦人を見た。そのとき彼に憐れみの心が生じ、こう思った。
   <ああ、人々はドゥッカに苦しんでいる。実に、生きるものは苦にあえいでいる・・・>

  このような所感が得られたからには、アングリマーラの懺悔の修行はこのときほぼ完了していたのではないか、と推測することができる。他者のドゥッカ()に憐れみの心が生じたからには、自分自身の後悔や自己呵責の苦しみからはほぼ解放されていただろう。己の真っ黒い心に打ちのめされている者の口から「実に、生きるものは苦にあえいでいる」と達観する言葉が洩れるはずはないからだ。

独力で懺悔の行を見出したのか、ブッダの指導があったのか。そのプロセスを伝える典籍は不明だが、「テーラガータ890」のアングリマーラの言葉には「邪悪の根本を吐き出した」という表現が見られる。

「邪悪の根本」とは、罪業感や自責の念など自身に向けられた怒りも、怒りのルーツである無明の闇も、ドゥッカ()の因となるドス黒いものはことごとく吐き出された・・という意味だろう。アングリマーラの懴悔の修行がやり遂げられ完了したことの証左と言える。

  「アングリマーラ経」を読み進めると、托鉢から帰ったアングリマーラがブッダに礼拝し、その日、難産に苦しむ婦人を見たと報告している。それに対するブッダの指導には鮮烈な印象を受けた。彼の報告を聞いたブッダは次のように言う。

「アングリマーラよ、それではもう一度サ-ヴァッティへ行くがよい。行って、その婦人にこのように告げるがよい。婦人よ、私は生まれてからこのかた、故意に生き物の命を奪った覚えがない。このことの真実によってあなたに安息のあらんことを、胎児に安らかさあらんことを、と」

「それでは嘘になります。私は故意に多くの人の命を奪いましたから」

「では、アングリマーラよ、<私は聖なる者に生まれ変わって以来このかた、故意に生き物の命を奪った覚えがない。この真実によってあなたに安息のあらんことを、胎児に安らかさあらんことを・・・>と言うがよい」

アングリマーラが仰せの通りにすると、婦人は安らかになり、胎児は安らかに生まれた。

  一切智者であるブッダが言い間違いをするはずはない。なぜブッダはこのような言い直しをさせたのだろうか。その意図は、
  「アングリマーラよ、もう過去に囚われてはならぬ。後悔は悪である。かつては殺戮をした者であっても、二度と生きものを殺傷しないという強い意志を持てば慈悲のエネルギーにまで昇華する。
  これまで厳密に殺生戒を守ってきた徳には、苦悩する人を癒す力さえ備わっているのだ。
  過去の悪行を脳裏に浮かべるのではなく、善行に眼を向けよ。
  古い悪を新しい善業で償うのだ・・・」
と理解することができる。

  この巧妙な言い直しは、ブッダの説法の真骨頂だろう。
  「懺悔の修行とは、ネガティブな過去から解放され、これからはダンマに基づいて正しく、きれいに生きていくと決定し、明るい浄らかな未来形に心を転じていくことだ」とその奥義を示している。
  ブッダの偉大さは、真理の究極を自ら体得されたこと以上に、卓越した説法能力と確実に人を悟らせる指導力にあるだろう。
  我が子を喪い半狂乱になったキサーゴータミーがどんな慰めも説法も耳に入らないと見抜けば、「死人を出したことのない家で芥子の粒を貰ってきなさい・・・」と導く。
  あるいは、ブッダを口汚く罵倒した男に静かに答える。
  「饗応した食事を来客が食べずに帰れば、その食事は誰のものか。あなたのものだろう。そのように、私もあなたの罵倒する言葉を受け取らない。あなたが吐いた罵詈雑言は、あなたが受け取るのだ・・・」

  アングリマーラへのブッダの説法は、懺悔修行の核心を鮮烈に心に刻み込んでくれた。
  赦されざるネガティブな過去から解放されるためには、愚かな悪を犯してしまったかつての自分を全否定しなければならない。だが、ひとたび傷つけた者に対し、苦しめた者に対し、裏切った者に対し、我が身を捨てきってお詫びし、赦しを乞い、心底から謝り抜いたなら、意識の矢印を未来に向けて切り換えなければならない。過ぎ去ったことに囚われ、自分を責め続けてはならないのだ。どれほどの悪をした者であっても、心底から懺悔し、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓ったなら、過去に終止符を打ち、生まれ変わるのだ。

  「聖なる者に生まれ変わって以来」とは、「出家して以来このかた」という意味である。アングリマーラは出家した時点で俗世を捨て、ダンマの世界に生まれ変わった筈なのだが、心は忌まわしい過去に縛りつけられたまま森の中に、樹の下に、山の中に、洞窟に、いたるところに・・・怯えた心で立っていたのだ。

  アングリマーラが真に解放され、聖なる者に生まれ変わることができたのは、徹底した懺悔の修行で過去に終止符を打つことができたからだ。邪悪の根本を吐き出したからである。さらに歩を進めれば、懺悔修行の究極は、赦しの瞑想になると理解すべきだろう。
  愚かで穢れた過去の自分を赦し、受け容れてやらなければならない。赦すことができず、否定し続ける限り、怒りの煩悩がくすぶり続けており、懺悔の修行が完了したとは言えない。
  たとえ自分を深く傷つけ危害を加えた者であっても、憎しみ否定し続けている限り、怒りの煩悩に束縛されたまま死んでいくことになる。どれほど極悪非道な者であっても、最後には赦さなければならない。赦すことによって、ネガティブな情念からの解放が起きる構造だからである。
  その最悪の他者を赦すように、赦されざる最低の所業をしてしまった自分も、正しい手順を踏んで最後に赦さなければならないのである。その心の営みを、赦しの瞑想と言う。

  どうしても赦すことができず、過去を手放せないということは、無常に逆らい、無常の真理を受け容れることができない愚かさである。人の心も体もあらゆる事象は変滅していく・・・とブッダから学んできたではないか。赦すことができなければ、無常の力を借りるとよい。
  人は必ず過ちを犯すものであり、それは正しい理法を知らぬ無明に由来したことなのだ。悪いのは無知であり、愚かさであって、人ではない。納得のいくまで懺悔をしたならば、赦しの瞑想に徹し、最低最悪だった自分を赦して受け容れてやるのだ。その時、真の優しさである慈悲の心が発露する・・・。「私よ、幸せであれ!」という一行から慈悲の瞑想が始まる構造が理解されるだろう。

  難産の婦人への説法を承ったアングリマーラは、ほどなく聖なる修行を完成し、阿羅漢となった。

★「愛執を離れ、執着なく、六つの感官の門を守り、よく自ら制御し、邪悪の根本を吐き出して、私は、穢れの滅尽に達した」(テーラガータ890

  極悪人が実際に聖者に変身するまでに、懺悔の修行は不可欠のものである。悪を犯してしまった者に、アングリマーラ尊者ほど希望の光を与えてくれる存在はいない。過去にどれほどのことをしてしまった者でも、心底から懺悔の瞑想をし、償いをし、ダンマを拠りどころに正しく生きることを開始すれば、やり直すことができない者などいないのだ、とアングリマーラ尊者は静かに語りかけてくる・・・。

★「私は以前、盗賊であってアングリマーラとして世に知られていた。大洪水のために流されて、ブッダに帰依するに至った」(880)
★「私は以前に血染めの手をし、アングリマーラとして世に知られていた。私がブッダに帰依した姿を見よ。輪廻の生存に導くものは滅ぼされている」(881)
★「悪の生存に至るこのような多くの行ないをなして、悪しき行為の報いに触れたが、今や私は負債なくして、施食を受ける身となっている」(882)
★「誰でも、以前に放逸であっても、後に放逸でないところの者は、雲から離れた月のように、この世を照らす」(872)
★「誰でも、そのなした悪い行ないが、善い行ないによって覆われる者は、雲から離れた月のように、この世を照らす」(873)

  40余年前に道を求めて私が最初に始めた修行は、真夜中に水をかぶり経を読むことであった。滝行もふくめた水の行は以来一日もかかさず17年間に及んだが、今にして想えば、その当初は自分の心と体の穢れを洗い浄めたい欲求に駆られていた。
  もうあのドゥッカ(苦)のドブ泥には二度と戻りたくなかった。心底から聖なるものを求めていた。しかしどれほど過去の記憶を捨てたくても、納得や諒解のいかぬまま忘却の彼方に押しやることはできない。
  一度でもよい、真実に懺悔の修行をやらなければ過去を総括した得心と安らぎが訪れることはなく、したがって他者に対する積極的な慈悲の心が生じることもないだろう。それが人の心の順番である。

  私は誰に教えられるでもなく、私がそれまでに傷つけてしまった一人ひとりの顔を想い起こし、痛切に心のなかで詫び、懺悔をし、赦しを乞いながら謝り続けた。サマタ瞑想の集中で強い実感に没頭し、滂沱の涙が流れ落ちていった。
  ・・赦してください。今どこにどうしているのか分りませんが、幸せであってください。残る生涯がよい人生でありますように・・・、と心からの祈りを捧げた。
  懺悔がやがて純粋な愛念に昇華し、最後には胸が金色に光った。
  毎夜、一晩に一人づつ数時間に及ぶこの心の儀式を続けていくうちにある日、もうよい、と心が納得しフッ切れていったのである。過去は完全に過ぎ去ったものとして消えていき、二度と悪をしないという決意が揺るぎないものとなった。

  これが清浄道の入口に足を踏み入れるための私の懺悔の瞑想であった。上座仏教に縁がつくまでには、神道や修験道、ヨーガ、大乗仏教など、さらに12年の遊行と遍歴を続けなければならなかった。
  人には人の進むべき道があり、宿業の押しやる力に従っていくしかない。思えば、真っ暗な自滅の坂を転がり落ちるように、苦諦の真理を思い知らされるための暗黒の10年だった。吐き気が止まらず、犬のように自室に横たわっているだけになった私を救い出してくれた友が存在したのは、わずかに残った善き宿業のなせる業だったのだろう。
  穢れた自分が新たな修道生活への門をくぐるには、禊の水の行と、黒い塊を吐き出すための懺悔の瞑想が不可欠だった。孤独な私の苦しい修行を支えてくれていたのは、2500年前のアングリマーラ尊者の言葉だった。最低最悪の者でも、やがて雲から離れた月のように、この世を照らすことができるのだよ・・・と静かに語りかけてくれるアングリマーラ尊者の言葉を何度も泣きながら読み、手本としていた・・・。()




 今月のダンマ写真 ~
 
「森閑とした緑に佇む修行者用クーティ タイ森林僧院にて」

先生より

    Web会だより ー私の瞑想体験-

『怒りの根源の発見』(1) K.M.

  これまでの人生を振り返ると、何か寂しい気持に覆われて、そこから逃れたくてもがいていているような感じでした。そんな気持ちがあったからでしょう、何かに救いを求めておりましたが、幸いにも変なものに騙されることもなく、大乗仏教を経てヴィバッサナー瞑想に出会うことができました。

◆仏教との出会い
  私が生まれた頃は高度成長期であり、幼稚園と言えばお寺が経営している事が多く、私や近所の同級生や同世代の子供たちは家が近所のお寺の檀家でありましたので、そのお寺の幼稚園に通っていました。幼稚園に行けば毎朝本堂に集められて念仏を唱えて仏像を拝み、天女の絵画を見ては「仏様はあの世(極楽)にいるんだぁ。あの世には綺麗な女の人がいるんだぁ」と信じていましたが、「あの世はきらびやかな世界だけど、死なないと行けない世界なので怖い」と仏教に関しては、憧れる反面、恐れを含んだ想いの感覚を持っていました。
  進学した高校が浄土真宗系の学校だったので、体育館の壇上に阿弥陀様の仏像があり、節目の学校行事の際には、パーリ語の三帰依文を唱えていました。入学式の時に初めて聞いたパーリ語の三帰依文には、「何語?どこの国の言葉?」と不思議な感覚を覚えたものです。
  週に1回宗教の授業があり、八正道等の代表的な仏教教学を学びましたし、日本史が好きなこともあり、各宗旨宗派の事を興味を持って学びました。
  幼稚園の頃から何故かしら「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」を感じてしまう事が多く、小学生の頃もそんな心の状態は変わることなく、中学生になるとその「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」のせいか、訳のわからない事が気になる傾向(机の横に掛けている学生カバンの開閉止め金具を何度も開けたり閉めたりする)等の、今考えれば精神的におかしいのではないかと思うような拘りが顕著になってきました。高校生になっても「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」が無くなることは無かったですし、性格的には相手に気を遣う反面、些細なことから突然喧嘩になる傾向がありました。
  そんなやるせない精神状態から救われたい解放されたい願望は常にあり、大学生になる頃にある密教系の教団の本を目にして「これで今までの問題が解決できる」と思い入信しました。
  以上のような経緯で仏教(大乗仏教)と縁があり、仏教教学・仏教史を学ぶようになりました。そこで初めて大乗仏教には仏陀直説のパーリ仏典を依経とする宗派がないことを知り驚愕したものです。

◆ヴィバッサナー瞑想との出会い
  密教系の教団に入った頃には、「これで社会でも成功して幸せな人生が送れる」と思っていましたが、なかなか自分が思い描いていたような人生とはならず、社会人になり結婚をして娘が一人出来ましたが、自分の不徳故に娘が成人した頃に離婚しました。
  「仏陀の教えを知りたい。苦しみから解放されるのは仏教しかないはずだ」との思いはありましたが、仕事に忙殺される日々が続き仏教に関わる機会が薄い期間を過ごしていました。
  このままでは悔いが残る人生になってしまうと悶々と思っていた頃、母親が肝臓がんで亡くなり、数か月後には軽トラックの荷台から誤って後頭部からコンクリートの床面に転落、頭部を強打し半年間入院する程の大怪我をしました。
  離婚、母親の死、大怪我による長期入院等を経験し、これからの人生どうしたものかと千思万考している折に、知人から日本に原始仏教を布教する日本テーラワーダ仏教協会があるという事を教えてもらいました。それで協会のHPやスマナサーラ長老の本を読んでヴィバッサナー瞑想があることを知りました。そして、その知人から地橋先生のご著書「ブッダの瞑想法ヴィバッサナー瞑想の理論と実践」を勧められました。この様な経緯で私はヴィバッサナー瞑想と出会うことが出来ました。
  テーラワーダ仏教を学ぶとヴィバッサナー瞑想で解脱、悟りに至る事が出来る。苦から解放されるのはやはり仏教しかない。また、そのことを地橋先生は論理的に説明されており、正に苦からの解放は仏教しかないとの思いに至りました。

◆瞑想への着手
  スマナサーラ長老のご著書、地橋先生のご著書を読み、ヴィバッサナー瞑想のやり方を学び実践に着手しました。本だけでは我流に陥る可能性があるので、20192月に初心者講習会に参加して初めて地橋先生の指導を受ける事が出来ました。次のステップの瞑想会も考えていましたが、遠方(広島)ということもあって機会を逃している中、コロナウイルス感染拡大という状況に至り、その後瞑想会に参加することなく幼稚ながらも瞑想実践に取り組んでいました。
  瞑想により煩悩を減らして、心を清らかにして、苦を無くしていこうと、少しずつでも取り組んでいました。以前に比べ、煩悩(貪瞋痴)を制御出来ているような気はするものの、幼い頃からある、何か得体のしれない「不安・寂しさ・虚しさ・悲しさ・焦燥感」が常に靄の様に心を覆っている感じが拭えず、心随観でその心の状態を観ようとしても、その心の状態を嫌って目を背ける傾向がありました。
  怒ることは不善心であり善くない事と頭ではわかっているのですが、職場やプライベートでも激怒してしまうことが出てしまい、煩悩(貪瞋痴)を滅尽させるために瞑想をしているのに怒ってしまう。時には怒ることを楽しんでいるかのように怒ってしまう。何のための瞑想か?自分には瞑想のセンスが無いのか?やり方が間違っているのか?本気でやる気があるのか?等々紋々と考えしまう事が続いていました。(続く)
       

幸せでありますように!

 (K.U.さん提供)
 






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ダンマの言葉

今月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話を掲載いたします。今月はその第1回目です。

                         覚りの道への出発

1.自然な心を読む
  私たちの修行方法は物事を念入りに観察し、その本質を明瞭にすることにあります。私たちは粘り強く、絶えまなく実践します。しかし急いだり、慌てたりはしません。もちろんゆっくりし過ぎることもありません。徐々に私たちが進むべき道を手探りし、まとめあげていきます。しかしこの道をまとめていく作業には方向性があります。私たちの修行には目指すものがあります。
  私たちのほとんどは単なる欲から修行の道に入ります。私たちは何かを欲して修行を始めるのです。この段階では私たちの欲は正しくない欲です。別の言葉で言えば思い違いをしているのです。それは誤った見解が混じった欲です。
  もし欲がこのような誤った見解と混じることがなければ、それを私たちは智慧(paññā)を伴った欲と呼びます。それは思い違いではなく、正しい理解を伴う欲です。このような場合私たちほその人物が持つ波羅密(pāramī)ないし過去の蓄積によるものと言います。しかしこれはすべての人に当てはまるわけではありません。
  一部の人々は欲を持つことを嫌います。別のことばで言えば欲を持たないことを願うのです。なぜなら修行というものが何も欲しない、ことを目指していると考えているからです。しかしもし欲が無ければ修行することも出来ません。
  欲は私たち自身のためにあると見ることができます。ブッダとその弟子たちは煩悩を終焉させるために修行をしました。私たちは修行したいと思い、煩悩を終焉させたいと思わなければなりません。心の平穏を願い、混乱がない状態を願わなければなりません。しかしもしこの欲求が誤った理解を伴うなら、それは積もり積もって困難を増すだけとなるでしょう。
  誠実な言葉を使えば、私たちは何も知らないのです。あるいは私たちが知っている事は何の結果ももたらさないのです。なぜなら知っている事を正しく用いることが出来ないからです。
  ブッダを含め、誰もが皆このように欲から修行を始められました。心の平穏が欲しい、混乱や苦を避けたいという欲です。この二つの欲はまったく同じ価値を持ちます。理解が伴わなければ、混乱から逃れたいという欲求、苦しみたくないという欲求は共に煩悩となります。これらは愚かな欲求の形、智慧の無い欲です。
  私たちの修行においてはこの欲は官能的耽溺、あるいは自己抑制という形をとります。まさにこの軋轢のなかで私たちの師であるブッダはジレンマに陥られたのです。ブッダは数々の修行法を試みましたが結局これらの両極端に終わるだけだったのです。現代の私たちも事情はまったく同じです。私たちはいまだにこの二極化にさいなまされ、そのために正しい道からはずれてばかりです。
  しかし私たちはこのように修行を始めざるを得ないのです。私たちは煩悩にまみれた俗世間の人間として修行を始めます。智慧を欠いた欲求、正しい理解のない欲を持って。正しい理解を持ち合わせていなければ、この二種類の欲は私たちに良くない働きをします。それが欲することであろうが欲しないことであろうが渇愛(tahā)の域を出ないのです。
  私たちがこの二つの事を理解していなければ、これらが立ち上ってきた時にどう対処したら良いか分からず途方に暮れることになるでしょう。私たちは前に進むのも正しくない、後ろに引き下がるのもまた正しくないと感ずることになるでしょう。何をしても更なる欲求を見いだすだけとなるのです。これは智慧の欠如が原因であり、また渇愛が原因です。
  私たちはまさにここ、欲することと欲しないことによって法(Dhamma)を理解することができるのです。私たちが探し求めている法はまさにここにあるのです。しかし私たちにはそれがわかりません。むしろ欲求することを止める努力に固執するのです。私たちは物事をある型にはめたいと願い、それ以外を嫌うのです。あるいは物事が型にはまらないことを願いながら別の型にはめたいと願うのです。本当はどちらも同じことです。同じ二極化の一部なのです。
  私たちはブッダとその弟子たちすべてがこの種の欲求を持っていたことを実感できないかもしれません。しかしブッダは欲すること、欲しないことがどのようをものか理解したのです。ブッダは欲することも欲しないことも単なる心の活動で、瞬時に現われては消えていくものであることを理解したのです。この種の欲は絶え間なく続きます。智慧があればそれらを自分と同一視することはあはせん。欲すること、欲しないこと、いずれもただあるがままにみるだけです。現実にはそれは単なる自然のままの心の働きです。注意深く観察すれば自然なこころとはこのようなものであると明瞭に見てとれるのです。(続く)

       

 今日の一言:選

(1)あれほど執着しこだわっていたことなのに、歳月が流れれば、どうでもよいことに風化してしまうのだ。
 ……所詮この世のことよ、と達観する。
                                   ・ ・ ・ ・ ・

(2)もしエゴが法として実体のあるものなら、ブッダは無我論を説かなかっただろう。
 「自我感」は感覚的真実かもしれないが、思考のプロセスから生まれてくる偽の印象に過ぎない。
 ……と、考察するのも論議するのも意味がない。 
 <無我>の検証は、思考を止めて、法と概念を厳密に識別していくヴィパッサナー瞑想の仕事なのです。

(3)死んで無になれるなら、永遠の存在の流れから解脱する仏教の悟りに限りなく近づいてしまう。
  修行した者も修行などしたことがない者も、等しく同じ領域に入れるなら、輪廻転生から解脱するシステムを説いたブッダはかなりアホな人になってしまう。
  生滅を繰り返す素粒子、宇宙、生命・・。

(4)人間関係が成立する。 
 その他者の視座から、自分を客観視する訓練。
 自己中心的なエゴの働きが弱められ衰えていくだろう。
 ……これで、サティの瞑想を始める準備が整った。


       

          特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (8)
  本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌月号より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは6月号をご覧ください。
         

第4節 アクサラ(不善な)チェータスィカ
III. (1)モーホー、(2)アヒリカン、(3)アノッタッパン、(4)ウッダッチャン、(5)ローボー、(6)ディッティ、(7)マーノー、(8)ドーソー、(9)イッサー、(10)マッチャリヤン、(11)クックッチャン、(12)ティーナン、(13)ミッダン、(14)ヴィチキッチャー チャー ティ チュッダスィメー チェータスィカー 

アクサラー ナーマ
III. (1)モーハ(真理が分からずに混乱した状態)、(2)アヒリカ(不善な行いを恥じないこと)、(3)アノッタッパ(不善な行いを恐れないこと)、(4)ウッダッチャ(不穏、興奮)、(5)ローバ(欲)、(6)ディッティ(真理にそぐわない誤った見解)、(7)マーナ(自惚れ・傲慢)、(8)ドーサ(怒り)、(9)イッサー(嫉妬)、(10)マッチャリヤ(強欲・物惜しみ)、(11)クックッチャ(後悔)、(12)ティーナ(怠惰)、(13)ミッダ(無気力)、(14)ヴィチキッチャー(ブッダ、ダンマ、サンガとブッダの教えに対する疑い) この14種類がアクサラ(不善な)チェータスィカという名前で呼ばれます。

4節へのガイド
(1)モーハ(真理が分からず混乱した状態):モーハはアヴィッジャー(真理に対する無知)の同義語です。その特徴は「精神的な盲目」ないし「(真理が)分からないこと(アンニャーナ)」です。その働きは「本質を見抜かない」「対象の本質を隠ぺいする」です。そして「正しい理解の欠如」「精神的な暗黒」として現れます。その直近の原因は「アヨニソーマナスィカーラ(認識の過程で正しくない対象に注意を向けること)」です。モーハはアクサラ(不善)となる全ての要素の「チッタを安定させる根」とみなされます。

(2,3)アヒリカ(不善な行為を恥じないこと)、アノッタッパ(不善な行為を恐れないこと):アヒリカ(不善な行為を恥じないこと)の特徴は「身体や言葉による不適切な行為を嫌がらないこと(ないし道徳的な無謀)」であり、その特徴は「そのような不適切な行為を恐ろしいと思わないこと」です。両方とも「邪悪な事をする」という働きを持ちます。アヒリカの直近の原因は「自分への敬意の欠如」、アノーッタッパの直近の原因は「他者への敬意の欠如」です12

(4)ウッダッチャ(不穏、興奮):ウッダッチャには、風によって水がしぶきをあげるように「ざわついた不穏な状態」という特徴があります。その働きは、風が旗竿をはためかせるように「心を不安定にさせること」です。そして「混乱」という形で現れます。「心の不穏に向かうアヨニソーマナスィカーラ(認識の過程で正しくない対象に注意を向けること)」が直近の原因です。

(5)ローバ(欲):アクサラヘートゥ(不善な、チッタを安定させる根)の筆頭であるローバ(欲)は程度に関係なく全ての利己的な願望、熱望、愛着、執着を含みます。その特徴は「対象を握りしめること」であり、「諦めない」という形で現れます。その直近の原因は、「束縛へと導く物事に喜びを見出すこと」です。

(6)ディッティ(真理にそぐわない誤った見解):ここで使われているディッティの意味は「誤って観ること」です。その特徴は「智慧を欠いた(根拠の無い)物事の解釈」です。その働きは「根拠無しに正しいと思い込むこと」であり、「誤った解釈ないし信条」という形で現れます。その直近の原因は「ブッダの教えを守る気高い人々(アリヤ)に会おうとしないこと」などです13

(7)マーナ(自惚れ・傲慢):マーナの特徴は「傲慢」であり、その働きは「自分を褒め称えること」です。そして「虚飾」という形で現れ14、その直近の原因は「様々な見解から生じる欲」です15。マーナは「狂気」とみなす必要があります。

(8)ドーサ(怒り):アクサラへートゥ(不善な、チッタを安定させる根)の二番目である、ドーサ(怒り)は大小を問わず、全ての種類の嫌悪、悪意、立腹、苛立ち、困惑を含みます。その特徴は「残忍・凶暴」です。その働きは「自分自身の支えとなるもの、つまりドーサが生じた身体と心を離散させ、焼き尽くすこと」です。そして「生命を虐げる」という形で現れます。その直近の原因は「困惑の種となったもの」です16

(9)イッサー(嫉妬):イッサーには「他人の成功を妬む」という特徴があります。その働きは「他人の成功を喜ばないこと」です。そして「他人の成功に対する嫌悪」という形で現れます。その直近の原因は「他人の成功」です。

(10)マッチャリヤ(強欲・物惜しみ):マッチャリヤの特徴は「手に入れた、あるいは手に入りそうな自分の成功を隠すこと」です。その働きは「自分の成功を他者に分け与えようとしないこと」です。そして「分け与えることへの尻込み」「けち」「不機嫌」という形で現れます。その直近の原因は「自分自身の成功」です。

(11)クックッチャ(後悔):クックッチャは間違いを犯した時に生じる心配ないし良心の呵責です。その特徴は「間違った行為に続いて生じる後悔」です。その働きは「してしまったこと、しなかったことを悲しみ嘆くこと」です。そして「良心の呵責」という形で現れ、その直近の原因は「してしまったこと、しなかったこと(するべきではないのにしてしまったこと、なすべきなのにしなかったこと)」です。

(12)ティーナ(怠惰):ティーナは心が不活発で鈍くなった状態です。その特徴は「活力の喪失」であり、その働きは「エネルギーを追い払うこと」です。そして「心の萎縮」という形で現れ、その直近の原因は「退屈・眠気に不用意に注意を向けること」です。

(13)ミッダ(無気力):ミッダは心が暗く沈んだ状態です。その特徴は「扱いにくいこと」で、その働きは「抑えつけること」です。そして「よだれをたらす」「こっくりこっくりする」「眠気」といった形で現れます。その直近の原因はティーナと同じで「退屈・眠気に不用意に注意を向けること」です。
  ティーナとミッダは常に一緒に生じ、ヴィリヤ(エネルギー)の対極にあります。ティーナはチッタが病んだ状態(チッタゲーランニャ)、そしてミッダはカーヤ(関連するチェータスィカの集合体)が病んだ状態(カーヤゲーランニャ)として識別されます。ティーナとミッダは対になって禅定を妨げる五つのニーヴァラナ(障害)の一つを構成します。そしてヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ)により克服することが出来ます。

(14)ヴィチキッチャー(ブッダ、ダンマ、サンガとその教えに対する疑い):ヴィチキッチャーは宗教的な意味での疑いであり、仏教徒の見方からは、ブッダ・ダンマ・サンガとブッダが教えられた修行法に信を定めることが出来ない状態とされています。その特徴は「疑うこと」であり、その働きは「迷い」です。「優柔不断、あちこち手をつけること」という形で現れ、「智慧のない注意」が直近の原因です。

ソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカ:25種類

5節 ソーバナサーダーラナ(道徳的に美しいチッタの全てに付随する)チェータスィカ:19種類
IV. (1)サッダー、(2)サティ、(3)ヒリ、(4)オッタッパ、(5)アローボー、(6)アドーソー、(7)タトラマッジャッタター、(8)カーヤパッサッディ、(9)チッタパッサッディ、(10)カーヤラフター、(11)チッタラフター、(12)カーヤムドゥター、(13)チッタムドゥター、(14)カーヤカンマンニャター、(15)チッタカンマンニャター、(16)カーヤパーグンニャター、(17)チッタパーグンニャター、(18)カーユッジュカター、(19)チットゥッジュカター
  チャー ティ
 エークーナヴィーサティメー チェータスィカー ソーバナサーダーラナー ナーマ

IV.(1)サッダー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する確信)、(2)サティ(今の瞬間に対する気づき)、(3)ヒリ(不善な行為を恥じること)、(4)オッタッパ(不善な行為を恐れること)、(5)アローバ(正しい生き方を目指して欲から離れること)、(6)アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)、(7)タトラマッジャッタター(執着から離れ、偏りが無く、調和の取れた心の態度)、(8)カーヤパッサッディ(関連するチェータスィカの集合体が静まった状態)、(9)チッタパッサッディ(チッタが静まった状態)、(10)カーヤラフター(関連するチェータスィカの集合体が軽くなった状態)、(11)チッタラフター(チッタが軽くなった状態)、(12)カーヤムドゥター(関連するチェータスィカの集合体が柔軟になった状態)、(13)チッタムドゥター(チッタが柔軟になった状態)、(14)カーヤカンマンニャター(関連するチェータスィカの集合体がブッダの教えを受け入れやすくなった状態)、(15)チッタカンマンニャター(チッタがブッダの教えを受け入れやすくなった状態)、(16)カーヤパーグンニャター(関連するチェータスィカの集合体の能率が向上した状態)、(17)チッタパーグンニャター(チッタの能率が向上した状態)、(18)カーユッジュカター(関連するチェータスィカの集合体が清廉潔白で真っ直ぐなこと)、(19)チットゥッジュカター(チッタが清廉潔白で真っ直ぐなこと) この19種類のチェータスィカがソーバナサーダーラナ(道徳的に美しいチッタの全てに見られるチェータスィカ)と呼ばれます。

5節へのガイド
ソーバナサーダーラナ(道徳的に美しいチッタの全てに見られる)チェータスィカ:ソーバナチェータスィカは四つのグループに分類されます。最初のグループはソーバナ(道徳的に美しい)チッタ(第1章、第12節参照)に例外なく付随するチェータスィカ19種類です。その後に続く三つのグループは必ずしもソーバナ(道徳的に美しい)チッタに付随するわけではなく、状況に応じて付随したり、しなかったりします。

(1)サッダー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する確信):ソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカの最初はサッダーで、「信を定める」、「信頼する」という特徴があります。その働きは水を浄化する作用のある石が泥水を澄んだ水にするように「きれいにする」ことです。また、氾濫した川を渡ろうと出発するように「出発する」という働きもあります17。「曇りがない(心の汚れを取り去ること)」、「決意」という形で現れ、その直近の原因は「信を定めるなんらかの対象」ないし「良い法話を聞くこと」などです。サッダーはソーターパッテイ(聖者の流れに入った悟りの第一段階)の構成要素の一つです。

(2)サティ(今の瞬間に対する気づき):サティは「憶える」という意味の語幹から派生した言葉です。しかし、チェータスィカとしてのサティは過去の出来事を記憶する能力ではなく、「今の瞬間に心がとどまること」「今の瞬間に注意していること」という意味を持っています。その特徴は「揺れ動かない」つまり「対象から離れてさまよわない」ことで18、その働きは「混同したり、注意を怠ったりすることが無いこと」です。そして「(心がさまよわないように)守り支えること」「対象にしっかり向きあった状態」という形で現れます。その直近の原因は「強力な認知(ティラサンニャー)」、ないし「サティの四つの土台(第7章、第24節参照)」です。

(3、4)ヒリ(不善な行為を恥じること)、オッタッパ(不善な行為を恐れること):ヒリの特徴は「不善な身体の行為や言葉を嫌悪すること」です。オッタッパの特徴は「そうした不善な行為を畏怖すること」です。どちらも「邪悪な行為をしない」という働きを持ち、「尻込みして邪悪から離れる」という形で現れます。ヒリの直近の原因は「自分に対する敬意」であり、オッタッパの直近の原因は「他者に対する敬意」です。ブッダはこの二つを「世界の守護」と呼ばれました。世界が、不道徳がはびこる状態に陥らないように守ってくれるからです。

(5)アローバ(正しい生き方を目指して欲から離れること):アローバの特徴は「対象に対する欲望が無い心」、あるいは、蓮の葉の上に乗る水滴のように「対象に執着しないこと」です。その働きは「握り締めないこと」であり、「無執着」という形で現れます。アローバには単に欲が無いだけではなく、「寛大さ」や「俗世間的な生活から離れること」など、健全で道徳的な心が同時に存在することを理解する必要があります。

(6)アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること):アドーサの特徴は「凶暴性が無いこと」、「対立しないこと」です。その働きは「苛立ちの除去」、「熱を冷ますこと」です。そして「愛想の良さ」という形で現れます。アドーサには「慈しみ、優しさ、真心、親切」など健全で道徳的な心が含まれています。
  アドーサがメッター(慈しみ)という崇高な心として現れた場合、その特徴は「全ての生命が幸せになるように努めること」となります。その機能は「全ての生命の幸せを願うこと」であり、「悪意の除去」という形で現れます。その直近の原因は「全ての生命を愛らしく思うこと」です。メッター(慈しみ)は、「メッター(慈しみ)の近くの敵」である利己的な情愛と区別する必要があります。

(7)タトラマッジャッタター(執着から離れ、偏りが無く、調和の取れた心の態度):このパーリ聖典の用語の文字通りの意味は「中央に位置すること」です。ウペッカーの同意語ですが、「苦しくも楽しくもない状態」という意味ではなく、「執着から離れ、偏りが無く、調和のとれた心の態度」という意味です。その特徴は「チッタやチェータスィカを平等に伝えること」です。その働きは「過不足を防ぐこと」です。そして「中立性」という形で現れます。馬たちが左右に偏らないで真っ直ぐに道を進むようにと、平等な心で目を配る御者のように、「チッタやチェータスィカの中で、偏らない心で見る状態」と考えてください。
  心が中立を保つと、それは全ての生命を平等にみる崇高な性質となります。全ての生命を平等にみて、差別、好み、偏見なく同じように扱います。この中立な心を、その「近くの敵」である「無知からくる俗世間的な無関心」と混同しないようにしてください。
  その後に続くソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカは六つの組なっています。それぞれの組の内の一つはカーヤ(関連するチェータスィカの集合体)という名前が、そしてもう一つにはチッタという名前がつけられています。この文脈の中では、カーヤは関連するチェータスィカの集合であり、「塊」という意味で「身体」という用語が用いられています。

(8,9)パッサッディ(静まった状態):二つが組になったパッサッディの特徴は「カーヤ(関連するチェータスィカの集合体)とチッタの妨害物(ダラタ)を静かにさせること」です。その働きは「そのような妨害物を粉砕すること」です。「平穏」「冷静」という形で現れ、その直近の原因はカーヤとチッタです。「ウッダッチャ(不穏・興奮)」「クックッチャ(後悔)」など苦悩をもたらす煩悩の対極にあると考えてください。

(10,11)ラフター(軽くなった状態):二つが組になったパッサッディの特徴は「カーヤ(関連するチェータスィカの集合体)とチッタの重さ(ガルバーヴァ)が取り除かれること」です。その働きは「そのような妨害物を粉砕すること」です。「平穏」「冷静」という形で現れ、その直近の原因はカーヤとチッタです。「ティーナ(怠惰)」「ミッダ(無気力)」など重圧をもたらす煩悩の対極にあると考えてください。

(12,13)ムドゥター(柔軟になった状態):二つが組になったパッサッディの特徴は「カーヤ(関連するチェータスィカの集合体)」とチッタの硬さ(タンバ)が消褪すること」です。その働きは「硬さを粉砕すること」です。「抵抗しない」という形で現れ、その直近の原因はカーヤとチッタです。「ディッティ(真理にそぐわない誤った見解)」「マーナ(傲慢)」など硬さをもたらす煩悩の対極にあると考えてください。

(14,15)カンマンニャター(ブッダの教えを受け入れやすくなった状態):二つが組になったカンマンニャターの特徴は「カーヤ(関連するチェータスィカの集合体)とチッタの教えにくさ(アカンマンニャバーヴァ)が消褪すること」です。その働きは「教えにくさを粉砕すること」です。「カーヤとチッタが何らかの対象をとることに成功すること」という形で現れ、その直近の原因はカーヤとチッタです。そしてカーヤとチッタの教えにくさの原因となる、ニーヴァラナ(集中を妨げる五つの障害)の残り、すなわちカーマッチャンダ(官能的な欲望)、ヴャーパーダ(悪意)、ヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)の対極にあると考えてください。

(16,17)パーグンニャター(能率が向上した状態):二つが組になったパーグンニャターの特徴は「カーヤ(関連するチェータスィカの集合体)とチッタの健康」です。その働きは「カーヤとチッタの不健康を粉砕すること」です。「カーヤとチッタの能力低下が無いこと」という形で現れ、その直近の原因はカーヤとチッタです。そして「サッダー(ブッダ・ダンマ・サンガ・とその教えに対する確信)の欠如」などの対極にあると考えてください。

(18,19)ウッジュカター(清廉潔白で真っ直ぐなこと):ウッジュカターは「真っ直ぐな」ことです。二つが組になったウッジュカターの特徴は「カーヤ(関連するチェータスィカの集合体)とチッタが真っ直ぐに立っている状況」です。その働きは「カーヤとチッタが捻じれ曲がった状態を粉砕すること」です。「カーヤとチッタが曲がった、歪んだりしていないこと」という形で現れ、その直近の原因はカーヤとチッタです。そして偽善や欺瞞などの対極にあると考えてください。



   読んでみました
ターリ・シャーロット著『事実はなぜ人の意見を変えられないのか
                           (白揚社 2019年)

著者は認知神経科学を専門とするユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの教授。すでに『脳は楽観的に考える』(2013年 柏書房)が出版されている。
  本書は人の考え方や行動にはどのようなものが影響力を持つのか、その条件は何かについて考察している。このことから、その知識が善いかたちで使われればとても有効だと思われるが、たとえ偽りであっても影響を与えることが不可能ではないことも明らかにされるため、いわば諸刃の剣でもある。したがって、一定の立場にある人々にとっては自ずから居住いを正すことが求められるし、普通に考えても、特殊詐欺などを防ぐばかりではなく、こうした仕組みを知っておくことはきわめて大切なことだと思う。
  著者の主張は数々の実験データを基にして進められていく。先ず前提としては、人が自分の考えを伝えようとするのはなぜかということ。それはそうした時には伝えようとする本人の脳の報酬中枢が活性化するからだと言う。
  受け手については、当然ではあるが伝えられた考えをすんなり受け入れるとは限らない。そこには何らかの条件が必要となる。ではどのような条件があれば受け入れるのか。
  それについては、私たちの思考プロセスにはいくつかの要素があって、伝えられた考えがそれらの要素のうちのどれかに沿っているかどうかによると言う。つまり、受け手が何らかの要素に沿っている状態であれば受け入れられ、沿っていなければ受け入れられないと言うことだ。ではその要素とは何か。それらは「事前の信念」「感情」「インセンティブ」「主体性」「好奇心」「心の状態」「他人」の7つであり、本書はそれぞれを章別に解説している。

  第1章は、受け手がすでに何らかの信念を持っているかどうかである。もし何か信念を持っている時には、たとえ客観的なデータをもってしてもその信念を容易に覆すのは難しい。
  実験では、死刑を強く支持する学生と強く反対する学生48人に、極刑の有効性と無効性を示すでっちあげられた研究データが示された。すると、学生たちは自分の信念に沿った研究を高く評価し、そうでないものを「不用意で説得力のない」ものだとした。つまり人は賛成意見しか見えないという、いわゆる「確証バイアス」が働いたのだ。
  また、MMRワクチン(麻疹、おたふく風邪、風疹の3種混合)が子どもの免疫システムに変化をもたらし、自閉症のリスクを高めるという論文が報告されたことがある。今は否定されているこの説を信じ、接種を拒否する親に対しては、いくら正しい情報を提示してもうまくいかないのだ。そんな時にはどうするか。「MMRワクチンは自閉症を引き起こさない」と説得するかわりに、「同ワクチンが死にいたる病気を防ぐ」と言う事実を強調することだと言う。つまり、「自閉症を引き起こすかどうか」と言う意見の食い違いよりも、「病気を防ごうとする互いの共通点」に注目することが有効だということだ。

  第2章は、誰でもが身近に経験のある「感情移入」について。
  そのダイナミックな実例として、人工衛星開発競争でソ連に遅れをとっていたアメリカで、60年代の終わりまでに人間を月に到達させるという途轍もない宣言をし、聴衆から熱狂のうちに支持を得たケネディ大統領の演説をあげる。
  その計画は多くの税金を使うばかりかリスキーなもので、一見ルナティックを思わせる難題でもあった。その時ケネディは淡々と計画のあらましを説明することも出来たけれど、あえてそうしなかった。そうではなく、「迫る危機や宇宙開発のチャンス」について語って熱狂的な感情を作り出したのである。
  MRIによる実験では、このような「感情移入」に同期する脳が明らかに認められたと言う。このことは、感情というものは聞く者を単に引き付けるばかりではなく、「聞き手と話し手を生理的にも結びつける」ものでもあることを示している。

  第3章の「インセンティブ」と言うのは「快楽と恐怖」ともされる「接近と回避の法則」を指している。
  ある病院のICUにおける医療スタッフの手洗い率を調査すると、監視カメラが設置されているにもかかわらず10%と驚くほど低いものだったそうだ。そこで何とかしようとして、職員がきちんと手を洗うたびに各部屋に設置された電光掲示板に手洗い遵守率の数値が上がっていくようにした。するとその結果、なんと1週間で90%にまで上昇したという。これは、感染の恐怖(ムチ)よりも、「よくできました!」などの好意的なコメントおよび数値の上昇というフィードバック(アメ)の方が効果的であることを示す。
  運動が嫌いで日ごとに太くなる夫の腹を見た妻が、心疾患を心配してやんわり指摘したが、彼は何もしなかったらしい。だがある日、めずらしくジムへ行った夫が帰ってきた時に、「鍛えた筋肉が素敵ね!」と言ったそうだ。そうすると、次の日も夫はジムに行き、「彼の肉体にますます魅力を感じていること伝えるたびに、夫はジムに通い続けた」という。見事に掌の上に乗せられたが、結果オーライだった。
  これについて身近に実感されるのは、残念だけれど警告や注意には限られた効果しか期待出来ないのではないかということだ。駐輪禁止の注意書きの前に相変わらず自転車が止めてあるし、家の前の歩道にはタバコの吸い殻や時々イヌの糞が鎮座している。そんな時は「見た」の前に「誰だ、飼い主は!」という非難が先ず出てしまう。
  たしかに、「脳は悲惨な状態をイメージし、不吉な予感を共有しようとする」ものかも知れない。しかし著者は、そうなるのを避けるために、「成果を得るために必要なものをはっきり提示する」ことを促している。なぜなら、そうすることが自己コントロール感を呼び起こし、また人は良いことを期待すると人は行動を起こしやすくなり、それらは結局良い結果に結びつくからだ。これはネガティブ思考とポジティブ思考のもたらす結果の違いとも重なり合うと思う。(では、煙草の吸い殻をポイ捨てする人やイヌの糞を放置する飼い主にはどうすればいいのでしょう?役所から看板はもらって吊していますが・・・)

  第4章の「主体性」は、自己コントロール感がとても重要だということを言っている。
  例えば、納税というものは普通に生きていれば自分ではほとんどコントロール出来ないから、まあ大方の人にとっては苦痛に感じている(だろう)。しかし、自分が積極的に選択したものなら、それは本来自分のニーズに合っていると言えるのではないか。と言うことは、コントロール出来るかどうかが報酬と密接に結びついているということ。そしてやがては、選択すること自体が報酬であると感じるようになる。
  このことは肉体的な面でもあてはまると言う。それは、「自分の人生をコントロールしていると感じられる人はより健康」であって、もしその他の条件が同じなら、「自分がコントロールしていると思っている癌患者のほうが長生きするし、心疾患のリスク」も小さくなるそうだ。
  こうしたコントロールと報酬に関しては、介護施設での植木鉢の水やりの世話の実験でも証明された。それは、被介護者に水やりを任せる(主体性のフロアのグループ)か、あるいはスタッフがする(非主体性のフロアのグループ)かというもので、3週間後には身のまわりの管理を推奨されたグループは「もっとも幸福を感じ、たくさんの活動に参加するようになって」「頭脳も明晰に」なり、1年半後には『非主体性フロア』の住人より健康になっていた」と言う。
  これは教育にも応用可能ではないかと著者は言っている。「手綱を手放すことは、影響を与えるための強力な手段」であって、「生徒に自分だけの時間割を作る機会を与えたら、学習意欲が高まるかもしれない」と言うのだ。ただ私見では、これは立場によってはかなり重い課題ではないかと思う。もちろん一般的な話としては、取り巻く条件を考慮した上で主体性をもたせるのは望ましいとは思うけれど・・・。

  第5章「好奇心」とは、人は「知ること」を好むが、なかでもネガティブな見通しよりもポジティブなものを期待すると言うこと。
  先ず飛行機機内での安全手順のビデオ。単に流すだけでは興味を惹かないという例である。そこで今では多くの場合、旅の目的地に光を当てたものなど、観てもらうためにいろいろな工夫がなされていると言う。
  たしかに、人にとって「知る」ことは気持ちが良い。だからこんな事件も起きる。2005年に119名の受験生が巻き込まれた事件があった。著者はそのなかで典型的な人物として、テストの結果を一刻も早く知りたいために(結果を早く知ったところでどうしようもないのに・・・)違法に手を染めてしまった例を示している。
  妊娠検査薬もこうした例の一つだ。一日も早く知ることにお金を費やすことが果たして合理的かどうか。それでもあえて知ろうとする理由はなにか。人は、「不確実であることの不快感を減らしたい」し、さらに知識の「ギャップを満たすこと」で満足感を覚えるからだと著者は言う。
  面白いことに、「知ること」の効果は、サルによる実験からも確かめられている。水をもらえるという情報だけで、なんと、ドーパミンニューロンの発火率が0.17mlの水を得た時とほぼ同じだったと言う。「ニューロンは生存に不可欠な水分に興奮するのと同じように、事前の知識に興奮」する。サルも情報を欲しがるということだ。
  このことを敷衍すれば、「今の状況」より「これからの予測」が人の心に影響を及ぼすということにもなる。たとえ今は惨めであっても明日は良くなると思えれば人は積極的になり、今より悪くなると思えば消極的になる。良い知らせは早く知りたいし悪い知らせは知りたくないのである。
  これに関連してはこんな例もあげられている。
  仮に、20年以内に死ぬという致死性の遺伝子があるとして、それを持っているかどうかの確率は五分五分だとする。もしそれを知る簡単なテストがあるとすれば、人はそれを受けるだろうか。
  IT15遺伝子に異常があるとハンチントン病という神経変性疾患を引き起こされるが、そのため中年期には致命的な症状が現れると言う。もし血縁者にこの患者がいれば、今は未発症でも遺伝子検査を受けることが出来る。そこで、リスクの保持者へ検査を受けたいかどうかと質問すると4070%が「はい」と答える。しかし、実際に受ける人はあまりいないと言う。受ける率が1020%という調査もあるそうである。
  また次のような、電気ショックの情報に関して2回行われた実験も紹介されている。
  電気ショックが来るという情報が、「その直前に与えられるチャンネル」と、与えられずに「環境音楽を聴くチャンネル(→気を紛らす)」がある。これらはスイッチによって切り替えられる。
  1回目、情報チャンネルを選べば事前にショックを避けるボタンがある。そうすると75%がそのチャンネルを選んだ。
  2回目、今度は情報チャンネルを選んでも避けるボタンがない。従ってショックは避けられない。だがそれにもかかわらず、45%が情報チャンネルを選んだ。
  これは、知らないでいるよりも、「目を逸らせばかえって不安が増す」ことを意味している。

  第6章の「心の状態」は、ストレスと判断の関係についてである。
  2001年の同時多発テロから1983年のパレスチナで起きた個人の想像による言動が他の人々に引き起こした「集団ヒステリー」事件を例にあげている。
  ストレスがどう心の状態に影響するのか。脳はストレスによって劇的に変化すると言う。考え方や決断の仕方、振る舞いが一瞬のうちに変わるばかりではなく、周囲からの影響の受け方まで変わってしまう。実験によると、ストレスのもとでは、「リラックスしているときよりずっとネガティブな情報を取り入れる傾向が強」くなり、さらに、脅威にさらされると、「私たちは無意識に危険の合図を察知するようになる」と言う。
  学校などでも類似の例が見られる。ストレスを感じる環境のもとで試験が行われたが、一部の学生だけに途中で不安が取り除かれた。そうすると、取り除かれた学生の方が成績が良いという結果が現れた。
  その理由は、扁桃体と前頭葉との活動を調べることで判明したと言う。最初は全員の扁桃体の活動が活発になったが、不安を取り除かれた学生はその活動が急速に低下し、その代わりに前頭葉の活動が活発になったからだった。
  これらの現象は諸刃の剣でもあるだろう。なぜなら、人は特定の環境のもとでは影響を受けやすく、不安を煽るキャンペーンが一つの戦略となる可能性を示しているからだ。つまり、こちらが不安を抱えているときには影響を受けやすいと言うことであって、特殊詐欺などはこれに付け込んでくるわけであり、心しておくべきだと思う。

  第7章と第8章は、ともに他の言動やふるまいからの影響について考える。
  第7章ではまず赤ちゃんの観察から。
  生まれた日からスマホを興味深そうにいじっている親の姿を見てきた赤ちゃんは、数か月後、他のおもちゃには目もくれず、スマホに手を伸ばしたそうである。
  同じように、「私たちも他人を観察しながら生活の術を習得している」ので、聴く音楽や友達になる人のタイプ、あるいはテクノロジーや子どもにつける名前まで、「純粋に自分だけで決定しているわけではない」と言う。
  アメリカでは移植のために提供された腎臓の10%が無駄になっていると言う。なぜなら、その腎臓が一度辞退された臓器だと知らされると、二番目の患者は臓器に欠陥があるものと思い込んで手術を見送り、それが次々と連鎖してしまうからだ。
  さまざまなレビューでも同じ効果が生まれる。「最初に高評価のレビューを掲載すると、それに続く好意的なレビューの数は通常より32%多くなり、実験終了時の総合評価はなんと25%も上昇した」そうである。そうであれば、通販などで他の人による評価を参考にしようとする場合には、それなりの注意を心がけ判断しなければならないと思った。
  面白いと言うか涙ぐましいと言うか、南極大陸に住むアデリーペンギンが、餌を探して危険が待ち構えている海に飛び込もうとする時のことだ。腹をすかした一羽が我慢しきれずに飛び込んでヒョウアザラシなどの危険がないとわかるまで、我慢比べをすると言う。様子見という点では人も同じだと思う。誰かが危険を犯して後、無事だったことを確かめてからあとに続くのは人の性だろう。確かに自分を振り返ってみても、よほどの事態でない限りはやはりそんな感じになると思う。
  ところでこれは、「変化をもたらすにはたった一人で事足りる」ということを表している。ただし、ここで注意しなければならないのは選択行為「そのもの」ではなく、選択した「結果」を観たことによる。だからこそ、「良い行いには報酬を、悪い行いには罰を与える」ことがどんな社会にも見られると言える。
  こんな実験もある。数人のグループに45分程度の映画を見せる。見せた直後に、映画に関して、例えば警官の数や出演者の服の色など200の項目について質問をしたところ、答えにはあまり誤りがなかった。で、数日後に再び同じ質問をする。ただその時は、本人を除く「他の全員」にある質問について嘘の回答をさせる。そうすると、その回答を知った後には、その本人は70%の割合で誤った回答に従ったのだそうだ。つまり、「自分は正しいと思っていたにもかかわらず、その自信は集団の力によって打ち砕かれた」というわけだ。
  しかし、それが「他の全員」ではなく、「誰か一人が正しい答えを出した」時には、その参加者は最初の答えを曲げなかったそうである。これは、「集団の中にあっても、たった一つの異なる意見が存在すれば、他人に自主的な行動をとらせることができる」ということを示している。つまり、人は他からの影響を受けるばかりではなく、自らの選択や行為が周りに及ぼす影響についても十分に知っておかなければならないと言うことだろう。

  第8章はこの事実を集団という点から見た場合である。
  一頭の牛の体重の推定値を出そうとする時、多くの人によるものであればあるほどその値は事実に近くなると言う。ただしその場合、各人は互いに影響し合うことがないよう独立性を保っていることが条件となる。しかし人間の社会はもともと互いに影響を与え合うように出来ており、完全な独立性を保つには細心の注意を払わなければならない。
  同じようなことは一人の人間のうちでも起きることもある。例えば、何かを決めようとする時、日数を置いて同じことに取り組むとはじめより適したものが得られるようだ。ただしそれは、複数のケースよりはかなり確度は低くなるそうである。これは、うっかり衝動買いをしそうになった時、ちょっと我慢して止めておき、後で時間をかけて冷静に考えたら買わなくて良かったというような経験、結構どなたも持っているのではと思う。
  また牛の体重の推定値については、もし近くに別の固体(太っていたり瘠せていたり)がいればかなり影響を受けると言う。
  同様に、「平等バイアス」にも用心する必要がある。これは、一人の専門家の意見よりも多数の素人の平均意見が正しいとは言えないからだ。集団は智慧を含んでいることもあるが、それが相互依存やバイアスに犯されていないかどうかを吟味する必要がある。少数の人にだけ正確な知識や智慧が備わっていることも十分に考えられるのだから。いずれにせよ、選択や判断のために情報を集めようとする時には常に慎重さを欠いてはならないだろう。

  第9章では、「脳の神経活動に直接変化を与えることによって、互いの思考や行動を変えることのできる日がいつか訪れるかもしれない」として、いくつかの事件が例示されている。
  そして本書の結論として次のように言う。
  「心や脳の機能をより深く理解できていれば、大きなインパクトを生み出したり系統的なエラーを防いだりするのに役立つだろう。相手の間違いを主張することや、支配しようとすることなど、私たちが影響力に対して抱く直感の多くには効果がない」
  また編集部のあとがきには次のようにあり気になった。
  「ところで、事実で人の考えを変えられないということは、裏を返せば、事実でないもので人をコントロールできることでもあります。近年の世界的な傾向として、本来であれば社会を良い方向に導くべき各分野の権力者たちが、こぞって不都合な真実を隠蔽する一方で、マスメディアやインターネットを利用して大衆の感情をうまく誘導しようと画策している印象を強く受けます。そして私たちの多くは、まんまとその戦略に乗せられてしまっているようです。小説家のバーバラ・キングソルヴァーはかつて『蛇と戦うには、その毒を知らなくてはならない』と述べました。私たちが必ずしも事実をもとに判断していないことは、人間の『脳』がもつ『毒』の一つだと言えるでしょう。本書がその毒を知る一助となることを願います」
  本文中にもたびたび触れたけれど、人の思考や心の癖をよく知り、安易に他の意見に流されることなく、あくまでも自己による責任ある考え、判断を目指すべきだと思った。

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