輪廻転生は原始仏教の最重要テーマですが、その是非を科学的に証明することは難しく、事実をありのままに観るヴィパッサナー瞑想の根幹にも関わってきます。ブッダの悟りとは、果てしなく繰り返される輪廻転生から解脱することであり、ヴィパッサナー瞑想はその唯一の方法論として提示されたものでした。(大念住経)
死後の世界や輪廻が存在しなければ、原始仏教もヴィパッサナー瞑想も根柢から崩れ去ってしまうので、「人生を輝かせる死」に直結するこの問題を考えてみましょう。
*死ぬ瞬間から、死後の世界へ・・
死後の世界や輪廻転生などまったく信じていなかったロスが、なぜ実在することを確信するようになったのでしょうか。当時の医学界では、命を救うことしか教えられていない医者の側に、死にゆく者の苦しみを救おうとする発想もノウハウもありませんでした。死が定まった患者は、医者から真実を告げられずに死の恐怖と絶望に苦しみながら見捨てられたも同然だったのです。
苦しむ人を救わずにはいられないロスは、現実をありのままに観察するリアリストでもありました。死が迫った患者に寄り添い、その声に耳を傾け、思いやりと慰めの言葉をかけ、やがてそれは「死の受容の5段階モデル」に結実します。
「カルナー(悲)」の精神がロスを死にゆく患者に寄り添わせ、事実をありのままに観るリアリストの精神が膨大な死の事例を集積させ、科学する精神が個別性・具体性の中に一貫する法則性を抽出したと言うこともできるでしょう。
こうした業績によって、ロスは終末期医療を確立した死の看取りの達人として名を残すこともできたでしょう。しかし宿命に導かれるように、ロスは死んだ後の世界の真実を極める方向に歩を進めます。
*開かれた霊能
きっかけは、ロス自身に霊視する能力が開けてきたからでした。
ある日、エレベーターの前で同僚の牧師に語りかけた瞬間、10ヶ月前に亡くなったS夫人が現れ、ロスは凍りつきます。牧師には見えないのに、ロスには半透明のS夫人の姿が見えたのです。霊的存在なのか、幻覚なのか、「S夫人」はロスの研究室のドアを自分の手で開けると、病院を辞めないで死のセミナーを続けてほしいと懇願します。
精神科医のロスは、ヴィパッサナー瞑想者と同じ方法で幻覚なのか現実なのかを確認します。瞑想中に集中が高まって、ニミッタと呼ばれるさまざまなヴィジョンが見えることがあります。そんな時の対策は、意識的に外界の音を聞いたり、目を開いて「見た」とサティを入れて現実感覚を取り戻すことです。
同じようにロスも、机や椅子などに触れて現実であることを確認します。さらに、「S夫人」の肌が冷たいのか温かいのか触ってみたり、科学的証拠として、紙とペンを渡して伝言を書き残すように言いました。すると、S夫人は微笑みながら紙を取り、ペンを走らせ「これでご満足いただけましたか?・・・ロス先生、(セミナーの継続は)約束ですよ」と念を押し、「分かったわ、約束する」とロスが答えると消えていったのです。
*霊的存在の証拠
こうしてロスは、科学の検証が難しい霊的な世界に足を踏み入れていきますが、物理的な現実を優先する科学者としての姿勢は一貫しています。S夫人の手書きメモは物的証拠として残り、別のケースでは霊的存在の写真を撮影したこともありました。
「もし(ロスの)守護霊がいるなら、次の写真に姿を現して・・・」と念じてシャッターを切ると、背が高く筋肉質で、ストイックな顔をした先住民の男が腕を組み、真っすぐにカメラを見つめている姿が撮影されていました。やはり本当なんだ、とロスは狂喜し、この写真はロスの宝物になりました。しかし後年、ロスの自宅が放火らしき原因で全焼した際にあらゆる研究資料と共にこの写真も灰燼に帰してしまいます。
合成写真もフェイク動画も巧妙に捏造できる現代では、物的証拠も疑わなくてはなりません。まして本人の証言しか証拠がない場合には、その人格や人間性や正直さを信頼するしかありません。ロスのように信頼に足る人格だからこそ、彼女の言葉を基にして考察を続けることができるのです。
*輪廻転生はあるのか?
ロスの意志とは関係なく、突然襲いかかった霊的体験によって、ロスの人生の流れは変わります。スピリチュアルな世界に傾倒したことで、愛する夫も名声も研究の拠点だった自宅も失っていきますが、真実を追求する精神が何よりも勝っていました。
どのような事象にも生起してくる原因があり、変化するのも滅していくのも、いかんともしがたい必然の力によって、そうなるべくしてなっていくのです。自由意志で新たな方向を選ぶことも多少はできますが、どんな人も過去に組み込んだ業の集積エネルギーが押しやる力に逆らうことはできないのです。
この世に誕生した瞬間の健康も、美醜も、貧富も、賢愚も、親の愛も虐待も、あまりにも違い過ぎる千差万別は、当人が過去世に組み込んだ業の結果であり、仏教ではこれを「宿業」と言います。過去世が存在するからこその宿業であり、輪廻転生が大前提になっているのは言うまでもありません。
仏教では、全ての生きとし生けるものは死後、六つの領域のどこかに転生するのを繰り返しており「六道輪廻」と呼ばれています。原始仏教の悟りとは、この果てしない輪廻の流れから解脱することなので、もし輪廻が否定され、過去世も宿業も存在しないことになれば、仏教は成り立たなくなります。輪廻を惹き起こすカルマも因果論も崩れ、輪廻が妄想なら、その輪廻からの解脱も寝言・戯言になるでしょう。妄想を離れよ、物事をあるがままに観よ、と悟りの修行システムを説いたブッダ自身が、実在しない輪廻の妄想に捉われていた馬鹿者だったことになり、そんなブッダを信じて修行してきた私たちは大馬鹿者ということになり、全てが総崩れになってしまいます。
果たして、輪廻転生はあるのか、死んだらどうなるのか、死後の真実はどうなのかを考えていきましょう。
*霊的存在の検証
10ヶ月前に亡くなったS夫人は、どこかに転生し霊的存在としてロスの前に現れたのでしょうか。ドアを開けたり紙に字を書き残したからには、S夫人はニュートリノなどの素粒子よりは粗大な物質で構成された生類なのでしょう。写真フィルムに姿が撮影されたロスの「守護霊」も、光を反射して感光させるだけの微細な物質が存在していた証しと言えるかもしれません。少なくともロスの妄想や勘違いではなく、現実の外界に何ものかがいたようです。
通常これは「幽霊」と呼ばれ、命の流れが死後に引き継がれたスピリチュアルな存在ということになりますが、仏教では死後の輪廻転生は6つの領域に分類されています。下から、地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・天(神霊)の六道輪廻です。動物と人間以外の生類はほとんどの人には知覚されないし、幽霊を視認できる人も少ないでしょう。
人間のセンサーで知覚できるのは、音なら20ヘルツ~20,000ヘルツが可聴範囲なので、犬笛もコウモリやイルカの超音波も人間には認識されず「存在しない」のと同じです。また、人間が知覚できる視覚は赤外線と紫外線の間に限定され、昆虫には見える4番目の原色も人間には見えず、三原色しか存在しないことになります。知覚できなければ、存在しないことになり、無いものとして扱われるのが通例です。
科学は、誰が検証しても同じ結果が確認されるので法則性として成立するものです。稀に、五感のセンサーが突出して敏感な「超感覚的知覚」(ESP)や神通力の持主がいて、ブッダやモッガラーナ(目連)がその達人だったと伝えられていますが、常人とは共有されないので科学の対象にはなりません。
「霊視」など霊的存在の知覚も特殊ケースなので、自然科学を拠りどころにした立場からは幻覚と見なされがちです。現に、統合失調症患者の語る幻覚と霊能者が語る霊的世界は、物的証拠や客観証拠が出しづらく識別が難しいでしょう。S夫人を霊視したロスの最初の反応は、自分も幻覚を見る患者の側になってしまったかという疑念でした。
万人の共通感覚と厳密な物的証拠で客観性を保証する科学の精神は、事実無根の宗教的妄想で苦しむ暗黒時代から人類を解放してきました。しかし物質のレベルに還元されないものは、存在していても無いことにされてしまう危うさもはらんでいます。
大気圏外のハッブル宇宙望遠鏡や電子顕微鏡などで知覚が増幅され、物的証拠が得られた結果、宇宙の膨張もダークマターも細菌やウイルスの存在を実証したのは科学の手柄です。しかしカミオカンデで観測されるまでは、ニュートリノも幽霊粒子扱いされていたのです。
万人の五感で共有できる証拠が示せなければ否定されるのが科学ですが、新たな検証方法で実証された途端に、声高に否定していた人が肯定し始める変わり身の早さも科学の世界では当たり前です。真理と信じられていたものが誤解や勘違いだったと修正され、書き換えられていくのが科学の歴史です。
*死後の六道
ロスが視認したS夫人はどこから来たのか考えてみましょう。
死んだ後に再生する世界に関しては、インドのヒンドゥー教全般、仏教、古代ギリシャ思想、正統派ユダヤ教、北米ネイティブアメリカン、神智学などにさまざまな考え方があります。キリスト教とイスラム教が死後の輪廻転生を否定する立場ですが、永遠の天国や地獄に一度は再生する考えです。仏教の最上層の天界に住する梵天は、その寿命のあまりの長さに永遠と錯覚してしまうとも言われます。極楽浄土を永遠と誤解するのも、タイムスケールの巨大さ故にでしょう。
ともあれ、古代の人類の多くが世界各地で信じていたのは、死後の世界が存在する肯定論でした。考えてみれば、自然の生態系をありのままに観察すると、あらゆる生命が必ず死んで土に還り新たな命が育まれ、餌食にされた命は捕食者やその幼獣に受け継がれていきます。生命現象も存在の世界も、エネルギーが不滅に循環しているのが見て取れるのですから、多くの民族が輪廻思想を抱いたのも理にかなっているように思われます。
死後の世界構造を説明する各民族の神話には、幼稚な空想の域を出ないものもありますが、仏教の六道輪廻を簡単に見てみましょう。S夫人の幽霊が死後、何ものかに転生したスピリチュアルな存在としてロスの前に現れたのだとすれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六層構造の領域のどこかです。
六道の最下層、地獄は間断なき苦痛に満ちた世界なので、絶叫する以外には瞑想したりこの世にアクセスする余裕はないでしょう。餓鬼は激しい飢餓状態に苦しみ続ける世界ですが、ピンからキリまで多層構造に棲み分けられています。人の祈りや回向を受け取ることができるのは上層部の餓鬼(ペータ)に限られますが、この餓鬼道の霊が地上の人間と最も頻繁に交渉していると言われます。修羅は闘争系の生類が分布し、天界は徳の高い方々が集積した善業の力で再生していく領域ですが、業が尽きれば他の世界に転生しなければならないと言われます。天界も大きく三層構造に分かれ、上層の無色界天や中間層の色界天はサマーディを完成した神々、下層の欲界天は眼耳鼻舌身の五感の情報を楽しむ世界と言われます。
なぜ六層なのかという疑問が浮かぶかもしれません。私が妄想するに、階層構造は分類の問題であり、要は、同じ波動のものが共振する法則は物理も心理も変わらないだろうということです。暴力や怒りの破壊的傾向も(地獄)、貪る傾向も(餓鬼)、慈愛や利他的傾向も(天界)、類は友を呼び、同質で同類の波動が惹かれ合い響き合って棲息する領域を、仏教では六種類に大別したのではないか。
この世でもあの世でも、自分と同じ波動の者が自然に群れ集うのです。指名手配された凶悪犯罪者たちも、新興宗教の青年部の信者の集団も、競馬場から一斉に帰途につく群衆も、みな同じ顔をしているでしょう。同じ考えや同じ欲望や望みの同じ心の者たちは、顔も似てくるし、死ねば、自分とそっくりの人が群れている所へ再生すると考えればよいのではないか。そうか、俺と同じなら、みんな凄えヤツらだ、と全員が自己陶酔している群れに行く人もいるでしょう。(笑)
*ブッダが語ったのは・・
後世に創作された大乗経典とは異なり、最古層の「スッタニパータ」は確実にブッダが語った言葉と学問的にも認められていますが、その中には神霊も登場するし、生々しい地獄の描写も出てきます。同様の「サンユッタ・ニカーヤ」は「神々との対話」と邦訳されています。ブッダが悟りを開く前から涅槃に入る直前まで干渉したマーラという悪魔は、欲界天に帰属するとも言われ「サンユッタ・ニカーヤ」の後半は「悪魔との対話」と訳されています。
もし輪廻も地獄も神霊も存在しなかったら、こうした経典を残したブッダはハリーポッターのような空想力豊かなファンタジーの語り部だったことになり、そのブッダの瞑想に命を懸けてきた私はお伽噺の妄想を信じたオタンコナスということになるでしょう。
死後の生も輪廻も存在しないとすれば、誰もが絶命した瞬間、全員おしなべて存在の流れが絶え果てた涅槃と同じ状態になるはずです。解脱した聖者も悪の限りを尽くした犯罪者も、煩悩の人生も修行に命を懸けた人生も、キリストもヒットラーも、肉体の死と同時に完全に同じ状態になるという訳です。
現代の認知科学も凌駕するヴィパッサナー瞑想の緻密なシステムを提示したブッダが、在りもしない死後の輪廻についてデタラメな空想世界を喋りまくっていたとは到底考えられないのです。しかしブッダの言葉を信じて仰ぎ奉れば、「私の言葉を信じるな、自らのこの眼、この手で検証せよ」と説いた教えに反するでしょう。ブッダが言うのだから多分そうなのだろう、と有力仮説の一つに止めておくしかありません。
*アラン・サリバンの体外離脱
ともあれ、死んだS夫人がロスの前に現れたのです。S夫人の死亡は確定しており、物的証拠のメモを残したり、意味のある会話がロスとの間になされているので、S夫人のアイデンティティ(自己同一性)を保った何らかの意識体が肉体の死後に存続していると考えられます。ドアを開けたり、ロスの網膜に視覚像を結ばせるS夫人の微細身は、臨死体験で体外離脱する幽体と同じものだろうかという疑問も浮かびます。
幽霊は言うに及ばず、体外離脱も脳内幻覚に過ぎないと否定する医者や科学者が多いのですが、「プルーフ・オブ・ヘブン」の著者エベン・アレグザンダーのように高名な脳外科医自身が激烈な臨死体験に襲われて以来、意識現象は脳に限定されたものではなく、肉体の死後も意識が存在し続けると確信するようになった人もいます。
幽霊も体外離脱する幽体も妄想だとする脳内幻覚説を一蹴する鮮やかな事例があるので、立花隆「臨死体験」から紹介しましょう。
心筋梗塞で臨死体験をしたアランという運送業の男性が、麻酔で昏睡状態だった自分の様子を上空から眺めて正確に描写し、その全てが事実と符合していたことが執刀医や同僚によって証言されています。懐疑派の立花がアラン本人と執刀医に直接取材しているので、この事例は脳内幻覚説を強く退ける証拠能力が高いものです。
アランは手術を受けた経験も手術室に関する知識も皆無で、手術室に搬送されるや直ちに麻酔をかけられたので、その場で観察することも不可能でした。しかるに意識不明のアランが、執刀医や副主の医師、看護婦の正確な位置関係、服装、白い帽子、特殊なブーツなどを正確に描写し、全てその通りでした。
さらに体外離脱したアランが上から見ると、自分の両目が変なもので覆われていたので、この検証の時に執刀医に訊ねると、誤って目を傷つけないように卵形のアイパッチをテープで固定したものでした。これで、麻酔が途中で弱くなり、意識を取り戻して辺りの様子を目視した可能性はなくなりました。
その他、手に細菌が付着しないように執刀医が肘で指示するゼスチャー、黒い特殊な拡大鏡、ライトの位置、巨大な人工心肺装置、血が大量に流れていると思いきやほとんど流れていなかったこと、取り出された心臓が白っぽい紫色で血の気がなかったことなど、聴覚や他の感覚器官から得た情報を脳内でまとめたイメージとは考えられない証拠が次々と上げられます。
この事例の明白さには、私も驚きました。麻酔による昏睡状態では意識不明なのだから、こうした見聞が成り立つはずはないのです。脳神経細胞の電気的やり取りから意識が生まれ、その脳細胞が死ねば、意識も絶滅する。心が絶え果てるのだから、死後の再生などあり得ない、という輪廻転生の否定論は大きく崩れるのです。
幽体かエネルギー体かはさておき、体外離脱している何かが実在することは疑いを容れません。問題は、この意識体がそのまま輪廻するのか、S夫人の微細身と同じ材質なのかです。体外離脱した意識体が、この世の手術室を正確に目視していることは、このような物的証拠で証明できます。しかし、体外離脱してあの世を垣間見てきた報告事例は膨大に存在するものの、物的証拠で立証することは難しいのです。果たして、あの世は存在するのか・・。
*死後の世界か
アランが体外離脱した事実、手術室を物理的に見ていた事実は実証されたと言ってよいでしょう。エベン・アレグザンダーの主張するように、意識現象は脳に限定されず、脳や肉体が死滅しても存続する可能性は極めて高くなります。
この鮮やかなアランの事例の後半を見てみましょう。手術台の上で切り裂かれている自分を眺めているのに飽きたアランは、さらにトリップして闇の中に入っていったのです。すると死神のような気配が感じられ、『こっちへ来い』と執拗に言うのを退け、やがて明るく光り輝く場所に出ました。
そこは全く次元の違う世界で、愛と安らぎに満ち溢れ、光とエネルギーが渦巻き、美しい音が鳴り響いていました。アランはそこで7歳の時に死に別れた母と会い、言葉を介さずに気持ちや考えを伝え合い、アランのどんな疑問にも直ちに答えが与えられ、知らないものはなくなったというのです。さらに3年前に亡くなった義兄にも会い、後半の見聞は手術室から一転、あの世に再生していた死者との遭遇を報告したものです。
この別次元の世界に関する物的証拠はないので、アランの主観的体験談を信じるか否かです。しかし、体外離脱したアランの手術室の描写は現実のものだが、こちらの別次元世界の描写は幻覚で、寝言戯言だと言い張るのは難しいでしょう。手術室をあれほど正確に見ていたアランなら、この異界での体験も現実の知覚だったと解釈するのが妥当ではないかと思われます。
*科学的反証
臨死体験や体外離脱を否定する科学的根拠は、脳幹幻覚説も再起動説も精神病理も快感ホルモン分泌も、エベン・アレグザンダーやラウニ・キルデなど実際に臨死体験をした一流の科学者に退けられています。それでも脳内幻覚説に与する科学者が強調するのは、臨死体験者の経験の多くはそれに対応する脳領域が特定されており、その領域を電気刺激したりすると臨死体験と同じような現象が再現できるというものです。
さまざまな試みがなされていますが、臨死体験を惹き起こしている脳領域がいくら見つかっても反証にはならないのです。例えば、体外離脱は大脳のシルヴィウス溝が司っていることが、カナダのペンフィールドによって何十年も前に見出されています。シルヴィウス溝に電気刺激を与えれば、体外離脱が錯覚として経験される。だから幽体離脱など幻覚に過ぎない、と否定しているのですが、それは変でしょう。
人の顔を認識する脳神経細胞も、ピーマンや唇を認識する脳細胞も特定されており、顔認識細胞が損傷すれば人の顔が見分けられなくなります。ピーマンを認識する神経細胞に電気刺激を与えれば、ピーマンの視覚像が出現します。
当たり前のことです。ピーマンを認識する神経細胞が遂に見つかったぞ!ピーマン細胞がちゃんと存在するのだから、畑でピーマンを見たなどと言っている人は脳内現象を現実と錯覚しているに過ぎないのだ!
「世界中でピーマンが実在するなどと言っている人達がおりますが、体外離脱が幻覚に過ぎないように、ピーマンも脳内幻覚を現実体験と見誤っているのだ、と脳科学の立場からは言わなければなりません」などとコメントするのでしょうか。
ピーマンを見ることは日常茶飯事であり、あまりにも頻繁に認識するのでピーマンを認識する神経細胞が割り当てられたのではないでしょうか。ピーマンが厳然と存在するから、ピーマンを認識する脳細胞が必要になってきたのです。ピーマンを認識する神経細胞を見つけて批判するのは滑稽でしかありません。
死に瀕した時には誰もが体外離脱を体験し、この世からあの世への移行を納得し了解しながら死んでいかなければならない。だから、人類700万年の歴史のなかで、シルヴィウス溝のような専属の領域を搭載する必要に駆られ、必然の力で生み出された順番ではないか、と私は推測というか妄想しております。
それとも、突然変異か何かである時シルヴィウス溝が偶然作られてしまい、それ以降多くの人が体外離脱体験をするようになったのでしょうか。死後の世界なんか存在しないのに、たまたま出来てしまったシルヴィウス溝を使ってみんながよく遊ぶようになったので、退化させることも廃用性委縮も起こさず今に至るまで多大なエネルギーを使いながらシルヴィウス溝を温存させてきたのでしょうか。脳は、そんな無駄なことをやっている暇などありません。不要なものはサッサと刈り込まれ、捨てられていくのです。
臨死体験に相当する脳機能が発見されたということは、メカニズムの解明に寄与した功績があるだけで、臨死体験を否定する科学的根拠になどなり得ないということです。
*なぜ心が変わるのか
臨死体験で光明世界を見てきた人達はおしなべて人格が変容しています。この世的な欲望が少なくなる傾向が顕著で、物質的・経済的欲望も名誉欲も他人の思惑を気にすることも少なくなります。
それに替わって、人を助けたい、人世のためになりたい、他人を理解し受け容れて上げたい、など利他的精神や寛容な心が増大しています。全ては一つであるという全一感や、高次の意識を得たいという欲求が強くなるのも特徴的です。
なぜでしょうか。光明世界に入った臨死体験者の多くが、超越的な光の存在に受け容れられ、絶対的に許され、愛されているという強い実感を感じていることが一因でしょう。
身勝手なエゴイストの生き方をしていた米国のハワード・ストームの臨死体験でも、光に包まれて浮き上がり上昇しながら、力と愛に心が満たされるのを感じると、それまでの生き方が恥ずかしくなり慙愧の念に堪えられなくなります。そして光の存在が量りしれない愛情で自分を受け入れてくれていることが実感されると号泣が止まらなくなります。以来、ハワードの生き方は一変し、聖者のような人間になってしまい、ブレることがないのです。
「この命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受け入れられ、許され、完全に愛しぬかれている。これが愛の極致なのだ」と表現した鈴木秀子やエベン・アレグザンダーを始め、あまりにも多くの臨死体験者が同じ愛と赦しと受容の体験をして、その後の生き方に強烈な影響が及んでいます。
人の心が根柢から変わるのは滅多に起きることではなく、変わっても、時間が経てばゼンマイが巻き戻されるように凡夫に逆戻りしてしまうものです。
なぜ、臨死体験者達はブレないのでしょうか。彼らの心の変容が本物だったからではないか。真正の体験だけが、人の心を根底から変えるのです。この点に、私は、臨死体験が脳内幻覚ではない根拠を見出します。
幻覚が人の心を永久に変えることはないと断言できるでしょう。覚醒剤によるハイテンションも、感動的な小説や映画も、もの凄い明晰夢も、知的納得感も、概念やイメージによる脳内現象は一時的な昂揚をもたらしますが、人の心を根底から変える力はないのです。真の悟り体験に後戻りはないが、サマーディの力で悟りの似非体験をした瞑想者は、やがて化けの皮が剥がれて凡夫に戻った自分に愕然とするのです。
*地獄篇
臨死体験者が報告する光のトンネルや光り輝く光明世界は天国を予見しているのでしょうか。臨死体験が転生予定地の下見だとすると、こんなに簡単に誰でも天界に行けるのかという疑問が浮かびます。仏教の六道輪廻によれば、天界は聖者の如く徳を積んだ稀有な人が赴く領域のはずです。
調べてみると果たして、臨死体験の地獄篇も数多く見出されます。こちらは震え上がるような怖ろしい世界で、絶対に行きたくないと誰もが思うでしょう。死後、人間から人間に再生することは極めて稀だとブッダは言明しています。ほとんどの人は煩悩に耽り、五戒を破って悪業を重ねているのですから、欲のタイプは餓鬼の世界へ、怒りと悪のタイプは地獄へ、武闘派は修羅の世界へ、愚かなタイプは畜生界へ再生することになります。光明世界への再生は少なく、地獄や餓鬼の世界への再生がはるかに多いと覚悟しておくべきでしょう。
臨死体験は飽くまでも死に瀕した体験であり、死そのものではありません。真の転生が未完だからこそ、この世に帰還できるのでしょう。死後の世界に真に再生してしまった人は戻って来られないし、巻き戻せる無常はないのです。
*死近心
死の本番では厳然たる再生のメカニズムが働くので、死に方を心得ておかなければなりません。生前どれほどの悪をなそうが、徳を積もうが、「死近心」が次の再生を決定すると原始仏教では説かれています。死ぬ瞬間の心を「死心」と言い、その直前に、今世で業を作る最後の心が生滅します。これを「死近心」と言い、その内容が怒りなら地獄、貪りなら餓鬼、というように善心か不善心かによって次に再生する世界が決まるといわれています。
善行を重ね、徳を積むだけでは間に合わないのです。死ぬ瞬間にもよく気をつけて、仏を憶念し、不善心所モードで死んで地獄や餓鬼など悪趣に堕ちないように心がけなければなりません。死ぬ瞬間までサティを入れる覚悟で日々の修行に取り組めるでしょうか。
*ロスの死に方
苦しむ人に救いと癒しをもたらす生涯だったキューブラー・ロスも、仏教の死と再生のメカニズムからは、天界への片道切符を持っている訳ではないのです。怒りが強く反抗的だったロスの「死近心」が嫌悪や怒りだったら悪趣に堕ちるしかありません。果たして、ロスはどんな死に方だったのでしょうか。
脳卒中になり神を呪ったロスでしたが、晩年、最愛の孫を可愛がり、娘のバーバラはそんな母を見て幸せに感じ、息子のケネスは最後の10年間を、子供の頃にできなかった母との触れ合いを埋め合わせる時間だったと語ります。
やがて最期の時が近づき、「旅立ちの準備はできた?」と友人が訊ね、「まだよ」とロスが答えます。
「どうやって、行く準備ができたとわかるの?」
この問いに対するロスの答えに、私は感動しました。
「旅立とうという準備ができた時には、頭の先からつま先まで体中で、全身でわかるわ」
こんな名答は、1万人以上の死者を看取ったキューブラー・ロスにしかできないでしょう。
やがて、駆けつけた娘のバーバラが「私たちここにいるのよ」と言い、母の背中を息子が抱き、娘が手を握り、親子は3人で環のようにつながりました。
後日、バーバラが述懐します。
「あれ以上うまくはできないという看取りでした。それは、母がいちばん望んでいた理想の死に方でした」
ロスの死近心は、間違いなく最高の善心所だったように思われます。
あれほど人のために生涯を捧げきったロスには、どうしても天界に再生してもらいたいと思わずにはいられません。
解脱するまでには、まだハードルをいくつも越えなければならないのは確かですが、死の真実について、彼女ほど私たちに多くを教えてくれた人はいないでしょう。
2004年8月4日、ロスは78年の生涯を閉じ、輪廻していきました。
「死を怖れることはないのだ。死とは別の存在への誕生であり、死は事実上、存在しない」と、ロスはいまだに私たちに力強く語りかけ、誰もが立ち向かわなければならない死を安らかなものにしてくれているようです。(この項続く。以下次号)
|