月刊サティ!

2019年6月号      Monthly sati!     June 2019


 今月の内容

 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:修行上の質問:実践編(9)
  ダンマ写真
  Web会だより:『瞑想との出会い』
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:『英雄の書』
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:修行上の質問:実践編 (9)

◎初心者の方へ:ヴィパッサナー瞑想の基本

                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:
  一点に集中しようとしても外からの情報に注意が行ってしまいますが、どちらに焦点を合わせたら良いのでしょうか。また、歩きの瞑想と坐りの瞑想のバランスはどう取れば良いのでしょうか。


アドバイス:
  グリーンヒルで指導しているヴィパッサナー瞑想は、ミャンマーのマハーシ・サヤドウが世界的に広めた方法に基づいています。ヴィパッサナー瞑想の原則はどこも同じですが、瞑想の具体的なやり方は寺や指導者によってさまざまです。サティの瞑想の基本をマスターするのに、マハーシ・システムはとてもよくできているので、初心者にはイチ押しです。
  瞑想の現場では、修行が進めばそのつどやり方も調整していきます。例えば、中心対象を定めず意識に触れたものは全てサティを入れていくやり方などもあります。あなたの最初の質問は中心対象についてですが、これは集中力をどう訓練するかの問題になるでしょう。
  「戒→定→慧」のセオリーどおりに修行できれば理想的ですが、在家の瞑想者には、特に「定(サマーディ)」の修行を完成させるのは容易ではありません。出家に比べて圧倒的に時間が足りないからです。しかし在家の私たちは解脱するためではなく、人生の苦しみを無くしてベターライフのために瞑想する方がほとんどです。だから集中力の完成は犠牲にして、いきなりサティの瞑想から始めるのです。究極の解脱には至らなくても、一瞬一瞬マインドフルに気づいて、自己客観視するメリットが絶大だからです。人生の苦しみがゼロにはならなくても、大幅に軽減されれば良いというのが在家のスタンスです。

*中心対象を定める意味
  しかしそんな在家の修行でも、集中力の乏しい瞑想よりも、集中力の伴ったサティの方が圧倒的に優れています。集中力は、無いより、在った方が良いのです。そこで中心対象を定めたサティの瞑想が、一石二鳥のやり方として推奨されます。
  ヴィパッサナー瞑想を進めるのに最も大事なファクターは、「サティ」と「サマーディ」です。「気づき」と「集中力」が車の両輪なのです。中心対象を定めず、心に触れたものはどんなものも必ず気づいて対象化していくと、当然気づく力が成長し「サティ」が強化されます。集中力は、心を一点に据え付ける力です。心に音や妄想やいろいろな感覚が押し寄せてきても、それに捉われず、中心対象の一点に注意を徹底して向け続けるのです。
  どんなものにも無差別平等に気づく力と、一点に強力に絞り込む力を同時に養うのは難しいので、仕事を2つに分けて訓練するのがオーソドックスなのです。集中力のみに特化して徹底的に修行する瞑想を「サマタ瞑想」と言います。このサマタ瞑想を完成させるのが「定(サマーディ)」の修行だと先ほど説明しました。本格的に解脱を目指すなら、何年かかろうが「定」→「慧」の順番で修行しなければなりません。初心者がサティとサマーディの一石二鳥を狙うのですから限界はありますが、それでも中心対象を定めてサティの瞑想を練習すると、集中力が養われていくのです。


*中心対象以外へのサティ
  あなたの質問を言い換えると、「一点に集中しようとするが、外乱に注意がそらされてしまう。飽くまでも中心対象の足やお腹の感覚に集中すべきか。それとも、中心対象以外の音や妄想に集中してもよいのか。どちらに焦点を合わせるべきか」ということですね。これは、ヴィパッサナー瞑想を始めた瞑想者が必ずぶつかる問題です。私も当初この問題に悩んだのですが、明確な説明をされる指導僧に出会えなかったので、私の経験から「5050の法則」を目安にして教えることにしたのです。
  私の場合、どんな微弱な思考やイメージにも立ち止まって厳密にサティを入れていたら、部屋の向こう側にたどり着けなくなってしまい、文字通り立ち往生になりました。どうすべきかは瞑想理論によって異なりますが、初心者は中心対象のお腹や足の感覚に集中した方がよいでしょう。
  そもそも集中力が不安定なので、音や妄想などの外乱に飛びついてしまうのです。あちこちキョロキョロしていたのでは、肝心なものを詳細に観察できないし、しっかり観察しなければ洞察の智慧が閃くこともありません。心がいくら飛んでも、中心の一点に、一点に、とどこまでも注意を注ぎ続ける努力が集中力を養います。一つのことをやり遂げる粘り強さが育つという報告もあります。中心対象以外の外乱が気になっても、印象の度合いが半々を超えるまでは無視した方がよいのです。微弱なものにはラベリングも何もせず、ひたすら足やお腹のセンセーションに集中するのです。こうして、集中力を養う修行と気づく修行が同時に練習できるという訳です。中心対象も感じているが、音や妄想もかなりはっきりしている。例えば4951ぐらいに感じられ大差がない。あるいは、どちらの印象が強いのか迷ってしまう。そんな時は、中心対象に戻すと決めておけばよいでしょう。

*原則に従い、臨機応変に
  まだ未熟な初心者のタスクは2つあります。


  ①考えごとは全てクズと心得て、サティをできるだけ持続させること。脱線したら、サティが途切れたことにできるだけ早く気づいて、サティのモードに戻ること。
  ②集中力を高めていくこと。

 ①②が安定してきたら、心の随観や中心対象以外の観察も重視するやり方に切り換えます。もちろん身の随観をさらに深めていく人たちもいます。この辺は、その人のタイプにもよるし、心の浄化の度合いにも拠ります。
  集中力は才能だけではなく、その時の体調に左右されるし、ストレスや心配事などの条件によって毎回微妙に異なるものです。どうしても中心対象に集中できない日があっても、自分にダメ出しをする必要はありません。あるがままを観るのが第一義の瞑想ですから、その瞬間の心の状態に応じて、無理に中心対象回帰にこだわらなくてもよい場合もあります。その時の瞑想に限り、どんな音に反応し、どんな妄想や連想が展開するのかをしっかり観察すればよいと気持ちを切り換えて、思考モードにだけは陥らないように心がければよいでしょう。そんな日もあるのです。

  手本どおり、マニュアルどおりやらなければ、とかたくなにこだわり過ぎれば、ヴィパッサナー瞑想の本義から外れていくので臨機応変に対応します。理念に忠実であろうとし過ぎる傾向の方は、「実存は本質に先立つ」という言葉を思い出すとよいかもしれません。ヴィパッサナー瞑想では、今この瞬間に生起している現実をありのままに観ることが大事です。

  しかしその時は臨機応変にたまたま上手くいっても、翌日はまた中心対象に集中する基本的なやり方をするのが原則です。自己流で上手くいった場合、少なからぬ人たちがそれに固執してしまいます。修行を始めた頃の私にも、その傾向が少しありました。すると膨大な時間を費やして回り道をすることになります。凡夫の試行錯誤など、先人の英知の伝統には及びもつかないのです。瞑想に限らず、どの道でも、初心者は型に従って修行し、「我」を弱めるのが先決です。ヴィパッサナーはエゴを無くしていくための瞑想ですから、エゴが喜ぶやり方を場当たり的にやっていては必ず躓くし、頭打ちになるでしょう。

*座るよりも歩く・・・
  2番目の質問は、歩く瞑想と坐る瞑想のバランスをどう取ればよいのか、ということですね。結論から申しますと、初心者は歩きの瞑想を中心に行なってください。感覚の取り方もラベリングの仕方も、サティの基本をマスターするのに歩きの瞑想が最適です。足の感覚は身体の他の感覚に比べてはっきりと感じられるし、ステップが明確なので「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」とラベリングの練習もやりやすいのです。
  他の瞑想法を修行してきた方の中には、座禅に慣れているので、歩きの瞑想を軽視して始めから坐りの瞑想だけをやりたがる人もいます。しかし、歩く瞑想が正確にマスターできなければ、その先はありません。歩く瞑想がいい加減だとしたら、それはサティの基本が曖昧でよくわかっていないことを意味します。残念なことですが、ヴィパッサナー瞑想がよくわからないまま、あるいは勘違いしたまま続けている人は少なくないのです。

*基本の習得
  では、サティの基本を覚えたというのはどのような状態を指しているのでしょうか。
  まず、考えごと瞑想に陥らないことが第一です。思考が入ったら、必ず「思考」「考えた」「妄想」とラベリングして、見送れるか。そのまま考えごとモードに入ってしまわず、思考が現れた事実を対象化できるか、ということです。

  第二は、経験する瞬間と気づく瞬間がきれいに仕分けられ、現象→確認、現象→確認、とサティが続くことです。具体的には、「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」の感覚に対して、正確なタイミングでラベリング出来ている状態です。集中力が弱ければ、中心対象から外れて、音や妄想に反応してしまうでしょう。しかし、サティの基本が安定していれば、どんな対象や出来事も必ず気づくことができるし、見送れるのです。仮にサティが入らず思考モードに陥ったり、情動に捉われても、セオリー通りその状態に気づいて「考えた」「妄想」あるいは「ムッとした」「嫌悪感」と対象化して、原状回帰できるでしょう。
  この2つの仕事ができていれば、サティの基本がよくわかっている、と言えます。基本をマスターするのに、歩きの瞑想がいちばん重要ですから、修行の配分は歩きの瞑想を中心にしてください。集中力もないし修行時間も少ない方で、歩きの瞑想しかやっていないという人も珍しくありません。しかし、サティの基本が身に付いたら、体調もよく頭脳明晰な時に、座る瞑想もやってください。瞑想自体が繊細に、ディープに、深まっていく感覚は、やはり歩く瞑想よりも座る瞑想が一枚上と言えるでしょう。

*サティと慈悲
  どんなに忙しくても毎日最低10分以上は瞑想のための時間を確保しましょう。初心者は、歩く瞑想の配分を多くしてください。何事か新しいものを体得するのに一日10分間はあまりにも短いのですが、20余年瞑想を教えてきた経験から、これでも心は成長していくものです。
  瞑想の大前提である五戒を守れば、きれいな生き方ができます。良い瞑想をしようとすると、体調を整えて摂生し、健康管理を心がけることにもなります。瞑想は生活全体に繋がっていくので、技術的な習練時間は短くても、人生のクオリティが向上していくのです。
  また、サティの瞑想の極意は、あらゆるものを公平に、等価に眺める「捨(ウペッカー)」の心が機能するか否かです。まず始めに慈悲の瞑想をしてからサティの瞑想を開始すると、一時的に「捨」の心が強化されるので、サティの瞑想に有効です。多くの方が、サティの瞑想の前と後に慈悲の瞑想をおやりになっています。

  純粋にサティの瞑想をする時間が10分程度であっても、通勤時や、日に何度かトイレに行く往復の時だけは会社でもサティを入れると決めると、案外修行ができるものです。ダメ元でやってみてください。

  どんな練習も上手くいかないからやるものです。眠気と妄想ばかりで、ちっとも良い瞑想ができない・・と嘆かないでください。空振りや凡ミスを繰り返しながら上達していくのは、どの分野でも同じです。

Bさん:
  細かなものにまでサティを入れるようにすると歩行瞑想が楽しくなりました。 

アドバイス:
  微細な身体感覚にまでサティが入るということは、集中力が伴ったサティの証しとも言えます。サティに専念できれば、余計な情報に心が惑わされず、中心対象へ注意が注がれ続けます。するとセンセーションが細かく観察できるようになるので、当然楽しくなってくるのです。本来のやるべき仕事が上手く展開している時に生じてくる喜びを「ピーティー()」と言います。もしこの喜が生じているのなら、舞い上がらずに「喜んでいる」「(楽しい)と思った」とサティを入れましょう。

  多くの方が「喜」にサティが入らず、執着してしまった結果、元の木阿弥に陥ることを心に留めておいてください。
  こう言われると、「喜」が生じるや否やすぐにサティを入れて見送ってしまい、セットで集中力の高まりも消えてしまったというレポートもあります。この辺がヴィパッサナー瞑想の難しいところです。乱心・乱想状態からやっと集中が高まり、「喜」が生じてきた場合、その状態が安定するまで持続した方が良い場合もあるのです。やり過ぎたり、足りなかったり、失敗しながら一つひとつ体得していくのが瞑想です。失敗してよいのです。小さなミスや失敗を正していく過程で、正確なやり方が覚えられるのです。

Cさん:
  歩きの瞑想の時、手を動かすなどの動作を入れてもよいでしょうか。

アドバイス:
  あまりやらない方がよいでしょう。歩く瞑想の最中は、全ての注意を一足一足の歩行感覚に注ぐべきです。もし本当に足に集中できたなら、下半身や上半身の感覚が消えてしまい、宇宙空間に「離れた」「進んだ」「着いた」のセンセーションの生滅以外何も存在しないかのような感じにまでなります。サマーディの伴った歩く瞑想は、そんな風に一点集中が極まっていくのです。

  中心対象を設定し、集中力を養いながら身随観を修行している時は、歩行感覚に集中すべきであって、手も動かして感覚を感じたりするのはよろしくないということになります。

Dさん:
  歩行瞑想中に大きなクシャミが聞こえ、「音」「驚き」「驚いた感覚が体中に拡散」とサティが連続して入りました。ところが上手くできた自分に対し「オレもなかなかやるなぁ」とか、「これをレポートしよう」という思いが浮かび、その有頂天になった気持ちにはサティが入りませんでした。


アドバイス:
  よいレポートですね。「驚いた感覚が体中に拡散」などのラベリングには感心します。その瞬間のあなたの経験の実質が目に浮かぶように伝わってきます。素晴らしい。
  しかし、小気味のよいサティが入った感動には失敗した訳ですね。でも、これは失敗したことに意味があるのです。ご存知のように、ヴィパッサナー瞑想は心の清浄道です。煩悩や不善心所で汚れた心に気づいて、しっかり自覚しながら手放していく。乗り超えていく。だんだん再現されなくなっていく。生活全般で総力戦を展開しながら、貪りや怒りや高慢などの煩悩を駆逐していくのが本来のヴィパッサナー瞑想です。

*心随観
  有頂天になった心にサティが入らなかったのは、反射的に掴んでしまったからです。執着しているものには思わずのめり込んでしまうので、対象化できずサティが入らない法則です。何に執着し、こだわり、強く反応してしまうかは人さまざまで、怒りタイプもいれば貪りタイプもいるし千差万別です。
  あなたの今回の修行現場で露わになったのは、何だったのでしょうか。自惚れや、承認欲求や、エゴ感覚ですね。これは「慢」と呼ばれる煩悩に分類され、聖者の第三段階「不還果」になっても残ると言われます。根の深い煩悩なので、簡単に無くすことはできません。しかし瞑想の修行現場で、自分にとっての修行ポイントが鮮やかに浮かび上がったのです。己の不善心所の存在に気づかされた瞬間であり、何より素晴らしいのは、心に刻み込まれる体験として理解したことです。思考や考察で気づいたものはすぐに忘れてしまいます。考えごとというものには、人間を変える力はほとんどありません。怒らないようにしよう、などといくら思っても、相変わらず怒ってしまうのです。怒りが猛毒であることを、生身の体験として思い知らなければ、心に響かないのです。失敗事例のようですが、本当は素晴らしい体験だったのです。
  では、その時どうすればよかったのでしょう。サティの原則どおりやるべきでした。ベストは、「(良いサティが入った)と思った」「感動」など、その直後の状態を対象化できれば申し分ありません。しかしそのサティは入らなかったのだから、次の現象「オレもなかなかやるなぁ」という所感に対して「と思った」、それよりもベターなのは「自惚れ」「慢」でしょうね。「レポートしよう」という思考に対しては、「思考」や「と思った」でもよいでしょうが、「誉められたい」「認められたい」「承認欲求」などのラベリングが入ったら、心随観としては理想的かもしれません。
  セオリー通り、何が起きても、経験されても、次の心が直前の現象を対象化してラベリングするということです。これがなかなか出来ないので、日々修行なのです。サティの瞑想というものは、失敗の現象から多くの学びを得ていくものです。とてもいいレポートでした。

Eさん:
  読書をしたり人の話を聞くなど、集中すると口元に力が入って「へ」の字になり、呼吸も浅くなってしまいます。瞑想中にも、考えごとが浮かぶと同じパターンになって時々口の状態にサティを入れながら確認していますが、それでよいのでしょうか。

アドバイス:
  時々でも、口の状態にサティを入れて確認しているなら、よいと思います。その「時々」が1時間に1回なのか、3回なのか、10回なのか、多ければ多いほどよく気づいていることになります。
  口元が「へ」の字になってるのに気づかないのは、集中したり、緊張したり、夢中になっているからです。それに気づいて、対象化して観るのがヴィパッサナー瞑想なのですが、余暇で楽しむ読書やリラックスした談話ならかなり出来るかもしれません。しかし仕事中にサティを入れようとして撃沈した方は無数におります。できる人は限りなくゼロに近いと思います。サティを入れることしか求められない修行中ならともかく、日常生活の中で集中しつつ客観視もするというのは至難の業です。
  しかし、ヴィパッサナー瞑想の最終ステージでは、互いに拮抗し合うメンタル・ファクターが合計7つ、見事なバランスで出そろう瞬間が訪れて悟りを開くとも言われます。先ほどから話題に出ていた「サティ」と「サマーディ」の2つのファクターだけでも、セットで同時に機能させるのは容易ではないのです。全身全霊で一点に集中していく仕事と、あらゆるものに等しい距離感を保ち、公平に客観視する仕事を同時に並行させるのです。大変でしょう?

*日常のサティ
  でも、複数のファクターを並行処理するマルチタスク能力は養っていくべきです。断続的に、時々しか気づけないでしょうが、集中しているときでも、ほんの一瞬だけ今の状態を俯瞰してサティを入れることを心がけてください。単純なルーティンワークなら、サティが入る可能性は高まります。昔、会社で伝票をめくっていく感触にサティを入れ続けながら仕事をしている、とレポートされた方がいました。長時間続くプレスの仕事の最中にサティを入れ続けたら、仕事が面白くて感動したと言った方もいます。
  しかし、接客や臨床や頭脳労働の最中のサティは非常に難しく、出来る方はほとんどいないでしょう。概念を操作しながら素早く脳内処理をする仕事の詳細にまでサティを入れるのは、まず無理なのです。
  私の場合は、原稿を書いたり、資料を読んだり、概念モードで情報を扱う仕事が多いので、一瞬一瞬の詳細にまでサティを入れることはできません。できるとしたら、断続的にざっくりしたサティを入れるのが精々ですね。そこで、個人的な課題を与えています。あまり参考にはなりませんが、呼吸を使ってマインドフルネスの維持を心がけているのです。仕事に集中していても、長息の呼吸を忘れないようにするだけです。マインドレスになれば、普通の自然呼吸になってしまいます。
  私は昔から呼吸法をやっていましたので、長息を意識すると、1分間に3往復程度になります。吸うのが3回、吐くのが3回ですが、吐く時間がとても長いのです。これは意識していないと続きません。ラベリングはやらずに、仕事に没頭しながらでも長息を保持できるか、できれば気づきの心は維持されていたと判定するのです。真似しないでください。() 私の個人的な行法にしか過ぎません。
  日常のサティは、在家の瞑想者にはとても難しいものです。瞑想よりも、生活や仕事の方がはるかに大事な価値観で生きることを選んだのが在家です。サティは二の次にされてしまうのもやむを得ません。とは言え、全てを変えるのは、決意(アディッターナ)の力です。たとえ在家でも、この世に咎を見て、命を懸けて日々修行している方も稀には存在します。その方たちの決意の力は半端ではありません。事実上、この世のことよりも修行の方が大事になっている人たちです。これが真の出家です。頭を剃り、衣を着て、寺に止住すれば出家か?そんなことはありません。ただのライフスタイルで比丘をやっている方々にも大勢会ってきました。
  私も、1ヶ月の瞑想リトリートに入ると決めて、フライトを予約したら、途端に日常のサティが入るようになったことがあります。気持ちが引き締まり、決意が新たになったからでしょう。しかし修行の進め方は、各人各様、千差万別です。自分の立ち位置を正確に把握して、そのあるがままの自分を観ていくのがヴィパッサナー瞑想です。
(文責:編集部
)
 今月のダンマ写真 ~

 










                    いつも見守っておられます

地橋先生提供


    Web会だより  

『瞑想との出会い』りんご

  今から2年ほど前、仕事はマンネリ、趣味もなく、このまま時間を浪費するように人生が過ぎていくことに、何とも言えない閉塞感を感じ、それを打ち破りたい衝動に駆られていた。そして、そんな時期に見つけたのが、マインドフルネスと某IT企業が開発したプログラムである(ただし、この時点では某IT企業のネームバリューに吸い寄せられているところが大きい)
  そのプログラムが、私の初めての瞑想体験となるわけだが、とりわけ私が興味を持ったのは、Emotional Intelligence Quotient(EQ)を養うことで、職務遂行能力が向上し、そのEQを養う方法がマインドフルネス瞑想であるということであった。図らずも、以前より、アンガーコントロールには課題があることは認識しており(怒ってしまった後の自己嫌悪は苦でしかなかった)、それが、マインドフルネス瞑想を通して、コントロールができるというのである。
  この頃、アンガーコントロールというと、本屋では特集コーナーができ、ネットでもいくらでも情報が入手できた。しかしながら、私が見た多くの情報は怒りを感じた際の考え方や見方であり、知りたかった怒りが浮かんで反応する、その一瞬の反応を止める方法ではなかった。一方で、マインドフルネス瞑想ではその一瞬の反応に気がつき、止めることができるというのである。これは、やるしかないと思い、私の瞑想生活が始まったのである。

  しかしながら、マインドフルネス瞑想を10分間毎日するように心がけても、うまく習慣化できず、そして効果もあるような、ないような感じで、半年が経った。そんな時に、プログラムに参加者が集まって、近況を報告する機会があった。そこで、習慣化と効果について苦慮していることをトレーナーに相談すると、その方も1週間か10日かの瞑想の研修に参加し、そこでやっと習慣にすることができたという。それで、私もそういう強制的に瞑想をする場に参加したいというと、仏教に抵抗がないのであれば、地橋先生のヴィパッサナー瞑想で、10日間合宿をしていたので、調べてみると良いと勧められたのである。

  この頃、私の中では、アンガーコントロールを達成するには、瞑想が唯一の手段だろうと考えていた。だから、習慣化したいと強く思っていたが、それと同時に紀元前450年ほど前から脈々と受け継がれてきた仏教が瞑想を修行の1つとしているのに、その仏教を知らずに、本当に瞑想の効果を得ることができるのかと思い始めていたからである(効果の実感ができていなかった言い訳であったことは否定できない)

  そして、ついに地橋先生のヴィパッサナー瞑想に巡り合うことができ、残念ながら10日間の合宿はしていないということだったが、朝日カルチャースクールと1day合宿に参加させていただくことになった。


*マインドフルネス瞑想とヴィパッサナー瞑想の違い
  あくまでも私の感じたことではあるが、マインドフルネス瞑想とヴィパッサナー瞑想の大きな違いは、瞑想のやり方というよりは、五戒、カルマ論、輪廻転生の有無だと思う。そして、個人的にヴィパッサナー瞑想を学んでよかったことは、その五戒とカルマ論があったことである。

  ヴィパッサナー瞑想を始めた頃は、五戒の内、アルコールは絶対やめられないと思っていた。なぜなら、その頃、いろんなワインを試飲して、お手頃で自分の好みのワインを探すというのが何よりも楽しいと感じていたからである。ただ、鋭いサティを入れようとすると体を整えないといけないし、そのためにはアルコールが残っていたらできない。そう思うと、いつの間にかワインも飲みたいと思わなくなった(外では飲むが量は明らかに減った)。お陰で、家の冷蔵庫にある約20本のワインは、未だ野菜庫を占領しており、減る気配もない。
  そして、カルマ論については、私にとっての安全装置だと捉えている。カルマの存在を検証したいと思って、あるところに毎月の募金をすることにしたが、その結果が出るより前に、最近、自分がしたことは戻ってくると思うと、人への対応に注意している自分に気がついた。よって、検証結果は得られていないが、カルマの存在を信じたからといって悪いこともないので、私の中では、カルマはあるということにしたのである。

  ただし、募金による効果の検証は、個人的興味として続ける。そして、なぜカルマ論が安全装置かというと、私のアンガーコントロールの理想は、サティで反応を止めることであるが、未熟者の私にはうまくサティが入らないことがあり、そうした場合、「自分がしたことは自分に返ってくる」と日々考えていることで、怒りの反応を止める第二のブレーキとなってくれるからである。

  ちなみに輪廻転生は、来世があるとするとまたこんな苦があって、それを克服するための修行をしないといけないのかと思うと、がっかりしてしまうので、今はその存在は保留にしている。


*ヴィパッサナー瞑想を始めての変化
  いつのことだったか覚えていないが、最初に感じた変化は、電車の中だった。私の沿線は、通勤時間帯はすし詰め状態になるので、電車の中は常に殺気立っている。私もいつもイライラしていた。しかし、ある時から、それを流せるようになっている自分に気がついた。むくっと怒りが浮かびはするが、すぐさま、私のためだけの電車ではない、と切り換えられるようになったのである。

  そこで、私の怒りに関する分析を行ったところ、①期待に応えてもらえなかったとき、②上から目線で何かを言われたとき、③仕事に口を出されたときに発生すると分類された。

  この内、①に関しては、電車で感じたように怒りを抑えることができているように思う。期待をしなくなったというより、私が他の人に与えた影響だけで、反応が返ってくるものではなく、その他にも私の知らない影響が含まれた上での反応であると考えると、私ごときの影響がそれほど大きなものとも思えず、そうなるとイライラもしなくなった。
  問題は②と③で、主に仕事上での克服課題である。もう少し説明すると、怒りを感じるのは、私の腕の見せ所と思っている業務に、上から目線や、これでいいと決めた後に口を出されるとイライラとするのである。地橋先生にも指摘されたが、これは、私の中で仕事のウェイトが大きいため、口を出されることで存在価値を否定されたように感じてしまっているようなのである。しかしながら、最近、視座の転換を行うことで、これに対する格好の練習相手をみつけた。主にイライラの源は上司であるが、その上司が、有難い練習相手と考えられるようになったのである。上司によっては、私が怒りを示すことで関係が壊れ、指示をしない、重要なことを連絡しない場合もあるが、今の上司は、私が反応に多少失敗しても、諦めずにイライラの源を与え続けてくれるのである。それに気がついた瞬間、そのことに甘えてはいけないと思うと同時に、私のサティの入り方やアンガーコントロールを実際に確認させてもらえるありがたい相手となった。


*これからの私の瞑想との付き合い方
  ある人に聞かれた。毎日瞑想して、2週間に1度の土曜日の午前中と月に1回終日瞑想するなんて、どうしてそこまでするの?と。どうしてと言われるとアンガーコントロールにはこの方法しかないと思っているからだけど、どうしてこの方法しかないと思うのかの答えは持ち合わせていない。そして、理由はわからないが、アンガーコントロール以外の自分の可能性も向上させてくれるだろうと思っている。

  とは言え、瞑想が今日は面倒くさいなと思う日がないことはない。そんな時は、いつも自分を戒める。人生のうち、与えられた課題は克服するまで、手を変え、品を変えやってくる。そして、それを後回しにすればするほど、逃れられない形で苦の度合いが増してやってくる。今、それをやめて逃げ出せば、さらなる苦しみが未来に待ち構えている。それであれば、我が身にやってきた苦は、今克服する以外の選択肢はない。

  10年以上前、あまりにも似たような状況が執拗に繰り返されるので、そんな風に感じたことがあった。ずっと忘れていたが、瞑想を通して、再認識し、心が折れそうになった時の戒めとしている。そして、さらにこの原稿を締めくくりになって気がついたことがある。この有難い状況は、過去に自分の行った善業がなせる技なのか?それであれば、良くやった過去の自分と思うと同時に、未来の自分には、ダメ出しされないように今を生きようと考えている自分がいる。このように考えるのは、カルマ論の静かなる影響か、それとも保留中の輪廻転生の考え方が、実は私にじんわりと浸透しているのだろうか・・・。



☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。
                   
 






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ダンマの言葉

煩悩がなければ問題を引き起こすものは何もありません。とにかく何も問題は生まれません。日常の現実において、さらに煩悩へとつながっていくような条件はもうなくなっています。
  残ったものは全く純粋無垢なものばかりです。ですから、もはや何も問題は起こらないのです。
  完全な清浄は何のための条件でしょうか。それはどんな問題を作り出すでしょうか。ブッダは「問題を滅し尽くした」と言っています。このような、問題を滅し尽くした状態なのです。
  それでも心の中にはさまぎまなレベルでの生成と誕生があり、それが段々こはっきりと分ってきて一点に収斂し、問題の種としてあちこちに蒔き散されることがあります。ですから、それらを精進の炎で紙クズと一緒に燃やしてしまうのです――完全に根絶するまで。(アチャン・マハブア『気づきのない心は毒牙である』「月刊サティ」200712月号より転載)

       

 今日の一言:選

(1)妄想に耽っていれば、頭が腐っていく。
  思考を止め、妄想の世界を離れ、事実のみを明晰に知覚するマインドフルネスの意識状態……
    サティの瞑想が原点だ。
    たとえ短い時間でも、毎日心をリセットしなければ、自分を見失うだろう。

(2)時代が変わる。
    仕事の流れも、家族構成も、つき合う人の流れも変わり、受け取る情報の質が変化していく。
    朱に交わっても赤くならないためには、どんなネガティブ情報もプラスに受け止める発想の転換と、日々の瞑想で自らを律しなければならない……

(3)逃げ切れない必然の流れを感じたならば、それも宿命と腹をくくり、心を乱すことなく、解くべき因縁を解いていく人生もある……


       

   読んでみました
黒川伊保子著『英雄の書-すべての失敗は脳を成長させる In bocca al lupo!-』                                   ポプラ社、2018年
  素晴らしく、小気味好い本だと思う。
  著者の黒川伊保子さんは、大学を卒業してから、35年間もAI(人工知能)研究に没頭してこられた。1980年代の世界のAI研究において、世界の最先端の空気を吸ってきたのだと思う。そして、AIの研究をするために、人間の脳の機能を追求していって、「人間とは何か」という本質的な問題を考えてきた。AIと脳科学の観点からの英雄像が面白い。

  今後、世の中は、AIの世の中になり、変化のスピードはますます速くなり、先が読めない時代になり、激変する。その時に向けて、その時代を生き抜く若者に宛てたメッセージである。黒川さんは、堂々と世間を渡っていく「英雄」であれと言っている。そのためには、「失敗」が重要であること、「孤高」が脳の熟成に必要不可欠であることを、脳科学を使って説明したいというのが、本書を書く目的なのだ。

  そして成人や老人にとっても極めて面白いと思う。本来は、若者向けに書かれたのだと思うが、この考えは、いつの年齢になっても適用可能である。

  圧巻は、第1章の「失敗の章」である。この章は、この本の半分を占めている。失敗することが、どれだけ人を成長させるのかということを、AIや脳の観点から説明している。その説明が、人を納得させる。私も、もっと早くこの本に巡り合いたかったなと密かに思っている。黒川さんは、「日本ほど失敗にビビる国もありません。失敗が、才能のある人をこの世から抹殺してしまう国です。だからこそこの本を書いたのです」と述べている。最近は、失敗の研究などで、失敗についてたくさんの本が書かれる時代になった。それだけ社会が失敗を認める時代になってきたのだと思う。

  AIの学習過程では、人の脳神経回路を模したニューラルネットワークに、たくさんのパターンを入力していくことによって、学習させていく。その際、失敗事例も入力として与えないと、概念構成が完成しないそうだ。人の脳も同様で、失敗体験こそが、センスの良さを決める。失敗しない脳は、未完成であり脆弱なのだそうだ。ただ、同じ失敗を漫然と繰り返すのはダメ脳で、失敗に胸を痛めない人は脳が学習に失敗する。例えば、失敗を他人のせいにしたり、自分のショックを回避するのは、せっかく痛い思いをしたのに、脳神経回路が書き換わらず脳が成長しない。これは、いかにももったいない。失敗を自分に受け入れることが重要なんです。

  これは、地橋先生のダンマトークでよく出てくる受容することだと思う。若いうちの失敗は宝物である。

  「孤高の章」では、「孤高」の時間を持つことを強調している。黒川さんは、脳は「孤高」の時間を持たないと世界観が創れない、誰とでも共感していると自分にしかできないものに出会えないし道が拓けない、と言っている。まさかどうでもいいことに「いいね!」を押していないでしょうね、と辛辣である。私は、この言葉にハッとした。そういえば、「いいね!」を押しまくっていた。

  もうひとつ、脳科学的な観点から面白いことを書いている。右脳と左脳の連携についてである。

  右脳は潜在意識の領域を担当し、イメージを創生し世界観を構築する。それに対して、左脳は顕在意識と直結して、言葉や数字を操り、現実的な問題解決を行う。右脳と左脳を連携する脳梁を通る信号の量が多いと、感じたことがどんどん言葉になる。そして臨機応変にこの世の中を泳いでいける。しかし、脳内に豊かな世界観を創り上げるには、左右脳連携を寸断して、右脳や左脳のすみずみまで信号を行きわたらせる必要がある。

  英雄脳とは、脳梁を寸断し豊かな世界観を持ちながら、必要なときに、右脳と左脳がすばやく連携するハイブリッド型の脳だと説明している。一般的には、前者は男脳、後者は女脳なので、黒川さん流に言うと、そのどちらの特性も兼ね備えた人を英雄というのだろう。

  最終章の「餞(はなむけ)の章」も素晴らしい内容だ。餞は、遠くへ旅立つ者へのメッセージです。そのメッセージ、「上質の異質になれ」という言葉は、胸に響く。

  「おわりに」を読んで、わかったのであるが、この本は、始め、若者のために書かれたのであるが、それを百戦錬磨の大人にも知って欲しいということで、トーンを変えて書き直したのが本書である

  黒川さんは、常に闘っている人なんだ。女性ですが男脳の人。黒川さんは、大学を卒業して、コンピュータ関係の会社に入社している。その会社は、競争が激しく厳しい会社であり、そこで競争を勝ち取ってきた黒川さんは、相当に優秀だったのだと思う。でも、黒川さんだって、常に進軍ラッパが鳴っている状態ではなかったと思う。落ち込んでいたり、挫折したりしたことがあったと思うが、そこから這い上がってきたところに強さがあるのだろう。

  この本の英雄のモデルは、黒川さん自身だと思った。黒川さんは、英雄としてこの世の中を生きてきた。胸を張って高らかに宣言しているように感じる。こういう人生は、これで素晴らしいと思う。「英雄の書」は、強者の論理の本なのである。

  ここまで書いたところで、弱者の側からの意見も言っておきたいと思う。これからの人生を歩む若者を鼓舞するのにはいいが、もうすでに人生の大半が経過して自分が敗者だと思っている人には、ちょっとつらいかもしれない。

  昔、私の職場で、研究室の上司が、ある時(かなり歳をとってから)、自分は今まで一流の人間だと思っていたが、今になって二流の人間であることがわかった、と言ったのをある人から聞いた。それを聞いて、すごく寂しくなった。その人は、東大の電気出で、会社の中では、超エリートであった。私も、横で見ていて、一流ではないことは、常々わかっていたのであるが、その人は、終始、強気だった。そんな人が、研究所生活の終盤で、つくづくそう思ったということは、憐れに感じてならない。その人は、そんなことが心の重荷になっていたのか、定年退職してすぐにこの世を去ってしまった。晩年は、悲しい人生だったんだと思う。私は、今でも、そのことが、時々、思い出される。

  この世の中には、多くの敗者と、それを上回る非常に多くの普通の人と、少数の英雄がいるのだと思う。

  私は、アップル社のスティーブ・ジョブズの生い立ちや伝記は、いろいろな機会に目にしてきた。ジョブズの創った製品は素晴らしいし、天才だと思うが、人間的に素晴らしいかどうかは疑問である。ジョブズは、英雄になるために、どんなに多くの人たちを踏み台にしてきたのか。ビジネスにおいても、自分の信じる道に猛進するため、多くの人や会社を切り捨ててきた。ジョブズの成功の陰には、そのような人たちが大勢いることを知っておくべきだ。

  英雄を目指すのか、人間的に評価されることを目指すのか、どっちをとるべきか?それは、人それぞれだろう。我々修行者としては、ケースバイケースで考えて、判断することが必要だと思う。英雄的な行為を為すべきか、為さない方がいいのか、その場面に遭遇したとき葛藤が生じ、その人自身が試されているのだと思う。行動に移す時に、エゴがあるかどうかを常に自分に問うていきたい。

  そんなことを言ったら、英雄なんて生まれないかもしれない。人のことなんかかまわず邁進しないと、革新的なことはできないというのもある程度はそうだろう。でも、黒川さんのような人は、レアである。世の中には、挫折から這い上がることのできない人たちのなんと多いことか。特に、「自尊の章」を読んでいる時に、そんなことを考えてしまった。
  本当は、「弱者の書」とか「普通の人の書」のような本が必要だと思う。普通の人がどんなに素晴らしいかを、誰かが書いてくれるといいなぁと思う。そんな弱者の視点を持ちながら、この「英雄の書」読んでみることが、ヴィパッサナー瞑想者には必要なのではないだろうか。仏教の「捨(ウペッカー)」の立場からは、強者も弱者も、成功した英雄も挫折して落ちこぼれていった凡人も、一個の人間として等価なのではないか。残酷でエゴイスティックな英雄と、名もなく貧しく心が浄らかな一兵卒に、果たして優劣が付けられるのだろうか。

  頭の回転が速くマルチな才能の持ち主と、誰にでも分け隔てなく優しい心のきれいな人は、どちらが先に人格完成者になり、苦しみに終止符を打つことができるのだろうか・・・。

  「智慧」も「慈悲」も体得しなければ、真の「捨」を完成できないような気がするが、この本には脳を創っていくための、素晴らしいアイデアがたくさん詰まっている。智慧を育てていくためにも一読に値する良書だと思った。
(N.N.)
 
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