2021年5月号 | Monthly sati! May 2021 |
今月の内容 |
巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』 (7) | |
ダンマ写真 |
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Web会だより:『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』(6) | |
ダンマの言葉 | |
今日のひと言:選 | |
読んでみました:ナオミ・オレスケス、エリック・M・コンウエイ著 『世界を騙しつづける科学者たち』(上・下) |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』(7) -生きている死者- |
*瞑想ができない・・・ ストレス・ランキングでは、どの調査でもトップは配偶者の死、次いで離婚や肉親・友人の死が必ず上位5位に入ります。掛けがえのない人を喪った悲しみは、瞑想修行が不可能になるほど深刻です。悲嘆や絶望のどん底ではサティは入らないし、たとえ入ったとしても、一時停止ボタンを必死で押し続けているに過ぎません。一身上の重大問題を抱えた状態では、瞑想中の妄想を止めることはできないのです。 瞑想をしたければ、瞑想ができる環境設定をしなければなりません。愛する人を喪うという人生最大の苦しみと悲嘆を、どう乗り超えていけばよいのでしょうか。 *悲しみは癒えず・・・ どんな激烈な悲嘆も、通常2年半から3年経てば、悲しみの先端が鈍くなり、身を裂かれるような哀傷の日々も徐々に色褪せ遠のいていくと言われます。鈍化するのは記憶の本質なのか、あるいは、生存本能のなせる業なのかもしれません。 しかし東日本大震災から10年経過しても、いまだに悲しみが癒えず苦しんでいる人も少なくありません。 「・・3/11からもう10年になるのに、目指すゴールがない。ゴールを見出せないでいるのだ。 【めぐりくる また三月は 一里塚 ゴール捜しの 人あまた往く】(新3.11万葉集 詠み人知らずたちの10年)」 悲しみに区切りをつけられた人と、終わりにできない人を仕分けている分水嶺は何なのでしょう。何が問題なのでしょうか。悲嘆を乗り超えた人も、いまだその渦中にいる人も、大切な死者の思い出が去来しない訳がありません。日に何度も断片的な記憶が飛び交っているのは誰も変わらないはずです。 悲痛な記憶が浮かんでくることが問題なのではなく、その受け止め方や意味付け、残された者の心の中で死者はどのような立ち位置に納まっているのか、過去をどう捉えて生きていこうとしているのか、とどのつまり心の交通整理がどのようになされているか、が両者を分ける分水嶺になっているのではないかと思われます。 人は今の瞬間ではなく、過去のことで苦しむのです。ネガティブな過去の経験が許せず、忌まわしい過去を受け容れることができないから生きるのが苦しく、今の瞬間に立ち往生しているのです。 サンユッタ・ニカーヤ(神々との対話)には、次のような一節があります。 神がブッダの傍らに立って、呼びかけます。 「森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗なのであるか?」 ブッダが答えます。 「彼らは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。 ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れているのである。ーー刈られた緑の葦のように」(神々との対話ーサンユッタ・ニカーヤ) 悲しいかな、森に住む聖者のようにはなれないが故に、私達はいまだに凡夫でいるのです。いつまでも死んだ子の歳を数えて苦しむのです。どうしたらよいのでしょうか。 *承認されない死 48歳の若さで先立った寺山修司の母親が、「死んだ気がしない。ひょっこり帰ってくるような気がする・・・」と、老いが深まってもなお十年一日の如く呟いていたのが印象的でした。 これは、愛する者の死を受け容れることができない人に共通の所感です。共に生きていた往時の妄想が際限なく繰り返され、頭では理解していても、死んだ事実を情緒的に受け容れることができず、心の底でその死を否定し続けているのです。 訃報に接した瞬間の衝撃と混乱、その混沌状態のまま思考が停止してしまったかのような方もいます。母親ととても仲の良かった女性が、ある日突然、母親を喪い、父親と二人取り残されて傷心の日々を重ねることになりました。家の中は以前と変わらず綺麗に整えられていたのですが、亡母の居室だけは散らかったまま時間が止まってしまったようでした。 何年かの歳月が流れ、あるきっかけから、女性はやっと母親の死を受け容れることができました。すると、その時から亡母の遺品整理に着手することができ、母親の居室は片づいていったと言います。 *別離のプロセス 問題は愛する者を喪ったことではなく、死んでしまった事実が認められず、受け容れられないことです。「なぜ、なぜ、なぜ、死んでしまったの!」と声にならない絶叫が心の空洞に木霊し続けて固まってしまう・・・。 こうした悲嘆が起きてしまうのは、多くの場合、心筋梗塞で急死したり、トラックに轢かれて即死したりの頓死や不慮の死です。何の心の準備もなくある日突然、死の事実に不意打ちされ、叩き伏せられ、言葉を失ったような状態です。 朝、「行ってくるよ」と元気に出かけた家族が、その夜、霊安室で冷たくなっていた・・・。そんな突然の別離に、人の心は耐えられないのです。大切なものと別離するために必要なプロセスや手順を踏まず、一瞬にして絶望の谷底に突き落された衝撃に混乱すれば、立ち往生するのも無理からぬことです。 もし死をあらかじめ覚悟して、心の準備を整える時間があれば、来し方を振り返り、共に過ごした歳月を語り合い、感謝を述べ、存分に惜別の時間を費やすことができれば、掛けがえのない人との永遠の別れを受け容れることができるでしょう。 仕方がない。誰の身にもいつか必ず起きることが、起きたのだ・・・と諦めることができるのです。諦めは「四聖諦」の「諦」であり、悟ると同じ意味の「諦る」なのです。ブッダが讃える森の聖者ならぬ私たち凡夫でも、時を得て、無常を受け容れる充分なプロセスを経ることができれば、掛けがえのないものの喪失を乗り超えることができるのではないでしょうか。 *母の死 私の経験をお話しすると、実家の母を2年間介護してその最期を看取り、オリジナルな家族葬で告別の会を催した後、私は檀家だった寺で墓の解体式を執り行なってもらいました。原始仏教では、人が死ねば直ちに転生すると考えられています。その輪廻転生論に基づいて瞑想を教えてきた者には、墓も仏壇も無意味なので、母の遺骨は散骨し、私の代で墓を閉じ、檀家を離れたのです。 最愛の家族が他界し、葬儀やさまざまな後処理もすべて完了すると、自分自身に向き合う余裕が生まれてきます。通常このタイミングで初めて、心が悲しみに領され、喪失感や虚しさに襲われるものです。 しかし私の場合、母を喪った悲嘆を最小限にできたと感じています。それは、まる2年間、母と起居を共にしながら、自分にやれる介護は全てやりきったという達成感と、日々心の中で告別を繰り返したからだろうと思われます。 熟した果実が自然に落下していくように、80代後半の母が死んでいくのは確実なことでした。日に日に弱り、それまで出来ていたことが出来なくなり、自然の摂理のまま老い衰えて、死に向かっていく母の姿をスナップ写真のように心に焼き付けていったのです。 例えば、母と夕方の散歩に出かけ、人影のない神社の境内で一休みする母の姿を眺めていました。母の頭上には、満開の枝垂桜の大木が枝を拡げ、ピンクの桜花が迫り来る夕闇に鮮やかさを失い、しだいに色褪せていく束の間の時の流れを感じていました。認知症が始まっていた母は、桜の木と同じように何も考えていない風情で、黙ってこちらを見ていました。老いて小さくなった母の姿と、色褪せていく枝垂桜が重なり合い、一瞬、落涙感に襲われました。ああ、これも見納めだ、もう二度と見ることがない最後の光景だ・・・と、無言で別れを告げながら心に刻み付けていました。 何の景品だったのか、大きな紙風船をバレーボールのように飛ばして、子供のように喜んでいた母の笑い顔も、その後、急速に筋力が衰えて二度と同じ遊びはできなくなり、見納めになりました。 「お母さん、死ぬことが人生最後の大仕事なのだから、きれいに、立派に、明るく死んでいこうね」と毎日のように話しながら共に暮らした2年の歳月・・・。それは、死の不安や怖れを母からぬぐい去っていくプロセスであり、私にとっては、生きながら緩やかに死者になっていくかのように、母の死を受け容れていくプロセスでした。 *死の受容 3歳の娘がふと手を離れて横断歩道を走り出し、目の前で車に跳ね上げられ、即死するのを目の当たりにした母親は半狂乱となり、癒えることのない悲嘆が何年も続いたと言います。 一方、小児癌の愛娘に死の宣告が下された母親がいます。この方はその後、娘のためにしてやれる全てのことをやり、残された歳月の一日一日を愛おしむように我が身を捧げ尽くし、悔いのない看取りと葬送ができました。 愛児を喪った二人の母親の悲痛に大差はなかったでしょうが、その後の心の変化は大きく分かれました。 母親の我が子に対する渇愛ほど強烈なものはない、とも言われます。この上なく無防備で生まれてくる人類の嬰児を、何としても守り抜くために組み込まれた本能のプログラムなのでしょう。子に対する親だけではなく、夫婦の絆も、兄弟姉妹や祖父母との関係の深さも、人類が群れを形成して生き延びるために必要な愛着であり愛執なのでしょう。 掛けがえのない存在を喪ったドゥッカ(苦)は誰でも同じでしょうが、そこから長く悲嘆を引きずる人と、乗り超えて自分の人生を生きていく人を分かつ分水嶺は、<死の受容>に尽きると思われます。 死を受け容れることができなければ悲嘆が続き、死の事実を認め受容することができた者には、死者との新たな出会い直しがあるのです。 *受容の条件 私の母の看取りをお話したのは、掛けがえのない人の死を受容するポイントが明確だと思われたからです。 ①心の中で、存分に別れを告げること。 ②ゆるやかに、時間をかけて看取ること。 ③死は誰にでも必ず訪れるものと覚悟すること。 ④やるべき介護や看取りを逃げずに引き受けて、悔いを残さないこと。 時間をかけて、ゆるやかに高齢者の死を受け容れていく。これほど容易な死の受容はないでしょう。 私の母は享年89歳でした。早すぎる死とは、誰も思わないでしょう。人生を十分に生き、天寿をまっとうした人の死を受け容れるのは難しいことではありません。死を覚悟した上で介護が始まり、心の中で告別を繰り返すことができるのです。 不慮の死、早すぎる死、無残な死、理不尽な死、許しがたい死、無念な死・・・。いずれもその死が受け容れがたい不当なものと感じられるからこそ、癒しがたいグリーフ(悲嘆)となって苦しむのです。受容しがたいから、死の事実を否定し、それがおかしいことだと分かってもいるのでますます混乱し、混乱するので正しく理解できず、混沌とした悲嘆がさらに深まり固まっていき、時が虚しく過ぎていくのではないでしょうか。 *死すべき定め あらゆるものが因縁によって成り立ち、原因があって生起し、因果が帰結して壊れていくものがあり、滅ぶべくして滅んでいく・・・と仏教では考えています。あらゆることが、必然の力で生じ、否応のない力で滅していきます。 どんな死にも偶然はなく、必然の力に催され、死ぬべくして死んでいくのです。アビダルマでは、死には4つの要因があると説かれています。 ①寿命が尽きて死ぬ。 ②業が尽きて死ぬ。 ③両者が尽きて死ぬ。 ④断業によって死ぬ。 以上の4つが、ロウソクの火に譬えられて説明されています。 ①の寿命が尽きる死は、ロウソクの芯が燃え尽きれば火が消えるように、生きものに本来定まった寿命が尽きれば死ぬということです。人間の場合は最長で122歳のフランス人女性がいましたが、それが限界です。単細胞生物は無限に分裂を繰り返しますが、有性生殖をする生物は細胞の分裂回数が定められているので、必ず死ぬように設計されています。 ②の業が尽きて死ぬのは、ロウが無くなって火が消えることに譬えられています。ロウソクの芯(寿命)が残っていても、ロウが尽きれば火は消えるしかないのです。ロウは業の譬えです。人間本来の寿命は約120歳ですが、殺生戒を犯し、生きものの命を多く傷つけてきた人は短命になる業を荷って生まれてきます。命を大切にしてきた人は自らの命も大切にされる結果、長寿になるということです。 ③は言うまでもなく、ロウと芯の両方が無くなって火が消えるように、業も尽き寿命も尽きれば当然死にます。 ④は、まだ十分燃えるだけのロウも芯も残っているのに、突風が吹いたり、水をかけられたりすれば火が消えるように、他の業を抹消するような強い不善業があれば、殺されたり、病死したり、不慮の死を遂げることになります。反対に強烈な善業が、短命に終わるはずの生涯を長らえさせることもあります。 *仏教の力を借りる なぜ、こんなに幼くして死ななければならないのか。幼子を残し、自分を必要としている夫や病弱の親を残し、若い母親が死んでいくのは理不尽に見えるでしょう。しかし仏教的観点からは、家族を残して無念にも早逝しなければならない業を持った女性がいたということです。その子供には幼くして母を喪うカルマがあり、夫は人生の半ばで妻を喪い幼い子供と取り残される業を荷っていただろうし、愛娘に先立たれる業を持った老親がいたということでしょう。 起きるべきことは必ず起きてしまうのが、業でありカルマです。何事も必然の力で生じ、否応のない力で滅していくのだから、起きたことは全て正しい、と我が身に生起した一切の事象を受け容れていく覚悟を定めるのが仏教を指針とする生き方です。 一切の事象が業の力で作られていくプロセスを「行(サンカーラ)」と言います。行は業の別名でもあり、諸行無常とは、諸々のサンカーラによって形成されたものは必ず無常に変滅していく、ということです。仏教徒であろうとなかろうと、無常の真理にも因果の理法にも逆らえるものはなく、因縁によって生じたことは受け容れるしかないのです。無常に滅していくものに執着を起こせば、ドゥッカ(苦)に苛まれるしかないでしょう。 死が目前に迫ったブッダが、侍者のアーナンダに言います。 「止めよ。アーナンダよ、悲しむな。嘆くな。私はあらかじめこのように説いたではないか。ーー全ての愛するもの、好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、作られ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということがどうしてあり得ようか。アーナンダよ、そのような理りは存在しない・・・」(涅槃経) 執着が手放せず、悲嘆のさ中で苦しんでいても、目指すべき方向性が視野におさまっていれば、やがて手本の力で乗り超えることができるでしょう。 *父を看取る 愛執を乗り超えなければ、瞑想は妨げられます。同様に、死者に対するネガティブな情念も妨害要因になるので、恨みも憎しみも後悔も手放さなければなりません。 私の父の看取りは、母親とは異なるものでした。両親とも、やがて確実に訪れる死を覚悟しながら看取る流れは同じでしたが、私の心の中で展開したものは対照的でした。 介護の苛酷さに耐え抜くために、父の看取りにはサティの瞑想が必要不可欠でした。母の介護も最終ステージになると、体力の限界ギリギリまで追いつめられましたが、ドゥッカ(苦)を乗り超えるためのサティよりも、愛執にのめり込まないためにマインドフルネスが必要だったように思われます。 瞑想の妨害要因である「五蓋」の1番と2番は「欲望」と「怒り」です。欲望系の愛執も怒り系のネガティブな情念も、心に刺さったまま残れば、瞑想は妨げられるのです。 肝臓癌の父が入院した時には、余命は3ヶ月、最期は肝臓で解毒できなくなった毒素が全身に回り混乱が生じるだろう、と明確に告知されていました。家の中に生涯引き籠っていた父が、死ぬために家を出るとは知らされずに車に乗り込む姿を眺めながら、落涙を禁じ得ませんでした。もう二度とこの家に戻ることがないのは確定しており、文字通り、これが父が家を出る最後の光景・・・と脳裏に焼き付けながら父の隣に同乗しました。鮮烈な記憶として、いまだにありありと思い浮かべることができます。 以来3ヶ月、私は毎夜父の病室に泊まり、夜中に何度もオムツの交換をしながら、極めて苛酷な最後の日々を父と共に過ごしました。毎日、夕方になると家を出て、戦場に赴く兵士のような気合で病院に向かい、病室では厳密に、あらゆる動作にサティを入れまくり、ネガティブな妄想を徹底的に排除しながら父の世話をし、傍らのベンチに横臥して付き添いました。 終末の刻限がはっきり予告されていたので、自分の体力のペース配分をしながら、一日一日、残りわずかになっていく砂時計の砂を眺めるように、長い確執のあった父との関係を総括しながら、心の中で別れを告げる日々でした。 医者の宣告どおり正確に3か月後、父は逝去し、私の看取りは終わりました。ヘトヘトになっている私を見かねて、付添婦を雇う提案をしてくれた人もいましたが、長きに渡って激しく憎悪した父に償わずにはいられず、自分の手で父の髭を剃り、体を拭き、排泄の世話まですることによって罪滅ぼしの一環としたかったのです。 もし父の介護を人任せにして、外国の僧院でどれほど奮闘しても、後悔や自責の念に苛まれ、必死で自己正当化する葛藤の日々になったでしょう。重要な他者とのネガティブな因縁を解かずに、聖なる修行が完成することはないのです。 後悔という怒りの棘が心に刺さらない手筈をととのえ、十分な別離のプロセスを経たことにより、父の死は完全に受容され、きれいに鬼籍に入って、私の中で過去形になっていきました。 *死者との出会い直し 「死の事実を認め受容することができた者には、死者との新たな出会い直しがある」と申し上げました。「出会い直し」とは何なのでしょう。 「死者は、二度死ぬ」と言ったのは、東工大教授の中島岳志でした。一度目の死は、肉体的に死亡した時。二度目の死は、残された者から完全に忘れ去られ、忘却の闇の果てに消え去った時だと言います。 2011年4月に、中島は「死者と共に生きる」という文章を書き、東日本大震災の被災者を中心に大きな反響を呼びました。 「死者はいなくなったのではなく、死者となって存在している。生者には必ず死者と<出会い直す>時が来る。関係性が変わるのです」と言う中島には、こんな体験がありました。 ある日の深夜12時過ぎに帰宅した中島は、翌日〆切の原稿があったことに気づき、仕方なく過去の原稿を適当にアレンジして書き上げました。送ろうとした時なぜか1ヶ月前に亡くなった編集者の眼差しが感じられ、「見られている」という気がしました。特に道徳的なことを言うようなタイプではなかったのに、『そんな原稿を送っていいのか・・・』と言われたような気がしてハッとなったのです。それから思い直して、明け方までかかって納得のいく原稿を完成させました。ベッドに入って、これはどういうことだったのか考えた結論が 「彼はいなくなったのではない。死者となって存在しているのだ。私は亡くなった友人と<出会い直し>たのだ。これからは死者となった彼と一緒に生きていけばよいのだ」ということでした。 *死者と生者の共生 「生きている死者とは、かつてこの世に生きていた人達であり、死してなお、忘却されずに記憶の中で生き続けている人達である。彼らこそが、現在生きているわれわれを支え、世の中を支えている・・・」 歴史学者でもある中島は、この「生きている死者」をさらに歴史のレベルにまで拡大させています。過去の賢者の智慧に学ばずして、今を正しく生きることはできない。「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく・・・」と言うポール・ヴァレリーに言及し、過去を直視しなければ、人は真っ直ぐ前に進めない。歴史に学ぶことは、死者と共に生きることだと強調します。 確かに、ブッダは2500年前に亡くなりましたが、ブッダならこの場合どうするのだろう・・・と私も常に考えています。こんな場合にブッダはどう言っていたのかを必ず参照し、ブッダの言行録(「ダンマパダ」などの経典)が私の規範であり、行動指針になっています。つまり、私の中ではブッダは常に生きていて、人生を共に歩んでくださっているようなものです。2500年経った今でも、ブッダは私から忘却されていないのです。 *仏壇効果 掛けがえのない人を喪った悲嘆を乗り超える仕事は、死者を心の中で真の「生きている死者」にすることです。愛執に目が眩めば、愛し合って共に生きていた過去に封印されたまま死が否定され、死者が死者になり切れず、死なせてもらえないのです。死を受け容れないとは、そういうことです。 母が火葬されるまでの3日間、私は母の遺体と共に暮らしていました。真冬の庭石のように冷たくなっても、母の顔は生前の面影を失ってはいませんでした。火葬場の焼却炉の扉が開き、花に埋もれた母の棺を自分の手で炎の中に送り込んだ瞬間、胸が締めつけられました。2時間後、焼却炉の中から現れた母の姿は一回りも二回りも小さくなった骨と灰に化していました・・・。それを眺めた瞬間、母が消滅した!という印象が駆け抜けていき、私の心は完全に母の死を受容していることに気づきました。つまり、それまでは私の中で母の死は微妙に完成しておらず、真の死者にはなり切れていなかったということです。 死の事実を受け容れない限り、死者は「生きている死者」になれず、死者との出会い直しが起きることもないでしょう。人は、肉親であれ歴史上の人物であれ、「生きている死者」と心の中で対話し、導かれ、影響されながら生きていくのが本来です。 「勉強しない子は、鮎になりなさい」と魚類学者の誰かが言っていました。記憶や学習が継承されなければ、鮎と同じように遺伝情報だけで生きていくしかありません。人類は、先人の文化や知的遺産を最大限に活用しながら生きていくのです。知的な情報だけではなく、立派な家族が亡くなれば、ご先祖として子孫の手本となり情緒的拠りどころとなり、やがて氏神として神格化されていくこともしばしばです。 私の立場では、墓石も仏壇も無意味だと申しましたが、「仏壇効果」の有効性は信じられるものです。愛する家族の死が受容され、生きた死者となれば、故人の遺影や位牌が納められた仏壇は恰好の対話の場所になるでしょう。日々、祈りを捧げ、守られている安心感が得られる効果もあるだろうし、悩みを打ち明ける心のカウンセラーにもなり得るでしょう。 霊的直感に優れた人なら、スピリチュアルな存在となった死者とのコミュニケーションもあり得ますが、少数派の例外です。大方の人は、内面の自問自答が死者に託されているだけでしょう。それでよいのです。個人としての妄想は、利己的な煩悩にまみれたものがほとんどです。しかるに、生きた死者はなぜか立派になり、私達の良心を代弁する存在に変わる傾向があります。中島岳志の友人も、道徳的なことを言うタイプではなかったのに、倫理的であれ、と中島を諫める存在に変容しています。生きた死者というものは、私達の善なる側面を炙り出してくれる機能があるのかもしれません。人の目はごまかせますが、常に誰かに見られているという意識は、悪しき心を抑止する効果があることは間違いありません。覆面を被り正体が隠されると途端に悪心が露わになり、こちらを監視している畏怖すべき眼差しがあると思えば善心が現れるのです。「生きている死者」が、道を踏み外さないように導いてくれるかのようです。 *死者が引き継ぐいのち 春日大社の宮司さんから、小児癌で亡くなった娘サキちゃんの話を聞いたカメラマンの保山さんがこんなことを言っていました。 「自分が会ったこともないサキちゃんのために、何かいい映像を撮りたい。サキちゃんが一番大好きだった御蓋山に虹がかかるのを撮りたい。そうやって強く念じたら、十秒くらいしか出なかったその虹が撮れた。それはどう考えても、自分がやった仕事とは思えない。ということは、会ったこともなく、とっくに死んでいるサキちゃんと、心のつながりができたような気がするのですよ」 さらに、こうも言っています。 「自分はもうすぐ死ぬかもしらないけど、自分が死んだ後、自分の映像を見る人もいるだろう。ちょうど自分がサキちゃんとの間につながりが感じられたように、死者は誰かのために存在し続けるのではないか」と。 赤の他人であっても、歴史上の人物であっても、いわんや愛し合い共に人生を生きた家族であるならば、死者は、後に続く者の心の中に生き続けるでしょう。死者と生者が正しく共生するために、死の事実をありのままに受容することが何よりも大切です。それは、執着という名の妄想に気づいて手放す営みであり、ヴィパッサナー瞑想の本質を実践することと同じなのです。 |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』(6)H.Y. |
7.第7日目 https://www.google.com/maps/d/embed?mid=1sEkGHJAawn8PYy-C7-KdzdtT6ClfNNwG |
(K.U.さん提供) |
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「月刊サティ!」2006年3月号、4月号に、アチャン・リー・ダンマダーロ師による「みんなのダンマ」が掲載されました。これは、「パーリ戒経」中にある仏教徒が自らを善き人間に鍛える実戦の指針で、6つの項目に分けられています。今月は3回目です。 |
ナオミ・オレスケス、エリック・M.コンウエイ著 『世界を騙しつづける科学者たち』上・下(楽工社、2021年) |
緻密かつ膨大な研究と事例が網羅されている本書の著者ナオミ・オレスケス氏は、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授で専門は科学史、エリック・M.コンウェイ氏はNASAジェット推進研究所(JPL)研究員である。著者は本書の主旨をこう述べる。 「自然界の真実を明らかにすることに身を捧げた科学者がなぜ、仲間の科学者の研究について間違ったことを故意に伝えたりするのだろうか。何の根拠もない非難をなぜ広めようとするのだろうか。正しくないことが明らかにされてもなお、自説を訂正しようとしないのだろうか。そしてマスコミはなぜ、何年経っても彼らの言葉を引用し続けるのだろうか。彼らの主張が間違っていることは次々と明らかになっているのに」・・・「私たちがこの本で取り上げるのは、そういう物語だ。科学的な証拠と戦い、われわれの時代が抱える最も重要な問題の多くについて混乱をまき散らした、科学者のグループについての物語。それは現在も続くパターンについての物語でもある。事実と戦い、疑念を売りつけることについての物語だ」 本書はタバコの害から始まり、スター・ウォーズ計画、酸性雨、オゾンホール、二次喫煙、地球温暖化、そして『沈黙の春』への恣意的な非難など、かつては高名で権威をまとった科学者であった人々がいかに誤った主張を声高に繰り返してきたかを明らかにしている。これは日本も例外ではないだろう。本稿では詳細を記す余裕はないので、機会があればぜひ読まれると良いと思う。なお冒頭には全体を通じてのキーワード、人物が掲載されている。 通読した感想では、本書は下巻の「結論」と「エピローグ」から読むのが良いかも知れない。なぜなら、そこに著者の主張がまとめられているからだ。著者はそこでこう述べている。 「本書を書くために、われわれは何十万ページにも及ぶ文書を調べた。歴史の研究を続ける中で、さらに数百万ページの資料に目を通して」きた。しかし結局、「当事者だった人たちに語ってもらうのが一番だと思うことが多い」と。 そして、ブリティッシュ・アメリカン・タバコのリサーチ・ディレクター、S・J・グリーンの言葉を引用する。彼は、タバコ業界が倫理面だけでなく知的な意味でも間違っていたことを最終的に認めた人物である。それは、「科学的証明を要求するというのは、常に何もせず対策を遅らせるための方便だ。またたいていの場合、罪悪感からくる最初の反応でもある。もちろん、こうした判断をするための正しい基盤は、ごく当たり前ながら、その状況において合理的なものかどうかということだ」というものだ。 本稿の告発対象は次の二つにまとめられよう。 第一に、かつて権威ある地位に就いていた本書の主人公(と著者は言う)の科学者たちが、「疑念の売り込み(懐疑論)」によっていかに人々を欺いてきたか。そして第二に、型に嵌まったバランス意識と、また、こうあってほしいという安全バイアスに囚われて人々を誤った認識に導いてきたジャーナリズムである。 科学を装った政治的な主張に対して、なぜ、真っ当な科学者たちは異議を唱えてこなかったのか。その理由は、現代科学の成果はチームワークによるものであり、また、政治的な論争に関わると客観性をないがしろにしたという非難を受けかねないからであるという。しかし最もよく理解し得るのは、彼らが、「科学を愛しており、最後には真実が勝つと信じているから」ではないかと。 懐疑論に沿った報告書についてある指導的な科学者はこう言ったそうだ。 「ゴミだと分かっていたから単に無視したんだ」 本書の主人公に擬された人々はすでに科学研究から離れており、また、彼らが主張した分野の専門家だったことも、一度もない。それら分野の、「すべてについて本当の専門家であろうとすれば、疫学者、生態学者、大気化学者、気候モデルの専門家のすべてになる必要がある。しかし、現代の世界でこうしたすべての分野の専門家になれる人などいない」のだ。 ということは、たとえ権威ある人物が言ったとしても、決して客観的な事実を無視してはならないということを意味している。まして、「その人物がすでに現役を引退していて、不満を抱いていたり、何にでも反対する性癖の持ち主だったり、明らかにイデオロギーに基づく目標を掲げたグループや、経済的利益を追求するグループから資金を提供されている場合」には特にそうである。盲目的な信頼は、全く信頼しないのと同じくらい有害なのだから。 タバコの害に対して初めのうちは懐疑的だった指導的な疫学者の一人が、証拠の重みを受け容れて意見を翻したことがある。タバコの害についてはさらに多くのデータが必要だとの声高な主張に対して、その疫学者はこう答えたという。 「観察に基づくものであれ、実験に基づくものであれ、あらゆる科学研究は不完全だ。すべての科学研究は、知識の発展によってひっくり返されたり、修正されたりすることが避けられない。だからといってわれわれに、すでに持っている知識を無視し、特定の時点で要求されているように見える行動を先延ばしにする自由が与えられるわけではない」 では、ジャーナリズムはどうだっただろうか。著者は、建国の父が合衆国憲法修正第一条に報道の自由を入れたことから、その結果「公正の原則」が確立され、「同等の時間」という考え方を大切にする傾向が残ったのだと言う。つまり、意見の異なる人がいれば、「その人の言い分にも十分耳を傾けるべき」ということで、実にまっとうな考え方だと思う。 しかし、こと科学においては、異なる意見の取り扱いには慎重でなくてはならないケースがある。それは、検討がすでにし尽くされ明白な結論が出ている場合であり、今ひとつは、異なる主張をする人物が特定の業界とつながりを持っている場合があるからだ。 例えば、「タバコ業界の見解も同等に考慮すべき」という主張がまかり通ったた時、多くのメディアは、その見解に引用されている「専門家」が「実はタバコ業界とつながっていたり、イデオロギーに動機づけられ、タバコ業界から資金を提供されているシンクタンクと提携していたり、あるいは単に何でも反対する人種で、普通でない見解を提示して注目を浴びるのを楽しんでいたりする」事実を、読者や視聴者に知らせていなかったという現実がある。 これらについて著者は、ジャーナリストも、「真実であってほしくないと願う情報を受け容れたくないのだと考える以外に、うまく説明がつかない」と言う。そして、「酸性雨がたいしたことでなく、オゾンホールが存在せず、地球温暖化が問題にならない世界を望まない人間がどこにいるだろうか。このような世界は、われわれが現実に暮らしている世界よりもずっと安心できる。われわれは困難な状況に直面したとき、何もかもうまくいくと安心させてくれるものを歓迎するのだ。われわれは酔いが覚めてしまうような事実より、むしろ安心できる嘘を好む。しかし、この本に登場した人々によって否定された事実は、酔いを覚ます程度のものではない。それは掛け値なしに恐ろしい事実だった」のだと述べる。 特にタバコの害については前々から結論が出ており、業界もすでにどういう危険があるかを知っていた。にもかかわらずメディアは、「1992年から1994年までに掲載された全記事のうち62%が、研究は『論議を呼んでいる』」と締めくくり、相変わらず論争は決着していないと報じ続けたのだ。 酸性雨についても同様、10年以上も前に明らかだったにもかかわらず、「まだ原因がはっきりしていない」とか、証拠のない「酸性雨を抑制するコストの方が得られるメリットより大きいという」主張に肩入れした。また、1990年代に入っても、オゾンホールの要因は「たぶん火山だろう」と報じていたし、地球温暖化についても大きな論争の的として最近まで提示していたのである。 つまり、本書に出てくる懐疑論者たちは、「意見を述べる権利」を常に要求し、「大衆は両陣営に意見を聞く権利」があるから、メディアには、「バランスをとってそれを提示する義務がある」と主張し、「それこそが公正で民主主義的な方法」だと訴え続けた。しかし彼らはそれで何をしたかったのだろうか。著者はこう述べる。「彼らは民主主義を守ろうとしたのだろうか。そうではない。問題は自由な言論ではなく、自由市場だった」と。 科学における主張は、ピアレビュー(査読)を通過するまでは単なる主張でしかない。それを通過してはじめて科学の「知識」として受け入れられる。その点からも、彼らの主張は科学的だとは言えないのだが、「ジャーナリストは彼らの名声に欺かれてしまった」のだ。 「われわれは誰でも、頭のいい人間はどんな問題でもこなせるとつい思い込む。物理学着たちはミツバチのコロニー崩壊から、綴り字改革、世界平和の見通しに至るまで、ありとあらゆる問題について意見を求められた。そして、もちろん喫煙とガンについても。しかし、喫煙とガンについて物理学者の意見を求めるのは、空軍大尉に潜水艦の設計について意見を聞くようなものだ。多少のことは知っているかもしれない。しかし、知らないかもしれない。どちらにしても専門家ではない」 では、そのような状況で私たちに出来ることは何だろう。それは、あくまでも客観的な視点に立って確かな情報源を吟味し、できる限り正しい情報に接すること以外にないのでは、と思う。 以下各章に沿って、本書に盛られた情報の一部を紹介する。 序章は「地球温暖化」についてなので、第6章でまとめて取り上げる。 第1章はタバコの害についてである。 ドイツの科学者たちはすでに1930年代に、タバコの煙が肺ガンを引き起こすことを明らかにしていた(→ナチスは喫煙を禁止した)。1953年にはマウスの皮膚にタバコのタールを塗るとガンが発生することが実証され、1970年代後半までに喫煙による健康被害の訴訟が個人によって何件も起こされていた。 それに対し業界が採ったのは、「『タバコのせいとされている慢性変性疾患(肺ガン、肺気腫、心血管障害など)の原因や進行の機序(メカニズム)』について、タバコ以外のものに焦点を合わせた研究を取り上げて論じる」ことであった。 こうした目くらまし的なやり方は他にも応用された。日本でも公害事件で企業側の主張に使われたことを私たちは知っている。 1954年当時、業界は次のような疑問点を並べた。 実験ではタバコのタールを塗ったマウスに皮膚ガンができたが、タバコの煙の充満した部屋に入れたマウスは肺ガンにならなかったのはなぜか? 喫煙率に大きな差がない都市の間で、ガンの発生率に大きな違いがあるのはなぜか? 近年、女性の喫煙が増えたのに、肺ガンの増加が男性に多いのはなぜか? 喫煙が肺ガンを引き起こすのなら、唇、舌、咽頭のガンが増えていないのはなぜか? 英国の肺ガン発生率が米国の4倍も高いのはなぜか? 米国の紙巻きタバコには(英国では使われていない)被覆材料が使われているが、これがタバコの有害な効果を防いでいるか? ガンの増加のうち、単に平均寿命が伸びたことと、診断が正確になったことによる割合はどれだけあるのか?等々。 筆者は、「これらの疑問そのものはどれも間違っていないが、いずれも不誠実な問いだった。なぜなら、答えは分かっていたから」として概略次のように述べる。 都市や国によってガンの発生率が異なるのは、ガンの原因は喫煙だけではないから。 ガンには潜伏期間があって、喫煙を始めてから10年、20年、30年も経って発生するらしい。なので、女性の喫煙量が増えたのは最近なのでガンが増えるのもこれからだ(→実際にそうなった)。 正確な診断が下せるようになったこともガンが増加した理由の一部だが、全部ではない。 紙巻きタバコが大量に販売されるようになる前には肺ガンは非常に珍しい病気だった、等々。 しかし、一般にはまだ論争があるかのような印象を与えられていた。その理由の一つは、私たちが原因と結果とを単純に結びつけやすいことによる。「タバコはガンの原因」ではあるが、生命はもっと複雑だからガンにならない人もいるのは事実である。しかし科学的には「統計的に原因」と言える場合があり、それは、「タバコを吸うとずっとガンに罹りやすくなる」ということだ。例えば、「けんかの原因は嫉妬」と言っても、嫉妬が必ずけんかの原因になるわけではない。しかしそうなることは多いということ。つまり、「喫煙者のすべてが死ぬわけではないが、半数くらいは喫煙のせいで死亡する」のも事実なのだ。 もう一つの理由は、科学というのは明確なものだと考えられていることだ。つまり、「これは確実ではない」と言われれば、それだけで疑問視してしまう。しかし、研究途上の科学には常に不確実さが含まれているのは当然なのだ。なぜなら、科学は「発見のプロセス」だからである。喫煙がガンを引き起こすことを知ってはいても、その仕組はまだ十分わかっていないし、喫煙者の寿命が短いことはわかっていても、特定の喫煙者の死に喫煙がどれだけ寄与したかについて確信をもって述べることは難しい。 科学にとって懐疑は重要だが、不確実な部分をあえて取り出してすべてが未解決だという印象を作り出すのは詐術である。タバコ業界のある幹部が1969年に、「疑念がわれわれの売る商品だ」と書いた悪名高いメモがあるという。 第2章の戦略防衛構想(SDI)と言うのは、当時のソ連に対するためのものであった。それは、「ソ連は・・・・かもしれない」「ソ連は・・・・らしい」というのではなく、「ソ連は・・・・である」とされた。 冷戦の最中、ソ連が対潜戦システムに膨大な金額を費やした証拠が見つかり、それは音響に頼らないシステムの開発と考えられたが、それを配備した形跡はなかった。とすると、論理的には未だ開発途上か、あるいは開発したシステムがうまく機能しなかった可能性が高いと考えられるけれども、当時の対ソ連検討部会はどのような結論を出したか。それは、ソ連は「機能する非音響システムを実際に(秘匿)配備しており、今後数年間でさらに多くを配備するということかもしれない」というものだった。自らの都合に合わせたまさに結論ありきの解釈、「特定の能力を達成していない徴候を、実は達成した証拠である」とみなしたのだ。これほど極端ではなくても、こうしたことはうっかりすると私たちの日常でも見られないとは言えない。十分気をつけなければならないと思う。 第3章の酸性雨。すでに19世紀から人間活動によるものと知られていたのを、あえて自然活動、それも火山の噴火に原因があると主張した。しかし、この主張は、硫黄の同位体が地元で採掘されるニッケル鉱石の中の硫黄と同一のものであることが明らかにされ、誤りであることが証明される。 「スウェーデンでの研究は、降水の酸性化によって森林の生長が減少していることを示唆していた」し、「米国でもほかの場所の研究でも、植物の生長、葉組織の発育、花粉発芽が酸性化によって損なわれていることが記録され」、「スウェーデン、カナダ、ノルウェーでは、湖と河川の酸性化と魚の大量死増加との間に相関があった」。 酸性雨と同様、地球温暖化、オゾンホールの研究などについて著者は次のように言う。これらの研究は、「被害が察知される前に予測することが含まれる。人々が被害をチェックする動機づけになるのは予測だ。研究目的の一部は予測を検証することであり、また一部は、手遅れにならないうちに行動を起こすきっかけを作ることだ」と。 第4章はオゾンホール。大気中にただようクロロフルオロカーボン(CFC、フロン)が大気循環によって成層圏に移動し、そこで紫外線によって分解して最終的にフッ素化合物と塩素化合物となり、それらの化合物のいくつかはオゾンの除去物資であることが知られてきた。問題は大量のフロンが、スプレー缶、エアコン、冷蔵庫などに使われていることだった。 ここでも業界は抵抗をし、オゾン層の破壊を、ほとんど科学的証拠のない「脅し」であって「人間の活動はわずかなものだから大気に影響を与えることはない」という証言を学者から引き出した。それが効力を失うと、今度は、火山が原因だという説を唱えるようになった。それは、大規模な噴火によってマグマに含まれる塩素は成層圏にまで吹き上げられたはずなのに、オゾン層がまだ破壊されていないとすれば、塩素は重大な問題ではあり得ないというものだった。この主張はアラスカの火山の観察によって退けられた。 さらに抵抗は続く。業界は、「フルオロカーボンが成層圏に到達する証拠はない」「分解して塩素ができる証拠はない」「たとえ塩素ができても、オゾンを破壊する証拠はない」と言ったが、一酸化塩素(CIO)の存在が証明されたことで、オゾン層が破壊されていることが明らかとなった。(→本書にはその仕組みが書かれている) 第5章は二次喫煙、いわゆる副流煙の問題である。アメリカの保健社会福祉省は、「リスクがない二次喫煙のレベルというものは存在しない。わずかな量であっても・・・人々の健康を損なうおそれがある」と述べている。くすぶっているタバコの方が燃焼温度が低く、有害成分がよけいに生じるためだ。タバコ業界は1970年代にはすでにそのことを知っていた。そこでなにをしたか。 「彼らはフィルターを改良し、紙巻きタバコの紙を変え、もっと高い温度で燃えるような成分を加えて、副流煙を比較的害の少ないものにしようとした。彼らはまた、危険の少ない副流煙というより単に見えにくい副流煙を出すタバコを作ろうと試みた」のである。 この章では、業界寄りの人物や組織を通じて「環境保護庁(EPA)」を貶め、副流煙に関する規制を止めさせようとしたこと、自然の危険に関する議論に使われるべき閾値の考え方を人為的な危険の擁護に使うなど、あらゆる手段を使って副流煙の擁護を行ってきたことが明らかにされる。 手段を選ばずの擁護にもかかわらず副流煙の排除が社会的に受け入れられたのは、それによって子どもたちの気管支炎、肺炎、ぜんそくのリスクが高まり、またそれが自然によるリスクではない上に同意なしに他人に押しつけるものであると言う事実だった。 第6章および序章は地球温暖化である。 本書で述べられている地球温暖化の原因が人為にあるという主張は、2019年12月号でとりあげた『環境問題のウソ』(池田清彦氏著)での太陽活動による自然起因説とは真っ向から対立する。2005年に出版された当著における池田氏の主張には説得力が感じられたが、それから15年を経た現在、さまざまな現象を検証する科学の知識を踏まえると、人間活動によって温暖化が進み、地球環境が一層深刻化し、近未来に想定される危機的状況は否定できないと思う。 本書ではまず20年以上にわたる調査の結果から、自然の気候変動によるものと温室効果ガス[二酸化炭素、メタン、フロン等]によるものとでは温暖化のパターンが異なることが示される。調査の結果は温室効果ガスが原因の場合に予想されるパターンと一致していた。 重要なのは対流圏と成層圏という大気の分布である。物理学の知識によれば、「もし温暖化の原因が太陽にあるのなら、熱は地球の外からくるため、対流圏と成層圏の両方とも温かくなるはず」であり、一方、「大部分が大気の低いところに留まる温室効果ガスに温暖化の原因がある場合は、対流圏は温かくなるが、成層圏は冷たいはず」なのだ。 事実は、対流圏は温かくなり成層圏は冷えている。これは言い換えれば、大気全体としての構造が変化していると言うことだ。「このような結果は、太陽が原因だと考えるとうまく説明できない。これは大気に生じている変化の原因が自然なものではないことを示している」。 この温暖化を論ずる時に注意すべき点がある。それは「ヒート・シンク(吸収源)」と言って自然から要素を奪うプロセスを表す。海洋と大気との関係で言えば、大気の熱が海洋に吸収されるため、「海水が大気の温暖化を数十年遅らせるのに十分なだけ混ぜ合わされている」ことが入手可能なデータからわかっている。 ということは、温暖化の影響が目に見え、感じられるほどになるには数十年かかることになり、それによってきわめて深刻な結果がもたらされる。なぜなら、「実際には温暖化が進んでいるにもかかわらず、そのことを証明できないかもしれない」し、証明可能になった時にはすでに手遅れだからだ。 1988年には、ゴダード宇宙科学研究所(GISS)の所長で気候モデルの研究者でもあるジェイムス・E・ハンセンが、データを示して、「人間活動に由来する地球温暖化はもう始まっている」と発表した。ところが懐疑論者たちは、そのデータの一部を恣意的に使って原因は太陽だと主張した。 それは、太陽の黒点と木の年輪から得られた炭素14を引き合いに出して、「太陽は19世紀にエネルギーを多く放出する時期に入っており、この太陽エネルギーの増加(約0.3%増加)が現在の温暖化の原因になっている」「データ200年の周期を示しているため、温暖化の傾向はほぼ終わりにさしかかっており、まもなく寒冷化に向かうだろう」というものだった。 1940年から1975年にかけては寒冷化したのは事実だが、それは、データの一部と6つのグラフのうち1つだけを使い、あたかも太陽だけが影響しているように見せかけたものだった。20世紀半ばには太陽の放出エネルギーは増加していないので、1970年代半ばからの温暖化を説明できるのは二酸化炭素だけなのだ。 もし、「化石燃料を何の規制もなく使い続ければ「21世紀中の地球の平均気温の上昇率は10年あたり約0.3℃になる。これは過去1万年の上昇率よりも大きい」のである。これはこれまで人類が経験したことのない変化を生み出すことになる。 第7章。ここで取り上げられたレイチェル・カーソンに対する否定の数々は、「いちゃもん」そのものに聞こえる。タバコを擁護し地球温暖化の要因を疑った人物が、今度は、「レイチェルは間違っていた」「世界中で何百万もの人々がマラリアで苦しみ、しばしば命を落としている」と主張する。のみならず、「これまでに病気予防のために合成された中で、おそらく最も貴重な化学物質であるDDT」が、「カーソンに影響されたヒステリーによって、その必要もないのに禁止された」とまで言っている。 DDTを始めとする殺虫剤の危険性についてはすでに広く知られていることなのでここでは省略するが、マラリアの根絶が部分的にしか成功しなかった最も大きな理由は耐性の獲得であって、その原因の一部は農業での過剰使用によるものであった。また、DDTの禁止が何百万人ものマラリアによる死をもたらしたという主張には十分な証拠はなく、それに反して、DDTの禁止によって、「人間に対する、そしてこの惑星をわれわれと共有しているさまざまな種に対する多大な被害が回避されたことを示す科学的証拠はたくさんある」のである。 本章ではこのあと、自由市場資本主義の弱点を認めること、負の外部性、市場の失敗を論じている。そして最後にこう述べる。「最近になって科学は、現代の産業文明が持続可能でないことを明らかにした」と。 繰り返すが、興味を覚えられたらぜひ通読されることをお勧めしたい。私たちが抱える課題に対する見方を深める糧になると思う。本書を読んで、いかにある主張を正確に見ることが難しいか、そして重要なことかを痛感させられた。(雅) |
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