月刊サティ!

2019年9月号  Monthly sati!  September 2019


 今月の内容

 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

       
今月のテーマ:尋ねたかったこと(5) ―エゴをなくす修行―
  ダンマ写真
  Web会だより:『検証しながらの瞑想実践』
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:『作家がガンになって試みたこと』高橋三千綱著
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて頂        きます。ご期待下さい。


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
   今月のテーマ:尋ねたかったこと(5)
                       -エゴをなくす修行- 
 
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:
  エゴを出来る限りなくしていくことの意味はわかるような気がします。ただ、そうすると、スポーツを始めとする競技会やコンクールなどで表彰されたりした時、特にはオリンピックなどでメダルを取った時などの感動などどうなのでしょう。喜怒哀楽もなくしていこうということでしょうか。

アドバイス:
★喜怒哀楽を無くすのではなく、愚かしいエゴ妄想を手放していくのが瞑想者です。
  血の滲むような練習を重ねてきたアスリートがオリンピックの晴れ舞台で獲得した栄光の金メダルです。人生最高の喜びにガッツポーズをして欣喜雀躍、感涙にむせぶのも自然なことです。
  こうした喜怒哀楽を感じることに問題がある訳ではないのです。我執が強くエゴがギラギラしたアスリートもいるし、ひそかに原始仏教の無我論を学びヴィパッサナー瞑想を修練しているアスリートもいるでしょう。エゴの強いA選手と瞑想者のB選手が金メダルを獲得した瞬間、どのような違いがあるのか考えてみましょう。
  A選手は、オレが世界一だ!と、まるで自分という人間全体が世界一になったように錯覚するかもしれません。このオレ様が金メダルを獲ったのだ!オレの実力であり、世界で一番だ・・と滑稽なエゴ妄想にのめり込んでいる状態です。
  一方、瞑想者のB選手は常日頃から、この世のどんな存在も現象も互いに繋がり合っていて、その関係性を切り離して個別に分離独立しているものはないことを心得ています。ものごとは宇宙網目のような相関関係に織り込まれた複雑系であることを熟知しています。確かに自分は今回金メダルを獲れたが、それは持ち前の才能と子供の時から重ねてきた膨大な練習量と、素晴らしい師匠や先輩やコーチの指導と、健康状態を気づかい無理なスケジュールにも嫌な顔ひとつしないで協力してくれた家族と、切磋琢磨してきた良きライバル達との出会いと、不思議に怪我ひとつなく最高のコンディションに恵まれた運の良さ、などが今回のオリンピックの瞬間に美しく結晶したに過ぎないと覚っているのです。
  仏教用語で言えば「諸法無我」の消息を心得て練習に励み、試合に臨んできた結果が金メダルに繋がったと心得ているのです。オレ様がどんだけ凄いか、お前ら、この金メダルで分かったか!!と鼻の穴を大きくしながらガッツポーズを振りかざしたりしないのです。
  A選手もB選手も嬉しいのは変わりません。達成感や勝利感を喜ぶのは人間の自然な反応であり、ただそれだけのことです。違うのは、エゴ妄想で頭がいっぱいか、この世の実状があるがままに観えているか、です。実相が観えていれば、多くの人に助けられ支えられた複雑系のチームで勝ち取った皆の金メダルであり、たまたま自分が代表で表彰台に立ったに過ぎないと心得た上で、思いっきり感動し喜んでいるのです。最高位に昇りつめて傲慢になる人と、この世の事象の本質を心得ている謙虚な人の差も、このエゴ感覚に由来しているでしょう。

Bさん:
  今のことと関連しますが、「今以上にもっと良くしたい」という気持ちがないと、人は向上心を持てないのではないかと思いますが。

アドバイス:
  そうですね。向上心はとても大事なものですが、たんなる欲望に過ぎないものと真の向上心は微妙に違いますね。ポイントは智慧が伴うか否かだと思います。人間としてもっと立派になろう、心をさらに浄らかにしよう、預流果の悟りに達したのだから次は一来果を目指そう・・と望み誓願する心は素晴らしい向上心でしょう。これは最終的に人を悟りに導き、ドゥッカ()から解脱させる究極の目標に通じています。
  一方、愚かさや欲に根ざした不善心からお金や地位や権力を求める上昇志向に過ぎない場合も少なくありません。誰でも幸せになりたいし、今よりもっと良い状態になりたいと願っているのですが、智慧のない人は結果的に自分で自分の首を絞めることをします。 
  「ダンマパダ」(66)では「あさはかな愚かな者たちは、自分自身に対して敵のように振舞う。 悪い行ないをして、苦難の結果を得る」と説かれています。そんな身勝手な欲望がかなえば自分が不幸になることに気づかないで、目先のものに刺激され罠にハメられ自滅していくのです。

*向上心を支える智慧の4つのファクター
  正しい智慧の伴った向上心とはどんなものでしょうか。ポイントが4つあると思います。

①現実をあるがままに認識する智慧
  まず第一に、現実をあるがままに認識する智慧です。この智慧を体得するには先入観や思い込みを除外しなければなりませんから、サティの瞑想が必修になりますね。「よく気をつけておれ」とブッダが生涯言い続けたように、マインドフルによく気づいて常に客観視できるように心がけます。
  今よりも良くなりたかったら、今自分に何が与えられているのか。何が決定的に不足していて、補完しなければならないものは何か。現状の問題点と必要不可欠なものとを見定める智慧がなければなりません。前から持っていたのと同じものを2つ買ってしまったことはありませんか?必死に探し求めた青い鳥はどうしても得られず、帰宅したら鳥籠の中にいた・・・という物語は何を意味しているのでしょう。
  私たちは常に何かが足りないと感じて、慢性的な不満足感を覚えています。欲しい、欲しい、もっと、もっと・・・と果てしなく求めていく「渇愛」という名の欲求性に苦しむように設計されています。人は必ず妄想するからです。現実の存在はどこか不完全で、苦の要素が包含されていますが、妄想は甘美なのです。今、ここに、無いものは、限りなく美しく妄想され、私たちを誘惑します。その渇愛に駆り立てられるのと、真の向上心を識別しなければなりません。
  妄想を止めて、何も求めなければ、本当に必要なものは既に与えられている、と気づくのではないか。妄想しなければ、心が静かになり、人と自分を比べなくなるし、昔と今を比べることもしなくなります。すると、存在しているものがありのままに視えてくるので、大事なものは、あるいは自分に相応しいものは全て与えられていたことに気づくのではないか。幸せの青い鳥は、見知らぬ国へ探しに行かなくても、最初から家にいた・・・と。今自分に与えられているものを正しく理解しないと、渇愛という名の盲目的な向上心に駆り立てられて膨大な時間と労力を虚しく費しながら歳を取っていくし、最後まで不満足感に苦しみながら死んでいくのです。

②客観的に観る智慧
  自分の現状を正確に把握するだけでは十分ではありません。他人との関係も自分を取り巻く環境や情況も正しく捉えないと、向上心が虚しいものになりかねません。今よりもっと良くなると思っているのは自分だけで、周囲の人は誰もそう思っていなかったら、他人には迷惑千万な改悪であり下落なのです。
  独善的な政治思想や社会改革に限らず、例えば、これはいい!と興奮してすぐに友人や知人に同じものをプレゼントして、相手はありがた迷惑でウンザリしているのに気づかなかったことはないですか?相手と自分は性格も好みも環境も生き方も生活レベルも違うのです。相手の立場に立ってみる発想と情況全体を俯瞰する客観視の視座が修得されないと、向上心どころか今よりもっと悪くなったと恨まれ、人間関係にヒビが入るかもしれません。

③諸法無我の智慧 
  向上心のポイントは、現在と未来の因果関係を正確に把握する智慧です。さらに突っ込めば、他人と自分の関係を客観視する智慧と、エゴや我執を離れる智慧になるでしょう。ものごとを客観的に観るには、自己チューを止めなさい、と言い換えることもできます。自己中心的な視座から「捨(ウペッカー)」の視座に昇格されれば、自分も他人も情況も俯瞰できるのです。
  すると現象世界の仕組みが構造的に覚られてくるはずですが、私たちにできる具体的な修行としては、利他行がイチ押しです。
  他人の幸福や世の中のためになることを無償の行為として実践するのです。例えば、寄付をしたり義援金を送ったりお布施をしたりする財施があります。さまざまなボランティア活動は非営利的な無償の行為であり、いずれも利己のためではなく利他のためになることです。これを身施と言います。相手のためになる情報を無償で提供し公開する情報系の利他行は法施と呼ばれ、いずれも仏教の定番です。
  自分さえ良ければ、あとは関係ないしどうでもイイや、と考えているエゴイストは利他行をやりたがりません。知的には理解できても、慣れ親しんだ自己中心的な考えを乗り超えるのは難しいのです。どうやって乗り超えていけばよいのでしょう。仕事でもプライベートでも常に相手の立場に立ってみる思考実験の癖をつけると、自己チューを乗り超える練習になります。ロールプレイングという確立された技法も有名です。
  私は若い頃、利己的な考えに陥ってくると何となく後味が悪く、薄汚れた感じがするのに気づき、対処法として、その日の気になる言動を想起して「ブッダなら、こんな時どうするだろう?」と問いかける癖をつけました。すると、その日の自分の言動や考えたことは、偉大なブッダだったら絶対にあり得ない、愚かしいお粗末な反応だったと恥ずかしくなるのでした。
  何もせず放置された人の心は汚れていくし、人は必ず自己正当化していくものです。向上に努めないで歳を取っていけば醜い老人になって老醜を晒すことになります。
  向上心ひとつ取っても、その中に仏教の真理が読み取られていきます。日々サティの瞑想を深め、苦の根本原因である妄想を手放して智慧の眼を体得していきましょう。

Cさん:
  今日の講義の中で、親鸞聖人の悪人正機説のことに触れられていましたが、それはどのような思想なのでしょうか。

アドバイス:
  私は仏教学者ではないし、若い頃、大乗仏教系の修行も多少かじりましたが、今は門外漢なので語る資格はありません。凡夫の素人考えを少しだけ申し上げれば、親鸞は浄土真宗の開祖の方ですね。大乗仏教の中でも他力本願の浄土真宗は、原始仏教とは最も対照的な教えかもしれません。

*自力と他力の行
  原始仏教は、自分自身の修行によって煩悩を乗り超え心の清浄道を完成していく自力の行法です。絶対的な神や仏を信仰し、その超越的な力によって救われていく信仰型の宗教とは立場が異なります。業論に基づいて倫理が説かれ、因果応報のメカニズムで人生の苦楽が経験されると考えています。悪を避け善をなしていけば必ず苦しい人生から解脱できるし、業を作った者が業の受け手であって、何ものも他人の罪や業を代わりに引き受けることはできないとする立場です。
  しかるに、十字架に磔にされた神の子が、全ての人類の罪や業を引き受けてくれる。あるいは阿弥陀仏が救ってくれる。泣きながら神を求める純粋な信仰こそが救済への道であり、自分を捨てきって阿弥陀仏の救済意志にひたすら帰依を貫き通す道もあるわけです。
  私は常に修行を重視してきたので、宗教思想を論じる情熱があまりありません。毒矢の成分を論議することも大事でしょうが、ブッダはまず煩悩の毒矢を抜き取れ、と哲学好きな比丘を諭しています。親鸞上人の教えの全容は私の関知するところではありませんが、ここでは、なぜ親鸞が徹底的に自力を否定し、ひたすら他力にゆだね切ることを説いたのかを考えてみましょう。

*無我に通じる他力の行
  私はイエスの福音書を拠りどころに修行したことがあり、また念仏の修行も私なりに真剣に試みたことがあります。その経験から、他力の行法は、エゴをなくす修行としてとても効果的で優れていると感じています。今は原始仏教に信が定まって無我の修行を完成させようと思っていますが、イエスと親鸞の行を経験しなければ、今の私はなかったかもしれないのです。
  絶対的な神への信仰を説くキリスト教も、一切衆生をあまねく救済しようとする阿弥陀仏への帰依を説く浄土宗も、その宗教構造は同じではないかと思われます。どちらも、エゴによる自力救済が不可能であることを自覚し、阿弥陀仏や神に救いを求めようとしています。
  エゴに執着している限り、底知れない煩悩の闇や原罪から救われることはない、と打ちのめされた者が己の無力を覚り、エゴを手放し、自我を終焉させようとしているのではないか。心の底から神仏への信仰が定まった瞬間、胡麻や辛子の粒のような自分が眩い太陽の中に投げ込まれ、無限なるものと一つに融合したような感覚になる・・・。この自我の崩壊感覚が、原始仏教の無我の修行に通じているように思われるのです。

*滝行の経験から
  ささやかな体験ですが、昔、初めて滝行の修行をしたとき、10月末の寒さに震えながら、水量の激しい滝壺にどうしても入れなかったのです。行者は私一人で、堂守りの飯炊きおばさんがいるだけでした。根性でなんとか滝の落下点に入ってやろうとあがいている間はいかんともしがたかったので、オレ様感覚を手放して謙虚な心で広大無辺な仏に祈りを捧げ、導きを乞いました。すると、我が身を仏の手にゆだねた瞬間、サラリと滝壺に入ることができ、それからは頭上から落下してくる滝に無心に打たれ続けることができました。・・・なるほど、こうして自力の限界を思い知らされたときにエゴ感覚を手放すのが他力の行なのかと鮮烈な印象を受けました。オレの力で修行して悟ってやる、などと思い上がっているうちは青二才の若僧もいいところなのだと深く教えられたのでした。

*無我の修行としての内観
  内観はヴィパッサナー瞑想の反応系の修行の一環として活用すべきではないか、というのが私の持論です。しかし歴史的には、内観は親鸞聖人の時代にさかのぼる「身調べ」という修行法を発展させたものなのです。「身調べ」の伝統を継承しながら現在の「内観」を確立したのは、吉本伊信という方で1988年頃まで活躍されました。精神的指導者になられる前はビジネスの経験があったので、ただ「反省しなさい」「懺悔しなさい」という「身調べ」のやり方では曖昧なので、より近代的な体系を作りました。
  両親や養育者に対する自分の過去を懺悔し反省するポイントとして①「お世話になったこと」②「お返しをしたこと」③「迷惑をおかけしたこと」という3つの観点を明確にしたのです。内観が強力な効果を発揮するのは、自己中心的なエゴ感覚を手放して根本から発想の転換を迫るからです。エゴイスティックに歪められた過去の記憶を「在ったがまま」の正確な記憶に正していく行法はヴィパッサナー瞑想に直結すると私は考えています。今の瞬間をあるがままに観るのか、過去の事実をあったがままに観るのか・・・。いずれも、自己チューを乗り超えて自分を客観視する無我の修行そのものではないか。

*浄土真宗の悟りと内観
  私がかつて大乗仏教の修行をしていた頃、内観の修行を通して浄土宗での悟りを体験してみたいと考えていたことがありました。内観の修行は、今申し上げたように、愛されてきた確認と迷惑をかけたことへの懺悔が骨子です。
  特に重要なのは、自分がかけてきた迷惑の精査です。自己中心的なものの見方を捨て、相手の立場に立たなければ自分のかけた迷惑に気づけないので、ここで相手の立場に立ったり全体を客観視したり視座の転換が迫られるのです。
  しかし自分が人に迷惑をかけ苦を与えてきたことを徹底して調べていくと、傲慢の鼻がへし折られていくのです。と同時に、やがて暗澹として自己否定感覚や自罰的傾向が強まることも少なくありません。すると、内観を深くやりすぎて自殺したくなったりしないのですか、という質問もよく受けるのですが、①の「お世話になったこと」を丹念に調べるので、そこは大丈夫なのです。自分がどれだけ愛されてきたかという感動と、真っ黒などうしようもない自分を黙って赦してくれてきた人たちがいた事実に打たれるので、自己破壊の方向に行くことはないのです。
  ところが私の場合は、①②を省いて③のみに絞り込んで修行したことがありました。私は、吉本伊信先生がまだご存命だった頃の最後の時期にぎりぎり間に合ったため、吉本先生に直接面接していただくことができました。2週間連続で修行したので、その後半戦で「自分の心の汚れだけを徹底的に観たいので、自分の犯した罪業や邪悪な考えや腐った心だけに絞り込んで調べてもよろしいですか?」と訊ねたところ、吉本先生は「好きなようにやりなさい」と言ってくださいました。

*地獄は一定すみかぞかし
  こうして連日連夜、自分の罪業とどうしようもない心の闇を徹底的に調べていくうちに、穢れきった自分の心のあまりの真っ黒さに打ちのめされました。たとえ地獄に堕ちても自分のような者は救われようがない、と文字通り目の前が真っ暗になり、絶望のどん底に叩き落されたのです。もう生きていけない、救われようがない・・と追い詰められたとき、心の底から神仏の力に救い取られたい、と呻くように思いました。自力の無力さに絶望し、エゴに頼る心は全捨て、ただただ他力におすがりするしかない・・・と完全にノックアウトされたのです。
  絶望の果てに、他力の救いを求める心が純粋に突き上がってきた貴重な体験でした。オレの力で悟ってやる、などという慢の心は木っ端微塵になり、エゴが全面降伏した爽やかさすら感じていました。この時の体験から、ここまで追い詰めてエゴの息の根を止め、自力の心を捨てさせる他力の修行構造が理解できたように思いました。
  それが浄土真宗の教義の正解かどうかは知りませんよ。私たちは言葉では簡単にエゴを手放すとか言いますけど、エゴというのは本当にしぶといのです。どれほど修行しても、どのような体験をし今度こそ息の根を止めたと思っても、不死鳥のように甦ってくるのがエゴ意識であり自我感覚です。もし完全に終止符が打たれ、恒久的に無我が現成したならば、それは究極の悟りが完成した阿羅漢果の状態ということになるでしょう。

*総力戦の修行
  「どんな教えや戒律であっても、八正道がありさえすれば解脱する者が現れる」とブッダは涅槃経の中で言ってますね。これが、なぜ私が内観のような他宗教の行法をヴィパッサナー瞑想の一環として取り入れているかの根拠です。心の清浄道が完成するなら、上座仏教の伝統も、イエスの教えも、親鸞の他力の修行も、何でも活用すればよいではないか。八正道を基本に修行することが肝心なのであって、純粋な上座仏教以外の修行では悟りたくない、などとカルトのようなセクト主義には陥りたくないのです。

*悪人正機説
  さて、親鸞上人が説いた悪人正機説はどんな教えなのか、正確なところを私は知りません。ヴィパッサナー瞑想に役立つか否かが、常に私のスタンスです。親鸞上人は浄土真宗の開祖として偉ぶることもなく、恐ろしいまでに厳しい求道者として一貫していたように思われます。
  自力に頼る心(=エゴ意識)を1ミリたりとも許さず、徹底的に粉砕しようとする厳しさが悪人正機説に繋がったのではないでしょうか。自分は善人だと思った瞬間、エゴ意識が芽生え、やがて傲慢の枝が肥え太って毒々しい花が開いていく・・・。
  しかるに徹頭徹尾、自分は救われようのない悪人なのだと心得れば、オレが、私が、の我執は鳴りをひそめて生じてこない。エゴ意識を微塵も起こさせない装置として、悪人こそ救われる、悪人の自覚を片時も忘れずエゴを叩きのめした方が、どんな弱者も愚者も悪人も救おうと誓願した阿弥陀仏の本意に叶う、としたのが悪人正機説ではないでしょうか。
  歎異抄には「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉があります。阿弥陀仏は、自力を頼みとするエゴの強い善人ですら救ってくださるのだ。そんな善人が救われるのだから、エゴの無力さを思い知らされ阿弥陀仏に我が身を丸投げした愚かで無力な悪人こそ先に救われるのは当たり前ではないか・・ということでしょう。

*自ら悪をなす(造悪無碍)
  ところが、そこから「本願ぼこり」という問題が起きてきたのです。「悪人の方が先に救われるなら、よーし、悪をやりたい放題やってやろうじゃないか」と、意識的に悪行をやり始める者が現れてしまったのです。困った親鸞は「そうやって積極的に悪をなして救われようというのも自力のハカライであり、他力本願ではない」「薬あらばとて、毒を好むべからず」と諌めたというのです。
  そこで関東の門徒に広まったこの本願ぼこりを鎮めようと、親鸞の息子である善鸞が高齢の父の名代として派遣されました。ところが、あろうことか善鸞は、「親鸞は、息子の自分だけに秘かに教えてくれた真実の法門がある」などと吹聴し、邪宗門の教祖のような振舞いを始めたのです。
  その報に接した85歳の親鸞は断腸の思いで息子の勘当を決意し、激しい口調の義絶状を送ったというのです。
  ・・しかし、このような話になってくると、もはや私の関知するところではありません。原始仏教を拠りどころにしている私にとっては、業論上否定すべき「悪人正機説」から一つの教訓が学び取れれば充分なのです。他力の行者の恐ろしいほど厳しいエゴの滅ぼし方は尊敬に値するし、ヴィパッサナー瞑想を完成させるのに大いに役立つと考えています。

*宗門の違い・悟り観の違いを超えて
  阿弥陀仏に救われて極楽に再生したい、と私は思っておりません。無限に繰り返される輪廻転生の流れから解脱したい。そのために煩悩の最深部に巣食っているしぶといエゴ意識を根本から解体させて無我を体得したいと願っている者です。
  浄土への往生を願う解脱観と原始仏教の解脱観は異なるのですが、親鸞の限りなく我をなくしていく厳しさは潔くも魅力的に映るし、エゴを滅ぼす修行として私はチャレンジしたくなるのです。
  バクティ・ヨーガの聖者ラーマクリシュナも、悟りを開いた禅の老師も、他宗教の行法を学ぼうとしたときは、それまで自分が拠りどころとしてきた神仏も行法も見事にかなぐり捨てて、きれいな白紙状態になって謙虚に教えを乞い、素直に指導に従い修行したといいます。
  エゴがなければ、本来相容れないはずのものにも相和すことができるのですね。「水は方円の器の如し」と言います。金魚鉢に入れれば丸い球形の水になるし、豆腐を作るときの四角い器に入れれば四角い形の水になり、争うことがないのです。
  私はヴィパッサナー瞑想を至高のものとしてインストラクターなどしておりますが、さまざまな宗教や修行法を遍歴してきた過去があります。心境が進めば、過去の稚拙な教えや行法を見下したくなりがちですが、失敗経験も含めていずれも、その時の自分には必要なものばかりでした。お世話になったのだから、敬意をもって振り返るべきでしょう。
  悪人正機説は、イエスの教えと同様、私にとっては最重要な修行体験でした。宗教とイデオロギーの違いと利害の対立から、人類は互いに殺し合い憎み合ってきましたが、今もそれは変わりません。自分とは何もかも異なった異質の存在だからこそ仲良く和合することができれば、多様性の価値を最高度に発揮できるはずです。
  いかなる事象もどのような存在も、あるがままに承認していくヴィパッサナー瞑想は嫌いなものに対しても慈愛の念を放射していく瞑想です。他宗教の教えや行法からも謙虚に学ばせていただく姿勢を貫いていきたいですね。()
 今月のダンマ写真 ~
                  











比丘の方々への食事供養

 
N.N.さん提供


    Web会だより  
『検証しながらの瞑想実践』H.Y.
  ヴィパッサナー瞑想を始めて以来、心が徐々に解放され、楽になっていると感じています。その反面、自分を振り返ってみると、引っかかっている気持ちの一つに、他人に認めてもらいたい気持ちが強いと改めて思いました。
  瞑想に出会う前ですが、大学のOB会の世話人をやっていたことがあります。世話人はOB会の組織運営を行い、仕事はOB総会の準備や会費の集金など多岐に渡ります。大変でしたが、やりがいのあるものでした。そのやりがいとは、仕事を達成したというよりも、人の為に役に立ったという気持ちが強く、結局は人に認めてもらいたいという思いが昇華したものでした。居心地の良い反面、その心地良さをさらに得ようと仕事を頑張っていました。当時はそうした心の矛盾に対し、本当は何が正しいのか、そもそも改善すべき事象なのか、何も分かりませんでした。

  初めてマインドフルネス関係の書籍でグナラタナ長老の本を読んだ際、ここに今までの人生の疑問を解決してくれる道があるのではないかと思ったときは衝撃的でした。原因分析とその背景、そして方法論が書かれていたからです。理路整然に論理展開され、そのやり方まで明確に提示されているとは、晴天の霹靂でした。それ以来ヴィパッサナー瞑想にかなり興味を持ち、それから地橋先生・スマナサーラ長老はじめ多くの本を読みあさりました。

  ただ瞑想を始めるには抵抗がありました。自己流でやると癖がつくので、瞑想会に通って学んでから始めた方が良いのは頭でわかっているのですが、瞑想会に行く決心がなかなかできません。瞑想自体が胡散臭いという思い、宗教はお金もうけであるという先入観、世話人での反省があったからです。そのため原始仏教をしっかり学んでから、一人で瞑想を始めていこうと思っていました。

  そういう思いで原始仏教を学んでいたのですが、スマナサーラ長老にお会いしたいという思いが衝動的に生まれました。この世のありのままを直観するとはどのようなことなのか、それを日本で指導される原始仏教の第一人者の方に直に会ってみたかったからです。そこで長老が主催する朝日カルチャーセンターの講座に出ることにしました。カルチャーセンターであれば、宗教色は強くないのではないかと思ったからです。そして長老の講座を聞いて、瞑想を始めなければという決心が生まれました。瞑想修行を始めるのであれば、日本の中でも瞑想実践の第一人者である地橋先生に教えを乞おうと思い、朝日カルチャーセンターの講座で瞑想を学び始めました。

  今では瞑想を胡散臭いと思っていた気持ちはなくなりました。心が軽くなるという効果を実感すれば、瞑想に対する疑いはなくなっていきました。

  また宗教は金もうけであるという思いもあったのですが、原始仏教ではそれが無いことも私の心の中で実証されました。多くの原始仏教の本を読みあさっている時に、上座部仏教の組織運営はどうなっているのかを調べたところ、教団が経済活動をしていないことを知りました。信徒からの布施で成り立っているのであれば、その信徒たちはどのような信仰心で布施しているのかと疑問が湧きました。彼らが心の奥からお布施したいという気持ちでやっているのを知ったとき、世の中にはこのような人々がいるのかと驚きました。また布施する行為がブッダの教えにつながっていて、自分や周りの人々を幸せにしていくことにつながることを知りました。

  実際に私もお布施をやってみたいと思い、やってみると効果を感じました。最初はお金ではなく、人への奉仕を行いました。大学時代の世話になった先輩に迷惑をかけたせいで長年音信が途絶えていました。そこで全く関わりのない職場の人に、自分が迷惑をかけてしまったことを償うような形でお世話しました。すると音信が途絶えていた先輩から連絡があったのです。たぶん一生お会いすることはできないと思っていたので、これには驚きました。

  日常生活では布施をするように心がけていますが、普段は良くなってきているかなという程度です。しかしある日、募金の振込をしにATMのボタンを押した瞬間に、歓喜が全身を駆け巡ったことがありました。これは生涯でも滅多にないすごい体験だと実感し、布施への信が生まれるきっかけにもなりました。

  世話人での反省ですが、あるとき私が役に立って皆さんから感謝されることがありました。他人に認めてもらいたい気持ちが心の奥で生起されるのがわかりました。すぐに喜んでいるとサティを入れると、昔のように喜びや頑張ろうという衝動が少なくなってきました。それ以来、自分の気持ちが落ち着いてきていると感じています。

  今までは瞑想や宗教に興味があっても信じられず、宗教理論を学びそのエッセンスを見つけることで、真実を知ろうとしていました。その反面、このやり方では見つからないとも心の隅で感じていました。ヴィパッサナー瞑想と出会い、これこそが真の道だと自分の心の中で思っています。この思いを確信に近づけるために、まずは戒の修行を重視して頑張っていきたいと思っています。
 
☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。
 

楽山園(群馬県)  K.U.さんより

     
 






このページの先頭へ   

    トップページへ 


 


ダンマの言葉

 精神的成長と最終的な解脱以外に、人生が私たちにもたらす、価値あるものは何もないと気づくとき、決意が生じます。私たちは、ライフ・スタイルを変える必要はありませんが、自分自身の周囲や内部で起こっていることに対するアプローチ、反応、理解を変える必要があります。そのような決意をすると、正しい道を歩む喜びが生じ、幸福がもたらされます。そうした決意は、自己再生していきます。
   普通の決意は生じては滅してしまい、復活させるには奮闘努力が必要です。しかし、「精神的な道」への決意である場合には、幾度も呼び起こす必要はありません。精神的道への決意は、喜びをつくり出すのでそこに留まるのです。(アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました。月刊サティ20035月号より)

       

 今日の一言:選

(1)殺さない、盗まない、不倫をしない、嘘をつかない、酩酊しない、と戒を守ろうとする一瞬が「瞑想」なのだと心得る。
  「怒りや欲望や無知に眼が眩んでいることに気づく一瞬」「煩悩に流されまいと踏み止まる意志」「ダンマを選び五戒を守る決断を下す瞬間」……にまとめあげられていく意識の流れ……

(2)避けようと願って避けられるのであれば、さしたるカルマではないだろう。
   否応のない因縁の力で生起した事実は、好むと好まざるとにかかわらず、いかんともしがたい。
   ともあれ、虚であっても実であっても、業であろうがなかろうが、一切が無常に崩壊していく現し世のことではないか……

(3)真実が露わになれば、かけがえのないものを失ったことに気づくだろうが、心に深く刻み込まれるものもある……


       

   読んでみました
    高橋三千綱著『作家がガンになって試みたこと』(岩波書店 2018年)
 
  作家による闘病記には違いないが、そこから想像されるものとはかなり違っていた。で、本書をここで取り上げるかどうかについては少し躊躇したけれども、こんな考え方もあるのかということ、そして、文筆家である著者の文章は「さすが読ませるなぁ!」と言う感想を持ったことから、あえて紹介することにした。いわゆる闘病記とはひと味もふた味も違っていて、著者自身の環境や状況に負うところも多いし、自分にはとうてい当て嵌まらず出来そうにもないとは言え、ものの見方を広げる意味では読んでみて痛快でもありまた衝撃的でもあった。
  記録は血糖値の数値が境界線よりもはるかに高くなったことから始まる。つまり糖尿病。早々と3ページ目にはこんな文が出てくる。「担当の老医者はどこかの病院をお払い箱になったような頼りない人だったが、それでも酒の飲み過ぎだとかカロリー制限を死守せよなどと、くどくどと説教をすることを忘れなかった。・・・」と。そして、検査入院で血糖値が320mg/dLを超え(基準値は70109)、γ(ガンマ)-GDPの上限値は79U/Lであるのに20102月にはなんと3954。「それは検査の間違いである」と主張した結果、1カ月後には4026。それを見て先生は、「死んでいる人の数値ですよ」と青ざめたという。
  その後、肝硬変、三度にわたる食道静脈瘤の手術、食道ガンの手術、肝性脳症での入院、そして、「こんどは胃がんが見つかりました」と告げられる。作家というと、イメージの一部には無頼派というものがあって、著者自身はそう自称しているが、それも酒が原因の肝硬変となればここで不飲酒云々といっても始まりそうもない。
  ただ言えることは、著者は本書で読む限りではあるけれど、あくまで楽天的なのだ。次々と病の経験をしながらも自分でもさまざまに調べ、また書名にあるようにいろいろと試みるのである。そしてその中には「そういうものか!」とトンと手を叩きなるものや痛快なものもけっこう多い。
  「毎日インシュリンを注射して断酒しないと、四カ月で死ぬ」(20104月の時点)と告げられた高名な肝臓病の医師に手紙をしたためる。
  「告知は医者のつとめであるかもしれないが、それにショックを受けてありもしなかったガン細胞ができてしまうことがあります。私はあなたの傲慢さに憤りを覚えます。『死ぬ』と患者に告げて、青ざめている相手を見て愉快ですか。同じ言葉を告げられたら先生はどう反応されますか。冷徹さは必要でしょうがそれだけでは患者は救えません。先生は毎日百人の患者を前にうんざりされているかもしれませんが、患者にとっては命を救ってくれる人は、I先生ひとりなのです」
  数日後に先生からは詫び状が届いたそうだが、その時にはI医師にかかることを断念していた著者は、 「『よし、こういうときこその楽天家だ。まず、禁酒する。家族を安心させて仕事する。新しい三千綱を発見しよう』。そうほざいた私は、意地を見せてその後半年間は完全に禁酒した」そうである。
  もちろんきちんとした診断も受け、治療もおこなっているのだけれど、本書を読み進めると、そうしたことよりも、全編にちりばめられている著者による健康、病気、医者に対する考え方、信念といったものが強く印象に残る。つまりそれは著者の人生そのものに対する姿勢と通じるようだ。
  曰く、「・・・それに肉、総菜を食べない人はタンパク質不足で死ぬ。表立って語られることはないが、ガン患者の死因のほとんどは、ガン細胞ではなく栄養失調だと専門医は知っている」
  「ひとつだけ決めていたのは、たとえ胃ガンであろうが手術は断るつもりでいたことだ。・・・何故か。胃ガンの手術をされてしまえば半年で死ぬ」
  「実は私は病気を重ねる内に、医者の言いつけを守ると人生が台無しになると喝破するようになっていた」
  どちらかと言えば、医者から言われたことはよく聞く方の私からすれば、これなどまさに「本当かよ・・・!」である。そして、食べたいものを食べ、静脈瘤出血の恐れがあるにもかかわらず、ゴルフのティーショットでは欲を出して力一杯振ってしまうのを、本人は「若い証拠」だと見なし、T大学病院の医者については「バカの壁」と言ったそうである。
  こうして紹介していけばきりがなさそうだが、もう少し書き出してみよう。7カ月に及ぶ戦いに一応のピリオドを打つことになって、「楽天家は運を呼ぶ、そう思った」時に考えたのは、「病気で死んだ人の内、病院の担当医師に殺される患者の割合は20%は下るまいと言うことだ。原因は誤診と、無責任で無神経な医者から与えられるストレスである」と。
  「早期発見であれ、それが真性ガンであれば、すでに臓器転移しているのである」「手術をしないからこそ、数年間は安穏に過ごせるのだ」「医者の言うまま手術をしたら、手術後の人生が台無しになる。・・・ではどうするか。『愛に生きよう』。おまえは馬鹿か。もう少し人生を暗く考えることができないのか」
  ビタミンB1はブドウ糖をエネルギーに変換するが、不足すると疲れたりだるくなる。特に、「脳は不足するとひどいことになり、はっきり言うとバカになる。糖尿病のため、カロリー制限ばかり医者からいわれていた私はある時期、忠実に米食も少なくし、肉も野菜も控えていたら相当バカになった」そうである。
  胃にガンが二つ出来ていると宣告されてから2年たったある日、著者の娘が母に、「『自分の身体なのに、あんなにいい加減にしていていいの』と尋ねたそうである。母の答えは『いいの』で終わったそうで、さすがあっぱれ自称無頼派作家の妻である」となった。
  ガン細胞一個の大きさは001ミリ。「本物のガンが1センチに成長するまで150カ月かかると言われている」。通常、医者が告知するのは、「ガン細胞が1センチの大きさになってからで、それは10億個のガン細胞になる。もしそれが真性ガンであれば、発見されたときは、すでに他の臓器に転移しているはず」なのだそうだ。
  はたして65歳の時に言われた二つの胃ガンは、いつの間にか消えてしまったそうである。それは、もともと人間に備わっている免疫力(免疫細胞療法ではない:編集部)をアップさせることによってであると明言し、その真髄は「ほったらかし療法」にあると。その論理は、「なぜ、病気になるか。それはストレスのせいである。ではなぜストレスが溜まるのか。それは、無理をするからである。無理をしさえしなければ、人にはガン細胞はうまれない」のだと宣言する。
  著者は「フィクションを書く作家であるが、信じた医師が書かれたことはしっかり理解している」という。自らが納得できる治療法を求め続け、再生医療、成体幹細胞、樹状細胞ワクチン、免疫細胞療法、iPS細胞等々についての考えを示すとともに、最後に「期待される患者像」、そして「免疫力で蘇る」として自分が信ずる「ほったらかし療法」の「秘伝」を明かしている。仏教の戒からみると「ン?」というのもいくつかあるが、ストレスをなくす方法として納得できるものもある。仲間とか食のこととならんで、なかにはいわゆる「願望実現」の瞑想に似ているものもあったりする。
  いずれにしても、「本当?こんな考え方も『有り』なの!」という点から本書を紹介することにした。最後に「無名の担当者へのお礼の言葉」として著者は次のように記している。
  「人生はたいしたことはないけれど、なにごともあっさりと愛してみよう、と考え方を変えてみることで、美しく見えてくることがあると思う」。なんとなくだが、ウペッカーにほんのりと近づいているように見えた。(雅)
 このページの先頭へ
 トップページへ