月刊サティ!

2020年10/11月合併号   Monthly sati!  Oct./Nov. 2020


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』 (4)
  ダンマ写真
  Web会だより:『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』 (3)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:小笠原文雄著『なんとめでたいご臨終』
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    


      

  巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』(3) 第4 
                                                             地橋秀雄
  

4 輝く命、消えゆく命・・・

*感動すること
  朝日カルチャー講座と1Day合宿の仕事が終わり、茨城の道場に帰ると、隣家の老婦人が前夜に亡くなっていました。2年間、町内の役員を一緒に担当し交流のあった方だけに、一瞬、胸を衝かれました。思わず居住まい正し、自分に残された修行人生を想い身が引き締まりました。
  何事もなく淡々と平穏無事に日常が過ぎていくと、私たちの心はいつの間にかだらけて、小人閑居して不善をなし始めるものです。煩悩が支配するこの世の流れに逆らって、ブッダの瞑想を孤独に続けていくのは容易なことではありません。
  修行がマンネリ化しモチベーションが低下した時に、励まし合い切磋琢磨できるダンマフレンド(法友)の存在は最高です。しかし欲望の足し算のために瞑想で磨きをかけている人は多くても、煩悩を引き算していく独り犀の角のように瞑想している者はどうしたらよいのでしょうか。いちばんにお勧めするのは、ダンマブックやブッダの言葉に触れて感動することです。
  くだらない妄想に巻き込まれていた低次元の意識が、瞬時に高められ、ダンマの世界に引き上げられるでしょう。ブッダの言葉には、死をテーマにしたものが数多くあります。例えば、『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳・岩波文庫の以下の言葉などは、深く心に沁みるものがあります。

  【朝には多くの人々を見かけるが、夕べには或る人々のすがたが見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝には或る人々のすがたが見られない】

  【「わたしは若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が(自分の)生命をあてにしていてよいだろうか? 若い人々でも死んで行くのだ。―男でも女でも、次から次へと】
  【或る者どもは母胎の中で滅びてしまう。或る者どもは産婦の家で死んでしまう。また或る者どもは這いまわっているうちに、或る者どもは駈け回っているうちに死んでしまう】(『感興のことば』第1章 無常) 

  現実の出来事は心に焼き付きますが、本の感動の賞味期限は2日もないのではないでしょうか。() しかし、たとえ一日でも気持ちを引き締めて瞑想ができるなら結構なことです。粛々とした気持ちで修行に取り組めるなら、採用すべきでしょう。

*死んでいく若者
  私の父親の葬儀の時、火葬場には遺体を焼く火葬炉が四つありました。父の享年は74歳でしたが、あとの三つの炉は全部十代の若者でした。炉の上に掲げられた、まだ稚なさの残る遺影を見て『歳の順ではないんだ・・・!』と、ちょっとショックを受けて火葬場の職員の方に訊いてみたのです。
  「今日はたまたまこんなに若い人が多いのですか?」
  「いや、いつもですよ」
  「そうなのですか・・、なぜそんなに多いのですか?」
  「だいたいバイクですね・・・」
  バイクの好きな若者はどうしてもスピードを出すので、交通事故で亡くなってしまう人が多いのだそうです。まさに老少不定、ブッダの言うとおり、年寄りから順に死んでいくどころか、若い健康な人が短い生涯をあっけなく閉じてしまうのだと改めて思いました。明日は我が身かもしれないのです。

*祖父の死
  二十歳の頃の私は、やがて自分も死んでいくという実感がしませんでした。不滅を錯覚させる程の生命エネルギーを持て余していたようです。しかしその年の冬に他界した祖父の死は、私にとって父性の崩壊そのものだったので深刻な衝撃を受けました。自宅の屋敷で大往生を遂げていった祖父の死の一部始終を、つぶさに目撃したことは掛けがえのないことでした。「死」というものを、若者だった私の心にこれほど強烈に焼き付けてくれた経験はありません。遺された家族が各人各様、大黒柱だった祖父の死をどのように受け止めていったかの人間模様も経験知を高めてくれました。
  死を身近に感じる時、人は真剣に生きることを考えます。人生のスタート地点に立つ若者こそ、死を知らなければならない。人生を自覚的に生き始めた青春時代こそ、必ずやって来る終末を心に焼き付けておくべきなのです。自然放置された人の命は欲しいままに貪り、怠惰に流れ、ブッダの警告を無視して放逸を重ねながらアッという間に老いさらばえてしまうからです。

*高校生のホスピス授業
  そんなまだ二十歳にもならない米国の若者達が、ホスピスの授業を通して死を学ぼうとするドキュメンタリーを観て感銘を受けたことがあります。人の命が美しく輝く絶頂期の若者が、まさに命が燃え尽きようとしている老人達の最期の日々を看取りながら、お互いに掛けがえのない時間を分かち合うのです。
  これは2014年に製作された「Beginning With The End-ホスピスに学ぶ高校生たち」(<終末から始める人生>)という番組です。ニューヨークのハーレイ・スクールでは、高校3年生のほぼ全員がホスピスの授業を受講しています。延命処置を行わず、静かに死んでいくことを選んだ人達のホスピス病棟で、米国の高校生男女が1年間、老人達のターミナルケアをしながらさまざまなことを体験を通して学んでいくのです。
  番組はソローの「森の生活」の一文から始まります。
  「私は常に目的をもって生き、人生の本質に向き合おうとしてきた。死の間際に、自分は本当の意味で生きていなかったと気づくのが嫌だからだ」
  この言葉は、授業を担当するロバート・ケイン先生の座右の銘なのです。ケイン先生の独白が続きます。
  「人生において最も大切なことを生活の中心に据える。意識的にそうすることで、人は生きることにきちんと向き合っていると確信できるのです。
  私は若い頃に多くの親しい人の死に直面しました。若い時に愛する人を喪うと、人生についてより深く考えることになります。自分に与えられている時間がどれくらいなのか知りたくなり、一瞬一瞬を大切に生きることの重要さに気づかされます。これは私の信念であり、この信念が私を教師という仕事に導いたのだと思います」

*死を分かち合う
  この講座の最初の授業は、クラスの全員がこれまでに経験した身近な人の死を語り合うことから始まります。
  「僕は途上国の出身なのでたくさんの死を見てきました。交通事故とか。でも一番の死因はエイズでした」
  「祖父は家族にとってとても大きな存在だったのに、弟が祖父のことを全く覚えていないのが悲しいです」と目を真っ赤にしながら話す女子生徒。
  「僕の住んでいるエリアでは、死は日常です。毎日人がピストルで撃たれたり、ナイフで刺されたり、襲われたりしていました」と語る黒人の生徒。
  「死んでゆく祖父に毎日会いに行ってたんです・・・」と話し出し、泣き崩れてしまった女子をフォローするように「・・多分先生は、死が私達の人生の一部だと教えたかったんだと思います。みんなが誰かの死を経験しているし、愛する人に死なれることがどんなことかを知っているんだ、と教えようとしたんだと思います」と述べた女子生徒もいる。
  生徒たちが死についてさまざまな経験を語り合う場は、それだけで何か深いものを共有し心が通じ合った感じになります。これは実際のホスピス病棟で介護の仕事を始めるにあたり、チームとして互いの絆を深めるのに欠かせない授業になっていると思いました。
  また、この場面を観ていて私が個人的に感じたのは、日本でもアメリカでも、孫たちがどれほど祖父母に可愛がられているか、それ故に自分を心から愛してくれた祖父母の死がどれほど痛切な悲しみになっているか、ということでした。人が人らしく育ち、普通に大人になっていくまでには、こうして愛を受け、死を悼み、悲しみを経験しなければならない。優しく愛されることと、それを喪う悲嘆は完全にワンセットで、通過儀礼としてそれを経験しなければ、本格的な仏教の瞑想には参入できないだろうということです。

*信頼を得る
  ホスピスの現場に入る前に教室で心構えや介護技術を学ぶのですが、歯磨きひとつ取っても明確な技術があり、生徒たちが自信を持って作業できるようスキルを習得させます。やり方がわかっていれば、患者さんの体に触る時にためらわずにすむので、実際の介護に必要なことをまず教室で学んでおきます。
  歯磨きを手伝ってあげる。ベッドで体の向きや位置を変えてあげる。手や背中のマッサージをしてあげる。靴下を履かせてあげる。トイレに行くのを手助けするなど、具体的な目的のある作業はどれも他人に触れなければならず、それには患者さんの信頼を得なければなりません。一番のテクニックは、患者さんに触る時にそっと優しく触ることなのです。絶妙の優しさで触れると、相手も自分に手を差し出し世話することを許してくれるのです。
  生徒たちはみんな最初は不安なのです。もし何か変なことを言って患者さんを傷つけ、それが最後になってしまうのが 怖いとか、もう謝る機会がないと思うと不安になる、など。しかし18歳の適応力の柔軟さには素晴らしいものがあります。自分が勤務中に誰かが死ぬのが恐怖だと言っていた男子は、間もなくこう言うようになります。
  「もう恐怖はありません。よく分からないけど、こう思えたんです。この人達はとても素敵な人達だ。彼らの残り少ない時間を僕は一緒に過ごす。いなくなったらそれで終わり。それだけだって。辛いけど、その事実と向き合うことは出来るって・・・」

*ただ居るだけ・・・
  ひとりの女子生徒が、さりげなくこんなことを言っていました。
  「最初はホスピスに来て何もしないでいると、自分がお荷物で役立たずというか、何も助けになっていないような気分になっていました。でも、今はそんな風には思いません。ただ患者さんのそばにいるだけで十分なんです。時には誰かがいるだけでいいってこともあるんです」
  このさりげない言葉は、人はなぜ生きるのか・・という問いの答えを暗示しているように思われました。
 ホスピスに限らず人生の最終章を生きる人達にとっては、ただ存在していることが生きることの全てであり、本人にとっても周囲の者にとっても、それでよいのです。
  赤ちゃん時代はただ生きているだけ、存在しているだけで立派な人生でしょう。長い人生を終えようとしている老人も、静かに存在しているだけでよいのです。本当は、青春時代も熟年時代もいつだってそうなのです。路傍に繁茂している雑草がそうであるように、生きることに意味はないのですから。
  何かの役に立つとか助けになるから価値があるというのは、功利的なエゴの立場からの物の見方に過ぎません。人間に役立てば益虫と呼び、不利益をもたらすものは害虫や害獣としてレッテルを貼っているだけです。有害な人種は、殺虫剤のようにガス室で大量殺戮してしまうのでしょうか。人類こそ環境を破壊し、無数の生物を絶滅させ、森林や野生動物の生息地を恐ろしい勢いで奪い取りながら異常増殖している地球史上最も有害な極悪生物のレッテルを貼られるべきでしょう。そんな価値やら仕分けやらは、宇宙からも、自然からも、地球の生態系からも、何の意味もないエゴ妄想のたわ言です。
  意味のない命の世界でドゥッカ()とともに生きていかなければならないのだから、死が間近に迫りつつある老人達には、何事もなく、静かに、穏やかに、一日がただ過ぎていくだけで最良のエンディングではないでしょうか。中には子供や孫から見捨てられてしまった老人がいるかもしれません。そんな孤独な老人にとっては、輝くような若い人が寄り添ってくれているだけでマル儲けではないでしょうか。
  まさしく「ただ患者さんのそばにいるだけで十分なんです。時には誰かがいるだけでいいってこともあるんです」

*老いの現実
  この講座を長く受講してきた方のお父さんは九十歳過ぎてもピンピンしているというので、「昼間はデイサービスに行ってらっしゃるんでしょう?」と訊いてみました。
  「それがですね、うちの親父はデイサービスに行きたがらないのですよ」
  「どうしてですか?」
  「あんな年寄りばっかりのところには、行きたくねえよって言うんですよ」()
  九十過ぎの老人がなぜ「年寄りばっかりのところには行きたくねえ」と言うのでしょう。老いて死の足音が迫り来るからこそ、老いを見たくないし、老いを意識するのが嫌なのでしょう。
  中年や熟年ですら、自らの老いが意識された途端に若い人が輝いて見えてくると言います。若いキラキラしたアイドルの「親衛隊」や「追っかけ」に夢中になるのも、老いに対する抵抗なのかもしれません。
  高齢であればあるほど、小さな子供や元気な若者の姿を見るのは嬉しいことです。ハーレイ・スクールの高校生たちが老人に寄り添っているだけで存在意義のある所以です。
  老人ホームで見た忘れられない光景があります。母親の介護をしている頃は、東京や関西で瞑想会をやることが私にとって最高の気分転換であり、束の間の休息になっていました。張りつめた善心所モードでダンマトークやインストラクションに没頭するだけで、これ以上はないリフレッシュになっていたのです。
  私が留守にしなければならない2、3日間、母には施設でショートステイしてもらわなければなりません。施設に置き去りにされるのではないことを何度も説明し、ショートステイに段階的に慣れてもらうために、朝から夕方まで母に付き添って施設で一日を過ごしたことが何度かありました。
  子供や孫が訪ねてくる方はわずかで、私が連日母と過ごしているのを羨ましそうに見ている老人たちが印象的でした。みんな死ぬのをただ待っているだけという感じがしました。昼間はデイサービスのいろいろなプログラムが用意されているのですが、惰性でやっているのか仕方なくなのか、なんとなく受け身で覇気がないのです。
  夕方になり、その日のプログラムはすべて終了し、夕食までの一時間はテレビも消され、何もないただの自由時間になっていました。終了を告げた職員が立ち去った後に続く沈黙の時間に、私は圧倒されました。メインルームで二十人くらいの老人たちが集まっているのですが、誰ひとり会話もせず、向き合いもせず、本当に何もしていないのです。ただ椅子に座り、無思考状態のような顔で食事が来るのを待っているだけの静寂が一時間続いたのです。最初から最後まで誰ひとりしゃべらないし、動きもしない。石と化した人物が並ぶ蝋人形館のような印象に、私は慄然としました。
  寂寥感を通り越した虚無の印象は、ただ死ぬのを待っているだけの人達というより、生きたまま死んでいるようにすら思えました。老いのドゥッカ()を目の当たりにしたかのような衝撃を覚えたのでした・・・。

*煙草のおばあさん
  「タバコの時間!タバコの時間!」と二十分ごとに叫ぶイザベルというおばあさんがいました。すると担当の男子生徒が「今はダメですよ」とやさしく諭すのです。そう言うのは、いつもその男の子ばかりなのですね。その理由を訊かれて、「たぶん僕が一番やさしく声かけできるからではないでしょうか」と答えていました。
  「タバコの時間!タバコの時間!」と叫ぶイザベルにその時間が来ると、二人で外に出ておばあさんが車椅子でタバコを喫っている間、他愛もない話をするのです。
 「天気のことや風に揺れる木のことなんかを話してくれます。ベッドの上では見られない心の中を見せてくれるんです」
  普段はしないような話をしながら、両者の間には「捨(ウペッカー)」の清潔な距離感が保たれた優しい時間が流れていることでしょう。実際の孫と祖母の関係になると、過度の愛着や心配など不善心の因子が苦の原因になりがちです。ホスピスで最期の時間を過ごしている老人と介護の授業の高校生の束の間の関係だからこそ、純度の高い透明なやさしさが発露しているのではないかと思われました。もしイザベルが身寄りのない孤独な老女だったとしたら、若者とこんな素敵な最期の時間を過ごしながら静かに逝くことができるのは本望でしょう。

*さまざまな出会い
  ある日の授業で、ホスピスの授業が始まってから一番よかったことと、一番嫌だったことを話してくださいと言われた女子生徒がこんな風に答えました。「良かったことは、脳卒中のキャロルはもうしゃべれないのに、一所懸命に私の名前を呼ぼうとしてくれたことです」
  嫌なことは、患者さんにダメと言わなければならなかったことでした。例えば、患者さんが「サンドイッチを食べたい」と言っても、「今は流動食しか食べられないからダメですよ」と答えなければならない。
  あるいは、「ベッドから出たいの」って、人生最後のお願いみたいに言われるのに、「私は『だめです』としか言わなければならなくて、思い出すとつらくなります」などと一人ひとり語り合っていくのです。
  私がちょっと心を打たれたのは、あるおばあさんが自分を大切にケアしてくれる女の子に語りかけたシーンです。
  「よい人生だったわ。姉には子どもはいなかったけれど、私は4人の子供に恵まれた。そして、あなたと出会えたこと。私にとってあなたは数少ない特別な人よ」と涙ぐむのです。
  すると、その女の子も「私にとっても、あなたは特別な人になりました」と言い、おばあさんにキスしてあげると「ありがとう」と言って流れ落ちる涙をぬぐうのです。人生の最後の最期にできた若い親友に看取られながらこの世を去ろうとしている老女の姿が印象的でした。

*吹雪の中で
  リアンドラという女子生徒が語るアメリカ北部の冬は、雪の女王アナのような銀世界でした。
  「あれは大雪の日でした。私はハリーの部屋へ様子を見に行きました。ハリーは最期の段階に来ていました。私は部屋に入って、つらくないかをハリーに確認し、掛け布団をかけ直して部屋を出ました。その後エイダというおばあさんのいるメインルームに行きました。窓際で車椅子に座ったエイダは吹雪が作り上げる美しい外の風景に釘付けになっていました」
  私もその壮観な光景に見惚れました。ホームの窓の外に拡がる樹木がすべて凍りついて、雪と氷柱で覆われた一面の銀世界を横なぐりの吹雪が渡って行くのです。
  エイダには、これが最後の雪景色になるかもしれません。
  「私はエイダに寄り添って一緒に雪を眺めていました。エイダは私に、今まで自分が行ったことのあるいろんな場所や、今まで見た動物、出会った人などいろんなことを話し始めて、私は彼女と心の通いあった素敵な時間を過ごすことができました。
  私がエイダと雪を見ている間に、ハリーは息を引き取りました。その時、私はそういう瞬間にこそ意味があると気づいたのです。やっていることは、特別すごいことでも偉大な事でもなく、ただ自分を必要としている人と時を過ごしているだけです。それは、時には母親だったり親友だったり長く連れ添ったパートナーだったり、みんな必ず誰かにとって大切な存在で、誰もがこの世界で自分の役割を持っているということに気がつきました」
  リアンドラの言うように、人生とは、自分を必要としている人と一緒にただ時を過ごしていけばよいのです。

*生きる意味
  ベッドで寝ているウエンディというおばあさんの赤い靴下が脱げてしまうので履かせてあげる。すると、いたずらしているのかまたスポッと脱けてしまい、また履かせてあげるのを繰り返しているシーンがありました。ウエンディは靴下を履かせてもらいながら微笑み、何度でも履かせてあげる男の子も爽やかな笑顔で心から楽しんでいるのです。
  これを観ていて私は、「セラピードッグ」という介護犬を連想しました。セラピードッグは病院や老人施設で患者さんとアイコンタクトをしながらおとなしく撫でられているだけなのですが、みんな癒されていくのです。誰に対しても心を閉ざしてしゃべらなくなったおばあさんが大笑いを始めたり、重病の子ども達を勇気づけ元気にさせてしまうのです。
  庭の樹木も同じだと思いました。私の自宅の庭には、シマトネリコ、木斛、ヤマボウシ、土佐ミズキ、山茶花、銀木犀、黒文字、紅珊瑚紅葉、アオダモなど、いろいろな樹木が植えられています。東京の仕事で留守にする時には水をたっぷ与えてきたり、落葉もかなり出るので世話が大変です。しかしどんなに世話をしても、庭木はありがとうの一言もないし、私が困ったところで助けてもくれません。

  庭の木々は、ただ存在しているだけなのです。風に枝が揺れたり、雨に濡れた葉群が光ったりしているだけです。手入れをして美しくなっても黙っているし、放置して枯らしても文句ひとつ言わずにひっそりしています。
  私は幼い頃から、祖父が丹精した美しい繊細な庭を見ながら育ったせいか、庭なしで生きていくのは耐えがたいと感じます。仕事の合間に庭を見るのが最大の癒やしになっています。ただ存在しているだけの庭に、生きる力を与えられているのかもしれません。
  庭木も石も、セラピー犬も、末期の老人も赤ちゃんも若者も、万物は意味もなく等価に存在し、気づかずに誰かを癒したり支えになっていたりするのではないでしょうか。
  そうだとしたら、いかんともしがたい因縁によって自分に与えられたものに100パーセント満足し、あるがままに、なすべきことをなしながら、その時が来たら流れに従って死んでいけばよいのです。

*卒業
  番組の最後の追悼式で、生徒たちが1年間を振り返って所感を述べていました。
  ・「ケイン先生のホスピスに学ぶを受講したことで、愛や友情について、生まれてから18年間学んできた全てよりずっと多くの事を学びました」
  ・「始まる前はこの講座を取るのが嫌でした。途中で辞めるだろうと思ってました。でも、最初の授業が終わった時には夢中になっていました。とても変わった、他にはない体験だったし、今までにない気持ちを味わえるんです」
 ・「人を好きになるのが怖かったんです、いずれその人が死ぬと思うと・・・。だけど、それでも人を愛することには価値があります」
  このホスピス授業で最も深い学びを得たのは、リリーという女子生徒かもしれません。リリーは、悪性の癌でもう助からないと判明した中年女性のシェリと親しくなりました。
  「ある日キッチンで話しているうちにシェリの癌の話になり、その時彼女は私たちに大切なことを伝えようとしてくれたのだと思いました。
  ・・外からの力で自分の内面が変わることはない。あなたはあなたなんだから、自分自身とうまく付き合っていかなくてはいけないし、それが自分なんだと認めることが必要なんだって。
  他の人は、そのままのあなたを愛してくれるのだから、あなたもそのままの自分を愛しなさいって・・・」
  あるがままの事実を観察し、ありのままの自分を受け容れていくヴィパッサナー瞑想者のような深い言葉の響きを感じました。
  しかし誤解されかねない一面もあります。仏教の「あるがまま」には厳しい倫理が貫かれています。煩悩だらけの自分の現状はありのままに認めて、事実として受け容れますが、そのまま容認し居直ることはあり得ません。必ず、悪を避け善をなす方向に新たな意志決定がなされて、未来に向かって歩みを進めていくのが仏教です。煩悩にまみれた不善心だらけの自分を「あるがままに」容認してしまう危うさが入り込む余地はないのです。
  光陰矢の如し。人の命はアッと言う間に燃え尽き、私も間もなく死んでいきます。自分に与えられている全てを出し尽くして、悔いのない終わりを迎える覚悟でおります。(つづく)

  

 今月のダンマ写真 ~
                     
         
タイ森林僧院に寄進された伽藍    先生より
    Web会だより  

『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り(3)                                              H.Y.

3.第3日目
 ホテルを出発前にホテル内の売店を覗いたところ、仏像が売られていました。沙羅双樹の木でできているとのことで、聖地巡りに来た記念に買うことにしました。この日はブッダ生誕の地であるルンビニに向かいます。ルンビニはネパール領であり、陸路で国境を越えます。添乗員さんから、この日はツアーで一番の難所となると言われましたが、まさにその通りでした。
 インド北部は辺境地域なので道路の舗装が良くなく、バスのサスペンションも良くないためか、バスの乗り心地が悪いのです。ひどいときは舗装の段差の衝撃で体が持ち上がるほどです。また約2時間ノンストップで走っても、トイレ休憩できる場所が全く無いのです。その場合は青空トイレで済ませました。男性であればそれほど気にしないかもしれませんが、女性の場合はかなり抵抗があると思います。またトイレ休憩できた場合でも、インドのトイレは総じて汚く、約30年前の日本の公衆トイレかそれ以下の状態です。
 約7時間のバス乗車で、ネパールとの国境近くまで来ました。インドからネパールの税関手続で遅延が常態化し、ネパールへ行く道路は運送トラックの大渋滞に見舞われています。その為、まともに道路を走っていたらネパールにいつまでも到着しません。そこでどうするかというと、バスは反対車線を走行するのです。日本であればとても考えられませんが、インドでは当たり前のように走っていきます。他のバスや乗用車も同様です。当然、事故の起こる可能性は高くなります。この為にバスのヘルパーさんが必要だと改めて理解しました。
 ネパールとの国境付近の街に到着し、まずインドの出国審査を受けます。出入国管理事務所と言っても、国境境界ではなく市街地の中にあり、見た目は普通の建物です。そこでいったん乗客全員がバスを下車して手続を行います。ツアーのグループごとに手続が行われる為、順番が来るまでは露店のチャイを飲んだりして待っていました。グループの順番近くになったら、ツアー客全員が出入国管理事務所の前で並んで手続を行います。そして全員の手続が完了したらバスに乗り込み、乗車したまま国境を越えます。ここで不思議なのが、出入国管理事務所と国境が離れているので、黙っていれば出国審査をしなくともネパールに入ることができてしまうことです。また国境付近は職員が配置されていますが、国境を歩いている人々は、自由に往来しています。気になったので調べてみたら、国境近くのインド人とネパール人は二国間協定により、審査なく往来できるようです。外国人は適用外というのは分かりますが、このような緩い国境管理のやり方もあるのかと思いました。それからネパール側に入り入国審査を済ませ、ルンビニに向かいます。午後4時にルンビニへ到着し、ようやく昼食です。
 現代の海外旅行者の視点で見れば、今回の聖地巡りは秘境ツアーで過酷だと思いました。しかしその反面、昔の巡礼者の視点で見れば、現代の聖地巡りはとても安心だと感じました。旅行会社が聖地まで案内してくれて、具合が悪くなったら海外保険で医療を受けることができ、たとえ犯罪に巻き込まれても大使館に助けを求めることができます。昔の巡礼者であればそんな保障は一切なく、まさに生死を賭けて巡礼していたと思えば、現代の聖地巡りは大変有難いと思いました。
 ルンビニはブッダの生誕の地であり、四大聖地の一つです。ブッダの生母である釈迦国のマーヤー王妃は隣国のコーリヤ国の出身で、里帰り出産の為にルンビニに立ち寄りました。王妃はルンビニで産気を催し、この世にブッダが生誕されました。大乗仏教ではブッダが生誕されたときに言った天上天下唯我独尊という言葉が有名ですが、この説話には続きがあり、もう二度と生存はないと記されています。これは輪廻転生から解脱し、覚りをひらくことを意味します。
 ルンビニに入場する際は、入口で靴を脱ぐことになっています。聖地によっては脱がなくても良いところもありますが、礼拝の対象とされているところは、必ず脱ぐ必要があります。その為、履物の着脱を容易にし、足を洗いやすいように、日本からサンダルを持参しました。
 現在、ブッダが生誕された場所には建物が建っており、マーヤー堂と呼ばれています。その中にはマーカーストーンという仏足の形で作られた石が安置されています。建物の中は混雑しており、巡礼者の団体が集団で声を出してお経をあげていました。これらの行為は行く先々の聖地で見られました。ブッダが説いた教えをブッダの聖地で、ブッダや他の人々に聞かせてやろうという態度だと、まさに釈迦に説法です。思わずイライラしそうになりますが、周りがドラや大声でお経をあげていても、自分のブッダへの思いが揺らがないぞと思い、あまり気にしないようにしました。マーカーストーンの前では立礼で三帰依を心の中で唱えました。
 マーヤー堂のとなりには、ブッダが産湯に使用した際の池が残されています。見た目はプールのような四角形で、よく見るとナマズが泳いでいました。またルンビニにも礼拝の対象である樹木が植えられていました。仏教では三大聖樹というものがあり、無憂樹、菩提樹、沙羅双樹があります。無憂樹はマーヤー王妃がブッダをお生みになる際に寄りかかった樹木です。このルンビニの樹木が無憂樹と思いましたが、実際は菩提樹でした。現地ではこの周りを1周しました。
 一通り見学が終わった後、現地ガイドさんから約30分の説明時間がありました。座って聞くことになり、この時間を活かしてサティを入れてみました。午後6時頃で日が暮れてきており、周りの音や寒さも感じながらの状況でしたが、何か心に暖かい感じがするのです。ここに座っていたい思いがしてきました。しばらくすると犬が吠えてきて、追い払うかどうか困りました。頭の中で妄想張り巡らせたところ、急に犬が静かになりました。
 ルンビニにはアショーカ王の石柱が建っています。アショーカ王は紀元前3世紀の人物で、王がこの聖地を参拝した記念に石柱が建てられました。石柱は行く先々の聖地で見られました。歴史学上ブッダとルンビニは存在自体が疑問視されていましたが、近代にドイツ人考古学者がアショーカ王の石柱を発見したことにより、ブッダとルンビニの実在が証明されました。
 聖地巡りの後は、ルンビニのホテルに宿泊しました。(つづく)
 

                          地図:アイコンをクリックすると、写真を見ることが出来ます

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☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。
 

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里 山 三 滝

 











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                   ダンマの言葉 
   
                      アチャン・マハブア「砂の一粒一粒にも」

 考えは、何であれ、ただ考えにすぎません。すべての薀は、思考、識別、判断などを促す煩悩のひとかけらもない、純粋なただの薀です。--煩悩を離れた薀が、言いかえれば、ブッダやその気高い弟子達のような一切の煩悩から解脱した阿羅漢の、純粋なただの薀があるだけです。
  体は、ただ体にすぎません。感受、名づけること、思いの形成、認識などは、ある時が経過するまで働く、過ぎ去っていく状態に過ぎません。それらが継続する力も無くなった時には、その真理に従って、ただあるがままに手放して行くだけです。清浄さという真の本性は、まったくのところ何の問題もありません。
  あらゆる慣習的な現実から完全に解き放たれた人々には、他の誰よりも特別であるとか、それより悪であるといった思いはありません。ですから、最も小さな生き物にさえ、品位を傷つけるような卑しい行いはしません。それらはすべて生、老、病、死という苦を共にしている友人であると思っています。何故なら、ダンマというものは何かしら穏やかで、優しさのあるものだからです。
  その中に見出される心はどれも完全に優しく、砂の一粒一粒にも、ありとあらゆる生き物にも、思いをかけることが出来るのです。
  そこには、堅苦しい心や頑固な心などありません。ただ、煩悩だけが堅苦しく頑固なだけです。それは、高慢、うぬぼれ、尊大な態度、そして虚栄心といったものです。ひとたびダンマがあれば、そのようなものは-切ありません。世の中には、ただ、常に変わることのない慈悲、慈愛の穏やかさと優しさがあるだけです(1982410日の講話から抜粋)。(「月刊サティ!20081月号より)

       

 今日の一言:選

1.この体は腐り果て滅していくが、命は輪廻転生する。
 弱肉強食の世界で、誰にも食われず、老いず、弱らず、永遠に勝ち続けられますように、と良き再生を祈るべきなのか……

2.幸せになりたくて、皆、必死で生きているわけだが、確かに、悪を避け善をなし、徳を積んでいけば幸せになれるのだが、幸せになって、何やね……と呟いてみる。
 衣食住に満足し、良き人間関係にも恵まれ、平和も自由もかなりのものがあり、物質的にも楽受、精神的にも楽受の好日が続くだろうが、しかし、いつまでも、永遠に、ではない。
 聖家族のような幸福も、経済的な繁栄も、体力も知性も美貌も、無垢な心も……、続けば続くほど全てが当たり前になり、新鮮味もありがたみもなくなって、無感動になる。無気力に領されていく。

3.もう助かる見込みはなく、刻々とただ死んでいくだけの状態になった生命でも、いやそれだからこそ、できるだけ優しく最後の看取りをしてやらずにはいられない。
 もはや意味のない絶望的な慈悲の瞑想……


       

   読んでみました
    小笠原文雄著『なんとめでたいご臨終』(小学館2017年)
  日本在宅ホスピス協会の会長でもある著者は、1989年に内科を開院して以来1000人を超えて、なかでもひとり暮らしでは50人以上の在宅による看取りをしてきた。特にがんの場合には在宅での看取りが95%以上にのぼる。本書のカバー内側にはこうある。
  「『最期まで家で暮らしたいけど・・・』 お金がない?家族に迷惑がかかる?一人暮らし? 大丈夫ですよ。安心してください。誰しも、たった一度しか死ねません。どうせなら『めでたいご臨終』してみませんか」
  本書は6章で構成され、著者が関わったケースとその考えが示される。なかでも、第5章における事例は人ごととは言えない。
  1章:家なら最期まで好きなことをして過ごせる
  2章:余命宣告をくつがえす患者さんたち
  3章:一人暮らしでも、お金がなくても大丈夫
  4章:看取った直後に、家族がピース
  5章:在宅医療に失敗ってないの?
  6章:いのちの輝き
  いずれも背景として「在宅ホスピス緩和ケア」があり、著者それを次のように説明する。
  「在宅ホスピス緩和ケアの『在宅』とは、暮らしている“処(ところ)”。『ホスピス』とは、いのちを見つめ、生き方や死に方、看取りのあり方を考えること。『緩和』とは、痛みや苦しみを和らげること。『ケア』とは、人と人とが関わり、暖かいものが生まれ、生きる希望が湧いて、力が漲ることです」
  人として最期まで暮らしの中に生きている“処(ところ)”でのこうした対応によって、「生活の質」を意味するQOL(Quality of life)とともに、ADL「日常生活動作」(Activities of daily living、食事や排泄、歩行や入浴などの生活の基本的動作のこと:編集部)を向上させようとする。そしてそれが、QOD(Quality of death)「死に方の質」を左右して、著者の言う「希望死・満足死・納得死」に繋がり、「安らか・大らか・朗らか・清らか」と4つの“らか”を実現する。それが出来たなら、たとえ離別の悲しみはあっても、「遺されたご家族も同じように清らかな気持ちで送り出せることを教えてくれ」、その結果、「なんとめでたいご臨終」となるし、またそうであれば、かりに誰もそばにいない時に亡くなった場合でも、それは決して孤独死ではないのだと言う。
  だれもがいずれは直面する可能性のあるこの重い課題について、著者の考え、主張をたどってみよう。
  まず第1章、一級建築士の遠藤さん(男性62歳)の場合。仕事も出来なくなり副作用もあるという抗がん剤治療を断った。「がんが治るなら抗がん剤を使います。でも、たった1か月しか延命できないなら、仕事がしたい」と小笠原内科の緩和ケア外来に通院し、痛みを取って心のケアを受けつつ自宅で仕事に専念した。その傍ら、家族と過ごす時間もとても大切にし、以前から行きたかったお寺参りに夫婦で行ったり、離れて暮らす子どもたちが集まって孫と遊ぶ時間も増えたと言う。そして宣告された3か月という余命もいつの間にか過ぎ、さらに2か月後には体力が落ちて通院することが出来なくなったので在宅ホスピス緩和ケアに切り替えた。
  亡くなる8日前、訪問診療に行くと遠藤さんは嬉しそうに、「先生、私が設計した家のお客さまからりんごを頂いたんだよ。妻の作るりんごジュースはとっても美味しいから、先生たちも一緒に飲もうよ」とりんごゴジュースを出してくれ、そしてりんごジユースを片手に嬉しそうな遠藤さんと、みんなで「笑顔でピース」の記念撮影をしたそうである。そして、「死ぬのは怖くないですよ。怖いのは不安があるからでしょ。不安はありません、幸せですよ。充実しているから。上手な死に方っていうのはおかしいけれど、上手な生き方っていうのかな。がんは案外、いいもんですね」と言った遠藤さんは、1か月しか延命できない抗がん剤治療ではなく、仕事を選んだ7か月間を笑顔で過ごしたのち、家族に見守られながら穏やかに旅立っていった。
  抗がん剤はどのような時に必要なのか?必要でない場合とは?抗がん剤を止めるのはどういう時なのか?
  多くの人はがんが見つかった時点で治療を開始する。早期発見が出来て手術で取り除ければそれが最善であろうが、手術ではどうにもできない状況になった時にはどうなのか。著者は、「抗がん剤をつかって治る見込みのある患者さんには抗がん剤は必要」としながらも、あまり効果がないと見込まれるのに抗がん剤を使うのは、むしろ苦しみにつながるのではないかと問いかける。
  「手の施しようがない末期がんの人が、それでも闘い続けることが果たして幸せなのか」「勝てない相手に挑んで最期まで苦しむのなら、早いうちに気持ちを切り替えて、残りの人生を笑顔で長生きできるように在宅ホスピス緩和ケアを選択するのも一つだと思います」と。
  次は伊東さん(女性70歳)のケース。
  本当は入院したくない。でも最期は家族に迷惑をかけないようにと緩和ケア病棟へ入院の予約に行った。その時彼女はその病棟の先生から、「ここへ入院する時は人工肛門を作ってから来てくださいね」と言われたそうである。しかし、小笠原内科での検査では人工肛門を作っても意味がないという診断が出、その日の夜ご家族に小笠原内科へ来てもらったと言う。
  説明を聞いた家族は、「先生のおっしゃることはわかるけれど、入院したほうがいいのでは・・・」と半信半疑だった。
  そこで著者は、今は伊東さんの人生を左右する大事な局面だと感じ、「『入院したらお母さんの笑顔が消えてしまうんですよ。お母さんは今、とても嬉しそうでしょう。ご飯が食べられなくても、家にいるだけで幸せなんです。モルヒネの持続皮下注射やサンドスタチンという腸閉塞の特効薬を使えば、痛みも出ないし、何も心配いりませんよ』と、2時間ほどかけて説得」したと言う。
  その結果、家族も“母を入院させてはいけない”という気持ちになり、翌日往診に行くと、「伊東さんの表情が今まで見たことがないほどの満面の笑みに変わって」いた。
  著者はこれを次のように推測する。
  「・・・私はこう思います。伊東さんは退院し、自宅で暮らすことができました。でも心のどこかで、“腸閉塞になったら入院しなくてはいけない”とか“人工肛門を作ったら緩和ケア病棟に入ろう”“家族が望むなら入院しよう”と思っていたのです。家で暮らせる幸せを感じる一方で、いつかその幸せを失うのではないかという不安を抱き、心はいつも定まっていなかったのでしょう。
  しかし、“私が家で最期まで暮らすことに家族が賛成してくれた”という安心感と幸福感が、伊東さんを満面の笑みに変えたのです」と。そして、「『ところ定まれば、こころ定まる』とは、まさにこのことなんですね」と言い、「この言葉をぜひ覚えておいてもらいたいと思います」と言うのだ。
  痛みとそれへの不安を解消するためにはPCA (Patient Controlled Analgesia:自己調節鎮痛法)という「魔法のお弁当箱」が使われる。これは、24時間投薬し続けることができる弁当箱サイズの医療機器で、痛みがある時にボタンを押すとモルヒネが1回分投与されて痛みが取れ、約4時間効果が持続するという。痛みが出たら何回でも本人の意思でボタンを押せることで、我慢する必要がなく、安心感が得られると同時に痛みを感じにくくさせる好循環が生み出される。
  しかも、「PCAは、ボタンを一度押すと、その後15分間はどれだけ押しても投薬されないように設定できます。仮に必要以上に押してしまった場合でも、眠気が出たり、数時間眠るだけのことで、死ぬわけでは」なく、伊東さんは、「ありがとう。PCAは命綱。これさえあれば私は最期まで家で過ごせる」と何時も言っていたそうである。
  2章、大野さん(女性72歳)は退院したら5日の命と言われていた。そこで小笠原内科のスタッフが主治医をなんとか説得して退院した後、410か月後の小笠原内科のクリスマス会に参加、あまりにイキイキしていたので腫瘍マーカーの値を測ってみたところ正常に戻っていたと言う。
  病院には患者を助けるという責任感、使命感があり、たとえいつ亡くなってもおかしくないような患者本人が退院の希望を持っていても、もし病院にいた方が長生き出来るという判断があると退院させにくいそうだ。
  悪性リンパ腫で主治医から、「抗がん剤ももう限界まで使ってしまったから、もうこれ以上治療することも出来ないし、状態も落ち着いているから、今なら退院できるよ」と言われた平井さん(男性88歳)は、10年目を笑顔で暮らしている。
  「いつ死ぬかわからない」と言われた鈴木さん(男性68歳)は1年もの間自宅で穏やかに過ごしたし、余命8か月と宣告されたためにがん患者の会にも「末期は入会できない」と言われた花田さん(女性64歳)は、1年以上延命して遺影を2回撮り直したという。
  このように、在宅医療を選択したことにより、余命宣告を大きく超え、しかもQOLやADLを満足させつつ生を全うしたケースが多く見られるのは、「人は、ひとりでは生きていけません。最期の時もひとりではないのです。必ず誰かと関わり、お世話になったり、協力し合ったり、そういったコミュニティの中で生きています」とする著者の言葉からもよく理解できる。
  たしかに、病院における医療に携わる人々の存在は安心感をもたらす。しかしその反面、患者一人ひとりにはなかなか手が回らないほど忙しいのも現実ではないだろうか。それゆえかえって孤独感を生んでそれが免疫力の低下に繋がる、そんな可能性も全くないとは言えないのではないかと思う。
  12か月と言われた安藤さん(女性87歳)が在宅に切り換えて1年半以上経ったとき、痛み止めの薬を飲み忘れたために痛みが出たそうである。そのため、「痛い、痛い」との訴えを聞いた息子に入院を勧められて再入院したところ、1か月後に亡くなったと言う。これは「病院のほうが孤独死なのかもしれないという現実」を教えてくれたのではないかと著者は言う。
  3章では、2000年に出来た介護保険制度のおかげで、ひとり暮らしでも最期まで自宅にいられるという事例を紹介している。もちろん、病状や住居環境などの条件、また本人の望みの内容によって在宅医療にかかる金額は変わってくるが、示されている自己負担額の一覧表(本書p.116:以下同じ)によれば決して高くはない。
  そのほか、訪問看護費が無料になること(p.135)や、夜間はしっかり眠って朝が来ると目覚めるという人間らしく生きるための「夜間セデーション」(p.136)、また目の不自由な河合さん(女性80歳)のケースでは、指で触れると24時間対応の介護事務所につながる「タッチパネル式テレビ電話」を導入したという。この利用料は1か月1610円、緊急出動をしてもらうと1580円(2006年当時の金額)だそうである(p.145)。
  また、THPという医療・看護・介護などの多職種が関わる際に適宜対応する実力を持ったキーパーソンと、そのために開発された情報共有アプリとしての「THP+」を使った体制によって、連携ミスが起きないようにしている(p.146)。
  (THPはToral Health Planners:トータル・ヘルス・プランナーの略。医療・看護・介護などの多職種が関わる際に適宜対応する実力を持ったキーパーソン。THP+はそのために開発された情報共有アプリ。教育的在宅緩和ケアとは知っていることは教え、知らないことは教えてもらう医師の連携:編集部)
  4章は、末期がん患者にとっての1日がどれほどの重みを持つか、高木さん(女性86歳)の例。
  金曜日に家族が、「先生、末期がんの姑が『家に帰りたい』と言うので、月曜日に退院させることにしました。急に悪くなって、いつ死ぬかわかりません。退院したら往診に来てもらえませんか?」と頼んできた。
  「もちろん往診はするけど、急に悪くなって今にも死にそうなのに、月曜日の退院でいいの? 3日後、生きてるの? もしも亡くなったら、病院の裏玄関から出て行くっていうことだよね。そうなったら、あなたたちは後悔しない? 退院させてあげたいなら、今日の午後にでも緊急退院できるんだよ」と著者。
  「えっ!? 今日、退院できるんですか? あ、でもまだ家の掃除が・・・」
  「掃除なんて、ささっとすればいいし、しなくてもいいんだから」
  そんなやり取りの末に、高木さんは4時間後に表玄関から緊急退院。そののち家での治療の結果、痛みが取れ、表情はどんどん穏やかになっていった。翌日の土曜日の訪問診療では高木さんは嬉しそうにして、「よく寝られたよ。嬉しいわ」と言ったそうだ。
  「ありがとうございます。おばあちゃんも笑顔だったし、よかった」と家族。心の準備と覚悟ができて最期の時間を過ごしたが、日曜日には意識がなくなり、往診したところすぐにも亡くなりそうであった。
  「月曜日まで入院していたら、家に帰れなかったかもしれないよ。緊急退院させてよかったね」
  ところが火曜日。
  「『あれ、どうしたのかなぁ。もう全員集まったんだよね』と私が聞くと、息子さんが周りを見回して言います。
  『あっ、そういえば、東京のひ孫がまだ来てない』
  『じゃあ、きっとひ孫を待っているんだね』」
  東京から水曜日に曾孫が到着したあと、高木さんは穏やかに旅立った。そして高木さんを囲んで治療スタッフも一緒に家族みんなで笑顔でピース。このような写真は本書には何枚も掲載されている。
  「その時」を見計らったようなこのような旅立ちは、まさに著者の言う「めでたいご臨終」なのだ。人の死はやり直しがきかない。もし笑顔での旅立ち看取りを望まれるなら、患者本人に合った診療所や在宅ケアの医師を選ぶことが大事だと著者は語る。
  5章では失敗した例。
  残念ながら医師のスキルにも差があり、また最初から高いわけでもない。在宅医療を始めて28年になる著者自身、初めの頃には後悔することもあった。そこで、患者の願いと医師選びの参考にしてもらい、さらに在宅ホスピス緩和ケアのスキルを身につけることの大切さを後輩の医師に伝えようと、著者自身の例を挙げる。
  家族に「絶対に本人に言わないで!」と懇願され、副鼻腔がんで最期まで苦しい思いを者ながら亡くなった西さん(男性59歳)には、家族への説得と告知後のフォローが出来るスキルを磨くことの重要さを教えられた。
  また、廣瀬さん(女性85歳)は最期まで家にいたいという願いが家族の反対で叶わなかった。「いいところがあるから見に行こう」と、「こんなところ(グループホーム)に置き去りにされた」と悲痛な声で訴えた廣瀬さんは、おそらく、そのためにタコツボ症候群となってしまって無念の最期になってしまったのではないか。(※個別の事例であって、グループホーム自体が悪いというわけではない:著者)
  また、ご主人が入院することになった古川さん(女性72歳)本人は、車椅子を使いながらもヘルパーに頼んで買い出しも料理も出来ていた。しかし、離れて暮らしていた息子は心配して、「ひとり暮らしなんてダメだ。父が入院している間、母にも入院してもらう」と言う。著者は、「ひとり暮らしでも大丈夫ですよ。お母さんは足が悪いだけだし、何も心配いりませんよ。お母さんが『家がいい』と言っているのだから、家にいさせてあげたらいかがですか?」と説得した。
  その時は「わかりました」と言ったので、納得してもらえたと思ったが、なんとその夜、息子は何の連絡もせずに入院させてしまった。おそらく息子は、「小笠原先生の話はわかったけど、自分の意見とは違う。入院させたほうがいい」と思ったのだろうと著者は推測している。
  古川さんは入院して2日後に亡くなった。おそらくタコツボ症候群であった。
  「患者さんとご家族の意見が対立した時、ご家族に対し、患者さんの想いはしっかりと伝えますが、いくら主治医でも『家にいさせるように』と強制はできません。
  しかし、14年間も古川さんの主治医をしていた私は、その性格をわかっていました。あの時、息子さんに納得してもらえるスキルがあれば・・・と後悔するのと同時に、私以上に母親の性格を知っていた息子さんだからこそ、気の弱い母親のひとり暮らしを心配したのかもしれないと、胸が張り裂けるような思いがしました」
  そしてその後は、患者だけでなく、ご家族も後悔しないように、説明する時には患者さんの性格を踏まえ、過去の事例もお話ししながら1時間でも2時間でも粘り強く説得するようになったと言う。そして、
  「この事例は、子どもが考える最善の選択が、必ずしも親にとって最善ではないこと、それを大切な人の死をもって気づくのでは遅いということを教えてくれました。これは親子だけに限った話ではないと思います。なぜなら、死が迫っていない人には、死ぬ人の気持ちがわからない。自分がもうすぐ死ぬと思っている人は、残りの人生が決まると覚悟した上で一つひとつの選択をしている。家族は、患者がそれだけの重みを感じながら選択しているということを知るべきだろう」と言う。
  医療従事者は患者のために最善と思う医療・ケアを選択する。それは在宅ケアでも同じだが、松尾さん(女性80歳)の場合は優しさが裏目に出てしまった事例だ。
  ALSでは、最終的に呼吸が出来なくなった時には、自然の流れに任せて死を受け入れるか、人工呼吸器をつけて延命するか、選択を迫られることになる。彼女は前者の選択をしていたが、旅立ちの時が近づいてきたその時、駆けつけた息子さんが救急車を呼んでしまったそうである。そのため彼女は1年間も人工呼吸器を付けたまま病院で亡くなった。
  人工呼吸器をつけている患者の多くは、苦しさのあまり呼吸器を外そうとする。そのため多くの病院では、筆談の時以外は苦肉の策として患者さんの手を縛ることがある。著者が救急搬送の報告を受けて病院へ行くと、彼女は文字盤を使いながら、「は・ず・し・て」と涙ながらに訴えるだけだったと言う。
  このことから著者は、「何かあったら救急車を呼ぶ」という発想が日本の常識になっていることを痛感したという。
  また、退院時に医師や看護師は、「何かあったら、すぐ病院に来てね」と言うが、それは患者さんを安心させるために言っている場合も多く、「本当に入院が必要な時だけ来てね」というのが真意であって、安易に救急車を呼んでしまうと苦しい延命治療をされたり、最期まで家にいたいという願いが叶わなくなったりと、地獄の苦しみを味わいかねないという。
  助かる人はもちろん助けるべきである。しかし、末期がん、老衰、認知症で自分の意思を表明出来ないなど、たとえ助からないとわかっていても最期まで苦しい延命治療をされてしまうことが多い。こういう悲劇に遭わないためには、ACPAdvance Care Planning:アドバンス・ケア・プランニング)といって、患者や家族がTHPや医師、訪問看護師、ケアマネージャーなどを交えて、「延命治療をするかしないか」「救急車を呼ぶか呼ばないか」など、予め決めておくことが必要となる。もし意思決定能力がなくなっても、自分の想いを語ったり書き残していれば、それは尊重されるべきなのだ。さらに、
  「日本の救急車が無料であるがゆえに起こる悲劇もお伝えします。近年、軽傷でも救急車を呼んでしまう人が急増し、本当に緊急を要する人が利用できなくなるという事態が起きています。その結果、助かるはずの人が助からなかったり、状態がひどくなったりするのです。救急車をタクシー代わりに使うなどもってのほかです。本当に必要な人が必要な時にだけ利用することで、こういったことが起こらないように願っています」
  (毎日新聞2020111日朝刊によると、2019111月に全国の警察が対応した110番通報は8299775件で、うち18.4%が緊急性のない内容だったという。前年同期の19.2%と比べ、やや改善したが、「免許更新の方法を教えて」「子どもが言うことを聞かないので警察官が叱って」「「家の中にゴキブリがいる」など相談や警察対応が不要な内容もあった:編集部)
  6章では、教育的在宅緩和ケアという、小笠原内科のスタッフと遠距離のサポート医師とで行われる遠距離の在宅緩和ケアを紹介している。この章には、352児の母が見せた最期まで生き抜く姿のほか、朗らかに生きて笑顔で旅立っていった亡くなった方々、そして遺族に生まれた温かな想いが描かれている。
  見送る側にとっても見送られる側にとっても実感できるような「希望死・満足死・納得死」のための小笠原内科が考案したシステムは次の5本柱である。
  ① THPケアシステム・・・多職種が連携できるような体制
  ② THP+・・・患者に関わるすべての人が情報共有できるアプリ
  ③ 連隔診療・・・いつでもどこでも診察できるテレビ電話
  ④ 退院調整・・・退院希望の患者に合う在宅医を探し、退院させること
  ⑤ 教育的在宅緩和ケア・・・医師同士が教え合うこと
  小笠原内科は、100km離れたケースも含め、岐阜県を中心に88例の教育的在宅緩和ケアを行なってきた。在宅ホスピス緩和ケアのできる医師が増えることは、それだけ多くの地域で多くの人が笑顔になれるということだ。「笑う門には福来たる、そんな在宅ホスピス緩和ケアが望まれ」ている。
  「あとがき」での著者の言葉。
  「“最期までここで暮らしたい”という願いが叶い、自然の摂理の中で『希望死・満足死・納得死』ができた時、ご遺族は離別の悲しみで涙を浮かべながらも、笑顔でお別れをします。そんな場面に立ち会うと、『おやおや、みんなピースしているねぇ。じやあ私も笑顔で旅立とうか』という亡くなった方の声が聞こえるような気がします。
  『ご愁傷さま』ではなく『笑顔でピース』。今の日本の常識では考えられないかもしれませんが、『笑顔で死ねる、笑顔で看取れる』としたら、なんとめでたいご臨終でしょう」
  最後に、本文では書ききれなかった本書に掲載の情報、データを紹介したい。
  ・お別れの日に向けて ~安らかな看取りのために~ のパンフ・・・p.2829
  ・モルヒネの使い方で知るべきこと・・・p.80
  ・あくび体操・・・p.108
  ・園部さん(男性79歳)の場合の自己負担額(2ケース)の比較・・・p.116
  ・上村さん(女性82歳)の場合の自己負担額・・・p.153
  ・抗がん剤を使うかどうかを見極めるコツ・・・p.194195
  ・旅立ちの日が近づいたサイン・・・p.196
  ・教育的在宅緩和ケアなら遠距離でも大丈夫の組織図・・・p.251
  ・著者が徳島県から送ったTHP+・・・p.275
  ・森さん(男性76歳)が旅立たれた直後に家族が書いたTHP+・・・p.276
  ・鎌倉にいた著者がテレビ電話で350km離れた柏原さん(女性91歳)の遠隔診療・・・p.293
  ・THPケアシステムで患者を支える(連携・共同・協調+介入)の組織図・・・p.311
  機会があればぜひ一読されたらと思う。
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