月刊サティ!

2020年8/9月合併号      Monthly sati!  Aug./Sep. 2020


 今月の内容

 
 
巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』 (3)

  ダンマ写真
 
Web会だより:『仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』 (2)


  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:森川すいめい著『漂流老人ホームレス社会』
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

  

 

   

  巻頭ダンマトーク『死が輝かせる人生』 (3)
 
                                                             地橋秀雄
  
第3章 死のラーメン哲学

*本気になる・・・
  もし本当に自分の余命宣告がなされたなら、誰でもカメラマンの保山さんと同じように残された人生の一瞬一瞬に命を懸けざるを得なくなるでしょう。死期が宣告されカウントダウンが始まってしまえば、否応がないのです。泣こうが喚こうが何をしようが、残された命に向き合って一日一日を必死で生きるしかなくなります。
  だが、「メメントモリ」をモットーに死を想い、日々命を懸けようとしても、健康時の想定はしょせん想定に過ぎず、実際に死を宣告されたインパクトと同じになることはあり得ないでしょう。「今日が人生最後の日だとしたら・・・」 と自らに問いかけてきたスティーブ・ジョブズも、果たしてどこまで本気になれていたのか。48歳で癌告知をされ56歳で亡くなるまでの6年間の本気と、同じレベルだったでしょうか?。
  火事場の馬鹿力にスイッチを入れるのは、火災が本当に起きてしまった現場の力であり、現実が人を本気にさせるのです。


*ゴールが見えれば
  私たちは本気になりたいのであって、死を宣告されたがっている訳ではありません。ダラダラといたずらに日を送るのではなく、一瞬一瞬、仕事に、生活に、瞑想に、真剣に集中し、全力で取り組み、完全燃焼して人生を輝かせたいのです。
  どうしたらよいのでしょうか。

  死期が定まり、終わりが見えれば、何事にも命懸けにならざるを得ない。それなら、取り組む仕事の余命宣告をして、終わりを定めれば命懸けになれるのではないか、と考えた人がいます。
  余命宣告とは、死期が確定し、終わりが見えることです。ザ・エンドの終焉の日までに残された時間がカウントできる構造があれば、人生全体の死であれ、個々別々の仕事の死であっても同じ力が働くのではないか・・・。

*自ら死を与える
  2018年にアメリカでラーメン店をオープンし、営業は1000日で打ち止め、5年後に店を畳むと決めた日本人がいます。連日1時間待ちの行列ができ、地元のグルメサイトで 「今、最も熱いレストラン」第1位を3ヶ月連続で獲得した「鶴麺(Tsurumen Davis)」の大西益央さんです。ボストン最大の日刊新聞「ボストン・グローブ」の1面を飾ったのは、ラーメンの味もさることながらユニークな経営哲学にもあるようです。
  どれだけ流行っていても1000日しかやらない、と店の余命宣告をした潔さについて、新聞のトップには「Nothing is permanennt(一切のものは、無常に変滅する)」と巨大な見出しになっていました。

  録画されていたTV番組を消去する前に早送りしていたのですが、ラーメン職人として一瞬に命を懸ける姿に思わず目を瞠りました。

  「終わりを決めたら、人間、本気になれる」
  「ずっと続くものには、本気になりにくい」
  「1000日しかこの店やれへんのに、今日、一日でも本気になれなくていいんか・・・」

  40代前半の大西さんの人生はまだ続くでしょうが、手塩にかけた我が子のような店の命が尽きる日は確定しているのです。

  わずか17席の店に入ると、壁板には「Enjoy1000days  (今日は) 198/1000」と表示されています。この店が死ぬ日までに残されたのは802日です。しかも週の半分は、営業時間が一日わずか2時間、18時開店の20時閉店。もっとやりたい、働きたい、と思っても、一日2時間しか働けないのですから、誰もが全力投球にならざるを得ない体制です。

  よくぞこの経営システムを思い至ったものだ・・・と感銘を受けました。人生の余命宣告は自分で決めることができず、まさに死期が不明であるが故に、怠惰と甘えと煩悩が垂れ流しになる。それは、これまで見てきたとおりです。しかるに、命を懸けて本気になるために、お店の仕事そのものに死を与えるという発想・・・。


*一瞬に生きる
  店の寿命を1000日と宣言した大西さんの哲学に一貫性が感じられるのは、大人気のメニューにも200日限定の余命を定めていることです。201日目にはメニューを一新するというのです。最低気温マイナス10℃以下、極寒のボストンで1時間待ちの行列ができるラーメンです。美味求真に心血を注いで作り上げた鶏ガラスープの醤油ラーメン15ドル(1660)。もう一品はスパイシー白湯ラーメン(17ドル、約1880)です。この日が198日目ですから、あと2日でボストン「鶴麺」のこのラーメンは二度と食べられなくなるのです。傑作ラーメンの死が定まっている・・・。
  映像で観る限り、全員の客が箸を使って食べながら、心底から『美味い!』と呟いているのが聞こえてくるような様子です。

  週に3回通ってくる客が言います、「いつ来ても満足して帰るよ。食べ終わると、いつも幸せいっぱいの気分なんだ」

  「こんな美味しいラーメンはないと皆に言ってるの」という女性客。

  一人で3杯のドンブリをスープまで飲み切った若い男性客・・・。

  だが、そのラーメンもあと2日で永久に食べられなくなる・・・。作る方も命懸けだが、余命が定まっているが故に、食べる方も人生最後のラーメンのように、本気の真剣勝負になっていく・・・。

  「一期一会」「一瞬に生きる」とウンザリするほど言い古されてきましたが、その奥義に参入できる人がどれほどいるでしょうか。しかるに日常的なものの代表のようなラーメン。そのドンブリ1杯のラーメンを介して、作る方も食べる方も、これほど全力で今の一瞬一瞬に向き合うことができるのです。見事なまでに美しいシステムの力だと思いました・・・。


*一事が万事
  開店は18時なのに、大西さんは朝の6時半に店にやって来ます。それから何をするかというと、店の床の雑巾がけです。アメリカ人が普通に靴でやってくるフロアーなのですが、彼は四つんばいになって一人で床面の雑巾がけをするのです。禅僧が寺の廊下を雑巾がけする姿が連想されました。

  その日の営業が終了すると、スタッフ全員でまたキッチンの雑巾がけをします。「モップよりもきれいになる掃除の仕方だ」とスタッフに説明し、大西さんが自ら率先して行なっているのです。

  ここにも大西さんの哲学が一貫しています。「雑巾がけが好きなのは、床との距離が近くなり、小さい汚れやホコリにも気づけるからです。徹底的にきれいにすることによって、他の仕事も細部にこだわる妥協のない仕事ができる習慣が身につきます」と明確な理由があったのです。

  当たり前のことだからと、習慣的に掃除をする人も多いでしょう。顧客に気持ちよく来店してもらうためというモチベーションもあるでしょう。だが大西さんの掃除哲学は、よりクオリティの高い美味しいラーメンの追求に絞り込まれています。


*美味求真の行者
  肝心のラーメンの味は、平飼いされている鶏ガラのスープがベースです。アメリカの鶏ガラにはモモ肉がかなり残っているので、スープがいちだんと濃厚になるのですが、圧倒されるのは鶏ガラの分量です。利尻昆布の出汁の入った大鍋に山のような鶏ガラを縁まで投入し、2時間煮込むと隙間ができるので、さらに大量の鶏ガラを投入して6時間煮込むのです。添加物を使わないので、このくらい贅沢に鶏ガラを入れないと極上のコクが出ないらしいのです。
  スープが完成するまでの時間、大西さんはヨガマットを広げて倒立やアサナで体を整えます。体調が万全でないと、いい仕事はできないと言うのです。瞑想にとって体調がどれほど重要かを熟知する私には、最高のラーメンのために心身を絶好調に整える大西さんの、美味追求に命を懸けている本気度が伝わってきました。
  食材の麺もチャーシューもメンマも自家製、注文が入ってからチャーシューをスライスするのは切断面の鮮度を重視しているからでしょうか。腕や肩の負担が大きくても平ざるを使って麺を泳がせムラなく湯切りする姿にも、最高の味に全力投球しているのが感じられました。


*なぜ飽きるのか
  料理人に限らず一流の職人であれば誰でも、自分の技を果てしなく磨き上げていこうとするでしょう。そんな職人気質の88歳のラーメン店主を、大西さんは自著「ドンブリ1杯の小宇宙を」で紹介しています。創業60年余のその店には醤油味の「中華麺」一種類のみ、メンマとチャーシューの増量があるだけです。しかし味覚に頂点はない、と老店主は味に改良を重ね、時代に合わせて食材を探し、常にお客の期待を上回る「味変え」をしてきたといいます。

  お店を長く続ける秘訣がここにある、と大西さんは自身のラーメン哲学から共感を示します。「最初は美味しいと思っても、だんだん飽きてくる。そのうちお客さんから味が落ちたのでは?と言われるようになります。そこで店は味を良くする努力を怠ったらお客さんは離れてしまうのです」と書いています。
  どれほど完成度の高い美もパフォーマンスも美味しい味も、永遠に人の心を満足させることはできません。寸分たがわぬ同じ美や快感が提供されても、人の心は飽きるのです。なぜ飽きるのか。理由は2つあります。

  ①どんな対象も、常に同じ状態で受け止めきれないのが人の心です。快感や驚きや感動が強烈であればあるほど、その快感ホルモンの受容体は数を減らして強い刺激に防衛反応を取ることが知られています。初回と同じ感動や快感を得るには、さらに刺激を強烈にするしかないというメカニズムが、なぜ人は飽きるかの生理学的説明です。

  ②もう一つは、人の心は常に妄想しているからです。音楽を聴きながら、絵や彫刻を眺めながら、ラーメンを食べながら、いかなる妄想も排除した無の心で、一瞬一瞬の対象認知ができるでしょうか。できないのです。必ず何かを想いながら、連想しながら、思考モードが働いて視覚や聴覚や味覚の情報を受け取っているのが私たちです。

  作品についての背景やエピソードを思い出し、前回食べた時の印象と比べ、他の客の美しい横顔が気になったり、連れの者の冗談に笑ったり、法として知覚される六門の情報と脳内情報がミックスされた自分だけの認知ワールドに浸りながらラーメンのスープを飲み干しているのです。
  法として直接知覚されたあるがままの事実よりも、記憶や脳内のイメージは必ず誇張され、美化され、ネガティブな印象が付着し、歪むのが人の心の常です。前回の美しい感動が過ぎったりチラついたりすれば、目の前の事実に正しく向き合えません。期待値が高いほど感動は薄らぎ、思ったより大したことないな・・・と感じてしまうのです。
  瞑想合宿の食事のサティのように、厳密に妄想を排除して味覚や嗅覚の直接知覚に徹すれば、あるがままのラーメンを体験することができるかもしれません。セオリー上そうなのですが、普段はまあ無理でしょうね。そもそも本気でサティを入れたら、芸術鑑賞は成り立たなくなるし、美味しいラーメンも不味いラーメンも、ただの味覚として等価に見送られてしまうでしょう。
  心の中を激しく駆けまわる妄想を使って楽しむのがこの世です。エゴワールドの中に形成される仮想現実の印象に対して貪ったり、怒ったりしながら苦の種を撒き散らしていることに気づかず、輪廻を繰り返しているのです。

*無常の構造
  さて、なぜ大西さんは、絶えずラーメンの味を変えていくかです。どんな快感も美も、存在するものは全て劣化していきます。無常に変滅し、必ず崩れ去っていく宿命です。その無常に逆らって、同じクオリティを維持するためには、「変わらないために、絶えず変わり続けなくてはならない」。老化した細胞は新生細胞と入れ替わり、壊れていくものと作られていくものが平衡を保っているので見かけ上の同一性が維持されるのです。これは存在を固定したものとは見ず、現象の流れとして捉える仏教の無常観に通じています。

  皆さんが今日も元気で瞑想したりダンマトークを聞いたり、昨日と同じように歩いたり笑ったり、見かけ上ほとんど変わらないように見えるのは、体の中で常に「恒常性維持(ホメオスタシス)」が働いているからです。暑くなれば発汗して体温を下げ、寒ければ鳥肌が立って毛穴を閉ざし、常に体温を36度くらいに保とうとします。
  カルシウムが食物から摂取されなければ骨から血中に放出し、多過ぎると骨に貯蔵して平衡状態を保っています。骨の世界も端的に存在の仕組みを説明しているように思われます。破骨細胞という骨を壊す細胞と骨を作る骨芽細胞が、分解と合成、破壊と生成を繰り返しながら、見かけ上の同一状態を保とうとしているのです。
  宇宙の根本原理である無常性は、「同一の状態を保つことの不可能性」と定義されます。素粒子の生滅に象徴されるように、たとえ1億分の1秒のレベルであっても、存在は「生・住・異・滅」のプロセスを経ながら変滅しています。しかも「秩序のあるものは、秩序のない方向にしか動かない」というエントロピー増大の基本法則に貫かれています。台所も机の上も必ず散らかっていくし、整っていた髪の毛も乱れていきます。
  乱雑さに向かって崩壊していく流れに逆らい、クリーンな状態を保とうとすればエネルギーを費やして絶えず掃除をしなければならず、髪に櫛を入れなければなりません。生命現象を維持しようとすれば、間断なく外界エネルギーを取り込み、細胞を作り替え、老廃物を排泄しながら新陳代謝を繰り返していかなければならないのです。
  静止する独楽が高速回転に支えられているように、安定している人体も組織も情況も、その内部では必ず動的な変化が進行して平衡状態が保たれています。そのように、美味求真の果てに完成したラーメンも、微妙に味を進化させていかなければ徐々に飽きられ廃れていくということです。

*なぜ命を懸けられるのか・・・
  200日毎のメニュー更新で、自作ラーメンに死の宣告をする大西さんがインタビューに答えています。
  「今日食べて頂いたラーメンは出し始めて35日目の味です。つまり、あと165日もの間成長し続けるラーメンなんですよ」
  「めちゃくちゃ美味しかったやつが、さらに美味くなる・・・と」
  「約束します。そのめちゃくちゃを超えますから。本気で毎日改良を重ねると、『次はどんな味なんだろう』とか『また食べたい』って思ってもらえるはずなんです」
  大西さんがリスペクトする88歳のラーメン職人のように、一日一日さらに「味変え」をしない限り人気店としての命脈が保てない・・・。ラーメンの動的平衡と言ってよいでしょう。
  なぜ、大西さんは今の瞬間に命を懸けるような人生が送れるのか。その要因を分析してみました。

  ①〆切の力
  終わりを定めた力、〆切の力、余命宣告の力が、強力に背中を押しているからだと思われます。
  店の余命は1000日、メニューの寿命は200日、そして今日のラーメンの味も明日は微妙に変化し、似て非なるラーメンに生まれ変わっていく構造・・・。
  この三重に仕掛けられたシステムの力で、一日一日、一回一回、これが最後の覚悟を更新せざるを得ない背水の陣に自分を追い込んで一瞬に命を懸けようとしている・・・。

  ②好きになる力
  好きになれば意欲が出るし、もっと知りたい、研究したい、深めたい、と絶えざる進化が自ずから推し進められていきます。
  好きになると、情報の集め方が変わります。人に言われなくても、好きなことはもっと知りたくなり、知れば知るほど面白くなり、楽しくなり、深みにハマっていくのを止められません。

  好きになると決めれば、対象のネガティブな側面には注目しなくなります。好きなところ、おいしい部分、楽しい個所、美点や価値あるポジティブな側面に自然に目が行くようになります。こうなると滑り出したスキーのように「ヤメラレナイ、止まらない」の勢いがついて日々進化を遂げる流れが形成されるでしょう。

  変化が向上心とセットになるのです。大西さんも、最初はただ好きだったラーメンが、やがて美味しいラーメンを作る→美味しいものは人を幸せにする→美味しさを限りなく進化させる、向上する→その一回のラーメンに全てを懸ける→それが生きる意味であり、誇りであるという人生哲学・・・。


  ③新奇探索性
  一時停止のテレビ画面を何時間も見続けられるでしょうか。「この電話は現在使われておりません」のメッセージを延々と聞き続けられるでしょうか。できないのです。更新されることのない同じ情報はすぐに色褪せ、飽きられ、無意味に思われ、耐えがたく感じるのです。
  人の脳は、レーダーのように危険を察知したり、新しい、珍しい、面白い情報を得ることに飢えています。これを新奇探索性と言います。新しい情報や珍しいもの、面白いもの、価値あるものを探し求める傾向です。おそらくこれは人類が生き延びるのに、危険回避と食料&生活物資の調達に全神経を使ってきたことによるのでしょう。

  この新奇探索性が強い遺伝子と、それほどではない弱い遺伝子が特定されているようです。ドーパミンのD4レセプター、DRD4の遺伝的なタイプによって決まるらしい。

  19歳で渡米した大西さんも、刺激を求める傾向が強いことを告白しています。携帯電話もない時代に、ガイドブックと出会った人からの情報を頼りにアメリカを旅してワクワクしたのですが、その刺激に慣れると飽き足らなくなり、アメリカに住んでみたい、起業してみたい、とさらに刺激を求めていたと当時のモチベーションを分析しています。
  新奇探索性が強く人一倍変化を追求するタイプは、見るのも、食べるのも、作るのも、常に新しい感動を求め、果てしなく向上しようとするでしょう。それは、その日、その時、その一瞬に全てを懸けようとする大西さんの生き方に直結するように思われます。


  ④手本の力
  霊長類の脳にはミラー・ニューロンと呼ばれる神経細胞が搭載されており、他者の行為を鏡に映すように「真似る」能力が備わっています。人類の「真似る」「学ぶ」能力は突出しており、子供はスターに憧れ、ヒーローの真似をし、敬愛する大人のようになりたいと願うものです。良い師、良い手本に巡り会えるか否かは、人の一生を左右しかねません。

  ラーメン屋が大西さんの天職になったのも、素晴らしいお手本との出会いがあったからです。例えば、伝説のラーメン職人、佐野実との出会いと、その「最高の味の追究」は大西さんに衝撃を与えました。佐野の鬼気迫る美味求真の様子を私もテレビで観たことがありますが、まさにラーメンの鬼でした。

  もう一人、少年の大西さんを魅了したのは、伊丹十三監督の映画「タンポポ」の主人公ゴローです。冴えないラーメン屋に立ち寄った長距離トラック運転手ゴローが、西部劇のさすらいのガンマンのごとく、未亡人の女店主を助けながら究極のラーメンの味を求め、行列のできる店に変身させていくラーメン・ウエスタンの物語です。大西さんは、その「ゴローと自分を重ね合わせて、ラーメンだけを武器に世界を渡り歩こう」とアメリカで出店し、味の進化に命を懸けるようになったのです。

  大西さんの父親も、二重の意味でお手本でした。末期癌で食べられなくなった父親が最後に大西さんのラーメンを所望し、麺をすすりスープを飲んで完食し、幸せそうな笑顔で「ありがとう」と言ってくれました。美味しい料理は人を幸せにする。食べた人も、料理を作った人も幸せになる、という大西さんの「仕事幸福論」の原点になった出来事でした。

  死に行く父親の姿は反面教師でもありました。

  ノースキャロライナ州の雇われ店長として、安いラーメンを数多く売らなければならず、このままでいいのか?と、自問自答している時に父親が他界しました。臨終間近の父親がさまざまな後悔を吐露する姿は、絶対に後悔してはいけない、という暗黙の遺訓となり、大西さんはすぐにその店を辞め、美味求真の行者になったのでした。


*終わるラーメン、始まるラーメン
  「鶴麺」に200日目が来ました。その日のボストンは寒波に見舞われ、予想最低気温マイナス12Cでしたが、開店1時間前から長蛇の列でした。お客さんは誰も今日が最後のラーメン、二度と食べられないと知ってやって来ているのです。
  大西さんの目標は一日に110杯でしたが、最後のこの日は330杯でした。スタッフが帰った後、大西さんは「大雪なのに、僕が人生を懸けたラーメンを食べに来てくれた・・・」と一人で泣いていました。やるべき仕事を全力でやり遂げ、完全燃焼した男の姿に、私ももらい泣きしそうになりましたね。

  実際の死の宣告をされたカメラマンの保山さんと同じ一日一日、一瞬一瞬の生の輝きがあり得ることに感動しました。

  大西さんの第1章の200日が終わり、一旦お店を休んで帰国し、第2章の新しいラーメンの試行錯誤が始まりました。訪れた京都の老舗店主から重要なヒントを授かりました。「(料理の極意は)、香りと、テクスチャー(食感)と、Wow(驚き)だと思てんねん」と。日本料理を世界に広めてきた第一人者でした。大西さんも「鶴麺」の弟子達に、極意を隠さず教えてきた業の結果のように、私には見えました。

  新作ラーメンは、干し松茸を戻したスープと鶏ガラスープを合わせ、麺は平麺、戻した松茸は粗く潰してから鶏ミンチ、白ネギと合わせてワンタンの薄皮で包みました。見事に、松茸の香り+平麺の食感+松茸ワンタンのWow!が活かされています。食材のコストが高いのでお値段は20ドル(2210)、それでも笑顔で帰り、また食べたいと言ってくれる味にしなければならない。命懸けでラーメンを作るしかない、と自分を追い込んでいくのでした。

  シーズン2の店を再開すると、初日から行列ができ、アメリカ人にとって松茸の香りはWow!と絶賛され、「キノコの風味がすごく気に入ったよ」「レベルが高い。すごく濃厚だ。この代金を払う価値があるよ」と言われていました。

  番組の最後は、笑顔の大西さんが「この緊張感を保っていくぞ、ていう気持ちですね」と語り、「一期一会にかける気迫が大西益央の隠し味だ」のナレーションで結ばれました。


*禅も瞑想もラーメンも・・・
  禅の世界では、調理を担当する炊事係の僧を「典座」と言います。道元禅師は「典座教訓」で、古来より典座には修行経験が深く、信任のあるベテラン僧が担当してきたことを記しています。修行の浅い者に典座はできないのです。ややもすると調理や飲食業は低く見られがちですが、職業に貴賤はなく、仏教の「捨(ウペッカー)」の観点や、荘子の「万物斉同」の立場からも、人生のいかなる現場も等しい価値を持つ修行の場と心得るべきでしょう。
  禅の作務は日常生活の中で実践される修行であり、ヴィパッサナー瞑想では日常のサティと言います。禅堂での歩く瞑想や座る瞑想よりも、猥雑な日常茶飯事の中での修行の方が難易度ははるかに高いのです。今回、大西益央という人物を知るにつれ、私の知るどんな瞑想者よりも厳しく自分を律しながら修行している行者に見えてきました。
  残念ながら、仏教のダンマも悟りについての心得もない大西さんが解脱することはないでしょう。しかし、果てしなく高みを目指していく大西さんの向上心や、一瞬に命を懸け完全燃焼しきろうとする精神は、出家も在家も襟を正して刮目して見なければなりません。

*ラーメン屋に明日はない
  「今、ここ!」「Be, Here, Now!」などと、刹那に生きることを説く人は腐るほどいますが、大西さんは紛れもない本物だと思いました。それはボストン「鶴麺」の1000日限定営業が終了した後はどうするのか?という質問に対する答を聞いて、確信に変わりました。
  「1000日後のことは、1000日後に考えるのが、今を本気で楽しむ鶴麺のスタイルです。
  今を本気で生きてないと、将来が不安になるのです。
  本気で成長していたら、未来はなんとかなる!と思ってます。
  1000日後に死ぬわけではないですが、死んでも後悔しないくらいのつもりで、この1000日を本気でやっているので、その後は生きてるだけで丸儲け状態です」と笑いました。
  さらに、同類の質問に、こう答えています。
  「(5年後のことなんか)まったく考えてないですね。だって、今の一杯に本気で向き合っていますから。先のことなんて考えたら、死ぬ気の本気は出せませんよ。もしかすると、ラーメン屋じゃなくなっている可能性すらあるかもしれませんね。
  ただ、何をするとしても、死ぬ気の本気を出せば必ず成功できると思います。だから、これから社会に出る人にも、その準備をしている人にも、何か挑戦してみたいことがあったら後先なんて考えずに本気でやってみてほしいです」
  素晴らしい。天晴れな、見事なご名答です。
  お前は、ここまで本気で修行しているのか、と喝を入れられたように恥じ入りました。「ラーメンの方が、瞑想より上やで。あんたは、本気の、死ぬ気で、瞑想しているんか・・・」という言葉が、大西さんの声でいつまでも鳴り響いています。(4章に続く) 

 今月のダンマ写真 ~

            

      三賢堂遠景@タイ森林僧院


          先生より

 

    Web会だより  
仏教聖地巡礼 インド・ネパール七大聖地の仏跡巡り』(2) H.Y.
  祇園精舎はブッダが雨安居(遊行せず雨期に滞在すること)を過ごされた場所です。日本人には平家物語の冒頭に出てくるので、馴染み深いと思います。経典には祇園精舎にまつわる、以下の有名な話があります。
 舎衛城にはスダッタ長者という裕福な商人が暮らしており、預流果に覚っていた居士(在家のブッダの弟子)でした。スダッタ長者は教団に雨安居の場所を寄進したいと考えていたところ、コーサラ国のジェータ王子(漢訳で祇陀王子)が所有している園林を見つけました。王子に購入したいと持ちかけますが、最初は断られます。

 交渉していくうちに、土地に金貨を敷きつめない限りは売りませんと王子が言いました。それに対しスダッタ長者が買いましたと言いました。私は、王子が売らないと言ったのにスダッタ長者が買いましたという話のやり取りは少し変だと思いましたが、当時のインドではいかなる状況であっても価値を表現した以上は、それで支払うのであれば売買は成立する慣習だったそうです。売る気のない王子は無効だと主張しますが、裁判の末、スダッタ長者に購入の権利が与えられます。その後、スダッタ長者自身が金貨を土地に貼り詰めていきますが、敷き詰めている金貨が無くなってしまいます。スダッタ長者は後で準備して払います、と王子に釈明します。一連のスダッタ長者の真摯な態度を見て、王子はもう結構ですと言い、全ての土地の売却に合意します。

 スダッタ長者は別名をアナータピンディカ居士と呼ばれています。アナータピンディカ(漢訳で給孤独)は、貧しく孤独な者に食を給する善徳者という意味です。経典には、「アナータピンディカ居士の祇園精舎である。持ち主はアナータピンディカ居士である」と記載されています。前所有者である王子の名前を冠した精舎にしたこと、本名のスダッタの名前は出さないところに、スダッタ長者の美徳を感じます。現在の祇園精舎は公園のように整備されており、建物はありません。跡地には建物基礎のレンガが残されており、当時の面影を忍ばせています。そのレンガは当時のものはごくわずかで、大部分は後から積み上げていったものだそうです。
 今回の聖地巡りは、ブッダの残した仏跡を肌で感じて、今後の修行の励みにしたいと思って参加しました。聖地の細かい部分を見れば、史実とは異なる、当時の時代のものではない、など多くの相違点が出てきます。そして聖地巡りの間には、聖地への真偽や聖地にいた比丘のモラルなど、疑う心がその都度出てきました。しかしブッダがこの世に生誕されて、ブッダの教えが今も生き続け、それを伝えてきてくれたサンガがあるから、今この聖地に来たのだと実感しました。疑念はできる限り気にしないようにし、聖地で清らかな喜びを感じることに最大限努めました。
 祇園精舎ではガンダクティと呼ばれるブッダが滞在された部屋に対して、正座で三帰依を行いました。今回は一般の旅行会社のツアーに参加した為、周りのツアー参加者の人たちからは奇異に映ったかもしれません。お寺関係の人ですかとも言われました。しかし今回の聖地巡りは、ただの観光では終わらせたくなかったので、他人がどう言おうがどう思おうが、原始仏教の礼拝スタイルで巡礼を通そうと思いました。
 以前タイに行った際、一日中お寺巡りを行ったことがあります。ダーナ(布施)を行うのが目的で、現地のガイドさんに原始仏教の作法を教えてもらったことがあります。今回はタイで教えてもらったやり方で行いました。具体的には比丘に財施をする、布施箱に財施を入れる、献花の布施をする、三帰依の礼拝をする、聖地では時計周りに礼拝をすることです。加えて、可能な場合は歩きの瞑想、座りの瞑想も行いました。祇園精舎では東南アジアから来ている比丘がいたので、財施を行いました。比丘の方からマネーと要求されたのには面食らいましたが、ここでイライラして疑念を大きくするよりも、聖地で比丘に布施したことは良いことだと割り切りました。

 また祇園精舎にはアーナンダ・ボーディというアーナンダ菩提樹があります。雨安居が終わると、ブッダは覚る可能性のある人を導くために、祇園精舎を離れて遊行に出ていきます。人々は、ブッダが祇園精舎を不在にしているときもブッダの代わりになるものがないか、とアーナンダ尊者に相談しました。アーナンダ尊者はブッダの秘書役で、ブッダの十大弟子の一人です。アーナンダ尊者は菩提樹を植えておけばいいのではと提案します。植える菩提樹は、ブッダが覚りをひらいたガヤーの森の菩提樹を採用することになりました。
 今の樹木は植樹した当時の樹木ではなく、第5世代の樹木だそうです。現地ではこの樹木の周りを3周しました。通常タイだと3周ですが、現地のガイドさんに聞いたらインドでは7周とのことでした。7周はヒンドゥー教の教えだと思いますが、宗教や文化が違えば変わるのかと思いました。ここでは3周できましたが、時間の関係で1周しかできない場合がほとんどでした。その為、1周や半周しかできなかったときは、ブッダへの思いが確かであれば回数は大きな問題にはならない、と自分を納得させることにしました。
 次にマヘートに行きました。マヘートは舎衛城と呼ばれ、コーサラ国の首都だったところです。ブッダの時代には祇園精舎の比丘たちが約15分歩いて、舎衛城にあるスダッタ長者の邸宅に托鉢に行っていました。
 現在、舎衛城にはスダッタ長者の遺構と、阿羅漢になった後にアングリマーラ長老が住んでいた遺構が残されています。遺構はストゥーパと呼ばれます。ストゥーパは、その場所が巡礼者の足跡で踏み消されないようにレンガなどで積み上げられたもので、記念碑のようなものです。ストゥーパには記念碑以外にも仏舎利や阿羅漢を祀ったものもあります。大商人だったスダッタ長者のストゥーパが大きいのは分かるのですが、アングリマーラ長老のストゥーパがスダッタ長者に劣らず大きいのは意外でした。
 アングリマーラ長老のような聖者であれば当時、清貧な家屋に住んでいたと思いますが、後世にレンガがどんどん積まれて、今のストゥーパが大きくなったと勝手に想像しました。昔の人々がレンガを積んだのは、本来はブッダの聖地を守る為ですが、人々は徳を積みたいからとも思いました。経典ではアングリマーラは学友や師匠にそそのかされて、999人の人殺しを犯してしまいます。そして母親殺しの重業を犯す直前に、ブッダが救いの手を差し伸べた人物です。999人という大量殺人は、理由はともあれ大罪です。アングリマーラ長老が覚りをひらくことができたということは大きな意味を持ちます。どんな過去の過ちであっても重業を犯さない限り、今世で諦めることはないことを実証しました。アングリマーラ長老の生い立ちが人々を勇気づけて、ストゥーパが大きくなったと想像しました。
 サヘート・マヘート近郊には日本人が設置した祇園精舎の鐘があります。昔は日本から、多くのお寺の檀家が団体でインド巡礼にやってきました。巡礼者達が祇園精舎に鐘がないことにがっかりした反動かどうかは不明ですが、近年に設置されたものです。せっかく来たので、鐘を大きくつきました。またサヘート・マヘート周辺には各国の寺院等も建立されています。中にはヴィパッサナー瞑想のメディテーションセンターもありました。他の聖地でも周辺には数多くの寺院や瞑想センターがあり、世界の人々の仏教に対する信仰の篤さを感じました。
 聖地巡りの後は、サヘート・マヘート近くのシュラバスティーという町のホテルに宿泊しました。(つづく)

                        地図:アイコンをクリックすると、写真を見ることができます

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☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。
      

水面(みなも)の夏

..さん提供

 










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ダンマの言葉

  涅槃へ行きたいという願いは道の一部です。それは渇望ではありません。痛や苦から解き放たれたいという願いも道の一部です。それも渇望ではありません。願いには、この世における願いとダンマの世界における願い、その2つがあります。この世における願いは欲です。ダンマの世界における願いは道の一端です。
  病から解放されたい、涅槃へ行きたいといった願いは、己の内なるダンマを強くします。努力は道です。ねばり強さは道です。忍耐は道です。解き放たれようとする、あらゆる努力は道です。ひとたび、求めていたものが叶えられた時には、願いが消えてなくなります。そこに至って誰が涅槃を尋ねるでしょうか。

  ひとたび、「回転する車輪である心」が粉々になって跡形もなくなったら、涅槃に行きたいとか、涅槃がどこにあるとか尋ねる人は一人もいません。もはや「涅槃」という言葉はただの名称にすぎません。ひとたび知って、分ってしまったら、また、ひとたび自己の本当のところに達してしまったら、さらに尋ねることがあるでしょうか。(アチャン・マハブア「砂の一粒一粒にも」、「月刊サティ!」20081月号より)
 

 

 今日の一言:選

(1)それまで静けさを目指して淡々と瞑想してきた人が、8月になると、失速することが少なくない。
 真夏の強い光が、アウトドアへと誘うのだろうか。
 ……だが、トロピカルなタイやミャンマー、スリランカで瞑想してきた者には、全身から汗が噴き出す夏こそ、瞑想のシーズン。

(2)読んだり、聞いたり、考えたことではなく、事実の力が、人の心を変えていく。

(3)今の瞬間の事実が、ありのままに観えないので、誤解する。錯覚する。思い込む……
 その記憶が時間とともに歪められ、単純化され、ステレオタイプの漫画のような概念世界が形成されていく。

 経験した瞬間に歪み、記憶に保存されている間に変質していく真実……

 
   読んでみました
  森川すいめい著『漂流老人ホームレス社会』
                  (朝日新聞出版 2015年)
  
  先日の毎日新聞に、『ホームレス 遠い10万円』と題して次のような記事が載った。
  「新型コロナウイルス対策として国民に一律10万円を支給する『特別定額給付金』が、各自治体で申請期限を迎えつつある」が「多くのホームレスは受給できていない。二重支給を防ぐなどの理由から、住民登録が要件となっているためだ。『私たちは国民ではないのか』。当事者からは、諦めや怒りの声が上がる」と。そこで、「支援団体などは再三、総務省に支給を求め、8月4日には約100団体が共同して5000人分超の署名を提出した」が、総務省は受付期間の延長も検討していないし、住民登録を求める姿勢を貫いているそうだ。ホームレスの支援活動に取り組む上智大の下川雅嗣教授(経済学)は、「給付金が最も必要としている人に配られないのは、ある種の『切り捨て』だ」とし、10万円は路上で暮らす人にとって3~4カ月分の生活費にあたると言う。(毎日新聞2020年8月19日朝刊の記事より)
  本書は、精神科医としての医療をはじめ、ホームレスの支援など多岐にわたる活動を行っている著者が、現今の日本の社会における深刻な問題の一つを鋭く描写する一冊である。1973年生まれで、プロフィールやこれまでの歩みについては、本書の終章をはじめネットにも記載されている。

  ※:https://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/new_12/new_01.htmlあの人に聞きたい「私の選んだ道」第12回

  「本書の内容は、個人の実話に基づいていますが、実在する人物とは異なります」との断り書きがあって、著者のフィルターを通しての記述であると述べている。しかし、描かれた人々は今隣にいるかのようであり、いつどうなるかわからない話は本当に重い。またタイトルには「老人」とあるが、老人だけではない。ホームレスとなった背景にほぼ沿いながら、各章は次のように分けられている。
  1章:死ななくてもよかった、2章:家族の形、3章:派遣切りの未に、4章:認知症者の行く先、5章:アルコール依存症、6章:知的障がい、7章:統合失調症、8章:希望、終章:私が野宿の人とともにいる理由。
  ※「障がい」は本来「障碍」との表記が妥当と考えるが、本書に合わせて「障がい」とする(編集部)
  著者は2012年、国によるホームレスの実態に関する全国調査(生活実態調査)に委員として参加した。その結果、「問題の解決を国に期待していた気持ちは、このとき消えた。人が悪いのではない、構造が悪いのだとわかった」。そして、行政には行政にしか出来ない部分があって、それは今後も期待したいが、期待してはいけない部分は民間でやらなければならないと決めたと言う。
  例えば、このようなことである。
  日本国憲法は、国民は最低限度の生活をする権利を定めている。にもかかわらず、国の機能が止まる年末年始に、「ボランティアが集まって炊き出しをすると、一部の行政はその炊き出しの活動を公園から追い出す」のだ。その論理の一つに、「炊き出しがあるから“ホームレス”が来る」と言うのがある。「来るから困ると考えるのか、来るから助けられると考えるのか」、心のもちかたひとつで見える景色が違うのだ。
  著者は言う。もし見える景色が違っていたなら、「答えはいつも、現場にある。現場から離れた場所で課題を設定し答えを出すことは、本当に危険だ」し、現場に行かなければ、「その間違えたことに気付くことさえできない」と。
  膨大な事例とそれへの対応のうち、いくつかを取り上げて紹介していこう。
  第1章は、勤続30年の会社が突然倒産し、年齢のため再就職もかなわず、兄を頼ったが鬱病になって結局そこにもいられず、野宿を重ねたあげく低体温症でようやく入院、その一週間目に亡くなったSさんの話だ。大量のアルコールが肝臓を痛めるのと同じように、過度のストレスによって脳という臓器が傷められた鬱病は、その深刻さや回復については周囲の状況が大きく影響する。このことを社会がどの程度理解し受け入れているかが問われているのだ。「自死率が最も少ない地域は、鬱病の受診率が高い」という研究もある。隠さなくても良いからである。
  第2章は家族との問題によるケース。
  見た目は70歳代か80歳代(実は50歳代だった)の女性Kさん。かつてスナックを開いていたが、不況で店をたたみ、脳梗塞の後遺症の夫と娘夫婦と一緒に住むようになった。するとすぐに娘の夫が金の無心を始め、貯金をすべて渡した途端に暴力が始まった。当初は娘も殴られていたが、そのうち娘も彼女を攻撃し始めた。Kさんは、「私が悪いんです。ごめんなさい」を繰り返していたが、ついにある日、夫が「このままじゃおまえが死んでしまう。これで逃げろ」と1000円札一枚を渡した。1000札は2人分一日の食費だった。
  「ちゃんと説明すれば家族なのだからわかるはず、公的な目も入ったから暴力は無くなるはず」と思った職員が自宅に連絡したため、娘夫婦がすぐに役所に乗り込んできた。
  「暴力などない、連れ帰る」と娘の夫は怒りをあらわにし、Kさんに向かっては、「無駄な金を使わせやがって、医療費をどうすんだ」と激しい剣幕でまくし立てた。身体が大きく声は太くて恐ろしい。「このまま帰れば激しい暴力が待っていることが容易に想像され、Kさんはじっと一点を見つめて震えていた」。
  その時、福祉に精通するベテランの雅俊さんという方がこの件を見事に収めた。
  雅俊さんが、「母親の面倒を見るのは大変でしょう。あなた方が『Kさんの生活の支援をしない』と言えば、母親は生活保護を受給し、面倒は行政が見ていくことになる。医療費も掛からないがどうか。もし、それでいいなら、あとは私が責任を持って行政と話を付ける。任せてほしい」と伝えると、娘夫婦は、「それならばいい」と言って、そのまま逃げるように姿を消した。娘夫婦は、「こいつの言うことを聞いておけば、親とも縁を切れるし、自分たちの金銭的な負担もない。損はない、うまい話だ」と頭の中で素早く計算したようだ、とはのちの推測である。
  著者には「刑事事件にしてでも」という憤りもあったが、「あの当時は、家庭内の問題だからと、事件になる可能性は少ないと誰もがわかっていた。雅俊さんは理想よりも実を、淡々と取った」のだ。そして「『若い君たちの情熱は大事だ。それはずっと持っていてほしい。あなたたちができない部分は私がやるよ。忘れないでほしいのは、その情熱と、大事なことは実際に人が助かることだ』」と、いつも教えてくれていたそうである。
  経営した会社が倒産し、借金取りから逃げるように家族を捨てた72歳のTさんは、息子が会社の社長のため生活保護は受けられないと言う。息子は、「生活保護など恥ずかしい。おまえには受けさせない」と口にし、生活は自分でやれと家にも入れてくれず、電話も掛けてくるなと言ったそうだ。
  血圧が180/110と高く、倒産してからは降圧剤を飲むこともなく、治療も断った。Tさんはそれからまもなく倒れ、救急車で運ばれた時にはすでに心臓が止まっていたと、周囲の人が語っている。
  第3章は、派遣先を解雇され、車いすの母親の介護をしながらの住み込みでは仕事も見つからず、ホームレス生活を続けるTさん親子。生活保護法には、申請を受ければ無条件に受理して審査を開始しなければならない原則がある。今はずいぶん改善されたと言うが、かつては、そもそも申請をしないように説得する「水際作戦」とも比喩される方法が取られていたと言う。
  それまで必死で努力してきたにもかかわらず、「まだ働ける若さだろう」とか、「働けるのに働かない気持ちがある」と捉えられ、努力不足や自己責任に着せられるうえに、相談窓口では、自分たちが如何に無力であるかを証明しなければならない。「もう傷つけられたくない」と思うのが当然の心理だろう。
  第4章は会話がスムーズには進まない認知症の人の例。
  野宿状態の人の中には、禁煙場所でタバコを吸ったり、酒を飲んで宴会を開いている人たちがいる。治安を守る地域の警察官が目を向け声掛けするのはそのような人たちだ。話しかけられた側もそれに対する態度をとる。
  一方、著者たちのような立場では弱っている人に視線が偏る。中には、助けがほしくて大げさに苦しさを訴える人や、知られたら不利益になる事実を隠す人もいる。ある福祉事務所の職員が、「また、あなたたちはだまされたのです」とか、「あなたたちの善意を利用する人たちがいるのです」と言ったことも印象に残ったそうである。
  本章のケースでは、著者は先ず、「私は医学生です。脈拍が触れません。血圧が下がっていると考えられます。救急車を呼ぶべきだと思います」と話し掛ける。これは、認知症ばかりではなく、命の現場においては弱っている人に意思の確認をしてはいけない場合もあるということだ。なぜなら、「意思を持つためのエネルギーが弱っていて、たいていのことはNOと言ってしまう。拒否した方が相手との関わりが減って楽」なのだから。
  さらに認知症の場合には、医師や施設によってケアの質に違いがある。上手な施設では精神薬は極力使わないので易怒性など副作用の心配も少ない。「ある医師は、『こんなものは本人のせいだ』と言って何年も大量の薬を飲ませ、説教までしていたが、薬を減らしたら、もとの穏やかな本人に戻った」そうである。
  第5章はアルコール依存症。依存症になる薬物のうち酒は最も身近なものだ。薬物は一度脳が侵される二度と完治しないと言う。コントロールが出来なくなり、耐性がついて量が増え、切れると身体離脱症状が起こる。苦しさを紛らわせるために飲むことを止められず、ますます苦しくなる。
  ここに記されているのは、もともと不安障害から酒に頼り、ついには仕事を失い癌になって余命幾ばくもなくなったIさんの場合だ。酒、無断離脱、暴力的な態度、パニック発作、ホームレス状態、痩せ衰え、ほとんど寝たきりというありさまだった。
  もてあましていた病院から怯えた様子でホスピスに着いたIさんは、玄関で迎えたスタッフ数名に、「よく、いらっしゃいましたね」と言葉を掛けられると突然涙し、「こんな自分のために」と思ったと言う。「無価値な自分だと思っていたところを、何人ものスタッフがやさしく迎えてくれたことに、Iさんは、ふと力が抜けたようだった」。その後Iさんは食欲を回復し、薬が増えたわけでもないのになぜか痛みもほとんど無くなっていった。
  アルコール依存症には薬や手術となどの治療法はない。唯一の方法は断酒を続けることのみだ。説教や強制入院ではなく、「環境と人が変わったことで、食事をたくさん食べて元気になったIさんは、酒の話をすることなく、穏やかに、数か月後に亡くなった」そうである。
  第6章、Tさんは皮膚にある多数の先天性の腫瘍に対する偏見のために仕事も得られず、10代の頃から野宿生活になり、会話からも知的障がいを合併していることも覗えた。
  かつては同行者が福祉事務所の相談室には同席が許されなかったため、相談者がボックスから数分程度で出てくることも少なくなく、たいていは、「生活保護は受けないということですね」と言われてお終いだったと言う。時には、「生活保護は受けません」と書かされてもいた。明らかに誘導されたにもかかわらず、福祉事務所側は本人の意思だと主張する。しかしそれでも、著者は職員に悪気があるのではなく、そういう仕組みになっていることが問題だと本書で何度も述べている。
  Tさんの担当職員は特にやさしい人だったそうだ。Tさんが入院してすぐに病院に見舞いに行って、「退院したら、○○区の福祉事務所に来てくださいね」と伝えていたし、場所はわかるかと聞くと、わかるとTさんは答えたと言う。それなのにTさんは来なかった。そのことが心に引っかかっていて、「あの後どうしてここに来なかったのですか?」と訊いた。そこで、「覚えていないみたいなんですよね」と著者が言うと、いつも人をどう助けるのかを考えている担当者は一瞬でわかったようだった。
  著者から見ると、Tさんが知的障がいを持つことは明らかだった。「記憶のしかた、場面の認識のしかた、声のトーン、過去の生きてきた歴史、身体の症状などからである。加えて、日付の記憶がずれていた。平成何年か?という質問には、昭和54年と答え・・・認知症を合併していることが予測された」。そして、「もしもここで、覚えていないという事実が確認されていなかったとしたら、Tさんは再びどこかに入ってどこかへ失踪したに違いなかった」と。
  第7章は統合失調症の人々。見えない誰かと会話していたり、陰謀に巻き込まれて逃げていたり、ひたすら何かの儀式を続けていたりと、何か別の世界を感じながら生きている。
  50歳のHさん。「いやよお、この街は俺のものなんだ」「おお。あのビルも。そのビルも。○×不動産」「ああ、おお。モデルをやっている」「おお。東大の・・・学長だったから」・・・。
  会話。「『身体の具合が悪そうですけど?』『うう、おお、おお、うう、ううん、大丈夫』『足、引きずっていますけど、けがでも?』『ああ、ああ、これ、ううん、うん、うん』『病院とか、一緒に行きましょうか?』『・・・・・。いや、いい、いい。地主だから』『足は?』『あ、もう大丈夫。けっこう、けっこう。ごくろう、ごくろう』」。
  「幻覚」や「妄想」のために、時として現実との区別が曖昧になる。誰にでも起こりえる病気の一つとされるが、抗精神病薬の服用で幻覚や妄想は落ち着いていくと言う。
  こうした人たちとどうコミュニケーションをとればよいのか。筆者は、統合失調症だからと言って特別な方法ではなく、原則は不変なのでそれを守ればよいと言う。つまり、「コミュニケーションの原則は、聴き手の、相手を理解しょうとする行動によって成立する」のだから、自分をコントロールして先ずは自分を聴き手にするしかなく、その上で、相手に聴き手になってもらえるようにこちらの話し方や内容を考えるしかない、と言うことである。
  Hさんは池袋の街の大地主としてこの土地で生きているし、また70歳女性のIさんは、「○○会」から脱会したために命を狙われ、テレビその他で監視されているように感じている。それがその人たちの現実であり世界なのだ。
  そこでどうするか。それは、本人が解釈しているのとは違うものがある、その事実を具体的に明確に説明して、現実の整理を手伝うことだと言う。Hさんの場合、幻覚妄想状態のままではあるものの、必要なだけの現状の事実の理解(例えば検査を受ける必要性、たばこは病院なので吸わない規則など)のうえで入院となり、生き延びることが出来た。
  これがなぜ出来たのか。それは「自分の人生の主人公は自分である」という視点を著者たちが大切にし、自身で選択したいという意思を満たすための手伝いに徹しているからだ。「どこで生きて何をして過ごしたいかは本人が決める。それができるかどうかを周囲は裁断しない」と言うことなのだ。
  この考え方は統合失調症を持った人たちへのことだけではない。著者を含むグループが常に最も大切にしたいと考えている理念だと言う。著者がそれに至ったのは、社会福祉法人「浦河べてるの家」が、池袋に来てくれ、「べてぶくろ」を立ち上げてからだと言う。
  「『べてぶくろ』の活動は、援助がないと生活できないのではないのかという援助側の思い込みをやめよと教えてくれた。なぜ周囲の人が、本人がどのように生きたいのかを裁断してしまうのか?と問いただされたのである。私の中の思い込みは、『べてぶくろ』によって断たれた。『べてぶくろ』の実践は、野宿の現場を見て絶望のふちにいた私の心に希望を宿してくれた」。
  第8章ではまず全員がボランティアのNPO法人TENOHASI(てのはし)の経緯が語られる。
  TENOHASIThe Earth and Neighbor Of Happy space Ikebukuro(地球と隣のはっぴい空間池袋)の略。ボランティアには、路上生活を経験した人、会社員、専業主婦、年金生活者、大学生、子ども、障がいを持つ人、そういったいろいろな人々が参加し、またお互いに楽しく出会う場にもなっていて、「生きやすい国に!」を目指している。他区の職員から、池袋に行って相談するようにと促された人も来るそうだ。
  本人も周囲もどうにもならないと思っていたことでも、TENOHASIと出会って、ともかくなんとかなる方法があったことが証されたと著者は言う。それは特別な技や知識で奇跡を起こしているのではなく、「誰にでもできることを実践しているだけだった」と。
  相談してもどうにもならないと思えば、誰も相談には行かないだろう。ならば、支援を「届ける」しかない。「相談室」や「相談員」だけでは、本当に出会わなければならない人とはなかなか出会えないからだ。
  「生活保護を申請するかと言われれば、『しない』と言う人は少なくない。・・・申し訳ないと思っているのである。それが病的になることがある。それが鬱病である」。ホームレスになった人の多くは、楽をしたいわけではなく、迷惑をかけたくないという気持ちがあると同時に、申請や集団生活などで、「もう傷つけられたくない」のである。
  「自分の人生は自分で選んでいいのだという、当たり前のことを確認」し、もしそれが叶わない理由が強い落ち込みや酒であるなら、「その次の課題として一緒に考え」る。そして「私たち支援者は、本人が主人公である本人の物語の中では、主人公を支える脇役であるのだ。ボランティアスタッフだけがそうだということであってはいけない。この後出会うであろう、福祉事務所職員も、クリニックのスタッフも、地域の支援者も、本人の人生の主人公性を奪ってはいけない」のだ。
  例えば、本人が住みたいところを言っても、それが出来るかどうかを周囲が勝手に判断し、施設だったり入院だったりを決めることがある。「その希望は無理だから、まずは更生施設へ」とか、「グループホームからやっていきましょう」と説得するのだ。「本人がどこに住みたいかについて、周囲は、本人の能力をジャッジ(裁断)」することは越権行為と言うべきだろう。
  良い環境の施設もあるが、一部屋をベニヤ板のような薄い壁で仕切って3畳程度の広さにし、それを個室と言い張るひどいところもたくさんある。これでは集団生活を強いられているのと何ら変わりがないばかりではなく、そうした施設に入ると手元に入るお金はほとんどなくなる。「施設に食事代と称して奪われる。門限も決まっている。時間も金もプライバシーも奪われたまま管理されているのだ。しかも、それが本人のためだと確信されてしまう」。だから失踪する人が絶えないのだ。
  私たちが知っていなければならないのは、今は自分は周囲の人だったとしても、「将来は、周囲によって自分の生きたい方法が制御されて施設に隔離されるかも知れない」と言うことだ。
  終章では著者のこれまでの歩みを詳細に語る。そして、著者のフィルターを通しての記述であるから、「私が見た現場は現実ではあるが、事実ではないかもしれない。人を欺くために書くのではない。私が真実だと思っていることを記してはいるけれども、その中身は読む人それぞれが解釈してほしい」と述べている。
  そして、総括的に次のように言う。
  「『平等だということが、差別になることもある』と言った人もいた。『平等でなくてはならないのだ』、という言葉には、マジョリティにいる側の人間による、無言の圧力が含まれている。・・・マジョリティでないことは努力不足が原因なのだと感じさせられる。
  ・・・平等を否定しているのではない。『みんな同じ(平等)であるべきだ』という考えを否定しているのだ。平等の名のもとに、不当に排斥されることに抗うのである。
  ホームレスとは、単に家(ハウス)がない状態をいうのではない。安心して生きていく場(ホーム)がない状態をいう。みんなが平等であることを前提とする社会は、人間を、ホームレス状態に押しやる。本書には、その記録を記した」と。
  「経済競争力の糧にならない人間は、ホームレスか精神科病院か刑務所に、社会は押しやっていないか。家族だけに責任を押しつけていないか。どこかの施設に入れることで安心していないか。人がなぜ生きるのかを、考える時間を失っていないか。私は単に、ただ、社会が生きやすくなったらいいと思う」。
  本書はまさに、今の日本社会が隠そうとしながら抱えている問題提起の書であった。(雅)
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