月刊サティ!

2019年7/8月合併号      Monthly sati!  July, August 2019


 今月の内容

 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

           
今月のテーマ:仕事・職場でのサティと慈悲の瞑想
  ダンマ写真
  Web会だより:『十年目の私の瞑想修行』
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:『ヒトに問う』倉本聰著
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:仕事・職場でのサティと慈悲の瞑想  
  (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:
  仕事の上でまるで攻撃を受けているように強く否定されたり、納得がいかない方針に従わなければならないことも多く、それが苦痛です。

アドバイス:
  大変ですね。なんとか対策を講じて、嫌なことから逃れられるとよいのですが、なかなか思いどおりにならないのが人生です。
  仏教では「一切皆苦」と言われますが、嫌なことがこの世から無くなることはありません。

  阿羅漢の聖者でも深刻な病気になったり殺されたりしました。ブッダですら、罵られたり、足に棘を刺したり、3ヶ月間も馬が食べる麦のようなものしか托鉢で得られなかったこともあったのです。
  苦は業の結果であり、過去世から今に至るまでに不善業を作らなかった人はいないので、苦がなくなることはありません。
  苦の現象は止められませんが、苦を嫌悪する怒りの心はゼロにできるのが悟りです。

  悟るのは大変ですが、ただ苦しむだけでも意味があるのだ、と発想を転換させることもできます。

*消えていく不善業
  あなたが嫌な思いをし、日々苦痛を感じるのは業の結果だと仏教では考えます。
  不善業を作れば、いつの日か必ず現象化してくるので、逃げられません。転職しても、引越しても、新しい職場やご近所の誰かから、同系・同類の嫌な思いをさせられるでしょう。
  相手に逆襲したり、上層部に直訴して方針を覆すこともできるでしょうが、それでは問題の不善業は無くなりません。一時停止ボタンを押して、その場をしのいだだけですから。
  ドゥッカ()に叩かれ、苦痛を感じた瞬間に、一つの不善業が現象化して消えていくのです。ただ苦しいだけの人生にも意味があるのは、業の負債返しをしているからです。

  嫌なことが起きるのは、不善業を消すためであり、心の成長のために必要不可欠な手続きなのだと考えて、心を汚すべきではありません。もし攻撃してくる相手に怒鳴り返したり、怒りの心で反逆すれば、その瞬間に新しい不善業が作られ、未来に再び苦を受けることになります。
  反対に、たとえ苦を受けても、怒りのカードを切らずに、きれいな善心所で反応することができれば、未来に善いカルマが作られていきます。至難の業ですが、そのために私たちは日々サティの瞑想をしているのです。どんなことにも反応せず、淡々と見送っていくのが、苦を乗り超えていく仏教のやり方です。

Bさん:
  介護で認知症の人の話を聞くことがありますが、眠たくなってしまいます。


アドバイス:
  それは、聞きたくないからではないでしょうか。
  眠くなるのは「昏沈・睡眠」という不善心所で、煩悩に分類されます。

  心が受け容れたくないものに対して反撃もできないし、逃げ出すこともできないときに、眠気に陥ることによって心の中で耳をふさぎ、拒否する作戦が取られるのです。
  『ああ、またか。嫌だな、聞きたくないな』という本心が眠気に逃げ込んでスルーしようとしていないか、その時の心をよく観察してください。

  眠気が来る前に、前触れとしてウンザリや嫌悪感があるはずです。本当にその順番で到来しているか、課題として観察すると良い心の随観ができるかもしれません。


*明日は我が身の老い・・・
  難しいかもしれませんが、できるだけ慈悲の心で対応できるようにしたいものです。
  自分の話を聞いてもらえた、ちゃんと相手をしてもらえたと思えることは、老人にとっては宝物のようなご褒美なのです。

  歳を取れば取るほど、寂しさが募ると多くの老人が言います。

  親しかった同世代は次々と先立ち、家族からあまり優しくしてもらえない老人の寂しさを想像してください。
  その老人のように、あなたがならないとは言い切れませんね。

  そうなった時、自分を介護してくれる人がちゃんと向き合ってくれて、自分を人間として尊重してくれていると感じられたら、嬉しいでしょう。
  認知症の老人は、脳の中で最もダメージの受けやすい海馬がやられるので記憶が悪くなり、結果として認知が乱れます。しかし、プライドはしっかり残っているし、相手が自分をどのように扱っているかは動物的直観で見抜いています。痴呆扱いは人間としての尊厳を傷つけることだし、もし自分が年老いて施設に入れられ、認知症になったとき同じ対応をされたら・・・と想像しながら、しっかり慈悲の瞑想をしてみてはいかがでしょうか。

Cさん:
  私も介護職をしています。怒って来る人に対して、「そんなことでなんで怒っているのか?」と常に判断(ジャッジ)が優先してしまいます。慈悲の瞑想でなんとか保っている感じです。ある人の話をヒントに、携帯の待ち受けを「ジャッジしない」に変えたらストレスが減りました。


アドバイス:
  視座を変え発想の転換を試みるのが、自己変革や自己超越に通じる修行です。

  相手が些細なことで怒り出したように、こちらも相手の表面的な態度に単純に反応していないだろうか・・と視点をずらして、自分を対象化して観るのはヴィパッサナー瞑想的ですね。

  その老人も自分も上っ面だけで反応していると気づけば、相手に興味を持ち、もっとよく観察することにもなっていきます。相手に気持ちが入っていかないと、慈悲の瞑想は言葉だけになり深まりません。

*ジャッジする→よく観る→優しくなる
  通常、ジャッジしている時の心は、対象に共感する要素は弱く、客観的でもあり冷淡でもあり、批判的な高みの見物になりがちです。そんな時の慈悲の瞑想は、慈悲のオーラで自分を守るのが精々で、相手に対する優しさや温かい思いやりの心は乏しくなる傾向です。
  慈悲の瞑想が通りいっぺんの域を出ないのは、相手に対する思い入れや想像力の欠如が要因の一つです。

  相手をよく知り、実状が本当に理解されると温かい想いが溢れてくるものです。

  よく知らないものはどうでもよくなり、事情や情況や本当の状態が分からなければ、人は冷淡になりやすいのです。

  相手に興味を持ち、真の要因を見出していくプロセスで、慈悲の瞑想が心からできるようになる可能性があります。

  もし慈悲の瞑想が深まれば、それだけでも事態を好転させる力になるでしょう。

  取るに足りないことで怒りをぶつけてくる人の真意は何なのか、探り当てようと推測をめぐらしてはいかがでしょうか。


*ジャッジする心に分け入る
  人の行動を駆り立てている真の原因が必ずあるものです。勘違いをして、怒りがリリースされていないか。何を誤解しているのだろう。些細なことで怒りのスイッチが入ったのは、心の奥に抑えがたい何かがあったからではないか。この人の怒りは何かの明確な意思表示であり、怒りのエネルギーを使って何を伝えたいのか、言いたいのか・・・。

  ジャッジする心は相手と積極的に関わろうとする要素が乏しく、のみならず、嫌悪や怒りを抑えるために、上から目線で相手を見ようとしていないかもチェックポイントになるでしょう。

  ジャッジしなくなったらストレスが減少したのは、ネガティブな負の感情が解放されたことを意味しているように思われます。その不善心所の一つは怒り系の心、もう一つは慢の心です。相手を見下そうとしている時と、相手を受け容れて優しい心になった時とを比べてください。どちらが疲れるでしょうか。

  不善心所は疲れるし、カルマも悪くなるし、割に合わないものです。


*張り紙効果
  心の切り換えをしたのが、携帯の待ち受けだったのも面白いですね。私は「張り紙効果」と呼んでいますが、私たちは、頻繁に目に入ってくるものの影響を強く受けてしまうものです。壁に仏像の写真を飾った場合と、ヌード写真を貼った場合とではまったく違うでしょう。

  見た瞬間、心に展開していくものが異なるのです。

  人は、いつも見ているもののようになっていくし、身近にいる人のようになっていく、とブッダも仰ってますね。

  張り紙効果で思い出しましたが、認知症の老人たちのお世話に疲れきっていた介護職の女性が、玄関のドアの近くに張り紙をしたそうです。毎朝家を出るときに、「あなたを拝みます」という文言を目に焼きつけて出勤していくのだそうです。一瞬、胸が打たれました。日々、どんな想いで、不善心所モードに陥りそうな自分と戦っているのかが想像されました。

  職場は、修行の場です。がんばってください。


Dさん:
  本日初めての参加です。いつも仕事でたいへん疲れている状態です。


アドバイス:
  仕事の量や労働時間が物理的にオーバーしているのであれば、何はともあれ、休養を取らなければなりませんね。精神が張りつめていれば、一定期間は維持されますが、限界に達し、糸が切れてしまった時のダメージは極めて深刻なものになってしまいます。多くの人が、最悪の事態になってから強制的に休息することになり後悔しています。

  くたくたに疲れれば、その疲労感の不快さだけでも嫌悪や怒りモードになりがちです。苦を補償するために快感獲得をしたくなり、美味しいものを食べたり、綺麗なものを見たり、聞いたり、楽しんだりして疲れを癒やそうとするのが一般的なやり方です。

  ごく普通のことで間違っている訳ではありませんが、問題は自分の感じている苦の原因を究明して、根本的に対処するやり方ではなく、苦から目を背けて忘れようとしているところです。ストレスや疲労が軽症の場合はOKでも、深刻な原因のある重症のケースでは、快感の上書きでは対処しきれません。


*心と体の苦を仕分ける 
  では、瞑想者はどのように疲れに対処するのでしょうか。

  まず身体的疲労と心理的疲労を仕分けます。体が疲れているのか心のストレスなのか自分でもよく分からず、漠然とゴッチャになっている状態が良くないのです。
  不快感だけが何となくドロリと拡がっていると、嫌悪や怒りや憤りなどのネガティブな妄想が多発しやすいのです。

  幼児が暗闇を怖がる一因は、この世のことがよく分かっていないので、暗闇で得体の知れない妄想がふくらみ恐怖心が煽りたてられるからでしょう。いかなる場合にも、現状を正確に、ありのままに把握できていれば、根拠のない不安や妄想にやられることはなく、イザという時に最適な対処ができるでしょう。

  仕事で疲れた場合、心理的なストレスや不快感がゼロということはまずありません。

  嫌な上司や顧客など人間関係に起因する苦しみ、仕事の量や工程やシステムに対する不満や嫌悪に起因する苦しみ、仕事中にも頭から離れない一身上の問題に起因する苦しみ等々、仕事と妄想が混然一体になって、仕事が辛い、苦しい、疲れた・・と嘆息をついていないでしょうか。


*人生の現場に斬り込むサティの瞑想
  自信のない人の場合は、実際の仕事よりも常に失敗を恐れて不安になったり、コンプレックスとの戦いなどでヘトヘトになって自滅するパターンがよく見受けられます。

  過ぎ去ったことを掴んでしまうタイプの人は、今の現実ではない過去と格闘する妄想で疲弊していきます。

  理由はさまざまですが、人は必ず、実際に取り組んでいる仕事と、仕事にまつわる妄想とを一緒くたにするものです。

  仕事で疲れたと言いますが、本当の疲れの原因は脳内に醸し出されているネガティブ妄想ではないか。事実だけに向き合い、脳内妄想を止めることができれば、疲れという名の苦しみは激減するでしょう。

  これは、ヴィパッサナー瞑想の本質そのものと言えるでしょう。

  人生の現場で、法と概念を仕分けるとはこういうことです。


*善心所モードの力
  では、どうやって疲れを取ればよいのでしょうか。

  前述したように、自分のための癒やしや快感獲得も悪くはありませんが、ベストとは言えません。心理学的にも知られていることですが、美食や買物などでエゴを満足させるよりも、人のお役に立てて感謝された喜びや達成感の方がはるかに幸福度が高いということです。善行の力というか、困っている人を助けることができたりすると、こちらの心は善心所モードいっぱいになります。

  疲れが吹き飛ぶのは、崇高なものに感動したり、バリバリの善心所モードになることなのです。試してみてください。疲れると不善心所モードになりがちで、嫌悪感からブーたれたりヤケ食いなどするとますます心が汚れてぐたぐたに疲れていきます。不善心所だから疲れるのです。そして疲れを一掃するのは、善心所モードになることです。


*善き心が疲れを癒やす
  7~8年前になりますが、89歳の母と二人で暮らしながら介護していたとき、日一日と疲れが蓄積され、体も心もヨレヨレになっていくと介護のクオリティが低下していくのを感じました。休息が必要不可欠なのです。どのような休息の取り方が最も効率がよいか。それは、いま申し上げたように、善心所モードになることです。

  私がどうしたかと言えば、デイサービスにしか行かなかった母にショートステイしてもらい、その間私は東京や大阪で瞑想会や1Day合宿を行なったのです。一瞬も気を抜けない瞑想会は、一瞬も不善心所に陥ることができないのと同じです。瞑想会が終わり一泊すると、どこにも寄らず、母の待つ故郷に直帰するだけです。

  一瞬も気の抜けない仕事と長い移動で肉体は疲労しているはずなのに、私の心は最高の善心所モードになっていて、高揚した前向きな心が凛々とみなぎってくるのでした。母に対面すると、リフレッシュされた優しさが込み上がってくるのをはっきり感じたものです。私にとって最高の休息は、ダンマの仕事に没頭し、善心所モードになり切ることでした。

  疲れが引き算され、疲労が抜けたのではありません。優しさとエネルギーが輝くように湧き立つ感覚なのです。これが、善心所モードの力です。これ以上の疲れの取り方を、私は知りません。どうぞ検証してみてください。


Eさん:
  仕事でミスをしないか、常に不安があります。


アドバイス:
  遺伝子も影響しますが、心配や不安を何度も繰り返せば心配症になるでしょうね。長い時間をかけて形成された反応パターンは簡単には変わりません。しかし諦めればますます固まって、その傾向が助長されます。この世に存在するものは全て、物も心も何もかも無常の法則に貫かれています。変わりにくいものはありますが、変わらないものはありません。強く決意すれば、そしてその決意がブレなければ、人生はそのようになっていくし、人は望んだ通りに生きられるのです。

*作られる完全主義
  完全主義の人は、ミスを恐れ不安に駆られる傾向があります。幼い頃から完全であることを求められれば、完全主義になるのは必然です。完全を求めた親もまた、幼少期から完全であることを期待され求められてきたはずです。しかし、完全主義やミスを恐れることは悪いことでしょうか。それも立派な個性として花開くのではないか。検品や経理関係はもちろん、校正もバグを見つけるのも、ミスは許されません。完全主義でないと困る分野もあるのです。長年繰り返した習慣的な特性は、一見ネガティブに思われても適材適所です。開き直ってプラス思考し、活用法を考えると、ドゥッカ()から解放されるでしょう。

  しかし、どうしても失敗の不安から解放されたいのであれば、サティの瞑想をしっかり修行することによって、浮かんでくる不安妄想を瞬時に見送ることができます。やるべきことをしっかりやったのであれば、無益な不安に駆られるのは愚かしいことですから、妄想を駆逐するサティの技術を習得すべきです。中心対象のセンセーションよりも妄想に気づくように意識の張り方を変えて、法随観に力点を置いたサティの瞑想をしてください。妄想に敏感に気づいて、たちどころに切り捨てていく練習です。


*失敗もミスも宝の山
  もしミスや失敗をしてしまったら、後悔や自責の念に苦しまないよう、逆転の発想を心がけます。ミスや失敗の価値に目を向け、失敗を逆に喜び歓迎するのです。人は成功した場合よりも、失敗からもっと多くのことを学ぶことができます。失敗すれば必ず反省し、抜本的に見直して改善するからです。一流の人が人間として大きく成長したきっかけが大失敗や挫折体験に由来しているのは、ほぼ例外なく共通している典型でしょう。
  クレームは宝の山、という言葉もあります。クレームをつけられるということは、創造性開発のビッグチャンスなのです。失敗を修正するプロセスで、原理的な構造そのものを根本から見直すこともあり得るし、新たな発想を得て、修正をさらに工夫し改良すれば、爆発的なヒットが生まれるかもしれません。

  科学の新たな発見は、何百回もの失敗の上になされているのも常識です。失敗を恐れれば、慎重で臆病な安全パイになり、創造的な魅力が乏しくなるでしょう。多くの企業が「大失敗賞」を設けたり、役に立たない実用性のないものを作るコンテストをしたりするのは、大胆でクリエイティブな発想をうながすためです。失敗もミスも、一時的な評価に過ぎません。人間万事塞翁が馬ですから、巨視的なタイムスケールで見れば、失敗は偉大な成功の布石に過ぎないと考えることができるでしょう。


*失敗と成功を等しく観る「捨」
  ヴィパッサナー瞑想の「捨(ウペッカー)」の立場に立てば、失敗と成功は等価なのです。つまり、失敗しても、ノーミスで首尾よくいっても、どっちでも良いことになります。

  私の言い方では、起きたことは全て正しいし、それで良いのです。

  失敗を恐れず、もし失敗したら仏教的な発想を思い出してください。


Fさん:
  新しい仕事になってから上司とうまくいかず、怒りが出るようなことがありました。その時に、「嫌なことをしてくれる人は神様?」と思い直したら観察出来るようになり、上司の気持ちもわかるようになりました。そうしているうちに観察するのが面白くなってもきました。最近は、「なんで私が怒られないといけないの?」から、「赦すという気持ちが大切?」となって、「赦すという練習をここに入れるべき」と思うようになりました。


アドバイス:
  素晴らしいレポートですね。ヴィパッサナー瞑想の教科書に載せたいくらいです。()
  法としての事実はただそれだけのことであって、それをどのように認識するかは各人各様、こちらの問題なのです。同じ対象や出来事を見ても、鷹には鷹の世界があり、犬には犬の認知があり、凡夫と聖者の認知ワールドは異なるのです。したがって、全対応型で苦しみを無くす仏教のやり方は、対象や環境を変えるのではなく、こちらの認識をいかに変容させるか、の問題なのです。
  頭に来る上司が神様に変わってしまう発想の転換こそ、ヴィパッサナー瞑想の反応系の修行です。


*神様は苦を与える?
  「嫌なことをしてくれる人は神様?」と同じことを「我以外、皆、師」と表現した方もいました。自分以外の全ての人が、雄弁に、訥々と、無言で法を説いてくれている・・・と観る視点です。
  「愚者が賢者から学ぶことよりも、賢者が愚者から学ぶことの方が多い」とブッダが言うのも、同じ発想や視座の転換を示唆していますね。私自身も、「自分に苦しみを与えてくるのは菩薩である」という一行を読み解こうとして、仏教や瞑想の世界に深入りし、今日に至っています。
  瞑想者として素晴らしいのは、上司を嫌う心が無くなったら、冷静に観察できるようになり、上司の気持ちが理解できるようになったことです。嫌悪という不善心所に満ちていれば、純粋な観察も瞑想もできないのです。エゴが勝手に編集した怒りの世界に住していれば、相手の真の姿が見えてこないし、愚かな怒りのエネルギーを出力しながら、ただカルマを悪くして未来に苦を受けることになります。
  怒りの心を手放してニュートラルな心になったら、相手の姿がありのままに観えるようになってきた。

  あるいは、ものごとをあるがままに観るためには、怒りや高慢や嫉妬や、諸々の不善心所を手放さなければならない。

  貪瞋痴の煩悩が無くなっていけば、苦しみもセットで無くなっていくし、心を浄らかにすることと、あるがままに観ることと、苦しみが無くなっていくことは、同じ一つの清浄道だったという理解になっていきます。


*赦すという練習
  赦しの修行にチャレンジしているのも素晴らしいですね。「怒り」から「赦し」へと視座が転換される狭間で、カルマ論的な理解がなされると、もっと腹に落ちるかもしれません。もし上司に難癖をつけられたとしたら、その原因は自分も過去世のどこかで人に難癖をつけてきた業の結果だ、と仏教では考えます。苦を受けることによって不善業が一つ消え、蒔いた種を刈り取ることができたのだから、本当はこれはありがたいことなのだ・・と考えることができれば、「赦す練習」が悪業を消してくれた相手への「感謝」の修行にもなります。
  赦しの修行は、ものごとを正しく理解する智慧が伴わなければならず、正しい智慧を得るにはエゴに固執した視座を手放さなければならないのです。つまり、「赦しの修行」とエゴを無くす「無我の修行」は同じ一つの修行につながってくるのです。


*黙って受け容れる・・・
  ヴィパッサナー瞑想をしている方でしたが、こんな事例もありました。
  顧客の方が100%悪いにもかかわらず、こちらが謝って淡々と仕事を続けていたら、帳簿を調べ直したか何かで顧客の側に非があったことに気付いたのです。慌てて謝ってくれたのですが、一言も文句を言わず、黙って受け容れ、赦しの修行をしているかのようなその瞑想者に感動し、熱烈なリピーターになってくれたそうです。 

  在家の瞑想者にとっての職場は、最高の修行のリングやグラウンドなのです。がんばってください。

 今月のダンマ写真 ~

             
                    N.N.さん提供


    Web会だより  

『十年目の私の瞑想修行』K.U.

  私は、グリーンヒルの瞑想会に参加し始めてもうすぐ十年目になります。修行の一つの節目であり、これまでの歳月を振り返って、学び得たことについて書き留めておきたいと思いました。
  
私は一人息子を持つ母親ですが、ヴィパッサナー瞑想に出会うきっかけとなったのはこの息子のことでした。息子は、幼い頃から持病のアトピーがあったのですが、それが悪化し浪人時代に最悪の状態に陥りました。それまで何の疑問もなく使い続けていたアトピーの薬の副作用が噴き出して、息子はもがき苦しむことになったのです。とても人間の肌とは思えないまでに荒れて爛れ、目も白内障になりかかって本を読むことすらできなくなりました。アトピーの激烈な痒みに、四六時中苦しむ息子を目の当たりにした私は、もう受験どころではない。この子は社会で生きていけないのではないかという危機感さえ覚えました。
  そのような絶望のどん底に落とされた時、息子の苦しみをアトピーの薬のせいにしてはいけない。これは、息子に重圧をかけてきた母親の私のせいだと認めざるを得なくなったのです。いったんそう認められたら、すぐに自分の気持ちを息子に伝え土下座して謝っていました。そして毎日毎日、お仏壇に手を合わせて「自分の命が短くなってもかまわないから息子を助けてください。息子の体を元通りにしてください」と祈り続けました。

  奇跡が起こったのは、それから間もなくのことでした。これ以上酷くなりようがないとさえ感じていた息子の肌が日に日に良くなり始め、半年後にはすっかりきれいな肌に生まれ変わりました。予備校にはほとんど通えなかったのにもかかわらず、大学も希望通りのところに合格できました。その半年間は、何か人智を超えたものに突き動かされているような感じがしていました。

  その頃のことを改めて思い出してみると、あの「奇跡」を起こしたのは、私自身が自分が毒親だったことに気づき、それを認めて心から息子に謝ったからだとわかりました。もちろんそれまでにも、自分のやってきたことは全て息子のためと思いながらも、本当は自分のプライドを満足させるために息子の教育に必死になっていたのではないか・・・と薄々は感じていたのです。しかし自分の子育てを否定することは自分の人生が否定されるのと同じであり、どうしても自分は正しいという信念を捨てることができませんでした。

  例えば、これからは英語が必要な時代になるからと、幼い頃から英語の勉強を強制する母親の気持ちになんとか添おうとする健気な息子の姿を見て、私は一生懸命に子育てをしている立派な良い親だと思い込もうとしていたのです。しかし、母親の期待に応えようとして長年抑圧してきたものが、浪人生活のプレッシャーが極まった時についに決壊し、あの恐ろしいまでの姿に変わったのだと思いました。息子の全身の爛れた肌は、「もう嫌だ!」という声にならない叫びであり、私自身のエゴの心を映し出す鏡だったのです。まるで地獄図のような光景を否応なしに見せられることによって、私の頑強なプライドは木っ端微塵に粉砕されざるを得ませんでした。

  「世間体のいい大学なんて入らなくてもいい、何年浪人してもいいから、とにかく体を治そうね。生きていてくれたらお母さんはそれでいいから」と言うと、息子は眼を潤ませながらうなずいてくれました。今でも、あのときの息子の顔を思い浮かべると涙がこぼれそうになります。そして、それ以降、私は本当に変わろうと決意しました。この機会に変わらなくては、私のせいで家族共々不幸になる。今度のことで、息子も自分も一度死んだはずの命だから、もうつまらない見栄なんかに振り回されるのは終わりにしたい。これ以上、息子に迷惑をかけたくないと真剣に願ったのです。

  そうはいっても、言うは易く行なうは難しで、実際に変わるのは文字通り死ぬほど大変でした。なぜ私は、こんなに教育ママになってしまったのか。いつも私を何か世間的に立派とされる目的に向かってせき立てているのは何なのか。それが怒りだとしたら、その怒りの根源はどこにあるのか。そういうことを徹底的に知らなければ、根本的には変われないような気がしたのです。そこから私の心の改革の遍歴が始まりました。

  心理学や精神分析などの分野の本を読みまくって、少しでも興味をそそられるものがあったら、その著者や団体の話を聴きに出かけたりしました。お金もいっぱいかかったけれど、そんなことを気にかけていたら心の変革などできないと思って、気のすむまでやろうと決めました。そして、いろいろな経験を踏まえたあげく、最終的に行き着いたところがグリーンヒル瞑想研究所の瞑想会だったのです。

  地橋先生の瞑想会に来て、最初に感じたのは、「ここは他のところと決定的に異なるものがある」ということでした。それが何かはその時には曖昧でしたが、ようやく、自分が求めていた場所はここなのだとはっきり直感することができたのです。「この先生を信じられなかったら、私はもう行くところがない」とさえ思いました。なぜ、そんな直感が得られたのか、その時はよくわかっていなかったように感じます。でも、今ならはっきりわかります。同じヴィパッサナー瞑想なのですが、地橋先生は、心の反応系の修行を何よりも重要だと強調され、エゴが一番嫌がる内観の修行をすすめられていたからなのです。

  
私たちは、自分が傷つけられたり苦しめられた記憶を繰り返し思い出しては、しょっちゅう怒ったり恨んだりばかりしています。でも内観では、自分が迷惑をかけられた記憶は思い出すことが禁じられ、逆に自分が両親を苦しめたことや家族にかけた迷惑だけを克明に思い出すことが求められるのです。私は被害者だと喚くのではなく、自分こそ大切な家族に苦しみを与えてきた加害者ではないのかと黒い自分に向き合わされる辛い修行です。
  「私の親は毒親だった」とか、「私は毒親に育てられたから、自分も毒親になったのだ」という話はよく聞きますが、「すべては自分のせいなのだ」と責任の鉾先を自分のみに向けることをうながした本は見当たりません。そんな本があったら、誰も買いたくないし売れないでしょうから。でも、先生は徹底して、内観を勧められてきたのです。

  私も最初は、内観にはどうしても行きたくなくて、内観よりもいい修行が他にもあると思っていました。自分以外のものに責任を負わせようと躍起になっていたのです。それで、いろんな理屈をこね回しては先生に抵抗していました。でも、先生は逃げようとする私に、「内観に行かないのであれば、これ以上はあなたには教えられない」とはっきりおっしゃったのです。その厳しさに何度泣いたことか。この先生は底意地が悪いのではないかと、恨んだことも何度もありました。だけど、私のためを思ってあえて憎まれ役になってくださっていることも、本心ではわかっていたため、重い腰を上げて九州の佐賀にある内観研修所に行くことにしました。

  そこでの修行は、一瞬一瞬が自分のエゴとの戦いの日々であり、途中で逃げ出そうとも思ったほどの過酷さだったのです。内観の先生が厳しかったわけではありません。自分との戦いが苦しかったのです。エゴにとって、すべての苦しみの根源を自分だと認めることが、どれほど難しい行為なのかをいやというほど痛感しました。内観は、自分のエゴと向き合い、欲と怒りと我執の元凶を滅ぼそうとする仏教の修行の本質に通じるものだと感じたのですが、1週間でそんな大仕事ができるはずもなく終りました。

  内観の修行に行ってきたことを報告した途端に、先生は「次はいつ行くの?」と訊かれたのです。ええーっ!また、行かされるの!?何でわかっちゃうの?と思いましたが、私が何も変わらないで帰ってきたことをたちまち見破られてしまったのです。愕然としましたが、アトピーで死にかけた息子のことが頭に浮かんだら、ここで後には引けないと思い直し、間を置いて再び九州まで内観の修行に行ったのです。

  二度目の修行に入り、なぜ1回目では成功しなかったのか私なりに省みて、母に対する感謝の気持ちと裏腹に、体の弱かった母は入退院を繰り返して幼い私との接触が乏しかったことに怒りの感情があることに気づきました。これがセオリー通りの内観の修行を阻んでいたのではないかと思い、まずそれを吐き出してから内観の修行に入りました。後日これはロールレタリングの技法に通じるものだと気づくのですが、ネガティブなもやもやした感情が整理されてからの2回目の内観は手ごたえがありました。

  人のせいにしたくなるエゴの誘惑をふりきることは身を切られるようにつらいことでしたが、最後の最後は、やはり自分が元凶だったと認めざるを得なくなったのです。それを認めてしまったら、自分が根本から崩壊するのではないかという恐怖にも襲われました。崖から身を投じるような怖ろしさでしたが、それをやりきったと思えた瞬間、心が一気に解放されるのを感じることができたのです。それまでは逃げ出したくて、本当に苦しかったけれど、そうなってはじめて、先生のこれまでの指導に納得することができました。

  内観は原始仏教のオリジナルな修行法ではないのに、なぜ先生がこれを「反応系の心の修行」という呼び方で私たちに勧めてこられたのか。トコトン自己中心的な醜い自分の姿をありのままに直視しない限り、エゴの息の根を止めることなどできる訳がないし、心の清浄道もあり得ないからです。

  この修行をやりたがらない瞑想者がなぜ悟れないのか。それは、高慢な人ほど内観を嫌がる傾向があり、汚い心を抑圧したまま高度な瞑想をやろうとしているからではないかと思いました。たとえルーツが大乗仏教の「身調べ」の技法でも、それが有効な修行法として機能するなら、ヴィパッサナー瞑想に取り込んで補完させて良いとするのが地橋先生のやり方なのだと思いました。脳科学も認知心理学も精神分析も、どんな知見や技法も、ヴィパッサナー瞑想に役立つなら総動員して修行の完成に向かうべきだという考え方なのだとわかりました。

  私が先生の瞑想会にうかがう前に、自分の心の改革のために出かけていったところは、キリスト教系の講演会やスピリチュアル系の講演会などでした。そういうところでも、勉強になるお話はたくさん拝聴できたと思っています。でも、そこで語られることは、「あなたは悪くありません」「あなたは今のままで愛されているのです」「すべては宇宙の営みにゆだねればいいのです」等々の癒し系の言葉ばかりでした。そういう自己肯定感をあおるような言葉からは、確かに感動をもらえ、その時はありがたい感じがするのですが、しばらく経つと、また日常の出来事や人間関係に対して怒りが出るという悪循環しかありませんでした。そのため、ここにいても何も変わらないと見限ることの繰り返しだったのです。「おまえがすべての元凶なのだ」「全部おまえのせいなのだ」「おまえの心が一番腐っているから苦しいんだ」なんて言ってくれるところなどは皆無でした。そのような失望体験を積み重ねていたからこそ、先生の瞑想会しか私の苦しみは手放せないと直感できたのだとだんだん明瞭になっていったのです。

  大勢の人が瞑想会に来られますが、最初は先生の瞑想会に熱心に通っていてもいつの間にか消えてしまう人も少なくありません。

  それは、苦しみの原因である真っ黒な醜い自分の心を直視させようとする先生の実践の厳しさに耐えられなくなったからなのではないでしょうか。エゴを無くすというのは、プライドも自信も希望的観測もズタズタにされ、エゴ=私が殺されるような恐怖に耐え抜かないと、明るい光の世界が開かれてこないのですから。私も耐えられなくなって止めようとしたことが何度もあります。でもその度に、多くの法友が私を叱咤激励し支え続けてくれました。私にとって法友こそが宝物であった、と万感の思いがします。常に適切なご指導をしてくださった地橋先生をはじめ、私に関わってくださった法友の皆様に対して、心からお礼を申し上げたいと思います。

  内観も含め反応系の心の修行は、しょせん概念を操作して心を整えていく行法でしかありません。死ぬほど難しいと言われるサマーディも完成させなければならないし、何よりも妄想を止めてサティを連続させていくことが苦手な私にとって、道は果てしなく遠い遥かはるかの彼方です。それでも、反応系の修行に私なりに命がけで取り組むことができたお蔭で、この世の苦しみは激減させていただきました。だから、どんなに瞑想が苦手でも、この道を最後まで歩み抜いていきたいと思うのです。

  ヴィパッサナー瞑想を始めて十年、過ぎ去ってみれば夢のようであり、進むことができたのはわずか一歩か半歩に過ぎませんが、これからも皆さまと互いに支え、支えられ、共に歩んでいけますよう願っております。ありがとうございました。

  
1:内観は、吉本伊信によって開発された自己の内面を観る方法。 母親や父親など自分と深い関係のある人物に対して「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の三つに焦点をしぼって内省するやり方。全国各地に、一週間かけて集中的に行うための内観研修所もある。

2:ロールレタリングとは、自分の両親をはじめとする家族や友人、会社の上司や同僚などの身近な人たちに対して、実際には出さない手紙を感情を吐き出すようにして書く、そして相手の立場に立って自分宛の手紙を自分で書くことによって、共感能力や自己客観視の能力を養う手法。

3:文中にある九州の佐賀内観研修所は、指導者の先生の引退により現在は閉鎖されています。



☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。
                                           Y.U.さん提供
 










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ダンマの言葉

私達は盲目の人々と一緒に生きる盲目の人間のようなものです。私達は自分自身のことが分らないし、他の人のことも分かりません。どちらもお互いに分かっていません。それでいて、どちらも自分は分っていると思っています。そう思い込んでいます。それに間違いないと決めつけています――互いに内なる目の見えないもの同士が、互いに言い争って犬のように噛み合っています。ブッダとその弟子達のような洞察の目は持っていません。
  これが煩悩と一緒の生き方です。それは即ち、勝手な思いこみと思いあがりの生き方です。それがひどくなるほど、良くなっていると思い込みます。これが煩悩の生き方です。これは決して不変の法(ダンマ)の真理に則ったものではありません。
  このような理由から、私達はこれらを一掃するために修行を行うのです。こういったものを心の中にいつまでも留めておいてはいけません。これらを粉々にして完全に消し去るのです。そうすれば、あなた方は心から安らぐことができます。(アチャン・マハブア『気づきのない心は毒牙である』「月刊サティ」200712月号より転載) 

       

 今日の一言:選

(1)仏教の力で抑えつけられていた煩悩は、条件が変わればたちまち息を吹き返し、すべてを圧倒するだろう。
  二度と後戻りすることのない境地に達していない限り、善心所モードに貫かれた安らぎの日々も、束の間の夏の光のごとく夕闇の彼方に遠ざかっていく……

(2)すべてが望みどおりになったところで、それが何やね……とも呟いてみる。
  満足感が、何時間、何日、何週間続くのか……
  想いを遂げ、満たされてしまえば、もはや同じ感動が同じ盛り上がりで繰り返されることはない……

(3)心を汚すことなく、道を貫き、きれいに生きていけばよい、と達観する。


       

   読んでみました
  倉本 聰著『ヒトに問う』(双葉社 2013年)   
  言うまでもなく著者は、数々の名作を生み出してきた有名な脚本家である。本書は発刊されてからかなり経っているが、中身はいささかも古びていない。それどころか、昨今のこの社会はますます著者の至言が当てはまる状況になってきていると感じられる。そこで、本誌(『月刊サティ』)の文脈とはやや違う角度ではあるが重なる部分も大きく、あえてここに紹介したいと思う。
  内容の一節が記された帯にはこう書ある。
  「本気で想像してみて欲しい。些細な私欲、倫理を忘れた成功の快感。僅かな金銭につながる欲望。そうしたものが今福島の原発施設から、小さいセシウム、微量のヨウ素の一粒となって日本を、全世界を脅かしているということを」「地位、立場、身分、民族、国家など、あらゆる束縛を排除した、地球上の何億という命の中の微小な存在としての人類というヒト。その一人としての『あなた』に、いま真剣に考えて欲しい」。
  原発事故を起点として著された本書には、この主張が一貫してつらぬかれている。ただ、そこには著者の国民学校時代の経験が原点にある。
  天災と人災、もちろん原発事故は人災には違いない。しかしそれより著者が重きを置くのは、その後の関係者の姑息な行動がもたらした部分である。「事実の隠蔽、責任逃れ言い逃れ、世論を操作しようとする電力会社のやらせメール、原子力安全・保安員のやらせ質問、エトセトラ」などなど、まさに重要な任務に伴うはずの誇りをも弊履の如く投げ捨てたありさまについての絶望感である。その絶望感は昭和19年、国民学校4年生だった時、その頃始まった学校配属制度による将校の、「特攻に志願する者、一歩前へ!」にまつわる経験を蘇らせた。詳細をここで紹介する余裕はないが、原発事故後の事態の中に、「僕は組織にしがみついて身を守ろうとする、あのときの僕とまったく同種の人間心理の弱さをどうしても見てしまう」と。
  そうした洞察を踏まえ、著者は私たちが何気なく使う言葉に改めて問いを投げかける。そしてさらに、生きることの本質への再考を迫る。
  例えば「想定外」。「想定とは、ある一定の状況や条件を、想像によって定めることを云う」が、今回の大津波を上回る貞観の大津波の記録が古文書に記されているにもかかわらず、「想定外」としてスルーしてしまう姿勢は、まさに科学者としての怠慢と表裏をなすものと言えそうだ。
  はたして空気の中にセシウムが入っているかも知れないと言うのは、本当に「想定外」なのか。人が生きる根本は呼吸であることを忘れ、環境省を経済や景気より低い位置に置いるこの国で、「僕は紛れもない愚者だと自認するが、ものごとの根本を忘れた賢者は愚者にも劣る『バカ』である」と。
  5年で19兆円という復興予算の財源は、もちろん税の内からである。確定申告にその枠があるのをご存じの方も多いだろう。しかしその予算に便乗して、震災とは関係の無い流用が話題となった。例えば、沖縄の国道整備(34億円)、反捕鯨団体の妨害対策(23億円)、首都圏の税務署などの耐震改修工事、刑務所での職業訓練拡大、青少年交流事業、等々・・・。「一体どういう神経をもって」という著者の言葉にまさに同感、災害にかこつけるにもほどがある卑しさを見せつけられたとしか表現のしようもない。つまりは、「被災地の現実を見ていないのだ」。
  かつて富良野塾で塾生40人に今生活に欠かせないものを列挙させたら、1位:水、2位:火、3位:ナイフ、4位:食料となったそうだ。ところが同じことを渋谷で遊ぶ同世代の若者に挙げさせたら、1位:金、2位:ケイタイ、3位:テレビ、4位:車となった。「ヒトが生きる為には何が必要か、根本の思考がもはや若者には出来なくなっている」のではないかと、著者の慨嘆が聞こえてきそうだ。
  また800の客席が満員となった宮津市の講演会場で選択の道を問うてみたと言う。一つは、「これまで通り、経済優先の便利にしてリッチな社会を望む道」、もう一つは、「()を反省し、現在享受している便利さを捨てて、多少過去へと戻る道」である。(点は筆者。以下同じ))一階は一般市民、2階は全て高校生。先ず一般市民に問うと、「何と90%が、過去へ戻る道」、高校生は、「70%が、今の便利を続ける道。30%が便利を捨てる道」だったそうだ。そしてこの問いを全国民に投げかけたいと結ぶ。
  著者は本書で、自らの著作『北の国から』の一節を紹介している。
  「電気がない!? 電気がなかったら暮らせませんよ!」
  「そんなことないですよ」
  「夜になったらどうするのッ!?」
  「夜になったら、眠るんです」
  ・・・夜は眠る為の時間、そして仮に、今の社会生活の活動時間を大規模に変えて自然のリズムに合わせると、消費するエネルギー量はどのような変化を遂げるだろうか、と問いかける。もちろん、それに対する回答は重要であるけれど、私はここで筆者の最も言いたかったのは次の言葉であろうと受け取った。それは、
  そうはいって(・・・・・・・)――と云ってはならない!変革の前ではそれは禁句である」ということである。
  他にも、さまざまなテーマをめぐって数々の警鐘が鳴らされ、それらは私たちの日常と繋がりながらも広い視点を提供してくれる。では、本書で述べられている意見を個と言う単位にまで戻した時、私たちに出来ることは何だろうか。
  それは二つに絞られるのではないだろうか。その一つは、いま私たちはこの社会を客観的に正確に捉えることが出来ているかどうかと言うことである。何が虚で何が実か。虚実ない交ぜになった情報が乱れ飛ぶ中で、本当の姿を見抜ける智慧を身につけるために出来ることは? その第一歩は、エゴを排した視点をもつ訓練をする以外に無いように思う。
  そして第二には、まさに「引き算の美学」である。著者の言に従えば、「ヒトの欲望を抑えること」以外に無い。「欲しいものを減らしてしまうことである。受容そのものを減少させてしまうことである。需要仕分けをすることである」と。数々の共感を呼ぶ本書の中でも、今置かれている条件の中でも少しは出来るのではないか、と思わせられるのがこれである。
  生という限られた時間の中で、ブッダの説かれた教えと社会との接点を理解しつつ後悔することなく生きるために、本書のような著作からは学ぶべき点が多い。(雅)
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