月刊サティ!

2020年1/2月合併号  Monthly sati!  Jan. Feb. 2020


 今月の内容

 
 
巻頭ダンマトーク  『瞑想か? 信仰か? ・・・心の拠りどころとは


  ダンマ写真
  Web会だより:『体を整え、心を整え、人生を整え』(前半)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
  読んでみました:『ホモ・デウス』                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

  今月は質問をきっかけとしたダンマトークを掲載いたします。内容は、人類が生き延びるために培った形質をふまえて、ヴィパッサナー瞑想の意義するところを俯瞰的な視点から解説しています。ぜひ、みなさまの瞑想実践のバックボーンとして活かしていただけたらと思います。(編集部)



           巻頭ダンマトーク

『瞑想か? 信仰か?・・・心の拠りどころとは』
 
                                                         地橋秀雄
  今月は質問をもととしたダンマトークを掲載いたします。内容は、人類が生き延びるために培った形質をふまえて、ヴィパッサナー瞑想の意義するところを俯瞰的な視点から解説しています。ぜひ、みなさまの瞑想実践のバックボーンとして活かしていただけたらと思います。(編集部) 
Aさん:
  瞑想も人生も上手くいかない者には、ヴィパッサナー瞑想的ではないかもしれませんが、「すがる対象」も必要なのではないでしょうか?

先生:
  「すがる対象」と言うと、やや否定的な依存の感じがしますが、とても重要なことだと思います。「すがる対象」は<心の安全基地>と言い換えることができ、人が生きていく上での拠りどころであり、必要不可欠なものです。

*すがる、繋がる、群れる、孤独を忌避する・・・
  困り果てた時に、すがるものが何もないと感じてしまえば、絶望感や孤立感、無力感の妄想で圧し潰されるのではないでしょうか。家族からも友人や仲間からも見放され、誰ひとり頼れる人がいない・・・、そんな孤独地獄に陥れば生きる力を奪われ自滅するにちがいありません。
  孤独に対する耐性は個人差がありますが、食欲や性欲と並んで集団欲は最強の本能プログラムです。人類の歴史が700万年続いてきたのは、集団を形成したからです。多くの動物は、捕食する側もされる側も、牙や爪、蹄、甲羅、擬態、毒・・・など、体を強力に進化させて適応しましたが、人類は道具の使用と、群れを形成して集団の力で生き延びる戦略を取りました。
  スーパーやコンビニ、インターネットの通販システムなどのお蔭で、現代人は孤独でも生きられると錯覚しがちですが、太古の昔から群れに属さない者は確実に死に絶えていったのです。仲間と群れなかったら、危険回避も、食料や水の調達も、繁殖の相手と出会うこともできません。家族や群れの一員として集団に帰属するからこそ、食欲も性欲も安全も満たされるのです。
  愛する人がいる。愛してくれる人や支えてくれる人がいる。自分は他者と結ばれているし、帰属する集団の一員であり、孤独ではない。・・・そう感じられなければ、頭が狂うほど苦しくなるように、つまり、何がなんでも仲間を求め、人との絆を作り、集団を形成しようという強い本能的衝動に突き動かされるのが人類なのです。
  誰かと繋がりたい、すがる対象がなければ生きられないし、耐えられない、と感じるのは、生存の最深部から響いてくる叫びだと言ってよいでしょう。まさにあなたが仰るように、人にはすがる対象が必要なのです。それは、絆や関係性を求める命の声であり、孤立=死を回避しようとする本能なのです。

*幸福と苦の源泉
  瞑想を始めたきっかけを問うと、多くの人が、苦しい人生を瞑想で乗り超えたかったと言います。何ゆえに人生が苦しいのかと訊くと、ほとんどの方が人間関係の悩みを訴えます。
  親との関係、子供との関係、上司や同僚との関係、男女関係、夫婦関係、イジメやパワハラ等々、人生の苦しみとは、つまるところ人間関係ではないかという気がしてきます。
  家族や親しい仲間との良好な関係は幸福の源泉です。貧しくても、劣悪な環境でも、素晴らしい人間関係に恵まれていれば、優しく支え合い、互いに思いやり、温かい炉辺の幸福があるのです。反対に、富や権力や地位や健康や美貌や知性に恵まれていても、人間関係が最悪では幸せではないでしょう。人間関係は、人類にとっての光と闇です。人との絆なくしては絶対に生きられない肝心要であり、同時に人生苦そのものでもあるのです。
  すがる対象なくしては、人は生きられない・・・。安全・安心の拠りどころを、人と人との関係のなかに求めずにはいられないのです。絶対的に守ってくれる母、家族、仲間、共同体との揺るぎない絆を希求する心は、人間の最深部に組み込まれています。これが、「すがる対象」がなぜ人間に必要不可欠であるかの理由です。
  すがる対象は、どんなことがあっても自分を見捨てず、絶対的に守ってくれる存在でなければならないのに、現実には、虐待されたり、ダマされたり、裏切られたり、傷つけられたり・・・、すがるどころか、寄る辺のない不安と怯えと不信感に悩み苦しんでいる人が少なくないのです。どうしたら良いのでしょうか。

*神話の普遍性
  現実の人間関係の中に、安全基地となる絆を持てなかった人には代替えが必要不可欠です。拠りどころが何もない状態では、慢性的に不安や不満がくすぶり不善心を垂れ流すことになりがちです。安全・安心を保証し、心の安息をもたらしてくれる心理的装置として、ホモサピエンスが作り出した傑作は神話と宗教でしょう。
  神話には、未知のものに説明をつけて取りあえず安心感をもたらす心理効果があります。何もわからない、得体が知れない、説明がつかないものに対しては、ネガティブな不安や恐怖の妄想が化け物のように肥大しがちです。
  訳の分からない未知のものでも、取りあえず名前が付けられるだけで認識の範疇に入った感じがするし、たとえデタラメでもそれらしき説明に納得感が得られれば、妄想がモンスター化して肥大することはありません。
  太陽はチャリオット(二輪戦車)に引かれて運行しているというギリシア神話や、日蝕は太陽の女神を大蛙が呑み込もうしているので、体を赤く塗って弓矢を放って女神を救えばよいというアメリカ先住民の神話など、妄想以外の何ものでもありません。しかし根拠のない妄想でも、説明可能・認識可能な知的納得感は一定の心理的効果をもたらします。
  脳容量が増大し、妄想するシステムを搭載してしまったホモサピエンスは、妄想が生み出す不安や恐怖に対し、神話の妄想で対抗し安心感を得ようとしたように思われます。どんな未開部族でも必ず、物事の起源や因果関係を説明する神話や伝承の物語を持っています。
  人の脳は、意味を求めずにはいられないのです。34歳くらいになると子供は「どうして?」と質問攻めをしてきますが、説明を求める衝動は大人も子供も変わりません。特に災害に襲われたり心にストレスを感じると、人はその意味を求めずにはいられなくなります。昔話や神話が必然の力で生まれてきた所以でしょう。

*脳の進化が宗教を作った
  伝説や民話や神話の説明は知的な納得感以上のものではありませんが、安心感や安らぎの情動にもアピールする宗教の効果はさらに絶大です。アマゾンやボルネオなどには、今でも石器時代と変わらない狩猟採集生活を続けている未開部族がいますが、独自の宗教を持たない部族はおりません。
  この20万年間、ホモサピエンスの脳容量や身体能力はほぼ同じなので、例えばアマゾンの裸族の赤ちゃんが先進国のインテリ家族の養子として育てば現代人と完璧に同じ能力を発揮するでしょう。逆に言えば、狩猟や採集をするのに必要な能力を、現代人は精密機器やIT技術の分野に応用しているだけなのです。
  ホモサピエンスは身体や脳の構造、規模、性能、仕様が同じなのだから、どんな民族も部族も必ず言葉をしゃべり、妄想し、死者を埋葬し、呪術や宗教を持っているのです。
  宗教は、なぜ人類に必要だったのでしょうか。人類特有の不安や恐怖を解消するためでしょう。ライオンなど大型肉食獣に対する脅威、雷鳴、嵐、洪水、旱魃などの自然の猛威、そして何よりも死に対する畏怖を軽減するために、何らかの心理的装置が必須アイテムになったのが人類です。
  全ては、言葉とイメージを操作して妄想する脳を搭載したことが発端です。
  アフリカのサバンナで、ガゼルは、チーターの姿を目撃した時、臭いを嗅いだ時、足音を聞いた時、恐怖を司る脳にスイッチが入り、運動系の脳に駆動され走り出します。しかし、ガゼルの視覚・聴覚・嗅覚に訴える脅威が消えれば、何事もなかったように草を食み始めるでしょう。
  しかし人類は、ライオンに襲われそうになった谷間の茂みを通るたびに、これといった姿も臭いも足音も何の兆候がなくても、ライオンがいるかもしれない・・・と緊張し、不安に心臓が高鳴り始めるのです。実在する恐怖刺激にのみ反応するガゼルやヌーと、在りもしないものを妄想して怯える人類の違いは、脳容量と抽象的な思考能力の有無に由来します。
  動物は実在する事象のみに反応しますが、人類は、事実と関係なく余計なことを妄想して不安と恐怖に怯えるのです。認知能力が増大した結果、世界を分析し理解しなくてはいられなくなり、今日食べるものがあっても明日の飢えを思い煩い、妄想する脳が訴える不安を軽減するシステムが必要になったのです。

*信仰型の宗教
  少数派ながら、精霊と交信できるシャーマンや霊能者タイプの人は世界中どこにでも一定の割合で存在しますが、彼らは脳裏に浮かぶイメージのレベルをはるかに超えたリアルさで、霊や神の存在を語ります。シャーマンの超感覚的知覚は特殊能力であり、一般の人の追試や検証で確かめることができないので、真偽のほどは定かではなく、信じるか信じないかの判断に委ねられます。しかし存在しないものを想像する能力は、人間なら誰もが有しているので、ここから信仰型の宗教が生まれてくるのは必然でしょう。
  現実に存在するものにしか関心を示さないチンパンジーと人間が異なるのは、概念やイメージを駆使しながら「想像する力」です。チンパンジーが祖霊に無病息災を祈ったり、バナナとアカコロブスの肉を神に捧げて、死後永遠の楽園で暮らせることを願うなどという話は聞いたことがありませんが、人類は目に見えない精霊や神を想像し拝むことができるのです。
  この<想像する=妄想する>能力のお陰で、人類はシャーマンや神官の託宣を共同幻想として【神】を共有し、人間のリーダーとはケタ違いの威神力によって巨大な集団を形成し統一することができたのです。
  狼もハイエナもリカオンも、群れを形成する動物には服従本能があり、人間も例外ではありません。猿山のボスになりたがるのも本能ですが、親分やボスやリーダーに従う本能も組み込まれていて、偉大な指導者に従う精神がカリスマやアイドルやスーパースターに熱狂し、英雄や偶像を歓呼の声で讃えるのです。そして、家長→族長→王→皇帝→とエスカレートしていった究極に、全能の神が妄想され共有され、服従本能は完成するのです。
  こうして畏怖すべき偉大な神の権能を共同幻想として分かち持つ想像力が、膨大な数の人間を巨大な一つの集団としてまとめ、階層的な秩序と統一をもたらしたと言えるでしょう。集団を差配するリーダーは、自らシャーマンとなり、あるいは神官を利用して人々の想像力に訴え、集団全体に上意下達を徹底させる権威を付与しようとする構造が人間の社会です。
  蟻や蜂の群れはホルモン言語で女王を絶対視しますが、人間は「王権神授説」などのように「王の権威は神から授かったものだ。王は神の代理人だ」と、人間の妄想する力を利用して集団を統率する原動力にしたのです。ヒットラーも「キリストの仕事を、私が引き継ぐのだ!」とアジ演説をぶち上げて独裁者に成り上がっていきました。
  ブランドの力も然りだし、私がブッダの言葉を引用するのも同じ構造です。私の言葉は軽く聞き流されても、同じ意味内容を経典の中に見つけて引用すると、後光が射したかのように有難味や値打ちが上がって、信頼される可能性が増えるのです。()

*母なる神への信仰
  精霊や神のイメージは千差万別で、民族や部族の数だけ、あるいは人間に思いつく数だけ存在します。ギリシアやローマ、ヒンドゥーの多神教世界は神様のオンパレードだし、唯一絶対の神様ですら複数存在するのだから、「ひょっとして、神って、人間が妄想で作り上げたものじゃないの?」と疑問を持つ人も出てくるでしょう。
  しかし、実在してもしなくてもいいのです。不安や怯えを一掃し、人の心に安息をもたらしてくれる安全装置として機能すれば、宗教の存在意義はあるのです。民族や部族の数だけ宗教も神様も必ず存在しますが、掟や規律を守らせる厳しい父性的神と、あらゆる命を生み出し全てを優しく受け容れる母なる神のイメージは、どちらも人類に普遍的です。
  さて、ここで問題にしたいのは、永遠の母性を象徴する地母神や母神についてです。程度の差は千差万別ですが、母親の愛が得られなかった・・・と寂しさと悲しさに苦しんできた人が、いったい世界中にどれだけいるでしょうか。愛着障害は、一生その人の人生に影を落とし続け、不安感や人間不信など多くの人生苦の要因になっています。カルマが良ければ母性的な人に出会い、傷が癒され、救われますが、出会いのなかった膨大な数の人々に、この「母なる神」が強力な心の拠りどころとなり救いになるのです。
  どんな時にも自分を丸ごと包み込んでくれる絶対的な安全基地が、人の心には必要不可欠なのです。菩薩や女神のような完璧な母性を体現している人は限りなく少ないので、理想化された究極の安心・安全の拠りどころを提供してくれる宗教や信仰の存在意義は高いと言えるでしょう。
  「天の父」以外に神は存在しないキリスト教世界でも、優しい聖母マリアは女神のように慕われ、根強い人気があります。絶対的な母性のイメージを必要とする人がどれだけ多いかが窺われます。一神教の仏教バージョンと言ってよい阿弥陀仏は、究極の母性の完成形と言ってよいかもしれません。善人だろうが悪人だろうが、誰もかれもみんな我が子なんだ。絶対に見捨てないで、必ず救う!と言ってくれるのです。
  「迷わないで山に残った99匹の羊よりも、迷い出た1匹の羊が見つかったことを喜ぶように、小さい者のひとりが滅びることは、天にましますあなた方の父の御心ではない・・・」と説くイエスの言葉に涙を流す人も数えきれないでしょう。能力も高くないし性格も悪い自分のような者でも、絶対に見捨てずに救ってくれる・・・。
  この安心感こそが、「すがる対象」の原点です。母親の胸に優しく抱かれておっぱいを飲み、自分は無条件に愛されている、ただこのまま存在していて大丈夫なんだ、と信じられる情緒的安らぎが自尊感情の基盤です。その基盤に亀裂が入った不安定な幼少期を過ごした者には、絶対に自分を見捨てない「すがる対象」がなくてはならないのです。
  そのような拠りどころを持たない者は、自信のなさに苦しみ、仕事や外界の対象に向かうべき心のエネルギーを自分自身との葛藤で費消してしまい、すぐに不安になり、ネガティブな妄想に怯えがちになるでしょう。

*認知症の母と少女の救済
  たび重なる父親の虐待で深く傷ついてきた少女が、14歳の時にクリスチャンになり「やっと、本当の父を見つけた!」と叫び、生まれ変わったように、生命と喜びにあふれ、自分にも人にもおだやかになり、聖書を勉強し、「イエスは、私を愛してくださる」というステッカーをあらゆる勉強道具に貼りまくったといいます。
  毒親に傷つけられた少女にもたらされたこの救済こそ、宗教の力であり信仰の力です。たとえ神は存在せず、イエスの愛がただの妄想であっても、救いが成立するならば存在意義はあるでしょう。
  この少女の母親クリスティーンは、46歳の若さで認知症を宣告され絶望に打ちひしがれた時、娘に遅れてクリスチャンになり、やはり信仰に支えられ、輪になって自分のために祈ってくれる教会の仲間の優しさに救われるのです。不安と絶望で目の前が真っ暗になっていた認知症のシングルマザーが、未来に明るい希望を持ち、あるがままに自分の現状を受け容れ、安らかに日々を過ごすことができたのであれば、たとえ存在しなくても神は立派に機能したのであり、ホモサピエンスの最高傑作の一つと言えるでしょう。
  これは私の持論であり、ツイッターに次のような文章を書いたこともあります。

★「神は、存在しないことによって機能し、人を支配する・・・。
  巨大な国家や集団を一つにまとめる<共同幻想>として・・・。
  神の沈黙は、神は妄想に過ぎないことを暗黙に宣言している。
  悲惨な苦しみを納得して受け容れる装置として、人類は、存在しないことで万能になる神を必要としてきた・・・」

*光もあれば闇もある
  人類には、仲間と力を合わせながら共に生きていく道しかなかったのです。それゆえに孤独を忌避し、仲間を求め、集団を形成し、家族→共同体→国家→宗教→と規模を拡大しながら、人の絆と仲間意識を何よりも重んじてきました。内のものと外のものを峻別し、仲間との同胞感覚が強いほど、外集団に対抗意識を持ち、敵視します。脅威の大型捕食動物から逃げまどい、狩猟対象の獲物を殺し、見知らぬ敵対勢力と競合してきた数百万年の間に組み込まれた自他の分別の感覚や、内と繋がり外を排除するプログラムは、遺伝子の奥深くにまで書き込まれているのです。
  例えば、全身の細胞のひとつ一つにいたるまで常に免疫のシステムによって守られていますが、免疫の役割は自己が非自己を徹底的に排除することです。内集団の<我々>を守り、愛し合い、外集団の<彼ら>を叩きのめすために団結するのは、人間の成り立ち上、あまりにも当たり前な必然の反応なのです。
  「すがる対象」とは、心の安全基地であり、エゴの拠りどころであり、家族の絆に端を発し、仲間や共同体に帰属する安心感の究極が「神」であり、宗教と言ってよいでしょう。

*宗教戦争
  エゴにはすがる対象が不可欠であり、ちょっと問題のある凡夫の両親よりも、安全基地としての純度や絶対性は神の方がはるかに優れています。神のイメージは時代とともに進化し、洗練され、完全性を増していくので、その神のために命を投げ出す殉教者が現れるのも自然なことです。しかし神は常に無言なので、どんなことにも大義名分を与えてくれる便利な装置として、聖職者や王に利用されてきた歴史もあります。ギラギラした領土的野心から他国を侵略し、富を収奪し、人を奴隷化し、批判する集団には「聖なる」戦争を仕掛け、神の名の下に罪悪感を払拭し、集団エゴの邪悪さを肯定する装置にもされてきました。
  ヒンドゥー教や古代ローマのように、多神教世界には本来的な共存の思想がありますが、「私のほかに神があってはならない」と宣言する一神教が世界を席捲するにつれ、宗教のマイナス要因が露わになってきました。集団を一つにまとめる求心力は、同時に集団エゴを強化し、外集団を攻撃し排除する原動力にもなるのです。個人の「すがる対象」が多神教世界で共存することも可能なのですが、「私だけが正しい」とする一神教世界では、エゴ感覚の排他性を強化し、人と人、集団と集団、国家と国家が激突して殺し合う直接原因にさえなるということです。未開部族の神と神、十字軍とイスラムの神、カソリックとプロテスタントの近親憎悪的内ゲバ、織田信長に挑んでいった僧兵達、空爆に報復する自爆テロ・・・。
  在りもしないものを妄想する人類の概念形成能力は、人類を巨大な集団としてまとめ上げる力原動力であり、心に安息をもたらす安全基地にもなるが、我利我利の集団エゴを正当化する心理的装置にも、侵略と収奪の罪悪感を忘れさせてくれる免罪装置にもなり得るということです。

*原始仏教は特別か?
  一切の概念や妄想を排除して、実在する事象のみをありのままに客観視するヴィパッサナー瞑想は、信仰型の宗教とは一線を画すものです。欲や怒りの妄想も、神妄想も、ダンマ妄想も、思考されたものは全てドブに放り捨て、捨(ウペッカー)の心で淡々と客観視を続け、そのサティを入れている主体にもサティを入れ続けて対象化していく・・・。
  と、こう言えばカッコいいのですが、テーラワーダ仏教を支えている国々の信者さん達のほとんどは、瞑想などやったこともないし、そんな時間もないので、原始仏教のダンマを信仰しているだけの人が圧倒的に多いのです。そうなると、「妄想を離れて、あるがままに観る瞑想は凄いよね・・・」と話しながら、三宝帰依やヴィパッサナー瞑想理論をダンマとして信仰しているだけの状態に過ぎません。これでは、教義内容が異なるだけで、世界中のさまざまな宗教を信仰している人たちと変わらない、ドングリの背比べにならないでしょうか。

*ダンマを拠りどころとする
  ブッダが悟りを開いて解脱した聖者になった後に、「私は、私が悟り得たこのダンマ()をうやまい、拠りどころにしていこう」と呟きます。すると、梵天が現れ、「尊師よ、そのとおりです。過去の仏たちもみな、法のみを尊敬し、うやまい、たよっておられました。未来の諸仏もそうでしょう」と伝えています。
  解脱した聖者も「心の拠りどころ」を必要とするらしいのは、驚きでした。
  ブッダが拠りどころにされたダンマの内容は言及されていませんが、私は個人的に八正道の「正見」の内容の一つである「因果論」を拠りどころにしています。
  人に説明したりするくらいですから、悪因悪果・善因善果の因果応報のセオリーを忘れることはありません。我が身に良いことが起きたなら、その原因に相応する善行の記憶を探り、不快な嫌悪すべきことが経験された時には、その原因となったであろう不善業の所業を想起するのです。日々遭遇する経験事象というものは、すべて因果の理法どおりの展開であることに確信を持っていると、善いことが起きても悪いことが起きても、心は乱れることなく、あるがままに受容できるのです。
  雀が一羽落ちるのも神の意志による・・・とハムレットは呟きますが、雀が落ちるには落ちるだけの諸々の原因と条件があったからだと、私は反射的に考えます。
  どんなことも因果の帰結であると理解していくと、心が常に安らいでいる最強の拠りどころとなるでしょう。

*マザーテレサとマハーカッサパ
  インドの路上で野垂れ死にしようとする膿だらけの乞食が、マザーテレサの「死を待つ人々の家」に担ぎ込まれます。そのお世話をするシスター達に、毎朝テレサは「あなた達がケアする人の体は、キリストの体だと思いなさい」と檄を飛ばしたといいます。なんと素晴らしい妄想なのだろう・・・と感銘を受けました。信仰が原点になっています。
  一方、一切の妄想を離れた阿羅漢のマハーカッサパは、毎朝極貧の者が住むエリアに托鉢に出たそうです。貧しくなるのは与えてこなかったからであり、そこから救い出されるには徳を積まなければならない。阿羅漢のカッサパに食を施せば、最高の財施になり、苦境を脱する因となる、という明確な理念に基づき貧民街へ托鉢に行くのが常でした。
  ある朝、カッサパは、食事をしている一人の癩病者に恭しく近づき、鉢を差し出しました。癩病者は腐った手で一握りの食を入れると、同時に彼の指もまたその場に落ちたのでした。
  カッサパは塀の下にもたれて、一握りの食を食べましたが、食べている時も、食べ終わった時も、一片の嫌悪の念も存在しなかった・・・と述懐しています。(テーラガータ)
  これが、信仰型の宗教と、一切の妄想を離れる瞑想の違いです。
  美しい神妄想を使ってなされる善行は素晴らしい。信仰を拠りどころに生きていく姿は神々しい。
  確信するダンマを拠りどころに、なんとか救われる機縁を与えたいと、一片の妄想も交えずに淡々となされる行乞も素晴らしい。
  瞑想が上手くいく人もいかない人も、「すがる対象」を持つことは必要と考えてよいでしょう。()

 今月のダンマ写真 ~

                              

                  タイのクーティで修行者を見守るブッダ              
       先生より

 

Web会だより>

『体を整え、心を整え、人生を整え』(前) E.K. 
  16年前に仕事のストレスから心の調子を崩しうつ病になりました。その時お世話になったカウンセラーの先生の勧めで、座禅を始めたのが瞑想との出会いでした。その後、体調管理のために続けていたヨガが実は瞑想のための技法であったことを知り、それ以降は、ヨガと集中系の瞑想を生活の中に取り入れながら、心と体のメンテナンスを行ってきました。
   ただ、どれだけヨガや集中系の瞑想を行っても、長年しみついた心の癖のようなものは、なかなか改善されず、生きづらさは変わりませんでした。何度も同じような悩みにぶつかり、それを乗り越えようと、自信をつけるために資格を取ったり、果ては外国留学までしてみたり・・・。そして頑張りすぎてへとへとになり、お酒や買い物、刹那的な快楽で気を紛らわしながら、いつも心の奥底でむなしさを感じていました。
  そんな中、あるマインドフルネス関係の書籍と出会い、今まで集中系の瞑想では感じることのなかった「客観的に観る」ということの意味がやっとわかったのです。その後は、片っ端から書籍を読み漁り、中でも地橋先生の「ブッダの瞑想法」が一番、論理的かつ親切でわかりやすかったので、かじりつくように読みながら、実践を重ねました。そのうちに、やはりご本人に指導を仰ぎたい、という想いが強くなり、朝日カルチャーに通い始めました。

  初めて地橋先生から直接、歩く瞑想の指導を受けた時のことは忘れられません。ラベリングのタイミングがこんなにも重要だとは思っていませんでした。六門からの情報の入力と(触)尋の流れが初めて理解できた瞬間でした。
  その日以来、歩く瞑想の素晴らしさに開眼し、毎日夢中になって行いました。毎朝20分の歩きの瞑想と座りの瞑想を、夜は時間があれば時間の許す限り行いました。
  とにかく瞑想が、サティが入る感覚が楽しくて仕方がなかったのです。サティが連続して入っている時、心は完全に今に留まることができます。集中瞑想と違って、軽やかな感じも、私にはとても新鮮でした。
  それからダンマトークを継続して聞くことで、法の理解が深まり、特に、無常、無我、縁起、の意味が単なる学問ではなく、「本当のこと」として理解できるようになってきました。
  ある時、座りの瞑想中に呼吸を観察しながら、気づいたことがあります。今まで私は「自分が」息を吸って「自分が」吐いている、と思っていたけど、よーく観察してみると、息って勝手に起きている。止めようとしたって、止められないし、せいぜい23分で、苦しくなって、吸ったり吐いたりしてしまう。自分の力じゃとても太刀打ちできない。
  今まで私は、自分の力で生きてきた、と思っていたけれど、この世界には、なにか得体の知れない力が、いわば「いのちの働き」のようなものがあって、そちらの方に生かされているんだ、そう思ったら涙があふれてきました。
  日常生活も激変しました。日常生活全般に、自然にサティが入るようになると、最初は自分が、いかにこの世界を、瞬時にジャッジ、判断しながら生きているのかを目の当たりにして、驚きました。
  道端の花を目にした瞬間、観た?ピンク?キレイ、と快を覚える心。前を歩く人の煙草の煙をかいだ瞬間、刺激臭?タバコ??くさい?無礼な人、と嫌悪する心。・・・こんなことを、一日中やっているんだ、私。そう知った時の衝撃は忘れられません。私はこの世界をありのまま観ているんじゃなくて、自分の色眼鏡を通して、世界を眺めているだけなんだ。これじゃあ、どれだけ瞑想しても、ありのままを眺めることなんて、一生かけても出来っこない。反応したくないのに、勝手に反応してしまう心。それが止められない限りは、苦しみはなくならない。それを悟ってから、反応系の修行に本気で取り組み始めました。
   まず慈悲の瞑想を徹底的に、真剣に行うようになりました。毎晩、寝る前と、電車の中で行うようにしました。特に満員電車や雑踏を歩く時など、不善心所になりそうな場所、場面では、嫌悪系の反応が起きる前に行っておくと、心が穏やかに保ちやすいことがわかってきました。
  私はヨガの講師をしているのですが、レッスンの前に行うことで「私が教えてあげる」というエゴ感覚が薄れて「この人たちに楽になって欲しい」という慈悲モードに意識が切り替えられて、「よく見られたい」「評価されたい」という承認欲求がなくなり、緊張することが減りました。また、なぜか生徒さんの数が増えて、クラスがキャンセル待ちになることも多くなりました。

  それから、戒を守ることの大切さも身に沁みてわかってきました。五戒はどれも大切だと思いますが、私には「嘘をつかないこと」が難しかったです。私は昔から人から嫌われることが怖くて、ついお世辞を言ってしまったり、相手を傷つけないように、事実とは違うことを言ってしまうことがよくありました。「嘘も方便」って言葉もあるじゃないか。相手を傷つけないための嘘ならついてもいいんじゃないか。最初はそう思っていました。けれど、瞑想が深まって行くにつれて、相手のことを思っているようでも、その実、自分を守っているだけなのだと、いうことに気づかされました。そしてどんなに小さな嘘であっても、心が汚れることにも気づきました。
  「迷った時は、心が汚れない方を選ぼう」。日常の中で、何か判断に迷う時、いつもそれを基準にすることで、自分の中に軸ができました。どんな時でも正々堂々と居られるようになり、生きていくことが楽になってきました。そして、そんな自分を信頼する気持ちが生まれてきて、生まれて初めて自信がついてきました。
  自分自身との信頼関係ができてくると、不思議なことに、自分のエゴ感覚に対しても、嫌悪ではなく、ニュートラルな視線を向けられるようになりました。怒りや不善心がわいてしまう、そんな自分もあるがまま観ることができるようになり、その結果、怒りや貪りを封じ込めることなく、根本的な原因にまで洞察が及ぶようになり、自己理解が深まりました。(続く)


☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

       春を待つ秩父の空

..さん提供

 






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ダンマの言葉

 ブッダの方法には、いかなる機器も補助器具も必要ではありません。その方法は物質性(色法)と精神性(名法)の両方を見事に扱うことができます。自分の内部で物質性と精神性の活動が生じた時に、その活動に率直な注意を固定することにより、分析という目的のために自分の心を使います。
  こういった形の修行を続けることにより、必要な定力が得られ、集中が十分に鋭くなると、物質性と精神性が途切れることなく生じては滅することが生き生きと知覚されます。(『サティの確立とヴィパッサナー』月刊サティ200612月号より転載)

       

 今日の一言:選

(1)出会う人にも、置かれた環境にも、時代にも情況にも、微塵もブレることのないダンマを拠りどころに生きていく……

(2)同じ祖先から進化した哺乳類は多種多様に枝分かれしていった。
  日々獲物を殺して食べる肉食獣に進化した者もいれば、海藻や果実や葉っぱを食物に選んだ者もいる。
  同じ人類であっても、武力に頼ろうとする発想が戦争の歴史を作り、理法を拠りどころとし慈悲を目指す発想が仏教の歴史を作ってきた……


(3)百人が立ち会えば、百通りに解釈されてしまう事象。
  人の心に残された印象も、刻一刻と誇張され変形していく……
  何が事実なのか妄想なのか、すべては夢のまた夢……

       

 

○読んでみました○

               ユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』
                         (河出書房新社 2018年)

 著者はイスラエルのヘブライ大学で歴史学を教えている人類史学者。本書は上・下2巻に分かれた大部である。下巻にある「訳者あとがき」には著者の意図、内容について要点が纏められていて、全体の流れを理解するのに役立つ。ではあるが、本文自体にたいへん広い知識と考察が含まれているため、腰を据えて読んでいけば、人と世界のありさまについて改めて意味をみつけることが出来る。また著者の説にはその背景となるデータや理論が示されているが、そればかりではなく、説明のためにわかりやすい例え話が示されていて、本書をなじみやすく、また納得しやすいものとしている。
  さらに「謝辞」には、ゴエンカ師によってヴィパッサナー瞑想の技法の手ほどきを受けたことが記されている。それについて著者は、「この技法はこれまでずっと、私が現実をあるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィバッサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平穏と洞察力なしには、本書は書けなかっただろう」と述べている。このことからも、本書がものごとの本質を的確に捉えている印象が深いのも納得がいく。
  「訳者あとがき」によれば、本書は『サピエンス全史――文明の構造と人類の幸福』に続いて、該博な知識とじつに多様な分野の知見を独創的に結集して著したものである。前作は、「認知革命、農業革命、科学革命という三つの革命を重大な転機と位置づけ、虚構や幸福をはじめとする斬新な観点を持ち込みながら過去を振り返り、私たちが抱きがちな近視眼的歴史観や先入観や固定観念を揺るがせてくれ」「最終章では未来に目を転じて、サピエンスの終焉と超人誕生の筋書き、及び、それに伴う問題を簡潔に提示した」もので、本書の重点はその未来にあるとされる。
  ここでは上巻の1章から第4章のみを取り上げているが、もし興味を惹かれたならぜひ通読されることをお勧めしたい。
  第1章の「人類が新たに取り組むべきこと」では、何千年もの間人類の不可避的な課題となってきた飢饉、疫病、戦争の三つについて触れる。それらはこれからも大きな犠牲者を出し続けるとは思われるが、いまや制御の及ばないものではなく、対処可能になっていることをさまざまなデータを使って示している。そうすると、次に来る新しい課題は何か、それは、「何かを成し遂げたときに人間(以下、「人間」とはサピエンスのこと)の心が見せる最もありふれた反応は、充足ではなくさらなる渇望」であり、それは「人類固有の危険」であって、その究極的な中身は、「不死と幸福と神性を標的」とすると言う。この三番目の「神性」については、下巻に詳しく述べられている。
  第2章「人新世」では、人間という一つの種が単独で、7万年の間に地球を多くの生態系の集合から単一の生態系へと徹底的に変えていったこと。そしてその影響は、この後100年で6500万年前に恐竜を一掃した小惑星の衝撃を超えかねないと警告する。
  また、アニミズムを拒絶する態度は極めて最近のものであり、人間と動物は本質的に違っているという考え方は農業革命の副産物にすぎないとも言う。人間も動物も、生存と繁栄のために進化した感覚や情動の構造は変わらないし、「母親と幼児の絆という情動はあらゆる哺乳動物が共有している中核的なもの」なのだ。
  しかし、農業革命が生み出した経済的関係は、動物に対する残酷な利用を正当化する有神論の宗教的信念の出現を促すこととなった。そしてその結果、単なる動物の一種に過ぎなかった自らを森羅万象の頂点の存在とし、人間がすべての生き物を支配し、また生態系との間を取りもつ役割にある説明として、天上にあるとイメージされる「神」というものを創り出したのである。
  第3章「人間の輝き」では、動物はもちろん人間においても「魂」という存在を真っ向から否定する。すでに一神教の神話は切り崩されており、「死さえ含め、ありとあらゆる変化にも耐えられるような本質をある動物に与えることが果たして可能か」と言う。魂の存在は進化論と両立し得ないということだ。
  では、「心」とは何か。それは苦痛や快楽、怒り、と言うような主観的経験の流れである。現代の通説によると脳内の電気化学的反応によって苦痛や怒りや愛情が生み出されているとされているが、今のところそのメカにズムは解明されていない。例えば、「『怒ったぞ』と私が言うときには、とても明確な感情を指している」が、その時にニューロンの化学的反応によって生じた電気信号がどのように怒りを生み出しているのか、そのことを「問う価値は依然として残」っている。
  そして、動物は「私たちと同じで、彼らも意識を持っているし、感覚と情動の複雑な世界も持っている。もちろん、どの動物にもその動物ならではの特性や才能がある。人間にも人間ならではの特別な能力がある」と、豊富なデータをあげて示している。
  では、その人間ならではの能力とは何か。それには二つのことを挙げる。第一に大きな集団で協力する能力であり、第二は、その協力は柔軟性を持つものである、ということだ。それが、同じく協力をする生き物としてのアリやハチとは違っているところであるし、もちろん、「ゾウやチンパンジーなどの社会的な哺乳動物は、ハチよりもはるかに柔軟に協力するが、それは少数の仲間や家族に限られ」てもいる。
  ではなぜ、人間は大きな集団でありながら協力が出来たのか。それは、「現実」とは何かを考察することによって明らかにされる。多くの人は「現実」というものには「客観的現実」と「主観的現実」という二つがあると知っているが、実はそれだけではなく、「大勢の人の間のコミュニケーションに依存している」「共同主観的レベル」という第三の「現実」があるからである。そして、「歴史におけるきわめて重要な因子の多くは、共同主観的なもの」であったとする。
  第4章「物語の語り手」では、この「共同主観的レベル」の虚構の物語がさまざまに展開して人間の歴史を作ってきたことを語っていく。私的にはこの第4章が最も面白く、印象に残り、この「共同主観的レベル」で物語を作り出したかどうかが、ネアンデルタール人との違いであったということにも納得がいった。
  では、この「共同主観的レベル」の物語とは具体的には何なのか。そしてその前に、物語が大きく展開するために用意されたものは何っだか。それはおよそ5000年前に生まれた書字と貨幣であり、それが「人間の脳によるデータ処理の限界を打ち破った」。
  書字が発明されたことで、人間は、複雑な、長く、入り組んだ物語を創作することが出来るようになった。「読み書きのできない社会では、人々はあらゆる計算や決定を頭の中で行なう。一方、読み書きのできる社会では、人々はネットワークを形成しており、各人は巨大なアルゴリズムの中の小さなステップでしかなく、アルゴリズム全体が重要な決定を下す」。
  (注:アルゴリズムとは簡潔に言えば、「なにかを行うときのやり方」のこと:編集部)

  これらは例えば法律、規則、契約書、病院のシステム、法律、企業、国家、国境線であり、成績の点数であり、紙幣等々、挙げていけば切りがない。これらは虚構ではあるが、これらがなければ現在の社会は成り立たなくなる。「お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人が定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない」のだ。
  しかしそれらはあくまで道具に過ぎないのだから、「物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう」ことになる。そうすると、「『企業に莫大な収益をもたらすため』、あるいは『国益を守るため』に戦争を始めてしまう。企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、気がつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか?」と著者は問いかける。
  虚構と現実とをしっかり見極めること、それが私たちに求められる。ではどうやって。それは、「それが苦しむことがありうるか?」と自問することによって知られると言う。銀行が倒産しても「銀行」という虚構(編集部)が、国は戦争に敗れても「国」という虚構が苦しむということはない。しかし、戦場で負傷した兵士はそれ自体が苦しみ、人は食べる物が何もなければ当然に苦しむ。そしてそれこそが「現実」であるのだ、と。さらに、虚構を信じていることによっても「現実」に苦しむことがある。「たとえば、国家や宗教の神話を信じていたら、そのせいで戦争が勃発し、何百万もの人が家や手足、命さえ失いかねない。戦争の原因は虚構であっても、苦しみは100パーセント現実だ。だからこそ、虚構と現実を区別するべきなのだ」と。
  そしてこのあと第5章では、「人間の方や規範や価値観に超人間的な正当性を与える網羅的な物語なら、そのどれもが宗教である」として、「21世紀にはこれまでのどんな時代にも見られなかったほど強力な虚構と全体主義的な宗教を生み出すだろう」と言う。そして、近未来の予測を述べるとともに、「虚構と現実、宗教と科学を区別するのはいよいよ難しくなるが、その能力はかつてないほど重要になる」と結び、下巻へとつながる。
  下巻においても、壮大な視点から重要な問いを人間と社会に対して投げかけており、多くのことがらが縦横に検討されている。そのいくつかを挙げれば、「神への信心から人間性への信心へ(人間至上主義)」「自由意志という概念に関する諸問題」「個人主義=自由主義と人間」「人間中心からデータ中心へと言う世界観の変化」等々である。
  読み通してみると、著者の眼目は未来のありさまを予見した下巻にあるのではないかと推察されるけれども、今回はそこまで紹介するには至らなかった。ただ、人類史の部分を読んだだけでも、「人間」というもののありようと世界についての見方を一歩も二歩も進めてくれてくれることは間違いないと思う。(雅)
  
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