月刊サティ!

2021年7月号  Monthly sati!  July  2021


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク:『動画の瞑想と静止画の瞑想』
  ダンマ写真
  Web会だより:『心と向き合って -赦し、懺悔、そして慈悲の修行へ-』(1)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
   特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (2)
  読んでみました: 内田樹著『日本辺境論』(新潮社 2009年)

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  
  

     

   巻頭ダンマトーク『動画の瞑想と静止画の瞑想』
                                             地橋秀雄
  「我思う、ゆえに我あり」と言ったのは、フランスの哲学者ルネ・デカルトでした。
  有名な言葉ですが、ヴィパッサナー瞑想の立場からは、「妄想を止めなさい、すると無我が体験されますよ」ということになります。
  思考を止めるのは至難の業です。考えごとモードから脱することができなければ、デカルトのように、エゴがある、自我が在る、と感じてしまうのは当然かもしれません。
  仏教では、「我=エゴ」はイリュージョン(幻影)であり、妄想に過ぎないと見ています。エゴ感覚や自我感覚は実在するものではなく、偽の印象であり、思考のプロセスから生じてくる錯覚なのだとする「無我論」が説かれているのです。

*思考を止める
  どれほど衰弱し意識が朦朧としても、人間の思考や妄想が止まらないのは驚くべきことです。たえず微弱なイメージや妄念が生じては滅し、止めどもなく連想が流れ続けるものです。その思考の流れを止めるには、特別な訓練や修行が必要になります。
  思考を停止させる伝統的な方法の筆頭は、一点集中型のサマタ瞑想でしょう。同じ言葉を繰り返し唱えたり、単一のイメージに心を釘付けにして、瞑想対象と一体化するサマーディを目指していくやり方です。
  思考や概念モードというのは、言葉が次の言葉に繋がり、イメージとイメージが次々と連鎖していく状態です。この連続状態にならなければ、思考が止まっていると理解してよいのです。
  では、思考が止まれば、自動的に「洞察の智慧」が閃くのでしょうか。残念ながら、思考が止まるだけでは、ダンマ(法:真実の状態:あるがままの存在)の本質を直観する智慧は生じません。妄想をまったくしないカブト虫やムール貝に智慧が生じないのと同じです。思考が止まりっぱなしなら、おバカだということになります。朝から晩まで雑念が止まらず、妄想で自滅しかかっている人類だからこそ、思考を止めることに意味があるのです。
  明晰な意識状態を保ちながら完全に思考を停止させることができるのはサマーディの手柄ですが、これでは仕事は半分です。
  後の半分は、智慧です。事実をあるがままに観る技法であるサティが、気づき→観察→洞察と成長し、ついに悟りの智慧として完成するのは、サマーディの力に助けられるからだと言ってよいでしょう。
  サマーディの完成はすべての瞑想者の目指すところですが、サティの精度を桁はずれに高めるためにこそサマーディはあるのだと理解すべきです。これはヴィパッサナー瞑想の最重要ポイントなので、マハーシ・システムの修行現場に即してもう少し説明してみましょう。

*サマーディの分水嶺
  心を一点に集中させ、釘付けにしていくのがサマーディの特性です。例えば、座る瞑想の最中にサマーディが高まってくると、意識の対象はただ「膨らみ・縮み」や「盛り上がり・凹み」だけになっていくでしょう。お腹の感覚が微妙に変化し推移していくのがリアルに知覚され、認知され、また生起してくるものが知覚され、認知されていく・・・。こうして、経験する一瞬と確認する一瞬が間断なく連続していくのが、サティの瞑想の基本型です。
  サマーディは、注意を一点に注ぎ続ける能力です。したがって定力が未熟な段階では、意識が中心対象から逸れて音や雑念に反応してしまうでしょう。たとえ心がさ迷い出ても思考モードに陥らず、必ず気づいて中心対象に戻すことができれば、瞑想修行としては結構です。サティは安定しています。しかしあちらこちらに注意が逸れてばかりいては、中心対象の観察の精度が上がらず、洞察の智慧など到底生じません。
  このように、ヴィパッサナー瞑想が進むのはサマーディの成長にかかっているのですが、ここはキワドイところでもあります。ヴィパッサナー瞑想の瞬間定(カニカ・サマーディ)になるか、サマタ瞑想のサマーディに埋没するかは紙一重だからです。

*ニミッタの一里塚
  サマーディが高まってくると、光や色彩や文様などさまざまな視覚イメージが出現してくることがあります。音や匂いの場合もありますが、いずれも「相」(ニミッタ)と呼ばれる脳内現象で、実在するものではありません。サマーディがさらに高まれば、「ニミッタ」の鮮明度もいや増すので、初めてこの現象を体験すると、多くの人がのめり込んでサティを忘れてしまうものです。
  ニミッタ()は心が仮作したものであり、法ではありません。概念やイメージに集中していくのはサマタ瞑想の特徴で、妄想に集中しているのと同じことです。現実から遊離しますが、集中の極みであるサマーディの完成を目指していく修行です。
  サマーディの定力を養うことは、「戒→定→慧」の「定」の修行であり、ヴィパッサナー瞑想の完成に必要不可欠なので、そのように心得て取り組むべきです。

*サマーディの罠
  問題は、正しくヴィパッサナー瞑想を修行していたのに、サティとサマーディのバランスが崩れて、いつの間にかサマタ瞑想に脱線してしまうことです。サマーディが対象と合一するまでに深まると、正しく知覚し認知した一瞬の現実感覚が、一枚の静止画像のように掴んだまま手放せなくなってしまうのです。これが、ヴィパッサナー瞑想者がサマタ瞑想のサマーディに埋没していく瞬間です。
  例えば、歩く瞑想の足の感覚や座る瞑想のお腹の感覚を正しく実感していたのに、次の瞬間、新しい感覚を実感せずに、脳内の歩行イメージや「膨らみ・縮み」のイメージに集中してしまうのです。法と概念がすり替わる一瞬です。
  ヴィパッサナー瞑想で正しく捉えた実感も、一瞬にして過去のものとなり、10年前の記憶イメージと同じものになっていくのは、無常の宿命と言うべきでしょうか。法として実在していたものが、法ではなくなるのです。心が作り出した静止画像を、ただ眼を閉じて思い出しているのと変わらないのだから、直ちにサティを入れて現在の瞬間に回帰しなければならない・・・。
  矢つぎ早に生起してくる対象を、強烈な集中で次々と認知していく瞬間定だけが、存在の本質を直観する洞察力につながります。そしてその持続に耐え抜くことこそ涅槃に到る唯一の道なのです。

*崩壊していく現実・・・
  高速疾走する車のナンバー・プレートを視認できる人はいないでしょう。しかるに、極度に集中を高め、サマーディという名の明晰な視力を得た者には、ナンバーが視認できる可能性があります。サティの気づく力と、サマーディの禅定力が連動してくると、洞察の智慧が閃く所以です。
  だが、諸刃の剣のように、同じサマーディの力が瞑想者を一枚の静止画像のなかに没入させ、瞬滅する法の観察から脱落させもします。静止画像は猛烈なスピードでコマ送りされている映画の一コマにしかすぎません。この世に執着できる現実などどこにもないのに、一瞬の静止画にしがみつき握りしめようとするのは、変滅する無常の真理のただ中で、欲望や怒りの執着を手放さない愚か者と同じなのです・・・。



 今月のダンマ写真 ~
    
「タイ森林僧院も、コロナで入山不可・・・」

先生より

    Web会だより  

『心と向き合って -赦し、懺悔、そして慈悲の修行へ-』 (1)

                                                               匿名希望

  私がヴィパッサナー瞑想に出会ったのは10年ほど前になります。当時、合宿へ参加したり、地橋先生の指導を受けたりした後に環境が整い始め、そのため苦が少なくなってくるとモチベーションも下がりだし、数年の間仏教から離れてしまいました。
  そのうち、無常に変化していく人生の中で再び苦が生じ始め、やはりもう一度仏教を学びたい、今度はやめずに続けたいと思うようになりました。そこで、朝カルに通うというルールを自身に課し、今度は真剣に修行に取り組もうと決心をしました。以下はそのレポートです。

赦しの瞑想に取り組む
  修行を再開し、これまでの生き方を振り返りました。そしてサティよりもまずは反応系の修行を徹底的にしなくてはと思い、取り組んだのは赦しの瞑想でした。なぜかと言うと、先生の「許し」と「赦し」は違うという朝カルの法話を聴いて心に響くものがあったからです。
  私はこれまでの人生で、「承認」のような「許し」はしてきたつもりでしたが、私に対して明らかな害や屈辱を加え、こちらに怒りの感情を生じさせた人に対しては、「赦す」ということは全くしてこなかったと痛感したからです。今まで私が「ゆるし」てきたのは、積極的に自らの意志でそうしたのではなく、「まあ、仕方ない。許してあげよう」程度の、自分が上に立つような感覚からのエゴ的な「許し」にすぎませんでした。
  自分の罪を懺悔し、赦しを乞うとともに積極的に隣人の罪を赦すというような、ダンマに基づいた「赦し」に触れたのは今回が初めてでした。そこで、法話を聴いた翌日から、赦しの瞑想と懺悔の瞑想に毎日取り組みました。
  赦しの瞑想はなかなか思うように進展はしませんでしたが、ある日の瞑想中に怒りと憎しみに満ちた自分が他者を睨みつけている顔のイメージ(ヴィジョン)が浮かび、同時に、「人を憎み、恨んでいる自分は、醜くて無様でみじめだ」という、内語のようなものも浮かんできました。
  これまで私が赦すことが出来ないできた人物のなかには、他人に対していつも憎しみの波動を出し、怒り散らしているような人がいました。そういうタイプの人に出会うと、これまでは反射的にこちらも臨戦態勢に入ってしまい、喧嘩波動、怒り波動で対抗していたのが現実でした。今になってそれは過剰反応だったと言えるように思っています。
  どうしてそんな反応が起きるのだろう、その理由は?と真剣に考えました。そうすると、慈悲の瞑想を定期的に行っていたことで人間関係も良くなりはじめ、介護職という仕事柄、「あなたは優しい人ね」と言ってもらえる機会も増えた私にとっては、自分が潜在意識で他者に対して憎しみや怒りや嫌う心が強くあるのは明らかに目を背けたくなる事実だったからではないか、と気づきました。またそうして赦しの瞑想と並行して心随観の修行を行っているうちに、自分に怒りの波動が出てしまうのは、それから目を背けるばかりではなくむしろ抑圧しようとしていること、加えて自分の闇をその相手に投影していたためではなかったかとも思い至ったのです。
  こうして赦しの瞑想にも次第にすなおに取り組めるようになっていきました。
  その理由の一つは、ヴィパッサナー瞑想を続けていることがきっかけになって、人生や心が整いはじめたからではないかとも思います。たしかにここ数か月は、家族と過ごしながら幸せだと思うことや、仕事でやりがいを感じることも増えてきました。そのため、たとえ自分の醜い心を随観しても、以前のように必死に目を背け、蓋をしなくてもいられるような心の余裕?環境的な余裕?が出来てきたのではないかと思っています。そして、公私ともに今以上に良い人生を歩んでいくには、これまで目を背けてきた他者に対する憎悪や嫌う心、恨み、復讐心を自分でしっかり認識し、それらを仏教徒として手放していく決意が必要だと思うようになりました。
  おそらく今のままでも、たとえ浮き沈みがあったとしてもそれなり幸せな人生も送れるのかも知れません。しかし、朝カルに通い続けるというルールを自ら定めることで「法(ダンマ)」に触れる仕掛けが出来たせいか、上辺だけではなく、もっと根深いところまでの心の便所掃除がしたいと思い始めました。
  また上に述べたようなヴィジョンが浮かんでからは、人を憎んでいる自分に気づくと、すぐにその自分の姿を思い浮かべるようにしています。そして、「こんな自分は嫌だな。無様だな。できれば憎みたくないな。どうすればいいだろう?」と考えるようになり、その後で瞑想をすると憎しみや嫌悪の心が少なくなっているという当たり前の事実に気づくようになりました。
  こうして心の変化を観たり感じ取ることが出来てきてからは、「やはり瞑想をしなきゃ」と意欲も沸き、また、「瞑想をもし止めてしまったら、醜い汚れた憎む心がまた強まってしまうかも知れない、それは怖いな」とも思うようになりました。
  たしかに、毎日赦しの瞑想を行って「赦し」を心がけていても、日々の生活の中では怒りや憎しみの心が湧いてきてしまうことがあります。それは事実です。しかし、これまでのようにそれから目を背けたり抑圧したりするのではなく、「まだまだ憎しみや嫌う心の反応が根深いな。なんとかしなきゃ」と思うように、少しづつではありますが反応も変わってきました。
  ある日、仕事で些細なケアレスミスをして家に帰ってきたことがありました。これまでだとそんな時には自分を責めたり後悔することが多いのですが、その日は、「こんなに他者を赦そうと努力しているのだから、自分のことも赦してあげればいいじゃない?」というメッセージのようなものが心に浮かんできました。その時には、自分のミスから逃げたり後悔するのではなく、反省した上で気持ちを切り替えられるような気持ちになり、同時に、他者を積極的に赦そうとすることではじめて自分のことも赦せるようになってきたのだなと腑に落ちました。また、これまで積極的に懺悔の瞑想をしてきてもあまり心が変わったような効果を感じられなかったのは、自分が赦されることばかりを望んで、他者を赦そうという心がほとんどなかったからではなかったか、そのこともまた実感されました。
  今は、以前にヴィジョンで見たような、人を憎み続け自分も責め続けるような人生はもう終わりにしたい、そのヒントがヴィパッサナー瞑想にはあるはずだから修行したいと、心から思っています。(続く)

       




いずれアヤメかカキツバタ

 (Y.U.さん提供)
 








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『月刊サティ!』
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ダンマの言葉

「月刊サティ!」20063月号、4月号に、アチャン・リー・ダンマダーロ師による「みんなのダンマ」が掲載されました。これは、「パーリ戒経」中にある仏教徒が自らを善き人間に鍛える実戦の指針で、6つの項目に分けられています。今月は5回目です。

五番目の指針pantañca sayanāsanam (パンタンチャ サヤナーサナム 淋しいところにひとり臥し、坐し)とは、でしゃばりになるな、ということです。どんなところに住むのであれ、静かに、平穏にいなさい。集団の他の人と深くかかわったり、一緒に騒ぎ立てたりしてはいけません。本当に仕方がないとき以外は、問題に巻き込まれないようにしなさい。
  あなたが学び、なすべきことを理解したなら、静かで独りになれる場所をすみかとして、また瞑想の場所として探しなさい。他の人と一緒に住むときには、静かな集団を探しなさい。自然の中に隠遁して独りで住むときには、静かな人になりなさい。
  集団の中で住むのであっても、人から離れていなさい。集団が供すべき善いもの、安らかなものだけ受け取りなさい。独りで住むのであれば、たくさんの活動には従事しないようにしなさい。行動においても、言葉においても、心においても、静かでいなさい。
  二、三人の仲間と住むのであれば、喧嘩にかかわってはいけません。喧嘩のあるところには平和はないからです。あなたの行動は穏やかにはなりません。起ち上がって攻撃しなければならないからです。あなたの言葉も穏やかではいられません。あなたの心も、怒りや恨み、悪しき意図をもって穏やかにはなれません。そしてこうしたことはあらゆる悪い業を作り出してしまいます。
  四人から九十九人の仲間と住むのであれば、この仲間たちが平和で、衝突も喧嘩もなく、互いの感情を傷つけることも互いに危害を加えることもないことを確かめなければなりません。仲間というものは、戒律やダンマ(法)を平和に修習することにおいて協力的であるべきです。そうであるなら、良い仲間、秩序だって洗練され、みんなの成長を助けるような仲間ということができます。これはお釈迦さまに帰依する者として、お釈迦さまの教えに沿ってなすべきことの-つです。
  それはpantañca sayanāsanam (パンタンチャ サヤナーサナム 淋しいところにひとり臥し、坐し)と呼ばれます。静かなすみかを作り、心身ともに安楽でいることです。

       

 今日の一言:選

(1)人の心は、変わってしまう……
  思い込んだ妄想は固まっていく……

(2)微かな嫌悪も見逃さずに、一日に何回嫌悪を覚えるのかカウントした方がこれまでに何人もいる。
  全員、例外なく、あまりの嫌悪の多さに打ちのめされて顔色を失った。
  微弱であっても、嫌悪感を覚えるたびに体の中では内分泌系が一斉に反応している。
  いや、怒りのホルモンが分泌されるので、嫌悪や怒りの感情が起動するのだ。
  ネガティブな情動が、人を疲れさせる……。 

(3)多くの人に感謝され賞讃されながら輝いて生きても、劣等感と不満と怒りで最後まで歯車の狂った生涯を送ろうとも、この世のことは、ただそれだけのことであって、ただ因果のエネルギーが転変し、帰結していっただけのことだ。
  過ぎ去ってしまえば、すべてが終わって時が経ってしまえば……、跡形もなく消え去って、まるで何事も存在しなかったかのようになる……


       

          特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (2)

(承前)
  アクサラ(不善業を作る)チッタ12種類

  第4節 ローバムーラ(欲という、チッタを安定させる根を持つ)チッタ:8種類

  タッタ カタマン カーマーヴァチャラン?

  1、ソーマナッササハガタン       ディッテイガタサンパユッタン アサンカーリカン  エーカン
  2、ソーマナッササハガタン       ディッテイガタサンパユッタン ササンカーリカン  エーカン
  3、ソーマナッササハガタン       ディッテイガタヴィッパユッタン アサンカーリカン エーカン
  4、ソーマナッササハガタン       ディッテイガタヴィッパユッタン ササンカーリカン エーカン
  5、ウペッカーサハガタン           ディッテイガタサンパユッタン アサンカーリカン  エーカン
  6、ウペッカーサハガタン           ディッテイガタサンパユッタン ササンカーリカン  エーカン
  7、ウペッカーサハガタン           ディッテイガタヴィッパユッタン アサンカーリカン エーカン
  8、ウペッカーサハガタン           ディッテイガタヴィッパユッタン ササンカーリカン エーカン

  イマーニー アッタ ピ ローバサハガタチッターニ ナーマ

  それらのチッタの中でカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)に属するのは何でしょうか?

    ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随する、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ

  ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随する、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ

  ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随しない、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ

  ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随しない、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ

   
ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随する、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ

  ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随する、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ

   ●ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随しない、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ

  ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随しない、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ

  第4節へのガイド

  アクサラ(不善業を作る)チッタ:アクサラチッタのヘートゥないしムーラ(チッタを安定させる根)にはローバ(欲)、ドーサ(怒り)、モーハ(真理が分からず混乱した状態)の三つがありますが、アビダンマでは最初に最も顕著なヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)がそのうちのどれであるかによりチッタを分類します。アビダンマによればローバ(欲)とドーサ(怒り)は互いに排他的な関係にあり、この二つが一つのチッタに同時に存在することはありません。そしてローバ(欲)をヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)とするチッタはローバムーラ(欲という、チッタを安定させる根を持つ)チッタと呼ばれ、八つあります。ドーサ(怒り)をヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)とするチッタはドーサムーラ(怒りという、チッタを安定させる根を持つ)チッタと呼ばれ二つあります。三番目のヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)であるモーハ(聖なる真理が分からず混乱した状態)は全てのアクサラ(不善業を作る)チッタに存在します。ですからローバムーラ(欲という、チッタを安定させる根を持つ)チッタもドーサムーラ(怒りという、チッタを安定させる根を持つ)チッタもその根底にモーハ(聖なる真理が分からず混乱した状態)が存在します。一方でモーハ(真理が分からず混乱した状態)のみが生じ、ローバ(欲)やドーサ(怒り)を伴わないチッタが二つあり、モーハ(真理が分からず混乱した状態)だけに関わるチッタ、あるいはモーハムーラ(真理が分からず混乱した状態という、チッタを安定させる根を持つ)チッタと呼ばれています。(表1.2.参照)

  ローバムーラ(欲という、チッタを安定させる根を持つ)チッタ:アビダンマでは三つの不善なヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)のうち常にローバ(欲)を最初にとりあげます。ですからここでも三種類のアクサラ(不善業を作る)チッタのうちローバ(欲)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つものをまず最初に分類します。パーリとしてのローバ(欲)という言葉はあらゆる欲を全て含みます。強い情動ないし貪欲から、かすかな好みないし執着まで含まれます。ローバ(欲)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタは三つの原則に基づき八つに分類されます。一番目の原則は同時に生じるヴェーダナー(感受)、つまりソーマナッサ(精神的な楽しみ)とウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)のどちらを伴うかです。二番目の原則はディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)を付随するかどうかです。三番目の原則はアサンカーリカ(駆り立てるものがない)かササンカーリカ(駆り立てるものがある)かです。この三つに従って順に区別すると八つになります。

  ソーマナッササハガタ(精神的な楽しさを伴う):ソーマナッサという言葉はス(楽しい)とマナス(精神)に由来しています。ですからソーマナッサの文字通りの意味は「楽しい精神状態」 となります。ソーマナッサはヴェーダナー(感受)の一種であり、具体的には楽しいという精神的な感受です。チッタは全てなんらかのヴェーダナー(感受)を伴います。身体で感じるものもあれば精神的なものもあります。楽しいもの、苦痛を伴うもの、そのどちらでもないものがあります。ソーマナッサは身体ではなく精神的なものであり、楽しいという感受です。この感受はその種類に分類されるチッタに伴います(サハガタ)。感受とチッタが一体化し分けることができないという意味です。二つの川の水が合流して一緒になると、もとの二つの川の水に分けることできないとの同じです。

  アビダンマはローバ(欲)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持ち、ソーマナッサ(精神的な喜び)を伴うチッタが四つあると説明しています。同じ仲間のチッタのうち、残る四つはウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴います(ウペッカーサハガタ)。パーリ経典ではウペッカーを偏りの無い崇高な精神状態、偏見や好みに左右されない精神状態という意味で使うことがよくあります。しかし、ここでは単に喜びにも落胆にも当てはまらない中間的な感受という意味で使っています。このためウペッカーはアドゥッカンアスッカーヴェーダナー(苦しみでも楽しみでもない感受)とも呼ばれます。

  ディッティガタサンパユッタ(真理にそぐわない誤った見解が付随する):ローバ(欲)という、チッタを安定させる根を持つチッタをソーマナッサ(精神的な楽しさ)が伴うか、それともウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)が伴うかで二つに分類した後、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随するかどうかに基づいて二つに分類します。ディッティという言葉の意味は「見解」ですが、サンマー(真理に適った正しい)という接頭辞がつかない場合は一般的にミッチャーディッティ(真理にそぐわない誤った見解)のことを差します。ディッティは信念、信条、意見、合理化としてローバ(欲)という、チッタを安定させる根を持つチッタに関連します。ディッティは理屈をつけて正当化することで、ローバ(欲)という、チッタを安定させる根を持つチッタの根本原因である「執着」を強めます。あるいはディッティ自体が「執着」の対象となります。ディッティは四種類のチッタに関連し、そのうち二つはソーマナッサ(精神的な楽しさ)を、そして残りの二つはウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴います。あとの四つのチッタはディッティとの関連はありません(ディッティガタヴィッパユッタ)。ディッティがもたらす正当化が伴うことは無く、ローバ(欲)それ自体がチッタを働かせます。

  アサンカーリカ:三番目の分類の基準はサンカーラ(駆り立てるもの)があるかどうかです。サンカーラには複数の意味がありますが、ここで使うサンカーラはアビダンマ特有で、駆り立てる、そそのかす、誘導する(パヨーガ)、あるいはある目的に沿ってなんらかの処置をとる(ウパーヤ)、という意味で使われています。サンカーラは外部から強いられることもあれば、自分自身の中に生じることもあります。身体を使うこともあれば、言葉を使うこともあり、あるいは純粋に精神的な場合もあります。誰かが身体を使って私たちに働きかけ、その結果として特有のチッタが生じ、それに応じた行動をとった場合、身体が手段になっています。他者が命令したり、権力を笠に着て説得したりする場合は言葉が手段となっています。思考や決意に基づいて、してはいけないと思いつつ故意に特定のチッタが生じるように仕向けた場合は精神的なものになります。後から説明しますが、サンカーラはクサラ(善業を作る)チッタにもアクサラ(不善業を作る)チッタのどちらにも関連する可能性があります。駆り立てられることも誘導されることもなく、自発的に生じるチッタはアサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタと呼ばれます。また何らかの手段で駆り立てられ、あるいは誘導されて生じるチッタはササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタと呼ばれます。ローバ(欲)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つ八つのチッタのうち、四つはアサンカーリカ(駆り立てるものがない)で、残りの四つがササンカーリカ(駆り立てるものがある)です。

  第5

  ドーサムーラチッタ(怒りという、チッタを安定させる根を持つチッタ):2種類

  9、ドーマナッササハガタン パティガサンパユッタン アサンカーリカ エーカン
 10、ドーマナッササハガタン パティガサンパユッタン ササンカーリカ エーカン

  イマーニ ドゥヴェー ピ パティガサンパユッターニ ナーマ

  9、ドーマナッサ(精神的な苦しみ)を伴い、パティガ(嫌悪)が付随する、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ
  10、ドーマナッサ(精神的な苦しみ)を伴い、パティガ(嫌悪)が付随する、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ

  この二つがパティガ(嫌悪)に関連するチッタです。

  第5節へのガイド

  ドーサムーラ(怒りという、チッタを安定させる根を持つ)チッタ:アビダンマの分析によるアクサラ(不善業を作る)チッタの二組目は、三種類ある不善なヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)の二番目、ドーサ(怒り)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタです。このチッタはアサンカーリカ(駆り立てるものがない)、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)の二種類だけです。ローバ(欲)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタの場合は感受としてソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴う場合と、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う場合がありますが、ドーサ(怒り)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタの場合、感受としてはドーマナッサ(精神的な苦しみ)が伴うだけです。またローバ(欲)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタと異なり、ドーサ(怒り)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタにはディッティ(真理にそぐわない誤った見解)が付随することはありません。ディッティはドーサ(怒り)のきっかけとなりますが、アビダンマではディッティ(真理にそぐわない誤った見解)とドーサ(怒り)が同じチッタに同時に生じることはなく、ディッティ(真理にそぐわない誤った見解)は先行する別のチッタに生じるとされています。

  ドーマナッササハガタ(精神的な苦しみを伴う):ドーサ(怒り)という、チッタを安定させる根を持つチッタに伴う感受はドーマナッサ(精神的な苦しみ)です。パーリにおけるドーマナッサという言葉はドゥ(悪い)とマナス(精神)に由来し、精神的な苦しみを意味します。ドーマナッサという感受が伴うのはドーサ(怒り)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタだけです。ですからドーマナッサ(精神的苦しみ)は常にアクサラ(不善業を作る)です。この点ではドーマナッサはカンマ(業)を作らないドゥッカ(身体で感じる苦しみ)とは異なります。またアクサラ(不善業を作る)、クサラ(善業を作る)、あるいはそのどちらにも当てはまらない場合があるソーマナッサ(精神的な楽しみ)やウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)とも異なります。

  パティガサンパユッタ(嫌悪を伴う):ローバ(欲)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタに欲が伴うことは明らかですが、ドーサ(怒り)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタはドーサ(怒り)の同義語であるパティガ(嫌悪)という言葉を用いて説明されています。パティガ(嫌悪)には激しい憤怒からかすかな苛立ちまで全てが含まれます。パティガ(嫌悪)の文字通りの意味は「衝突する」であり、抵抗、拒否、破壊といった精神状態を差しています。

  ドーマナッサ(精神的な苦しみ)とパティガ(嫌悪)は常に同時に生じますが、その性質は区別して理解する必要があります。ドーマナッサ(精神的な苦しみ)は不快な感受の経験、パティガ(嫌悪)は悪意、いらつきといった精神的態度です。パンチャッカンダ(生命を構成する五つの部分)の観点から見るとドーマナッサ(精神的な苦しみ)はヴェーダナーカンダ(感受という塊)に含まれ、パティガ(嫌悪)はサンカーラカンダ(精神的形成作用という塊)に属します。

  第6
  モーハムーラチッタ(真理がわからず混乱した状態という、チッタを安定させる根を持つチッタ):2種類

  11、ウペッカーサハガタン ヴィチキッチャーサンパユッタン エーカン
  12、ウペッカーサハガタン ウッダッチャサンパユッタン エーカン ティ

  イマーニ ドゥヴェー モームーハチッターニ ナーマ
  イッチェーヴァン サッバター ピ ドゥヴァーダサークサラチッターニ サマッターニ

  11、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)が付随するチッタ
  12、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ウッダッチャ(不穏、興奮)が付随するチッタ

  この2種類のチッタはモームーハ(モーハが顕著に表れる)チッタです。
  このように、アクサラ(不善業を作る)チッタは全部で12種類あります。

  第6節へのガイド

  モーハムーラチッタ(真理がわからず混乱した状態という、チッタを安定させる根を持つチッタ):アクサラ(不善業を作る)チッタの最後の組に属するチッタはローバ(欲)やドーサ(怒り)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を伴いません。通常、ローバ(欲)やドーサ(怒り)が生じる際にはモーハ(真理が分からず混乱した状態)が先行しますが、その場合は、モーハ(真理が分からず混乱した状態)は主役ではありません。しかし、この最後の二つのチッタの場合は、不善なムーラ(チッタを安定させる根)として存在するのはモーハ(真理が分からず混乱した状態)のみです。そのためモーハ(真理が分からず混乱した状態)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタと呼ばれます。この二つのチッタにはモーハ(真理が分からず混乱した状態)の機能がとりわけ明瞭に現れるのでモームーハチッタ(純粋にモーハに関連するチッタ)とも呼ばれます。モームーハというパーリ用語はモーハが強化されたという意味です。モーハが顕著となるチッタは二つあり、一つはヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)が、そしてもう一つはウッダッチャ(不穏、興奮)が付随します。
  ウペッカーサハガタ(苦しくも楽しくもない状態を伴う):好ましい対象が現れても、モーハ(真理が分からずに混乱した状態)が生じるとその対象を好ましいものとして経験することはなく、したがってソーマナッサ(精神的な喜び)も生じません。同様に好ましくない対象が現れてもそれを好ましくないものとして経験することはなく、ドーマナッサ(精神的苦しみ)が生じることもありません。さらに、ヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)やウッダッチャ(不穏、興奮)で頭がいっぱいになると対象が好ましいか、好ましくないかの判断も出来なくなり、楽しいとか苦しいなどの感受も生じなくなります。このような理由で、この二つのチッタに伴うのはウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)という中立的な感受となります。
  ヴィチキッチャーサンパユッタ(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑いを伴う):注釈書はヴィチキッチャーの語源について二通りの説明をしています。(1)あれこれと複雑に考えることでいらついた状態、(2)知識により心を癒すことが出来なくなった状態、の二つです。この二つの説明はともに、ヴィチキッチャーの意味を、モーハ(真理が分からず混乱した状態)がはびこったために生じた混乱、懐疑、優柔不断であることを示しています。ヴィチキッチャーを伴うチッタが、モーハ(真理が分からず混乱した状態)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタの一番目です。
  ウッダッチャサンパユッタ(不穏、興奮に関連する):ウッダッチャは不穏、精神的散乱、ないし興奮です。そしてこのウッダッチャに感染したチッタがモーハ(真理が分からず混乱した状態)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタの二番目となります。アビダンマによればウッダッチャ(不穏・興奮)という精神的要素は12種類あるアクサラ(不善業を作る)チッタの全てに見られます(第2章、第13節参照)。しかし他の11種類のアクサラ(不善業を作る)チッタでは、ウッダッチャ(不穏・興奮)は比較的弱く、その機能は二次的です。しかしこの12番目のチッタではウッダッチャ(不穏・興奮)が最も優勢な要素となります。このためこのチッタはウッダッチャ(不穏・興奮)を伴うチッタと表現されています。
  モーハ(真理が分からず混乱した状態)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つこの二つのチッタにはアサンカーリカ(駆り立てるものがない)、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)という観点での評価はされていないことに留意してください。その理由については注釈書により異なる説明がなされています。ヴィシュディマッガ(清浄道論)の注釈書であるヴィバーヴィニー・ティーカーとマハー・ティーカーではアサンカーリカ(駆り立てるものがない)、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)のどちらも当てはまるためサンカーラ(駆り立てるもの)に基づく区別は省略されていると説明しています。この二つのチッタは本来差し迫ったものではないという観点からみればアサンカーリカ(駆り立てるものがない)と表現することはできず、また意図的にこの二つのチッタを生じさせるような場面はないという観点からササンカーリカ(駆り立てるものがある)と表現することも出来ないとしています。一方、レディセヤドーはこの立場に反対しており、この二つのチッタは間違いなくアサンカーリカ(駆り立てるものがない)であるとしています。この二つのチッタは生命に本来備わった性質により自然に生じるものであり、その出現を誘導するものも、出現させる手段も必要ないとしています。この二つは常に何の問題も困難もなく生じるため、明らかにアサンカーリカ(駆り立てるものがない)であり、それがここでサンカーラ(駆り立てるもの)による区別をしていない理由であると述べています。

7節 アクサラ(不善業を作る)チッタのまとめ

  アッタダー ローバムーラーニ
  ドーサムーラーニ チャ ドゥヴィダー
  モーハムーラーニ チャ ドゥヴェーティ
  ドゥヴァーダークサラスィユン

  八つがローバ(欲)というムーラ(チッタを安定させる根)を持ち、二つがドーサ(怒り)というムーラ(チッタを安定させる根)を持ち、二つがモーハ(聖なる真理にが分からず混乱した状態)というムーラ(チッタを安定させる根)を持ちます。このようにアクサラ(不善業を作る)チッタは12種類あります。
  ローバ(欲)というムーラ(チッタを安定させる根)を持つ8種類のチッタについて分かりやすい例をあげると次のようになるかと思います。

  1、楽しみながら、盗みは邪な行為ではないという間違った見方で、少年が自発的に果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
  2、楽しみながら、盗みは邪な行為ではないという間違った見方で、少年が友達にそそのかされて果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
  3、楽しみながら、盗みは邪な行為ではないという間違った見方はもっていないけれども、少年が自発的に果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
  4、楽しみながら、盗みは邪な行為ではないという間違った見方はもっていないけれども、少年が友達にそそのかされて果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
  5、楽しみも苦しみも感じることなく、盗みは邪な行為ではないという間違った見方で、少年が自発的に果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
  6、楽しみも苦しみも感じることなく、盗みは邪な行為ではないという間違った見方で、少年が友達にそそのかされて果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
  7、楽しみも苦しみも感じることなく、盗みは邪な行為ではないという間違った見方はもっていないけれども、少年が自発的に果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
  8、楽しみも苦しみも感じることなく、盗みは邪な行為ではないという間違った見方はもっていないけれども、少年が友達にそそのかされて果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。

  ドーサ(怒り)という、ムーラ(チッタを安定させる根)を持つ2種類のチッタについて分かりやすい例をあげると次のようになるかと思います。

  憎悪を抱いた人が発作的に生じた強い怒りにまかせ偶発的に他の人を殺す。
  憎悪を抱いた人が事前に殺そうと考えたうえで他の人を殺す。
  モーハ(真理が分からず混乱した状態)というムーラ(チッタを安定させる根)を持つ2種類のチッタについて分かりやすい例をあげると次のようになるかと思います。
  ある人が、聖なる真理に対する無知のためにブッダの覚りを疑ったり、解脱への道標となるダンマへの効用を疑ったりする。
  ある人が、心があまりにも散乱していて、いかなる対象にも心を集中させることが出来ない。(続く)

 


   読んでみました
内田樹著『日本辺境論』(新潮社、2009年)
  本書についてはすでに多くの紹介や感想文などが出されているので、屋上屋を重ねるようになってしまうが、「このような見方もあるのか!」と思ったこと、それから、これまで漠然としていたものを改めて理解するのによい事例が出されていることもあり、あえてここに取り上げてみた。
  著者は神戸女学院大学名誉教授(2018年現在)で幾多の著作もあり、ここで改めて紹介するまでもないと思う。本書は、:日本人は辺境人である、:辺境人の「学び」は効率がいい、:「機」の思想、:辺境人は日本語とともに、の4部から構成されている。
  は、辺境とは中華文明に対しての意味であるということから説明される。もそれぞれ興味深いが、私にとって最も印象的であり、「なるほど!」と思わせたのはこのであった。
  ここで語られるのは、中華に対して日本という辺境に住む人々は、新しいもの、すぐれたもの、学ぶべきものを外の世界に求め、「外来の知識の輸入と消化吸収に忙し」く、それを模倣し加工し改良するのは得意とするが、その結果、他国との比較でしか自分たちを語れなくなるという心情を作り出したということについてである。
  ある意味でそれは劣等感覚でもあって、ことさら意識しなくても、「日の本」という国名を名乗ること自体が<中華に対しての東の辺境である>という心情の表れだとする。そしてそれが、著者が言うところの「辺境人」の心の癖、パターンであって、例えば、漢字を「真名」とし、そこから作り出した表音文字を「仮名」と称するのもそのひとつとされる。
  古代における例として、「日出ずる所の天子・・・」云々は、うがった見方とは言いながら、著者は、「辺境」という立場を知らなかったふりをした、いわば逆手に取ったのではないかと推測している。また、中国への皇室の遷座という秀吉の誇大妄想も、まさにこの辺境という思考パターンそのものではないかという点は、なるほど十分あり得るのではないかと思わされる。
  実は本書を読みながら少々思いついたことがある。ここであえてそれらをあげてみたい。
  先ず、信長はどうだったかということが浮かんだ。おそらく辺境思考のパターンからみると異端者ではなかったか。では光秀はどうだったか?あるいは自らを「新皇」と名乗った平将門は・・・?当時の権力から見れば確かに「地方」ではあったが、しかし当時の「板東」の人々がその地を「地方」と考えていたかどうか。
  さらに考えていくと、辺境に位置するという感覚は、自覚の有無にかかわらず、それに対する反動も呼び起こしたのではないかとも思う。そのひとつがいわゆる「国学」で、そしてその感覚が極端に展開すると、日本が世界の文明の中心であったという偽書とか、あげくは漢字渡来以前に日本独自の「古代文字」があったという妄想までをも膨らませたのではないか。こんな連想が次々と浮かんだ。
  また、こんなことも思い出された。
  日清戦争の契機となった1894年に朝鮮半島で起きた農民戦争、いわゆる「東学党の乱」。3040万人が命を失ったと言われている。この「東学」という名称は西洋の学問に対して称えられたものであって、韓国ではこれは、「単なる農民反乱の域を超え、農民が主体となって侵略軍である日本軍と戦ったものなので、現在では甲午農民戦争と言われる」という。井上勝生著『明治日本の植民地支配-北海道から朝鮮へ-』岩波現代全書0112013年より)。
  井上勝生氏は当該書のなかで、「韓国の民主化運動では、東学と東学農民戟争の歴史の生きた記憶が人々を強く励ました」として、次のようなエピソードを紹介している。
  199810月、来日した金大中大統領が、日本の国会演説で、アジアの人権思想として朝鮮の東学をあげたのが、韓国での東学の高い評価をよく示している。金大統領は、アジアには自前の近代民主主義思想が生まれなかったという従来の考え方を真っ向から批判した。
  『アジアにも西欧に劣らない人権思想と国民主権の思想があり、そのような伝統もありました』
  孟子と釈迦の思想には、人間の尊厳性と平等が述べられており、『韓国にもそのような伝統があります』と断って東学を紹介した。
  東学という民族宗教の創始者たちは『人すなわち天なり(人乃天)』『人に仕えるに天の如くせよ(事人如天)』と教えています。こうした人権と国民主権の思想だけにとどまらず、それを裏付ける多くの制度もありました。ただ、近代民主主義
の制度を西欧が先に発見しただけであります』と」


  『日本辺境論』に戻ると、このような辺境思考のパターンは現代にも脈々と流れていると言う。それは他国との比較でしか自国を語れないというところにも現れる。
  たとえば、オバマ大統領の就任演説にはアメリカ建国の意義が見事に語られているのに比べ、その感想を求められた当時の日本の総理大臣は、「世界の一位と二位の経済大国が協力していくことが必要だ」というコメントを出したという。つまり、その時総理の頭に浮かんだのは、世界におけるランキング表だったということになる。この違いはどこから来るのか。それは自ら主体性を自覚しているか否かによると著者は言う。
  また先の敗戦について述べた日本軍の中枢にいた軍人たちの行動も、まさにこの思考パターンに沿ったものであったことを論証する。開戦に自分は反対だったと言葉では言うが、その意見をあくまで主張することはしない。あげく、「お前の気持ちがわかる」というような空気に染め上げられた結果として開戦に至ったのだと。つまりは外部からの干渉によってはじめて自分の行動を起こす。このような行動パターンは、個人レベル社会的レベルを問わず、それによって「被害者意識」から免れなくなってしまうと言うことだ。
  しかし、辺境にあるのはマイナスばかりではなく、プラスの部分も持っている。それはⅡで検討される日本人の「学びたがり屋」という分析、そしてⅣに述べられる日本語の特殊性についてである。

  Ⅱの「辺境人の『学び』は効率がいい」では、司馬遼太郎の小説で現在外国語で読めるのは3点しかないという例をあげ、「自国民を共扼している思考や感情の型から完全に自由な人間などいません」と言う。これは、思想や感覚はなかなかその国民以外には感知されにくいということであって、もちろん日本だけではないのだが。
  ただそのなかでも日本は、「われわれはこういう国だという名乗りから始まった国ではない」し、「日本人とはしかじかのものであるということについての国民的合意」もない。したがって、もちろん国旗も、国歌も、国号もなぜそれが選ばれたのか、それが決定された確固たる理由も意識されていないだけではなく、そもそも語られる必要性からして全く認められていないわけで、「そうなっているからそうなのだ」というほどの既成事実のようなものになっていることを語る。
  何を言いたいかというと、はっきりした目標や理念を柱として自分の意見やものごとを成り立たせているのではなく、何ごとについてもすべては他者との関係如何で自分の立ち位置が決まってくると言うわけだ。だから、「つねに他に規範を求めなければ、おのれの立つべき位置を決めることができない」し、自分が何を欲しているのかについても、他者のそれを「模倣することでしか知ることができない」のだと言い、それを著者は「虎の威を借る狐」に譬えている。
  ここで私が思い出したのは、伊丹十三と佐々木孝次(もと専修大学教授)との対談における次のような言葉だ。
  「佐々木:・・・日本人というのは相手が何もいわない限りどこまでも無秩序になるけれども、一旦相手に、これはどういうことか、と問い詰められると、それはこういう秩序に従ってこうやってると答えられない。しかし、われわれが無秩序だといっても、僕は、根本的に自己肯定的な、快の原則に従っていると思う。
  伊丹:つまりわれわれは自我というものを一貫して変わらぬもの、という方向に鍛えてこなかったわけでしょうね。日本人の唯一の一貫性というのは「相手との関係がすべて」ということでしょうが、相手との関係というものは当然クルクル変わるわけだから、日本人の一貫性はクルクル変わること、という奇妙なことになっちゃう。
  佐々木:すべては相手の出方次第。個人から国家まで、これはもう戦前から戦後まで一貫してるんで・・・」(『伊丹十三選集』第1巻「日本人よ!」岩波書店 2019年、より)
  しかし、実はこうしたことは悪いことばかりではなく、学びの意欲と方法という面ではそのよい面が働くと著者は言う。それが師弟関係であって、その関係は「本源的遅れを前提にしないとうまく機能しない」し、「その欠点は同時に、外来の知見に対する無防備なまでの開放性という形で代償されている」とも言っている。
  さらここでは、大学での講義の要点を記したいわゆるシラバスや研究論文発表の形式などについても、ネガティブな見解を述べる。それは、学ぶと言うことの本来のありかたについてである。もしあるものごとの意味や有用性についてはまだ不明であっても、それを学ぶことがいつかは重要な役割を果たすことがあるだろうと、「先駆的に確信する」ことから始まる、それが学ぶと言うことではないかというふうに。そして、今日のあらかじめ要点を伝える講義のやりかたと、本来の意味での「学ぶ」ということの二つは相容れないのではないかと主張する。このことは、今日の高等教育で「教養」が軽視されつつあることと通底するものがあると思われる。

  の「機」の思想。ここではまず、自分の無知と未熟とを自覚しながら己を超越した外部を構想できるのが宗教的寛容であるとされる。たしかに日本ほど宗教に寛容な文化は思いあたらない。神前結婚というやりかたもキリスト教のそれをまねて明治以降に考え出されたそうだし、神道、仏教、儒教、キリスト教その他の新興宗教等々、ともかくも共存が出来ているのは、一面では「いいかげん」に見えても、言い換えれば「良い加減」であるのかも知れない。しかし著者はこの宗教性を、「絶対的な信」という成立を妨げるものとしても捉えている。
  著者は次に「機」という概念を論じる。「自分のことを考えていると、そこに隙が出る」が、対象に心を止めることなく反応するその「完全な自由を成就した状態」が、澤庵禅師の言うところの「石火之機」なのだと言う。この部分は武道とは縁のなかった私には実感として理解しづらかった。(ちなみに本書の著者は武道家でもある)
  ただ、「天下無敵」という真の意味は「敵を作らないこと」というところはなるほどと思えたし、またこのことから、「老いや病や痛みを私の外部にあって私を攻撃するものととらえず、私の一部であり、つねに私とともに生きるものと考える」というのは、「あるがまま」「受け入れ」を基とするヴィパッサナーの認識の仕方と完全に重なっていると感じられた。
  さらに第Ⅲ部では、例えばある作業に供される専門の用具が身近にない時、手元にあるものを工夫したり加工したりして使用することや、いつか何かの役に立つかもしれないというような知のありかたを、学ぶ力と関連させて論じている。

IVの「辺境人は日本語と共に」で印象に残った論点をあげれば、「ぼく」「私」「おれ」「自分」等々の第一人称を相手との関係性によって使い分けるニュアンスは、外国語(特に英語)には翻訳で出来ないこと。さらに、「代名詞の選択によって書き手と読み手の間の関係が設定され」、それは、「発信者受信者のどちらが上位者か」を決定するという特徴があるということなどである。
  また、難読症は図形の認知にかかわる脳の疾患とし、日本語は図像である表意文字(漢字)と音声である表音文字(かな)を併用しているため、表意か表音の一方を使っている言語圏よりも難読症の割合が少ないのではないかと、データを示しながら述べている。
  かつて漢字を使いながらそれを廃止した国では、難読症はともかく、わずか2~3世代前に書かれた文献さえ特別に学ばない限り読めなくなってきている。もし日本で明治から大正、あるいは昭和初期の名作さえ読めない状態になったらどうなっただろうか。

  本書はこの他にも多くの論点がさまざまな例をあげつつ展開され、そのどれもが悲常に面白い。ただ、著者はつまるところ、「辺境」という所に位置し、その文化環境の中で生きる私たちは、そのネガティブな面も自覚しつつもむしろ積極的にポジティブな面を生かしていくべきではないか、そう主張しているように感じられた。そしてこれは「日本文化論」としての視点と方向性を示すものであって、そのスケールでの「気づき」による積極性を勧めているように思えた。(雅)

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