2019年12月号 | Monthly sati! Dec. 2019 |
今月の内容 |
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 今月のテーマ:尋ねたかったこと(6) ― 夢の実現について ― |
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ダンマ写真 |
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Web会だより:『なんだ、あったじゃないか』 | |
ダンマの言葉 | |
今日のひと言:選 | |
読んでみました:『環境問題のウソ』 ~ |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて |
今月のテーマ:尋ねたかったこと(6) -夢の実現について- |
(おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 |
Aさん: 仏教では「今」ということを何よりも大切にしていると感じます。そうすると、将来のこととか考えたらダメなのでしょうか。夢を目指すのはいけないのでしょうか。 仏教でも他の宗教や行法でも「今、この瞬間」をとても大事にしています。Be Here Now ! という言葉も有名ですね。 なぜ今の瞬間を大事にするのか考えてみましょう。 *事実を正確に見る 今この瞬間を大事にするとは、目の前の現実を大事にするということです。人の頭の中は、常に妄想だらけなのです。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス瞑想など特殊な訓練をしない限り、人はいつでもボーッとしていて、何か思い出したり連想したり、帰ったら何を食べようかなど取りとめもないことを考えているものです。みんなそうなので、「よく気をつけておれ!」とブッダは生涯言い続けたのです。 「ボーッと生きてんじゃねーよ!」という決めゼリフは、「ぼんやり妄想してないで、目の前の現実によく気をつけておれ」と言い換えられるでしょう。先入観や思い込みで頭がいっぱいのとき、目の前の対象が正確に認識できるでしょうか。できる訳ないですね。頭の中を空っぽにしておかなければ、見誤るし、聞き間違えるし、勘ちがいするのです。さらに、自分の誤認や錯覚に気づかなければ、嫌悪や欲望の反応がほとばしり、悪いカルマを作っている自覚もないまま、いつの間にか苦しい人生に巻き込まれ、なぜこんな目に遭うのだと嘆くことになるのです。 なぜ、今の瞬間を大切にするのか。答えは、事実を正確に見るためにです。頭の中から余計な妄想を排除しなければ、目の前の事実に集中できないからです。正確な対象認知ができなければ、正しい判断、正しい反応、幸せに通じる意志決定ができません。夢をかなえ、幸福度を上げるためにも、思考を止めて頭を空っぽにする練習が必要です。 *観察と考察を仕分ける 「将来のことを考えたらダメなのですか」というご質問ですが、答えは、ダメです。(笑) ただし、ヴィパッサナー瞑想を行なっている最中はダメということです。サティを入れる修行ですから、思考を止めてナンボの世界です。過去のことも未来のことも次元の高いどんな思考も、瞑想中はご法度です。 しかし、永久に考えるなというのではありません。もし死ぬまで何も考えないということになれば、おバカになるのと同じです。ニワトリなんかも何も考えずにひたすらエサを食べ、狭い鶏舎で卵を産み続けて死ぬみたいですね。嫌ですね、ああいう人生は。死ぬまで何も考えなければ、ニワトリと同じです。 ヴィパッサナー瞑想は、思考能力の弊害を除去するための技法と言えるでしょう。正確に、正しく思索し、思考するために、余計な妄想を排除する訓練が必要になったのが人類です。ですから、瞑想修行が終わったら普通の意識モードにもどり、いろいろ考えながら生きていく訳です。当然なぜ失敗したかを反省したり、綿密に将来の計画を検討したり、思考も考察も必須アイテムになります。 ヴィパッサナー瞑想に限らず、ものごとを観察したり経験している瞬間は、頭の中を空っぽにして、対象を正確に認知すべきだし体験すべきです。余計な妄想をしているから誤認や錯覚や早とちりが生じるのです。 将来のことを考えるな、ではなく、観察モードと考察モードをきちんと仕分けることです。対象を正確にありのままに観察し、熟考し、決断するという順番です。 多くの人が分不相応な滑稽な夢を描いて挫折します。正確な対象認知と情況把握と自己認識が必要不可欠なのです。そのために、何も考えず、今の瞬間に集中しなければならないということです。 *失敗学 現状認識が正確でも、それでも失敗も間違いも犯すのが人間です。特に若いうちは無謀な事や愚行をするものです。失敗や成功というものはどの時点で評価するかが問題で、99回の失敗が100回目の大成功に繋がれば万々歳ということにもなります。 「四十にして惑わず」と孔子も言ってますから、40歳くらいまでは大いに失敗し、挫折経験や失敗から学びを得ることが大成に繋がると考えた方がよいでしょう。なぜかと言うと、失敗の数だけ経験値が上がるし、弱者や傷ついた人たちへの共感能力が高まるからです。 失敗は創造の母とも言います。どこをどうすれば良い結果が得られるか、新たなものを創造するヒントが、失敗経験には満載されているからです。ものごとを要素や要因に仕分けて、分析的に観る能力が鍵になります。瞑想修行の用語で言えば、「択法(ダンマヴィチャヤ)」です。なぜ失敗したのか、何が悪かったのか、失敗の要因を徹底的に分析し、洗い出していくプロセスは、新しいものが着想され創り出されていくプロセスと酷似しています。なぜそれがダメなのか、みんな何に不便を感じ、困っているのか、ネガティブ要因がピンポイントで分かれば、どうすれば良いのか閃くのにあと一歩です。 畑村洋太郎という人が、失敗をプラスに換えていく「失敗学」 というものを提唱していて、私は当初から共感を持っていました。科学者の研究などは失敗の連続と言われますね。どんなスポーツの練習も芸事の稽古も、上手くできないから、失敗ばかりだから頑張ってできるようになる訳です。失敗学の日々を重ねているようなものじゃないですか。瞑想の修行だって、妄想ばかりでしょう?(笑)。居眠りばかりしてるんじゃないですか?(笑) 問題は、なぜ上手くいかないかの要因分析です。失敗を何度も繰り返してしまう人と、すぐに修正してくる人の差です。ボールから目を離すのが早いから空振りするのです。お手本を何度も凝視して、師匠の型を脳内イメージに叩き込んで稽古に臨む人は上達が早いのも当然です。瞑想のモチベーションを見失い、なぜ瞑想するのかよく分からなければ疑いや迷いが多くなります。一身上の気がかり事項を抱えていれば、今は瞑想どころではないし、妄想が多発するのも自然なことです。毎回眠くなるのであれば、瞑想をやる時間帯や過食を疑うのは瞑想者の常識です。 *敗因の研究 上手くいかず失敗するのには原因があります。なぜ失敗したのかを徹底的に究明していくと、システム全体を構造的に理解することにもなるし、そこから創造性が開発されていくのは典型的なパターンと言ってよいでしょう。 私は「敗因の研究」と呼んでいましたが、人間探究の視点からは、成功者の自慢話よりも、敗北していった者や滅びに至った過程を詳細に分析したものの方が人間の真実についてより深く教えられ、学ぶものが多いと感じてきました。なぜなのかを考察してみると、昔から反面教師から多くの学びを得てきたからかもしれません。 尊敬すべき人を立派な手本として真似たり学んだりするのは、誰にでもできる単純な構造で、お猿さんにもできそうです。しかるに反面教師から学びを得るには、脳内で自在に視座を転換させる柔軟さが必要です。お前はこうなってはいけない、というネガティブな見本から、ではどうあるべきなのか、何をどうすればよいのかを導き出すには、考察や想像力やシミュレーションなど多角的な発想が必要です。 なぜこの人はこんな風にダメになったのか。何が欠落していて、どうすれば良かったのか。いかんともしがたい因縁の流れで破綻していった模様が読み取れると、個人の力量だけではなく、環境の力や情況の力、人の関係性が生み出す力が、宇宙の網目のように絡まり合っていたことも見えてきます。 私は、偉大なる反面教師だった父親からそれらを学ばざるを得なかったのですが、立派な手本を猿真似するだけの単純構造よりも、視座の転換や智慧の発現にはるかに資するものがあったと感謝しています。 順風満帆な人生よりも逆境から学ぶものの方が大きく、成功よりも失敗の方が儲かる、というのが私の持論です。あらゆる経験が情報として宝物になり得るのであれば、失敗も成功もどちらも未来を豊かにしてくれるのではないでしょうか。 夢を叶える人もいますが、それ以上に、叶えられない人の方がはるかに多いでしょう。完全に敗北し、心が折れ、失意のどん底で打ちひしがれている人が世界中にどのくらいいるでしょう。程度の差はあれネガティブ体験をしていない人はほとんどいないのではないでしょうか。失敗学とは別の視点から、挫折体験の意味を考えてみましょう。 ハリウッド女優たちに、こんな質問をした人がいます。 「同じ才能、同じキャリアの監督が二人いたとする。Aは痛切な挫折体験を乗り超えた経験がある。Bは一貫して順風満帆、挫折体験は無い。あなたはどちらの監督と仕事をしたいですか?」 回答は、全員、仕事をするなら、挫折体験のあるA監督としたい、でした。 この答えには、人間全般に当てはまる普遍性があるように思われます。誰でも直観的にわかっているのです。失敗や挫折を経験している人の方が、その経験の無い人よりも優しくて包容力があるのではないか。能力の高い人にありがちな、傲慢で自己中心的で上から目線で見下すようなことをしないのではないか。自分の苦しみや心の痛みを理解してくれる可能性が高いのではないか・・と。 人の痛みに共感できるか否かは、自分自身の純粋体験に根差しています。まだお母さんが元気な人には、母親を喪った悲しみや喪失感をリアルに想像するのは難しいのです。たいした恋愛もしていないし結婚もしていない人に、最愛の伴侶を突然喪った人の悲しみがわかるでしょうか。目の前で3歳の我が子に即死された人のグリーフ(悲嘆)がいかばかりか。そのような当事者の方に心から等身大の共感ができるとしたら同じ経験をした人だけでしょう。子供を持ったこともないし、愛する家族は皆元気だったら、映画の1シーンなどを思い出しながら空想するしかないでしょう。 経験がなければ他人の痛みがわからないのであれば、夢が破れて挫折するのも、人生最大の苦しみに打ちひしがれるのも、素晴らしい宝物になるのではないか。人の痛みがわかる慈悲の人になれるかもしれない・・・。苦しんでいる人に寄り添い、救いの手が差し伸べられる優しさは、最高の宝でしょう。 苦しんだ人、失敗した人、心が折れ、挫けた経験のある人は、同じドゥッカ(苦)を経験した人の痛みを自分のこととして共有し、共感できるでしょう。ああ今、この人は、私と同じあの苦しみを味わっているのだ・・・と、他者の痛みを我がことのように共感できる人は「悲(カルナー)」の瞑想の達人になれるのです。 *毒が薬になるには・・・ ただし、自動的にそうなれる訳ではありません。自身のネガティブ体験を乗り超える仕事ができなければ、優しさに繋がることはないでしょう。苦がいまだに苦のままであれば、嫌悪や怒りや恐怖の対象のまま放置されていることになります。自分も苦しんだのだから、お前も苦しめという怒りが、虐待の連鎖や冷酷な事件の背景になっているケースも多々あります。苦しみは乗り超えられなければならない。もし認識革命や認知の大転換が起きれば、ネガティブ体験をありのままに受け容れることができるでしょう。その時こそ、ドゥッカ(苦)が「悲(カルナー)」の優しさに昇華し、宝物に変容するのです。 となれば、夢は叶ってもよし、叶わなくてもよし、になりませんか。夢が叶った達成感は幸福が実現している瞬間でしょう。慶賀すべきことです。夢が叶わず失意のどん底を体験をすれば、それを乗り超えて真の慈悲の人になれるのだから、これまた慶賀すべきことです。才能は同じでも、幸福な人生だったA監督よりも、挫折を乗り超えてきたB監督の方が経験値が高いし、人の痛みに共感できるだけ人間として深いのです。 いかがですか?このように考えれば、夢を叶えるべく一生懸命努力はするものの、何がなんでも!と強烈に執着することも、苦しみの原因である渇愛の状態に陥ることもないのではないでしょうか。 もし夢が破れ、失意のどん底に落ち込んだら、心が折れ目の前が真っ暗になったら、このことを思い出してください。今、私は人生最大の宝を手中におさめようとしているのだ、と。今こそ「人は、傷ついた数だけ優しくなれる」という言葉の意味を腹に落とし込む時なのだ、と。 *願望は叶う 失敗もまた楽しからずやですが、願望を実現し夢を叶える経験も、幸福の限界を知る上で大事なことです。 どうしても夢を実現させなければ人生の次のステージに行けないのであれば、業の世界にまみれる覚悟の上で、引き寄せや願望実現の術を試みるのも致し方ないでしょうね。バカなことと解っていても、経験しなければ卒業できない通過儀礼というものが世の中にはあるものです。 少女時代に漫画を読ませてもらえなかった女性が、結婚してからそのことを夫に話し、毎日好きなだけ漫画に読みふけったそうです。近所の貸本屋で次々と借りてはまた借りて、漫画漬けの日々が続きました。そんなある日、彼女は「もう漫画はいいわ」と呟き、夫にありがとう、と言ったそうです。好きなことを好きなようにやらせてくれ、見守ってくれていたことに感謝し、心の底から気が済んだことを確認したのです。こうして子供の時に抑えつけられていた欲望が存分に満たされ、思い残すことなく完全に離れることができたといいます。 これも卒業の仕方でしょう。あんまり大したものじゃないよ、といくら言われても、一度食べてみなければ気が済まない人は、高い代価を支払っても経験するしかないという考えもあり、なのです。想いを遂げれば満足し、気が済んで、終わりにすることもできるでしょう。一度も経験しないまま、くだらないことだと断念しても、果たして本当に終わりにできているのか微妙です。心の片隅でどことなく引きずっていて、未練が残っていることを自覚しないでいると、「随眠」という潜在煩悩となって眠り続け、やがて縁に触れた時に噴き出して暴れまわるかもしれないのです。 それならいっそのこと願いを叶えて、さっさと体験して終わりにするという考え方です。この世は業の世界ですから、強烈に願い続ければやがてそうなっていくものです。 *なぜ願望が実現しないか・・ 願望が本当に叶うとは思えない? まあ、そうでしょうね。そう思っている人は多いです。しかし、この世は因果の法則に貫かれているので、強く願ったチェータナー(意志)が具現化し現象化していく業の世界なのですよ。実現しないものは実現しませんが、それには必ず原因があります。ちょっと考えてみましょう。 まず、心がブレていませんか。朝、必死で願望実現のイメージを描いたのに、夕方になるとそんな上手い話が自分に起きるとは思えない。これまで挫折ばかりで、夢が叶ったことなんかないし、どうせダメだろう・・などと、朝、肯定したことを夜、否定していませんか。 これは願望が実現しない人に典型的に見られるパターンです。心に迷いがあり、ブレている人の願望は実現しないのです。必死で押していたのに、急に引き技を使ったり、上手くいかないとまた押してみたり、ブレている力士は必ず敗けますね。せっかく積み上げてきた積み木を自分の手で崩すようなことをしているのに気づかず、ダメだ、自分にはできない、と投げ出してしまう人が多いですね。 この世で夢を実現させた人に共通しているのは、もの凄い執念です。何がなんでも、絶対に、必ずやってやる!と恐ろしい執着心でやり続けた人が夢を叶えている傾向ですね。一定の方向に出力され続けたエネルギーは、必ず一つの形にまとまっていくでしょう。業が作られるというのは、そういうことです。願望実現は、カルマが現象化していくプロセスの別名と考えてよいでしょう。 *夢が叶えば、幸福か? 諦めなければ、夢はいつか必ず叶うものです。ただし、夢を叶えることと、幸福になることは、別のことだと心得ておきましょう。若い頃からの夢を実現させて、3つの会社を所有するまでになった人に会ったことがあります。老人施設で私に話しかけてきて、いまだに持っている昔の名刺の肩書きを見せてくれたのです。家族が誰ひとり訪ねて来ない孤独な老人が、自分は昔は凄かったのだ、と誰かに認めてもらいたかったのでしょう。寂しさと、後悔と、やるせない憤りと、諦めが渦巻いていて、痛々しい哀れさを覚えました。 ああ、この方は事業には成功したが、家族のためと言いながら結局、自分の野望のためにのみ生き、家族をないがしろにした挙句、誰からも見捨てられ、独り寂しく死んでいこうとしているのではないか。そんな思いが去来しました。母に寄り添って世話している私の姿を羨望の眼差しで眺めていて、たまらず話しかけてしまった、という風情でした。 なんのために夢を叶えたいのか。なぜ、何のために、自分は生きるのか。この根本的な問いを忘れずに、願望実現に励んでもらいたいですね。 *結婚願望 願望が比較的簡単に叶えられる人と、難儀しながら、ぎりぎりセーフで、ようやっと叶えられました・・という人の差は何でしょう。過去のチェータナー(意志)の違いではないかと考えられます。 結婚したいのに、いくらセオリー通り願望実現法をやっても良縁に恵まれない人がいます。一方、身のほどをわきまえず、よくそんな高望みができるものだと呆れる人が、完璧に、100%ドンピシャの伴侶をゲットした話もあります。 テクニックの問題でしょうか。それもあるでしょう。ヴィジュアライゼーション(視覚化)が上手い人も、不得手な人もいます。もともと肯定的な思考パターンの人もいれば、ダメだしが多く、いつでもネガティブなことばかり考えたり言ったりしている人もいます。実現する願望は最初からスラスラ簡単にイメージが描けるが、実現しない願望はなぜかイメージがまとまらず、上手くヴィジュアライズできない。あるいは願望実現法をやるのを忘れてしまったりする・・・等々。 これは過去のカルマの問題ではないか、と私は考えています。例えば、小さい頃から仲の良い両親に憧れて、素直に結婚願望を持ってきた人がいます。一方、冷え切った夫婦仲で、喧嘩ばかりしている両親を見てきた人は、結婚なんか絶対したくないと思いながら育ちます。この両者が同じ結果になるでしょうか。 長年に渡って集積されてきたチェータナーが業を作るのですから、前者は結婚しやすいし、後者は難しいのです。今まで否定し続けてきたのに、いい歳になり急に結婚したくなって慌てて願望実現法をやってみたところで、これまでとは正反対のカルマを新規作成しなくてはならないのです。過去の業の力に圧倒され、この願いはなかなか成就しないだろうということになります。 では、永遠に望みはないのでしょうか。そんなことはありません。諸行は無常ですから、ブレることなく願い続け、持続する志を貫き通していけば、いつか必ず実現し、成就するでしょう。それが、業の世界です。華やかな結婚式のイメージを描き、それが事実であると信じ切ることができれば、その通りに夢が叶うでしょう。映画ならそこで終わるのですが、人生には明日があり、明後日があります。結婚式の翌日から、どのような人生が展開するのかは知りません。遠からず、犬も食わない夫婦喧嘩がおっ始まるかもしれません。(笑) 夢や願望が叶うことと、幸福度は別のことなのです。私も若い頃、願望実現を次々と成功させて狂喜したことがありましたが、短時日で次のステージを目指していったのは、この構造に気づいたからでした。 *渇愛ホルモン 夢も欲望も実現するまでが最高にワクワクするのです。ドーパミンという快楽ホルモンは、快楽そのものを味わうというより、快楽に向かって人を駆り立てる「渇愛ホルモン」と言うべきものなのです。さあ、その先に至福の快楽が待ってるぞ! なんだかもの凄いことになりそうだ!と胸を高鳴らせ、欲しがらせ、頑張らせるのがドーパミンの役目です。このホルモンが人を欲望へ駆り立て、未来に甘美な夢を描かせるのです。 夢が首尾よく叶えば、一瞬、ヤッター!万歳!と舞い上がるのですが、よく見てみると、あれ? こんなもの? 思っていたほどではないやん・・・と、妄想の甘美さと現実のギャップを検証させられることになります。心に夢を描いているときは妄想はイイトコ取りばかりをしていて、現実に内包されているドゥッカ(苦)の要素が見えないのです。 芥川龍之介の「芋粥」には、長年の夢だった芋粥が食べ放題の状態になった時の幻滅感が描かれています。夢は叶うまでが甘美なのであって、夢が現実になった瞬間、妄想特有の甘美さが失われるのです。 「幻滅」とは、なんとヴィパッサナー的な言葉でしょう。正鵠を射た素晴らしい決め言葉ですね。現実が直視された瞬間、目から鱗が落ちるのです。現実を目の当たりにすると、甘美な妄想が音を立てて崩れていく。文字通り幻が滅していく瞬間、法としての存在の実状がありのままに直視されるのです。 願望は叶うまでが幸福で、甘美な妄想が現実になった瞬間から、一切皆苦のリアル世界が始まるのです。ドンファン達も、女性をあの手この手で誘惑し、落とすまでが最高にワクワクし情熱的なのですが、望みが叶った瞬間からシラけて、釣った魚にエサはやらずに次の獲物に向かうようです。 昔読んだアメリカ文学の短編に、印象的な一作がありました。 若い新婚夫婦がカフェでくつろいでいるのですが、美しい女性が通るたび通るたびに、夫の目がキラキラ輝き、後姿にいつまでも熱い視線を注いでいるのです。妻は、そんな夫にイライラしていましたが、業を煮やして化粧室かどこかに向かって歩き出します。すると夫は、その後姿を凝視しながら、いちだんと目を輝かせて『なんて、いい女なんだ・・』と呟くのです。 なるほど、これは妄想の甘美な構造を描いた短編なのだ、と私は読みました。 *天命を果たす・・ 夢がなければ人生は輝かない、と信じている人が多いですね。三浦雄一郎も、エベレスト登頂などの夢を達成し、目標がなくなると、ただ食べてぶくぶく太ってメタボになり、何か次に挑戦するものが見つかると、再び苛酷なまでにトレーニングに励んで夢に向かっていくのを繰り返したと言ってましたね。 誰からも賞賛される立派な人生なのでしょうが、虚しくないのだろうか・・と疑問を呈したくなります。鼻先のニンジンを死ぬまで追い続ける馬のような人生だ、などと言ったりはしませんよ。(笑) でも、甘美な妄想に踊らされ、具現化すると幻滅し、それを死ぬまで繰り返すのは、私には耐えられないですね。 夢を持ち、それが達成した瞬間の感動を味わい、たちまち色褪せていく現実に幻滅の構造を教えられるのも、何度か繰り返して検証すれば充分でしょう。 体力があるのも、圧倒的な才能に恵まれるのも、反対に、病弱なのも鈍才なのも、運が良いのも悪いのも、夢が叶えられるのも、叶うことなく見果てぬ夢を追い続けるのも、すべてカルマのなせる業であり、一瞬一瞬のチェータナーと出力してきたエネルギーの集積に過ぎません。 良いカルマを作り、完璧に夢を叶え、理想的な幸福を実現しても、長くは続かないのです。全ては無常に変滅していくし、やがて崩れ去り、年老いていくし、死んでいく無常の苦を免れることはできないのです。死ねば必ず再生し、生まれてくるのは、また業の世界です。そんな業の法則に縛られるのはいい加減ウンザリやな・・・と、因縁因果に束縛されたこの世に咎を見るのが「行苦」(サンカーラ・ドゥッカ)です。 ここからが、仏教の修行の本番であり、輪廻の流れから決定的に解脱するにはヴィパッサナー瞑想に命を懸け、聖なる修行を完成するしかありません。 そんな仏教の真髄に参入するには、心の成長の順番というものがあります。あるがままの自分を正しく見ることができれば、今の自分の立ち位置がグラデーションのどのあたりか覚られるでしょう。そこから歩を進めていくしかありません。夢を達成しなければ何としてもオサマラナイのなら、必死で叶えて、幻滅をしっかり体験することが、今のやるべきことです。 幼稚園生には幼稚園生の学びと修行があり、森林僧院で阿羅漢を目指す修行に命を懸ける者はそれをやり遂げるしかないでしょう。与えられたものに全力で取り組めばよいのです。 天命を果たすというのは、自身の業が呈示してきたものをことごとく受け切って、正しい方向に全うしていくことではないかと私は理解しています。(文責:編集部) |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
先生提供 |
『なんだ、あったじゃないか』 N.F. |
地橋先生の『ブッダの瞑想法』に出会い、1年近くが経ちました。本を読んですぐに初心者講習会に参加し、その後、朝日カルチャーセンターでの講座を受講し続けています。修行はまだまだこれからですが、ヴィパッサナー瞑想を始めて以来、苦しい場面は少しずつ減ってきているように思います。この瞑想法や原始仏教の教え、そして地橋先生に出会うことができ、とても幸運でした。
私を瞑想と出会わせてくれたのは首の痛みでした。デスクワーク中心の仕事を始めると、数か月で首に痛みが出始め、整形外科に行くと、軽い椎間板ヘルニアと診断されました。しばらくは服薬治療をしていましたが、あまり効果はありませんでした。姿勢や血流の改善で対処しようと思い、対策のひとつとしてヨーガを始めました。DVD付きの簡単な本を買って、見よう見まねでの実践でした。 そんななかで、ヨーガ関連の本もよく読むようになりました。そこでたびたび出会うようになったのが「瞑想」というキーワードでした。思っていたよりも科学的な実践であり、現実的なメリットがあることを知り興味を持ちました。夜、考えごとをして寝つけないことがしばしばあったため、同じことを繰り返し考える後帯状皮質の活動が抑えられるという説明に特に惹かれました。仕事が忙しくなり始めていたので、集中力を高めたいという気持ちもありました。 その後、絶妙なタイミングでマインドフルネス瞑想の本に出会い、付属のCDガイダンスを聞きながら3か月ほど実践しました。ちょうど早起きの習慣が定着したころだったので、瞑想の時間を確保しやすい環境が整っていたのが幸いしました。 「なんとなく頭がすっきりする」くらいの効果は実感していたように記憶していますが、より集中を高めようと思うと、どうしてもガイダンスの音声が邪魔になりました。かといって一人でそのまま続けていくにも方向性が定まらず、きちんとした指導者に教わりたいと思い始めました。インターネットで検索し、グリーンヒルのサイトも見つけました。しかし、宗教的なことに全く無知だったため、なんとなく抵抗を覚え、いったんはスルーしてしまいました。 地元の書店で『ブッダの瞑想法』を見つけたのは、そのすぐ後のことでした。地橋先生の名前を見て、二度も出会うのだから何かのご縁だろうと思い、読んでみることにしました。そして、詳細に体系化された方法論に驚嘆し、さっそく初心者講習会に申し込んだのでした。そこで「何が起こっても良い」というヴィパッサナー瞑想と地橋先生の懐の深さに惚れ、今に至るまで修行を続けています。 修行は、歩きの瞑想と座りの瞑想を毎朝10分ずつやることを基本としています。それほどまとまった時間が取れているわけでもないですし、まだ集中もさほど良くないので、瞑想そのもので何か劇的な体験を得たというようなことは今のところありません。しかし、瞑想で養った気づきの力と仏教の知的な理解が両輪となって、日常の流れは少しずつ良くなっているように思います。なかでも、カルマ論が腑に落ちたことは大きなことでした。 朝日カルチャーセンターでの講座に出始めたころ、私はストレスからくる過食に悩んでいました。仕事でちょっとした問題に巻き込まれていたこの頃、帰宅すると満腹を超えて甘いものを貪り食い、落ち着かぬ心をごまかすことが習慣になっていました。超満腹状態で床に就くので、眠りは浅くなって疲れは取れず、よりイライラを募らせるという悪循環に陥っていました。 ある週の講義で先生にそんな話をすると、「苦しい時は人を助けるといい。ゴミを拾うとか、小さなことでいいから」と言われました。帰り道、最寄駅の近くで赤十字の方が献血への協力を呼びかけていたので、これはチャンスと思い、何年ぶりかで献血をしました。駅から自宅までは自転車で移動しているのですが、献血後に駐輪場に行くと、私の自転車のカゴに身に覚えのない空き缶が入っていました。 いつもなら「誰だ、ふざけるな!」と怒りの感情が出るところでしたが、これをきちんとゴミ箱に捨てればゴミ拾いをしたことになると思ったら、穏やかな気持ちで受け止められました。このとき、「そうか、これがカルマを良くしていくということなのか」と腑に落ちました。 少しでも怒りが出れば、心にも身体にも悪い影響が出る。それは人にも伝わり、人間関係にもマイナスに働く。今の一瞬が次の一瞬に悪影響を及ぼし、それが無限に連鎖していく。でも、今、自分は空き缶をゴミ箱に収め、爽やかな気分でいる。これから会った人には気持ちよく接することができるだろう。怒っていたらどうだっただろうか――? ほんの些細なことではありましたが、あったかもしれないもうひとつの展開に思いを馳せたとき、心を汚さないことの大切さ、汚れる前に気づく力の大切さを理解したのでした。自分の心の持ちようひとつで、人生の展開は大きく変わっていく、そんな確信もありました。 今起きていることはあらゆる因果関係の上に成り立っていること、今この瞬間の心のありようと意思決定が未来を形づくっていくこと。それが腑に落ちると、戒や慈悲の瞑想、布施の意味も自然と理解できました。どれも大切な実践ですが、特に慈悲の瞑想にはよく助けられています。 現在勤めている会社に就職して以来、ずっと苦手な先輩がいました。とても仕事ができ、頼りになる先輩ではあるのですが、何事も自分の思いどおりにならないと気が済まないタイプの方で、いつもピリピリした雰囲気を身にまとっていました。ヴィパッサナー瞑想に出会う前のおよそ1年間、この先輩とコンビを組んで仕事をしていたのですが、私は毎日この先輩に怯えていました。先輩の方もピリピリしているのに私の方も怯え、委縮していたので、よけいに緊張感が高まり、どことなくぎくしゃくした関係になっていたのです。 ヴィパッサナー瞑想を始めてすぐに、この先輩は慈悲の瞑想の対象の定番になりました。「私の嫌いな人」パートの登場人物でした。毎日慈悲の瞑想をしていると、先輩には先輩の苦しみがあり、それが攻撃的なエネルギーとして表出している(ように見える)だけなのだと理解できるようになりました。 気づきの力で自分の緊張感や怖れを客観的に観察できるようになったこともあり、少しずつこの先輩とも自然に接することが(少なくともそうしようと努めることが)できるようになっていったように思います。そして、瞑想を始めて3か月ほど経ったころ、ごく自然な流れで先輩は私とは別の業務を担当することになり、コンビ関係は解消となりました。その流れが慈悲の瞑想によって導かれたものかどうかはわかりませんが、今ではごく自然に話せる関係となりました。それは間違いなく慈悲の瞑想の成果だと思います。人間関係の問題は、相手に原因があるのではなく、自分の関わり方が問題なのだということがよく理解できました。 瞑想を始めてからの生活は概ねうまくいっているのですが、法の中途半端な理解で苦しい展開を招いたこともありました。心を汚さずにいることさえできればそれでいいのだ、地橋先生が言うとおり「起きたことはすべて正しい」のだと開き直って、ただ流れに身を任せて仕事をしていると、いつの間にか業務量が膨れ上がり、残業が激増したのです。疲労し、睡眠リズムは崩れ、瞑想どころではなくなりました。 今はそういう流れなのだから仕方ないと諦めていたのですが、何気なく先生にそんな話をすると、「瞑想ができなくなっては本末転倒。自分のキャパシティをわきまえ、優先順位をつけて、やるべきことをやりなさい。それでだめならカルマだと思えばよい」と言われ反省しました。よく言われる「ありのまま」を都合の良いように解釈して無気力に生きてはいけないのだと気づきました。 その後、仕事の忙しさは少しずつ改善していきましたが、この問題はまだ根本的には解決できていません。今回はたまたま改善したような印象です。流れに身を任せるべきところはどこなのか、自分で舵を取るべきところはどこなのか、それをきちんと見極め、為すべきことを為す。そう簡単にできることではないと思いますが、そんな生き方を目指したいと思います。 神よ、願わくばわたしに 変えることのできない物事を 受けいれる落ち着きと 変えることのできる物事を 変える勇気と その違いを常に見分ける知恵とを さずけたまえ キリスト教にそんな祈りがあるそうですが、まさにそのような思いです。先生からは、「涅槃経の中でブッダは、どんな教えや戒律であっても、八正道がありさえすれば解脱する人が現れるだろう、と言明している。宗教的なセクト主義にこだわる必要はないので、仏教以外の教えや行法であっても、清浄道の完成に役立つなら実践すればよい。もし<神よ>という言葉が気になるなら、<三宝>に置き換えて祈ればよいのではないか」と言われていますが、喉元過ぎれば熱さ忘れ、最近は真剣に実践できていません。正直に言えば、ときどき何のために仏教を実践しているのかわからなくなり、漫然と瞑想をしてしまうこともあります。そうならないためにも、ひとつの道しるべとして、日々この祈りを実践していきたい。今回、1年間の修行を振り返りながらそう思いました。 何のための仏教かわからなくなることがあると書きましたが、曲がりなりにも修行を続けているのは、無意識にもその効果を感じているからだと思います。 寝つけない夜はいつの間にか激減していました。仕事に対する集中力は「劇的に改善」とまではいきませんが、不毛な怒りやイライラに悩まされることはずいぶん少なくなったので、そのぶん妄想の世界ではなく現実の世界での仕事に費やせるようになったと思います。 瞑想に出会うきっかけとなった首の痛みは、ヨーガで多少やわらいでいますが、なくなったわけではありません。それでも、痛みは痛みとして受け止められることが増えたので、ほとんど気にならなくなりました。過食の悪循環はいつの間にか終わっていました。そして、レポートを書き始めるまで忘れていたのですが、ヴィパッサナー瞑想を始める前は、毎朝会社で先輩の足音にさえ戦慄していました。それもなくなりました。 瞑想によって劇的な体験をしたことはないと思っていたのですが、こうしてきちんとまとめてみると、小さなことの積み重ねながら、大きな成果が出ているのでした。事実を正確に捉えられない自分の未熟さを痛感します。正確な自己評価ができるようになりたいものです。 苦しみが減ったことは、仏教のセオリーどおりの効果ですが、瞑想を始めてから、個人的にはもうひとつの変化を感じています。それは、以前より、やりたいことをやりやすくなったということです。何かをやりたいと思ったとき、以前なら人にどう思われるかや、どのようなメリットがあるのかなど、どうでもよいことばかりを気にしてなかなか行動に移せませんでした。 しかし、最近では何かで悩んでいるとその心の動きを仕分けて、つまらない感情は切り捨てられることが増えてきました。当然、気づけていない時もあるでしょうし、「見栄」「打算」などと鋭いサティが入るわけでもないのですが、観察するということは習慣になっているのだと思います。 いわゆる「いい子」で過ごしてきた時間が長かったので、自分についてきた嘘は無数にあるように思います。言ってしまえば、嘘の集大成としての今を生きているので、当然苦しいこともありますが、これから時間をかけて、自分のカルマを正直なものに入れ替えていきたいと思います。それが、これから修行を続けていくための大きなモチベーションのひとつです。 ときどき、何もかも捨ててリセットしてしまおうかと夢想することもありますが、「革命を起こそうとすると血が流れる」と何かの本に書いてあったので、少しずつ、地道に、何事も修行だと思ってひとつひとつ乗り越えていきたいです。何歳まで生きられるかなんて誰も保証してくれませんが、人生の比較的早い段階で仏教に出会えたので、(たぶん)まだまだ時間はある。それはありがたいことだと思います。時間があると思ってダラダラと生きないように気をつけないといけませんが・・・。 仏教や瞑想に関することに限らず、私はずっと良い情報に恵まれてきたように思います。ちょっとしたことを知らずに恥をかいたことはいくらでもありますが、基本的には良い師や良い本に恵まれ、生きる気力をもらい、ここぞというときに助けられてきました。それもカルマなのかもしれませんが、そんなに有益な情報を人に与えた覚えはありません。受け取るばかりの人生に申し訳なさを覚えます。 私は20代半ばなので、まだまだ受け取る方が多くなるのは仕方のない部分もありますが、少しずつでも返していきたい、与える側に回りたい。そんな思いを先生にお話ししたところ、今回このような機会を頂けることになったのでした。私のレポートが、瞑想に関する情報を探している方や、現在ともに修行に励んでいる方たちにとって、何かひとつでも役立つものになれば幸いです。 |
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先生提供 |
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池田清彦著『環境問題のウソ』(筑摩書房 2005年) |
ダイオキシンは本当に危険なのか、外来種は悪玉なのか、今の自然保護のありかたは? 著者は一つ一つにデータをあげながら疑問を呈し、この社会がそれらの問題点を取り上げる姿勢に間違いはないかと鋭く指摘する。なかでも、地球温暖化の主要因ははたしてCO2なのか、CO2を削減しさえすれば温暖化にブレーキが掛かるのか、それには明確にNOを突きつける。 去る9019年9月23日、ニューヨークで行われた「国連気候行動サミット」でグレタ・トゥーンベリさんは訴えた。「・・・人々は困窮し、死に瀕している。すべての生態系が崩壊し始め、私たちは大規模な絶滅を前にしています。それなのにあなたたちは、お金と永続的な経済成長という『おとぎ話』ばかりを語っている」(「毎日新聞朝刊」2019/9/25より)。国連本部の総会ホールは静まりかえったという。 世界の自動車販売台数が年間9000万台を越えていたり(2018年)、生活のための膨大なエネルギー利用が大気に影響しないはずはないだろうと素朴ながらそう思うし、自分の住む地域(東京)でも子供の頃と近頃の冬の寒さの差は確かに実感される。しかし、それをただちにCO2に起因する「地球温暖化」というグローバルな観点に結びつけることが、疑問の余地がないほど絶対的に正しいのだろうか。 先の新聞には同時に、「学校で気候変動を教えること自体は問題ない。だが、(温暖化を警告する科学者とそれに懐疑的な科学者の)両方がいることを教えるべきだ」とする研究者の意見も載せている。地球温暖化がCO2の排出の増大によって起こされているという見解が異常気象と関連づけて常識のようになっているが、はたしてそうなのか。著者は、「温暖化脅威論は地球規模のマインドコントロール」(薬師院仁志による)という意見に賛意を示し、温暖化のCO2原因論にデータを示しながら反証する。 どのような見解を持つにしても、硬直した見方は何ごとによらず望ましいことではないと思う。たとえ多くの人が言っていることであっても、出来るだけ幅の広い情報をもとに自分なりに考え、客観的な視点を持とうと努めることはとても大切なことではないか。この問題を含めて著者は、冒頭であげた4つのテーマについて徹底的にデータに基づいた考察を行っていて、少なくとも本書を読んだ後では、これまで特になにも疑うことなく「そうなのか」と思っていたことが、単に無批判的に取り入れていたに過ぎなかったのではではないか、ということを改めて感じさせられた。 著者は1947年生まれの早稲田大学名誉教授、専門は生物学、「帯には多分野にわたって評論家活動を行っている」とある。10年以上前に出版されたもので、還暦目前に執筆されたものだが、その主張はきわめて歯切れが良い。ここでは4つのテーマのうち、第1章に絞って紹介することにしたい。 第1章の流れはこうである。まず、「地球温暖化は本当なのか」として、都市の気温と田舎の気温の推移からみると、地球規模の温暖化(グローバル・ウォーミング)ではなく局地的な温暖化(ローカル・ウォーミング)ではないかと言う。地球規模の温暖化という点では最も有名なデータとしてGISS(NASA・ゴダード宇宙研究所)の数値があるが、そもそもそのデータの取り方(アメリカやヨーロッパに偏っていて海の上はほとんどない)にも問題があって、その信憑性に疑問が呈される。そして、地球をよりくまなく測っている衛星のデータからは、「地球の気温がうなぎ登り上がっているという巷に流れている言説は、それほど信用できるものではなさそう」だと言う。 また、20世紀に都市部の局地的な温暖化が起きていたのは確かだとしても、それがCO2の排出の増加によるものかどうかはまったく不明であり、「温暖化は昔もあった」として、木の年輪測定から昔も今と同じくらい暖かい時代もあり、あり寒い時代もあったことを明らかにしている。なかでも興味を引かれるのは、中世温暖期と言って10世紀から12世紀はかなり暖かかったらしく、10世紀にノルマン人に発見されたグリーンランドは「当時は草や木が生えて綠におおわれており、そこからグリーンランドの名前がついたという」し、いくつもの農場さえあったのだが、「16世紀までには絶滅したとのこと」で、それ以後、雪と氷の世界になったと推測している。 17世紀は気温の極小期で、ヨーロッパではアルプスの氷河が前進し、日本で1780年代には両国川や浅草川が結氷したという記述も古文書に残っているそうである。著者の近くの高尾山に元禄時代に生えたブナの大木があるそうだけれども、今は暖かすぎて若いブナが育たなく、自然には更新されないと言う。 いずれにしても、15世紀の温暖現象はCO2の人為的な排出によるものではなかったことは確かなので、もし現在の温暖化(や1970年頃の寒冷化)が、「よし事実だとしても、自然のサイクルの枠内に収まる現象と考えてはいけない理由はない」とする。 また、水温によって水を構成する分子の微妙な違いから、サンゴの殻を分析することでその時代の水温を推定することができる。それによると、気温の変動パターンが陸上のそれとは一致せず、地表表面の温度を決める要因は複雑であって単純ではないことを挙げている。さらに、地表の気温が変化するとそれが熱伝導で地下深くまで伝わることから、グリーンランドの氷に穴をあけて壁の温度を調べた研究があり、その結果、17世紀は現在より1度ほど低く、10世紀は1度以上高かったことが分かり、古文書の記録と良く一致していると言う。 あるいは、8000年前から5000年前のエジプトや黄河流域で古代文明が生じた時期は、「ヒプシサーマル期と呼ばれ、昔から暖かかった時期としてよく知られている」し、青森県の三内丸山遺跡で縄文期に栗を栽培していたのもこの時期である。私も、この縄文期の気候は、かつて学校で「縄文海進」として、貝塚などの遺跡が内陸にあることなどにとても興味をもったことを思い出す。 さらに長いスパンで見ると、「ここ数百万年単位で見るならば、地球は寒冷化している」が、そういったなかでも温度は「4万年と2万年の周期で変動し、「100万年以降はこれに加え10万年周期が出現している」という。さらに遡れば、恐竜の栄えた中生代白亜紀の平均気温は今よりも6度も高かったことが知られている。 そして、CO2の濃度のデータを見ると、その上昇と気温の上昇が相関している1880年頃から1940年頃まで(もちろん相関=因果関係とは言い切れない)と、その濃度が急激に増大し1940年から70年までに地球の平均気温が0.2度下降したのとはまったく矛盾している。ちなみに、1940年頃まで全世界の年間炭素排出量はせいぜい10億トンだったものが、70年には40億トンとなっていた。 このほか、温暖化は水蒸気、CO2、メタン、オゾン、フロンガス、N2O(亜酸化窒素)などの温室効果ガスによるが、温暖化への貢献ではこのうち水蒸気が最大で90%を占めている。それに加えて、地表から出て行こうとする熱の95%以上はすでに存在する温室効果ガスによってブロックされて地表方面に再放射されているという。「という意味は、温室効果はあと数%で飽和に達し、温室効果ガスがどんなに増えてもそれ以上は温暖化しないということだ」として、「気候の変動はCO2 の人為的排出が始まる前からあったわけだから、他に原因があると考える方がはるかに合理的だ」と結論づけている。 そしてその原因は、太陽の活動がおおよそ11年周期で変動することにあって、その間、可視光の放射は0.1%くらい、紫外線では1%、X線では100倍ほども変化するという。アメリカのライドによる黒点数と北半球の平均気温が相関するという論文もあり、「1989年に発表した気象庁のレポートには『地球全域の平均海面水温の長期変動は、太陽黒点数の長期変化とよく似ている』と書かれ」ていて、過去120年あまりの変動グラフによると、「太陽黒点数が増加した時には水温が上がり、減少した時には水温が下がっていることがよくわかる」。 また、17世紀半ばから18世紀前半までの70年間の寒かった時期には黒点がほとんど消えてしまっているし、10年から14年と変動する黒点数の増減幅を変数として使うとさらに気温変化との相関を示していると言う。つまり結論として著者が最も強調しているのは、太陽の活動こそが気温変化に大きな影響を与えているのであり、CO2の影響はあくまでマイナーに止まる(下線は編集部)ということ、そして、莫大なコストを使ってそれを規制するのは、「健康のためと称して高価な薬を投与してコレステロール値をほんのわずかさげているようなものかもしれない」と結論づける。 この章の最後には「温暖化で何が起こるか」として、気温そのものの上昇よりもそれがもたらすさまざまな作用として懸念されている海面上昇、異常気象、健康被害、農業への影響があげられている。 海面上昇については、過去30年の日本の各地での海の水位は、東日本では数㎝下がり、西日本では数㎝上がっているという。また、「世界的に見てもここ数十年の海面上昇はほとんどない」。IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)の予測では、今後100年間に9~88㎝海面が上昇すると言うが、「9㎝ならば別に大したことはないし、88㎝も上昇したら、京都議定書程度のCO2の排出規制じゃ焼け石に水」であり、明日から、CO2の人為的排出は一切しなければ多少の効果があるかもしれないが、それでは海面の変動よりも先に人類の文明が終わることになる。 また、異常気象については、IPCC1996年の報告書に「全体として、20世紀を通じて異常気象、すなわち気象可変性が増加したという証拠はない」となっているそうで、むしろ森林の伐採などによる影響によって洪水などが起きているのである。つまり、「要するに異常気象がどんどんひどくなるなんていう話は、いかなる科学的根拠もないインチキ話なのである」と。 健康被害について、環境庁のマンガに、「マラリアなど熱帯のだけの病気が日本にもやってくるかもしれないのだ」と書いてあるそうだが、これも温暖化とは関係ない。日本でも昔はマラリアがあった(平清盛の死因がマラリアによる高熱だったという説があり、『源氏物語』でも光源氏が瘧〔オコリ、ギャク:マラリアの一種〕にかかって苦しんだという:編集部)し、小氷期でさえヨーロッパやイギリスからマラリアはなくならなかったそうで、20世紀初頭にはアメリカでも蔓延していたと言う。また、エイズ、鳥インフルエンザなどのさまざまな伝染病もグローバリゼーションが急速に進んだためであって、つまりは衛生環境次第なのである。 農業についても、それは、温暖化とCO2濃度の上昇とによって、熱帯から寒帯における国々への影響はさまざまであり、特に熱帯地域で高温に強い品種の改良がなされれば、世界全体の穀物生産量への影響はむしろプラスになるのではないかと言う。 最後にCO2削減のコストについて論じ、炭素排出量の制限ばかりに目を向けた「京都議定書が完璧に実行されたとしても、100年後の気温上昇をほんの6年ほど遅らせることができるだけ」であり、むしろそれを太陽光や風力など、代替燃料の相対的なコストをなるべく早く化石燃料以下にすることや、「途上国の様々なインフラ整備に使った方がずっと効率よく温暖化対策を実現できる」はずと提言する。 そして著者が「独断的」とする予想では、「地球の温度は直線的に上昇するなんてことはなくて、あと十数年か数十年かしたら下降するに違いないと思う。そうなったら政府もマスコミも地球温暖化論などはすっかり忘れて、氷河期が来る、と言って騒ぐんだろうな」と言うことになる。 このあと、冒頭にあげたダイオキシンについて、外来種問題、そして自然保護についても同様のスタンスで鋭くかつ諧謔的に論じている。 著者には本書の他にも多くの著作があり、その一部を紹介すると、『ほんとうのエネルギー問題』(KKベストセラーズ 2008年:エネルギー)、『新しい環境問題の教科書』(新潮文庫 2010年:温暖化問題と洞爺湖サミット、生物多様性、人口と環境問題)、『ほんとうの環境白書』(角川学芸出版 2013年:原発、エネルギー、温暖化、感染症、自然保護、など)、『この世はウソでできている』(新潮社 2013年:「健康のため」「安全のため」「環境のため」というウソ)等々。 とくに、『この世は・・・』では、「言語を統一しようとすることは、当然ながら、一種の他者コントロールである」とか、誤報をきっかけとした「ダイオキシン法」の成立などをはじめとする民主主義を始めとするこの世の仕組み、健康や安全をめぐる科学を装った言説などに続いて、なぜ現代人はウソを信じやすいのかについて述べていて、心したいと思う。 確かに、私たちが今話題とされる環境問題について関心を持つのはとても大切なことだと思うが、いわゆる流布されている話しをそのまま受け入れて自分の意見とするのではなく、一度は「はたしてそうなのか?」と考えてみることが大切だと思う。そのような意味で、視野を広げてくれ既成の概念を再考させてくれる一冊であった。(雅) |
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