2021年8月号 | Monthly sati! August 2021 |
今月の内容 |
巻頭ダンマトーク:『病気になったら・・』(1) | |
ダンマ写真 |
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Web会だより:『心と向き合って -赦し、懺悔、そして慈悲の修行へ-』(2) | |
ダンマの言葉 | |
今日のひと言:選 | |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (3) | |
読んでみました:柳広司著『太平洋食堂』(小学館 2020年) |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
巻頭ダンマトーク『病気になったら・・』(1) 地橋秀雄 |
現在休止中ですが、かつては10日間の瞑想合宿を定期的に行なっていました。ある合宿の時に、一人の瞑想者の具合が悪くなり、病床に臥せてしまったことがありました。合宿が始まってから風邪を風邪を引いたり体調を崩した方は、それまでにも何人かいましたが、この方はかなり深刻でした。 |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
『心と向き合って -赦し、懺悔、そして慈悲の修行へ-』 (2) 匿名希望 |
(承前) 実はこんなこともありました。赦しの瞑想を始めたころ、集中してやり終わった後に心は軽くなったのですが、何故か自分がとても無防備なってしまった感じで、心細いような怖いような気分になったことがあるのです。例えるなら、今まで憎い相手に対してこちらも敵愾心をもって刃(やいば)を手にして立ち向かっていたのに、急にそれを捨ててしまったような感覚です。相手を赦すのは良いけれど、それを機会に憎い相手が自分に攻撃をしかけてくるのではないか? 敵愾心や憎しみを捨ててしまって自分の身を本当に護れるのだろうか? そのような恐怖感でした。そんな気持ちになったのは初めてでしたが、それでも私はそのまま赦しと懺悔の瞑想は続けていきました。 変化 変化が現れたのは、会社での人間現関係においてです。 以前なら、これは絶対にムカムカしたり嫌っていたに違いない他者の行動を、反応せずに受け流し、手放すことができる頻度が増えてきました。ちょっとしたことに対して刃を向けて戦闘態勢に入っていた自分が、その刃を鞘に納めたまま自分と他者を観察できるようになってきたイメージです。それはまた、他者の行動に反応し、蒸し返して怒り続けるよりも、手放した方がはるかに自分にとって楽なのだという視座が新たにインストールされたような感じでした。 もちろん、まだすべての状況でそうしたことが観察できるわけでなく、嫌悪や怒りが出てしまうこともありますし、また、「戦闘態勢にならなくて大丈夫かな?」という恐怖感や違和感も少しは残っています。ですが私は、こうした恐怖感を自覚することで、他者を赦す修行をする以前には「赦し」という鞘をもたずに怒りという刃をいつも手にして家族や職場の人たち、そして友人ともずっと接してきたのだなとわかり、ショックを受けました。 また私はこれまで、この人は優しくて素敵だなと感じたり、また仲良くなりたいと思った時に、なぜか空回りしてしまってうまくコミュニケーションが取れなかったことが多くありました。なぜそうなったか。それは、特定の誰かに怒りの刃を向けながらそれを手にしたまま、それとは関係ない人とも接していたのだな、また、潜在意識のレベルでは向けるべきでない相手にも怒りの刃を向けてしまっていたのではないか、と気づきました。そのため、私が仲良くなりたいと思った人でも誰かを憎んで刃を握っている私に気づき、自ずと距離を置くようになってしまっていたのだと思い至りました。まだ完璧に刃を捨てるまでにはなっていないのですが、赦しの修行を実践することで怒りの刃を鞘に納めた状態で他者と接することもできるようになり、自分自身が楽になったと最近では実感しています。 このように、憎んでいた特定の人に対して赦せるようになっていったことで、そうでない人とも接しやすくなり、また自分が楽になったのを実感できたことも、私がこの赦しの修行をもっと深めていきたいと思う強い動機になりました。 でも、赦しの瞑想に取り組めば取り組むほど、今まであえて観ないようにしていた憎しみや嫌う心にサティが入ります。そのことからも、これは短期間で終わる修行ではなく、これからの人生を通して10年、20年と続けていかなければいけない修行だと痛感しています。 懺悔の瞑想 赦しの次に私が取り組んだのは懺悔の瞑想でした。 実は、その懺悔の瞑想と並んで心随観の瞑想をしている時に、不善心に鋭くヒットした気づきがあったのです。それは「自己欺瞞」という言葉でした。 坐っているうちになんとも言えない重苦しい気持ちになり、サティを試しているうちにハッと衝撃を受けたのがこの言葉です。「自分は、自分を抑圧し偽っていた」こうはっきり理解しました。この言葉が出てきたのは、自分の思うところでは、懺悔、悔い改め系のキリスト教関連のウェブを読んでいたこと、そして朝カルで聞いた「アングリマーラ経」の法話の影響が大きいのではないかと考えています。 ではなにをもっての「自己欺瞞」なのか、なぜその言葉がヒットしたのだろうか、です。それはおそらく、仏教から離れてしまって段々と心が汚れていき、煩悩を抑制しようとしないまま身口意で不善業をおかしたりしたこと、そしてまたそれから目を背けたり誤魔化したりしていた自分自身の在り方だったと思います。致命的に世の中の法に触れるような悪事を行ったわけではなくとも、再び瞑想を始めたことで、振り返って「あれは不善業だったよな」というような過去の行動が数多く思い出されてきました。 当然ではありますが、仏教から離れていたころの私の人生は、緩(ゆる)やかに苦に満ちた方向に向かっていっていました。そのころには、実は頭ではこちらが悪いとわかっているのに、「あの時は周りがああいう態度をとったからだ」とか、「自分だけではなく外部の環境にも原因がある」と誤魔化していたのです。「自分は悪くないし汚れてもいない」「たとえ汚れていたとしても周りも一緒だし・・・」「自分よりもっと汚れている人もいるじゃないか」と。 しかし仏縁を戻そうと決心し、朝カルを受講して仏教を学べば学ぶほど、本当は不善なカルマを作っている自分のせいで心が汚れていったために人生が苦しくなっていったのだと洞察され始めました。もちろん客観的な観方がきちんとできていたなら素直にそれを認めなければなりません。でもその時は、それでもなおエゴが抵抗して抑圧していました。 ブッダに帰依したアングリマーラが改心し、未来へ向けて善を積んでいく法話が心に響いたのはその時でした。 「愚かな自分を認めてしまおう。そして、悔い改めよう」「アングリマーラのように仏教に信を定めてからは、罪を犯していませんと言えるような人生に変えていきたい」と思うようになりました。 また、「赦しよりも懺悔の瞑想のほうが大変なんですよ」という先生の言葉も自分を後押ししてくれました。それまでは、「自分が汚れるのは成育歴や環境のせいであって、それを赦さなきゃ」という考えにとらわれていた構造もわかってきました。 (続く) |
(Y.U.さん提供) |
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「月刊サティ!」2006年3月号、4月号に、アチャン・リー・ダンマダーロ師による「みんなのダンマ」が掲載されました。これは、「パーリ戒経」中にある仏教徒が自らを善き人間に鍛える実戦の指針で、6つの項目に分けられています。今月は6回目です。 |
特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (3) |
本記事は「アビダンマッタサンガハ」の解説書“Comprehensive Manual of Abhidhamma”(Bikkhu Bodhi監修) を「アビダンマの解説と手引き」として翻訳されたもので、翻訳者各位のご厚意により本誌6月号より掲載しております。掲載にあたっての「お知らせ」は6月号をご覧ください。 アヘートゥカチッタ(チッタを安定させる根を持たないチッタ):18種類 |
柳広司著『太平洋食堂』(小学館、2020年) |
「『目の前で苦しんでいる人から目を背けることは、どうしてもできん』
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