月刊サティ!

2019年4月号      Monthly sati!     April 2019


 今月の内容

 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

    
今月のテーマ:訊ねたかったこと (4)【善行と愛する人の死】
  ダンマ写真
  Web会だより:『瞑想8年目、日々是修行』
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:
『その部屋のなかで最も賢い人』

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

  おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて頂        きます。ご期待下さい。

     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:訊ねたかったこと(4)【善行と愛する人の死】   
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 
Aさん:
  善行とボランティアはどのように捉えればよいでしょうか。


アドバイス:
  善行は、①財施、②身施、③法施の3つに分類されるのが一般的です。
  ①財施は、お金や物品など物質系エネルギーの価値を無償で差し上げることです。
  ②身施は、ボランティアやサポート、手伝いなど労力系の価値あるエネルギーを差し上げることです。
  ③法施は、情報系です。物質や労力のエネルギーは動きませんが、相手の人生が幸せな良い方向に展開するように価値ある情報を差し上げることです。
  仏教の因果論では、自分が出力したものと同じものを未来に受け取ることになると考えます。自分が蒔いた種を自分で刈り取る法則です。善い種を蒔けば良い収穫が得られ、悪い種を蒔けば苦い果実の悪い収穫を得る。われわれが日々経験する事象というものは、そのような摂理に則って生滅していると考えています。だから人に善行を施すことは未来の自分に幸福を与えることと同じとなり、本来の意味通り「情けは人の為ならず」と理解されます。
  あなたのご質問のボランティアは、身施系の善行になります。例えば、水害の被災地で一日泥かきをしたり、ホームレスの方々への給食のボランティアに加わったり、老人施設で介護や傾聴のお手伝いをしたり、虐待されたり足を失った犬猫のケアをしている方もいます。困った時に義援金や物資が届くのもありがたいことですが、生身の人間が駆けつけてくれて自分たちのために無償の手助けをしてくれる姿を目にすることはどれほど力づけられるか。
  そのような善意に満ちた支援を受けられる人となぜか受けられない人の差は偶然ではなく、仏教的には因果応報ということになります。こうした理解が共有されている仏教圏では、多くの人が基本的に善行をやろうとしています。しかし行為は同じようであっても、カルマはチェータナーという意志の問題ですから、善行をする一瞬一瞬の自分の心をよく観察し、不善心や不純な心が混入しないように気をつけましょう。

  ポイントは、①劣善にならないこと、②善行の意義を理解し、今自分が行なう善行為の因果性を心得ること、③善行を受けてくださる方々への配慮を忘れないこと、などです。少し説明しておきましょう。

  ①「劣善にならないこと」は、同じ善行でも行為する瞬間の意志(チェータナー)によって、優れた善にもなるし劣った善にもなってしまうことです。これは、下位から<劣善→中善→勝善>と上位になるほど善行としてのポイントが高いというか、優れた善になるということです。  善行は「利他行」とも言われ、他者を利する行為です。他人を幸福にし、さらに多くの不特定多数に利益をもたらそうと考えるのは、自己保存を最優先する自然界のエゴイズムに反する要素があります。こうした利己的な本能を乗り超えようとする修行が、善行と慈悲の瞑想に共通しています。自分以外の他人を慈しみ、家族でもないのに苦しんでいる人や困っている人を助けてあげたいという「悲(カルナー)」の心は、人間的に成長しないとなかなか身に付きづらいものです。
  純粋な善行は、エゴイズムの本能を引き算しなければならず、容易なことではありません。因果論が分かってくると、自分のカルマを良くしてもっと幸せになろう。そのために人に善行をしよう、と考える人が多いのも当然と言えば当然です。しかし子供ぽいというか、自分が幸せになる手段として人を助けるという発想は、慈悲の点からも善行の点からも優れたものとは言えず「劣善」というちょっと恥ずかしい呼び方をされてしまうのです。
  とは言うものの、真実をありのままに直視する瞑想をしているのですから、もし劣善しかできていないのが現状なら、自分はまだそのレベルなのだと自覚しながら清浄道の道を歩んでいけばよいのです。「仏も昔は凡夫なり・・・」という戯れ歌がありますが、最初から完成した心の人はおりません。これまで善行の「ぜ」の字も知らなかった人が、初めて善行をやってみるのですから、最初は劣善からスタートして構いません。やらないより、やった方がよいのです。最初の打席からホームランが打てないのなら、野球はやりたくない、と考えたら縁がつくことはありません。
  ミャンマーで出会ったオーストラリア人の瞑想者が、「売名行為で善行をやってる人が多いよね。偽善者だよ。薄汚れた善行なんかやらない方がいい」と言うのです。吝嗇の言い訳を自分にしているという印象を受けました。この人は何年経っても、このまま何も変わらないだろうとも感じました。
  たとえピュアな心ではなくても、善は善なのです。行為の実行が及ぼす影響は大きく、劣善でも、人生を善い方向に向かわせる力があるのです。物惜しみの不善心で汚れていた人が、初めて清浄道の第一歩を踏み出すのですから、カッコ悪いヨタヨタ歩きでも致し方ないのです。自分の現状をありのままに承認し、自分の汚れた心をきれいにするために、善いことを考え、善い行ないをして、心を成長させながら人格完成に向かって歩み続けると決心するのです。


  ②の「善行為の因果性を心得る」には、3つのポイントがあります。まず、善行の意志が強化されることです。「富者の万灯よりも、貧者の一灯」と言われるように、行為を実行する瞬間のチェータナー(意志)が業を作るのですから、自分のやる善行の意義を心得、その意志を明確に自覚することが大事です。身を切られるような痛みを感じながら、それでも善をなしたいという意志は、善行のもたらす果報を理解しているからです。大事なのは、善行をして幸福になることではなく、現象世界を貫いている法則性を心得ることなのです。因果が帰結する業の世界を構造的に理解し、悟りを求める心を起こすことが仏教の本義です。
  次に、日々さまざまな出来事を経験しながら「悪因悪果、善因善果」の法則性を忘れなければ、結果的にサティが常に維持され、マインドフルネスによく気をつけていることに繋がります。因果論を理解し、常に善をなそうと努め、行為の結果を想定することには、一石二鳥の価値があるのです。一つはサティを忘れないために、もう一つは、事の因果を理解しようと努めることが智慧の修行になるからです。
  まとめると、「善行為の因果性を心得る」ことは、善意の強化のために、常にサティを忘れないために、業論に貫かれている現象世界を読み解く智慧のために、良い修行になります。


 ③の「善行を受け取る側への配慮」は、謙虚な心と相手を思いやる優しさを育む良い修行になります。社会的な弱者や苦しんでいる方々に対する善行は「悲の瞑想」に通じるものですが、この現場では特に気をつけなければなりません。善行を始めたばかりの人は、善行をしている自分に自己陶酔したり、傲慢な波動が出ていたりしがちです。自分のささやかな善行を受けてくださる相手への配慮や思いやりはブッ飛んで、「弱者を救済している立派な私」にうぬぼれていたりするのです。相手を純粋に憐れむのではなく、劣った者をどこか上から目線で見くだすような、あわれみを垂れるような、そんな汚いオーラを感じたら誰でも普通に傷つくでしょう。
  健康で幸福に暮している人たちは、他人から善行を施される必要もありません。善行を受ける側は、困っている人や苦しんでいる人、心や身体に障害のある人、介護を必要とする人たちです。多かれ少なかれ、自分の現状にコンプレックスを持ちがちな立場の方々です。その心を傷つけないように細心の注意を払わないと、見透かされてしまい、怒りや反感を買うことになりかねません。
  ボランティアの介護を受けている身障者の人が書いた「ボランティアの犬どもめ!」という激烈な詩を読んだことがあります。鈍感な善行の怖ろしさを感じました。他人の善意に支えられなければならない屈辱や無念さ、弱者の立場でしか生きられない自分に憤りを覚えている人たちも少なくないでしょう。繊細な配慮から純粋な優しさの手が差しのべられたら感動もしますが、善行に自己陶酔している鈍感な人の、汚れた善意など受けたくないでしょう。
  その詩の一部を、ベタ書きで紹介します。


  【・・ボランティアの犬達は、私をアクセサリーにして街を歩く。ボランティアの犬達は、私を優しい青年達の結婚式を飾る哀れな道具にする。ボランティアの犬達は、私を、夏休みの宿題にする。ボランティアの犬達は、彼らの子供達に観察日記を書かせる。
  私はその犬達に尻尾を振った。私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされた。汚い手で顎をさすられた。
  私は、もう彼らをいい気持ちにさせて上げない。今度その手が伸びてきたら、私は、きっとその手に噛みついてやる・・・】


  弱者の立場にいる方々の心情を思いやることの難しさを教えられたように感じました。善行を受ける方々に、善意をきれいに受け取ってもらうためには、相手を傷つけないように慎重に、細心の注意を払わなくてはなりません。身を屈め腰を折り「申し訳ないのですが、受けていただけますか・・」とお伺いを立てるぐらいの調子でやらないと難しいのです。そのような配慮が、傲慢な心を打ち砕き、謙虚な心を養う修行にもなっていくでしょう。
  スリランカのニャーニャナンダ長老は、「クーサラ(善行)をやる時は、過去世で自分がお世話になった方へ、恩返しをさせていただいているのだと思いなさい」と教えていました。善を行じながら陥りやすい慢の心を戒めるための考え方の一つでしょう。
  劣善の段階にいる人は、どうしても自分の利益を重視するので自己中心性が強くなり、相手を傷つけていることに鈍感になりやすいのです。善行としての値打ちが下がる一因でしょう。それでも善行を続けていけば、こうした失敗を重ねながら多くのことを学び、だんだん心が成長していきます。善行が当たり前になり、相手を思いやる心も修練されていくうちに、純粋に相手のためを思いやり、きれいな善行ができるようになっていることに気づくでしょう。これが「中善」です。
  中善は純粋な善行なので善業のポイントも高くなりますが、しょせん因果の法則に縛られた業の世界です。どんな善き果を得て幸福になっても、無常に変滅し壊れていくドゥッカ()に打ち克つことはできません。人の心が成長していけば、いつか必ず現象世界の幸福の限界を覚ることになり、この世に咎を見て王宮から出離したシッダールタ王子の出離に近づきます。ここから本格的な仏教の修行の流れに入ると言ってよいでしょう。
  本気で解脱を目指し、聖なる修行を完成させる道に入ると、やがて誰もが気づくのです。「修行を進ませる原動力は、波羅蜜(善業の集積エネルギー)以外の何物でもない」と。悟りの瞬間が訪れるまでには、個人の修行努力だけではなく、多くの人に支えられ、教えられ、人生の流れが整い、諸力に助けられ、導かれ、奇跡のように絶妙なタイミングで全てがその一瞬に集約しなければならないのです。たった一つのピースが欠けただけで、起きるはずの宇宙的現象がガラガラと総崩れになっていくのです。
  私も長いリトリートの最中に何度か、異常なまでに修行が深まり、奇跡の瞬間が訪れるのではないかというまさにそのタイミングで、修行が叩き壊されるような突発事が発生し、ものの見事に阻まれて撃沈してしまったことが何度もありました。万物万象と調和しながらしか、稀有な一瞬は訪れないのだと痛感させられました。仏教がなぜ「衆善奉行」を強調し、ありとあらゆる善行を奨励しているかの所以です。自分を取り巻く人、物、環境、万物万象との相関関係の中で、全ての事象が生滅しているのですから、そのような諸力に助けられ、支えられ、導かれ、調和していかない限り、何事も成り立っていかないのです。
  現象世界の本質は諸法無我であり、万物との相関関係なのですから、ありとあらゆる善行をなして波羅蜜を貯えていかなければ、奇跡の一瞬は訪れない。この世の幸福のためにではなく、解脱の一瞬のためにあらゆる善行をなしていくことが「勝善」です。
  以上、ちょっと詳しく「劣善→中善→勝善」について解説しました。善行がおやりになれるチャンスに恵まれたら、逃さずに財施、身施、法施をなさってください。徳のない人には徳が積めない法則があります。善行をやるチャンスが訪れないのです。それでも善をなそうと願い、努力していけば、ささやかな善行ができるよになり、一つできれば後はわらしべ長者のように、虻がミカンに、反物に、馬に・・と、しだいに良い善行ができる流れが形成されていくものです。心にキッパリと決心したことは、必ずそのようになっていくのが現象世界です。どうぞ身近なボランティアからあなたの善行を始めてください。


Bさん:
  1週間くらい前に、祖父が亡くなりました。亡くなる直前まではとても元気でしたし、これからもずっと長生きしてくれると思い込んでいましたから、突然のことでショックを受けました。小さい頃からかわいがってもらっていたので、とても寂しい思いもあります。原始仏教の教えでは、人の死、特に身近な人の死はどのように受け止めるべきだとされているのでしょうか?


アドバイス:
  原始仏教では、死ねば必ず再生して輪廻転生が続くと考えられています。果てしなく続く輪廻の環からいかに解脱するか、その方法論と教えを提示したものが仏教なのです。輪廻転生が本当にあるのか無いのか、科学的に証明するのは現段階では難しいですね。つまりどのような死生観を持つかは、個人の信条や思想の問題になります。
  輪廻転生否定論では、歳を取り人生の終末が近づくにつれて未来への希望が持ちづらく、前向きに最後の日々を送りづらい傾向があります。また、死ねば自分の存在が完全に無になって消されてしまうことに恐怖感を持つ人が多く、安らかな死をどのように迎えてよいのか難しくなりそうです。輪廻転生の有無は確率50%なのですから、有りという前提で心の準備をしておいた方がよいのではないかと思います。
  私は原始仏教を拠りどころに生きているし、あなたも仏教に共感してこの場に来られたのですから、ここでは輪廻転生論を前提に考えてみましょう。
  幼い頃から可愛がってくれた祖父の死は、最も辛い肉親との別離だったでしょう。臨終に立ち会い、最期を看取ることができたなら、当人はすでに再生してしまっていますから、あなたの中で祖父の死がこれからどのように受け止められていくかの問題です。
  これから死を迎える人に対して、仏教徒してどのように接するか、何をしてやれるかは心得ておくべきことがいくつかあります。死んでいく人はすぐに再生し、新たな生存の流れが始まっています。あるいは輪廻転生否定論では、死の瞬間、完全な無になって存在が消されてしまいます。どちらの場合も、死の体験は当人にはほとんど問題にならないのです。
  死が問題になるのは、残された者にです。死を怖れ、死について悩み苦しむのは常に、まだ生きている人だけです。大切な人との別れがきちんとなされないと、いつまでもその死や喪失感を終わりにできず引きずることになります。愛する人との永訣に、どのような心構えで臨むべきか考えてみましょう。大事なポイントが3つあると思います。

  ①は、死んでいく人にどう対処し、何をしてやれるかです。
  ②は、愛する人の死をどう受け止めるかです。
  ③は、死者との関係性を見直しておくべきです。


  まず①は、死にゆく人の再生が最高のものになるよう、できるだけのことをしてあげることです。原始仏教の理論では、死の直前、業を作る最後の心(死近心)が、再生した最初の瞬間の心(結生識)と同じになると考えられています。怒りの心で死んだ人は、怒りの心で次の生涯を始めることになります。感謝の心も、後悔の心も、優しい心も、傲慢な心も、善心も、不善心も、死近心がそのまま次の人生の始まりとなり、その生涯を決定づけてしまうのです。気をつけるべきことは、死んでいく人が不満や後悔や恐怖感など不善心所に陥らないように、安心して最期の瞬間を迎えられるように、穏やかで快適な環境を整えてあげることです。
  私が母親を看取ったときには、実家に帰って、母親と一緒に暮らすことから始めました。認知症が始まっていたし、施設に入りたくないのが明確だったからです。母親が亡くなるまでの2年間、毎日食事を作り、懐かしい昔の話をし、スクワットをやったり、散歩をしたりしながら、息子と一緒に暮すことを切望していた母の願いに添いました。この間の母親の介護については、ホームページの『今日の一言』に詳細に記しました。この介護に関する部分だけを抜粋して、ブックレットにまとめるという話もあります。原始仏教の修行者が、自分の母親をどのように介護し、看取っていったかの事例の一つにはなるでしょう。その素材の原稿は、2010年から12年あたりの範囲を検索していただくと、今でも読むことができます。
  母の最期を看取った2年間、毎日のように母に伝えたことは、安らかに死んでいくことでした。死期の近づいた人が恐れているのは、これからどうなるのか、訳の分からない、得体の知れない、真っ暗な世界に放り出されるような心もとなさです。死んだらどうなるのか、明確な死生観を何も持たない人が、不安と混乱に巻き込まれるのは容易に想像がつくでしょう。だから私は母親に、原始仏教の死生観を繰り返し語りました。死ぬとはどういうことか、死んだ後どうなるかの明確なイメージと見通しが立っていれば、怖れは激減するものです。
  死んでいく人に対しては、まだ元気なうちに死について語り合い、関連書に目を通したり動画から情報を得て、その人なりの明確な死生観が持てるように援助してあげることです。死を怖れないように、輪廻転生についてきちんと理解してもらうことが良いと考えますが、仏教以外の死生観でもOKです。何もわからず、何の見通しも持てない無明の状態が、得体の知れない化け物のような妄想を肥大させてしまうのです。
  私の母親は認知症が始まっていましたが、「お母さん、これから死ぬんだからね。人生最後の大仕事は、いかに自分の人生を全うして死ぬかということなんだよ」「死んで終わりにはできないからね」「必ず再生しちゃうけれど、きれいな心で死ぬば、その心に対応した良いところに再生するのだから、不安も恐怖もなんの怖れもなく、安らかに、安心して、きれいな心で死ぬんだよ」と、優しく、噛んで含めるように繰り返し話しました。死後の戒名を一緒に考えながら作ったり、実に明るく、楽しそうに、死んでいく話を毎日しました。これから外国旅行に行く計画を二人で話し合うような感じでした。
  私は、これを「死のレッスン」と呼んでいました。母が穏やかに、幸せに死んでいけるレッスンを毎日したのです。死ぬ直前の心が再生の心と直結するという理論も、表現や譬えを変えながら繰り返し説明しました。介護が始まって間もない頃、「お母さん、死ぬのは怖い?」と訊いたことがあります。そうしたら、「ちょっと怖い」という正直な答えが返ってきました。でも、毎日死のレッスンを繰り返し行なっているうちに、「全然怖くないよ。だって再生しちゃうんでしょ」と言うようになりました。こうしたことから、死を存在の抹消と捉えるよりも、再生の瞬間なのだと理解することで、安心して死ねるということがわかりました。輪廻転生論が思想として有効な所以だと思います。
  周りの者としては、死にゆく人に絶対に嫌な思いをさせないで、愛する家族に見守られ、手を握られながら、安心して穏やかに死ねるような情況を作るように心掛けることです。きれいな心で穏やかに死んでいける環境設定。これがポイントです。
  母の臨終が近づい頃には、パーキンソン病の影響もあったのか、食べ物を噛む力も弱まり、ほとんど話すこともできず、首を振ってイエス、ノーを伝える状態でした。母の意向を知るのが難しかったのですが、死期の近い母親の心を忖度し、何が一番の望みか考えて、母親が生涯最も大事にしていた親族や友人、知人に次々と電話をして、母との最期の対面の機会を作ってあげました。それが母の最良の死近心に通じるのではないかと思ったからです。また、何も話さず黙って傍らにいるだけでも安心するので、病床の側の椅子に座り、スマホで作業をしながら時々母と目を合わせていました。できるだけ意向に寄り添い、不満や不全感を持たないようにしてあげることですね。以上が、死者を看取る側のなすべきことです。


  第2のポイントは、看取りをする側、残される者が、いかにその死を受容するかです。愛する人を突然喪い、心が折れたように、深刻な悲嘆に苦しむ人たちも少なくないのです。この世で最も大切な人と別れを惜しむ暇もなく、突然、絆がブチ切れ、永遠に喪ってしまう悲劇を、人の心はなかなか受け容れられないものです。死にゆく人の看取りというものは、愛する人とゆっくり互いの人生を総括し合いながら、別れを惜しみ、ゆるやかに、かけがえのないものを手放していく儀式なのです。死んでいく者にも、残される者にも、双方にとって、最も大事な人と永訣するために必要な手続きではないかと思われます。
  私が八王子の道場を売却し、下館に道場を移転させるまでにまる1年かかりました。売れるまでにそれだけの時間を要したのです。その間、私にとってかけがえのなかった道場と別れを惜しみながら、別離と手放すことの意味を学びました。私の人生の花だった時代に、命をかけて修行し、大勢の人たちと瞑想合宿を行なった拠りどころを、「よく気をつけて」手放していきました。何百本もの栗林に囲まれ、四季折々の花と緑の豊かな、心から愛してやまなかった道場での記憶を反芻しながら別れを告げたのです。
  この眩いばかりの樹々の新緑をもう二度と見ることはない。これが見おさめだ。夏の夕暮れの木立ちを次々と輪唱するような蜩の鳴き声を聞くのも、これが最後だ。濃厚な油絵のような紅葉に陽が射し、黄葉が舞い落ちるのを見るのもこれが最後・・・と心に焼き付けながら、心おきなく、愛したものとの別離を完成させる時間を、天が与えてくれたと受け止めていました。
  その結果、未練というものはまったく何ひとつ残らずに、愛してやまなかった道場ときれいに別れることができたのです。・・・これが、愛する人や物や土地と別離する手本だと感じました。こうした別れを惜しむ時間を持てずに、突然もぎ取られるようにかけがえのない存在を奪い去られた方々が、受け容れることも整理することもできないまま、長く「悲嘆(グリーフ)」に苦しむのだと思います。


  3つ目のポイントは、もし親子関係や家族関係で問題があるなら、できるだけ早期に決着をつけておかないと、看取りや死の受容が破綻しがちだということです。私と母親との関係は幼少期から最後まで良好だったので、介護や看取りがどれほど苦しくても問題なく耐えることができました。しかし、多くの人たちが親に怒りや恨みを隠し持ちながら、問題と向き合わず、進展も解決もなくいたずらに時が過ぎ去り、気づいてみれば認知症の始まった親の介護を引き受けざるを得なくなっていたりします。
  こうした介護は、する方もされる方も非常に苦しく、逃げ出したいのに逃げられず、互いに傷つけ合い、悪いカルマを応酬し合う最悪の形になりがちです。そうなれば、死んだ後も心の問題は何も解決せず、死を受容しきれず、大きな骨が喉に刺さったまま自分も同じように死んでいくことになるでしょう。
  私は父親と最悪の確執があったのですが、仏教のダンマの力で乗り超えることができました。それ故に、かつて激しく憎んだ償いの想いを込めて、父親の最期の看取りをやり抜くことができました。死者との関係性がきれいに整理され、意味づけられていれば、その死の受容もうまくいくものです。
  最後に、死者は残された者の心の中に生き続けるのだと心に止めておいてください。一瞬一瞬の意志決定や自分の生き方の背景に、かけがえのなかった人が死んだ後にも暗黙の影響を及ぼし続けているものです。これを死者との「出会い直し」と表現している人もいます。あなたが誰かに無意識に優しくしてしている瞬間、心をよく観れば、あなたが祖父から可愛がられたときの印象が原動力になっているかもしれないでしょう。それは、あなたの祖父があなたの中で生き続けている証しではないでしょうか。
  昔、『孫』という歌謡曲が、誰も予想しなかったヒットを飛ばしたことがありました。Jポップ好きな女子高生にも不思議な人気があったそうです。その話を聞いた時、私はその理由を、女子高生たちが幼い頃におじいちゃんやおばあちゃんにものすごく可愛がられた記憶があるためではないかと思いました。その歌詞は、孫が可愛くてかわいくて、どうしようもないという内容ですよね。
  たとえ親子関係が最悪だったとしても、優しい祖父母にしっかり愛された経験があれば、子供はフォローされ、人間として一人前になっていけるのです。これまでに、ひどい家庭環境だったけど、祖父や祖母だけが救いだったと言っている人に何人も出会ってきました。まだ日が浅いので、祖父の死が受け止めきれないかもしれませんが、生きた人間が成長し続けるように、死者もまた残された者の心の中で変容し続けるのです。それを検証していってください。
 今月のダンマ写真 ~
釈尊年代記画布
 
N.N.さん提供


    Web会だより  

『瞑想8年目、日々是修行』Y.T.

  8年前から地橋先生のご指導のもと、最初の変化以降(「月刊サティ!20134月号」投稿)、さらにいくつかの変化があった。
  特筆すべきは、怒りの激減だ。職場にポケットカウンターを忍ばせ、怒りの感情を確認するたび、ポチッと押すことをやった。8年前には、一日100回以上あったものが、最近はゼロに近い状態になっている。因果論で怒りの恐ろしさを了解し、発する怒りは苦しみの裏返しということを体得できたからだろうか。他人の怒りに向けて自ずと慈悲が湧くこともある。
  いまだに回想されるのは10年前のこと。その頃は、義母や妻から「家出れば!」と罵声を浴びていた。あらゆることにおいて攻撃的な私は崩壊寸前だった。ダンマの学びから必死に視座の転換を図る。周囲に原因があるのではなく、そのようにさせる何かが自分の内にこそあるのだと。そして連日、慈悲の想いを注ぎ、ヴィパサナー瞑想に賭けた。時を経て一昨年。妻が、原始仏教に取り組む私の姿を見、私の歩みをそのまま受容してくれるように、そして惜しむように「出家でもするの」と、あの頃とは真逆の言葉を言ってくれるようになっている。
  ところが、反省しきりのエピソードもある。昨年の春先、妄想に疲弊し尽くしてしまったことだ。その発端は、遠く平成元年に遡る。同じ職場で、私と新人同士机を並べた女性がいて、4年間の交際後にプロポーズ。しかし、断られる。職場異動となりそのまま長い年月とともに記憶も薄れた。
  ところが昨年の春のこと、その女性が再び私と同じ職場になるという。それは前代未聞、県内数百もある職場で確率的に皆無。その時だ、若かりしかつてのマドンナが、思いのほか頭に蘇ってきてしまうこととなってしまった。数日間、妄想の甘美が襲い妄想に嘔吐しそうになり、現実生活が頓挫することも。
  4月、いよいよ25年ぶりに対面したのは、マドンナならぬまったく別人の容貌だった。その現実が妄想を木っ葉微塵に打ち砕いた。今、彼女は隣の机でマツコデラックス然として君臨している。妄想は気づいた瞬間にゴミ箱へ、と肝に銘じた一件だった。
  さて、この8年間の体調について。瞑想以前は、医療費が月ごと増えていくような健康不良体だったが、瞑想を始めて以来、体調は崩していない。生命を傷つけないようにし、半年に一度、朝カルの講座の前に新宿献血ルームに足を運び、月ごと医療ボランティアや動物保護団体へ寄付をしているからか。職場でも断酒宣言をした。「飲まなくとも、人生は酔うから」と軽口を叩いて。実際、人生など放っとけば自ずと二日酔いになるのではなかろうか。今、週末は、気づきを入れながらのジョギングを楽しんでいる。
  結びとして、一昨年亡くなった父について述べたい。私は父とはもの心ついてから親子の交流はなく、挨拶程度の言葉すらめったに交わした記憶がない。余りに無口無反応な父は、私に卑小な存在としてしか映らなかった。その息苦しさに高2で家を飛び出してしまった。数年後、父は倒れ、右半身不随失語症となる。その不自由な体で20年余りを過ごしていたが、しだいに食べることが困難になり、じっと横たわるだけとなり、意思表示も厳しくなっていった。いよいよの時、私たち家族は延命を望まず、父を見送ろうとした。しかし病院より、体に結核菌を有すので拡散を防ぐため、胃瘻によって服薬せざるを得ないと言われ、以来、薬と栄養が直接胃に注がれ続けることとなった。
  痩せさらばえる父の身近に添うこと4年が続く。ところがその日々は、私が求めていた親子の交流というものを初めて体験できたような不思議な感覚にとらわれる。そして父はその不器用な眼差しで、私を遙か昔からずっと見ていただろうことをも気付かせてくれることとなる。それなのに私は千万無量の心労をかけ続けてきたのだ。ひたすらに赦しを求め続け、懺悔の瞑想に明け暮れた。死の際に、遠く懐かしい父の声が心に響いた、「もういいよ。頑張れよ」と。私は嗚咽とともに合掌した。
  以上のような私のヴィパサナー瞑想8年間となる。掛け替えのない日々。ただしほとんどは反省ばかりで、遙かなる清浄道、一歩すら進めていないのではないか・・が実感だ。為すべきことに集中できない力のなさを省みつつ、ここで頑張るしかない。




☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

       いちごの花
 




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ダンマの言葉

非常に微細な執着の瞬間にも、ある程度の自己中心性(自我)は根強く存在しています。そのような瞬間は、自分の喜びのことなど考えない、寛容さを伴った無我の意識の瞬間とは異なります。私たちが立ちあがったり、動きまわったり、物に手を伸ばしたり、食べたり寝たりする時にも、執着はしばしば現れます。私たちは自分自身を気にかけ、自分を楽しませるものを手に入れようとします。他者が自分に親切にしてくれるのを期待します。これも執着の一つの形です。(ニーナ・ヴァン・ゴルコム「布施と寛容」、『月刊サティ!』20044月号より)

       

 今日の一言:選

(1)物言わぬ人が、黙って、ただそこに存在しているだけで伝わってくる可愛らしさと優しさ……。
  介護生活を通して初めて垣間見た母の姿だった……。
  いくつになっても、母に会えば、自分が愛されているし受け容れられているのは感じてきた。
  基本的に優しいタイプの人だという認識もあった。
  だが、もし母の介護にたずさわらなかったなら、母の存在そのものがひっそりと発している響きの価値を知らずに、告別の日を迎えていたことだろう。
  無限の過去から集積されてきた私の業とは、因縁も由来も異なるその響きに近づくためには、どれほどのものを削り捨てていかなければならないのだろう……。

(2)人は、必ず誤ちを犯すし、失敗をする。
  あらゆる事象から、学びを得ればよいのだと腹をくくる。
  しょせん夢のように消えていく楽受を貪っても心は成長しないが、ネガティブな事象は痛切な教訓を心に残してくれる。
  人も、物も、出来事も……、無言で、力強く教えてくれている……。

(3)自分に落度はなかったか、と常に振り返ってみる。
  ……人はあやまちを犯すものだ。


       

   読んでみました
トーマス・ギロビッチ、リー・ロス著『その部屋のなかで最も賢い人』
                              (青土社 2019年)
  著者のトーマス・ギロビッチはコーネル大学の、リー・ロスはスタンフォード大学のそれぞれ心理学教授。40年にわたる、主に社会心理学と判断・意志決定の分野における研究による本書は、人と社会の心理と行動をさまざまなデータによって明らかにすることを主眼としている。そこには、実に多くの実験や報告の実例が示されており、これまで漠然としていたものに鮮明さを与えてくれる格好の書としてここに紹介したい。
  もともと書物に傍線を引くのは好まないのだけれど、本書を読み進めるとおもわずそのことを忘れてしまうような箇所が頻繁に出てくる。そこで、傍線の代わりに付箋に短いメモを書いて貼ってみたが、今度はそのために本の上部が飾りのようになってしまう結果となった。
  本書は2部構成になっている。その内容は、「訳者あとがき」で簡潔にまとめられているので、先ずはそれを引用する。
  「・・・たとえば本書の第1章では、『自分よりゆっくり車を走らせているやつはバカで、自分より速いやつはイカレてると思ったことはないか?』と読者に問いかけ、私たち人間には、自分は物事をあるがままに客観的にとらえていると思い込む傾向(「素朴な現実主義」)があると指摘する。そのために、正しく認識をしているのは自分の方ほうであり、他の人々の認識か間違っていると決めつけてしまうというのだ。(中略)
  本書の前半(第1章から第5章)では、このような客観性という幻想や、選択肢の提示のしかた(オプトイン方式、オプトアウト方式)【注:編集部】が行動にいかに大きな影響を与えるか、行動が感情に影響を与える仕組み(行動の優位性)、イデオロギーや先入観のために物事を歪んで見ていること(偏り/バイアス)など、人間の認識と行動に見られる基本的なパターンを紹介していく。後半(第6章から第9章)では、こうした原則をふまえて、個人や社会が直面する問題(人生における幸福感、成績不振、国家間の対立、気候変動問題)に、どうすれば賢く対処できるかを説いていく」。
  私が特に興味を持ったのは前半、第1部であった。
  第1章「客観性の幻想」であげられた例には次のようなものがある。「食べものが『辛すぎる』とか『まったく味気かない』とか言うときには、自分の味蕾や、子どもの頃に食べた物、自分の育った文化にある料理についてではなく、その食べものについての意見を言っていると思っている。そして、他の人の意見が異なると、・・・あなたは、この人の好みがこんなに変なのはなぜだろうと不思議に思う」。
  これと同じことが、部屋の設定温度、音楽のボリュームなど、「あり得るなあ・・」と思われる例が示され、それらについて、「変わっているのは自分の方だと結論づける事例を思いつくこともできるだろう」が、それは「ただの例外にすぎない」ということだという。なんとなく納得させられたような気になる。
  つまり、私たちには「世界に存在する物を感じ取った内容を、主観的な解釈ではなく客観的な解釈であるとして扱う傾向が」あって、それが「人間のあらゆる種類の愚かさの根源」となっているという。そして、「私たちが見ている色は、私たちが知覚する物体の『そこに』あるのではなく、そこにある物と、私たちの感覚システムの働きとのあいだの、相互作用の産物」だということは、まさに認知について言われていることにほかならない。
  この章の後半では、こうした見方をさまざまな実験によって検証している。例えば、どこかの単語1つを聞こえずらくしてある文章を聞かせた時には、無意識のうちにその文脈に沿った単語をそこに埋めてしまうということなどである。つまり、人は、示された感覚信号の隙間をそれと気づかずに埋めてしまうのだ。
  あるいは、何かの行為をした人が、「私のような立場に置かれて、そうしたシナリオを突きつけられた人なら誰でも、まったく同じことをしたでしょう」という発言をしたとすれば、それは、「他の人たちと自分の見解や行動の選択が同じものになる程度を過剰に見積もっている」のであって、著者はそれを「素朴な現実主義」と名付けている。
  メッセージボード(例えば「ジョーの店で食事しよう」と書かれた)を提げてキャンパス内を歩き、出会った人たちの反応を記録するように依頼した実験では、その実験に参加することに合意したか、あるいは断った直後に、他の学生がどうするかの割合を推定し、合意する人と断る人の性格を推定してもらった。その結果は、依頼に合意した学生は合意する人の方が拒否よりも多いと推定し、そうした対応からは個人的な性格はあまりうかがえないと回答したが、断った学生はその逆であった。
  また、60年代の音楽と80年代の音楽のどちらかが好きな人の場合、いっそう多くの人が自分と同じ年代の音楽を好むだろうと考えるし、政治的な題材に対しても同じことが働いているという。
  このほかにも本章では、いくつかの実験と他のデータ、例えば選挙における客観性とバイアスの関係、自身の個人的な経験の判断に対する影響、討論における客観性、等々、さまざまな素朴な現実主義があげられている。そのうえで著者は、「自分と異なる見解を持つ人は、まったく異なる判断の対象に反応しているのかもしれないと認識できないことから、誤解が深まり、対立が長引く恐れが生じる」と述べ、そしてそこで重要なのは、「少なくとも、事実と解釈についての意見の相違と、価値観や好みについての意見の相違を区別」することが重要であると主張する。
  第2章の「状況の押しと引き」では、通りに面した庭の芝生に「『安全運転』と書かれた看板を立ててもらえませんか」という頼みに対する反応の実験に始まる数々の事例によって、「人は状況による微妙な影響をもっと受けやすい」ことがわかり、第3章「ゲームの名前」でも、フランクリン・D・ルーズベルトの署名した法律をとっかかりに、「人がどのようにその状況を解釈するか。(略)すなわち、自身の経験や価値観や目標という観点から見て、さらには関係していそうな社会規範に照らして、状況が自分にとってどのような意味をもつかということ」が重要であるかを論じている。
  そして第4章「行動の優越」においては、心の行動の心に対する影響について述べているが、これは、私たちの日常生活のみならず仏教を学ぶうえで大いに参考になると思われる。ここで示された実験のうち二三の例をあげれば、「ペンを噛んで『微笑み』の表情を作らせ、またある実験では、ペソを唇にはさみ微笑みを作らないようにさせた。行動のしかたによってもたらされた手掛かりが感じ方に影響するという考えと合致して、微笑みなから漫画を見た学生たちは、しかめつらに近い表情で漫画を見た学生たちよりも、その漫画をはるかにおもしろいと感じた」という。
  また、地球温暖化による脅威については、「質問をしている部屋の温度に変化をつけた。特別に暖かくした部屋で質問された人は、寒い部屋で質問された人よりも、地球温暖化ははるかに深刻な問題であると考えると回答した。実際のところ、暖かい部屋にいて、政治的には保守派あると自認している人たちが、寒い部屋にいて、リベラル派であると自認している人と同じくらい、地球温暖化への懸念を表明した。さらに、被験者たちに地位の高い人や低い人、権力を持つ人と持たない人と関連した姿勢を取らせた時には、テストステロンの濃度とストレスホルモンのコルチゾール濃度の上がり方と下がり方に差が出た。
  これを就職の模擬面接に応用した実験では、「面接の前にパワーの強い人の姿勢をまねていた被験者たちは、パワーの弱い人の姿勢をまねた被験者たちよりも、面接において強い印象を残し、仕事を与えるのにいっそうふさわしいと評価された」ということだ。
  このように、行動が信念に影響を与えることが示されている一方、また、「ひとたび特定の信念と一致するようなやり方で行動すれば、その信念を指示する気持ちが」涌いてくるという。さらにそれが快楽の体験と関連する脳の領域とも結びついていることが示される。
  「被験者たちに少量のワインが与えられた。一部の被験者には、そのワインはボトルで90ドルすると告げられ、残りの被験者には10ドルすると告げられた。高い値段のワインを飲んでいると思っている被験者のほうがワインをより高く評価したということを知っても、みなさんは驚かないだろう。この実験からは、こうした評価だけでなく、fMRIの記録が、被験者が値段の高いワインを飲んでいると思っているときに、快楽の体験と関連する脳の領域において活動が活発になっていることを示していた、ということもわかった」。
  第5章「鍵穴、レンズ、フィルター」では、日常生活に見られる判断の間違いは、正しい答えを出すよりも、誤った答えが直観的に簡単に見つかるためであるという。やや長いので、ここでは一つの実験だけ紹介する。
  「被験者は、次のような人物について書かれた文を読んだ。
  リンダは33歳の独身で率直な話し方をするとても聡明な人だ。学生時代には哲学を専攻し、差別や刑事司法の問題に深い関心をもち、反核デモに参加したこともある』

  被験者はそれから、リンダがその後の人生において、さまざまな活動や職業に従事した可能性がどれくらいあるかを答えさせられた。とりわけ、次のような活動や職業に就いた可能性の順位を付けるように求められた。小学校の教師、精神障害者のためのソーシャルワーカー、女性有権者同盟のメンバー、フェミニスト運動の活動家、銀行の出納係、保険外交員、フェミニスト運動を行う銀行の出納係。
  回答において目立った点は、ほとんどの被験者が、リンダは単に「銀行の出納係」であるよりも『フェミニスト運動を行う』銀行の出納係である可能性が高いと考えたことだった。リンダは、銀行の出納係について私たちがもつイメージにはしっくりしないように感じられるが、フェミニストの銀行出納係としてのイメージなら容易にわいてくる。フェミニスト運動についてリンダが関心をもっていることを考慮に加えれば(彼女の明らかな政治的傾向についてわかっていることからすれば、その可能性が高いようだ)、この組み合わせはもっとしっくりくる。
  だが、ほんの少し考えてみれば、それは正しいはずがないことに気がつく。『銀行の出納係でフェミニストの運動を行う』人は誰でも必ず銀行の出納係であり、したがって、前者のほうが後者よりも可能性が高いということはありえない!」これは論理学の基本である。二つの事象の結びつき(銀行の出納係でなおかつフェミニスト運動を行っている)が、構成要素単体のどちらかひとつ(銀行の出納係、フェミニスト運動を行っている)よりも可能性が高いことはありえない。
  しかし、この問題について論理的に検討した後でさえ、間違った回答がなおも正しく感じられる。そのうえ正しい解答はそれほど難しいものではなく、間違った(そして直観的な)解答はあまりに簡単だ。ちょうど、著名な古生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールドが語ったように。『私はこの例が特に好きだ。三番めの陳述[フェミニストの銀行出納係]がもっともありそうにないことはわかっているのに、頭のなかにいる小さなホムンクルスが、ずっと飛び跳ねながら私に向かって叫んでいる――『でもただの銀行の出納係であるはずないぞ、説明の文を読んでみろ』」。

  そして、「賢い人はどのような段階を踏んで、関係するすべての情報を確実に手に入れるのかさらに、賢い人はどうやってペースを緩め、迫ってくる直感を無視すべき時を見極めるのか。賢明さの重要な要素は、まさに、いつ直感を信じ、いつ用心深くあるべきかをしることなのだ」と結んでいる。
  このほか、まさに仏教の「見」の見本となるようなもの、正しい評価を下すための事例、予言の自己成就の例、等々、スペースがいくらあっても紹介しきれないほど内容が膨大で、かつ興味深い。
  第2部では、個人や社会が直面する重要な問題について述べているが、ここでは簡単に紹介するにとどめる。第6章は、人間の幸福を心理学的にどう捉えるか、第7章は自分の欲求と意見の異なる人々の欲求との対立について、第8章は教育における難題、第9章は、気候変動というさらに大きな難題について論じている。
  おおかたの本は図書館から借りて読んでいるけれど、本書だけは例外的に購入してしまった。なぜかというと、内容的なことに加えて繰り返し読むことで新しい発見がありそうに感じたからである。今回は引用があまりに多くなってしまったが、それは、解説を加えるより直接的に面白さが伝わると考えたためである。人の行動とその心理について興味を持たれる方、あるいはそのことを話題として取り上げる機会のある方々にはぜひお勧めしたい一冊であった。(雅)

【注】多くはインターネットと関連するかたちで使われているが、ここでは、オプトイン(opt in)とは、自らの意志で参加を表明すること、オプトアウト(opt out)とは、参加をやめることを表明しない限り同意している、と言う意味で使われている。(編集部)

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