月刊サティ!

2021年11月号  Monthly sati!  November  2021


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:『懺悔物語 極悪の聖者-
                      アングリマーラの光と闇 ①』
  ダンマ写真
  Web会だより:『私にとってのブッダの教え』(前)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
   特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (6)
  読んでみました:森川すいめい著
       『その島の人たちは、ひとの話をきかない
』(青土社 2016年)

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  
  

     

                  巻頭ダンマトーク
    『懺悔物語 極悪の聖者-アングリマーラの光と闇 ①』
 編集部より:今月から【懺悔物語】を3回に渡って連載していきます。これは、本誌の読者の目に触れたことのない文書資料で、過去の原稿を執筆当時の文体のまま掲載いたします。

👑「おお、季節よ! 城よ! 無疵な心がどこにある!」(A.ランボー)

  大きな悪であれ小さな悪であれ、かつて悪を行なってしまったと自覚している者にとって、アングリマ-ラ尊者ほど心に救いをもたらしてくれる存在はいない。
  999人もの人を殺害した殺人鬼でも、仏弟子となり、悟ることができたのか・・・。それなら、彼ほどの悪をしてはいない私たちにも希望があるだろう。
  「以前にはわが手は血に染まり、アングリマ-ラ(指鬘:指の首飾り)として世に知られていた。私がブッダに帰依した姿を見よ。迷いの生存に導く輪廻の環は断ち切られた」(テーラガータ 881)
  「悲惨な境涯へ、悪い生存へ、と行かねばならぬ多くの悪行をなし、その悪しき行為の報いにも触れたが、今や私は負債をなくして(托鉢の)施食を受ける身となっている」(テーラガータ 882)
  「誰でも、そのなした悪い行為が、善い行為によっておおわれる者は、雲間から出た満月のようにこの世を照らす」(テーラガータ 872)

  30歳で修行を開始するまで、頽廃の美を追求しながら酒を飲み、悪いことばかりしていた私は、自身を穢らわしい存在と感じ、罪業感と自責の念から解放されずにいたが、このアングリマ-ラ尊者の言葉にどれほど救われたことか・・。
  『やってしまったことは仕方がない。私は、償っていこう』と、何度も決意を繰り返していた。
  『12年の長きに渡って、私はただ自分のためだけに生きたのだから、これからは人のために生きよう』とも思った。

  アングリマ-ラの悟りへの道筋は、清浄道を完成させるために<懺悔>の修行がいかに必要不可欠であるかを物語っている。
  この極悪と聖者の両義的資質をもった男がコーサラ国に誕生したとき、生地シュラヴァスティ(舎衛城)の全ての刀槍がギラギラと輝きを放って人の目を射た、とも言われる。

  バラモン階級に生まれた聡明で屈強な青年アヒンサ(→アングリマーラ)の悲劇は、同門の学友達の狡猾な中傷誹謗により、師匠の妻と姦通しているという讒言を三度に渡って流されたことから始まった。
  別の伝承によれば、端麗な容姿のアヒンサに邪恋の心を抱いた妻が夫の留守中に誘惑したものの拒絶されたことに怒り狂い、自らの衣を破り裂き、アヒンサに乱暴されたと泣いて夫に訴えたからだったとも言う。

  「1000人の命を絶ち、その右手の小指を繋いで首飾りとせよ。すでに学ぶべきことを学び終った汝に、それで真の道が備わるであろう」
  讒言を真に受け、復讐心をたぎらせた師のこんな狂った命令を、なぜアングリマーラは敢然と実行してしまったのだろうか。
  1つには、生来の生真面目な性向があっただろう。
  2つには、現代でも「地下鉄にサリンをまけ」というグル(師匠)の言葉を愚直に実行した者たちがいるように、師の命令には絶対服従という外道の伝統の影響がある。
  3つには、グルの言葉を聞いた瞬間、兇暴な印象が彼の心に拡がり、無数の因縁の束のなかに眠っていたもう一つの過去世の資質と傾向性が喚起され、邪悪な宿業のドミノが倒れ出してしまったからではないかと思われる。
  それは、阿羅漢になれる聖者の素因を持った男の人生が、グラリと暗転していくターニングポイントの瞬間だった。
  すべての物事には因果の連続性があり、人は過去の全経験を通して発したエネルギーとまったく無関係のものを突然、何の脈絡もなく発生させることはできない。たとえ自分の命が奪われようとも、たった一人の人間だって殺せない者が大半ではないか。
  1000人もの人を殺めるなどという所業が遂行できる者には、そうなるだけの資質も宿業も背景も条件も整った上での必然の力に押しやられる展開があったはずである。縁に触れてしまった業・異熟の塊が、いかんともし難い力で帰結していく因果の構造があっただろうと思われる。

  別の伝承によれば、彼のグルはただ指飾りを要求しただけで殺人の命令は下していなかったともいう。死体置場の指でもよかったのに、なぜ彼は大量殺人に走ってしまったのか・・・。
  封印されていた蓋が開けられたかのように、アングリマ-ラの深奥で目覚めてしまった無慈悲と暴力への性向は、人肉を常食とするヤッカ(鬼霊)だったときの過去世に由来するとも言われる。

  さらに別の伝承によれば、かつて天界にいたアングリマーラが悠久の時を経て、人間界に王子の身をもって再生したことがある。浄らかな天界にあまりに長く住し過ぎたため、愛欲の煩悩は忘却の彼方に忘れ去られ、その清廉さから<清浄太子>と呼ばれるほどであった。
  長じても一向に女性に関心を示さず、国の将来を案じた父王達が一計を案じ、男を迷わす道にかけては国随一の女の巧みな技によって愛欲の煩悩を目覚めさせ、婚姻や世継ぎの誕生に導こうとした。
  ある夜、城外ですすり泣く女のか細い声を耳にした清浄太子は、哀れに想い女を招き入れ、仔細を聞くうちにいつの間にか妖艶な女の巧みな技に篭絡され、気づいてみれば男女の関係に導き入れられてしまっていた。
  完全な随眠状態だった煩悩に一たびスイッチが入るや、清浄太子は一転、国中の女を漁り尽くすほどの色魔と化し、ついに積年の恨みと怒りが爆発した大勢の民衆の手になる瓦石をもって打ち殺されてしまったのである。
  その最期の断末魔の間際にも、両義性の遺志が洩らされたという。撲殺した民衆に必ず復讐する怨念の闇と、いつの世にか必ず悟りを開いてみせるという光の道心だったという。
  ジャ-タカの伝によれば、アングリマ-ラの手に落ちた999人の犠牲者はこのとき王子を撲殺したその民衆であったともいう。

  こうした伝承の真偽のほどは定かではなく、検証が極めて困難な前生譚や過去世物語などを鵜呑みにできる訳もない。
  タイの僧院でお世話になった比丘の師は、コメンタリーに注釈されていないダンマトークは一切しないと言明され、その私見を差し挟まぬ正確さへの潔さに感服したことがある。
  しかし同時に、そのコメンタリーがどこまで史実に合致するのか、果たして厳密な検証がなされて伝承されてきたのか・・という疑念も浮かんだ。たとえいささかの悪意はなくても、敬愛の念が嵩じれば仏弟子伝にも尾ひれが付き、粉飾されていく危険性は常に免れないのである。
  では、どう受け止め、どのように解釈していけばよいのだろうか。歴史に限らず、この世のことは何事も、本当のことは決して見ること能わざる無明長夜の暗昏々たる闇の中に封印されているのがわれわれ凡夫衆生であれば、たとえ作り話であっても、因果論やチェータナー(意志)が具現化していく構造の理解に資するものがあれば、学ぶべきは学んで精進していけば良いのではないかとも愚考している。
  ヴィパッサナー瞑想者も真実を確かに見極められる瞬間が到来するまでは、痴や無明の煩悩と悪戦苦闘しながらサティの瞑想を深めていくしかないのだ。

  さて、あと一人で1000本の指の満願に達するという時、ついに国軍の出動が発布され、それを知ったアングリマ-ラの母はわが子の命を救おうと彼を目指して近づいていった。
  折しもブッダは天眼通の禅定に入り、ことの次第を見渡していた。解脱できる機根を有するアングリマ-ラが満願成就のために母をも殺そうとしている。五逆罪の母殺しをしてしまえば解脱の可能性は断ち切られ、永遠の長きに遠のいてしまう。
  すべてを見て取ったブッダはためらうことなく救いに出立した。二人の間には悠久の過去世からの浅からぬ因縁があったのである・・・。(続く)


 今月のダンマ写真 ~
 
「タイ森林僧院のミャンマー様式分院」

先生より

    Web会だより  

『私にとってのブッダの教え』 (前) Y.Y.


それでも地球は回っている
  地橋先生の朝日カルチャー講座に通い始めてしばらくした頃、最後の質疑応答で、「心を浄らかにするには、如理作意が何よりも大事」というアドバイスを頂いたことがあります。如理作意というのは、パーリ語でヨニソ・マナシカーラと言って、その意味は「理の如く心のドミノが倒れていくこと」だそうです。外界から心に情報が入った瞬間、心のドミノが欲望や嫌悪や煩悩の悪い方向へパタパタと倒れていきがちですが、それを「真理の方へ」「善なる方へ」「真の原因の方へ」正しく倒していくのが「如理作意」だといいます。
  仏教の因果法則から言えば、理に叶うように冷静に分析し、因と果の面から正しく考えていくことだろうと思い、やってみました。当時の私の悩みの種に対してです。なぜなら、悩みの種を思い浮かべるだけで苦を感じていたからです。
  そこで、「この苦の原因は何か?」「どうして私はこのことを考えると苦を感じるのか?」「苦を感じている時の心と身体の状態は?」「どんな欲や執着がこの苦を生み出しているのか?」等々・・・、しっかり考えました。
  そして発見しました。「無常や因果法則を受け入れきれていないから苦を感じている」ということを。
  気に入ったものごとはずっとそのままであって欲しい、ものごとは自分の願い通りになって欲しい、心の底でそう思っていました。しかし、当然そうはなりません。だから苦を感じていた、ということでした。
  「結局、因果法則しかないのですよ」という有名なお坊さんの言葉を思い出しました。世界は因果法則だけで回っていて、私の願いや都合なんてどうでもいいことだったというわけです。私の願いや都合、そんなものはそもそも因果法則から見たら塵や埃みたいなものでしかありませんでした。ちっぽけな私の思惑など完璧に無視されて、因果法則だけが平然と作用していく・・・、ここはそういう世界なのだと。
  因果法則や無常を受け入れられないと言うことはどういうことなのか・・・? それは、地球の自転を止めようと素手で地面を必死に押さえているようなものだったということです。ということは、「期待通りにならない」と腹を立てるのは、「なんで太陽は東から昇るのだ!私は北から昇って欲しいのにっ!!!」と騒いでいるようなものでしかなかったわけです。
  こんなことがだんだんわかってきてからは、「ずーっとバカなことをやって来たなぁ・・・」と思えてきて、願い通りにならないことに腹を立てたり悲しんだりしていることに気づいた時には、必死に地球を抑えている自分の姿を想像します。すると何だかバカバカしくなって、「しょうがないな〜」という諦めの気持ちが出てきます。
  こうして私は因果法則にパタパタと白旗をあげることにしました。以来、私の苦はかなり減ったと実感しています。

心の水やり
  「いいですか、悟れるのは人間に生まれた時だけなのですよ! 人間に生まれるのはなかなか難しいのです! 次はどんな生命に生まれ変わるかわかりません。だから、人間でいる間に悟りを開かなければならないのです! 頑張ってください!!!」と、最初の仏教の先生に言われました。
  単純な私は、「そ、そうなのか・・・じゃあ頑張ろう」と、かなり真面目に修行していました。毎日1時間歩いて、5分立って、30分坐って、と。仏教の本を読み、合宿にも参加しました。
  しかし何だか変なのです。一所懸命頑張れば頑張るほどものごとが空回りして、変な方向に進んで行きました。老人介護のストレスも加わってノイローゼ状態になってしまったのです。
  そんな時、アーチャン チャー大長老の本を読みました。そのなかには、こんなことが書かれていました。
  「私たちは自分で植えた木の成長をコントロールすることができないように、智慧の果実がすぐになるか、ゆっくりなるかをコントロールすることはできません。智慧の木は、自分自身のペースで成長します。あなたの仕事は穴を掘り、水や肥料をあげ、木を虫から守ることです。それがあなたの仕事であり、信(サッダー)なのです。しかし、木の成長の仕方は、その木次第です。もし、あなたの修行がこのようであるなら、すべてはうまくいき、自身の木は育つと確信することができます。
  このように、私たちは自分の仕事と木の仕事の違いを理解しなければいけません。木の仕事は植物に任せて、自分自身に責任を持ってください。もし、私たちが何をすることが必要なのかを知らなければ、一日で木に花を咲かせ、実をならせようと無理強いすることになってしまうでしょう。これは間違った見解であり、苦しみを生じさせる主たる原因です。ただ正しい方向性に則って修行をし、あとはあなたのカルマに委ねなさい。そうすれば、一回の、百回の、千回の生を経てかは分かりませんが、あなたの修行は、やがて平安へと達するのです」(増補版『手放す生き方』、サンガ出版より)
  今から思うと私は「欲」で修行していました。種を蒔いたばかりだというのに、まだ実がならないと怒っていたのです。「悟りたい。解脱したい」と、修行を始めたばかりにもかかわらず、大それた目標を掲げてしまっていました。
  「そう、私は庭師なんだね。毎日丁寧に木に水をやり、色々お世話をするだけ。木の成長は木に任せて見守るだけ。文句言っちゃいけないのね」
  そう反省しました。
  「空手の時と同じなのかも・・・」
  今ではそう思っています。
  「昇段したい、黒帯が欲しい」
  そう思っている間は昇段の話は全然ありませんでした。
  「もう帯なんて何色でもいいや。ピンクでもシマシマでも水玉でも。私は空手が好きでやっているんだもの」
  「一所懸命に稽古して、昨日より今日、今日よりも明日、少しでも強くなれたらそれでいい。帯なんて何色でも良いから、空手着が乱れないように一本紐があればそれで十分」
  そう思い直して楽しく稽古を続けていると、ある時、昇段審査を受けさせて頂けることになりました。空手を始めて10年後でした。
  今は、悟るとか解脱とか、そういうことは考えず、空手の時と同じように、「昨日より今日、今日より明日、心が少しでも清らかになれたらそれでいい」、そう思って修行しています。
  「瞑想は心の歯磨き。毎日コツコツ磨きましょう。やらないと心が汚れてしまいますからね」
  そんな感じです。決死の覚悟で修行に邁進するより、こちらの方がのんびり屋の私には合っているようです。
  コツコツ稽古していたら気がつくと黒帯を締めていた。仏教の修行も、気づいたら悟っていたというふうになれたら良いなと思いっています。(そうなる前に、あと何百回 何千回と生まれ変わる必要があるだろうとは思いますけれど・・・)
  とりあえず今しばらくは、虫歯にならないよう心の歯磨きをコツコツ頑張ろうと思います。(続く)
       

「薄の叢に暖かい陽が・・」  

Y.U.さん提供

 






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ダンマの言葉

9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」 を再掲載しています。今月はその第3回目です。

縁起の理論の実践
  さてこの教えの実践について考えてみましょう。すでに見たように、最も重要な点は感受と渇愛をつなぐ連鎖にあります。それが、ブッダが四聖諦の中で苦の起源として渇愛を選び出した理由です。ですから私たちが自らの実践の中でしなければならないことは、感受が渇愛を引き起こすのを防ぐことです。
  私たちは生じてくる感覚に注意深くし、はっきりと気づかなくてはなりません。感受を喜ばず、しがみつかず、執着しないことです。もし楽の感受が生じた時に気づきを欠いているならば、渇愛が生まれる結果となります。私たちはその対象を楽しみ、それに執着するようになり、それが与えてくれる楽しみをもっと望むようになります。
  しかし、もし私たちに気づきがあり「楽の感受が生じた」と知るようになれ、それに屈服せずに気づいて立ち止まることができます。そして、智慧をもって見ることで、私たちはその感受を、「無常、苦、無我」として理解します。こうすることによって感受から渇愛が生まれるのを防ぎます。智慧をみがき続けるにつれて、智慧は根本にある無知を断つまで、より鋭くより深く成長します。智慧は無知の積み重なりを一つ一つ断ってゆき、すべての無知が削除された時に、悟りの状態に達します。縁起の終わりです。

無知(無明)――Avijjā
  ブッダは無明(Avijjā )をもって要素の連鎖を説き始めました。過去世において私たちの心は根本にある無明によりものごとがよく見えなくなっています。この無明について、いつから始まったのかを見つけだすことはできません。過去世をどこまで遡っても、私たちの心はいつも無明によってものごとがよく見えていなかったことが分かります。
  無明とは何でしょうか。ブッダは無明を、「四聖諦を知らず、理解しないこと」として定義しています。四聖諦とは「苦、苦の起源、苦の滅尽、苦の滅尽への道」という真理です。無明とはこれら四聖諦について単に概念的に理解していないというだけではなく、十分な深さと範囲において理解していない精神的な無知のことを指します。
  いつから始まるともなく遥か昔から、私たちは無知によって物事を永遠で、楽しく、魅力があり、「私」であるものとして見るよう導かれ、「無常、苦、無我」という本当の性質を見ることができなくなっています。
  この無明から食欲、嫌悪、慢、間違った見解、嫉妬、わがままなどのようなすべての煩悩が出て来ます。「無明は、それ自体は他に原因を持たないような、物事の最初の原因ではない」ということを強調しなければなりません。無明もまた条件によって生じます。心の要素(心所)として、無明はこれら生き物たちの心と身体に依存しています。
  それは条件によって生じますが、無明は最も根本的な条件なのです。
  それゆえに、ブッダは説明のための最初の要素として無明を取り上げました。私たちが完全に解脱に至るまでこの無明は私たちの心を支配し、行為に導き、その行為が将来また新たな誕生を引き起こします。こうして、最初の二つの要素をつなぐ第一の縁起に至ります。即ち、「無明を縁として意志的な形成作用(行)が生じる」です。

意志的な形成作用(行)――Sankhāra
  精神の無知である無明により、私たちは行為に引き込まれます。私たちは自らの意志を活性化します。サンカーラ(Sankhāra:行)は「形成する、建設する、創造する、組み立てる」ことを意味し、ここでは特に心的な形成作用のことを言っています。サンカーラという要素は業と同じものです。業は「意志的な形成作用」や「意志的な行為」を意味し、それは身体や言葉を通して外部に表現されます。
  無明を包含する心が生み出す意志的行為はいつも、その心の中に痕跡を残します。つまり、それが熟し、将来に実を結ぶ力を持った形成作用を残します。それは潜在力のある種子、つまり将来に発芽し結果を生む力のある種子として心にまかれます。
  縁起という関係の中で、意志的な形成作用(行)の最も重要な面は、将来に新しい存在を発生させる力、つまり再生をもたらす力です。この意志的な形成作用はそれが善なる意志作用か不善なる意志作用かにより、善い再生か悪い再生をもたらします。こうして十二縁起の次の連鎖へやってきます。「意志的な形成作用(行)に縁って意識(識)が生じる」です。

意識(識)――Viññāṇa
  もし、意志的な形成作用(サンカーラ)が心に蓄積され、無明がまだ存在するならば、死が起きた時、引き続いて新しい意識の瞬間が生じるでしょう。これは新しい生の最初の意識の瞬間です。仏教徒の見解では、意識は「永続性のあるひとつの実体、あるいは自我や不変に続く魂」としてはみなされていません。
  意識とはむしろ「意識の出現の連なり」であり、海の彼のようにそれぞれ生じては滅して行くものです。死が起きた時、この生涯で最後の意識の出現が生じ、そして滅して行きます。しかし、無明と意志的形成作用(行)によって、最後の意識の出現(死心)から新しい意識の出現が生まれます。それは母の子宮の中で生まれ、未受精卵と結びつき、そして新しい存在が始まります。
  妊娠と同時に起こる最初の意識の出現は「Pawisandhicitta」、すなわち「再結合する意識(再生識)」と呼ばれています。なぜならばそれは現世と過去世とを、つまり新しい存在とすべての過去とを結びつけているからです。再生の意識が生じると、それは短い瞬間続き、そして滅して行きます。しかし、その再生の意識のあと即座に、これと同じ基本的な形をもつ意識が、全生涯を通じて一連の心的活動として流れ始めます。それは私たちの心のすべての活動状態の基礎にあって、死までずっと続く意識の受動的な流れとして流れます。この受動的な意識の流れはbhavvanga(バーヴァンガ:有分心)、「存在の流れ」と呼ばれています。

       

 今日の一言:選

(1)誰か怒っている人が、家の中にひとりいるだけで、みんなが不安になる。
  ……あなたが心に怒りを覚えているだけで、家の中が暗くなり、居合わせる人たちの心に苦を与えることができる……

(2)呑み込まれかけた不善心をハネ退けて、戒を守ろうとする瞬間の心を「離心所」と言う。
 黒い心が起きても、離心所を立ち上げようとする一瞬の心の営みが、清浄道の瞑想なのだと考える。

(3)今まで拠りどころにしていた思想を一夜にして捨て、正反対の考えを熱烈に信奉し始める……
  知的な理解に支えられた信念など、シャツを着替えるように、いとも簡単に入れ替わり変節する。
  善なるものから悪なるものへ、抑制し禁じていたものから野放し状態へ、高いものから低いものへ……と堕ちていくのは、ことのほか易しい。
   瞑想を正しく実践することは容易なことではないが、持続していけば、いつの日か必ず浄らかな心に変わっていく……


       

          特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (6)
  本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌6月号より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは6月号をご覧ください。

      


  アルーパーヴァチャラチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域におけるチッタ):12種類

22節 アルーパーヴァチャラクサラチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、善業を作るチッタ):4種類

    アーカーサンチャーヤタナ クサラチッタン
    ヴィンニャーナンチャーヤタナ クサラチッタン
    アキンチャンニャーヤタナ クサラチッタン
    ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ クサラチッタン チャー ティ イマーニ チャッターリ ピ アルーパーヴァチャラ クサラチッターニ ナーマ

    空間の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する善業を作るチッタ
    意識の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する善業を作るチッタ
    虚無を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する善業を作るチッタ
    認知があるのでも認知が無いのでもない状態を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する善業を作るチッタ

  この四つがアルーパーヴァチャラクサラチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、善業を作るチッタ)です。

23節 アルーパーヴァチャラヴィパーカチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、業の結果として生じるチッタ):4種類

   アーカーサンチャーヤタナ ヴィパーカチッタン
   ヴィンニャーナンチャーヤタナ ヴィパーカチッタン
   アキンチャンニャーヤタナ ヴィパーカチッタン
   ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ ヴィパーカチッタン チャー ティ イマーニ チャッターリ ピ アルーパーヴァチャラ ヴィパーカチッターニ ナーマ

   空間の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、業の結果として生じるチッタ
   意識の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、業の結果として生じるチッタ
   虚無を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、業の結果として生じるチッタ
   認知があるのでも認知が無いのでもない状態を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、業の結果として生じるチッタ

  この四つがアルーパーヴァチャラヴィパーカチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、業の結果として生じるチッタ)です。

24節 アルーパーヴァチャラクリヤーチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、機能だけのチッタ):4種類

   アーカーサンチャーヤタナ クリヤーチッタン
   ヴィンニャーナンチャーヤタナ クリヤーチッタン
   アキンチャンニャーヤタナ クリヤーチッタン
   ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ クリヤーチッタン チャ ティ イマーニ チャッターリ ピ アルーパヴァチャラ クリヤーチッターニ ナーマ

   空間の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、機能だけのチッタ
   意識の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、機能だけのチッタ
   虚無を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、機能だけのチッタ
   認知があるのでも認知が無いのでもない状態を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、機能だけのチッタ

  この四つがアルーパーヴァチャラクリヤー(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域の、機能だけの)チッタです。第2224節へのガイド

  アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における)チッタ:このチッタの領域にはアルーパブーミ(物質でないものを対象にして得た禅定に関連する生存領域)と呼ばれる物質のない生存領域のチッタが含まれます。物質を超越したこの生存領域ではチッタとチェータスィカしか残っていません。四段階あるアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にして得られる禅定)を得た人がこの四つの生存領域に再生します。アルーパッジャーナ(物質でないものを対象にして得られる禅定)は五段階あるルーパッジャーナ(物質を対象にして得られる禅定)を超えて更に集中を高めることで得ることが出来ます。アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域)には12種類のチッタがあります。そのうちの四つはクサラチッタ(善業を作るチッタ)で、涅槃を悟っていない普通の人々、そして涅槃を悟り解脱を目指す修行者はこのチッタによりアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にして得られた禅定)を経験します。四つのヴィパーカチッタ(業の結果としてのチッタ)はアルーパブーミ(物質でないものを対象にして得た禅定に関連する生存領域)に再生することで生じます。四つのクリヤー(機能だけの)チッタはアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にして得られた禅定)に入ったアラハント(最終的な覚りを得て輪廻からの解脱を果たした聖者)が経験します。

  アーカーサンチャーヤタナ(空間の無限性という基盤):
  アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)です。このジャーナ(禅定)に達するためには、修行者はカスィナと呼ばれる瞑想対象の色のついた円盤のイメージを無限に広げます。その後カスィナが広がった空間にのみ注意を向けることでカスィナのイメージを取り去り、後に残る「無限の空間」に注意を向けて瞑想します。これを繰り返すことで無限の空間(アーカーサパンニャッティ)を対象に没入したチッタが現れます。アーカーサンチャーヤタナ(空間の無限性という基盤)という表現は、厳密に言うとアルーパッジャーナチッタ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連するチッタ)の対象として用いられる「無限の空間」という概念のことです。ここではアーヤタナ(基盤)という言葉はジャーナチッタ(禅定のチッタ)が宿る場所という意味で使われています。しかしながら広い意味で、アーカーサンチャーヤタナ(空間の無限性という基盤)はジャーナ(禅定)そのものを差しています。

  ヴィンニャーナンチャーヤタナ(意識の無限性という基盤):
  ここで無限と表現されているヴィンニャーナ(意識)は、アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の第一段階におけるヴィンニャーナ(意識)のことです。アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の第一段階の没入状態においては、無限の空間という基盤ないし概念を対象とします。そのためその空間に広がる意識もまた無限であるということをほのめかしています。ですから、このジャーナ(禅定)に達するためには、瞑想者は無限の空間という基盤の意識を対象とし、それを「無限の意識」としてそれに集中することでやがて第二段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の没入状態が生じます。

  アキンチャンニャーヤタナ(虚無という基盤):
  アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の第三段階は、無限の空間という基盤に関連し、存在しない、何もないという意識の側面を対象とします。アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の第一段階に関連する意識が無い状態に注意を向けることで「存在しない、何もない」という概念(ナッティバーヴァパンニャッティ)を瞑想対象にした第三段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の没入状態が生じます。

  ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(認知がないわけでもあるわけでもない状態という基盤):
  アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の最後となる第四段階では認知があるということもできないし、無いということもできないためこのように呼ばれています。この種のチッタではサンニャー(認知)という要素がごく小さくなり、もはや認知というはっきりした機能を果たせなくなっています。したがって認知があるということは出来ません。一方で、認知が完全に無くなったわけではなくその残骸が残っています。したがって認知が無いということも出来ません。ここでは認知についてのみ語っていますが、このチッタを構成する他の要素もまたあまりにも小さくなっており、あるともないとも言えない状態になっています。この第四段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)は第三段階における虚無を基にした意識を瞑想対象にしています。

25節 アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタについてのまとめ

  アーランバナッパベーデーナ チャトゥダールッパマーナサン

  プンニャパーカクリヤーベーダ― プナ ドゥワーダサダー ティタン

  アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタは瞑想の対象によって分類すれば四つになります。またクサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として生じる)、クリヤー(機能だけの)により細分すれば全部で12種類となります。

25節へのガイド

  瞑想の対象によって分類すれば:それぞれのアルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタに関連して理解すべき対象(アーランマナ)は二つあります。一つはチッタによって直接認識される対象(アーランビタッバ)、そしてもう一つは次の段階へ進むために乗り越えるべき対象(アティッカミタッバ)です。両者の関係については表1.6を参照してください。

  アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)とルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)はいくつかの大事な点で異なります。ルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)では例えば色の異なるカスィナ(瞑想対象として使われる色のついた円盤)など、瞑想対象は様々です。一方、アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の場合はそれぞれの段階に特有のたった一つの瞑想対象しかありません。また、ルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)の場合は、それぞれの段階に含まれるジャーナ(禅定)の要素が異なります。第一段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)では五つ、第二段階では四つといった具合です。そしてより高い段階のジャーナ(禅定)を目指す瞑想者は同じ瞑想対象に集中しながら、粗大な要素から始めて段階的にジャーナ(禅定)の要素を消し去り、最終的に第五段階のジャーナ(禅定)に達します。しかし第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)から第一段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)へとステップアップする時、アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の中でステップアップする時には、乗り越えるべきジャーナ(禅定)の要素はもはやありません。代わりに、各段階の瞑想対象を乗り越えて、次の段階のよりかすかな瞑想対象へと移っていかなければなりません。

  アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)のチッタは全て、第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)と同じ二つのジャーナ(禅定)の要素、ウペッカー(心が静まり苦しくも楽しくもなくなった状態)とエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を含みます。そのため、時に四段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)を、第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)に含めて話をする場合があります。チッタとして見た場合、異なる意識の領域に属し、また瞑想対象も異なるため、第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)とは異なります。しかし、ジャーナ(禅定)の観点から見れば、同じ二つのジャーナ(禅定)の要素から構成されるため、アビダンマを教える指導者たちは折に触れアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)を第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)の一部とみなすことがあります。

  15種類のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)と、12種類のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)をまとめて、マハッガタチッタ(荘厳な、高尚な、高貴なチッタ)と呼ぶ場合があります。なぜなら、ニーヴァラナ(集中を妨げる五つの障害)から離れており、清潔で、レベルが高く、偉大な心の状態だからです。

  これまでお話しした81個のチッタは全てローキヤチッタ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域におけるチッタ)と名付けられています。なぜなら、カーマローカ(感覚的楽しみを追い求める世界)、ルーパローカ(物質を対象にして得られた禅定に関連する世界)、アルーパローカ(物質ではないものを対象にして得られた禅定に関連する世界)という三つの世界に属するからです。

 ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域におけるチッタ:8種類

26節 ロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、善業を作る)チッタ:種類


   ソーターパッティ マッガチッタン
   サカダーガーミ マッガチッタン
   アナーガーミ マッガチッタン
   アラハント マッガチッタン チャー ティ

イマーニ チャッターリ ピ ロークッタラクサラチッターニ ナーマ

   ソーターパッティという悟りの第一段階の道のチッタ
   サカダーガーミという悟りの第二段階の道のチッタ
   アナーガーミという悟りの第三段階の道のチッタ
   アラハントという悟りの第四段階の道のチッタ

  この四つがロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、善業を作る)チッタです。

27節 ロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、業の結果としての)チッタ:4種類

   ●
ソーターパッティ パラチッタン
   サカダーガーミ パラチッタン
   アナーガーミ パラチッタン
   アラハント パラチッタン チャ ティ

  イマーニ チャッターリ ピ ロークッタラヴィパーカチッターニ ナーマ

   ● ソーターパッティという悟りの第一段階の果のチッタ
   サカダーガーミという悟りの第二段階の果のチッタ
   アナーガーミという悟りの第三段階の果のチッタ
   アラハントという悟りの第四段階の果のチッタ

  この四つがロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、業の結果として生じる)チッタです。

28節 ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタのまとめ

  チャトゥマッガッパベーデーナ チャトゥダー クサラン タター

  パーカン タッサ パラッター ティ アッタダーヌッタラン マタン

  クサラ(善業を作る)チッタは四つの道により4種類、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタは対応する四つの果により4種類あります。従ってロークッタラには8種類あると理解してください。

2628節へのガイド

  ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域におけるチッタ):ロークッタラチッタは、パンチャカンダ(ルーパ(物質)、ヴェーダナー(感受)、サンニャー(認知)、サンカーラ(意思形成)、ヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)という生命を構成する五つの部分)により形作られる世界(ローカ)を超越(ウッタラ)する過程に関係するチッタです。この種類のチッタはサンサーラ(輪廻=死と再生の無限の繰り返し)からの解脱とニッバーナ(涅槃)への到達へと導きます。ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域におけるチッタ)には八つあり、悟りの四つの段階、ソーターパッティ(輪廻からの解脱を妨げる10個のキレーサ=心の汚れのうち、ヴィチキッチャー=ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い、とディッティ=聖なる真理にそぐわない誤った見解、という二つのキレーサが絶滅した悟りの第一段階)、サカダーガーミ(パティガ(嫌悪)とカーマラーガ(官能的な欲)が極めて小さくなった悟りの第二段階)、アナーガーミ(パティガ(嫌悪))が絶滅した悟りの第三段階)、アラハント(残りのキレーサ=心の汚れが全て絶滅し、輪廻からの解脱を果たした悟りの最終段階)に関連します。表の1.7に示すように、それぞれの悟りの段階はマッガ(道の)チッタとパラ(果の)チッタという二つのチッタから構成されます。マッガ(道の)チッタにはキレーサ(解脱を妨げる心の汚れ)を根絶ないし永遠に消し去るという働きがあります。パラ(果の)チッタには、それぞれのマッガ(道の)チッタがもたらす、悟りの段階に応じた解放を経験するという働きがあります。マッガ(道の)チッタはクサラ(善業を作る)チッタでパラ(果の)チッタはヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタに相当します。

  それぞれのマッガ(道の)チッタが生じるのは一度だけであり、チッタ一個分の時間単位(チッタッカナ)しか持続しません。マッガ(道の)チッタを得た人の心に同じマッガ(道の)チッタが再び現れることはありません。それぞれのマッガ(道の)チッタに応じたパラ(果の)チッタは、最初はマッガ(道の)チッタのすぐ後に生じ、チッタ二つないし三つ分の時間だけ持続します。そしてその後は何度も繰り返し現れます。訓練により、パラサマーパッティ(果定、第4章、第22節;第4章、第42節参照)と呼ばれるロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)の没入状態の中で長時間持続させることが出来るようになります。

  マッガ(道)、パラ(果)は洞察を育てる瞑想、ヴィパッサナー瞑想により得ることが出来ます。この種の瞑想はパンニャー(智慧)の力を強化する訓練を含みます。常に変化している心と身体の現象を、途切れることなく観察することで瞑想者は永続せず、苦しみであり、実体が無いという、心と身体の現象の本質が分かるようになります。洞察が完璧に熟すると、そこからロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)のマッガ(道)とパラ(果)が現れます。

  ソーターパッティマッガチッタ(輪廻からの解脱へと向かう流れに入った覚りの第一段階の道のチッタ):後戻りすることのない悟りの道へ入ることをソーターパッティ(輪廻からの解脱へと向かう流れに入った覚りの第一段階)と呼び、それを達成したことを経験するチッタがソーターパッティマッガチッタ(輪廻からの解脱へ向かう流れに入った覚りの第一段階の道のチッタ)です。ソータとはアーリヤアッティンギカマッガ(聖なる八つの正しい道)のことです。サンマーディッティ(正しい見解)、サンマーサンカッパ(正しい思念)、サンマーヴァーチャー(正しい言葉)、サンマーカンマンタ(正しい行い)、サンマーアージーヴァ(正しい生計)、サンマーヴァーヤーマ(正しい努力)、サンマーサティ(正しい気づき)、サンマーサマーディ(正しい集中)の八つからなる道です。ヒマラヤの山中に元をたどるガンジス河が途切れることなく大海へと流れるように、サンマーディッティ(正しい見解)から始まるアーリヤアッティンギカマッガ(聖なる八つの正しい道)はニッバーナ(涅槃)へと途切れることなく流れて行きます。

  アッティンギカマッガ(八つの正しい道)はニッバーナ(涅槃)を悟っていないけれども道徳的に生きる一般の人々のカーマーヴァチャラクサラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、善業を作る)チッタにも生じます。しかし、輪廻からの解脱を目指すという目標が定まっていません。ニッバーナ(涅槃)を悟っていない一般の人々の場合は、その性質が変わり、ダンマから離れてしまう可能性があるからです。しかし輪廻からの解脱へと向かう流れに入った聖なる弟子たちは、しっかりと目標が定まり、水の流れのようにニッバーナ(涅槃)へと確実に向かって行きます。

  ソーターパッティマッガ(輪廻からの解脱へと向かう流れに入った覚りの第一段階の道の)チッタの機能は、サンヨージャナ(生命を輪廻に繋ぎ止める足枷)の内の最初の三つ、(1)ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)、(2)ヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)、(3)シーラッバタパラマサ(祭礼や儀式が輪廻からの解脱に導くと考えてそれに執着すること)を断ち切ることです。さらに、人間より下の生存世界への再生をもたらす強いローバ(欲)、ドーサ(怒り)、モーハ(真理が分からず混乱した状態)を断ち切る働きもあります。またこのチッタは他の五つのチッタ、つまりローバムーラディッティガタサンパユッタ(聖なる真理にそぐわない誤った見解が付随し、欲というチッタを安定させる根を持つ)チッタ四つ(第4節参照)と、モーハムーラヴィチキッチャーサンパユッタチッタ(真理が分からず混乱した状態というチッタを安定させる根を持ち、ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑いが付随するチッタ)一つ(第6節参照)もまた永久に根絶やしにします。解脱の流れに入った聖者は最高で7回再生する内に確実に輪廻からの解脱に達するとされています。また人間より下の悲惨な生存世界に再生することはありません。

  サカダーガーミマッガ(覚りの第二段階の道の)チッタ:
  これはアーリヤアッティンギカマッガ(聖なる八つの正しい道)に関連するチッタでサカダーガーミという覚りの第二段階の意識の領域に到達させます。このチッタはサンヨージャナ(生命を輪廻に繋ぎ止める足枷)を根絶することはありませんが、サンヨージャナの内のカーマラーガ(官能的な欲)とパティガ(嫌悪)を極めて小さくします。この段階に達した聖者は感覚的な楽しみを追い求める生存領域のうち人間界ないし天界(多くの場合天界)に1回だけ再生し、その後輪廻からの解脱に達するとされています。

  アナーガーミマッガ(覚りの第三段階の道の)チッタ:
  この段階に達した聖者は感覚的な楽しみを追い求める生存領域に再生することはありません。その生涯で悟りの最終段階であるアラハントに達しなかった場合は、ルーパブーミ(物質を対象にした禅定に関連する生存領域で、微細な物質しか存在しない)にのみ再生し、そこで最終的な悟りを得て輪廻から解脱します。このチッタはサンヨージャナ(生命を輪廻に繋ぎ止める足枷)の内、カーマラーガ(官能的な欲)とパティガ(嫌悪)を根絶やしにします。またドーサ(怒り)をへートゥ(チッタを安定させる根)とするチッタ二つ(第5節参照)が永久に無くなります。


  アラハッタマッガ(覚りの最終段階、アラハントの道の)チッタ:
  アラハントはサンサーラ(輪廻=死と再生の無限の繰りかえし)から完全に解脱した人です。心の汚れという敵(ari)を、破壊した(hata)人という意味です。このチッタは直接アラハントに輪廻からの解脱をもたらします。また五つのかすかなサンヨージャナ(生命を輪廻に結びつける足枷)、バワラーガ(微細な物質しかない生存領域であるルーパブーミ、物質のない生存領域であるアルーパブーミへの再生に対する願望)、マーナ(自分と他者を比較する心の汚れ)、ウッダッチャ(不穏、興奮)、アヴィッジャー(真理に対する無知)を破壊します。このチッタはまた残ったアクサラチッタ(不善業を作るチッタ)、すなわちローバムーラデッティガタヴィッパユッタチッタ(欲というチッタを安定させる根を持ち、聖なる真理にそぐわない誤った見解が付随しないチッタ)四種類(第4節参照)、モーハムーラウッダッチャサンパユッタチッタ(真理がわからず混乱した状態というチッタを安定させる根を持ち、不穏・興奮が付随するチッタ)一種類(第6節参照)も取り除きます。


  パラチッタ(果のチッタ):
  それぞれのマッガ(道の)チッタは、それが生じた直後、同じ認識過程の中において、自動的に相応のパラ(果の)チッタをもたらします。その後は、瞑想者がニッバーナ(涅槃)を対象に瞑想するたびに、パラ(果の)チッタが繰り返し生じます。パラ(果の)チッタは分類の上ではヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタに相当します。なおロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)にはキリヤ(働きだけの)チッタが無いことに注意してください。アラハントがパラ(果)を基にした禅定に入った場合、その禅定の中で生じるチッタはロークッタラマッガ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における道)がもたらす果であり、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタのグループに属するからです。


29節 チッタのまとめ
  ドゥバーダサークサラーネーヴァン クサラーネーカヴィーサティ

  チャッティムセーヴァ ヴィパーカーニ クリヤーチッターニ ヴィーサティ

  チャトゥパンニャーサダー カーメー ルーペー パンナーラスィーライェー

  チッターニ ドゥヴァーダサールッペー アッタダーヌッタレー タター

  このように、アクサラ(不善業を作る)チッタが12種、クサラ(善業を作る)チッタが21種類あります。ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタは36種類、クリヤー(機能だけの)チッタが20種類となります。

  カーマーヴァチャラ(感覚の喜びを追い求める意識の活動領域における)チッタは54種類、ルーパーヴァチャラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の活動領域における)チッタが15種類、アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタが12種類、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタが8種類となります。

29節へのガイド

  この偈文の中で、アーチャリヤ・アヌルッダ尊者は、ここまでに開設した89個のチッタ全てをまとめています。偈文の最初の部分でチッタをその性質ないし種類(ジャーティ)により四つのグループに分けています(表1.8参照)。

  12 アクサラ(不善業を作る)チッタ

   21 クサラ(善業を作る)チッタ

   36 ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ

   20 キリヤ(機能だけの)チッタ

  最後の二つはカンマ(業)の観点からクサラ(善を作る)、アクサラ(不善業を作る)に区分することができない(アビャーカタ)という理由から一つのグループとして取り扱われます。

  二番目の偈文では、同じ89種類のチッタをチッタのブーミ(存在領域)により四つのグループに分けています。

  54 カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における)チッタ

  15 ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタ

  12 アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタ

   8  ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタ

  チッタは対象を認識するという性質からみれば一つですが、これまで述べたような様々な基準により多くの種類に区分されています。

  エーカヴィーササターニ チッタ(121種類のチッタの分類)

第30節 簡略した説明

  イッタン エークーナナヴティッパベーダン パナ マーナサン

  エーカヴィーササタン ヴァータ ヴィバンジャンティ ヴィチャッカナー

  このようにチッタは89種類に区分されますが、賢者は121種類に分類します。

第31節 詳細な説明

  カタン エークーナナヴティビダン チッタン エーカヴィーササタン ホーティ?

  ● ヴィタッカ ヴィチャーラ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン パタマッジャーナ ソーターパッティ マッガチッタン
   ヴィチャーラ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン ドゥティャッジャーナソーターパッティ マッガチッタン
  ピーティ スカ エーカッガター サヒタン タティヤッジャーナ ソーターパッティ マッガチッタン
  スカ エーカッガター サヒタン チャトゥタッジャーナ ソーターパッティ マッガチッタン
  ウペッカー エーカッガター サヒタン パンチャマッジャーナ ソーターパッティマッガチッタン チャー ティ

  イマーニ パンチャ ピ ソーターパッティマッガチッターニ ナーマ

  タター サカダーガーミマッガ アナーガーミマッガ アラハッタ マッガチッタン チャー ティ サマヴィーサティ マッガチッターニ

  タター パラチッターニ チャー ティ ソーマチャッターリーサ

  ロークッタラチッターニ バヴァンティ ティ

  89種類に分類されたチッタがどのようにして121種類に分類されるのでしょうか。

  ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第一段階の禅定のチッタ

   ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第二段階の禅定のチッタ

   ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第三段階の禅定のチッタ

  スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第四段階の禅定のチッタ

   ウペッカー(心が静まり苦も楽も感じなくなった状態))、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第五段階の禅定のチッタ

  この五種類がソーターパッティのマッガ(道の)チッタです。サカダーガーミ(悟りの第二段階)、アナーガーミ(悟りの第三段階)、アラハント(悟りの最後の段階)の場合も同じです。このように数えることでマッガ(道の)チッタは全部で20種類となります。同様に、パラ(果の)チッタも20種類となり、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタは合計40種類となります。

3132節へのガイド

  瞑想者は全てパンニャー(現象をありのままに見る智慧)、すなわち無常(全ての現象は常に変化している)・苦(生と死を繰り返す輪廻は苦しみである)・無我(全ての現象には自己と呼べる変わらぬ実体はない)に対する洞察を通してロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)のマッガ()・パラ(果)に到達します。しかしながら、瞑想者のサマーディ(集中)の熟達度合には差があります。ジャーナ(禅定:集中が高度に高まった状態)を得ずに洞察を培う瞑想者はスカヴィパッサカ(洞察瞑想だけの実践者)と呼ばれ、マッガ(道)・パラ(果)に達した時には、そのマッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタはジャーナ(禅定)の第一段階のレベルに相当します。

  ジャーナ(禅定)を基にして洞察を培う瞑想者は、マッガ(道)に到達する際のジャーナ(禅定)のレベルに応じたマッガ(道)・パラ(果)を得ます。マッガ(道)・パラ(果)のジャーナ(禅定)のレベルを決める要素が何なのかについての見解は指導者によって異なります。一つの学派は、パーダカッジャーナ(基礎的な禅定)、つまり洞察を得る前に心を集中させる基礎となるジャーナ(禅定)が絶頂に達した時にロークッタラマッガ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の道)を得ると説明しています。二番目の学派は、サンマスィタッジャーナ(理解ないし観察対象としての禅定)と呼ばれる洞察の観察対象として用いたジャーナ(禅定)の種類によりマッガ(道)のジャーナ(禅定)レベルが決まるとしています。第三の学派によれば、ジャーナ(禅定)の各段階をマスターした瞑想者は、マッガ(道)のジャーナ(禅定)レベルを個人的な願望ないし好みに応じてコントロールできるとされています(アッジャーサヤ)。

  どのような説を採用したとしても、全てのマッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタはジャーナ(禅定の)チッタの一種とみなされます。これは洞察瞑想だけを行う瞑想者の場合も、ジャーナ(禅定)を目指して集中瞑想を行ってから洞察を得る瞑想者の場合も同じです。その理由は、(1)マッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタが生じるのはローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域における禅定)の場合と同じように、瞑想対象に完全に没入し深い瞑想に入っている時である、(2)マッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタは相応のローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域における禅定)と同じ強さのジャーナ(禅定)の要素を含んでいる、という二点です。マッガ(道)・パラ(果)というロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)はいくつかの重要な点でローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域における禅定)と異なります。第一に、ローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域における禅定)の瞑想対象はカスィナ(集中瞑想の対象として使う色のついた円盤)のイメージなどの概念を対象にしますが、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)の瞑想対象は、条件に左右されない真理であるニッバーナ(涅槃)です。第2にローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域における禅定)の場合、キレーサ(心の汚れ)は一時的に抑圧されるだけでその根底にある種はそのまま残りますが、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)はキレーサ(心の汚れ)を根絶やしするため二度と生じることがありません。第三に、ローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域における禅定)はルーパブーミ(物質を対象にした禅定に関連する意識の存在領域)への再生をもたらし、生と死の繰り返しが続きますが、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)は生命をサンサーラ(輪廻:生と死の永遠の繰り返し)に繋ぎ止めるサンヨージャナ(足枷)を断ち切り、生と死の繰り返しからの解放をもたらします。最後に、ローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域における禅定)の場合は智慧より集中が優先されますが、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)の場合は智慧と集中の調和がとれています。集中により心を「条件に左右されない対象」に固定し、智慧により「四つの聖なる真理(苦しみ、苦しみの原因、苦しみの滅尽、苦しみの滅尽に至る道)」を深く究明します。

  五段階のジャーナ(禅定)の区分を基にし、含まれるジャーナ(禅定)の要素に応じて、マッガチッタ(道のチッタ)・パラチッタ(果のチッタ)が細分されます。ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)を単にマッガ(道)とパラ(果)に分けて全部で八つと数える方法の代わりに、それぞれのマッガチッタ(道のチッタ)・パラチッタ(果のチッタ)をそれが生じた際のジャーナ(禅定)のレベルによりさらに五つに分けることが出来ます。このようにすると八つのロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)はそれぞれが五つのジャーナ(禅定)のレベルにより細分され、合計で40種類となります(表1.10参照)。

32節 結論とまとめ

  ジャーナンガヨーガベーデーナ カトゥヴェーケーカン トゥ パンチャダー 

  ヴッチャッターヌッダラン チッタン チャッターリサヴィダン ティ チャ

  ヤター チャ ルーパーヴァチャラン ガヤターヌッタラン タター

  パタマーディジャーナベーデー アールッパン チャー ピ パンチャメー

  エーカーダサヴィダン タスマー パタマーディカン イーリタン

  ジャーナン エーケーカン アンテー トゥ テーヴィサティヴィダン   バーヴェー

  サッタティンサヴィッダン プンニャン ドゥヴィパンニャーサヴィダン  タター

  パーカン イッチャーフ チッターニ エーカヴィーササタン ブダー ティ

  それぞれのチッタをジャーナ(禅定)の要素の違いにより5種類に分けると、ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)は全部で40種類になります。

  ルーパーヴァチャラチッタ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域のチッタ)が禅定の第一段階から始まって五つとなるように、ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)も五段階に分類されます。なお、アルーパ―ヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタは第五段階のジャーナ(禅定)に分類されます。

  このようにして、第一段階から第四段階までのジャーナ(禅定)がそれぞれ11種類、第五段階のジャーナ(禅定)が23種類となります。

  クサラ(善業を作る)チッタが37種類、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタが52種類です。こうして、賢者はチッタを121種類に分類します。

32節へのガイド

  アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタは第五段階のジャーナ(禅定)に分類されます:以前説明した通り、第四段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)は全て第五段階のルーパッジャーナ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)の二つのジャーナ(禅定)要素であるウペッカー(心が静まり苦しくも楽しくもなくなった状態態)とエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を持っています。このため第五段階のジャーナ(禅定)と同じグループとみなされています。従って、瞑想者がアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)を基にして洞察を得た場合、そのマッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタは第五段階ジャーナ(禅定)のロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)に分類されます。

  このようにして、第一段階から第四段階までのジャーナ(禅定)がそれぞれ11種類:第一段階から第四段階までのジャーナ(禅定)チッタはそれぞれルーパーヴァチャラクサラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、善業を作る)チッタ、ルーパヴァチャラヴィパーカ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、業の結果として生じる)チッタ、ルーパヴァチャラキリヤ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、働きだけの)チッタの三つと、ロークッタラマッガ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における道の)チッタ=クサラ(善業を作る)チッタ四つ、ロークッタラパラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における果の)チッタ=ヴィパーカ(業の結果として生じるチッタ四つ、合わせて11種類となります。

  第五段階のジャーナ(禅定)が23種類となります:第五段階のジャーナ(禅定)にはルーパッジャーナ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)の第五段階およびアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)の第一段階から第四段階が含まれ、それぞれがルーパーヴァチャラクサラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域おける、善業を作る)チッタ、ルーパーヴァチャラヴィパーカチッタ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、業の結果として生じる)チッタ、ルーパヴァチャラキリヤ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、働きだけの)チッタの三つに分かれるため15種類、これにロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における善業を作る)チッタ=マッガ(道の)チッタ四つ、ロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、業の結果としての)チッタ=パラ(果の)チッタ四つが加わり、全部で23種類となります(表1.11)。 

  ロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、善業を作る)チッタ=マッガ(道の)チッタ四つ、ロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、業の結果として生じる)チッタ=パラ(果の)チッタ四つ、合計8種類をジャーナ(禅定)の五つの段階で細分類すると40種類となります。このように計算すると、クサラ(善業を作る)チッタが37種類、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタが52種類となります。こうしてチッタの総数は89種類から121種類へと増えます。

  イティ アビダンマッタサンガへー

  チッタサンガハヴィバーゴー ナーマ

  パタモー パリッチェードー

  これでアビダンマッタサンガハ(アビダンマの概要)の第1章、チッタの概要が終了します。



   読んでみました
森川すいめい著『その島の人たちは、ひとの話をきかない』
                             (青土社 2016年)

『漂流老人ホームレス社会』(「月刊サティ!」20208/9月合併号で紹介)の著者は、「自殺希少地域」とされる5カ所を6回訪ね、そのわけを知ろうとそれぞれ一週間前後滞在した。本書はその記録である。面白いことに、その背景は地域によって異なるものや共通するものがあった。(著者のプロフィールその他については上記を参照されたい)
  きっかけは、精神科医として自殺について考え、悩み続けてきた時に、岡壇(まゆみ)さんの「自殺希少地域の研究(1)」と出会って衝撃を受けたことによる。さらにはピーター・F・ドラッカー(2)の考え方にも影響を受けた。それまでも著者は精神科クリニックの院長として診療を行う傍ら、生きやすさの答えのヒントは常に医学の外にあるのではないかと感じていたと言う。

  ※注1:詳細は『生き心地の良い町――この自殺率の低さには理由(わけ)がある』(講談社2013年)を読んでほしい(著者)。
  ※注2:ひとを大切にするためのマネジメントというものを発見したとされる(著者)。

  著者は「はじめに」で、「結論だけを読みたい方は最後の章だけ読んでほしい」と言っているが、ここでは、なぜそういった結論が導かれたのかに興味をおぼえたため、やはりそれぞれの章を紹介していきたいと思う。

  序章の「支援の現場で」は、徳島県旧海部町訪問の記録だ。著者が抱いていた自殺の少ない地域には“ゆっくり休めて癒やされる”空間があるのではないかとのイメージは、旅館の職員によって早々に裏切られる。
  著者はそれまで、「すごくひととひととが助け合う地域こそが自殺希少地域」ではないかと思っていたと言う。しかし、岡さんによる当地の調査に基づく研究発表、「人間関係は、疎で多。緊密だと人間関係は少なくなる」「人間関係は、ゆるやかな紐帯」に目を開かされた結果、著者も当地に足を運んでみることになった。
  序章ではまた、自殺は「防止」と「予防」とに分けて考えるように述べる。防止というのは、例えばホームドアなどの主としてハード面での方策であって比較的わかりやすい。しかし、予防にはわかりにくいものもある。
  例えば、アルコールの摂取と自殺率との関係など分析研究から導かれるものもあるけれど、貧困からの自殺についての議論はなかなか難しい。さらには岡さんによると、予防も二つに分けて考えてられると言う。それは、自殺の原因を調べて予防するものと、自殺に至らない地域に存在するであろう予防因子を調べることの二つである。著者はこの考え方によって、原因研究と支援だけでは十分な成果を得られなかった現場の閉塞感を「ずいぶん吹き飛ばすことになった」と述べている。
  第1章「助かるまで助ける」には序章にあげた町での出来事が紹介されている。敷居も低く鍵も掛けない家、ひとりひとりの距離が近くコミュニケーションの量が多い、にもかかわらず互いに緊密ではない。あちこちにベンチがあって老人が坐っていると通りすがりの人が挨拶をし、老人もそれを返すがただそれだけ。寺で老人との世間話に1時間、その後は特別なことではなかったかのようなあっさりと分かれる。
  コミュニケーションの多さに関連するように、この地域では「病、市に出せ」という言葉が昔から大事にされてきたと言う。これは、「内にためず、どんどん市、自分の住む空間に出しなさいという教訓」ということだ。
  著者ははからずも当地で、「親知らず」を抜いたあとの痛みがひどくなる。近くの医院が休診だったため少し離れたところの大きな病院に電話したところ、当直の内科医しかいないと断られ、やむなく旅館の親父さんに相談した。ところが、「私の歯の痛みを解決するためにあらゆる情報を短時間で得ていた」親父さんは、なんと、82キロ先の歯医者へ送ると言ったそうである。さらに歯痛の情報はあっという間に近所まで伝わっていたという。この情報量の多さと速さは自殺希少地域の特徴なのだ。
  突然の雨に洗濯物が外に干してあったら家人に無断でそれを取り込む。緊密さはなくコミュニケーションは軽いが、困っている人がいたら自然にその部分を助けるのは、互いによく出会っているからではないか。当地出身の人が都会に住んだ時、雨が降り出したので近所の洗濯ものを取り込んだらひどく怒られたそうだ。でもその人はそれで落ち込んだりはしていない。こう言ったそうだ。「都会にはいろんなひとがいるんやね」と。人が多様であることをわかっている、それは生きやすさに関係しているのではないか、著者はそう思っている。

  第2章の「組織で助ける」も同じ旧海部町の朋輩組についての話である。
  400年前に生まれたこの組織は、問題が起こらないように監視するのではなく、問題は起こるものということを織り込んだ上で、「起こった問題をいっしょに考えて解決する」ための組織だという。同世代の8人から18人で、構成も町内会ごとではない。外から来る人が多かったことから入会も脱会も自由で、人を助けるための知識や技術が蓄積され伝承されるが強制力はない。著者が面白いと思ったのはメンバーによる知識や考え方の豊かさだったそうだ。
  組織には、問題を起こさないように見守るものと、問題があることを前提としてそれに対処して動くものがある。多くは前者に傾きやすくルールも増えるが、社会が変化するとともに次第に合わなくなっていくのはやむをえない。やはりそうした変化に対応しやすいのは後者である。当地の朋輩組という組織には、問題が「起こったときの機動力と柔軟性、そして即時性が備わっていた」と述べている。

  第3章「違う意見、同じ方向」は青森県風間浦村でのこと。寒いところはアルコールの消費量が多く、それが増えることと自殺者の割合が増えることとは関係がありそうだとする研究もある。そんな東北地方で自殺者の少ない地域があり、風間浦村はそのひとつだ。
  生きづらさの大きな原因のひとつに悪口や陰口があると思い込んでいた著者は、ここで意外な発見をする。ストレスを発散でもするようにここでも悪口や陰口はあった。しかしそのあとに解決策が話し合われていたのだ。「嫌い」や「違い」があっても対話が出来ている。それは、「そこにいていいと言うことが前提になって」いるからである。その結果、「自分のつらい気持ちの解決方法も、他者を傷つけてしまうこともぐっと減る」ことになる。
  著者はあとで気づいたそうだが、自殺希少地域似住む人は相対的に自分の考えを持っていると言う。自分の考えを持つから他人の考えを尊重するし、他人がその人なりの考えを持っていることを知っているのだ。しかも旧海部町と同様、近所との深いつながりはさほどではないが、知り合いは多いので孤立することはない。
  また、「組織内の人間関係が良い組織は、メンバーが共通のゴールを目指しているという研究成果がある」と言う。風間浦村には村民憲章という5つの理念があり、目に見える何カ所にも置いてある。つまり、やり方や速さでは意見が違っても、方向は同じと言うことだ。そうであれば、仲が悪くなることは減るに違いない。自殺希少地域には、かたちは違っても共通の意識というものがあると著者は考えている。
  第4章「生きやすさのさまざまな工夫」では青森県旧平舘村が取り上げられ、ここで著者は工夫の力に気づく。
  認知症患者の診療に関わる著者の経験では、周囲の人々の工夫が足りず、また相手を変えようとする人が多いそうだ。そうなると患者は、周囲からイライラがぶつけられてもその理由がわからずに理不尽だと感じてしまい、嫌な感情だけが残される。そうでないケースではたいてい周囲がよく工夫していると言う。自殺希少地域では、中身は違っても地域の特性に合わせた工夫が見られた。
  ヒッチハイクに応じてくれた男性との対話。
  「『この地域のひとは、困っているひとを放っておけないかもしれないね。因っているひとがいたら、できることはするか』と言った。私はそこで、できないことだったら?と聞いた。男性は少し間を置いて、『ほかのひとに相談するかな』と言った。『できることは助ける。できないことは相談する』。こうありさえできれば、困ったことがあったひとは孤立しないと感じた」。
  もし自分には任が重いと感じれば、言い訳を考えてそこから立ち去るのではなく、ほかの人に助けを求める。それが出来れば負担意識も軽減され、また状況も変わると言うことだ。
  ここのバスは手を挙げたらバス停でなくても止まってくれる。運転手は、「としよりが乗ることが多いから。としよりはバス停まで来られない」「だから、ゆっくり動くのですね!」「そう」。老人の家にリハビリを持ち込むかバスを届けるかは課題のとらえ方による。答えは常に現場にあると言う。
  また、トイレを借りやすいこと、食堂でごみを捨ててくれたこと、「貴重品だけどあげる」と言いつつカイロをくれたこと、これらの体験から著者は次のように言う。
  「いつも感じるのは、ひとを助けるのにおいて相手の気持ちをあまり気にせずに助けようとする態度である。(略)自分が助けられることがあったならばいっきに助けてくれる。しかも見返りなしだ。人助け慣れしているから助け方も上手だ。とても心地がよい。こんなことが各所で起こっていたとしたら、悩み事が大きくなる前にたくさんのことが解決してしまうだろうと思う。小さなうちに解決したほうがよいことは多い。抱え込まなくていい」。
  「自分がどうしたいのかと。自分が助けたいと思うから助けるのだ。相手にとってはよけいなお世話になることもあるのかもしれないが、それでも貫くのである。(略)人助け慣れしていくと、その加減も絶妙になっていく。そして助けられ慣れていく。このことは、自殺希少地域での核心のひとつと感じている」。

  第5章「助けっぱなし、助けられっぱなし」は広島県にある瀬戸内海の下蒲刈島でのこと。著者は生活困窮者のための活動で、良い対応と同時に酷薄な行政に接した経験を多く持っているが、この島の役場では、「ひとの困りごとを解決するための存在」という本来の役割が働いていることを知る。それは、トイレを借りたり宿を聞いたりした時にとことんつきあってくれた職員のごく自然な行動からだった。
  その宿でも、商売と関係なく現場の人たちが臨機応変に意思決定できる柔軟さをもっていた。コテージの宿だったため、夕方コンビニに食料を買いに行ったらすでに閉まっており、途方に暮れていたところ小さな会社から出てきた二人連れの男性に車でお好み焼き屋まで乗せてもらったと言う。
  その男性たちは、「乗っていく?」とは聞かず、「お好み焼き屋でよかったら乗ってきな」と言った。これは、上手な支援者とあまり上手でない支援者との違いでもあると言う。上手な支援者は、相手に返事をゆだねるようには聞かない。「こういうのがいいと思うんだけど、どう?」と聞き、相手がNOと言えばその気持ちを感じて別の提案を考えるそうだ。二人の男性は、当たり前のことをしたようにあっさりと去って行った。帰りには、営業中なのにお店のお父さんが、「そしたら、足がないね、送ってやろう」と、さも当たり前のように車に乗せてもらったそうだ。
  自転車で島を廻っていた時に会った70代ぐらいの女性は、うどんを作って近所の足腰が弱っている老人に届けて、著者たちにも分けてくれたという。一度大きな事故に遭って助けられたことへの感謝の気持ちをずっと持っているらしい。商店でパンを買ったら、それが夕食と言うことを知った店主が、「カレーがあるからもっていきな」と。これも「食べる?」とは聞かない。あくまで当たり前に、助けっぱなし、助けられっぱなしなのだ。自分がどうしたいのかがメインで、相手の意向は関係ない。

  第6章「ありのままを受け入れる」は神津島。この島の特徴を著者はこう言っている。
  「その地域のひとたちは基本的には自分をもっている。自分の考えをもち、自分がどうしたいかで物事を選択する。長い者には巻かれることはない。島のひとたちに言うことを聞かせようとするのはとても難しそうだった。権力で押し切ろうとしても理不尽であったならば言うことは聞かないそうである。納得いかないことにはNOと言う。みんな同じ考えというものを嫌う」と。
  著者が精神科医だと言うことを知った宿の職員(女性)は、気分の不調の治療を受けていると言った。ここではそれを隠すことはなく、周囲みんなが知っていて、不調だとわかるとよってたかって助けに来る。孤立することがない。その職員は、「あとで相談に乗って、聞きたいことがあるから」と幾度も言っていたのに、結局一度も来なかった。言いたいことを言い、忙しそうに働いていて、著者の話を聞くということはなかったそうだ。
  別の島からここに来て、じきに地元に帰る若者はこの島に来て鍛えられ逞しくなったという。
  「『この島のひとたちは強い。自分をもっている』
  私は、さぞ、優しいひとがたくさんいるとか、陰口などがほとんどないとか、そういう話を期待していたわけだが、彼の評価はそうではなかった。
  『この島のひとたちは、ひとの話をきかない(・・・・)』というのである。島が好きかと言うとそう言い切れないようだった。もちろん感謝もしているのだという。しかしとても苦労も多かったのだと。
  『たとえば、自分が歌手でこういうひとが好きでと話をしたとします。その場では相手もいいねと言う。しかし興味がなければその音楽は絶対にきかない。これまでの人間関係だったら、いいねと言ったら少しは聴いてみようかみたいなことになるんだと思うんですよ。でも島のひとは興味がなければ絶対にきかない』
  相手に同調することはない。自分は自分であり他人は他人である。その境界がとても明瞭であるというのである」。
  「私は彼の話を聞きながらひとつの答えに達しようとしていた。
  自殺で亡くなるひとが少ない地域というのは、『自分をしっかりともっていて、それを周りもしっかりと受け止めている地域である』」のだ。
  旧海部町とは違い、この島では地縁血縁の関係が強い。そこで著者が思ったのは、「よい組織とは、構成メンバーの種類が関係するのではなく、メンバーが何に向かっているのか、共通の目標は何かによって生まれる」ということであった。
  この島の特養では、抗精神病薬を飲む高齢者はゼロ、睡眠薬を飲んでいるのも数人だけ。その理由は看護師さんたちとご飯を食べた夜に聞いた話からわかってきたという。それは、「全員、誰がどこに住んでいてどういう人生を過ごしてきたかがよく把握されていた」ことだ。つまり、人間関係は以前と変わらず、「自分らしく生きられる」からそのような薬は必要ないわけである。
  この特養の見学のあとに行った障碍をもつひとの働く場所や居場所になっている施設でも同じだった。そこでも、「ひとりひとりのことを職員はよく知っていた。どこに住んでいて、どういう背景でいて、どういう気持ちでいるのかをよく知っていた。背景を知っていることでいろいろと寛容になれるのかもしれない。寛容さは利用者の表情をみているとわかる。うれしそうに仕事をしている」。
  そのままを認めているから偏見もない。人は多様であることを知っていれば違うものへの偏見は生まれないのだ。
  「ありのままでいいのである。そのように認められると、ひとは穏やかに生きられるようになる。(略)偏見のなさは多様性を受け入れていること、ありのままを受け入れていることでもある。(略)みんな、違っていいのである」。
  またこの地域で、「なるようになる。なるようにしかならない」という言葉をよく聞いたと言う。著者はこう考える。「自然がとても厳しいこと。とても苦しいこともあるということ。何をしても自然にはかなわないということ。その歴史があり続けるということ。それゆえに、『なるようにしかならない』ということばが、生まれた」のだと。
  そしてこう言う。
  「相手は変えられない、自然は変えられない。変えられるのは自分。だから、工夫をしよう。受け入れよう。ありのままを認めよう。そして、自分はどうしたいのかを大事にしていく。人生は、短いのである。生きてそして必ず生を終えるときがある。さまざまなことがある。それを間近でみている。生きていく時間をどう過ごしたらいいのかは、ひとがどこからきてどこへ向かうのかを知っていれば、落ち着いて考えることができる。この島ではそれがはっきりと見える」と。

  終章の「対話する力」では先ず旅を通じて著者の感じ得たことを述べる。それは、自殺希少地域では、人は、「相手のことばをよく聞き、それに対して自分はどう思うかを話し、そしてまた相手がそれに対して反応する。ことばが一方通行にならないように対話を」よくすること。そしてまた、「相手の反応に合わせて自分がどう感じてどう動くかに慣れている」ことだった。
  さらに加えて、生きることを回復させるための本当のニーズとは何か、そしてそのニーズに適合したアプローチをすることが必要だと強調する。その方法として著者は次のような七つの原則を示す。
  (1)即時に助ける・・・囲っているひとがいたら、今、即、助けなさい
    
(2)ソーシャルネットワークの見方・・・ひととひとの関係は疎で多

    
(3)柔軟かつ機動的に・・・意思決定は現場で行う

    
(4)責任の所在の明確化・・・この地域のひとたちは、見て見ぬふりができないひとたちなんですよ

  (5)心理的なつながりの連続性・・・解決するまでかかわり続ける
    (6)不確かさに耐える/寛容・・・なるようになる。なるようにしかならない
    (7)対話主義・・・相手は変えられない。変えられるのは自分

  本書の最後に著者はこう記している。
  「自殺希少地域が幸せに満ちた場所かどうかはわからない。うつ病になるひともいるし、その地域を嫌って出ていくひともいる。ただ確かなのは、ひとが自殺に至るまでに追い詰めたり孤立させたりするようなことはとてもとても少ないということである。完璧なことはないのだとしても」。
  そして、「私がここで記録したのは、私の解釈にすぎないから、これが正しいなどと言うことはできない。ただ、追い詰めたり孤立させたりしないことはできるということは確かだと思う。(略)本書は、その方法の、ひとつの側面を、私が体験したことを通して紹介したものであり、それだけのものに過ぎない。願うのは、本書が何かを考えるきっかけになってもらえたらということである。誰かが少しでも生きやすくなることを願っていたい」。
  表面に見える対話や交流だけではなく、その自然環境や文化的な背景を知ることの大切さを改めて知らされる一冊であった。(雅) 

 
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