2019年2月号 | Monthly sati! February 2019 |
今月の内容 |
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 今月のテーマ修行上の質問:理論編(2)-ウペッカーの育て方- |
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ダンマ写真 |
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Web会だより:『人生が集約する瞑想』(後) | |
ダンマの言葉 | |
今日のひと言:選 | |
読んでみました:『宿命の戦記 -笹川陽平、ハンセン病制圧の記録-』 |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて頂 きます。ご期待下さい。 |
今月のテーマ:修行上の質問:理論編(2) -ウペッカーの育て方- |
(おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 |
Aさん:ウペッカーは聖なる無関心と訳されたりしているとのことですが、それと単なる無関心とはどのような違いがあるのでしょうか。また、なぜそのような心が大切なのでしょうか。 |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
N.N.さん提供 |
『人生が集約する瞑想』(後)T.Y. |
昔から、訳もなく寂しい、疎外感のようなものを何となく感じていました。どうしてこんなにしーんと寂しいのか? どうしてこんなにひがみたくなるのか不思議だったのですが、わからないままでした。母のことを思っても、母に不満はないはずでした。
「幼少期の愛着障害の問題がありませんか。本当にお母さんに不満はないのですか?」と先生に訊かれました。 瞑想していると、幼少期の忘れられない思い出が蘇りました。母と弟がいつの間にかいなくなり、私は、母が嫌っていた祖母(父の継母)の膝に抱かれてテレビを見ていました。私は置き去りにされてこれは大変!と駆け出し、弟にミルクをやっている母を見つけました。そして私もミルクをもらうのでした。ミルク代が嵩むので、母はこっそり弟にミルクをあげていたのでした。私は何も分からず、弟ばっかり可愛がられていると思っていました。その頃母は舅姑に大変いじめられていました。ぼんやりと分かっていましたが、寂しい私は祖母や近所のお婆ちゃんの所に遊びに行って紛らわしていました。 瞑想会の後、思い切って母に、「小さい頃弟ばっかり可愛いがられて、もの凄う寂しかってんで」と話しました。 「そら、すまんかったな。実はなあ、お祖母さんに懐くお前が憎らしかってん。虐待しそうやった」 母が涙ながらに話しました。私はびっくり!幼い頃の私は、聖母マリア様を見るように母を見ていました。母は平凡な人生経験も浅い女性であるというのに。 大好きなお母さん、想像できないほど辛く悲しい日々だったんだね。私を虐待したってかまわない、それでお母さんの気が晴れるなら・・そんな気持ちが湧いてきて私は母を抱きしめていました。 言ってもらってスッキリし、得心しました。私の寂しい気持ちの理由が分かりました。いつの間にか寂しさを忘れていました。 「でもな、おかあちゃんも小さいとき寂しかってん。おばあちゃんが弟を産んだ後、歳の離れた姉さんの嫁ぎ先に預けられてて。小学校に入学するので家に戻ったけど、最初はなにか馴染めなくて、いつも一人で川を見に行ってたんよ・・」 歴史は繰り返すのだと思いました。 「平等性に問題があったとしたら、自分も過去に人を差別し、平等に扱わなかったはずなのですが・・」と先生。 しました!してます!お寺に生まれて、仏道を歩まずんば人に非ず、なんて感じでした。人の欠点を見つけ喜んで、人の不幸に同情しつつ自分の幸せを喜ぶ。人にしたようにされる、です。 母に命をもらい、父に人生をもらったような気がします。そして、私の悩みは親の悩みでもありました。 一日瞑想会で歩行瞑想を見て貰いました。「間の取り方がうまく出来ていませんね」と先生。後でどういうことなのか考えていました。間が取れてないって・・。「これは瞑想が全部出来ていなかったんだ!!」「概念で瞑想しているんだ」と気付きました。「ああか?」「こうか?」と考えて感覚をちゃんと取れていなかった。また、ラベリングのあとで次の一歩に移る前に、一拍間を取るのを軽視していました。そう気付いてから、しばらくは感覚が良く取れました。注意されるとは良いものですね。 「セオリー通りにできているんだけど、瞑想する覚悟のようなものがねえ」。 最近の1Day合宿で先生に言われました。最後のまとめの時間で、他の参加者の方から、「わざわざ奈良から来られたんですか?どうして?」と聞かれ、「帰りにデパートにも寄れますし」と思わず答えました。照れ隠しの積りでしたが、「私は遊びで瞑想してる!」と思いました。やるぞという心構えは昔から無い。何となくやるのですが、真剣さは少ない。瞑想で流れが良くなると、快楽的なものに溺れていました。瞑想が趣味になり、遊びになっていました。苦しい瞑想を続けるか?やっぱり求めている快楽の方へ行くか?分からなくなって来ました。 「考えるより、身体に任せよう」と決めました。何も考えず、自然に任せました。すると、日常の瞑想が出来る時が増えました。感覚が少し鮮明になりました。50:50の取り方や中心対象への戻り方が甘かったとも気付きました。 要するに、身体は瞑想を止めなかったのです。びっくりしました!身体の選択に任せて瞑想を続けることにしました。しかし、気づきは直ぐに薄まり忘れてしまいます。いつまでも変わらないエゴの塊の私が、ドーンと居坐っているようです。ただ、嬉しいことに、家族が穏やかに、幸せそうになってきたのです・・。 以上がボチボチ瞑想を続けている私の歩みです。また、今回この文章を書くことで、気づいたことや整理出来たことがいっぱいありました。機会を与えて下さって、感謝いたします。(完) |
☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。 |
役に立つものや人を喜ばすものを与えることは、布施(寛容)の行ないです。しかし、外側に現れる行為だけに目を向けていては、心から寛容であるかどうか分かりません。行動を動機づけている心について、私たちはもっと学ばなければなりません。真の布施(寛容)とは難しいものです。 何かを与えているとき、私たちは良いことや崇高なことばかり考えているとは限りません。与えようとする動機がすべて純粋なものとは言えないのです。何らかの見返りを期待したり、相手から好意をもたれようとしたり、寛容な人物であると思われようとしたりなど、利己的な動機で与えることもあります。(ニーナ・ヴァン・ゴルコム「布施と寛容」、『月刊サティ!』2004年4月号より) |
『宿命の戦記 ―笹川洋平、ハンセン病制圧の記録―』高山文彦著 (小学館 2017年) |
「すごい人がいるな!」と思わせた本書は、地球規模でハンセン病の征圧に全力を注いでいる日本財団会長笹川陽平氏の活動に、足かけ7年間20カ国で密着取材した大部の記録である。1年の3分の1を海外活動に充てている笹川氏の差別撤廃の運動は、「国連総会決議に結実し、各国に提示するガイドラインも承認された。彼がいなければ、各国のハンセン病対策と差別の緩和は100年遅れただろう」と著者は述べている。氏は2001年にWHOから、国連大使と同級の立場と権限を有するハンセン病制圧大使に任命された。
すでに知られているように、ハンセン病は癩菌によって生じる病気であり、伝染率のきわめて低い伝染病で、1981年に3種類の薬を同時に処方する多剤併用療法MDTが開発され、現在ではほぼ完璧に治癒可能になっている。1995年から99年までの5年間、日本財団がこの治療薬を無償提供し、200年以降はMDTを作っているスイスの製薬会社ノバルティスが無償提供を引き継いでいる。 しかしながら、ハンセン病それ自体では死の原因とはならないが、侵された患者は姿形、外見が著しく崩れていく。そのため日本では業病とされたり、キリスト教世界では神の罰といった差別を受けてきた長い歴史がある。 笹川陽平と日本財団は、1974年からハンセン病制圧運動に本格的に乗り出している。彼を動かしているのは何か。それは差別に対する怒りであり、差別との戦いであると言う。 「僕がこうして世界各地を回ってハンセン病の撲滅、差別の撤廃を訴えているのは、(中略)父が受けた差別を晴らしてやりたい、と言う思いがつよいからなんです」。彼の父笹川良一は、右翼の大物、A級戦犯(正確にはA級戦犯容疑者であって無罪放免された)、博打の胴元をやってその金で慈善事業・・・という具合にマスコミからこぞってレッテルを貼られていた。 彼は父に名誉毀損で訴えましょうと何度も言ったという。「そのたびにあの人は言うんだ。おまえ、なに言ってんだ。書くやつらだってメシ食って、女房子どもを育てなきゃならないんだぞ、てね」。良一氏には自分が差別されている意識はなかったという。彼は、父に対するレッテル貼りがいかに虚妄であったかを明らかにするために、東大の伊藤隆氏に依頼して7年掛けて父の資料を整理していった。誤ったレッテルで差別された父を正しく理解して欲しい、彼の事業はこの情念から出発している。それが、「するどい感性に裏打ちされた実感豊かな行動となり、(中略)力強いメッセージ性を帯びるであろう」と著者は記している。 笹川氏のブログ(2017年2月8日)によれば、「記録に残っている1982年から2016年までの34年間に訪問した国・地域は119カ国、海外出張回数は466回、滞在日数は2954日、面談した国王・大統領・首相は181人を数える」という。本書の著者が本書でレポートした国、地域名を列挙すれば、インド、エジプト、マラウイ共和国、中央アフリカ共和国、ブラジル、ロシア、キリバス共和国、バチカン市国、そして中央アジア、西ヨーロッパ各国である。 行く先々では、直接患者に触れ、抱き合い、時には優しく激励し、また時にはそこでの為政者、担当者に対して厳しい言葉をかけている。 エジプトでは、テレビ局のインタビューで、「人類はたくさんの過ちを犯してきました。わけてもレプロシーの問題は、人類史にとって大きな籠の歴史です。人間として認めてこなかった。こんなことがあっていいのか」。そして老人の手をなぜながら、「この人の手はあたたかいし、血が通っています。こうして握っていても、病気は決してうつりません。まして、神様の罰だなんて信じたり言ったりすることは大きな間違いであると、テレビを見ているみなさんによく知っていただきたいのです」。そして、「社会は治った人を受け入れて欲しい」と。 成功例がある。インドのチャティスガール州ライプールでのコロニーでは、優秀なりーダーによって立派な成功例が生まれている。 「回復者代表のボイ氏が、その隣から顔を出して、 『ここのコロニーは、じつはたいへん素晴らしいところなんです。お医者さんがふたり生まれています。IBMでソフトエンジニアをやっている人もいます。博士もでています』 『へえ、そうなの』 『それだけじゃないですよ』と、運転手氏が付け加えた。 『外の町から健康な若い女の子がやってきて、尊敬するコロニーの若い男の子と結婚しました』 『へえ、そんなことがあるの!』陽平の声は絶叫に近かった」。 インドでは、ダリット(自分たちの呼び名。マラティ語で「砕かれた者」「虐げられた者」という意味。アウトカースト)に属せられた若者が、どんなカーストにも属さない職業のIT技術者を目指すのは当然なのだ。 もちろん成功例ばかりではない。むしろこちらの方が多く、より深刻である。訪問先で元、現罹患者のインタビューが行われているが、その一つ、ブラジルアマゾンの奥地でその人たちが受けてきた扱いは、「収容所(このように彼女は言い換えた)の生活は、動物と変わらぬような」ものであった。これらり類する事例はとても膨大で、本書のあらゆる所に取り上げられており、とてもここで紹介し切れるものではない。 「制圧」とされるのは、1991年にWHOが示した、「国民1万人当たりの患者数が1人を下回った状態」を指していて、これを達成すると拡大を押さえ沈静化できるとされている。しかし、国全体のデータはそうであっても、州や地方によってその数字は大きく異なっているのが普通であるし、また調査が進んでいないために低く出ている場合もざらである。表に出ない患者数はまだまだ多く、毎年新しく患者も発見され続けている。調査と正確な情報がいかに重要性か、本諸で繰り返し強調されているのもそのためである。 ハンセン病対策には、国や地方組織の対応が肝心であり、またそれに熱意を持つ人々がいるかどうかに大きく左右される。消極的な政府要人もいれば、その反対に積極的に取り組む為政者、そして献身的な医師、看護師、その他たくさんの人々がさまざまな人間模様を見せている。 最後に、高山氏によって書かれた補遺は、この病に対する日本の歴史をめぐって詳細な考察がなされており、それだけでも一読する価値がある。また、家族関係者の国に対する集団訴訟に関しては、ものの見方のバランスという点から考えさせられた。 大部にも関わらず中身が非常に濃く、かつ多様で幅広く大量の情報が含まれている本書は、やや無謀とは思いつつあえて紹介したいと思った。なぜなら、もし自分であったら、家族であったら、知人であったらどうか、そして、無差別平等の厳しさについて考えさせられる一冊だったからである。(雅) |
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