月刊サティ!

2021年12月号  Monthly sati!  December  2021


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:『懺悔物語 極悪の聖者-
                       アングリマーラの光と闇 ②』
  ダンマ写真
  Web会だより:『私にとってのブッダの教え 』(後)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
   特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (7)
  読んでみました:
   清水将大著『二宮金次郎の言葉
 -その一生に学ぶ人の道-
                       (『コアラブックス 2010年)

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  
  

     

              巻頭ダンマトーク
 『懺悔物語 極悪の聖者-アングリマーラの光と闇 ②
  
●折しも母を殺して満願成就しようとしていたアングリマーラにブッダは近づいていった。ブッダとアングリマ-ラは長い輪廻のなかで幾度も出会い、常にブッダの精神の力がアングリマーラの肉体の力を圧倒するという関係だったが、時には叔父と甥の関係だったことすらあった。

  「沙門よ、この道を進んではいけない。この道にはアングリマーラという殺戮に明け暮れる無慈悲な兇賊がいる」
  と警告する街道の人々を三たび振り切って近づいてくるブッダの姿を見るやアングリマーラは、
  『他に人がいるなら母を殺す必要などない。この沙門を殺れ』
  とブッダの背後から襲おうとした。

  そのとき不思議なことが起きた。どれほど全力疾走しようともアングリマーラは、『神足通』という神変を使うブッダに追いつくことができなかったのである。息を切らして彼は叫んだ。
  「止まれ。沙門よ、止まれ!」
  「アングリマーラよ、そなたこそ止まるがよい。私は止まっている。
  あらゆる生き物に対する私の暴力と危害の意志は永久に捨て去られ停止しているのだ。
  しかるにそなたの生命破壊の凶暴な意志は荒れ狂い止まっていない。そなたこそ止まれ。鎮まるがよい!」(中部経典 第86経「アングリマーラ経」)

  このブッダの言葉を耳にした瞬間、アングリマーラの心に突然の回心が起きた。
  「おお。ついに待ち望んでいた偉大なる師が私のために出現した」と彼は直感し、ただちに武器を投げ捨て、あらゆる悪から出離することを誓って出家を願い出たのである。

  ブッダの一言で、なぜ、この血塗られた殺人鬼がここまで劇的に豹変したのだろうか・・・。不自然なほど唐突な印象を受けるが、ブッダの巧みな方法が功を奏したと見るべきなのだろう。
  強烈な思い込みで殺人マシーンと化していたアングリマーラの心を回心させるために、ブッダはまず六神通(神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏尽通)の中でもとりわけド派手な神通力で圧倒したのではないかと思われる。

  神変を目の当たりにして衝撃を受けたアングリマーラの心に、たたみ込むように説かれたダンマは、知的理解のレベルを超えて深く心に沁み入っただろう。それまで蓋をかけられ抑圧されていた良心や生来の聡明さにアピールしたのかもしれない。だが、最も強力にアングリマーラの心を揺さぶったのは宿業の力だったのではないか・・・。
  前科13犯の暴力団組長だった内観指導者・橋口勇信が、師匠の吉本伊信に初めて対面した時、「なんとも懐かしいお方だな・・・」と感じ入ったと述懐しているように。
  あるいは、バクティ・ヨーガの聖者ラーマクリシュナが、彼の偉大な後継者となったヴィヴェーカナンダとまみえた時に「遅かったじゃないか・・・」と呟いたように・・・。
  あるいはまた、真言密教第七祖の恵果が、入唐して間もない一介の留学生に過ぎない空海を一目見るや「あなたが来るのを待っていた」と呟き、並み居る高弟を差し置いて第八祖の後継者に定めたのも、過去世から互いに何度も師となり弟子となりの輪廻転生を繰り返してきた因縁の故によると言われるように・・・。

  いずれも科学的に検証できない主観的印象に過ぎないと言われればそれまでのことだが、過去世を想起する「宿命通」の発露とも考えられるのではないか。少なくともブッダの過去世を想起する能力は、どんな大阿羅漢達の宿命通も及びもつかない桁違いだった。そのブッダとアングリマーラは、遥かな過去世から幾たび師弟関係となり伯父と甥の関係となったか知れないほど因縁浅からぬ仲だったという。
  伝承の通りであれば、どんな神通力や説法よりも強力にアングリマーラの心は揺さぶられ、ブッダにひれ伏したくなっただろう。
  光と闇の両義的資質が激烈だったアングリマーラの人生は、最悪のグルとの出会いによりどん底まで暗転したが、今、至高の徳が結晶したブッダと再会することにより、暴悪から聖性に向かってチャンネルが切り換わったのである。
  最下層の無間地獄に堕ちるしかない殺人鬼に一条の光が射し込み、解脱への道が緒についた人生最大のターニングポイントの瞬間となった。 

  われわれの人生は、無限の過去から放ち続けてきた業のエネルギーに否応なく押しやられていくが、その因果が帰結するまでには補助因とも言うべき無量無数の縁が働かなければならない。
  立派な種があれば自動的に果実が実る訳ではない。土中に落ちなければならず、雨が降り陽が射し、水も光も空気も、諸々の補助因が縁となって働いた総合的な所産として実を結ぶのだ。
  完全な種子が首尾よく芽を出しても、嵐に吹き倒され、草食獣に食べ尽くされ、害虫の襲来や土砂崩れもあるだろう。たとえ強力な善業が組み込まれても、さらに諸々の善をなし、衆善奉行を心がけなければ、縁に触れることなく立ち消えてしまうかもしれないのだ。

  もしその日、パセ-ナディ-王が軍隊に出動を命じなかったなら・・・、もし命をかけてまでわが子のもとに向かおうとする母の決心がなかったなら・・・、その母すら殺そうとするほどアングリマーラの心が狂っていなかったなら・・・、もしブッダが天眼通に入定していなかったなら・・・、もしブッダの言葉がアングリマーラの心の扉を開かなかったら・・・。
  私たちが日々瞬々刻々経験するどのような些細な出来事も、複雑系の極みとも言うべき諸法無我の宇宙網目のなかで生起し滅している。ブッダに救い出されるだけの稀有な善業を荷っていたアングリマーラだったが、紙一重ですれ違い、実を結ぶことなくち立消えになっていたかもしれない・・・。

  さて、光明に向かったアングリマーラだったが、当然の報いとはいえ彼の托鉢の鉢に食を施す者のいるはずはなかった。のみならず石を投げられ棒で打たれ、頭部から血を流し、鉢を壊され外衣を引き裂かれた。
  何よりも彼は日夜、瞑想に専念しようとしたが、罪悪感と悔恨と自責の念に苛まれ、与えられた瞑想対象に正しく心を集中させることができなかった。
  彼の目の前には、街道沿いの山中で彼の手にかかって次々と殺されていった人々の姿が浮かび上り、いくらサティを入れても見送れず、心を突き刺す印象に思わず反応しては胸が締めつけられた。耳には、命乞いをする人々の悲しい呻くような声が鳴り響いて止まなかった。
  「命だけは助けてください!私は貧しく、子供が多いのです。私が死ねば子供たちも生きていかれないのです。お願いです。命だけは許してください・・・」
  と訴え求める男をめがけて、ギラリと光を放ちながら振り降ろされていった刃。絶望と恐怖のなかで絶命していく男の足が、腕が、痙攣のように震え、ほとばしる血の海のなかで蒼く土気色に変色しながら動かなくなっていく光景が一つまた一つと激しく心に焼きついてくる。
  酸鼻を極める記憶イメージに叩きのめされ、深い後悔に心をワシづかみにされて、彼は座禅から起ち上がりその場を立ち去る他なかった。

  アングリマーラほどの悪をしてはいない私たちにも、これは他人事ではないのだ。取り返しのつかないことをしてしまったと感じている心がある限り、懺悔の修行によって過去に清算をつけなければ、サティはおろか慈悲の瞑想をやる積極的な心も生じないだろう。
  普通の生活をしていれば、朝から晩まで目に、耳に、次々と情報が乱入し、連想が飛び散り、心は刺激から刺激へと目まぐるしく吸い寄せられ、自らの所業を内省的に振り返る暇もないのが私たちだ。
  瞑想などやらなければ、そうして日に夜を繋いで流されながら死んでいくこともできるだろう。だが、五戒を守ってヴィパッサナー瞑想を始めた者はそうはいかない。普段なら気にも止めない微罪でも、棘となって心に刺さるからだ。
  タイやミャンマーの森林僧院で修行をしていると、いくら気をつけていても、禅堂に向かう小道に歩を進めながら蟻を踏んでしまったかもしれない一歩がある。すると、瞑想中に殺生戒を犯したのではないか・・・と罪悪感が心に拡がり、懺悔の瞑想をしなければ治まらなくなるのだ。
  瞑想中のアングリマーラはいかばかりであったろうか・・・。
  そして、アングリマーラに対するブッダの指導はどのようなものだったろうか・・・。(続く)




 今月のダンマ写真 ~
 
三賢堂仏伝壁画@タイ森林僧院

先生より

    Web会だより  

『私にとってのブッダの教え』(後) Y.Y.


 (承前)

「私」の引き算
  ある日、ふと昔の不快な出来事を思い出しました。数年前、ある人にちょっと失礼なことを言われた時のことです。
  「そういえば、あの時あの人は私にこう言ったんだっけ・・・」
  すると 当時の情景がまざまざと甦り、何やらムカムカと腹立たしい気分になりました。
  私はちょうどその時、自我や無我についての本を読んでいたので、「そうだ、私という言葉を消して言い直してみよう!」。そう思いついた私は、頭の中で文章を書き直しました。「あの人は私にこう言った」というのを、「あの人はこう言った」と、「私」を削除してみました。
  すると、「あら不思議・・・!」、全然腹が立たないのです。そしてこちら側は、「何を言うかはその人の自由だから、別に・・・・・・」という気分になってしまいました。
  「あの人はあの時こう言った」
  ただそれだけです。どうと言うこともなく、まったく怒りの感情が出てきません。
  「私」という一文字を削除しただけで、嫌な出来事の記憶はただのニュートラルな過去のデータの一つになってしまいました。
  「これは使えるかもっ!!!」と、それ以来このやり方を愛用しています。
  たとえば、私の料理を家族が残した時には、「私が折角作った料理を家族が残した!!!」と思えば腹も立つでしょうが、「家族が料理を残した」と言い換えると腹が立ちません。お腹があまり空いてなかったのか、量が多すぎたのか、他の何かかな・・・?と軽く流すことができます。「家族は料理を残した」ただそれだけです。
  挨拶して無視された時も、「あの人は私に挨拶しなかった」ではなく、「あの人は挨拶しなかった」それだけ。私の声が聞こえなかったのかもしれないし、挨拶が苦手な恥ずかしがり屋さんなのかもしれないし。腹はまったく立ちません。
  足を踏まれたとしても、「あの人が、私の足を踏んだ!」ではなく、「あの人は踏んだ。痛み」でおしまいです。
  よくよく考察してみると、頭の中で 「私が〜!」「私の〜!」「私に〜!」と叫んでいる時はぷんぷんモードになっていたことがわかってきました。
  「怒っているのはつまりは『自我』なんだ。『私』のひと言を取っちゃえば自我の奴は出て来られなくなるんだね、ウシシシシシ・・・」
  以来、私はこの方法で怒り撃退生活を送っています。
  長年複雑に絡み合ってしまっているような複雑な問題には効き目は落ちますが、日常の些細な出来事には絶大な効果ありです。
  ご興味があったらぜひ一度試されたらいかがでしょうか。

さんちゃん すごいね!
  私には、「この人もしかしたらすごい人なんじゃないか!!!」と、密かに思っているお笑い芸人がいます。その名は明石家さんま!!
  たまたま見たテレビ番組で、さんちゃんはこんなことを言っていました。
  「すごく腹が立つことありますか?」と言う質問に、
  「ないないない。人に対して嫉妬心がないから。自分も過信してないし。なんやねんこいつ、と思うことはあるけど、すぐ『こいつアホやねんな』と思う。人に腹を立たす奴ってアホ。人に怒らす奴ってアホ」
  「ふーん、人に腹を立たせたり怒らせたりするのって、アホかぁ・・・。ちょっと面白い考え方だけど、慢だなぁ」と、最初は思いましたが、「いや待てよ、これはもしかしたら仏教的にすごく当を得ているのでは?」
と思い直しました。
  アホ・・・これを仏教用語に置き換えると、無明、貪瞋痴の痴・・・・でしょうか。ということで、「こいつアホやねんな」を仏教語に翻訳すれば、「この人は無明の闇に覆われ、貪瞋痴の三毒がかなり回ってしまっていますねぇ」となります。
  人間社会で暮らしていれば、時として嫌な人に出会うことがあります。そんな時、仏教を知る前の私は「怒り心頭!」「ぷんぷんぷん!」となっていましたが、今は、ちょっと深呼吸して考えます。「この人、毒がかなり回っちゃてる・・・」
  そして、因果法則に則って如理作為を試みます。
  「今腹を立てると私の心が汚れます」→「心が汚れるといつまでも輪廻の輪を苦しみながら回り続けることになります」
  仏教娘の私がプンプン娘の私にこう問いかけます。
  「本当にこんなことで輪廻の輪っかを回り続けるつもり?」
  「今怒ると、この人がアホ(無明)なことが原因となって、今度はあなたが永遠に苦しみ続けると言う結果になるけれど、それでいいの? それ、何だかおかしくありませんか?」
  「アホなのはこの人なのだから、輪廻の輪っかをクルクル回るのはこの人一人で充分なのでは? なぜあなたまで一緒にクルクルしようとするの?」
  「今、腹を立てると言うのはそう言うことですよ。せっかくがんばって毎日瞑想修行を続けているのに、その苦労も水の泡になってしまいますよ!」
  「あなたが苦しみ続けるに値する価値が、この三毒に侵されたアホの人に本当にあると思うのですかぁー?」
  「今怒ってこの先も苦しみ続ける、あなた、本当にそれでいいんですか?」
  プンプン娘はしばし絶句、「そっ、それはちょっとぉ・・・」と答えます。
  「だって腹を立てるとそうなりますよ。それでいいこと何もないでしょ。それなのに何故あなたは怒りたがるのですか?」
  プンプン娘はまっとうな怒る理由をみつけることが出来ません。時には、「そう言えば、何で怒りたいのか自分でもよく分からない」と言ってしまう時もあったりします。こうしてだいたいはすごすごと引き下がっていきます。
  このようにプンプン娘を説教しながら私は暮らしています。
  たまにはプンプン娘に一本取られることもありますが、こちらも負けじと頑張っています。いずれはめんどうくさい説教などがなくても、「怒り」と一言で消えてくれるようになるいといいな、と思います。しょっちゅうお説教するのもやっぱり面倒なんで・・・。
  他にも、さんちゃんは、
  「(腹は)立たない立たない。腹を立てる器でもない。そんなに偉くない。腹立って怒りたい人は偉いと思ってるんじゃないの、自分のこと」と言ったり、「俺は幸せな人を感動させたいんやなくて、泣いている人を笑わせて幸せにしたいんや。これが俺の笑いの哲学や」とも言っています。まさに慈悲の心ではありませんか。
  最近ではとうとう「ワクワク死にたい」と言い始めました。
   「おっ!」と思う発言の多いさんちゃん。もしかしたら、修行僧だった前世があるのでは?とつい思ってしまいます。
  でも、おしゃべりなさんちゃんには、黙って瞑想する生活はかなりキツかったろうな・・・。
  ついでながら、さんちゃんのインタビューはyou tubeでも見ることができますので、ご興味ある方はどうぞ。(完)

       

木々の向こうの爽やかな秋空

 (K.U.さん提供)
 






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ダンマの言葉

9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」を再掲載しています。今月はその第4回目です。

精神と物質(名色)――NāmaRūpa
  「意識(識)に繰って精神と物質(名色)が生じる」
  「精神と物質」は心と身体からなる生命のための用語です。再生の意識が妊娠と同時に生じる時、それは単独では発生しません。心と身体からなる生命の全体とかかわって生じ、そしてその生物もまた妊娠と同時に現れます。生命は五つの集まり(五蘊)からなります。
  つまり、形態である物質的要素(色)と、感受(受)、知覚(想)、心的形成作用(行)、意識(識)の四つの心的要素です。
  人間の再生の場合には、物質的要素、つまり形態とは、新しく生まれる生命の身体、つまり1つの受精卵です。一方心的要素の方は、その再生の意識の他に、感受、知覚、心的形成作用の三つの要素があります。これらの五つの集まりは互いに依存しながら死までずっと存続します。

六つの感覚器官(六処)――Salāyatana
  「精神と物質(名色)に縁って六つの感覚器官(六処)が生じる」
  心と身体からなる生命が成長し発展するにつれて、五つの身体の感覚器官が生じます。つまり眼、耳、鼻、舌、身です。心的器官、つまり思考の器官もまたあります。それは他の感覚の情報を調整し、思考、イメージ、概念などの心独自の対象も認識します。
  六つの感覚器官は世界についての情報を集めるための手段という役割を持ちます。各々の器官はそれぞれにふさわしい種類の感覚情報を受け取ります。眼は形を、耳は音を、鼻はにおいを受け取る、といった具合です。このようにして私たちは次の連鎖に到達します。

接触(触)――Phassa
  「六つの感覚器官(六処)に縁って接触(触)が生じる」
  接触は、たとえば眼識が限を通して形に接触するように、感覚器官を通して感覚の対象と意識が一緒に現れることを意味します。

感受(受)-Vedanā
  「接触(触)に縁って感受(受)が生じる」
  感受は、心がその対象を経験する時の「感覚の音色」です。感受が生じる時に係わる器官によって、六種類の感受に分けられます。たとえば、眼の接触から生まれた感受や耳の接触から生まれた感受などです。またその「感覚の質」によっては、感受は「楽、苦、中立(不苦不楽)」の三つの型に分けられます。私たちの過去のカルマ(業)はこれらの感受を通して働き、その結果としての実を結びます。

渇愛(愛)-Tanhā
  「感受(受)に縁って褐変(愛)が生じる」
  この連鎖において、私たちは生存の車輪の動きの中で重要な一歩を踏み出します。私たちがこれまで述べてきた要素――意識、精神と物質、六つの感覚器官、接触、感受――はすべて過去の業の結果を表します。それらは、過去からの業、意志的な形成作用による業の成熟によって生じます。
  しかし今や渇愛の発生によって、経験は過去のものから今現在働き始めた原因へと移ってきました。この原因によって、将来新しい存在が生み出されることになります。私たちが楽の感受を経験すれば、私たちはそれに執着するようになります。私たちは感受を楽しみ、喜び、それがずっと存続することを切望します。このようにして褐変が生まれます。私たちが苦の感受を経験すれば、それによって嫌悪を催し、その源を根こそぎにしたいという欲望、あるいはそこから逃げたいという欲望が生まれます。
  しかし、必ずしも型どおり感受から渇愛へと至るよりほかないというわけではありません。これは非常に重要な点で、感受と渇愛の間には、存在の循環を終わらせる戦いの場になりうる空間、隙間があります。ここでの戦いによって、束縛が将来に渡り無期限に続くのか、あるいはそれが悟りと解脱に取って代わられるのかが決まります。
  というのは、もし渇愛に従う代わりに、注意深く気づいていることによって感受を観察し、それをあるがままに理解するならば、私たちは渇愛が生じて将来に新しい存在を生み出すのを防ぐことができるからです。

執着(取)――Upādāna
  「渇愛(愛)に縁って執着(取)が生じる」
  では次の動きを見てみましょう。執着は渇愛の強化されたもので、四つの型があります。
  (a) 感覚の喜びに対する執着
  (b) 見解、理論、信念に対する執着
  (c) しきたり、規則、儀式に対する執着
  (d) 五つの集まり(五蘊)を自己と見る観念に対する執着
  渇愛と執着の違いは次の例えによって説明されています。「渇愛とは泥棒が盗もうとしている対象をつかむために手を伸ばしているようなものであり、執着とはその対象をつかんで自分のものにしているようなものである」

存在(有)――Bhava
  「執着(取)に縁って生存(有)が生じる」
  Bhavaは存在における業の蓄積という側面です。つまり、私たちが行勤して業(カルマ)を蓄積し、さらに意志的な形成作用(行)を発生させ、それを強め、意識の流れの中に蓄積していく、そうした人生の側面のことです。これらの業が蓄積されると、死の後に新しい存在がもたらされます。

老死――JarāMaraṇa
  「誕生に縁って老、死が生ずる」
  未来において生を受けることにより、私たちは老と死、そして、悲しみ、悲嘆、痛み、嘆き、絶望という避けられない代価を支払うことになります。

       

 今日の一言:選

(1)熱心に瞑想をしていた時には、悩み事が一掃され、カンが冴え、謙虚な心で淡々と善行を繰り返す清々しい日々であった。
 だが、いつしか瞑想も眠気と妄想だらけの形だけのものとなり、瞑想会にも講座にも合宿にも行く気にもなれず、ダンマに対する初々しい感動も情熱もすっかり失われていった。
 知識だけは増え、常に思考モードで生きているので、直観能力は壊れ、鈍感になり、間の悪さとミスとポカが増大し、何をやっても真っしんにヒットすることがない。
 悲しいことだが、珍しいことではない……

(2)いくらでも優しくすることができ、愛することもできたのだが、本当に失ってみて、かけがえのない存在だったことを思い知る……

(3)たとえ利己心が蠢いても、物惜しみや狡猾な心が過ぎり、迷いがあり葛藤があっても、最後は、人のため世の中のために善行をやらせていただこうという意志が確定されるならば、そして、善行が実行される瞬間に至るまでの心のプロセスが自覚され、観察されているならば、それは、心の清浄道の一部門として立派な「善行の瞑想」がなされたのだ……


       

          特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (7)
  本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌月号より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは6月号をご覧ください。

      

2章 チェータスィカについての概要


1節 導入
  エークッパーダニローダー チャ エーカーランバナヴァットゥカー
  チェートーユッター ドゥヴィパンニャーサ ダンマー チェータスィカー マター
  チッタとともに現れ、チッタとともに消え去り、チッタと同じ対象と基盤を持つ、52種類の状態があり、チェータスィカと呼ばれます。

1節へのガイド

  チェートーユッター ダンマー(チッタに付随する状態):
  アビダンマッタサンガハの第2章はパラマッタダンマ(究極の真理)の二番目、チェータスィカを扱います。チェータスィカはチッタに直に関係する精神的な現象です。そして認識という行為に特別な役割を与えてチッタを補助します。チェータスィカはチッタと別に生じることはありません。またチッタがチェータスィカを全く伴わずに生じることもありません。チッタとチェータスィカは機能的に相互に依存していますが、対象を認識する過程でチェータスィカはチッタに依存して出現しチッタを補助するため、認識の根本的な要素であるチッタが主であるとみなされています。チッタとチェータスィカの関係は王様とその家来に例えられます。「王様が来た」と言っても、王様が一人だけで来ることは無く、常に従者に付き添われています。同様に、チッタが生じる時には単独で現れることは無く、いつもチェータスィカという従者に付き添われています

  「チェータスィカの解説」においてアーチャリヤ・アヌルッダ尊者はチェータスィカを列挙し、グループ分けします。(第2節-第9節)。その後、二つの補足的な観点からチェータスィカを分析します。一番目は、チェータスィカがチッタにどのように付随するか(サンパヨーガナヤ)という分析方法をとります。チェータスィカを調査の基本とし、それぞれのチェータスィカがどのチッタに付随するかを説明します(第10節-第17節)。二番目は「組み合わせ、組み入れ」という分析方法です(サンガハナヤ)。この方法ではチッタが分析の主な対象となり、それぞれのチッタが、どのようなチェータスィカと組み合わされ、それを組み込むかについて調査・決定します(第18節-第29節)。

  チッタとともに現れ、チッタとともに消え去り:
  一番目の偈文は全てのチェータスィカに共通する四つの性質を挙げて、チェータスィカを定義しています。


   チッタと共に生じる(エークッパーダ)
   チッタと共に消え去る(エーカニローダ)
    
チッタと同じ対象を持つ(エーカーランバナ)
     チッタと同じ基盤を持つ(エーカヴァットゥカ)

  この四つの性質は、チッタとチッタに付随するチェータスィカの関係を詳細に描いています。仮に「チッタと共に生じる」だけだとしたら、チッタと同時に生じる物質的な現象、言い換えれば心やカンマ(業)によって生じる物質的現象がチェータスィカに含まれてしまいますが、それは誤りです。物質的現象はチッタと同時に生じたとしてもチッタと同時に消え去るとは限りません。多くの場合物質的現象はチッタッカナ(一つのチッタが現れて消えるまでの時間単位)7個分持続します。このため、「チッタと共に消え去る」という定義が加わっています。

  なお、チッタと共に生じ、チッタと共に消え去る物質的現象が二つあります。身体を使った暗示、と言葉を使った暗示の二つです。精神的現象であるチッタ、チェータスィカと異なり、この二つの物質的現象には対象がありません。全ての精神的現象には経験の対象があります。同時に生じるチッタとチェータスィカは同じ対象を経験します。一方で物質的現象は対象を経験することはありません。このため、同じ対象を持つという三番目の性質が定義されます。

  最後に、物質としての形がある生存領域、つまりカーマブーミ(感覚的な楽しみを追い求める意識に関連する生存領域)とルーパブーミ(物質を対象にした禅定に関連する生存領域)においてはチッタとチェータスィカは同じ物質的な基盤を持ちます。言い換えればチッタもチェータスィカも五つの感覚器官ないし心臓という基盤のうちのどれかの補助を基にして生じます。これがチェータスィカの四番目の性質です。

52種類あるチェータスィカ
  アンニャサマーナチェータスィカ(善にも不善にもなり得るチェータスィカ)13種類

2節 サッバチッタサーダーラナ(どのチッタにも共通して付随する普遍的なチェータスィカ):7種類

  カタン?I (1)パッソー、(2)ヴェーダナー、(3)サンニャー、(4)チェータナー、(5)エーカッガター、(6)ジーヴィティンドゥリヤン、(7)マナスィカーロー チャー ティ サッティメー チェータスィカー サッバチッタサーダーラナー ナーマ

  それはどのようなものでしょうか。I(1)パッサ(対象との接触)、(2)ヴェーダナー(感受)、(3)サンニャー(認知)、(4)チェータナー(意欲・意思)、(5)エーカッガター(一つの対象への集中)、(6)ジーヴィティンドゥリヤ(精神的な生命力)、(7)マナスィカーラ(対象に注意を向けること) この7種類がサッバチッタサーダーラナ(どのチッタにも共通して付随する普遍的なチェータスィカ)です。

2節へのガイド

  52種類あるチェータスィカ:
  アビダンマ哲学ではチェータスィカが52種類あるとしています。そして表2.1にあるように四つのグルーブに大きく分類されます。


      サッバチッタサーダーラナチェータスィカ(どのチッタにも共通して付随する普遍的なチェータスィカ)7種類
    チェータスィカパキンナカ(状況に応じてチッタに付随するチェータスィカ)6種類
      アクサラチェータスィカ(不善なチェータスィカ)14種類
      ソーバナチェータスィカ(道徳的に美しいチェータスィカ)25種類

  アンニャサマーナチェータスィカ(善にも不善にもなり得るチェータスィカ):
  最初の二つのカテゴリーであるサッバチッタサーダーラナ(どのチッタにも共通して付随する普遍的なチェータスィカ)7種類と(状況に応じてチッタに付随するチェータスィカ)6種類はアンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)という名称で一つにまとめることが出来ます。アンニャサマーナの文字通りの意味は「それ以外のもの(アンニャ)にも共通する」となります。ソーバナ(道徳的に美しい)チッタから見ればソーバナチッタ(道徳的に美しい)以外のチッタが「それ以外のもの」であり、ソーバナチッタ(道徳的に美しい)以外のチッタから見ればソーバナチッタ(道徳的に美しい)が「それ以外のもの」になります。最初の二つのカテゴリーに含まれるチェータスィカはソーバナチッタ(道徳的に美しい)、ソーバナチッタ(道徳的に美しい)以外のチッタに共通します。そして他のチェータスィカによりもたらされたチッタの性質、とりわけヘートゥ(チッタを安定させる根=ローバ、ドーサ、モーハ、アローバ、アドーサ、アモーハという一部のチッタを安定させる根となる性質、第1章参照)に関連する性質に応じて善にも不善にもなります。このカテゴリーのチェータスィカは、アクサラ(不善業を作る)チッタに付随すればアクサラ(不善)に、クサラ(善業を作る)チッタに付随すればクサラ(善)になります。カンマ(業)を作る作用を持つチッタに付随すればカンマ(業)を作り、カンマ(業)を作らないチッタに付随すればカンマ(業)を作りません。このためこのカテゴリーのチェータスィカは「それ以外のもの(アンニャ)にも共通する」、つまり善にも不善にもなりえるチェータスィカと呼ばれます。

  サッバチッタサーダーラナ(どのチッタにも共通して付随する普遍的な):このカテゴリーに含まれる7種類のチェータスィカは全てのチッタ(サッバチッタ)に共通(サーダーラナ)します。そして最も基本的で不可欠な認識機能を担います。これらのチェータスィカが無ければ対象を認識することは全く不可能です。

  (1)パッサ(対象との接触):
  パッサはプサティ(触れる)という動詞に由来する言葉です。しかし、認識対象が身体の感覚器官に物理的に衝突するというだけの意味ではありませんので注意してください。そうではなく、現れた認識対象がチッタに精神的に触れるという意味であり、そこから認識という働き全体が始まります。パーリ注釈書の四つの定義基準4に従えば、パッサの特徴は「触れること」であり、その機能は「衝突」であり、チッタと認識対象の衝突をもたらします。そしてパッサはチッタ、感覚器官、認識対象として表現され、その直近の原因は意識の焦点に現れた認識対象です


  (2)ヴェーダナー(感受):
  ヴェーダナー(感受)は認識対象を感じ取るチェータスィカです。認識対象を、楽しさをもたらすか、苦しさをもたらすか、そのどちらでもないか、という観点から経験します。パーリ聖典のヴェーダナー(感受)は感情という意味ではなく、単に楽しさをもたらすか、苦しみをもたらすか、そのどちらでもないかという認識対象の性質を表現しているだけです。感情は同時に生じるたくさんのチェータスィカが関連した複雑な精神現象です。ヴェーダナー(感受)は「感じとる(ヴェーダイタ)」という特徴を持ち、その機能は認識対象の好ましい側面を楽しむことです。ヴェーダナー(感受)は「関連して生じる他のチェータスィカを味わうこと」として現れ、その直近の原因は「落ち着き」です。他のチェータスィカが認識対象を分担的に経験するのに対し、ヴェーダナー(感受)はそれを直接、かつ完全に経験します。この点から、他のチェータスィカは王のために食事を用意する調理人に例えられます。調理人は作った料理の一部を味見するだけですが、王はその料理を好きなだけ味わい、楽しみます。


  (3)サンニャー(認知):
  サンニャー(認知)の特徴は「認識対象を認知すること」です。その働きは認識対象が再び現れた時に「同じものだ」と判別できるように、認識対象の条件に印をつけることです。あるいは、過去に認知した認識対象を、「過去に認知したことがある」と理解することです。サンニャー(認知)は「把握した認識対象の特徴に基づいてその対象を解釈すること」として表現され、その直近の原因は「現れた認識対象」です。サンニャー(認知)はあらかじめ印をつけておいた木材を識別する大工に例えられています。


  (4)チェータナー(意欲・意思):
  チェータナーはチッタと同じ語源を持ち、目標の実現、つまり、認識過程の内で意欲ないし意思に関連したチェータスィカです。注釈書ではチェータナーは認識対象に働きかけるために他のチェータナーをまとめ上げると説明されています。チェータナーの特徴は「困難をいとわずに行う状態」であり、その機能は「カンマ(業)を蓄積すること」です。チェータナーは「調整」として表現され、その直近の原因は「関連する状態」です。チェータナーはクラスの中心となる生徒に例えられます。自分自身で教科書を読誦すると同時に、他の生徒にも教科書を読誦させます。同様に、チェータナーは自らが対象に働きかけるとともに、関連した状態がそれぞれの仕事をするように仕向けます。カンマ(業)を形成するという点ではチェータナーは最も強力なチェータスィカです。なぜなら、チェータナーが、それぞれの行為の道徳的な性質を決めるからです。


  (5)エーカッガター(一つの認識対象に対する集中):
  エーカッガターは、精神活動をその認識対象に向けて統一させます。このチェータスィカはジャーナ(禅定)の中で顕著に現れ、ジャーナ(禅定)の構成要素の一つとして機能します。しかし、アビダンマでは、精神活動を統一するこの能力の萌芽は最も基本的なものも含めて、全てのチッタに見られると説明されています。その場合は、エーカッガターは心をその認識対象に固定させる要素として働きます。エーカッガターには「心がさまよったり、対象から離れたりしない」という特徴があり、その働きは「関連する状態をまとめて統一させること」です。エーカッガターは「心の平穏」として表現され、その直近の原因は「幸せ」です


  (6)ジーヴィティンドゥリヤ(精神的な生命力):
  生命力には二つの種類があります。一つは精神的な生命力で、関連する精神的状態を活性化させます。もう一つは身体的な生命力で、物質的現象を活性化させます。チェータスィカと呼べるのはこの二つの内、精神的な生命力だけです。ジーヴィティンドゥリヤは「関連する精神的な状態を維持する」という特徴があり、その働きは「関連する精神的な状態を生じさせること」で、「関連する精神的な状態の存在が確かなものになる」という形で表現され、その直近の原因は「ジーヴィティンドゥリヤにより維持されるべき精神的な状態」です。

  (7)マナスィカーラ(認識の過程で対象に注意を向けること):
  パーリ聖典での文字通りの意味は「心の中で作り上げる」です。マナスィカーラは心を認識対象に向けるという役割を担ったチェータスィカです。マナスィカーラにより、認識対象は意識に上ることが出来ます。その特徴は「認識対象に向けて、関連する精神的な状態を指揮(サーラナ)すること」であり、その働きは「関連する精神的な状態と認識対象とを結びつけること」です。マナスィカーラは「認識対象と向かいあう」という形で表現され、その直近の原因は「認識対象」です。マナスィカーラは船を目的地へと向かわせる舵のようなものです。あるいは、良く調教された馬(関連する精神的状態)を目的地(認識対象)に向けて走らせる御者のようなものです。マナスィカーラとヴィタッカ(認識対象に注意を向けさせるチェータスィカ)は明確に区別する必要があります。マナスィカーラは認識の過程で付随する要素を認識対象に向かわせますが、ヴィタッカは禅定を目指して注意を認識対象に定め働きかけます。マナスィカーラは全ての状態のチッタに存在する認識に不可欠な要素ですが、ヴィタッカは禅定に中で現れる特別な要素であり、認識過程に不可欠ではありません。


3節 パキンナカ(状況に応じてチッタに付随する)チェータスィカ:6種類

  II.(1)ヴィタッコー、(2)ヴィチャーロ、(3)アディモッコー、(4)ヴィリヤン、(5)ピーティ、(6)チャンドー チャー ティ チャ イメー チェータスィカ

  パキンナカー ナーマ 

  エーヴァン エーテー テーラサ チェータスィカー アンニャサマーナー ティ 

  ヴェーディタッパー

  II.(1)ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせるチェータスィカ)、(2)ヴィチャーラ(対象に向かった注意を持続させるチェータスィカ)、(3)アディモッカ(決意)、(4)ヴィリヤ(努力)、(5)ピーティ(喜び)、(6)チャンダ(意思)この五つがチェータスィカパキンナカ(状況に応じてチッタに付随するチェータスィカ)と呼ばれます。

  このように、13種類のチェータスィカがアンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)チェータスィカです。

3節へのガイド

  パキンナカ(状況に応じてチッタに付随する):
  このグループに含まれる六つのチェータスィカはアンニャサマーナ(善にも不善にもなり得る)という点でサッバチッタサーダーラナ(どのチッタにも共通して付随する普遍的な)チェータスィカに似ていますが、全てのチッタに付随するわけではなく、ある特定のチッタにのみ付随するという点で異なります。


  (1)ヴィタッカ(対象に注意を向かわせるチェータスィカ):
  ヴィタッカについては既にジャーナ(禅定)についての説明においてご紹介しました。ヴィタッカは五段階あるジャーナ(禅定)の第一段階に現れます。ヴィタッカは心を対象に振り向ける働きです。その特徴は心を対象に向けそこに乗せることです。その働きは認識対象を狙い撃ちし、打ち据えることです。「心を導いて対象に乗せる」という形で現れます。注釈書には直近の原因は書かれていませんが、認識対象がそれに相当すると考えられています。

  通常、ヴィタッカは単に心を認識対象に向かわせ、作用させるだけですが、集中を通してヴィタッカを高めるとジャーナ(禅定)の構成要素となります。その場合、ヴィタッカはアッパナー(心が認識対象へ没入した状態)と呼ばれます。ヴィタッカはまたサンカッパ(意図)とも呼ばれます。そしてミッチャーサンカッパ(正しくない意図)とサンマーサンカッパ(正しい意図)の二つに分かれます。サンマーサンカッパ(正しい意図)はアーリヤアッティンギカマッガ(聖なる八正道)の二番目の構成要素となっています。

  (2)ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させるチェータスィカ):
  ヴィチャーラもまたジャーナ(禅定)の構成要素の一つであり、力ずくで認識対象に意識を留めさせ10、それを持続させ、認識対象を分析するのが特徴です。その働きは「関連する精神的現象を認識対象に向かわせ続けること」です。「関連する精神的現象が碇を下したように認識対象に留まる」という形で現れます。認識対象がその直近の原因と考えて良いかと思います。ヴィタッカとヴィチャーラの違いについては既に説明しました。


  (3)アディモーッカ(決意):
  アディモーッカ(決意)の文字通りの意味は「心を解き放ち、認識対象に乗せること」です。このため決断ないし決意と訳されています。その特徴は「確信」で、機能は「あちこちと手さぐりしないこと」です。そして「決断力」という形で現れます。直近の原因は「確信の対象となる事物」です。認識対象に関してのゆるぎない決意という特徴から、石造りの柱に例えられます。


  (4)ヴィリヤ(努力するエネルギー):
  ヴィリヤは熱心に取り組む人の行為の状態を差します。その特徴は「補助、努力、部品調達」です。その機能は「関連する状態を補助すること」です。その直近の原因は「差し迫っているという感覚(サンヴェーガ)」、「エネルギーを湧き上がらせる元になるもの」つまり「何であれ力強い行動を掻き立てるもの」です。古い家に新しい添え木を添えて家が倒壊しないようにする、あるいは強力な援軍により王の軍隊が敵を打ち負かすことができるようになる、まさにそのようにヴィリヤが全ての関連する状態を立て直し、支えて、それが退却しないようにさせます。


  (5)ピーティ(喜び):
  ジャーナ(禅定)の構成要素の一つとして既に紹介しました。ピーティ(喜び)には「人を引き付ける(サンピヤーヤナ)」という特徴があります。その機能は「心と身体を元気にさせること」、あるいは「浸透する(歓喜で身体を震わせる)こと」です。そして「意気揚揚」という形で現れます。「精神的現象と物質的な身体(ナーマルーパ)」がその直近の原因です。


  (6)チャンダ(行動を起こしたい、目標を達成したいという願望):
  ここで使われているチャンダ(意思)の意味は「行動したいという願望(カットゥーカマター)」、つまり「行為を行う」ないし「何らかの結果を得る」です。チャンダの説明に使われる願望は、非難の対象となる願望であるローバ(欲)やラーガ(渇望)と区別する必要があります11。ローバ(欲)やラーガ(渇望)は例外なくアクサラ(不善)ですが、チャンダ(行動を起こしたい、目標を達成したいという願望)はアクサラ(不善)にもクサラ(善)にもなりえるチェータスィカです。善なる要素が付随する場合は、有益な目標の達成を目指す道徳的な願望として機能することができます。チャンダの特徴は「ある行為を行いたいという願望」で、その機能は「対象を探すこと」、そして「対象を必要とする」という形で現れます。そして「その対象」が直近の原因となります。「対象に向かって心の手を伸ばす」と捉えるのが良いかと思います。
 



   読んでみました
清水将大著『二宮金次郎の言葉 ―その一生に学ぶ人の道―
                           (コアラブックス 2010年)
  コロナ以前、私の町の図書館では月に一度、「図書館+講談」として、五代目一龍斎貞花師による口演が行われていた。そのひとつに、あるとき『財政再建・農村復興 二宮尊徳』が予定され、予告とともに演題に関連する数冊の書籍が小さなテーブルにあらかじめ展示されていた。何気なく手にとって借りて読んでみたところはじめて知るとことも多く、これは紹介してみたいと思った。
  最近は坐って本を読んでいる姿もあるというが、小学校の入り口に薪を背負いながら歩く二宮金次郎の像を覚えておられる方もおおぜいおられるだろう。一般的には金次郎は勤勉さの手本(注1)として、長じては篤農家、農村の指導者、そして道徳家というイメージだと思う。
  注1:明治44年に刊行された「尋常小学唱歌」(第二学年用)には一番から三番まで、「手本は二宮金次郎」という歌詞が繰り返されている。
  戦前の修身の教科書には、幼年から青年までの金次郎の姿だけが載せられているし(注2)、かつて読んだ伝記でも、憶えているのは農村で農民を指導する話しだけだった。本書の「まえがき」によると、金次郎はそればかりではなく、「有能な商人、銀行家、スケールの大きい実業家、藩主顔負けの政治家という顔を持っていた」と言う。しかもその上、占領軍のある少佐が、「日本が生んだ最大の民主主義者」と語ったエピソードも本書によって知ることができた。
  注2:小池松次編『修身の教科書』(4期尋常小学校修身書巻三、サンマーク出版による。
  序章、終章を含めて12章からなる本書は、金次郎70年の一生を描きつつ、現代的に置きかえた抄訳や再構築した語録に解説を附して紹介している。ただここでは、その中でも基本的なところに焦点をあてて取り上げてみたい。
  本書によると、実践から生まれた金次郎の考えは以下の9点である。
  ①勤労、②分度(ぶんど:自分の収入に見合った水準の中での生活)、③推譲(すいじょう:分度を守って余財を捻出して家族や子孫のために蓄えたり【自譲】、広く社会や国のために譲る【他譲】、④至誠(真心)、⑤積小為大(小さな努力の積み重ね)、⑥心田開発(各人のやる気を起こさせる)、⑦一円融合(全てのものの相互の関係の尊重)、⑧仕法(農村復興や財政立て直しのやり方)、⑨報徳(金次郎の思想全般。すべてのものの特性を活かし、至誠の心をもって勤労、推譲、分度を実行すること)。
  この上で、金次郎の最も強調するところは何であったか言うと、それは勤勉をともなう「実践」とされる。例えば報徳を水にたとえてこのように言っている。
  「大道は水のようなもので、よく世の中を潤沢にして滞らない」。しかし神儒仏の学者が書物には通じていても世の中の役に立たないのは、それが凍ったようなものだからで、「もとは水には違いないが、潤いづらく水の用をなさない」からだと言う。つまり単なる知識は氷にすぎず、「それゆえ、報徳では実行を尊ぶ」のだと。
  さらに、善行が幸福につながり悪行が禍につながることを米と稗にたとえて言う。
  「米を蒔けば米が生え、稗を蒔けば稗を得るのと同じことだ。米を蒔いて米の札を立て、稗を蒔いて稗の札を立て、その生え方を調べれば、米と稗は決して入れ違っていないことがわかる」と。この説明は農民にはよくわかるものだったろう。
  また推譲ということでは、「人の人たるゆえんは『推譲』にある。ここに一粒の米がある。これを食べてしまえばただの一粒だが、もし推し譲ってこれを蒔き、秋の実りを待ってから食べれば、百粒食ってもまだ余りがある。これこそ万世変わらぬ人道なのだ」。これはイエスが語ったという「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」を彷彿とさせるが、これもまた農に携わる人々には身近に理解されるものだったと思う。
  そればかりではない。この推譲の道は、「富者ばかりではなく、道も譲らねばならぬ、言葉も譲らねばならぬ、功績も譲らねばならぬ。よく勤めるがよい」と言っている。これは仏教で説かれる実践の一面にそのままあてはまっていると思われる。
  ここで思い出したのは、何十年も前に読んだ本にあった、後の金次郎の生き方につながるような逸話。それは、金次郎がまだ若い時に、とあるお堂で旅の僧が当時珍しかった日本語の発音で観音経を読むのを傍で聞いて感激し、200文を布施した(これは本書にもある)と言う話。正確な文言は思い出せないが、その時金次郎は、「この経は(観音にすがれと教えているのではなく)、自ら観音の行いをするように教えているのですね」と言って旅の僧を驚かせたという。
  しかし施すと言ってもむやみで無原則ではない。正直で勤勉な者へは大いに援助したが、怠け者にすぐ情けをかけてはかえって滅びのもととなることを金次郎は知っていたからである。次のように言っている。
  「衰えた村を復興させるには、篤実精励の良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼の貧民がついに変化して、篤実精励の良民となるように導くのである。
  ひとまず放逸無頼の貧民を差し置いて、離散滅亡するにまかせるのが、わが法の秘訣なのだ。なぜかといえば、彼らが改悟改心して、善良に帰するのを待ち受けて、これに地を与え屋敷を与えるのだから、恨みをいだくことはできず、また善良に帰しないわけにいかないのだ」
  そして次には、分度こそが「四海の困窮を救って、あまねく苦民に施して、なお余りがあるという方法」であって、その真髄は「ただ分度を定めるという一事にある」と言う。
  こうした一連の考え方を一文でまとめると、つまりは怠惰から離れて「仕法」に基づいた「勤労」をし、「分度」を定めることで「一円融合」を成し遂げる、これが「報徳」の生き方ということになる。
  今日、税の無駄遣いが言われているような時、その舵取りをしている立場にある人々にぜひ通じてほしい言葉。
  「国や家が貧窮に陥るのはなぜかといえば、これは分内の財を散らしてしまうからである。これを散らさないようにさえすれば、国も国家も必ず繁栄を保つことができる。
  人が寒さに苦しむのは、全身の温かさを散らしてしまうからで、着物を重ねて体を覆えば、すぐに温かくなる。
  これは着物が温かいのではなく、全身の温かさを散らさないからだ。もし衣類そのものが温かいのなら、質屋の蔵からは火事がでるはずだ。けれども一度でもそれで火事になったためしがないから、衣類が温かいものでないことが知れる。
  分度と、国や家との関係は、ちょうどこの着物のようなものだ。
  それだから国や家の衰えを興そうとするには、何よりもまず分度を立てるがよい。
  分度が立ちさえすれば、分内の財が散らないから、衰えた国も起こすことができ、つぶれかけた家も立て直すことができる」
  ここまで、「勤勉」「推譲」「分度」という面を紹介してきたが、本書にはそのほか「有能な商人、銀行家、スケールの大きい実業家、藩主顔負けの政治家」であった実績も数々披瀝されていて、それぞれの立場から読んでみれば、大いに参考になると思われる。
  最後に、それらすべてが鋭い観察眼から来ること示すエピソードを二つあげたいと思う。(本書の著者による)
  畑の草取りでは、はびこってしまった時は誰もが最も茂ったところから手を付けようとするが、金次郎の考えはまさに逆であったと言う。
  「良く茂ったところを除草するには手間がかかり、日数をとられているうちに、あまり茂っていなかったところの草も伸びてしまうので、今度はそちらの草を取るのも大変になる。それよりは、繁茂したところは目をつぶって後回しにし、草の少ないところから除草していった方が効率が上がり、全体として作業がはかどるという、『観察』からくる合理的な考え方だった」
  これはとくに除草に手を焼いている方々には大変良くわかる話ではないだろうか。
  もう一つは農民としての面目が示されたもの。
  金次郎が47歳になった天保41833)年は、初夏になっても気温が高くならず、稲の育ちも遅れ気味であったと言う。
  「ある日金次郎は宇都宮(栃木県)の町へ出かけた途中に、ある農家で出された茄子を食べた。そして、『おやっ、今の時期の茄子にしては、種になるところが多く秋茄子の味がする。ということは、気温の上がる日が少なく、気候はすでに秋と同じなのだ。これは冷害の前ぶれだぞ』と、気づいたという。(略)
  冷害にあえば、飢饉は避けることができない。二宮金次郎は急いで桜町へ帰り、『綿花の畑などを潰して、どの家も一反はすぐにヒエを植えつけよ。また、荒地や空き地、寺の境内など、耕せるところはすべて耕して、豆を蒔くのじゃ。そして、その収穫は必ず蓄えておくのだ。どの家にも一反分の年貢を免除するので、心配するな』
  名主たちを集めて、こう伝えた。
  『天明の大飢饉から五十年。もう、飢饉が来る頃なのだ。私はこの地方の皆を、飢えから救うために言っているのだ。一日のためらいは、3年、5年の悔いになるのだぞ。さあ、急ぐのだ』
  金次郎は、昔の資料を調べて統計を取っていて、だいたい50年おきに大きな飢饉が来ることを知っていたのである。さらに、知識だけではなく、実際に、作物の育て方や、農作業をよく知っていたから、的確な判断と、正しい指導ができたのであろう」
  客観的で鋭い観察眼を養うことの大切さ、そのことを肝に銘じたい。(雅)
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