月刊サティ!

2021年6月号  Monthly sati!  June  2021


 今月の内容

 
  特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 (1)
  ダンマ写真
  Web会だより:『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』(7)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
  読んでみました:頭木弘樹、NHK<ラジオ深夜便>取材班著『絶望名言』

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  
  

     

   特別掲載:『アビダンマの解説と手引き』 ( PART 1 )
   20194月より、“Learn Buddhist Scriptures”として「アビダンマの解説と手引き」が“DHAMMA BLOG”のなかで公開されています。これは、アビダンマ(論)の入門書である「アビダンマッタサンガハ」の解説書、“Comprehensive Manual of Abhidhamma(Bikkhu Bodhi監修)が、影山幸雄、中村洋子、島田真理子の3氏によって日本語訳されているもので、ダンマ普及の一助となるようにとの格別のご厚意により、「月刊サティ!」にも掲載させていただくことになりました。厚く御礼申し上げます。
  掲載にあたってのレイアウト等は、一部を除いて元のかたちに沿っています。また、今月号では巻頭で掲載させていただきますが、次号からは「特別コーナー」で連載いたします。
  なお、すでに公開済みのホームページは現在一時停止されておりますが、再開され次第アドレスを掲載いたします。
                               
              

                      訳者からのメッセージ
  ブッダが発見され後世に残された真理と真理を見極める方法はまさに人類の宝といって良いと思います。ブッダの教えの通りに正しい道を歩めば、やがて存在の本質を見抜く力が備わり、真理を体得して、苦しみの世界から抜け出すことが出来ます。アビダンマッタサンガハは概念の世界を超越した清らかな目で観た時の生命存在の本質を説き明かし分かりやすく解説しています。真摯な気持ちでブッダの道を歩むものにとっては有益な道しるべとなります。一方で、概念の世界に浸りきった普通の人々にとってその内容を理解するのは容易ではありません。言葉自体が大なり小なり概念を引きずっているので誤ったメッセージを伝えてしまうことにもなりかねません。

  ブッダは最勝の智慧を駆使してパーリという仏教聖典にふさわしい用語を用い、真理の概要を弟子たちに伝えられました。その言葉一つ一つが完璧なメッセージを持っており、それを私たちが普通に使っている言葉で置き換えるのはほとんど不可能と言っても良いかもしれません。例えばヴィンニャーナという言葉は日本語では「識」、英語では「consciousness」と訳されていますが、日本語にせよ英語にせよそれを見た人がヴィンニャーナの持つ意味を正確に理解するのは簡単ではありません。なぜなら「識」も「consciousness」もブッダの教えを伝えるため作られた言葉ではないからです。逆にヴィンニャーナを「識」と置き換えることで「識」という文字に染みついている一般的なイメージが混入し、読者に誤った知識を植え付けてしまう可能性もあるかと思います。

  このような背景からここでは大切な用語については極力訳語を当てずにパーリの表現のままにしています。それぞれの用語は本の中で明確に定義されていますのでそれをしっかりと確認し身に着けることが大切です。なおそれぞれのパーリは聖なる八正道を実践する過程で自ら体験する真理の一つ一つに対照しています。ですから八正道の実践抜きでは正しく把握することは出来ません。仏教の経典全てに共通することですが、実践と学習は常に表裏一体です。あたかも学生が教室で習った知識を、実験ないし観察を通して自らの経験に照らし合わせて理解するように、ブッダの道を歩む私たちも修行の中で自ら確認し、「ブッダの説かれたことは真実だ、間違いない」と一つ一つ検証することが大切です。それにより少しずつ洞察の目が養われ、ブッダの教えに対するゆるぎない信頼が培われ、究極の真理へと近づくことが出来るのです。

  また実践にあたっては優れた指導者の存在が不可欠です。リンゴに例えるならば、経典はリンゴの種がどのようなものか、どこに行けばリンゴの種を見つけることが出来るのか、リンゴの種をまいた後にどのように世話をしたらよいのかなど、栽培の手順を教えているとも言えます。しかしリンゴの木を栽培したことの無い人が本だけを頼りにして栽培しても多くの場合うまくいきません。リンゴの木を栽培したことがあり、リンゴの木の状態を正確に判断し、適切な対応が出来る経験豊富な指導者がどうしても必要となります。さらに言えばリンゴの味を知らない人が本を読んだだけでリンゴの味を理解することは出来ません。出来たリンゴの実がほんとうにリンゴなのかどうかはそれを味わったことがなければ分かりません。ですからリンゴの栽培方法を知り、リンゴの味を知っている人に教えを請わなければ先へ進むことができません。仏教ではサンガがその大切な役目を担っています。

  サンガはブッダの入滅後2500年以上にわたって、正しい教え、正しく指導できる人、正しく修行実践できる環境が絶えないように守り続けてくれています。仏教の置かれた困難な状況を考えるとまさに奇跡としか言いようがありません。私たちもまたこの真理を見抜く智慧の光を絶やさないように努力しなければなりません。そのためには私たち自身が正しい道を歩み、真理をこの目で確かめ、後世に伝えていく必要があります。一人でも多くの方がアビダンマッタサンガハに書かれた説明を頼りに八正道を正しく実践し、究極の安らぎである涅槃を悟り、人間として最高の仕事を成し遂げてほしいと願っています。

              ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブッダッサ
             
                                    

1 チッタについての概要

  トゥティヴァチャナ(称賛の言葉)
    サンマーサンブッダン アトゥラン
    ササッダンマガヌッタマン
    アヴィワーディヤ バースィッサン
    アビダンマタサンガッハン

  完全なる覚りを開かれた方、比類なき方、そして崇高なるその教えと聖者の集いを尊敬合掌して礼拝し、アビダンマッタサンガハ(アビダンマに記された教えの概要)についてこれから語ります。

1節へのガイド
  尊敬合掌して礼拝し(アヴィワーディヤ):パーリ仏教の伝統ではダンマについて語り伝える前にブッダ、ダンマ(ブッダの教え)、サンガ(ブッダの教えに従う者たちの集い)の三つの宝に帰依する言葉を述べるのが習慣となっています。真実を誤りなく理解しようと努力する全ての人にとって三つの宝は究極の拠り所となっています。ですから、この本の著者であるアーチャリヤ・アヌルッダ尊者もこの伝統に従い、深い献身を込めて、三つの宝を敬う称賛の言葉を述べた後に論述を始めておられます。ふさわしい対象を敬うことは善業となり、その人の心に功徳(利益)をもたらします。帰依の対象として最もふさわしい三つの宝を敬えば、功徳(利益)はとてつもなく大きく、力強いものとなります。心に蓄えられたそうした功徳は心を清らかにする取り組みを成し遂げる際の障害を取り除き、それを完遂させ成功に導く力があります。そればかりではなく、ブッダの教えに従う者にとって、ダンマ(ブッダの教え)についての本を書くことはパンニャーパーラミー(解脱へと導く智慧の力)を育てる貴重な機会となります。そのため著者は本の最初に至福に満ちた称賛の言葉とともに、このような素晴らしい機会を得ることができたことへの喜びを表現しています。

  サンマーサンブッダ(完全なる覚りを開かれた方):ブッダは全ての現象の究極の本質を細かい点から普遍的な性質まで独力で完璧に理解されました。完全なる覚りを開かれた方と呼ばれるのはそのためです。サンマーサンブッダには「誰に頼ることも無く独力で獲得した、全ての真理についての直接の理解」という意味が込められています。ブッダはまたアトゥラ(比類なき方)とも呼ばれます。その能力、偉業に匹敵するものは他に誰もいないからです。アラハント聖者(完全なる覚りを得て解脱を果たした聖者)は全て解脱するのに必要な道徳(戒律)、集中(禅定)、智慧(慧)を持ち合わせています。しかし最勝のブッダに備わった計り知れない徳(タターガタ[如来]が持つ十の智慧の力[中部経典12]、四つの自信の土台[中部経典12]、偉大なる慈しみの成就[パティサンビダーマッガ,i,126]、遮るもののない全能の智慧[パティサンビダーマッガ,i,131])を持ち合わせた者は他に誰もいません。このようにブッダに匹敵する生命はどこにもいません。経典の中には「比丘たちよ、稀有で、匹敵する者無く、等しい者もおらず、比べようのない、比類なき、適う者無き、唯一の、人類最高の人であるタターガタ(如来)、アラハント(阿羅漢)、サンマーサンブッダ(完全なる覚りを開かれた方)がおられます」というブッダを称えた言葉が見られます(増支部経典.1:13/i.22)。

  サッダンマ(崇高なるその教え):ブッダの教え、言い換えればダンマには三つの側面、パリヤッティ(学習)、パティパッティ(実践)、パティヴェーダ(悟り)が示されています。「学習」とはティピタカ(三蔵)、すなわちブッダの教えを記録した聖典の学習です。ティピタカ(三蔵)はヴィナヤ(律蔵)、スッタ(経蔵)、アビダンマ(論蔵)の三つを合わせたものです。「実践」は道徳(戒律)、集中(禅定)、智慧(慧)からなる三段階の訓練のことです。そして「悟り」は、輪廻からの解脱に至る道(マッガ)を洞察し、涅槃を悟ってその結果(パラ)を体験することです。それぞれの段階が次の段階の礎となっています。なぜなら学習が実践の道しるべとなり、実践することで進歩を遂げて悟りに達することが出来るからです。ブッダの教えは真実であり、善である点で「崇高」と呼ばれます。なぜならブッダの示した通りにその教えを実践すれば確実に涅槃を悟り、至高の真理、最勝の善に達することが出来るからです。

  ガヌッタマ(聖者の集い):ガナという言葉は仲間ないしグループを意味します。そしてここではサンガ、すなわち共同体ないし集いという意味で使われています。ブッダのサンガには二つの種類があります。一つはサムッテイサンガ(伝統的に使われている意味でのサンガ)で比丘、比丘尼(完璧に受戒した男性修行僧と女性修行僧)の集いです。そしてもう一つはアリヤサンガ(聖者のサンガ)で、帰依の偈文の中では「聖者の集い」と表現されています。「聖者の集い」とはブッダの教えに従い、涅槃を悟った者たちの聖なる、あるいは神聖な共同体です。ソーターパッティ(預流)、サカダーガーミ(一来)、アナーガーミ(不還)、アラハント(阿羅漢)という聖者の四つの段階に達した人々で、それぞれの段階において道、果のどちらを得たかにより二種類あります。

  アビダンマに記された教えの概要についてこれから説明します:この本のタイトルであるアビダンマッタサンガハの文字通りの意味は「アビダンマに記された内容の概要」、すなわち、アビダンマピタカ(論蔵)により伝えられたブッダの「特別な」ないし「卓越した」(アビ)教え(ダンマ)となります。「これから語ります」(バースィサン)という言葉により、この教本が暗誦し、暗記するために、そして真理を分析する道具としていつでも使えるようにという意図で書かれたことを思わせます。

 ●チャトゥダー パラマッタ(四つの究極の真理)
  タッタ ヴッタービダンマッター 
  チャトゥダー パラマッタトー

   チッタン チェータスィカン ルーパン
   ニッバーナン イティ サッバター

  アビダンマの内容、そこに書かれていることは究極の真理の観点からまとめると四つになります:チッタとチェータスィカとルーパとニッバーナです。

2節へのガイド
  究極の真理の観点から(パラマッタトー):アビダンマの論理に従えば真理には二種類あります。一般的(サッムティ)な真理と、究極の(パラマッタ)の真理です。一般的な真理は普通の概念的思考(パンニャッティ)と一般的な表現様式(ヴォーハーラ)を差します。生命、人、男、女、動物、などこの世界の表面的な姿を形作る一見安定して存在するかのように見える対象が含まれます。アビダンマ哲学ではこうした名称は究極的には妥当ではないととらえています。なぜならそうした名称で呼ばれている対象は、これ以上細かくすることが出来ない要素として独自に存在しているわけではないからです。その存在は概念的な物であり現実ではありません。精神的活動(パリカッパナー)の産物であり、自らの性質を拠り所として他に依存せずに存在する真理とは異なります。

   一方で究極の真理はそれ自身に内在する性質(サバーヴァ)により存在する物事を差します。究極の真理はダンマです。これ以上分けることができない、存在の究極の要素です。存在を正しく観察した結果としての究極の実態です。これ以上細かく分けることは出来ず、それ自身が分析の最終限界となっています。複雑多岐にわたる経験の本当の構成要素です。パラマッタという用語が当てられているのはこのためです。パラマッタはパラマ(究極の、最高の、最終の)とアッタ(真実、事物)から派生した言葉です。

  究極の真理は存在論的な角度から見た究極の存在としてだけでなく、認識論的な角度から見た正しい知識の究極の対象として特徴づけられます。ゴマから油を抽出するように、一般的な真理から究極の真理を抽出することが出来ます。例えば「生命」、「男」、「女」といったものは概念ですが、不可分の究極の実態であるかのような印象を与えます。しかしながら、アビダンマの道具を用い、智慧を使って分析すれば、そこには概念が示すような究極性はないことが分かります。一般的な真理は永続することのない精神的・物質的な現象の流れを組み合わせたものに過ぎないということが分かります。このように一般的な真理を、智慧を使って検証することで、ついには概念で作り上げた物事の背後にある客観的な真実を理解するようになります。心の形成機能に依存せず本来備わっている性質を維持するこうした客観的な真実、言い換えればダンマこそが、アビダンマで語っている究極の真理です。

  究極の真理が物事の根本的な要素であることは明らかですが、あまりにもとらえどころが無く、理解するのが難しいため、訓練を受けたことがない一般の人たちはそれを知覚することが出来ません。そうした人たちは概念で心が曇っているため究極の真理を見ることが出来ません。概念のために真理を一般的に定義された形に作り替えてしまいます。智慧を使い、正しい対象に徹底して注意を向ける(ヨーニソーマナシカーラ)ことによってのみ、概念を超えて究極の真理を観察し、それを知識として取り込むことが出来るのです。このようにパラマッタは究極のあるいは至高の知識の領域に属するものとして表現されます。

  まとめると四つになります:通常、経典の中でブッダは生命や人間を分析し、五種類の究極の真理にまとめておられます。パンチャッカンダ(生命を構成する五つの部分)、すなわちルーパ(物質)、ヴェーダナー(感受)、サンニャー(認知)、サンカーラ(意思形成)、ヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)です。一方、アビダンマの教えでは究極の真理を四つの範疇に分け、テキストに列記しています。最初の三つ、すなわちチッタ、チェータスィカ、ルーパには条件に左右される全ての真理が含まれます。経典の中にみられるパンチャッカンダ(生命を構成する五つの部分)はこの三つの範疇に収まります。ヴィンニャーナカンダはここではチッタの中に含まれます。一般に、チッタという言葉は様々な認識作用を指し示すために使用され、何が付随するかによって区分けされています。ヴェーダナー(感受)、サンニャー(認知)、サンカーラ(意思形成)の三つのカンダ(部分)はアビダンマではチェータスィカの範疇に含まれます。チッタが働く際に一緒に生じて様々な機能を担います。アビダンマ哲学では52種類のチェータスィカが列記されています。ヴェーダナー(感受)とサンニャー(認知)はそのうちの二つです。経典で述べられているサンカーラ(意思形成)は50種類に細分類されています。経典のルーパ(物質)はもちろんアビダンマのルーパ(物質)と同じ範疇に入りますが、アビダンマではその後半で物質的現象を24種類に分類して説明しています。

  チッタ、チェータスィカ、ルーパという条件に左右される三つに加えて究極の真理がもう一つあります。この四番目の真理はどのような条件にも左右されません。パンチャッカンダ(生命を構成する五つの部分)にも含まれておらず、ニッバーナ(涅槃)と呼ばれています。条件に左右される、生命存在について回る苦しみから最終的に解放された状態です。このようにアビダンマには全部で四つの究極の真理があります。それはチッタ、チェータスィカ、ルーパ、ニッバーナの四つです。

第3節 チャトゥッビダ チッタ(チッタの四つの区分)
  タッタ チッタン ターヴァ チャトゥービッダン ホーティ:
  (1)カーマーヴァチャラン;(2)ルーパーヴァチャラン;(3)アルーパーヴァチャラン;(4)ロークッタラン チャー ティ

  チッタはまず四つに分類されます。
  (1)カーマーヴァチャラチッタ;
  (2)ルーパーヴァチャラチッタ;
  (3)アルーパーヴァチャラチッタ;
  (4)ロークッタラチッタの四つです。

3節へのガイド
  チッタ:アビダンマッタサンガハの第1章は究極の真理の一番目であるチッタがどのようなものかについての説明に捧げられています。チッタが学習の対象として最初に取り上げられているのは、仏教徒が真理を分析する際には経験に焦点を当てるからです。そしてチッタは対象を知りそれに気づくという作業の構成要素であるという点で、経験の根本的な要素となっているからです。

  チッタというパーリの用語はチティ、認識する、あるいは知るという意味の語幹から派生しています。注釈書ではチッタは三つの方法で定義されています。(1)行為の主体として、(2)道具として、(3)活動として、の三つです。(1)行為の主体としてチッタは対象を認識します(アーランマナン チンテーンティー ティ チッタン)。(2)道具としてみた場合、随伴するチェータスィカはチッタを用いて対象を認識します(エーテーナ チンテーンティー ティ チッタン)。(3)活動としてみれば、チッタそれ自身は対象を認識する過程に過ぎません(チンタナマッタン チッタン)。

  単なる活動という観点から見れば、三番目の定義が最も適切とみなされています。つまりチッタは根本的に対象を認識する、ないし知るという活動ないし過程だからです。認識という活動を離れてそれ自体で存在する主体や道具ではありません。チッタを行為の主体ないし道具とみなす定義が提唱されたのは、永続する自己ないし自我が認識の主体ないし道具であるという考えを捨てない人たちの誤った見解を正すためです。仏教徒はこの三つの定義を用いることで認識という行為を行うのは自己ではなくチッタであることを指摘しています。チッタは認識という行為に過ぎず、その行為は当然ながら永続せず、現れては消えるという特徴を持っています。

  どのようなものであれ究極の真理の性質を明らかにするために、パーリ注釈書では四つの方法を定め、それによりその真理の範囲を定めることができるようになっています。その四つの方法とは(1)その特徴(ラッカナ)、すなわちその現象の際立った特質、(2)その機能(ラサ)、それが行う具体的な作業(キッチャ)、ないし目標の完遂(サンパッティ)、(3)その顕現(パッチュパッターナ)、つまりそれが経験の中でどのように現れるか、(4)その直近の原因(パダッターナ)、すなわちそれが生じる根本的な条件、です。

  チッタの場合その特徴は対象を知ること(ヴィジャーナナ)です。その機能はチェータスィカの「先導者」(プッバンガマ)になること、チェータスィカを統括し、常にチェータスィカを伴うことです。その顕現については、連続する過程(サンダーナ)として瞑想者の経験の中に現れます。その直近の原因はナーマ(生命を構成する精神的な要素)とルーパ(生命を構成する物質的要素)です。なぜならチッタは精神的な要素と物質的な現象なしに単独で生じることは出来ないからです。

  チッタは対象を認識するというただ一つの特徴を持っており、様々な形で現れてもその全てにおいてこの特徴が維持されています。一方でアビダンマはチッタをたくさんの種類に区分しています。こうした種類もやはりチッタと呼ばれ、数えると89種類、詳細に分類すれば121種類になるとされています。(表1.1.参照)。私たちが普通に意識と考えているのは実はチッタ、つまり瞬間的な認識活動の連続です。個々のチッタは様々ですが、あまりにもスピードが速いため私たちはそれを分けて観察することが出来ません。アビダンマは様々なチッタを識別するのみならず、それをコスモス、つまり統合され相互に絡み合った全体の中で秩序立てて記述しています。

  その目的に合わせて、アビダンマはいくつかの基本的な分類法を用いていますが、中には重複するものもあります。サンガハのこのセクションで紹介する第一番目の分類はチッタを「意識が活動する領域(アヴァチャラ)」で分ける方法です。意識の活動領域には四つあります。そのうち三つはローキヤ(涅槃を悟っていない普通の人たちの意識の活領領域)に属し、(1)カーマーヴァチャラ(感覚の喜びを追い求める意識の活動領域)、(2)ルーパーヴァチャラ(物質を対象として禅定に入った人たちの意識の活動領域)、(3)アルーパーヴァチャラ(物質ではない対象を用いて禅定に入った人たちの意識の活動領域)の三つがあります。四番目は「ロークッタラ」(涅槃を悟った聖者たちの意識の活動領域)です。最初の三つに使われている「アヴァチャラ」という言葉は、「そこで動き回る、あるいはそこに特に頻繁に現れる」という意味です。チッタの属する場所は「存在の領域」(ブーミ)。すなわち(1)感覚の喜びを追い求める存在領域、(2)物質を対象として禅定に入った人たちの存在領域、(3)物質ではない対象を用いて禅定に入った人たちの存在領域、の三つに準じて名前が付けられています。「意識の活動領域」は、同じ名前を持つ「存在の領域」と密接な関係がありますが、全く同じというわけではありません。「意識の活動領域」はチッタを分類するためのカテゴリーであり、一方「存在の領域」は生命が輪廻転生し、そこで生存する場所ないし世界のことです。

  それでも、「意識の活動領域」と「存在の領域」の間には明確な関係があります。特定の「意識の活動領域」には、対応する「存在の領域」に典型的でそこで最も頻繁に生じる種類のチッタが含まれます。特定の「意識の活動領域」に属するチッタは対応する「存在の領域」に限定されるわけではなく、他の「存在の領域」に現れることもあります。例えばルーパーヴァチャラチッタ(物質を対象にした禅定に関連する意識の活動領域のチッタ)がカーマブーミ(感覚的な楽しみを追い求める存在領域)に現れることがあります。またカーマーヴァチャラチッタ(感覚的な楽しみを求める意識の活動領域のチッタ)がルーパブーミ(物質を対象とした禅定に関連する、微細な物質からなる存在領域)に現れることがあります。しかし、それでも、ある「意識の活動領域」が、名前が同じ「存在の領域」に典型的であるという点でやはり関連があります。さらに、特定の「存在の領域」に生じたカンマ(業)を作る力を持ったチッタはその生命を、対応する「存在の領域」に輪廻転生させる傾向があります。そしてそうしたカンマ(業)を作り出すチッタが首尾よく輪廻転生をもたらす機会に恵まれた場合には、対応する「存在の領域」にだけ転生させます。他の「存在の領域」に転生させることはありません。ですから「意識の活動領域」と対応する「存在の領域」は極めて近い関係にあります。

  カーマーヴァチャラチッタ:カーマという言葉には二つの意味があり、一つは例えば感覚的な楽しみを渇望するといった主観的な官能的欲望、そしてもう一つは例えば目に見える形、音、臭い、味、触感という五つの外部の感覚対象などを、客観的に感じ取ることです。カーマブーミは「感覚の喜びを追い求める存在の領域」であり11種類あります。四つの悲惨な下層世界(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅)、人間界、感覚の喜びを追い求める六つの天界(六欲天)です。カーマーヴァチャラチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)にはカーマブーミ(感覚的な楽しみを追い求める生存世界)を主な領域とするチッタが全て含まれますが、他の「存在の領域」に生じることもあります。

  ルーパーヴァチャラチッタ:ルーパーヴァチャラチッタはルーパブーミ(物質を対象にした禅定に関連する微細な物質からなる生存領域)に相当する「意識の活動領域」、あるいはルーパッジャーナ(物質を対象にした禅定)と呼ばれる禅定に関連した「意識の活動領域」です。ルーパッジャーナは地のカスィナ(円盤:第11章、第6節参照)や自分の身体の一部など、物質(ルーパ)を瞑想対象として得られた禅定であり、そのためルーパッジャーナ(物質を対象にした禅定)と呼ばれています。そうした瞑想対象は禅定を育むための土台となります。物質的対象を基にして得られた高いレベルのチッタがルーパーヴァチャラチッタ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域のチッタ)と呼ばれます。

  アルーパーヴァチャラチッタ:アルーパーヴァチャラチッタはアルーパブーミ(物質でないものを対象にした禅定に関連する生存領域)に相当する「意識の活動領域」、あるいはアルーパッジャーナと呼ばれる禅定に関連した「意識の活動領域」です。主にこの領域で活動するチッタはアルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域)に属すると理解されています。ルーパッジャーナ(物質を対象とした禅定)のレベルを超えた形の無い瞑想状態を得ようとする修行者は物質的な形態に関連した全ての瞑想対象を捨て去り、例えば空間の無限性など物質ではない瞑想対象に集中しなければなりません。そうした物質的ではない対象を基にして得られた高いレベルのチッタがアルーパーヴァチャラチッタ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域のチッタ)と呼ばれます。

  ロークッタラチッタ:ロークッタラは「世界」を意味するローカと「乗り越えた」、「超越した」という意味のウッタラに由来した言葉です。ローカには三つの概念があります。サッタローカ(生命の世界)、オーカーサローカ(物質からなる宇宙)、そしてサンカーラローカ(作られた世界)、すなわち物質と心という条件づけられた現象が統合されたものです。ここで使うローカはサンカーラ、つまりパンチャカンダ(生命を構成する五つの部分)の中に含まれる全ての俗世間的な現象の世界、サンカーラローカのことです。条件づけられた事象の世界を超越したもの、それが条件に左右されることのないニッバーナ(涅槃)です。そしてニッバーナ(涅槃)の悟りを直接成就させるチッタがロークッタラチッタと呼ばれます。ロークッタラ以外の三つのチッタはロークッタラチッタと区別するためにローキヤチッタ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域におけるチッタ)と呼ばれています。

  このようにチッタはそれが活動する世界によって大きく四つに分けることが出来ます。カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における)チッタ、ルーパーヴァチャラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタ、アルーパーヴァチャラ(物質ではないものを対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタ、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタの四つです。チッタは他の基準により分類することも出来ます。アビダンマ哲学において大切な分類基準の一つはジャーティ(種類ないし性質)です。チッタはその性質に基づいて、アクサラ(不善業を作る)チッタ、クサラ(善業を作る)チッタ、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ、キリヤ(機能だけの)チッタ、の四種類に分けられます。アクサラ(不善業を作る)チッタにはローバ(欲)、ドーサ(怒り)、モーハ(真理が分からず混乱した状態)という三つの不善な、ヘートゥ(チッタを安定させる根)のうち一つないし二つが付随します。こうしたチッタがアクサラ(不善業を作る)と呼ばれるのは精神的に不健全であり、道徳的に非難され、痛ましい結果をもたらすからです。クサラチッタにはアローバ(正しい生き方を目指して欲から離れること)ないし寛大、アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)ないし慈しみ、アモーハ(正しい生き方を目指し、智慧がないため真理が分からず混乱した状態から離れること)ないし智慧といった善なる、ヘートゥ(チッタを安定させる根)が付随します。そうしたチッタは精神的に健全で、道徳的に非難されることがなく、好ましい結果をもたらします。

  アクサラ(不善業を作る)チッタ、クサラ(善業を作る)チッタはともにカンマ(業)、即ち意志を伴った行為の構成要素となります。一方、カンマ(業)が熟し、その結果として現れるのがヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタです。ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタはアクサラ(不善業を作る)チッタ、クサラ(善業を作る)チッタとは異なる第三の種類のチッタを構成します。そしてアクサラカンマ(不善業)の結果、クサラカンマ(善業)の結果、の両方を含みます。カンマ(業)もその結果も純粋に精神的なものであることを理解しておかなければなりません。カンマ(業)は意志の活動であり、アクサラ(不善業を作る)チッタないしクサラ(善業を作る)チッタを伴います。その結果として別のチッタ(ヴィパーカチッタ)が生じて、そのチッタが熟したカンマ(業)を経験することになります。

  チッタをその性質で分類した場合の四番目はパーリではキリヤないしクリヤーと呼ばれるチッタです。この本では「機能」という訳語を当てています。この種類のチッタはカンマ(業)そのものでもカンマ(業)の結果でもありません。キリヤ(機能だけの)チッタも活動はしますが、その活動はカンマ(業)を作ることは無く、カンマ(業)の結果をもたらす力もありません。

  ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ、キリヤ(機能だけの)チッタはアクサラ(不善業を作る)でもクサラ(善業を作る)でもありません。アクサラ(不善業を作る)、クサラ(善業を作る)の範疇に入らない(アビャーカタ)、言い換えればアクサラ(不善業を作る)、クサラ(善業を作る)という二つの分け方があてはまらないチッタです。(続く)



<お知らせ>今月は巻頭ダンマトークはお休みさせていただきます。(編集部)



 今月のダンマ写真 ~
 
「タイ森林僧院のなかの一郭 ほっとする空間」 

先生より

    Web会だより  
『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』(7)H.Y.

   それからブッダガヤには日本寺があり、大仏が建立されているところに行きました。現地にある大仏は大乗仏教のものであり、日本と変わらない姿です。どこか異国での懐かしさを感じさせます。その後、日本寺の本堂に行く途中に、日本寺が運営する慈善活動の学園がありました。たまたま、そこで働いている方と目があったのです。軽く会釈したのですが、何か力になればと思いました。インドに来てクシナーラをはじめ物乞いの人々に何かしなければならないと感じていましたが、物乞い個人個人にお金を渡しても更生にはならない気がしました。インドの物乞いは組織化されており、それをとりまとめるボスのような者が、分け前を取ってしまうのだそうです。このような状況の中、頑張っている施設であれば、布施する価値があると思いました。
   ツアーでは日本寺は自由散策となっていましたが、日本寺の僧侶の方が偶然本堂に来られました。有り難いことに突然来訪した我々ツアー客の為に、日本寺の歴史等の講話とお経をあげて下さりました。しかし僧侶と一緒に般若心経を唱えているうちに、心の奥でイライラが出てきました。原始仏教の瞑想を深める為にインドに来たのに、何故ここで大乗仏教の般若心経を唱えなければならないのかという内面的な怒りです。日本人僧侶の親切心に感謝する一方で、他宗派を否定する傲慢な考えがこのとき同時に生じました。布施したい気持ちは強くある一方で、比丘に布施をするのであれば原始仏教に基づくべきだと思い、学園への寄付に丸を付けず、わざわざ「四資具(衣・食・住・薬)」と封筒に書き、まとまった額の布施をお渡ししました。表層では日本人寺の僧侶に深い感謝を込めて布施を渡す一方で、僧侶に対しこれが原始仏教の正統な布施のやり方なのだと獅子吼する思いが心の深層でくすぶっていました。冷静に考えれば、僧侶に四資具をすること自体は良いことですが、それを相手に認めさせたいということとは別物です。また、布施を物乞いや慈善活動の子供達の為にという思いは完全に消え去っています。これでは怒りモード全開で、劣善そのものです。表面的にはとても良いことをしましたが、内面的には非常に後味の悪いものでした。
  昼頃にブッダガヤを出発し、バラナシに向かいます。バラナシまでは約260kmで、約10時間と一日で最長の移動です。夜にバラナシに到着し、市内のホテルに宿泊しました。

8.第8日目
  早朝、バラナシのガンジス川の沐浴見学に行ってきました。今回のツアーの中で、唯一の仏跡以外の観光地です。参加自由だったので、参加せずにホテルの部屋で歩きの瞑想と座りの瞑想により多くの時間を使うことも考えましたが、せっかくインドに来たので仏跡以外の観光地に行っても損はないと思い、参加しました。
  インドのヒンドゥー教ではガンジス川は聖なる川とされており、朝日が昇る前に川で沐浴するのが良いとされています。どこでも沐浴すれば良い訳ではなく、川が合流する場所が望ましいなどヒンドゥー教の教義があるそうです。ベナレスは沐浴に適した場所とされており、同時にベナレス最大の観光地とされています。早朝から観光客が続々と集まってきます。沐浴見学と言いつつも、観光客の方が多数で、インド人の沐浴者はそれほど多くはありませんでした。ガンジス川ではツアーが準備した船に乗り、ガンジス川の様子を一望できました。またガンジス川は火葬を行う場所でもあります。撮影は厳禁ですが、実際に火葬する場所まで船が近づき、死について考えさせられました。
  ホテルに戻って朝食を食べた後、サールナートに移動します。サールナートは初転法輪の地とされ四大聖地の一つで、ブッダが初めて説法をされたところです。ブッダは覚ったあと、誰に覚りの境地を教えようかと考えとところ、無色界禅定を教わった二人の師に伝えようと思いました。神通力で調べたところ、お二人とも亡くなっていることが分かった為、次に以前一緒に修行していた5人のもとに行きました。その5人はブッダが王子時代の縁者たちで、ブッダが覚るのを見届けるために出家していました。ブッダが苦行を止めたときに失望し、5人はブッダのことを仲間だと思わないよう、申し合わせていました。しかしブッダが来ると、各人が申し合わせを破り、ブッダの足を洗うなど世話をしてしまいます。そしてブッダとの歓談が始まります。5人はブッダと対等の言葉を使いますが、ブッダが5人と同格に扱われることに反対します。ブッダが覚ったことを伝えても5人は納得しません。そこでブッダが嘘をついたことがあるかと5人に問います。当時、釈迦族は高潔な民として知られていました。その中で最も信頼の高い王子が嘘をつく等、今までありませんでした。5人ははっと気づき、ようやくブッダの説法を聞くことに合意します。
  私は最初、この5人はブッダが覚ったと言っているのに何故信じないのか、ブッダが今まで嘘をついたことは無いと言って、初めて気づくのはブッダに大変失礼だと思いました。しかし「ブッダの聖地」を読み返していくうちに考えが変わっていきました。
  覚っているとブッダが言っても、根拠がなければ鵜呑みにしないという5人の理性の重要性がここで述べられています。5人がゴータマ・シッダッタ王子を尊敬していて、本人が覚ったと言ったから信じる、では根拠になりません。5人がゴータマ・シッダッタ王子が今まで嘘をついたことがないことを理解し、本人が覚ったと言ったから信じることで初めて根拠となります。
  世の中には、権威や著名だから納得してしまう場合が多くあります。しかしケーサプッティヤー村の逸話のように人が言ったから、伝統や聖典に書かれているからと言って鵜呑みにせず、きちんと自分で物事を確認することと同様に、この5人がその重要性を伝えてくれているのだと思いました。
   サールナートには阿羅漢たちの小さなストゥーパがいくつもあります。ブッダが、覚りに達した人々の骨はちゃんとストゥーパを作って安置するよう示されたことで建てられました。また高く大きなストゥーパがあり、これはブッダが初転法輪をされた場所で、静かにたたずんでいます。ここでも1周しました。
  その後、サールナートの近くにあるムーラガンダクティ・ヴィハーラ(転法輪寺)に行きました。ここは日本人がフレスコ壁画を描いたところで有名です。戦前のものですが緻密に描かれており、ブッダの一生を絵画から学ぶことができます。
  昼食をホテルで食べた後、バナラシから国内線に乗る為に空港に向かいます。エアインディアは搭乗1時間前の締め切りですが、1時間前にファイナルコールと言われ、催促されます。いくらなんでも早すぎると思いつつも、なんとか搭乗します。すると出発の40分前に航空機が離陸しました。普通は予定時間より遅れることはあっても、時間前に飛び立つことを経験したことがなかったので、エアインディアの対応に驚きました。その後、夜にデリーで成田空港行きの国際線に乗り継ぎました。

9.第9日目
  早朝に成田空港に無事到着し、自宅に帰りました。振り返ってみると、身体的には結構疲れた一方で、聖地巡りに思い切って行くことができて良かったと思っています。
  ブッダが「信仰心のある良家の子には、次のような四つの、見るべき、畏敬の念を起こしうる場所があります」と言って、四大聖地を挙げられています。ブッダは「私を拝みに来なさい」と言っているのではなく、「これらの場所にちょっと来て、ゆっくりして、実感してください」という気軽な感じで提案しています。
  もしヴィパッサナー瞑想を通じて仏教に関心を持ったのであれば、行く価値はあると思います。最近の書籍や映像で現地の様子は分かるようになっていますが、ブッダガヤの瞑想の様に現地に行ってみて初めて感じることのできる、あの暖かさを是非実感してほしいと思います。
    今回の聖地巡りのご報告が、皆様の今後の修行にお役に立てれば幸いです。

出典:ブッダの聖地(サンガ文庫)

地図:アイコンをクリックすると、写真を見ることができます

 https://www.google.com/maps/d/embed?mid=1sEkGHJAawn8PYy-C7-KdzdtT6ClfNNwG

       


智光山公園の紫陽花 (K.U.さん提供)
 






このページの先頭へ

『月刊サティ!』
トップページへ
 



 


ダンマの言葉

「月刊サティ!」20063月号、4月号に、アチャン・リー・ダンマダーロ師による「みんなのダンマ」が掲載されました。これは、「パーリ戒経」中にある仏教徒が自らを善き人間に鍛える実戦の指針で、6つの項目に分けられています。今月は4回目です。

  四番目の指針mattaññutā ca bhattasmim (マッタンニュター チャ バッタスミン 食事に関して[適当な]量を知り)
  mattaññutāとは、食事について節度の感覚を持ちなさい、ということです。ここで私は物質的な食べ物のことを言っています。
  食事には三通りの仕方があります。
  一つ目は、貪り食うこと。お腹がいっぱいでも、心はまだ満たされてない状態です。口の中をいっぱいにして、もうそれを飲み込めず、お腹もいっばいになっている、それでも心はまだ食べ足りません。これが貪り食うということ
です。こうした貪りに心を任せてはいけません。

  二つ目は、満足して食べるということです。托鉢で受けた食事に満足をし、それ以外のものはロにしない。あるいは、自分に得られる食事で満足するということです。それ以上のものは求めない。もっと食べたいということを、手、目、言葉、いずれを使っても表現しない。皿や鉢にあるものだけで満足します。それが満足して食べるということです。
  三つ目は、控えめに食べるということです。世俗的にも、法にてらしても、この食べ方は大変よろしい。シワリ師のことを考えてみましょう。師の食事は控えめでした。どう控えめだったのでしょう。私たちの多くがシワリ師について知っていることと言えば、師は受けた布施が豊かだったということです。しかしその豊かさをもたらしたものは何だったのでしょう。それが控えめな食事だったのです。
  控えめな食事というのは豊かきを生む源です。シワリ師が行ったのはこういうことでした。
  布施の衣を受けたときは、他の人へ贈らない限り、受けた衣を着ようとはしませんでした。托鉢で食事を受けたときも、そのいくばくかを誰か他の人に与えるまでは食べようとしませんでした。
  四つの必需品――食事、衣服、住居、薬――のいずれを受けたときでも、その量にかかわらず、自分のものになったのちは、それを誰か周りの人々と分かち合うまでは利用しませんでした。多くを受けたときは多くを与えてたくさんの人を助けました。少ないときも何とか他の人々に与えようとしました。
  これがあらゆる善いことを生み出しました。師の友人や周りの人たちは彼を愛し、親切にしました。こういうわけで、寛大さによって友情が固く結ばれ、敵対する人がいなくなってしまうのです。
  これがシワリ師のしたことでした。師が今世を全うされ最後の生に生まれたとき、あらゆる種類の富を得て決して食べ物に困ることはありませんでした。食べ物が足りないような場所に赴いた時も、そのために苦しむということはなく、食事なしで済ませなければならないということもありませんでした。
  これが私たちにとって意味することは、得たものは何であれ、その三分の一だけを自分が食べ、残りの三分の二は与えてしまいなさい、ということです。動物が好むところは動物に与えれば良いし、人間が好むところは人間にあげればよろしい。
  ともに清らかな生活を送る仲間と分かち合うべきものは、清らかな心をもって与えます。これが消費という点で控えめになることの意味です。そうすると身も心も楽になります。死を迎えるときにも、貧しいことはないでしょう。
  この原則は仏道として大変すばらしいというだけでなく、現代社会全体にとってもすばらしいことです。テロリズムを抑えるすぐれた方法なのです。この原則がどのようにテロリズムを抑えるのでしょうか。人は貧しさのないとき煽動を受けません。テロリズムはどこからやってくるのでしょうか。それは、住むところもなく、食べるものもなく、面倒を見てくれる者もいない人々からなのです。
  彼らがこのように貧しく、そして飢えているとき、「自分が苦しんでいる限り他の者も皆同じように苦しませてやろう。財産を私有させてはならない。全部皆の物にしなくてはならない」と考えるのです。こうした考えは貧困と欠乏から起こります。
  ではなぜ貧困が起こるのでしょうか。それは独り占めして食べている人がいるからです。そうした人々は一般の人々と分け合うことをしません。そこで―般の人々が苦しんで恨みを晴らそうと思うとき、彼らは共産主義者やテロリストになってしまうのです。
  ですからテロリズムは食欲と自分本位、得たものを分かち合わないことから生まれるのです。10バーツを得たならば9バーツを与えて残りの1バーツで得られるものを食べればいいのです。そうすることで私たちは多くの友を得ることができます。慈愛と優しさ、平和と反映を得ることができます。
  どうしてそうなるのでしょうか。住むところと食べるものがあり、お腹がいっぱいになるまで食べることができ、横になって眠ることができるならば、政治的な混乱で頭を悩ませようとする人がいるでしょうか。これが、「控えめな消費が尊いことである。高潔で傑出していることである」とお釈迦さまが私たちに教えた理由です。
  このように実践すれば、私たちは「食事に関して適当な量を知り」という言葉に沿っていることになります。自分自身と他の人たちのために、正しく、適切に実践していることになるでしょう。

  *訳注 五戒では、「性的な不道徳をしないこと」、八戒では「性的な行為をしないこと」

       

 今日の一言:選

(1)煩悩にまみれた生涯を送れば、悪趣(地獄や餓鬼など苦に充ちた世界)に堕ちていくだろう。
  世のため人のためにエネルギーを捧げ、衆善奉行のきれいな生き方に徹すれば、天界などの善趣に再生するだろう。
  苦受の連続も、歓楽を極めた世界も、ただそれだけのことであって、始まりがあり終わりがあり、夢のように過ぎ去っていく。
  業が支配する現象の世界は、もういいかな……と思えるだろうか?
  なぜ、生きることの原点である一瞬一瞬の経験にサティを入れて、見送っていくのだろうか?

(2)記憶が歪むように、思い込んだ妄想は紋切り型に固まっていく。
  不快な妄想は真っ黒に、美しい妄想はあり得ない理想の姿に……

(3)煩悩の力と力を激突させて淘汰する、弱肉強食の論理とは異なるシステムで生きていく生命も進化してきた。
  貪・瞋・痴の煩悩に自らブレーキをかけてコントロールする脳が搭載された時、自分の命も他の命も大事にする方向が開けた。
 ムラムラと暴れまわる自己中心的な煩悩を抑止する訓練は「瞑想」と呼ばれ、優しさの原点となる……


       

   読んでみました
 頭木弘樹、NHK<ラジオ深夜便>取材班著
『絶望名言』(飛鳥新社、2018年)
   本書は「NHK<ラジオ深夜便>」の中の「絶望名言」を収録したもので、頭木弘樹氏と番組を担当した川野一宇氏との対談に捕捉を加えたものである。
   頭木氏は20歳の時に潰瘍性大腸炎という難病を発症し、13年間に及ぶ療養生活を送ったが、その時に救いとなったのは、明るい言葉ではなく絶望の言葉だったと言う。氏はその時の経験をもとに、それらの言葉を「絶望名言」と名づけ、のちに、『絶望名人カフカの人生論』や『絶望読書』(ともに飛鳥新社、後に新潮文庫および河出文庫)を著した。そしてそれらを契機にしてNHKの<ラジオ深夜便>に「絶望名言」コーナーが生まれ、書籍化されたものが本書である。
   頭木氏は療養中に、人を励ます「名言」もたしかに必要だが、悲しい時に悲しい曲を聴きたくなるように、辛い時には絶望的な言葉の方が「自分と一緒にいてくれて、気持ちをわかってくれて、それが救いに」なることもあるのではないかと感じたと言う。そして、希望を抱かせ前向きに生きるように促す本も「もちろん素晴らしい」のだけれども、絶望的な言葉が胸に入ることでかえって救いになるような本も、「あってもいいし、あってほしいと」思ったそうである。
   対談の相手である川野氏もまた脳梗塞による闘病の経験を経ている。その際、ある先生からいただいた「あわてず、あせらず、あきらめず」という言葉の3つの「あ」を肝に銘じて日頃から暗唱していると言う。
   <ラジオ深夜便>のディレクターである根田知世己氏によれば、絶望名言とは簡単に言うと「絶望した時の気持ちをぴたりと言い表した言葉」とされる。それは、「言葉にしたところで目の前の現実が変わるわけでもなく、即座に解決策が見つかるわけでもない」けれど、「言葉にすると少し距離ができ」「その間にかすかに風がそよぐ、ちょっとやわらぐ」ものでもあると言う。
   たしかに、困難を乗り越えた体験談も感動的だ。しかしそれが自分にとって救いとなるかどうかは人それぞれだろう。反対に、赤裸々に苦しさや絶望が綴られたものに対しては、自分が絶望している時には共感も生まれやすいのではないか。頭木氏の場合はそれが悲常に救いになったと語っている。
   頭木氏の取り上げている文学にはそのような文章が綴られている。もちろん、同じ境遇、同じ状況とは限らない。しかしそれを読むことで苦しいのは自分だけではないという思いが生まれ、「みんながそれぞれいろいろな苦労をしているので、自分もその中の一人になれる」し、それによって、「一人で苦悩している孤独とはずいぶん違う」ことが実感されたと言う。
   本書は第1回から第6回までの放送で取り上げられた、カフカ、ドストエフスキー、ゲーテ、太宰治、芥川龍之介、シェークスピアの作品によっている。ここでは一部であるがそれらを紹介し、あわせて頭木氏がそれらの言葉をどう受け取ったかを見てゆくことにする。なお、「」内はことわらない限り頭木氏による。
   まず、頭木氏が病院のベッドで寝たままなっている時に読んだカフカから。
   「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」(『フェリーツェへの手紙』)
   これには、「絶望的すぎるというか、もう突き抜けてしまっているので、一緒に落ち込むというよりは、むしろ救いに」なったそうだ。
   過酷な経験をしたことで成長する人もたしかにいる。しかし、「これはもう笑うしかないですよね」で、「倒れたまま生きていく、あるいは半分倒れたままに生きていく人生もあり」ではないかと悟ったと言う。
   ところで、カフカには特段の不幸があったわけではない。それどころか、裕福な家庭に生まれ、何不自由なく育ち、大卒で、役所勤め、恋愛もし、親友もあり、亡くなる前に病気になるまでは健康で、まさに、平穏無事なごく普通な人生だったそうである。
   しかしそれでも絶望している。そこがいいと言う。平凡で日常的な人生から出てきた言葉だからこそ誰でも共感できるのではないか、と頭木氏は考える。さらに、だいたい作家の日記や手紙は作品ほどには面白くないけれど、カフカの書いたものは、「作品はもちろんですけれど、手紙や日記も、作品と言っていいぐらい」だと言う。
   「僕には誰もいません。ここには誰もいないのです、不安のほかには。不安とぼくは互いにしがみついて、夜通し転げ回っているのです」(『ミレナへの手紙』)
   頭木「これは、じつは恋人への手紙の中の言葉なんです。普通、恋人にはなかなかこんなことを書かないと思うんですけど、カフカは恋人への手紙にも、こういう絶望的望口葉ばっかりなんです」
   川野「受け取る側の恋人としては、ちょっと待ってよと言いたくなるような内容じゃないですか」
   頭木「そうですね。だから付き合っていた女性のほうもたいしたものだと思うんです」
   絶望というのはきわめて個人的なもので、たとえば病気になると、たとえ親身な家族であっても病人の気持ちはなかなかわかるものではないし、また、同じ病気を抱えていても症状や状況が違うから、なかなか本当には共感し合えないのではないだろうか。それは災害に遭った場合も同じだと思われる。そうなると、ひどく落ち込んだ時には、「自分の気持ちは誰にもわからない」という心境になり、「絶望するだけでも辛い」のに、おまけに「孤独がもれなくついてくる」ことになる。
   川野「そうすると、絶望している人には、どう接したらいいんでしょうか?」
   頭木「普通、皆さんが思うのは、励まして立ち直らせようということではないでしょうか」
   しかしなかなか立ち直れない。時には何年ということもざらにある。そうすると、最初は励ましていても、「いつまで経っても立ち直らないので、だんだんイライラ」してきて、「そんなふうに、いつまでも落ち込んでいるから、いけないんだ」などと責め始め、ついには、「もう知らない」などと見捨てるような展開になってしまうのではないだろうか。
   でも、「誰しもが右肩上がりに真っ直ぐ立ち直れるわけじゃない」から、「できれば、もっとあせらないようにしてほしいですね。当人も周囲も、なるべくあせらずに」、「それでも時々は連絡を取って、『立ち直れそうになったら、いつでも力を貸すよ』という形でそばにいてあげるのが、一番いいと思いますね」。
   ドストエフスキーの回では、「われわれは、自分が不幸なときには、他人の不幸をより強く感じるものなのだ」(『白夜』)を紹介したあと、次に正反対のような表現を取り上げる。
   「僕がどの程度に苦しんでいるものやら、他人には決してわかるもんじゃありゃしない。なぜならば、それはあくまでも他人であって、僕ではないからだ。おまけに人間ってやつは、他人を苦悩者と認めることをあまり喜ばないものだからね」(『カラマーゾフの兄弟』)
   この言葉は人の心のありようが単純ではないことを示している。
   頭木氏は、辛い体験をした人ほど他の人の辛い気持ちもわかるからそれだけ優しくなるのは、「辛い体験をしたからこその、いいことのひとつかもしれない」としながらも、「じつはそうとは限らないんです。自分が苦労をしたせいで、よけいに人に厳しくなって、冷たい人間になってしまうということも、けっこう多いんです」とも述べている。これはその人の傷の深さと辿ってきた人生とに色濃く関係するのではないだろうか。
   これは『絶望読書』によるが、長期入院していた時にドストエフスキーを読んでいたときにこんなこともあったそうだ。
   はじめのうち、「よくそんなものを読むねー」と言っていたあまり本を読む習慣のないような同室の人たち。ところがまず一人が、「ちょっと貸してくれる?」と言いだしたら、次々に、「オレにも貸してみて」となって、それがどんどんハマっていき、ついには6人部屋の全員が読みふけることになったという。その様子を病室に入ってきた看護師が見てビックリ、なにしろ、「ぐるっと見回すと、みんながそろって『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』を読んでいるのですから」。
    ゲーテの回からは次の言葉。
   「わたしはいつもみんなから、幸運に恵まれた人間だとほめそやされてきた。わたしは愚痴などこぼしたくないし、自身のこれまでの人生にけちをつけるつもりもない。しかし実際には、苦労と仕事以外の何ものでもなかった。75年の生涯で、本当に幸福だったときは、1カ月もなかったと言っていい。石を上に押し上げようと、くり返し永遠に転がしているようなものだった」(『ゲーテとの対話』)
   頭木氏は、ゲーテの伝記映画がほとんどないのを、あまりに人生がうまくいっているのでドラマにならないという理由から、らしいと言う。若い時に書いた『若きウェルテルの悩み』がヨーロッパ中で有名になり、「あのナポレオンまで本を持って、わざわざ訪ねてきたくらいです。いい友達もたくさんいましたし、たくさんの女性から愛されましたし、ヴァイマルという、当時、国だったんですが、そこの大臣になって、貴族の称号をもらうんです。82歳の誕生日の前に、生涯をかけて書いた大作の『ファウスト』を完成させて、数カ月後に亡くなるという、もう大往生ですよね」と。しかし、それはあらすじからの見方であって、細かく見ていくと違った面も見えてくると言う。
   「ゲーテの周りでは、大切な人が次々亡くなっていくんです」。4人の妹や弟を亡くし、1人残ったとても可愛がっていた1歳下の妹も26歳の若さで亡くなってしまう。10歳年下のシラーという親友も亡くなって、ゲーテはその時、「自分の半身を失った」と言った。その後母も亡くなり、妻も亡くなり、そして晩年の81歳の時にはたった1人の子供である息子のアウグストが、まだ40歳だったのにイタリア旅行の途中で急に亡くなってしまう。ゲーテはショックのあまり大量の血を吐いて倒れたという。
   常に日の当たる場所にいたゲーテだったが、自身が、「『光の強いところでは、影も濃い』と言っているように、多くの喜びの一方で、多くの悲しみも経験しているんです」。
   人生を「あらすじ」で生きている時には気づかずにいても、大きな挫折を経験したりするとこれまで気づかなかったことに否応なく気づかされる。「そういう細やかな部分にだんだん目が向くようになると、人生に対する感じ方も、ずいぶん大きく変わってくるなあと思います」。このようなことは私たちも数多く経験しているに違いない。
   では、細やかな部分にだんだん目が向くようになるというのはどういうことなのか。頭木氏によれば、それは、元気な頃にはあまり関心を払わなかった味噌汁の味がとても沁みたとか温かかったとか、あるいは、普段はことさら気にすることなく越える段差も、足が弱くなると越えようとするたびに気づくとか、「そんなことが結構人生の大きな部分を占めたりする」ということだ。
   太宰治の回には次の言葉。
   「駄目な男というものは、幸福を受け取るに当たってさえ、下手くそを極めるものである」(『貧の意地』)
   「弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです」(『人間失格』)
   「『綿で怪我をする』っていうんですから、もうどうしていいかわからないですよね。もう他にくるむものがないですよね、綿で怪我をされちゃあ」
   この「弱さ」ということから敷衍して、世間で言われるような「弱さの強さ」という一見褒め言葉の背景には、「弱いより強い方がいい」という価値観があるのではないかと頭木氏は指摘する。さらに、「気弱い内省の窮極からでなければ、真に崇厳な光明は発し得ないと私は頑固に信じている」(『服装に就いて』)で太宰は、「弱さには、弱いからこそ価値があり、魅力がある、そう言っているんじゃないでしょうか」と推し測っている。
   そしてこうも言う。
   「思春期は、誰でも多かれ少なかれ、生きづらさを感じていると思うんです。(略)そういう生きづらい時は、やっぱり何か自分に問題があるんじゃないかなという心配も出てきます。あと、こんなに辛さを感じてるのは、自分だけなんじゃないかなという不安もあると思うんですよね。
   そんな時に、太宰治が辛い辛いとさんざん言ってくれるわけです。これはやっぱり、ありがたいことだと思うんですよね」
   で、太宰を「好きな人は、『本当に気持ちをわかってもらえる』『同じ気持ちだ』というふうになるんだと思うんですけど、一方、嫌いな人とか読まなくなった人は、そういう太宰を、『ナルシスト』だとか、『甘ったれ』だとか、『駄目な自分に酔っている』とか、そんなふうな言い方をして、けなしたりするわけです」。
  この章には面白いエピソードが語られている。それは、太宰治を嫌いな人の代表として三島由紀夫をあげていることで、三島は、「最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしい」(『私の遍歴時代』)とか、「弱いライオンの方が強いライオンよりも美しく見えるなどということがあるだろうか」(『小説家の休暇』)と言ったそうだ。これについて頭木氏は、ライオンだからそうなるので、「ウサギやカピバラだったら弱々しい方がいいですよね。獰猛なカピバラとか嫌ですよね」と、少々冗談めかした言い方をしている。
   また、三島が大学生の時に太宰を訪ねて行ったことがあって、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言うと、太宰は、「そんなこと言ったって、こうして来るんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」(『私の遍歴時代』)と答えたので、三島はすごく怒ったそうである。
   芥川龍之介の回には次の言葉が取り上げられる。
   「どうせ生きているからには、苦しいのは、あたり前だと思え」(『仙人』)
   若い頃、まだ名を成す前に芥川はすでにこんなことを言っていた。頭木氏は、「ちょっと偉そうな感じにも聞こえるかもしれません。上からお説教しているような。でも、じつはこれ、短編の中では、非常に貧しい男が、ねずみに向かって、こういうふうに言ってるんですね。もちろん、本当にねずみに説教しているわけではなくて、ようするに、自分に言い聞かせている言葉なんです」。
   芥川は、生まれて8カ月後には母が精神病院に入ってしまい、母親の実家に預けられ伯母に育てられる。そして10歳の時に母親が亡くなる。その後、12歳の時から伯父の養子になり、芥川という名字になったのはその時からだという。
   そういう生い立ちのせいもあって、この『仙人』を書く前に親友に手紙でこのように書いている。「『周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい』(井川恭・宛 大正41915)年39日付)」と。つまり、小さい頃から「生きるのは苦しい」ということを実感していたと言うことだ。
   川野「なるほど。『生きるのは苦しい』が、ひっくり返って、『生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え』というふうになったんですね」
   頭木「そうなんです。これ、同じようですけれど、じつはけっこう大きなちがいだと思うんです。
   というのは、『生きるのは苦しい』っていうのは、本当に辛いじゃないですか。だけど、『生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え』と言われると、そうか、生きているんだから、もう苦しいのはあたり前なのかというふうに思えて、ちょっとね、救われるところもあるというか……」
   また芥川は友人に残した遺書の中で次のように書いた。
   「僕の場合はただぼんやりとした不安である。何か僕の将来に対するただぼんやりとした不安である」
   たしかに、病気にもよるが、病名がついて対策がはっきりすれば、心を落ち着かせる効果も期待できるかも知れない。しかし人生そのものは本来的に曖昧さに満ちているのが現実だろう。自身でも、「誰かを好きなのか嫌いなのかさえ、本当はよくわからなかったり。そういうことはいくらでもあるわけですよね」。だから、「恋愛とかでも、『本当に好きなの?』とか、はっきりさせようと問いつめたりするわけじゃないですか」。でも、「『曖昧さは、人間にとって非常に苦しいものである』というのは納得できる人が多いんじゃないでしょうか」。
   名言の宝庫であるシェークスピア、多くの作品あるなかからの次の言葉。
   「あとで一週間嘆くことになるとわかっていて、誰が一分間の快楽を求めるだろうか?
   これから先の人生の喜びのすべてと引き替えに、今ほしい物を手に入れる人がいるだろうか?
   甘い葡萄一粒のために、葡萄の木を切り倒してしまう人がいるだろうか?」(ルークリース)
   頭木「あとで大変なことになるとわかっているのに、目の前のしたいことをしてしまう人、そんな人がいるのかということを3回繰り返し聞いているんですけど、いるか、いないかっていうと、いるっていうことなわけですよね(笑)」
   川野「そうですよね(笑)。いるから、そういうふうに言うんでしょう」
   頭木「そうですね。実際には、ほとんどの人がそうだと思うんです。私自身もそうですし」
   余談だが、植木等が「スーダラ節」を歌う前にかなり悩んだと言う。彼の実家は浄土真宗の寺で、父は僧侶、反対されると思ったらしい。ところが父は、「わかっちゃいるけどやめられない」は親鸞の教えに通じると言って賛成してくれ、息子を励ましたという。
   しかし出来ないからと言って、しなくて良いということにはもちろんならない。そうではなく、「出来ないのが人間」ではないか、そのことを先ず認めることから始めなければならないのではないか、そう頭木氏は言う。
   「明けない夜もある」(『マクベス』)
   絶望している人をなぐさめる時によく聞かれるのが、「明けない夜はない」という言葉だ。これは『マクベス』に出てくると言う。それは、マクベスに妻子を殺されて嘆いている男に、別の男が「明けない夜はないよ」と言葉を投げかける場面で、実はその男もマクベスに父親を殺されている。つまり、マクベスに身内を殺された者同士だ。
   頭木氏はこれにずっと違和感を覚えていたという。それは、妻や子どもをマクベスに殺されたことを、今聞かされて嘆き始めたところなのに、「明けない夜はないよ」と励ますのは早すぎるのではないかと言うことだ。
   原文は“The night is long that never finds the day”。直訳すると「夜明けが来ない夜は長い」となる。でも、自然現象としての夜明けはいずれは来るわけで、「明けない夜はない」と言うのは意訳として間違いではなく、たいていはこう訳される。ただ、頭木氏は、「泣きだしたばかりの人に、『涙はいずれ乾くよ』って、いきなり言うのはおかしくないですか?」という思いがあった。
   翻訳家の松岡和子氏は、ここはそんな楽観的な言葉ではなく、「覚悟をうながす言葉」ではないかと言う。その覚悟というのはつまり、「マクベスを倒さない限り、夜明けは釆ないと。悲しい夜がずっと長く続くぞ」ということだ。そして松岡氏は、「『朝が来なければ、夜は永遠に続くからな』(『シェイクスピア全集(3)マクベス』ちくま文庫)というふうに」訳しており、その訳に感激した頭木氏は、「こういう解釈もあり得るのか」と思ったそうである。
   悲しみというのは、あたかも自然現象のように時間とともに消えていくと捉えてしまうのではなく、「大切な人を失ったというような深い悲しみは、いつまでも続くこともあるよと。そういう言葉としてとらえることもいいんじゃないか」。そして、「明けない夜もある」というふうに訳したいとも言っている。
   時間では癒やされないような悲しみをいつまでもひきずっていると、「周囲も『これだけ時間が経つのに、いつまで悲しんでいるんだ』というふうになってきますし、自分自身も『いつまでも悲しんでいる自分はいけないんじゃないか』と、そんなふうに思いがち」になる。そうすると、悲しみが癒えない上に、自分で自分を責め周囲からも責められ、より辛いことになってしまう。
   だからこそ、「現実にそういう悲しみがある以上、そういうこともあるんだよって知って」おくこと、「『明けない夜もある』『明ける夜もある』。両方知っておくほうが大事」なのではないかと言う。
   頭木氏によると、最近のアメリカの心理科学会誌に発表された研究で、「時間の経過だけでは人は癒やされるとは限らない」ということが確認されたと言う。さらにこの研究チームは、「『時間が解決してくれる』と、当人や周囲が思ってしまうことで、かえって回復をさまたげたり、こじらせてしまう原因となっている」と指摘しているそうである。そして氏は、「それにしても、こうした研究のない時代に、時間が経っても癒やされない悲しみがあるということを描いたシェイクスピアは、やはりたいしたものだと思います」と結んでいる。
  本書にはそのほかにもさまざまな言葉と体験が綴られている。そこでは、「死が救いに思われるほどの絶望をすくいとって言葉にしていく」ことを軸として、文豪たちが遺した名言と体験を重ね合わせられている。そして、「文豪たちの絶望名言がそうであるように、一人の苦しみをつきつめていくと普遍性を持つものです。この番組はそのプロセスの実践」であると結んでいるおもえt。本書は本当の共感とはなにかについて深く問いかけているように思える。
  繰り返すが、興味を覚えられたらぜひ通読されることをお勧めしたい。私たちが抱える課題に対する見方を深める糧になると思う。本書は本当の共感とは何かについて深く問いかけているように思えたが、また私たちにとって他の意見や主張を偏りなく理解することの難しくまた重要なことかを痛感させられた。
(雅)
 このページの先頭へ
 『月刊サティ!』トップページへ
 ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)トップページへ