月刊サティ!

2020年6月号 Monthly sati!   June 2020


 今月の内容

 
 

巻頭ダンマトーク:『死が輝かせる人生』(1)

   ダンマ写真
  Web会だより 『死と奇跡と救い』 
   ダンマの言葉
  今日の一言:選
  読んでみました: 『高峯秀子の流儀』                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   巻頭ダンマトーク:『死が輝かせる人生』 (1) 
                                                  地橋秀雄
  
 第一章 これが最期・・・
  昨日は、春秋社という出版社の社長がお亡くなりになり、葬儀に参列しました。春秋社は、私が初めて書いた『ブッダの瞑想法』という本を出してくれた出版社で、その最初の本が好評だったので、その後何冊か刊行していただいたというご縁があります。私がこうして瞑想や仏教の話ができるのも、無名の私の本を上梓してくださった春秋社のお蔭さまでもあり、法事ではこれまでの思い出がよみがえり、感慨をもよおしました。今回はダンマトークで「死」についてお話しようと思っていたところ、はからずも死者に思いを馳せ、人の生き死にを考えさせられた翌日の講座になりました。

*人生が苦しくなる構造
  さて、ヴィパッサナー瞑想で最も大事なのは、現在の瞬間です。今この一瞬に鋭くサティを入れて、正確な対象認識を目指します。それが人生の苦しみを乗り超えていくブッダの方法なのです。なぜ正確な対象認知なのかというと、実在するリアルな世界と、思考がまとめあげた概念世界をゴッチャにすることから人生の苦しみが始まるからです。普通に生きていれば、人は誰でも事実の世界と想いの世界を混同する傾向があります。脳内フェイクの妄想世界と真実の世界を取り違えやすい認知システムで生まれてきたからです。事実であっても誤解であっても、反射的に怒ったり、貪ったり、嫌悪するので、その瞬間に不善業が作られ人生が苦しくなると見ているのです。どうしたらよいか。意識を研ぎ澄ませて、一瞬一瞬をありのままに、正しくとらえることから始めればよい。その具体的な方法を、ヴィパッサナー瞑想が教えてくれるということです。


*崩れ去っていく事実
  心に止めておいていただきたいのは、リアルな実在として存在するのは、たった一瞬の刹那でしかないことです。今この瞬間に確かに実在していたものが、次の瞬間には過去になってしまう。そして過去になった瞬間、記憶イメージや妄想と同じ素材になってしまうのです。目の前の事実が、一秒後には無いのです。リアルな現実が次々と崩れ去って、妄想と同じものになっていく・・・。
  よく考えれば、これは驚くべきことです。ボーッとしていたら、真実の一瞬をありのままに捉えることはできません。事実と妄想の混乱状態である「無明」に陥りやすいのは当然であり、一瞬の洞察に命を懸ける真剣さが求められる所以です。
  その通りだ。よし、命懸けでがんばるゾ。とヴィパッサナー瞑想を始めてみても、どうでしょうか。ものの5分も経たないうちに、眠気に襲われたり、妄想に巻きこまれたり、急につまらなくなったり、あーあ、と溜息をついてみたり・・・、結局かけ声だけで、本気の命がけになど簡単になれるものではありません。


*メメント・モリ(死を想え:死を忘るなかれ)
  ではなぜ、本気になれないかというと、なんの根拠も保証もないのに、だらだら長生きする予定でいるからなのです。() 人は基本的に未来を楽観視する傾向があり、自分だけは大丈夫と考える「正常性バイアス」を搭載して生まれてきています。大変だ、大変だ!と頻繁にパニックを起こしたり、過剰反応をしていれば疲弊してしまうので、多少のことでは大騒ぎしないように楽観視する心のメカニズムが備わっていると考えられています。
  瞑想必死でがんばろうと思っても、まあ、人生百年時代やし、今からスパートかけられへん。のんびり、マイペースで行こうかい・・・となる訳です。()
 でも、もし本当にあと一年しか生きられない、いや、半年後に確実に死ぬとなったら、どうでしょうか。だらだらお笑い番組観てられますか? 無駄な時間は一瞬たりともないはずです。


*死随念ー死を想う仏教の瞑想
  アップル社のCEOだったスティーブ・ジョブズも「今日が人生最後の日だとしたら、今、本当にやりたいことをやろうとしているか?」 と自らに問いかけていたようです。癌告知をされて以降のジョブズにとっては、「今日が人生最後の日・・・」は冗談でも想定でもない、本気の実感だったことでしょう。自分が死んでいくのは確実で、その最後の日、終末から振り返って今日やるべきこと、やらなければならないことは何かと考えてみると、けっこう真剣さが出るような気がします。
  しかし今日も元気でご飯が美味しい人が想定すると、その瞬間は身が引き締まりますが、たちまち甘い考えが浮かび、なーに、まだまだ・・・と正常性バイアス包まれてしまうでしょう。そこで修行法が必要となり、原始仏教では「死随念」という念仏やマントラ系の瞑想法が今でも実践されています。
  これはサティの瞑想とは異なり、イメージや思念に集中し続けていく瞑想です。仏を念じる「仏随念」や、甘い欲望に打撃を与え貪りタイプを修正する「不浄随念」、慈悲の心を定着させる「慈悲随念」など、瞑想者の資質や反応系の心を組み換える修行と考えてよいでしょう。
  私がスリランカで習った死随念は、「死は確実、生は不確実」という意味のパーリ語を唱え続けるものでした。しかしパーリ語が苦手な人には、意味もイメージも心に刺さってこないので、随念効果が弱いと感じました。一瞬一瞬、死んでいくのだ、ボーッと生きてられないゾ、と自分を戒めるメメント・モリの効果がないと死随念の修行としては弱いのです。
  そこでグリーンヒルの道場での合宿では、瞑想者の方々に、例えば「死にます、死にます・・・」と日本語で唱えるように提案したら、多くの人に効果的でした。昔、10日間合宿で「死にます、死にます、死にます・・・」と一日中、死随念に取り組んでいた人がいました。その人は真剣だったし集中力もあったので、本当にそんな気持ちになって、食事の時間になっても、とても食べる気がしない、と食堂に降りてこられなくなりましたね。()
 随念の修行をやってみると、言葉やイメージに強く反応するタイプの人とそうでない人とがきれいに分かれます。言葉に反応するタイプの人には、ラベリング効果も随念効果も鮮やかな傾向があります。
  言葉の脳とイメージ脳のどちらを多用するかで、概念重視派と実感派に分かれますが、どちらも一長一短です。両方の脳がバランスよく使われるに越したことはなく、その訓練に最適なのがラベリングありのヴィパッサナー瞑想と言えます。概念のフィルターを通さずあるがままに観る訓練と、ラベリングで言語化する訓練が並行して繰り返されていくからです。
  心の反応パターンを根本から書き換えるには他の修行が必要ですが、それほど深刻な問題を抱えていなければ、随念系の瞑想によって反応系の心は上書きされていきます。
 死を想定するだけでは、実際に死を宣告されたような衝撃はありません。どうしても甘くなってしまうのですが、一日中えんえんと「死にます、死にます・・・」と繰り返していると、心に去来する連想や妄想が必ず影響され、否応なしに死について想いを馳せることになるでしょう。理論的に納得しなければ先に進めない人は「エンディングノート」などがよいかもしれませんが、同じ言葉とイメージを繰り返し心に上書きしていく随念が効果的なタイプの人もいるのです。

*想定から本気
  先ほどのスティーブ・ジョブズの言葉は、正確には次のようなものです。
  If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today
  「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは、本当に自分のやりたいことだろうか?」
  これは、2005年スタンフォード大学の卒業生に贈った有名なスピーチの一節です。この時ジョブズは50歳でしたが、30年間毎日、この言葉を鏡に向かって語り続けたとも言われます。
 若い頃から座禅の修行をしていたジョブズは、真剣にこの言葉を呟いたでしょう。しかし48歳で膵臓癌を告知された2年後のこのスピーチでは、「もし今日が人生最後の日だとしたら」はもはや想定ではなく、リアルな本気の詰問となって自身に迫ってくるものだったはずです。その後、56歳で亡くなるまでの6年間の人生は、不安や怖れと戦いながらも一日一日、一瞬一瞬、完全燃焼しようとした日々だったように思われます。まさに「メメント・モリ(死を想え:死を忘るなかれ)」の有無を言わさぬ力に支えられもよおされ、人生を輝かせたであろうし、瞑想をする一瞬一瞬も命を懸けた真剣勝負だったのではないでしょうか。
  人は本能的に死を怖れ、忌み嫌い、縁起でもない、と考えようとさえしない傾向があります。メメント・モリの正反対で、死を想うな、死を忘れろ、自分だけは大丈夫、と何の根拠もない正常性バイアスで楽観的になり、愚かな煩悩に振り回されて不善業を作りながら死んでいきます。ダラダラした気持ちで瞑想をしても、睡魔に襲われ、妄想に巻きこまれ、どうもノラナイな、やる気が出ない、と怠けてしまいます。() もしジョブズのように、真剣に死を想うことができれば、いかなる人生の現場であれ、その一瞬一瞬を最高に輝かせられるのではないでしょうか。

*暗闇に独り漂う・・・
  最近私は、保山耕一というカメラマンを取材した番組を観ました。この人は、生まれ育った奈良の風景を美しい映像の詩のように撮っている方です。ヴィパッサナー瞑想者として、どうしたら今この一瞬に命を懸けられるか、と自らに問いかけるときに参考になるのではないかと思い紹介します。
  この方は、2013年に直腸癌の告知を受けました。腕のいいカメラマンでしたが、ある日突然倒れて、診断結果は、このまま放置すれば余命はあと二カ月と言われたそうです。放射線治療や化学治療を受けて手術ができる状態になり、いちおう成功したのですが、5年後の生存率は、わずか5%から10パーセントと告げられました。死の宣告同然の確率です。
  印象的だったのは、仕事ができなくなった時、この方には友達と呼べる存在が一人もいないと気づいたことです。「仕事でつながっている人間関係はあったけれど、心でつながっている人は、誰もいてなかった」と愕然としたのです。仕事仲間は結局お互いにライバルばかりでしたから、保山は癌でダメらしいとなれば、ただ忘れ去られていくだけです。
  ご家族がいるのか不明ですが、映像で観るかぎり、結婚指輪もしていないし家族の話がまったく出なかったので、独身なのかもしれません。もし妻も子もいない上に、心の通じ合う友達がゼロだとしたら、その孤独感はいかばかりかと思いました。「暗闇の中でたった一人ポカーンと漂っているような、社会の中で自分の存在が孤立しているような印象を持った」と述懐していました。

*研ぎ澄まされていく眼
  そんなある日、スマホで動画が撮れることに気づいたのです。プロのカメラマンなのに、スマホに動画機能があることを知らなかったのだそうです。() 体調も悪いし排便障害もある今の自分にできることは何だろうと思いあぐねていて、ふとスマホで映像が撮れるやん、と閃いたのでした。スマホだったら軽くて持ち運びに負担がかからないので、毎朝始発電車に乗り、その日の直感にしたがい、生まれ育った奈良の美しい風景が撮れそうなところを訪ね歩くようになったのです。
  ほどなく撮影された動画を、その日のうちにインターネット上にアップロードすることも始めました。すると、それまで生きているのか死んでいるのかわからないような灰色の毎日だったのに、何かが変わり始めました。
  カメラマンの仕事しかできない自分が、お金やビジネスとは無関係の動画を撮影している。ただ純粋に撮りたいと思う大好きな奈良の、最も美しい一瞬をカメラにおさめていく。子供のように無心に没頭している。「ああ、こんな感じ、久しぶりだ!生きてるやん!」と実感したといいます。
  死期の迫りつつある人の感覚が鋭く研ぎ澄まされてくるからでしょうか。仕事を離れて純粋に風景の中に立ってみると、ああ、風が吹いている。雨が降っている。歩いたら、落ち葉の音がザッ、ザッ、ザッと鳴る。曇っていて寒いなと思っていたのに、日が差してきたらこんなに暖かいのか・・・。それまで気にも止めなかった当たり前の光景が新鮮に感じられてくる。まるで生まれて初めて世界を眺める幼児のように、極上の美の瞬間を見出して撮影していることがすごく幸せだったのです。
  この番組は、絶望的な5年後生存率を告げられてから6年経過した頃のものです。もう亡くなっていてもおかしくないのに、保山さんはとても元気そうでした。本当にやりたいことが見つかり、それが存分にやれているからでしょう。生き甲斐が感じられ、心が充実している時の体の細胞は活性化し、はた目にも生き生きと輝いて見えるのではないかと思います。
  保山さんは天職に選んだカメラマンを30年間続け、死の宣告をされて初めて自分の人生に本気で向き合うことになり、最後に見出した答えは、長年続けてきた同じ撮影でした。仕事やお金や何かのためではなく、純粋に自分の心に響いてくる瞬間をカメラに切り取っていく作業でした。迫りくる死が意識されると感覚は鋭敏に研ぎ澄まされ、保山さんの目は一瞬の美を逃さずにとらえ、おそらく彼にとって最高傑作の映像をカメラにおさめ撮っていったように思われます。喉元に短刀を突きつけられたように、死と向き合った時に生が最も輝くメメント・モリの力だと言えるでしょう。


*鉛筆で描いた月
  保山さんの奈良の映像には繊細な美しさが感じられました。
  「自然の移ろいはすごく正直で、規則正しくて、春が来て、夏が来るというように、ちゃんと順番を守っている。でも、春が来たり、夏が来たり、そのように季節がめぐっていることは、今の自分には当たり前とは思えなくなった。春が来るのは奇跡だし、花が咲くのも奇跡だし、この環境がずっと続いているのがものすごくありがたく感じられる」。
  このような言葉は、死が迫りくる人に特有のものでしょう。来年この桜が見られるかどうかはわからない。これが最期の桜・・・と思えば、今この一瞬に命を懸けて向き合えるでしょう。十五夜の月がきれいだと言う人は多いが、保山さんにとって一番美しい月は少し違うのです。
  昔、ミャンマーの森林僧院で修行していた時に、満月の夜がどれほど明るいかに驚きました。煌々と照らし出される月光の世界に、夜の美しさを感じました。ところが新月になり月明かりがゼロになった夜は、ミャンマーの山奥ですからね、太古の昔を思わせる凄まじい暗闇にすべてが包まれるのです。漆黒の闇の世界の広がりです。しかし頭上を見上げると、夜空一面に物凄い星が息を呑むような輝きで燦めいて、文字どおりギンギンギラギラ状態です。あの満天の星々の輝きには思わず立ち尽くしたのを覚えています。
  そんな真っ暗闇の新月の翌日が、保山さんにとっていちばん美しい月なのですね。それは、先の尖った鉛筆で描いたような淡く、細い月なのです。西の空に沈んでいった太陽を追いかけるように、繊細な月が微かに現れてくるのを見た瞬間、ゾクッと身震いするような美しさを感じるのだそうです。この状態の月は真剣に探さないと見つからないのですが、存在感の最も希薄な極細の月に最高の美を感じる感性は素晴らしいと思いました。
  たいていの人は三日月くらいで月の存在に気づくのでしょうが、保山さんは誰も注意も払わない新月の翌日の細い線のような月に目が吸い寄せられていくのですね。春日大社の社殿の軒先に深まっていく黄昏の中に、淡い微かな極細の月が映し出されている美しい映像でした。
  なぜ、このような繊細な美しさに目が吸い寄せられていったのでしょうか。そのポイントは次のようなことだと思われます。
  真っ暗闇の新月は全ての存在がかき消された暗黒の死の世界の象徴です。しかし、その闇の中から復活し、再生してくるものがある。闇の中に消滅した命が甦ってくるかのように、鉛筆で描かれたような月が微かに姿を現してくる・・・。死が迫りくる中で最後の仕事をしていた保山さんなのでしょうが、それでも再生してくる微かな月の美しさに一縷の望みを託しながらカメラを回し続けたのではないかと私は解釈したのです。
  死が命を輝かせ、一瞬の刹那をとらえる無常の美学につながっていく。遠からず冷たい闇の中に沈んでいく自分の人生の最期に、真実の瞬間を焼き付けておきたい。死は覚悟しているが、それでも命ある限り生きていきたい・・・。
  そんな保山さんと同じ感覚で、一瞬一瞬に命を懸けてサティを入れていくのが真の瞑想者ではないか。存在の究極に迫り、生存の流れから解脱する一瞬に向かって修行しなければならない。そう教えられたように思いました。(次号に続く)


     

  
   <タイ森林僧院本堂の黄金仏>
           先生より

 

    Web会だより  

    『死と奇跡と救い』 I. E.

  「抗癌剤治療をしなければ7週間、やれば44週間生存というデータがあります」。「腺癌」という診断がついた日に主治医からそう告げられました。20165月のことです。当時麦生(むぎお)は15歳。人間なら76歳の高齢猫です。重い副作用の可能性もある抗癌剤治療を選択する気にはなれませんでした。
  私にとって麦生は特別な子です。ペットは家族も同然と言いますが肉親との縁が薄く孤独な私にとって麦生は楽しい同居人であり、人生の伴侶であり、この上なく大切な我が子でもあり、唯一無二の家族以上の存在でした。そんな麦生が7週間後、この世からいなくなるかもしれない・・・。前々からペットロスについては心配していましたが、その前に死と向き合わなければならないのだと気づきました。私は生き物を飼った経験がありませんでした。愛する存在が死にゆく姿を自分は直視できるだろうか。最期の瞬間まで飼い主として麦生の命を全うさせてあげられるだろうか。強くなりたいと心の底から願いました。
  初めて1day合宿に参加したのは麦生が大腸にできた腺癌を手術した2016年の12月でした。腫瘍の切除には成功したものの開腹のダメージは大きく、様々な身体の不調が襲ってきて気の抜けない日々が続いていました。私が何より恐れていたのは癌の再発でした。どこに再発するかはわかりませんが、おそらく手術はできません。高齢猫に与えるダメージを考えるとリスクが大きすぎます。それでも私は迷うだろう。一縷の望みを託して手術という選択をするかもしれない。飼い主のエゴだと思いました。死生観を持っていないから迷うのだと思いました。
  何が起きてもどんな過酷な状況になっても、麦生らしく死が迎えられるようサポートしてあげたい。そんな思いでネット情報を集め、地橋先生の1day合宿に辿り着きました。そこで私は一人の女性参加者と出会います。振り返りの時間でのその方の発言に心惹かれるものがあり、合宿終了時にどちらからともなく挨拶をし、名刺を渡したところ、後日メールをいただきました。この出会いが私にとっては奇跡とも言える幸運であったと後に知ることになりました。
  手術から1年が過ぎる頃、原因不明の下痢を押さえる薬が見つかり、問題は慢性腎不全のみとなりました。徹底した食餌管理と新薬が効を奏し、腎不全はステージ2の後半で進行が止まったかのように見えました。ところがその手術から2年が過ぎた頃、麦生の体調は悪化していきました。自力ではほとんど食事をしなくなり、しゃっくりをするようになりました。不穏なものを感じた私はしゃっくりの回数を記録しました。単発だったのが連続になり、その間隔が狭くなり、血痰のようなものを吐いたため、麦生への負担を押して病院で検査をしてもらいました。癌が肺に転移しており、「もう何もできません。早ければ1か月位だと思います」と主治医に宣告されました。
  本当の意味で死生観が問われたのはこの後です。麦生は呼吸困難の発作を起こし、息が出来ず部屋中をのたうち回り、苦しさに耐えかね倒れました。私はただ見守るしかできませんでしたが、ふと1day合宿で出会った女性のことを思い出しました。彼女は呼吸器内科の専門医だったのです。既に主治医から余命宣告を受けており、遠からず死が訪れることは私も受け入れていました。ただ、壮絶な発作を見ていたので楽に逝かせてあげたかった。そのために出来ることは何でもしたかった。すがる思いで彼女にメールを送り、アドバイスをお願いしました。彼女は専門医として肺癌の末期患者の身体の中で何が起こり、それが外からはどう見えて、臨終の際の患者がどんな感覚なのか、痛いのか、苦しいのかなどをメールで克明に伝えてきてくれました。人間と猫の違いはあってもメカニズムは一緒でしょうと。そしてとてもわかりやすく私がやった方が良い事とやらない方が良い事を教えてくれました。
  20181125日午後4時過ぎ、3回目の呼吸困難の発作が起きました。不思議とこれが最後の発作になると私にはわかりました。小一時間程して呼吸が落ち着いたのでコンビニに麦生が好きだったヨーグルト飲料を買いに行きました。専門医のアドバイスのおかげで私は最期までもう少し時間があることがわかっていました。9月以降は食欲が廃絶し、強制給餌になっていましたが24日からはそれすら与えられない状態でした。それでも私は麦生が大好きだったチュールとヨーグルト飲料を最後に食べさせたかった。自分の口から食べる姿を最後に目に焼き付けておきたかったのです。本当に不思議なのですが、麦生はむさぼるようにヨーグルト飲料を飲み、大好きだったチュールを何度もペロペロと舐めてくれました。
  その後、麦生は昏睡状態に陥り、専門医がおっしゃった通りの経過をたどり、翌1126日に私の腕の中で息を引き取りました。知識がなければ私は取り乱して麦生に何もしてやれなかったと思います。しかし、これから何が起こるかを詳細に理解していた私は専門医のアドバイスに従い、やった方が良い事を心を込めて麦生にしてやることができました。彼女にはどれだけ感謝しても足りないほど感謝しています。そして麦生を思って参加した1day合宿での出会いが2年後、麦生の臨終に際して奇跡的な幸運として私にめぐってきた不思議にも感謝を禁じ得ません。
  麦生が亡くなって1か月後、私は2回目の1day合宿に参加しました。手術後2年半も生きてくれて、看病をさせてもらえて、最期は私の在宅時に私の腕の中で見送ることができたのに・・・、私は辛くて、苦しくてたまりませんでした。私はただ麦生のことを懐かしく切なく思い出し、永遠の不在を純粋に悲しみたかったのです。しかし当時の私は麦生を思い出すことすらできなかった。苦しくて辛くて息苦しく身体が震え出すような状態でした。
  亡くなる半年前から麦生は自力で食べなくなり、強制給餌が必要になりました。強制給餌は猫にとっても飼い主にとっても過酷です。「生き物として自然な生と言えるのか」という罪悪感に苛まされるからです。止め時は飼い主しか決められず、それは死を意味します。私は強制給餌が上手く、麦生もそれほど嫌がる風ではなったのですが癌が肺に転移してからは息苦しいのか嫌がるようになりました。目を見開いて声に出さないミャアで嫌だと訴える麦生の姿に「食べなきゃ死ぬんだよ」と私も泣きながら食べさせたことが思い出されてなりません。苦しくて苦しくて、1day合宿に行けばなんとかなるかもしれないと思い参加しました。
  地橋先生との面談でありのままを話したところ先生が仰いました。「あなたがやったことが正しかったのか間違っていたのかは誰にもわかりません。しかし、あなたはその時、愛猫のために正しいと思ったことをしたのだから、それは正しかったのだと考えるべきです。もし間違っていたのなら、あなたが死を迎える時に、自分がやったのと同じことをされて苦を受けるでしょう。それが因果と言うもので、ただそれだけのことです」。
  そうか、そうなのだなと思いました。強制給餌に関する苦しみは一瞬にして消えました。間違っていたのなら死ぬときに報いが来るのだから、それまでは後悔する必要はないのだ。罰してもらえるという考えに私はとても救われました。因果の大きな法則に委ねればよいのだと理解しました。
  以上が1day合宿で私が得た奇跡と救いの話です。途方もなく大きな幸運だったと思います。それなのに相変わらず私は瞑想もたまにしかやっておりません。ただ、麦生が亡くなるまでの半年間、私は「今、この時」に真剣に向き合っていました。強制給餌の療法食をシリンジに詰める時、薬やサプリメントを計量してオブラートに包む時、私は目の前の作業に細心の注意を払い、何も考えず、心を込めて手を動かしました。
  死の2週間ほど前の晴れた日の夕方、麦生を毛布にくるんで抱っこしてベランダに出ました。これが最後のベランダ散歩になると分かっていましたが、悲しむことはせず、目を閉じて風の匂いに鼻をゆっくり動かす麦生の顔を見ながら私もまた風を感じました。小さく上下する麦生のお腹を見て、それが失われることを嘆くのではなく、今生きている麦生だけを感じていました。あの時のように「今、ここ」だけを感じながら、また今を生きることができるようになれるだろうか・・・。
  麦生のいない世界はやはり寂しくて、虚しくて、宇宙に漂い続ける塵になったような気分になることがあります。でもこれが私が望んでいた純粋なペットロスなのであれば、今はこの気分を味わうしかありません。
  麦生のいない世界できちんと生きて行く。これが今の私の課題です。外に出て、人と関わり、人を信じ、人を愛し、人に愛されて生きろと麦生に言われているような気がします。死の前の麦生は体重も半分以下になり、やせ細ってしまいましたが、身体の苦痛も死も受け入れた哲学者のような面持ちでした・・・。()


☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。
                   
 






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ダンマの言葉

  言葉とは危険なものです。言葉は、「永遠」という幻想を生み出します。私たちは言葉にとり固まれて生活していますが、それらは概念にすぎません。言葉は、現実そのものではないのです。「川」という言葉を想像してみてください。「川」という言葉によって、流れる川の現実を表わすことは不可能です。「川」という言葉は動きませんが、川の本質は流れていることにあります。
  同様に「慈しみ」も、心から実際に流れ出てこないかぎり、決して存在しません。単に言葉のなかに留まっているだけでは無意味です。価値がありません。「慈しみ」という言葉も、「川」という言葉と同じく、それ自体にはなんの意味もないただの記述であり、その実態を知るためには、実際の経験が必要です。もし、何も知らない小さな子供に「川」という言葉を言っても、何のことか分からないでしょう。しかし、その子の手を実際に水につけて川の流れを感じさせてやると、「川」という言葉を知っているかどうかにかかわりなく、川がどんなものか分かるでしょう。 (『月刊サティ!』2004年7月号より<アヤ・ケーマ尼『Behg NobodyGoig Nowhere」を参考にまとめました>)

 

 

 今日の一言:選

 (1)命のある間しか、瞑想はできない。
      生きている間しか、ダンマの仕事はできない。
      命の輝ける時は短く、諸々の条件が美しく調和するのも長くはない。

 (2)ネガティブな心を制御できる人は、正しく振舞うことができる。
      正しい判断から、優しさが生まれる。

  (3)自分自身を客観的に観られる人が、他人の心も正しく知る。
      優しさは、明晰な心から生まれる。 

 

       

   読んでみました
     斎藤明美著『高峰秀子の流儀』(新潮社 2010年)
 かつて『高峰秀子の言葉』(新潮社 2014年)を取り上げた(月刊サティ!20146月号)ことがあり、同じく養女の斎藤明美が著したものである。本書はそれより4年前、2007年から2008年の2年間、「婦人画報」の連載をまとめたもので、高峰秀子の生前に出版されたもので、少々重なる部分もあるかと思うが、あえて再び取り上げることにした。
  著者はもと「週刊文春」の記者で作家、2009年に松山善三・高峰秀子夫妻の養女となった。情報誌ネットと言うサイトの「ふれあいコラム」には、週刊誌の記者として高峰秀子に寄稿やインタビューのお願いをしたのが「松山と高峰と親しくなったきっかけ」となったとある。3年越しに高峰に月刊誌の連載を願っていてようやく実現した頃、彼女の母が難病で余命を宣告され、兄弟もいないために週刊誌の仕事をしながら3日おきに郷里の高知と東京を往復する生活を続けていたという。そして次のように語る。
  「その時、高峰が本当に心配してくれて、母が死んだ時は、絶望した私を、それこそ深い穴から助け上げてくれるように、毎日、毎日、家に呼んで手作りの温かいご飯を食べさせてくれたんです。それを松山もまた優しく受け入れてくれて……。ですから二人は、おおげさでなく、私の命の恩人なんです。
  養女になるなど夢にも思っていませんでしたし、二人がそのことを私に告げた時には、まさに驚天動地でした」
  『高峰秀子の言葉』を取り上げたあと、高峰自身が著した、『わたしの渡世日記』を読んで、生い立ちから女優として歩んできた道のり、養母のすさまじい行状、それを反面教師とする姿を知り、これがまさに「カルマ」なのかと思った。彼女はそのほかにも数々の著作をなしているが、5歳の頃から小学校にも満足に通えなかった環境のもとで、よくもそこまでなし得たのかと感心するばかりであり、人の可能性や心がけというものの力を改めて感じさせられた。
  今回紹介する中にも、夫の松山善三氏に聞いたこんなエピソードが載っている。
  彼女は新婚の頃、やたらと新聞や雑誌をひっくり返して何かを探していたそうである。不思議に思った彼が「何をしてるの?」と尋ねると、「字を探してるの」と答えた。
  「夫は驚いた。31歳の新妻は辞書の引き方を知らず、読めない字がある時は、別の媒体でその同じ字を探して、読み方を知ろうとしていたのだ」と。そして、「とうちゃんが、中学時代に使ってた辞書をくれたの。それで引き方を教えてくれたよ」「引き算も教えてくれたの。横から一借りてって。割り算と掛け算も教えてくれた」と言ったそうである。
  著者はその時、「私は何だか涙が出そうになった」として、「高峰さんが可哀想なような、可愛らしいような、そして健気なような・・・」、そしてまさに、「松山善三という人は、高峰秀子に“安寧”を与えた。彼女が望んでも手に入れることができなかった心の安らぎを」と思ったそうである。
  本書は、「高峰秀子という知性」からはじまり、「動じない」「求めない」「期待しない」「振り返らない」「迷わない」「甘えない」「変わらない」「結婚」「怠らない」「27歳のパリ その足跡を訪ねて」「媚びない」「おごらない」「こだわらない」など、魅力的な見出しがならぶ。本文は著者の文章とともに日付の付いたできごとが交互に配され、いずれも高峰秀子という人間を際立たせてくれるが、ここではその一部しか紹介できないので、もし興味を持たれたらぜひ一読されることをお勧めしたい。
  「動じない」のなかでは、4歳の時に養母・志げに「かあさん」と言えと責め立てられ、半べそをかきながら「かあさん」と呼んだけれど、呼ばせた相手を「これは怪しの者だな」と感じ、「ふーん、人間ってこういうものなのか」と思ったそうだ。
  「だが、もし高峰秀子が凡庸な子供なら、ここまでは思わなかっただろう。・・・世の中、わからないほうが幸せという事象がいくらもある。だが高峰秀子は『気の毒』にも、既に4歳にして物事の真偽を見極める目を持っていた。ために彼女は、それ以後、用心を手放さない子供になり、やがて、おいそれとは人に心をゆだねない、隙のない人間に成長していくのである」
  「求めない」で典型的なのは、著者が成瀬巳喜雄監督生誕100年についてインタビューを求めた時に言った、「興味ない」「成瀬さんがいいと思って、私もいいと思った。それでいいんだよ」という言葉だ。つまり、高峰秀子は、「人間生活の根本とも言える対人関係にさえ何も求め」ないし、「明らかに彼女は自分自身を“他者”として捉えて」いることが分かる。著者は、これは女優としてはあり得ない精神構造ではないか、と捉えている。
  何億を稼ぎ続けても、大半は養母に吸い上げられ、結婚する時には貯金が6万5千円しかなかったし、夫婦で合わせて100本を超える映画トロフィーは捨ててしまった。そして言った。「あんなもの、いつまでもとっておいてどうするんです。重みで棚がしなってきちゃった」。
  「高峰秀子にとって、金や名誉は『あんなもの』であり、『そんなもの』でしかない。
  著者は「愚痴」と「昔話」と「説教」が年寄りの三種の神器だと考える。もちろん、歳を取らなくてもそんな人はたくさんいて、20年間、1200人ほどの著名人に著者がインタビューしてきたなかで、自身の過去を語る時に自慢の匂いがない人は非常に少なかったと言う。とりわけ俳優、なかでも女優が夢心地の顔になる、つまり自己陶酔だが、見ていて興ざめしたそうだ。高峰にはこれが全くないという。「振り返らない」のである。
  田舎にいる著者の父が半分ボケ(著者は意図的に「ボケ」と言う言葉を使っている)て、側に誰かがいるとのべつまくなしに50年も60年も昔の話をすると言う。自慢話から、繰り言、恨み、悪態等々。著者は見ていて哀れだと思う反面、一方では「父らしい老方」だと納得もする。「父はボケる前から自己管理能力のない人だったからだ。そしてそんな父を見ていて、私は思った。人は、その生きたように老いるのだ、と」。
  また、自伝というのは自身を語るインタビューと同じだが、その人がどれだけ客観性を持って己を直視できるか、それが一目瞭然でわかると言う。先にも触れた『わたしの渡世日記』について、著者は、「おそらく自伝と呼べるもので、この作品ほど自己を客体化した作品はない」と評している。
  結婚した時の夫との格差について、著者が「夫が劣等感を抱かないようにとか、そういうことは考えましたか?」と訊ねた時、「朝から晩まで考えてましたね」ときっぱりと言ったそうだ。そして、
  「結婚した当時はお手伝いさんが三人いたんだけど、例えば食事の時、おかず持ってくるんだって、私のほうに先に出すんだもん。習慣って、ちょっとやそっとじゃ直らないからね。それで魚の切り身なんか、私のほうが大きいの。だからそういうことをやめさせたり、御用開きさんに『うちは今日から松山です。高峰じゃありません』って言ったり。でもいっくら口が酸っぱくなるほど言っても『高峰さん、こんちは』なんて来るから、しまいに、全部とっ換えちゃったの。魚屋、八百屋、酒屋・・・御用聞きさん全部」
  そして著者はこう付け加える。「普通の妻にはない、“高峰秀子”ゆえの特殊事情とはいえ、ここまで実行した高峰さんを、私は天晴れだと思う」と。
  高峰の一つ一つの動作が実に丁寧であることは前回も紹介した。「怠らない」では、「神経が全てに行き渡って」いるので、「どこかにけつまずいた、ぶつかった、何かを壊したということが全くない。つい“うっかり”ということが皆無の、驚異の人」なのだと言うことをあらためて付け加えておきたい。
  高峰秀子は普通じゃない。著者はそのどう普通じゃないのかをその出会いからずっと考えてきたし、また読者にも一緒に考えて欲しいというのだが、自身でもいまだ確たる答えはないと言う。しかしそれでも、著者が20代の頃に感じた“3種類の人間”に当てはめて推し量ってみようとする。それは、
  ①何もわからない人
  ②わかっているが実践できない人
  ③わかっていて、なおかつ実践できる人
  著者の経験では②が一番多く、同時に一番不幸だと言う。その理由は、「わかっていて実践できないのだから、挫折感や自己嫌悪を感じる。そして、実践できないということは『わかっている』ことにはならないのではないかという恐怖にさいなまれる。幸せなのは①と③だ。ただし中身は正反対であり、③に入るのは至難だ。
  高峰秀子は明らかに③の人である」。では、なにが「わかる」「わからない」のか。「それはたぶん、人としての理想だ。言ってみれば、人としてどうあるのが麗しいか。本当の幸福とは何かということ」ではないか、「高峰秀子は、それを知っている。そして実践できる。そこが普通じゃない、というのが私の結論である」と結んでいる。
  「おかげさまで、いよいよ私の連載も最終回です」となり、松山氏が「おめでとう。無事に最終回、よかったね」と笑顔で言ってくれた時、高峰さんが言ったそうだ。
  「“こだわらない”って、もうやった?」
  これまで内容にも一切の制限はおろか、何一つ注文をつけなかった、「その高峰さんが、初めて自分から、“こだわらない”というタイトルはもう使ったかと聞いたのだ。・・・“こだわらない”というテーマが高峰さんの信条の中でもよほど重要なものに違いないと推察した。
  このところメディアなので、「こだわる」という言葉が「こだわりの○○」と言うように、まるでプラスの意味のように使われることがあるが、連載の担当者が言うように、本来はネガティブな意味である。このように意味が取り違えられたりするのを耳にすると、いかに「言葉は変わる」ものとはいえ釈然としないのはやはり「歳のせい・・・?」。
  で、いきなり高蜂さんが話し出した。
  『私は、心の中にノートを持ってるの。そのノートにね、いろんなことをゴタゴタ書きこみたくないの。いつも真っ白にしておきたいの』
  これは前回も紹介しているが、これについて著者はこう付け加える。
  「もし私たちが日常のあらゆる出来事に対して『こだわらず』、それを実行し続けることができたら、どれほど毎日が心安らかなことだろう」と。
  最後に、『高峰秀子の言葉』を前回取り上げようとしたきっかけとなったもので、やむなくカットしたエピソードを一つ。
  高峰が70代初めの頃、いつも行く麻布十番の魚屋へ、その晩のおかずを買いに行った。(普通、女優は、少なくとも“大女優を呼ばれる人はそんなことをしないそうだ)
  「高峰が魚を選んでいると、店の主人が言った、
  『お客さん、よくみえるけど、近所にお住まいですか?』
  高峰は応えた、
  『ええ。そこの麻布永坂に住んでます』
  すると店主が、いいこと教えてあげるとでも言わんばかりに、
  『あそこには女優の高峰秀子さんが住んでるんですよ。知ってました?』
  その時高峰、少しも慌てず、ニッと小さく笑うと、と言っても私は現場にいたわけではない。恐らく高峰のことだからそんな表情をしただろうと想像するのだ。
  こう応えた、
  『私、その成れの果てです』
  ・・・驚いたのは魚屋の主人で、アングリと口を開けたまま。
  なぜこの言葉が私のお気に入りかと言えば、いかにも“高峰秀子らしい”からだ。
  高峰でなければ絶対に言えない一言だからだ」
  客観視の見本のような話に思えた。(雅)
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