2021年10月号 | Monthly sati! October 2021 |
今月の内容 |
巻頭ダンマトーク:『病気になったら』(3)-悟るしかない・・・- | |
ダンマ写真 |
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Web会だより:『心と向き合って -赦し、懺悔、そして慈悲の修行へ-』(4) | |
ダンマの言葉 | |
今日のひと言:選 | |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (5) | |
読んでみました:マシュー・サイド著『失敗の科学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン 2016年)(後) |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
巻頭ダンマトーク:『病気になったら』(3) -悟るしかない・・・- |
*悟っても苦があるの? 凡夫であれ悟った人であれ、病気になれば肉体的苦痛は同じように生起してきます。悟ればすべての苦(ドゥッカ:Dukkha)がなくなり、神通力などを使いながら無病息災、不老長寿の元気印になれるのではないか。誰からも悪く思われず、尊敬され、愛され、大事にされながら幸せに、苦しみのない生涯を全うできるのではないか。要するに、悟ればあらゆる苦しみから解放されるのではないか。そんな誤解をしている人も少なくありません。 経典に窺われる聖者は、独り他人から遠ざかり、怠ることなく精励し、専心し、やがて「生まれることは尽きた。無上の清浄行は完成した。なすべきことを成し終えた。もはや再び迷いの生存を受けることはない」と悟り、証し、具現し、静かに残余の日々を送りながら入滅していったようです。 しかし中には、阿羅漢の悟りを得たのちに強姦されたり、癩病を病んだり、耳を引っ張られたり、殴り殺された聖者達もいたのです。 大量殺人鬼だったアングリマーラが阿羅漢の悟りを得てからも、托鉢に出ると石を投げられ、棒で打たれ、血だらけにされたのはよく知られています。大阿羅漢のモッガラーナ(目連尊者)は刺客の手にかかって命を落としたし、比類なき徳の結晶したブッダですら、背中の疼痛、足指の棘、食中毒や激しい下痢等々の病苦を知覚する瞬間があったのです。 *苦はあるが、苦しみは無い・・ 究極の悟りの段階である阿羅漢果に達すれば、もはや新しいカルマは何も作らない特殊な意識状態<唯作心>で残余の生涯を生きていると言われます。しかしこの世に留まって生存を続けている限り、たとえ悟りを開いて特別な人になっても、現象世界を貫いている物理法則や因果法則の支配を免れることはできないのです。凡夫も聖者も、こぼしたミルクを元のコップに戻すことはできないし、頭をぶつければ瘤ができます。 貴賤凡聖にかかわらず誰であれ、過去の悪業が縁に触れて帰結すれば苦の現象が生起するのは普遍的な法則です。阿羅漢の聖者といえども因果の理法どおりに痛みを感じたり、罵倒されたり中傷誹謗されたり、諸々の苦受の現象に襲われてしまうのです。 しかし苦受の襲来を受けてはいるものの、完全に解放され自由になった心が心理的に苦しむことはなく、ただ一瞬一瞬の苦受を経験しながらその変滅を見守っているだけと考えられます。 苦は存在しているが、苦しむことはない・・。卑近な例ですが、病気や体の不具合を治療するために、鍼灸院で鍼を打たれ、灸をすえられ、束の間の苦受を感じるのに似ているかもしれません。痛みや熱感を覚えても、ただの苦受に過ぎず、精神的な苦悩を感じることはないでしょう。もしこれがイジメやリンチだったら、針で突かれ煙草の火で虐待された苦痛は深刻なトラウマになるかもしれません。 身体に苦痛が生じ、痛いのだが、痛みから派生する苦しみがまったく存在しない境地・・・。これが、この世で到達できる解脱の限界です。 *負のスパイラル 私たちは一日に何度も嫌悪や不満足感に襲われ、時には怒りに体を震わせ、あるいは欲望や愛執に縛られ、恨みやトラウマに心が暗く翳ります。そうした一瞬一瞬のネガティブな心が作り出す不善業はやがて苦の現象となって帰結し、不快な経験をさせられます。 すると苦受を受けた瞬間、反射的に怒り系のネガティブな反応が惹き起こされ、そのエネルギーが未来にさらなる苦の現象を創り出し、悪因→苦果→悪因→苦果→の負のスパイラルに引きずり込まれ、苦の極限に向かって堕ちていくのです。 貪りや欲望系の悪業は不満足性の果てにある餓鬼の世界に堕ちていく因となり、人を見下していた高慢のカルマは反転して見下され蔑まれる業果を得ます。欲望系の不善業で身を滅ぼし、人生が破綻していくのも怖ろしいですが、病気の苦しみは何に由来するのでしょう。 *人はなぜ病むのか 怪我や病気や事故などによる身体レベルでの苦しみは、生命の内的秩序や環境との調和が乱れ、損傷し、壊れていこうとしている状態です。その元凶となる原因は、怒りのエネルギーであり、怒りの本質は破壊性です。 人や生きものを叩いたり、刺したり、撃ったり、殺したり、踏み潰したり、さまざまに害し、傷つけ、虐げる行為を実行させているのは、破壊の衝動です。 病気とは、生命に苦痛を与えた瞬間のエネルギーが自分自身に跳ね返ってきた状態です。他者の身体を傷つければ自分の身体が傷つき、病み、破壊される法則です。物理的な破壊のエネルギーが身体に加えられたのだから、思いっきり投げたボールが壁にぶつかってバウンドするように、同じ強さのエネルギーが自分自身の身体に返ってくるのです。通常は、はるか昔から累積していた同類の業がまとめて現象化しようとする傾向があるので、直近の不善業の何倍にもなって返ってきた印象になりがちです。 心を病むのも、身体を病むのも、同じ構造です。怒りの暴力性と破壊性が心や精神に向けられた場合には、自分の放ったエネルギーが因果法則のメカニズムにより、自分自身の心を傷つけ、破壊し、メンタルな病を罹患して帰結したと考えられます。 罵倒された瞬間も、裏切られ信頼が壊された瞬間も、ハメられ、脅迫され、恫喝され、辱められ、プライドをズタズタにされた瞬間も、心に受けた苦痛というものは、身体的苦痛を圧倒するものかもしれません。体の傷は癒えても、心の傷はトラウマとなって死ぬまで苦しみ続けることが多いのです。心なのか身体なのか、病んだ状態に優劣がつけられるでしょうか。 *元気印か病弱か 精神的苦痛と心の病を厳密に仕分けるのは難しいでしょう。いずれにしても、出力したエネルギーが自分自身に返ってきて、同じものを受け取る因果の構造は同じです。 病弱に生まれるのも、病気になりやすい遺伝的素因を持つのも、輪廻転生論を大前提にした仏教では、同じ因果法則の構造で理解されます。 比較的微弱な<現法受業>のタイムスケールは今世に限定され、来世にまたがって結果を出す力はありません。しかし<次生受業>のレベルになれば、今世で因果が帰結しなくても、縁が触れれば来世でその結果が現れます。 どのような遺伝的素因をもって誕生するか。仏教では、それがまったくの偶然に過ぎず、デタラメに起きているとは考えないのです。 生涯に渡って多くの人の命や動物の命を救った医療系の人も、暴力や殺しに明け暮れた武闘派の人も、出力したエネルギーに応じた結果を受ける構造はいつの世も変わりません。「死後、来世に持ち越せるのは業だけである」とブッダも説かれています。 *病気の根本原因 病気になる原因は業だけではありません。身体の病気に限って言えば、カルマは原因の4分の1でしょう。アビダルマでは、身体現象を起因させている要素は、①業+②心+③時節+④食と言われています。身体現象に不具合が生じた状態を病気と定義すれば、この4つは全て病気を起こす原因になるでしょう。 ①の<業>については既に述べましたが、②の<心>が原因になるのも分かりやすいです。憂鬱なのか、恋愛しているのか、自己嫌悪にまみれているのか、楽しくてキャーキャー騒いでいるのか、戦闘モードなのか、感動しているのか・・。心的状態が体の細胞にもホルモンや内分泌系にも影響を及ぼし、病気や健康の原因になるのは言うまでもないことです。 ③の<時節>とは、外的な環境因子です。極寒の地ではたちまち凍傷になるし、熱帯では大量に発汗するし、喉の渇きも熱中症も深刻です。 ④の<食>は、最も直接的に身体現象を左右しているでしょう。<医食同源>と言われるように、食物は薬にもなれば死因にもなるものです。 痩せるのも太るのも、腹痛も下痢も、早死にするのも健康に天寿を全うするのも食物しだい、フグや毒キノコなど死に直結するものもあります。 病気とは逆に、栄養バランスの整った浄らかな食物が適量摂取できるとどうなるでしょう。やがて到来する意識の透明感と心身の充実感は、最高の瞑想修行を強力に後押ししてくれることは間違いありません。 *病気にならないために・・ 食物や環境も病因になりますが、変な物を食べてあたるのも、滋味豊かな食に恵まれるのも、業の結果と言うこともできます。貧しい土地や豊かな土地に生まれるのも因果の帰結です。色法(身体現象の変化過程)の起因は上述した4要素ですが、<心>が最重要と考えるべきでしょう。善き心や悪しき心が業を作るからです。 心身を病む原因は、他者の心や身体に苦を与えた結果と理解すべきです。そのように納得がいけば、これから苦のない人生を切り開くにはどうしたらよいかが見えてくるからです。 怒り系のエネルギーが美しい命の輝きを破壊するし、正反対に、バラバラに離散し壊れたものを一つにまとめて統合し、和合させ、調和させていく慈悲系のエネルギーが病気を遠ざけ、生命本来の自己完結した美しさをもたらすでしょう。 「諸悪莫作」「衆善奉行」と説かれるように、悪を避け善をなしていく決意と実行こそ仏教の本来です。仏教を基軸に浄らかな生き方をしていけば、自ずからカルマが良くなり、病気を遠ざけ、健康に天寿を全うする道が開かれていくでしょう。さらに徳があり波羅蜜の熟した人には、聖なる修行を完成し、輪廻から解脱していく道が続いています。 *解脱への道 不善業を作る煩悩は、この世に誕生した時から初期設定されており、人は誰でも苦しい人生に向かってスタートを切っています。どんな人も動物も、誰に教えられることも努力することもなく、貪って、怒って、幸福を求めながら苦の種を蒔くという愚行を繰り返し、煩悩路線をひた走るように設計されています。生命という残酷なシステムは、幸せになろうとすればするほど、必然の力で一切皆苦の泥沼にハメられていく定めです。 その悪しき流れから脱出するには、不善業の再生産をストップさせるしかありません。本能のプログラムと生命意志に逆らい、悪しき反応を止め、煩悩を抑止するのです。負のスパイラルに巻き込まれて輪廻していくか、ブッダの示した道を歩んで修行するか・・・。 *2種類の涅槃 在家の者には遠い道のりですが、聖なる修行を完成し、煩悩の束縛を根絶やしにしてしまう悟り体験の瞬間を、仏教では<涅槃>と言い、まず解脱の第一段階である<預流果>に達した聖者となります。さらに2度目の涅槃が体験されると<一来果>、3度目の体験で<不還果>と覚りのステージをアップさせ、4度目の涅槃で最終段階の<阿羅漢>となり、全ての煩悩が滅尽状態となり輪廻の流れから解脱することが確定的となります。 その阿羅漢の聖者の状態には2種類あります。 ①は、まだこの世に留まって肉体的存在を続けている「有余依涅槃」と呼ばれる状態です。煩悩の束縛から解脱した境地に達しているのですが、身体には物理法則や業の法則に支配された苦楽の受が生滅している状態です。 つまり解脱しても、一切の心理的ドゥッカ(苦)が滅し尽されるだけで、肉体的存在にともなう苦受の瞬間は<般涅槃>(はつねはん:完全なる涅槃・parinibbana:パリニッバーナ)しない限りいかんともし難いのです。 ②は「無余依涅槃」と呼ばれ、阿羅漢の身体に死が訪れ、全てが絶無に帰した状態です。煩悩の炎がことごとく吹き消され、無限に続いてきた心の変滅するプロセス(名法)と身体現象の変化過程(色法)に終止符が打たれ、生存の流れの中に輪廻してきた一切が空無に帰した状態です。精神と物質の変滅するプロセスが完全に静止し、寂滅の静けさと絶対的な沈黙・・・。 *経験する瞬間 強い意志(チェータナー)が出力されて業が作られていく瞬間の心は<行(サンカーラ)>と呼ばれます。作られてしまった善因や悪因は、諸々の条件が整って縁に触れた瞬間、現象化してその結果を出してきます。業の結果を経験する心を<異熟心(ヴィパーカ・チッタ)>と言います。 目を開けば真っ赤な夕陽が見えてしまうし、赤ちゃんが泣き、女の人が叫べば耳に聞こえてしまうし、裏通りを歩けば焼鳥の匂いがしてくるのがこの世です。たとえ悟りを開いても、現象世界に存在している限り<異熟心>が生起してくるのは止められないし、悪因があれば苦受が、善因があれば楽受が生起してしまうのです。 「仏も昔は凡夫なり・・」という戯れ歌があります。どんな偉大な阿羅漢も昔は凡夫だったのだから、どんな悪業を作ってきたか解りません。悟りを開いて心理的な苦しみはゼロになっても、「有余依涅槃」でいる限り必ず異熟心が生じてしまうのだから、痛いし、臭いし、汚いし・・と、苦受の瞬間が皆無になることはないのです。 苦を超越する清浄道を完成しても、「無余依涅槃」に入らない限り、苦受を伴う異熟心を経験する瞬間を免れることはない・・。 *生存からの撤退 存在を現象の流れとして捉える仏教的観点からは、病気という独自の存在がある訳ではありません。最高に輝いた健康な状態から、死に瀕した最悪の状態まで、ただ生命現象のグラデーションがあるだけです。 病んだ状態も元気な状態もその中間も、瞬々刻々変化していて、何が病気でどこから健康なのか厳密な線引きはできないのです。 普通に生きている時と病気の時にさしたる差がないのであれば、病の苦も生きる苦しみも同じなのだと考えられます。 一切皆苦から逃れようと修行を始めたものの、病の苦を乗り超えても老いの苦しみがあり、死の苦しみがあり、愛する者と別離する苦も、憎き者と出会う苦も、欲しいものが手に入らない苦もあります。 こうした苦しみを全て乗り超えた阿羅漢の聖者も、眼耳鼻舌身意の現象世界に生きている限り、好むと好まざるとにかかわらず、無量無数の対象が瞬時も止むことなく乱入し続け、異熟心がかってに引き起こされていきます。のみならず、生起したその心は刹那々々に変滅し崩れ去り、無常の苦を突きつけます。 涅槃の静けさを熟知している阿羅漢の聖者は、そんなコントロール不能の、怖るべき意識の生と滅の奴隷状態をどのように堪え続けているのでしょうか。 ブッダは、光り輝くような波羅蜜の結晶した阿羅漢たちが自ら命を絶つことは厳しく禁じました。生存から完全撤退できる日が来るまで、大慈大悲の心をもって、世の人々が苦から解脱できる道を説き示すように厳命されたのです。かくして、2500年後の今も私たちに仏教のダンマの道が開かれてきました・・・。(完) |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
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(承前)
慈悲の瞑想へ
このような諸々のことから、自分の中に強い劣等感や承認欲求があるのは母に褒められなかった過去が関係していると考え、地橋先生に相談すると、「それなら人を褒めたり、認める修行が必要です」との言葉を頂いた私は、人を褒め認めるには、「まずは自分も含めた人々の幸せを願うことから始めねば!それならば基本である慈悲の瞑想しかない!」と考えました。
偶然その時読んでいた上座仏教の比丘の本に、「朝出かける前に慈悲の瞑想をすると一日が穏やかに過ごせるようになります」と書いてあるのを見つけ、毎朝の瞑想を慈悲の瞑想に充てることにしました。
まずは、劣等感の強い自分自身への慈悲の瞑想を真剣に行い、そして、家族、友人、法友、職場の同僚、嫌いな人々と順々に広げていきました。会社員である私は特に、当然苦手な人もいる職場の同僚には意識的に強く慈悲の瞑想を行いました。好き嫌いを問わず慈悲の心をもって接しなければ、他者を認めたり褒めるのを習慣とすることなど到底出来ないと思ったからです。
ところが、最初に効果が感じられたのは意外にも自分自身への慈悲でした。「私はまだ未熟で劣等感や承認欲求も強い。でも、それが今の『あるがまま』だ。そんな自分にも幸せを願おう」と思えるようになったのです。
このように修行を続けているうちにまた発見がありました。それは、自分が仏教から離れた期間を取り戻そうと、本を読んだり瞑想する時間を増やそうと必死になるあまり、自分を美化したり聖者コンプレックスのような状態になっていたんだなと気づいたことです。自分なりに修行を積み、先生にも褒めて頂いたことで、私は仏教徒でそれなりの修行を積んでいるんだという慢心が現れ、瞑想者である自分のあるべき姿はこうでなければならないというような妄想を抱き、それが知らず知らずのうちに本当の自分との乖離を生んで苦しくなっていたのだなと自覚されたのです。
このことに気づいた時には、懺悔の瞑想をした時のように心が軽くなる感じがありました。そして、「瞑想修行に取り組む人間にはこういうことはよく起こることだと、確か本で読んだことがあるな」と思い、そんな状態になった自分を素直に認めようと、これも受け入れることができました。
慈悲の瞑想をすると未熟な自分でも認めてやることが出来、受容的で優しくなれ、それに加えてその気持ちを周囲にも同じように広げられるんだなと感じました。悩んでいた時に先生から教えられた、「まずは堂々と自分の幸せを願いなさい。そして、自らを清めてから他を清める順番です!」という言葉の意味がすっと腹に落ちました。
自分で自分を認めてやる。すると他者への祈りも義務感のようなものでなく、少しづつですが、祈りたいなという優しい気持ちになっていきました。その結果、周囲との関係性の中で変化も生まれました。それは、他者を「積極的に褒め」たりするようなことではなく、他者への怒りや怨み、復讐心のような悪い気持ちを「自然と手放しやすくなった」ことでした。かつては、人から悪意のようなものを向けられるとこちらの劣等感からか感情がストレートに刺激され、「何だとっ!」という怒りの心が即座に立ち上がり、それに巻き込まれて気づきを失い、手放せずにいたのです。自分ではそれをどうにかしたいなと思いながらもできなかったのですが、このごろは少し手放せるようになってきたなと感じています。
この些細な変化が現れただけでも周囲との摩擦が減ってきました。そして、自分でも気持ちが軽いし、なんか笑顔になれる時間が増えたな、鏡で見ても表情が柔らかくなったなとも思えます。それが他の人にも不思議と伝わるのか、職場で人に話しかけられたり、親切にしてもらえることが増えてきました。また自然と良い縁にも触れたり、忙しさから疎遠になりかかっていた学生時代の友人たちと関係が戻ったり、仏教の話ができる法友もできました。
地橋先生は「瞑想をすると人生が変わる」と言われていますが、人生が変わるとは、世界が変わるのでなく、自分自身の心や考え方や視座が変わることなんだなと考えが及ぶようになりました。また、この瞬間瞬間にも自分は変化し続けている、悪い反応をするか善心所で反応するかでこれからの人生が変わっていっていくのだと、法話で繰り返し教えて頂いたことが少しづつ体感出来るようになりました。そしてこんな変化を、不善な方向にではなく、清らかな善なる方向に向けるための方法がブッダのダンマと瞑想にはあると、これが私が修行を通して確信することになったひとつの検証ではないかと思っています。
そして今思うことは、まだまだ未熟で弱い心のある私は、朝カルに通うことやさまざまな媒介を通して法話に触れること、そうした仏教から離れないための仕掛けを自分で意識して作らなくてはならないんだな、そこも含めての瞑想修行なんだな、と言うことです。
自分は独覚タイプではなく、周囲の影響を受けやすいので、周りの方々との縁を大切に、仏教の修行を通して、残された人生と自分自身を善なる方向へ変容させていければと強く思っています。(完)
(Y.U.さん提供) |
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9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」を再掲載しています。今月はその第2回目です。 |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (5) |
本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌6月号より掲載しております。掲載にあたってのお知らせは6月号をご覧ください。 第18節:ルーパーヴァチャラクサラチッタ(物質を対象とした禅定に関係する意識の領域における、善業を作るチッタ):5種類 第20節:ルーパーヴァチャラクリヤーチッタ(物質を対象とした禅定に関係する意識の領域における、機能だけのチッタ):5種類 |
マシュー・サイド著『失敗の科学』 (ディスカヴァー・トゥエンティワン 2016年)(後) |
(承前) 第4章では、何らかの結果を得るには小さな改善(マージナル・ゲイン)の積み重ねが重要であることが述べられる。 最初に取り上げられるのは、イギリス人初のツール・ド・フランス総合優勝を成し遂げた自転車競技のチームの例。 A地点からB地点までいかに早く到達するかという単純な目標。しかしその前には、専用マットレスや枕の導入で同じ質の睡眠をとること、新しいホテルに滞在する時には事前にスタッフが選手の部屋に掃除機をかけて感染症予防、もちろん自転車のデザインごとのテスト、トレーニング方法等々・・・。こうした小さくとも数多くの要素が積み重ねられた結果、詳細なデータベースが作成され、それが成果につながることになった。 またF1を勝ち抜いたメルセデスでは、マシンに取り付けたセンサーから集められるデータは1万6000チャンネル、そしてさらにそこから5万におよぶチャンネルが派生して取り出せるという。 このことが意味するのは、「大きな目立つ要素より、何百、何千という小さな要素を極限まで最適化すること」、つまり小さな改善がとても大切だと言うことだ。 それでは、このやりかたは別の分野にはどのように応用できるだろうか。 本書ではアフリカへの開発援助の例が取り上げられる。開発援助に関しては、「さらに援助すれば貧困を解消できる」という研究もあるし、「援助しない方がアフリカの状況は向上する」とする説もある。相反する議論に決着をつけるのにはランダム化比較試験が有効だけれど、アフリカは一つしか無いからそれは無理。ではどうするか。 開発援助は、例えばマラリア予防、識字率や学力の向上、インフラ整備等々さまざまな分野に分かれている。なので、その一つを対象として人や地域を介入群と対照群に分ければプログラムの効果を比較検証できる。つまり、アフリカ全体をまとめての比較は難しくとも、小さなプログラムに分けて検証すれば明確な裏付けが取れるので、そこから一つずつ改善を重ねていけばいいということになり、まず経済学者による小さな教育プログラムで行うことになった。 そこで教科書の無償配布を行ったが、予想に反する結果となった。配布したグループとしなかったグループに成績の差異は出なかったのである。原因は英語(当地の第3言語)で書かれた教科書では内容が把握しづらかったためだった。もし検証をしなかったなら依然として効果の無い教科書を配布し続けていたかもしれない。そこで、今度は理解しやすいように図表にしてイーゼルに立てたり壁につるしたりする視覚教材を使ったが、やはり結果は同じだった。 しかし経済学者たちはあきらめなかった。対象地方の子どもたちに寄生虫感染が多いことに気づいていた彼らは、今度は「駆虫薬の配布」を思いついた。それは子どもたちの発育不良や無気力、そして学校を欠席する原因ともなっていたからだ。そしてそれは予想よりもはるかにすばらしい結果を出した。スタッフの一人は次のように記している。 「駆虫薬配布プログラムは大成功だった。子どもたちの身長が伸び、再感染率が下がり、学校の欠席率は25%も下がった。しかも、コストはほとんどかからなかった」 このことは、「わかったつもり」になることなく、「小さなレベルで、何が有効で何が有効でないかを見極めること」が必要であり、たとえ「それぞれのステップは小さくても、積み重なれば驚くほど大きく」なるということを示している。 この章では他に、Googleが選んだ「最高の青色」と、大食いコンテストに「伝説」を残した日本人のエピソードが出ている。いずれも小さな改善を重ねて大きな結果を得た例となっている。 第5章は、ものごとを単純化し、責任者を捜し出して非難の矛先を向けて懲罰を加えるという、人の心のバイアスに関して述べる。 航空業界では通常ではミスを罰しないにもかかわらず、1989年、「ノベンバー・オスカー事件」と呼ばれるニアミスによって非難を一身に浴びて裁判にかけられた機長が、のちに自殺に追い込まれた事件を取り上げている。機長が直面したきびしい現実を検証すれば、機長の判断は「完璧ではなかったかも知れないが、犯罪に値する行動ではなかった」し、「機長を非難するのは間違いだ」という点では大勢の関係者はみな意見が一致していたという。これは「ミスに対して前向きな態度をとる航空業界でさえ、非難の衝動と完全に無縁ではなかった」例として示される。 認知的不協和の心理を内的な要素とすれば、非難は外からの要因として個人や組織にプレッシャーをかけ、失敗から学ぶ機会を奪ってしまう。なぜなら、非難や懲罰には規律をただすような効果は認められないから、ということだ。 その一例としてあげているのは、2004年にハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・エドモンドソン教授が行った調査である。それは、厳しい規律が一部にある病院の8つの看護チームに対する調査だ。その結果は、「懲罰志向のチームでは、たしかに看護師からのミスの報告は少なかったが、実際にはほかのチームより多くのミスを犯していた」。それに対して、「非難傾向が低いチームでは、逆の結果が出た」と言うことだ。 人間工学の専門家シドニー・デッカーは、「責任を課すことと(不当に)非難することはまったく別だ」とし、「非難すると、相手はかえって責任を果たさなくなる可能性がある。ミスの報告を避け、状況の改善のために進んで意見を出すこともしなくなる」と言っている。 著者はこのような非難行動を「脊髄反射的な犯人探し」と名づけ、それは「原因を性格的な要因に求めて状況的な要因を軽視」し、「一番単純で一番直感的な結論を出す傾向」が脳にあるためだとする。ただし、この傾向は「自分のミスになると出てこないらしい」。そしてこれは個人レベルでも集団レベルでも見られるという。 なるほど・・・人の脳は自分に都合良く出来ているわけだ・・・と納得がいった。ところで、ここで、併行して読んでいた、毎日新聞取材班による『SNS暴力-なぜ人は匿名の刃をふるうのか-』にあった内容を紹介したい。 好き嫌いなどの感情を抑制する理性の回路は前頭前野にあって、書くか書くまいかという「判断保留」の際に働くが、それは脳に高い負荷をかけるという。これについて脳科学者の茂木健一郎氏は、「脳はストレスを感じでいる時、負荷の高い行為はしたくなくなる」し、また非難することが「報酬系」を強化し、そのため繰り返してしまうのではないかとも言っている。さらに脳のミラーシステムからみても、「誰かを中傷することは、実は自分の脳も傷つける自傷行為」であること、またマイケル・サンデル教授による人気講義「JUSTICE(正義)」をあげて、「正義」は人の数だけ存在していることを考えようと勧めている。 同じく脳科学者の中野信子氏も、こうした状態のことを著書『人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム)の中で「正義中毒」と名付けている。「正義中毒の状態になると、自分と異なるものをすべて悪と考え」るが、特に相手が「『わかりやすい失態』をさらしている場合、そして、いくら攻撃しても自分の立場が脅かされる心配がない状況などが重なれば、正義を振りかざす格好の機会となる」などと解説しているという。(以上『SNS暴力-なぜ人は匿名の刃をふるうのか-』毎日新聞出版 2020年より) そしてまた、責任者の追求と非難は往々にして逆効果をもたらすことになる。その悲劇的な例として著者は2007年、ロンドン北部のハリンゲイで17か月のピーターという男の子が亡くなった事件をあげる。 虐待と育児放棄の未に亡くなった15か月後に、実の母親、彼女の恋人、恋人の兄の3人が実刑判決を受けた。しかし翌日の新聞は、当時ピーターを直接担当していたソーシャルワーカーのマリア・ウォードと、地区児童安全保障委員会(LSCB)委員長のシャロン・シュースミスに非難の矛先を向けた。 その結果、2人の解雇を求める嘆願書には16万人が署名。彼女らの写真や電話番号も紙面に掲載されると、殺害の脅迫状が送られたりして自宅を離れなければならなくなった。ただ人々は、この大騒ぎでソーシャルワーカーの仕事振りが改善されるだろうと思ったし、ある識者は、「これで彼らは仕事に専念するようになる」と言ったという。 その結果どうなったか・・・。 ソーシャルワーカーの辞職急増、新規ソーシャルワーカーの激減、児童保護件数の大幅な増加、ある地域では常勤人数不足で代理業者への委託金約2億円、等々。そして、残ったソーシャルワーカーの負担は増え、一人ひとりにかけられる時間は減ったため、自分の管理する子どもに何かがないように強引に介入し始めた。「危険な信号を見逃して『魔女狩り』に遭うわけにはいかないと考えた」からだ。 そうすると、家族から引き離される子どもの数が飛躍的に増え、その結果、裁判所による保護命令が次々と出され、急増した需要に合わせるためにより質の低い家庭にも里親としての承認が与えられるようになり、本来の家庭から引き離された子どもたちの多くは心身にダメージを受けることになった。 するとメディアは、それまでとは逆に、「子どもをあやしただけで虐待疑惑!引き離されるのを恐れて逃避行を続ける母娘」といった見出しとともに、「愛する子どもを無理やり奪われる親たち」のストーリーを報道し始めたと言う。 おまけに、過剰な自己防衛が社会福祉事業のあらゆる面で見られるようになり、問題視される可能性を恐れて貴重な情報は隠蔽され、自己防衛にばかり時間が割かれ、実際の社会福祉活動はないがしろにされるに至った。そして、「こうした非難騒ぎの翌年、虐待によって死亡した児童の数は25%以上増加し、その後3年間上昇し続けた」のである。 この事件で激しい非難の的となったシャロン・シュースミスは、当時は自分だけでなく家族全員の命を絶つことまで考えたという。「家族3人とも本当に苦しんでいました。私の苦痛が娘たちの苦痛であり、娘たちの苦痛が私の苦痛でした。みんなのためにもう終わりにしたいという思いが頭をよぎりました」と。 シドニー・デッカーは名著『Just Culture(公正な文化)』でこう書いているという。 「問趨は、非難したり訴えたり裁判にかけたりすれば、相手は責任感を強く持つようになると思い込んだままでいいのか、ということだ。今のところそれで説明責任が強化されたという証拠はひとつも出ていない」 第6章は、もし私たちが「失敗から学ばない」傾向にあるなら、それをどう乗り越えるかをテーマとする。 最初にあげるのはベッカムの少年時代のエピソード。6歳のころにはごく平均的なサッカー少年だったベッカムは、毎日の練習で9歳のころには2003回というリフティングの新記録を出した。また父といっしょの公園でのフリーキックの練習は5万回を超えていただろうと言う(彼の父による)。 「私のフリーキックというと、みんなゴールが決まったところばかりイメージするようです。でも私の頭には、数え切れないほどの失敗したシュートが浮かびます」 バスケットボールのマイケル・ジョーダンもCMで、「私は9000本以上シュートを外し、ほぼ300試合で負けた。ウイニングショットを任されて外したことは26回ある」と言っているそうだ。 著者は言う。「もちろん誰でも成功に向けて努力はするが、そのプロセスに『失敗が欠かせない』と強く認識しているのは、こうした成功者であることが多い」と。 ミシガン州立大学の心理学者ジュイソン・モーザーらによって、失敗した時に脳内に起きる二つの信号の現れ方に関する実験が行われた。一つは「エラー関連陰性電位(ERN)」と言って、自分の失敗に気づいたあと50ミリ秒ほどで自動的に現れる単純な気づきの反応、もう一つは失敗の200~500ミリ秒後に生じる「エラー陽性電位(Pe)」と言う信号で、それは自分が犯した間違いに意識的に着目する反応であって、そこから学ぼうとすることを示している。 これまで、どちらの反応も強い人ほど失敗からより素早く学ぶ傾向があるという結果が知られていた。 そこでモーザーは、事前のアンケートに基づいて被験者のマインドセット(思考傾向)を「固定型」と「成長型」のふたつに識別し、グループ分けした。 「固定型」傾向の人は、「自分の知性や才能は生まれ持ったもので、ほぼ変えることはできない」ととらえる一方、「成長型」傾向の人は、「先天的なものがどうであれ、根気強く努力を続ければ、自分の資質をさらに高めて成長できる」と信じているとされる。 退屈と言っていいほどシンプルな実験を行った結果、失敗に対するグループ間の脳波の反応に劇的な違いが現れた。ERNについては、どちらのグループも同じように簡単に「間違えた」ことに気づき、同じ強さの反応が示された。しかしPeは違った。成長型のグループでは、固定型の傾向が最も強い被験者と比べれば3倍も強い反応を示したという。これは、成長型の被験者は間違いにしっかりと注意を向けていたということを表している。また、「この実験ではほかにも、Peの反応が強い被験者ほど、失敗後の正解率が上昇するという結果も出た。失敗への着目度と学習効果との密接な相関関係が窺える」と言う。 つまり、「個人でも組織でも、失敗に真正面から取り組めば成長できるが、逃げれば何も学べない。考え方の違いは脳波に如実に表れる」し、失敗から学べるかどうかの違いは、「突き詰めて言えば、失敗の受け止め方の違い」ということになる。失敗を「自分の力を伸ばす上で欠かせないもの」としてごく自然に受け止めるか、人の成功は生まれつき才能や知性によると考え、失敗を「自分に才能がない証拠」と受け止めるかと言うことだ。このことは、子どもを対象にした学習や企業組織にもあてはめて示される。 ところで逆説的だが、「成長型の人ほどあきらめる判断を合理的に下す」という。心理学者のキャロル・ドゥエックは、「成長型マインドセットの人にとって、『自分にはこの問題の解決に必要なスキルが足りない』という判断を阻むものは何もない。彼らは自分の“欠陥”を晒すことを恐れたり恥じたりすることなく、自由にあきらめることができる」と言う。成長型の人にとって、引き際を見極めてほかのことに挑戦するのも、その反対にやり抜くのもどちらも“成長”なのだ。 この章ではこの他、アメリカのウエストポイントにおける訓練における「やり抜く力」、さらに、なぜ日本に起業家が少ないのか、また数学の習熟度についての国際比較が述べられる。いずれにしても、リスクを負うことへの姿勢の違いが現れている。 終章はこれまでのまとめとして、失敗から学ぶ力を具体的に発揮する方法を考えているが、その前に人類の進化について簡潔に触れている。 歴史的に見れば、ほぼどんな社会にも、初期には神話・宗教・迷信などの形で独自の世界観が存在し、それらそのまま不可侵的に継承されてきた。これは固定型のマインドである。西洋においては、古代ギリシア時代に検証、批判を是とする理性的なものに変わった。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ピタゴラス、ユークリッドなどがその例である。しかし、そうした時代はキリスト教の浸透とともに終わり、長い迷信の時代に入る。1543年に解剖学者アンドレアス・ヴュサリウスが否定するまで、男性の肋骨は女性より1本少ないと信じられていた。 このような「神コンプレックス」と呼ばれる固定された世界観は現在でも見られる。全能の神のようにベテラン医師を扱う医療業界でも、無謬主義に固執する刑事司法においても、である。 一方、科学の世界では基本的に未知の真実があることを前提としているが、そのなかでは、社会科学の分野ではなお革新が促されるべきだと言う。著者は、失敗することは恥ずかしいものでも汚らわしいものでもないことを認めて、「実験や検証をする者、根気強くやり遂げようとする者、勇敢に批判を受け止めようとする者、自分の仮説を過信せず真実を見つけ出そうとする者を我々は賞賛するべき」と主張する。それは「もちろん簡単なことではないし、抵抗も受けるだろう。しかしその壁を乗り越えていくだけの価値はある」のである。問題は、モチベーションや熱意ではなく「やり方」にあるからだ。 データと有意義なフィードバックが行われることが重要なのであり、そうした「間違いを警告してくれる『信号』をシステムの中に取り入れることが肝心」であって、そのためには、「先行テスト」もひとつの手段になり得るし、本書で取り上げているRCTも強力なツールのひとつとされる。 さらにいえば、心理学者ゲイリー・クラインが提唱した「事前検死(pre-mortem)」という手法も効果的である。これは、あらかじめ「プロジェクトは失敗した」「目標は達成できなかった」という状態を想定し、「なぜうまくいかなかったのか?」を事前検証するもので、「失敗するかもしれない」と考えるのとはまったく違う。 否定的だと受け止められることを恐れず懸念事項をオープンに話し合うことによって、失敗という抽象的な概念を具体化させる。そうすると問題に対する意識の持ち方が変わると言うことだ。 これら本書に示されたまざまな手法を活用しながら「成長型マインドセットを持ち続ければ、どこまでも可能性が広がる進化のプロセスを力強く歩んでいけるだろう」と本書は結ばれているが、よりピュアーに言うなら、エゴに気づいて抑えると同時に問題に正面から向き合う覚悟を決める、それが次へのステップにつながるのだとあらためて自覚させられた。(完) (雅) |
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