2021年11月号 | Monthly sati! November 2021 |
今月の内容 |
巻頭ダンマトーク:『懺悔物語 極悪の聖者- アングリマーラの光と闇 ①』 |
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ダンマ写真 |
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Web会だより:『私にとってのブッダの教え』(前) | |
ダンマの言葉 | |
今日のひと言:選 | |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (6) | |
読んでみました:森川すいめい著 『その島の人たちは、ひとの話をきかない 』(青土社 2016年) |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
巻頭ダンマトーク 『懺悔物語 極悪の聖者-アングリマーラの光と闇 ①』 |
編集部より:今月から【懺悔物語】を3回に渡って連載していきます。これは、本誌の読者の目に触れたことのない文書資料で、過去の原稿を執筆当時の文体のまま掲載いたします。 大きな悪であれ小さな悪であれ、かつて悪を行なってしまったと自覚している者にとって、アングリマ-ラ尊者ほど心に救いをもたらしてくれる存在はいない。 999人もの人を殺害した殺人鬼でも、仏弟子となり、悟ることができたのか・・・。それなら、彼ほどの悪をしてはいない私たちにも希望があるだろう。 「以前にはわが手は血に染まり、アングリマ-ラ(指鬘:指の首飾り)として世に知られていた。私がブッダに帰依した姿を見よ。迷いの生存に導く輪廻の環は断ち切られた」(テーラガータ 881) 「悲惨な境涯へ、悪い生存へ、と行かねばならぬ多くの悪行をなし、その悪しき行為の報いにも触れたが、今や私は負債をなくして(托鉢の)施食を受ける身となっている」(テーラガータ 882) 「誰でも、そのなした悪い行為が、善い行為によっておおわれる者は、雲間から出た満月のようにこの世を照らす」(テーラガータ 872) 30歳で修行を開始するまで、頽廃の美を追求しながら酒を飲み、悪いことばかりしていた私は、自身を穢らわしい存在と感じ、罪業感と自責の念から解放されずにいたが、このアングリマ-ラ尊者の言葉にどれほど救われたことか・・。 『やってしまったことは仕方がない。私は、償っていこう』と、何度も決意を繰り返していた。 『12年の長きに渡って、私はただ自分のためだけに生きたのだから、これからは人のために生きよう』とも思った。 アングリマ-ラの悟りへの道筋は、清浄道を完成させるために<懺悔>の修行がいかに必要不可欠であるかを物語っている。 この極悪と聖者の両義的資質をもった男がコーサラ国に誕生したとき、生地シュラヴァスティ(舎衛城)の全ての刀槍がギラギラと輝きを放って人の目を射た、とも言われる。 バラモン階級に生まれた聡明で屈強な青年アヒンサ(→アングリマーラ)の悲劇は、同門の学友達の狡猾な中傷誹謗により、師匠の妻と姦通しているという讒言を三度に渡って流されたことから始まった。 別の伝承によれば、端麗な容姿のアヒンサに邪恋の心を抱いた妻が夫の留守中に誘惑したものの拒絶されたことに怒り狂い、自らの衣を破り裂き、アヒンサに乱暴されたと泣いて夫に訴えたからだったとも言う。 「1000人の命を絶ち、その右手の小指を繋いで首飾りとせよ。すでに学ぶべきことを学び終った汝に、それで真の道が備わるであろう」 讒言を真に受け、復讐心をたぎらせた師のこんな狂った命令を、なぜアングリマーラは敢然と実行してしまったのだろうか。 1つには、生来の生真面目な性向があっただろう。 2つには、現代でも「地下鉄にサリンをまけ」というグル(師匠)の言葉を愚直に実行した者たちがいるように、師の命令には絶対服従という外道の伝統の影響がある。 3つには、グルの言葉を聞いた瞬間、兇暴な印象が彼の心に拡がり、無数の因縁の束のなかに眠っていたもう一つの過去世の資質と傾向性が喚起され、邪悪な宿業のドミノが倒れ出してしまったからではないかと思われる。 それは、阿羅漢になれる聖者の素因を持った男の人生が、グラリと暗転していくターニングポイントの瞬間だった。 すべての物事には因果の連続性があり、人は過去の全経験を通して発したエネルギーとまったく無関係のものを突然、何の脈絡もなく発生させることはできない。たとえ自分の命が奪われようとも、たった一人の人間だって殺せない者が大半ではないか。 1000人もの人を殺めるなどという所業が遂行できる者には、そうなるだけの資質も宿業も背景も条件も整った上での必然の力に押しやられる展開があったはずである。縁に触れてしまった業・異熟の塊が、いかんともし難い力で帰結していく因果の構造があっただろうと思われる。 別の伝承によれば、彼のグルはただ指飾りを要求しただけで殺人の命令は下していなかったともいう。死体置場の指でもよかったのに、なぜ彼は大量殺人に走ってしまったのか・・・。 封印されていた蓋が開けられたかのように、アングリマ-ラの深奥で目覚めてしまった無慈悲と暴力への性向は、人肉を常食とするヤッカ(鬼霊)だったときの過去世に由来するとも言われる。 さらに別の伝承によれば、かつて天界にいたアングリマーラが悠久の時を経て、人間界に王子の身をもって再生したことがある。浄らかな天界にあまりに長く住し過ぎたため、愛欲の煩悩は忘却の彼方に忘れ去られ、その清廉さから<清浄太子>と呼ばれるほどであった。 長じても一向に女性に関心を示さず、国の将来を案じた父王達が一計を案じ、男を迷わす道にかけては国随一の女の巧みな技によって愛欲の煩悩を目覚めさせ、婚姻や世継ぎの誕生に導こうとした。 ある夜、城外ですすり泣く女のか細い声を耳にした清浄太子は、哀れに想い女を招き入れ、仔細を聞くうちにいつの間にか妖艶な女の巧みな技に篭絡され、気づいてみれば男女の関係に導き入れられてしまっていた。 完全な随眠状態だった煩悩に一たびスイッチが入るや、清浄太子は一転、国中の女を漁り尽くすほどの色魔と化し、ついに積年の恨みと怒りが爆発した大勢の民衆の手になる瓦石をもって打ち殺されてしまったのである。 その最期の断末魔の間際にも、両義性の遺志が洩らされたという。撲殺した民衆に必ず復讐する怨念の闇と、いつの世にか必ず悟りを開いてみせるという光の道心だったという。 ジャ-タカの伝によれば、アングリマ-ラの手に落ちた999人の犠牲者はこのとき王子を撲殺したその民衆であったともいう。 こうした伝承の真偽のほどは定かではなく、検証が極めて困難な前生譚や過去世物語などを鵜呑みにできる訳もない。 タイの僧院でお世話になった比丘の師は、コメンタリーに注釈されていないダンマトークは一切しないと言明され、その私見を差し挟まぬ正確さへの潔さに感服したことがある。 しかし同時に、そのコメンタリーがどこまで史実に合致するのか、果たして厳密な検証がなされて伝承されてきたのか・・という疑念も浮かんだ。たとえいささかの悪意はなくても、敬愛の念が嵩じれば仏弟子伝にも尾ひれが付き、粉飾されていく危険性は常に免れないのである。 では、どう受け止め、どのように解釈していけばよいのだろうか。歴史に限らず、この世のことは何事も、本当のことは決して見ること能わざる無明長夜の暗昏々たる闇の中に封印されているのがわれわれ凡夫衆生であれば、たとえ作り話であっても、因果論やチェータナー(意志)が具現化していく構造の理解に資するものがあれば、学ぶべきは学んで精進していけば良いのではないかとも愚考している。 ヴィパッサナー瞑想者も真実を確かに見極められる瞬間が到来するまでは、痴や無明の煩悩と悪戦苦闘しながらサティの瞑想を深めていくしかないのだ。 さて、あと一人で1000本の指の満願に達するという時、ついに国軍の出動が発布され、それを知ったアングリマ-ラの母はわが子の命を救おうと彼を目指して近づいていった。 折しもブッダは天眼通の禅定に入り、ことの次第を見渡していた。解脱できる機根を有するアングリマ-ラが満願成就のために母をも殺そうとしている。五逆罪の母殺しをしてしまえば解脱の可能性は断ち切られ、永遠の長きに遠のいてしまう。 すべてを見て取ったブッダはためらうことなく救いに出立した。二人の間には悠久の過去世からの浅からぬ因縁があったのである・・・。(続く) |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
『私にとってのブッダの教え』 (前) Y.Y. |
それでも地球は回っている 地橋先生の朝日カルチャー講座に通い始めてしばらくした頃、最後の質疑応答で、「心を浄らかにするには、如理作意が何よりも大事」というアドバイスを頂いたことがあります。如理作意というのは、パーリ語でヨニソ・マナシカーラと言って、その意味は「理の如く心のドミノが倒れていくこと」だそうです。外界から心に情報が入った瞬間、心のドミノが欲望や嫌悪や煩悩の悪い方向へパタパタと倒れていきがちですが、それを「真理の方へ」「善なる方へ」「真の原因の方へ」正しく倒していくのが「如理作意」だといいます。 仏教の因果法則から言えば、理に叶うように冷静に分析し、因と果の面から正しく考えていくことだろうと思い、やってみました。当時の私の悩みの種に対してです。なぜなら、悩みの種を思い浮かべるだけで苦を感じていたからです。 そこで、「この苦の原因は何か?」「どうして私はこのことを考えると苦を感じるのか?」「苦を感じている時の心と身体の状態は?」「どんな欲や執着がこの苦を生み出しているのか?」等々・・・、しっかり考えました。 そして発見しました。「無常や因果法則を受け入れきれていないから苦を感じている」ということを。 気に入ったものごとはずっとそのままであって欲しい、ものごとは自分の願い通りになって欲しい、心の底でそう思っていました。しかし、当然そうはなりません。だから苦を感じていた、ということでした。 「結局、因果法則しかないのですよ」という有名なお坊さんの言葉を思い出しました。世界は因果法則だけで回っていて、私の願いや都合なんてどうでもいいことだったというわけです。私の願いや都合、そんなものはそもそも因果法則から見たら塵や埃みたいなものでしかありませんでした。ちっぽけな私の思惑など完璧に無視されて、因果法則だけが平然と作用していく・・・、ここはそういう世界なのだと。 因果法則や無常を受け入れられないと言うことはどういうことなのか・・・? それは、地球の自転を止めようと素手で地面を必死に押さえているようなものだったということです。ということは、「期待通りにならない」と腹を立てるのは、「なんで太陽は東から昇るのだ!私は北から昇って欲しいのにっ!!!」と騒いでいるようなものでしかなかったわけです。 こんなことがだんだんわかってきてからは、「ずーっとバカなことをやって来たなぁ・・・」と思えてきて、願い通りにならないことに腹を立てたり悲しんだりしていることに気づいた時には、必死に地球を抑えている自分の姿を想像します。すると何だかバカバカしくなって、「しょうがないな〜」という諦めの気持ちが出てきます。 こうして私は因果法則にパタパタと白旗をあげることにしました。以来、私の苦はかなり減ったと実感しています。 「いいですか、悟れるのは人間に生まれた時だけなのですよ! 人間に生まれるのはなかなか難しいのです! 次はどんな生命に生まれ変わるかわかりません。だから、人間でいる間に悟りを開かなければならないのです! 頑張ってください!!!」と、最初の仏教の先生に言われました。 単純な私は、「そ、そうなのか・・・じゃあ頑張ろう」と、かなり真面目に修行していました。毎日1時間歩いて、5分立って、30分坐って、と。仏教の本を読み、合宿にも参加しました。 しかし何だか変なのです。一所懸命頑張れば頑張るほどものごとが空回りして、変な方向に進んで行きました。老人介護のストレスも加わってノイローゼ状態になってしまったのです。 そんな時、アーチャン チャー大長老の本を読みました。そのなかには、こんなことが書かれていました。 「私たちは自分で植えた木の成長をコントロールすることができないように、智慧の果実がすぐになるか、ゆっくりなるかをコントロールすることはできません。智慧の木は、自分自身のペースで成長します。あなたの仕事は穴を掘り、水や肥料をあげ、木を虫から守ることです。それがあなたの仕事であり、信(サッダー)なのです。しかし、木の成長の仕方は、その木次第です。もし、あなたの修行がこのようであるなら、すべてはうまくいき、自身の木は育つと確信することができます。 このように、私たちは自分の仕事と木の仕事の違いを理解しなければいけません。木の仕事は植物に任せて、自分自身に責任を持ってください。もし、私たちが何をすることが必要なのかを知らなければ、一日で木に花を咲かせ、実をならせようと無理強いすることになってしまうでしょう。これは間違った見解であり、苦しみを生じさせる主たる原因です。ただ正しい方向性に則って修行をし、あとはあなたのカルマに委ねなさい。そうすれば、一回の、百回の、千回の生を経てかは分かりませんが、あなたの修行は、やがて平安へと達するのです」(増補版『手放す生き方』、サンガ出版より) 今から思うと私は「欲」で修行していました。種を蒔いたばかりだというのに、まだ実がならないと怒っていたのです。「悟りたい。解脱したい」と、修行を始めたばかりにもかかわらず、大それた目標を掲げてしまっていました。 「そう、私は庭師なんだね。毎日丁寧に木に水をやり、色々お世話をするだけ。木の成長は木に任せて見守るだけ。文句言っちゃいけないのね」 そう反省しました。 「空手の時と同じなのかも・・・」 今ではそう思っています。 「昇段したい、黒帯が欲しい」 そう思っている間は昇段の話は全然ありませんでした。 「もう帯なんて何色でもいいや。ピンクでもシマシマでも水玉でも。私は空手が好きでやっているんだもの」 「一所懸命に稽古して、昨日より今日、今日よりも明日、少しでも強くなれたらそれでいい。帯なんて何色でも良いから、空手着が乱れないように一本紐があればそれで十分」 そう思い直して楽しく稽古を続けていると、ある時、昇段審査を受けさせて頂けることになりました。空手を始めて10年後でした。 今は、悟るとか解脱とか、そういうことは考えず、空手の時と同じように、「昨日より今日、今日より明日、心が少しでも清らかになれたらそれでいい」、そう思って修行しています。 「瞑想は心の歯磨き。毎日コツコツ磨きましょう。やらないと心が汚れてしまいますからね」 そんな感じです。決死の覚悟で修行に邁進するより、こちらの方がのんびり屋の私には合っているようです。 コツコツ稽古していたら気がつくと黒帯を締めていた。仏教の修行も、気づいたら悟っていたというふうになれたら良いなと思いっています。(そうなる前に、あと何百回 何千回と生まれ変わる必要があるだろうとは思いますけれど・・・) とりあえず今しばらくは、虫歯にならないよう心の歯磨きをコツコツ頑張ろうと思います。(続く) |
Y.U.さん提供 |
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9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」 を再掲載しています。今月はその第3回目です。 |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (6) |
本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌6月号より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは6月号をご覧ください。 アルーパーヴァチャラチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域におけるチッタ):12種類 第22節 アルーパーヴァチャラクサラチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、善業を作るチッタ):4種類 アーカーサンチャーヤタナ(空間の無限性という基盤): ヴィンニャーナンチャーヤタナ(意識の無限性という基盤): アキンチャンニャーヤタナ(虚無という基盤): ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(認知がないわけでもあるわけでもない状態という基盤): 第25節 アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタについてのまとめ アーランバナッパベーデーナ チャトゥダールッパマーナサン プンニャパーカクリヤーベーダ― プナ ドゥワーダサダー ティタン アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタは瞑想の対象によって分類すれば四つになります。またクサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として生じる)、クリヤー(機能だけの)により細分すれば全部で12種類となります。 第25節へのガイド 瞑想の対象によって分類すれば:それぞれのアルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタに関連して理解すべき対象(アーランマナ)は二つあります。一つはチッタによって直接認識される対象(アーランビタッバ)、そしてもう一つは次の段階へ進むために乗り越えるべき対象(アティッカミタッバ)です。両者の関係については表1.6を参照してください。 アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)のチッタは全て、第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)と同じ二つのジャーナ(禅定)の要素、ウペッカー(心が静まり苦しくも楽しくもなくなった状態)とエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を含みます。そのため、時に四段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)を、第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)に含めて話をする場合があります。チッタとして見た場合、異なる意識の領域に属し、また瞑想対象も異なるため、第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)とは異なります。しかし、ジャーナ(禅定)の観点から見れば、同じ二つのジャーナ(禅定)の要素から構成されるため、アビダンマを教える指導者たちは折に触れアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)を第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)の一部とみなすことがあります。 第26節 ロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、善業を作る)チッタ:4種類 ● ソーターパッティ マッガチッタン ● サカダーガーミ マッガチッタン ● アナーガーミ マッガチッタン ● アラハント マッガチッタン チャー ティ イマーニ チャッターリ ピ ロークッタラクサラチッターニ ナーマ ● ソーターパッティという悟りの第一段階の道のチッタ ● サカダーガーミという悟りの第二段階の道のチッタ ● アナーガーミという悟りの第三段階の道のチッタ ● アラハントという悟りの第四段階の道のチッタ この四つがロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、善業を作る)チッタです。 第27節 ロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、業の結果としての)チッタ:4種類 ● ソーターパッティ パラチッタン ● サカダーガーミ パラチッタン ● アナーガーミ パラチッタン ● アラハント パラチッタン チャ― ティ イマーニ チャッターリ ピ ロークッタラヴィパーカチッターニ ナーマ ● ソーターパッティという悟りの第一段階の果のチッタ ● ヴィタッカ ヴィチャーラ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン パタマッジャーナ ソーターパッティ マッガチッタン |
森川すいめい著『その島の人たちは、ひとの話をきかない』 (青土社 2016年) |
『漂流老人ホームレス社会』(「月刊サティ!」2020年8/9月合併号で紹介)の著者は、「自殺希少地域」とされる5カ所を6回訪ね、そのわけを知ろうとそれぞれ一週間前後滞在した。本書はその記録である。面白いことに、その背景は地域によって異なるものや共通するものがあった。(著者のプロフィールその他については上記を参照されたい) |
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