2019年1月号 | Monthly sati! January 2019 |
今月の内容 |
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 今月のテーマ:ラベリング(3) |
|
ダンマ写真 |
|
Web会だより:『人生を集約する瞑想』(前) | |
ダンマの言葉 | |
今日のひと言:選 | |
読んでみました:『脳は回復する』 |
『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。 |
おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて頂 きます。ご期待下さい。 |
今月のテーマ:ラベリング(3) |
(おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 |
Aさん:適切なラベリングの仕方を教えてください。
アドバイス: ヴィパッサナー瞑想は「心の清浄道」を完成させるための技法です。これは人格完成の道と同じような意味になりますので、瞑想者の人格や才能や実力の段階によって修行のやり方が異なってきます。プロ野球選手の練習と中学の野球部の練習は違うようにです。 サティはシンプルな技法ですが、瞑想を進歩させていくためにはその時々の修行のやり方があります。サティを入れる一瞬一瞬、どのようにラベリングするかがとても重要になるのです。まず初心者が最初にやるべきことは、サティという意識モードをいかに持続させるかです。ホームランを打つためには、まずバットの素振りから始めるようにです。心に触れた情報の中身に手を出さず、サティを入れ続けることを第一に取り組むのです。どんなイメージや思考が浮かんでも「妄想」「雑念」とサティを入れて中心対象に戻し、どんな音に対しても「音」「聞いた」とラベリングして相手にしない覚悟が大事です。 こうしたラベリングは、対象に深入りせずすぐに撤退するので「撤退型」と呼ばれ、初心者が最初にやるべきやり方です。情報の内容は無視して機械的に「音」「妄想」と定番のラベリングを入れて見送ってしまえばよい。とにかくサティの持続が最重要と考えます。こうしてまずサティの脳回路を安定させてから次の仕事に移ります。「撤退型」から「特化型」へ切り換えるのです。 「特化型」のサティというのは、一瞬一瞬の対象を正確に、詳細に観察し洞察していこうとする意識の張り方です。「撤退型」のように切れ目のないサティの持続を重視するのではなく、一つひとつの対象を詳細に観察し鋭く洞察するのを心がけるのが「特化型」です。情報の中身から撤退する努力をやり続けていたのでは、当然のことながら、物事の本質も自分の心の汚染も見えてきません。機械的にサティが連続するだけでは、瞑想が深まらないのです。 この「特化型」のサティになると個人差が大きくなり、ラベリングの技術や瞑想のセンスが問題になってきます。一瞬一瞬の現実にありのままに気づいていく仕事は、そのとき経験されたことをどうラベリングするかという認識の問題になってくるからです。 例えば、雑念はすべて「妄想」の一語で済ませていた人が、目を凝らしてよく観ると怒り系の妄想なのか、欲望系の妄想なのか、自慢話系の妄想なのか、妄想や雑念の詳細に気づくはずです。微かなレベルであっても、妄想が浮かんだ瞬間イラっとしていたり、ムラッとしていたり、何か情動が立ち上がり始めていたりします。このあたりを見逃さず丁寧にサティを入れてラベリングすることによって、自己客観視が深まり、心の変容につながり、瞑想が心の清浄道に直結してくるという訳です。人格的成長の度合いや瞑想センスなど個人差が大きくなり、ヴィパッサナー瞑想がちょっと高度なものになってきます。 ヴィパッサナー瞑想を深めるためには、事実を正確にあるがままに観る訓練と、それを言語化する練習のどちらも大事です。どうしたら適切なラベリングが付けられるか。原則として、サティの瞑想をする時間帯とは別枠でラベリングの練習はやった方がよいでしょう。ひと度サティの瞑想を始めたら、思考モードを離れてナンボの世界ですから、ラベリングの言葉選びを考えている余裕はありません。たとえ100%的を射た言葉ではなかったとしても、その瞬間浮かんだ言葉でラベリングするしかありません。不完全な印象が気持ち悪い、もっと適切なラベリングを・・と感じる人は多いのですが、残念ながらその程度のラベリングしか浮かんでこなかったのがその時の実力だったのです。ありのままに認めるしかないでしょう。瞑想を中断して言葉探しを始めるのは本末転倒です。 サティの瞑想を始めたからには、たとえラベリングについての思考であっても「妄想」であり脱線です。その場は「不完全」「不満足」「(気持ち悪い)と思った」とサティを入れてしのぎ、瞑想をいったん終了させてから、緻密に考察するのです。もっと適切なラベリングがあったのではないかと反省し、最適な言葉を吟味し、時に辞書を引いてみたりするとよいでしょう。普段から言葉の使い方に敏感になることが大事ですね。本を読んでいてもテレビを見ていても、素晴らしい表現やドンピシャの言葉に出会った時はメモを取ったり、メールを書くとき特に件名を付けるのが一番良い練習になります。これから送信するメールの内容を一言で表わしているようなタイトルは、ラベリングを付ける瞬間と酷似しています。 瞑想中の心がけとしては、多くの人が一度ラベリングの言葉を決めてしまうと毎回それで済ませようと定番化してしまうことをやりがちですが、あまり良くありません。人の心は毎回多くのエネルギーを費やして綿密な観察をするのを嫌い、なるべく低コストで済ませたがる傾向があるので、苦労してやっと確定したラベリングなら何度も使い回しをしたくなるのです。しかし現実の経験というものは二つとして同じものはなく、常にその瞬間の一回性のものなのです。ざっくり見れば似たような現象だからと、毎回定番のラベリングで括ってしまうのは「ありのままに」の現実から遊離していきます。事実と微妙にズレ込んだ概念のフィルターでいい加減に、曖昧に、不正確に、観ているだけになってしまう恐れがあります。 このあたりに瞑想がマンネリ化していく要因の一つがあります。目に思い込みの鱗をくっ付けて人生をやり過ごしているうちに、現実に目を叩かれてポロリと鱗が落ちて愕然とする普通の人と変わらなくなるでしょう。人の心は毎回多大なエネルギーを費やして観察したりせず、なるべく低コストで済ませたがる傾向があるので、どうしても初体験の新鮮さで毎回丁寧にラベリングするようにはならなくて、単純化していこうとします。つまり、一度ラベリングの言葉を決めてしまうとそれでいこうとなるわけです。そうすると、観察そのものもあまり精度が上がらず、マンネリ化していい加減になり、機械的に概念のフィルターをかぶせて観ているだけというようになってしまう恐れがあります。 例えば、お腹の中心対象に本当に集中し丁寧に観察すると「一回ごとに微妙に全部動きが違うことに感動しました」というレポートになったりします。何万回も感じて飽き飽きしているセンセーションなのに、新鮮な観察眼を働かせることができるのが、才能であり根性なのです。毎回なぜ瞑想をするのか、サティがなぜ大切なのか、を問い直し、心を新たに取り組んでいる人がそのようになっていきます。 最後に、中心対象の歩行や腹部のセンセーションはラベリングが定番化していても、観察そのものが丁寧になされていればあまり気にしなくてもよいでしょう。観察がマンネリ化していなければ、身体感覚の言語化にエネルギーを費やしてもあまり意味がありません。問題は中心対象以外の現象、音や妄想や匂いや特に心の状態にサティを入れる一瞬です。この瞬間のラベリングがマンネリ化し定番化していると、これまで述べてきたような瞑想の堕落になりかねません。音や匂いや妄想にどう反応したかの一瞬に、自分の本音や心の闇が見え隠れするものです。「特化型」の瞑想は、鋭い自己客観視で心の清浄道を深めていくのがポイントですから、ラベリングの言葉選びは慎重であるべきなのです。 Bさん:似たりよったりのラベリングになってしまうのですが。 アドバイス: はじめのうちはそれで結構です。これからボキャブラリーを増やすように心がければ良いのです。 私は若いころ類語辞典を読むのが大好きでした。一つの言葉の類語を見ていくと、微妙にずれていながらもこんな言い方があるのかという発見があって、とても面白かったことを覚えています。私がボキャブラリーを増やすことができたとすれば、そのお陰も大きかったと今でも思っています。 人は使う言葉の角度からものごとを認識します。ボキャブラリーが豊かになれば、当然ものごとの見方が多角的になり、異なった切り口から新しい発想が閃く可能性も増します。言葉が変わり意味が変われば、認知も影響を受け認識が変化しやすくなります。頑固に紋切り型の一つの言葉に執着している人は、その角度からしか物が見えないのと同じでしょう。発想や視座が変わる瞬間の現場は、言葉が変わるので見方が変わるのか、視座が変わり見方が変わるので認識の言葉が変わるのか微妙です。いずれにしても、語彙が豊富で表現の豊かな人の方が、多彩な見方ができる可能性が高くなります。適切な表現が見つかるまでのプロセスも、ピタリと最適な文言が見つかる確率も、その速度も速くなるのも、言語能力の高い人の方が有利でしょうね。ラベリングの練習や補強は、セオリー通りサティの瞑想の修行現場とは別枠でやりましょう。 Cさん:自分の感情について正確にラベリングできたかどうかはどのようにわかるのでしょうか。 アドバイス: 真っ芯に当たったホームランのように、ヒットしたラベリングには一発で現象を雲散霧消させる力があります。妄想も感情も音も眠気も・・どんな対象も、サティを入れた瞬間劇的に消えていくことに衝撃を受ける人も多いですね。鮮やかな体験なので、瞑想のモチベーションが俄然高まるでしょう。 私たちの心はその瞬間瞬間の現象に巻き込まれ執われて、熱く反応していることに気づかないものです。しかるにサティという正確な客観視ができた瞬間、居眠りからパッと目覚めて現実に帰ったようになるのです。執着していたものを手放すとはこういうことか・・と感動するでしょう。ぜひ体験して検証してください。 適切なラベリングは、正確な認識に由来するものです。ただ瞑想の時間を多くすれば良いというものではありません。普段からものごとを正確に認識するように心がけることが第一です。よく注意すること、多くの情報を得ること、疑問を曖昧にしないこと、きちんと考察して納得すること、対象についてよく知ろうとすることです。 良い瞑想が良い人生に通じているのは、日々丁寧に注意深く生きてる人に正確な認識も智慧も生じやすく、適切なラベリングができるし良い瞑想ができるものだからです。 ラベリングには複数の機能があり、代表的なのは、経験に意味付けをして認識する作用です。「ラベリングの認識確定効果」と私は呼んでいます。例えば、何かモヤモヤしたネガティブな情動がうごめいていると感じても名辞(ネーミング)できなければ、自分の感情が何なのかわからない状態です。しかし次の瞬間、これは「嫉妬だ」「自己嫌悪だ」「怒りだ」と言葉が浮かべば、その状態が意味付けられ認識が確定します。複雑な心理状態や情動になるほど、言葉が浮かばなければ自分の状態も不明なままになります。心は立派に嫉妬したり怒っているのに、当の本人はモヤモヤしていてよくわからないのです。本心が嫉妬していることに、エゴの自分がハッと気づく。「嫉妬」という言葉が浮かんだ瞬間、「嫉妬していた」ことに気づけたのか。「嫉妬」と認知できたので「嫉妬」という言葉が浮かんだのか。因果が同時の印象です。 嫉妬であれ怒りであれ、その瞬間の自分の状態を対象化して気づいている。これがサティであり、「メタ認知」とも呼ばれる気づきの瞑想です。一瞬一瞬の自分の状態を明確に自覚するには言葉が不可欠であり、これが「ラベリングの認識確定効果」です。 さて、「怒り」とラベリングすると、ますます怒りに巻き込まれて消えていかないという質問ですね。これは、ラベリングによって現状が明確になると次の心、そのまた次の心が「怒りの状態」をさらに鋭く認識し続けてしまうからです。 認識を明確にするだけではなく、ラベリングのもう一つの機能が、この状態をさらに強化していきます。言葉には対象に意識を向けさせる力があり、私は「対象指示性」と呼んでいます。「怒り」とラベリングすると、次の心がピンポイントで怒りにフォーカスしていきます。「天井!」と言われれば反射的に頭上を見上げるし、「後ろ!」と言われれば背後を振り返るでしょう。 あなたの状態は、「怒り」とラベリングすることによって怒りが鮮明に自覚され、同時に言葉の対象指示性が次の心をその怒りに向かって突き刺すように振り向けるのを繰り返している状態だと思われます。 これでは「怒り」に巻き込まれて消えないのも当然です。どうしたら良いのでしょうか。まず第一に、中心対象以外の現象にサティを入れたら、必ずいったん中心対象にもどるという原則を思い出すべきです。歩行瞑想なら「足の感覚」、座禅なら「腹部感覚」が中心対象です。音であれ妄想であれ怒りであれ、中心外にラベリングしたら、次は必ず中心対象に帰るのが原則です。 「怒りそのものが雲のようにワーッと来てしまって・・」と表現されていますが、これは注意が連続的に怒りに向けられている時のレポートです。もし「怒り」とラベリングした直後、セオリー通り中心対象に意識を向ければ、体の感覚で心がいっぱいになります。その次の心も中心対象の感覚に向けられれば、怒りはそのまま立ち消えのようになる可能性があります。怒りにサティを入れて見送った・・という印象です。もちろん、再び怒りの状態に注意が向けば、その瞬間生々しく怒りを感じるでしょう。しかしその次の瞬間、セオリー通り中心対象へ回帰すれば、怒りはいったん消えるでしょう。このように、中心対象へ帰る重要性を再認識すれば、この状態から脱出できるはずです。 別の考え方もあります。もし怒りが中心対象よりもはるかに強烈な現象であれば、そこから徹底的に怒りを観察する「心の随観」に切り換えるのです。優勢の法則に従うのがセオリーですから、それで正しく瞑想できています。心随観の瞑想を開始するのも、終了して再びお腹や足の感覚を感じて身随観に戻るのも、ポイントは自然展開に従っていくことです。これは優勢の法則に従うのと同じ意味です。つまり、怒りを消してやろうと強引に狙い過ぎないことです。怒りは不善心であり消さなければならないと躍起になると、ラベリングするほどますます強化され消えていかないことに狼狽えますが、消えなければ「消えない状態」に気づいてさらに観察を深めていくのが本来のやり方です。 Eさん:では、怒りが消えるまで「怒り」「怒り」「怒り」とずっと連続してラベリングしない方がよろしいのでしょうか。 中心対象ではなく、心の状態を連続的に観察していくのが心随観です。優勢の法則に従えば、強烈な怒りの情動を無視して微弱なお腹や足の感覚に注意を向け続けるのは理にかなっていないし、ありのままに観る瞑想の本質から外れてきます。怒りの観察を続行してOKです。 もう一度整理して言い直しますと、まず最初にやるべきことは「怒り」とラベリングしたら次は機械的にいったん中心対象の感覚に戻します。そのまま腹部感覚が続けば「怒り」は一過性のものなので座りの瞑想を続行します。しかし怒りが強烈な状態であれば、そうはいかないでしょう。すぐに怒りに巻き込まれていくでしょうから、「怒り」とサティを入れます。ここで公平に中心対象と怒りの感情を眺めて、怒りの方が強烈であれば心随観に切り換える方針を選ぶのです。これが優勢の法則に従って、座りや歩きの身随観から心随観に切り換えるやり方です。 こうして心随観で怒りの観察が始まったとします。問題は、「怒り」「怒り」「怒り」と何回も同じラベリングを繰り返すのは良くないということです。もし「怒り」のラベリングが的確で、その瞬間の状態を正確に捉えていれば、怒りの現象は消えていく可能性が大です。しかし消えないということは、「怒り」というラベリングがその時の怒りの状態を完璧に対象化できていないということです。実際に起きている現象とそのラベリングの間にズレがあるのでヒットしていないと考えられます。「怒り」に限らず、同じラベリングを5、6回続けても状態が何も変わらなかったら、文言を見直すべきです。正確に的を射たラベリングができれば、その状態に夢中でのめり込んでいた自分自身がきれいに対象化できるので、次々と怒りに巻き込まれていた状態に突然終止符が打たれるのです。 ところが「怒り」「怒り」とラベリングしながら、怒りの内容に執われて手放そうとしていなければ、虚しい空念仏のようにラベリングが繰り返されているだけで何も変化が見られないということになります。「あ!自分はこのことに腹を立てているんだ!」と本気モードで気づければ、その瞬間冷水をかぶったような気持ちになって怒りは雲散霧消していくでしょう。腹を立て続ける妄想がパタリと止まれば、その瞬間に怒りは立ち消えになるのは確かなことだし、事例もたくさんあります。 これが正確な対象認知のラベリングの威力です。正しく機能していないラベリングの言葉を繰り返しても怒りが消えることはないでしょう。ラベリングは一応やっているものの、本音では怒りの妄想を止めようとしていない状態がありのままに観察されていないからです。もしこの瞬間の本当の状態に気づけたなら、「怒りを止める気がない」「(サティを入れて巧妙に自分をダマしながら)怒り続けたい」「怒りで血をたぎらせるのは楽しい」・・・などと別のラベリングが浮かぶはずです。つまり、観察の角度を変えて怒りの状態を見直し、その結果ラベリングの文言が変化する、という方向に瞑想を進めるべきです。そのために、事実をもっと正確に、より詳細に観ることが必要です。同じ怒りでも攻撃的に相手に向かっている怒りなのか、自分に向かっている怒りなのかを詳しく観ていくようにです。何に怒っているのかよりも、怒りに巻き込まれて怒りの泥沼から出られないでいる自分に怒っている、などという場合もよくあります。 例えば、こんな事例もあります。友だちにお金を貸して結局そのまま盗られた結果になってしまった人が、それを思い出すたびに「怒り」「怒り」とラベリングしていたのですが、なかなか消えなかった。そこでよく観てみたら、お金を失った事実よりも、人を見る目が無かった自分に怒っていたことに気づいたのです。裏切られた無念さや、そんな人と見抜けなかった自分が腹立たしかったのです。プライドや自尊心が傷ついた状態が怒りの源にあったわけです。そういうことがはっきりわかったら、同じ「怒り」というラベリングでもその時の怒りの本質を突き刺す気づきとなったため、蒸し返しが止まった例がありました。つまり「怒り」の状態は同じかもしれないが、厳密に観ると、お金を盗られた怒りと自分が人を見抜けなかった怒りとは質が違うし、怒りの対象が微妙に異なっているのです。 「あるがままに観て正確にラベリングしたら、一発で怒りが撃ち落とされて出てこなくなりました」というレポートをした方がいましたが、観察が正確だとこうした鮮やかな事例もあり得るのです。文言を変えればその言葉の角度から対象を観ることになりますが、それでは順番が違います。その瞬間の状態や瞑想対象を、心新たに眺め直してよく視たらそれまでとは違ったものが見えてきたので、それに相応しいラベリングをしたら劇的にヒットした・・という順番が本来あるべきものでしょう。 アドバイス: 怒りを一時停止させたいだけであれば、ヴィパッサナー瞑想以外にもいろいろな方法があります。例えば、怒りからサッと目を背けて、何か善なる対象に集中してしまえばその時の怒りからは解放されるでしょう。しかし根本治療をしない限り、いつまた蒸し返してくるかわかりません。怒りを根っこから断ち切りたいのであれば、対症療法的な怒りの消し方を繰り返しても目的を遂げられないでしょう。ヴィパッサナー瞑想は、現象をあるがままに観察することによって、怒りの根源まで遡って突き止められる可能性を秘めた技法です。 自分の心を占有している怒りの状態を否定も肯定もしないであるがままに客観視できれば、具体的には、ラベリングして消えるものはかってに消えていくし、消えないものは消えない状態を淡々と観察することができるかどうかです。しかし心がエゴレスの状態でないと、なかなか自然展開に任せられないものです。煩悩であり不善心である怒りは何がなんでも消さねばならぬ・・・とどうしても熱くなりがちで、消えない怒りを冷静に淡々と観察し続けるのは容易ではありません。他人の見物ならできるが、自分の心になるとそうはいかなくなるのです。 ヴィパッサナー瞑想のコツは「他人事のように、自分を観察する」ことです。怒りの煩悩も、必然の力に催されて法として生起してくる事象なのだと心得ると、ちょっと客観視しやすくなるかもしれません。毛嫌いして反射的に叩き潰そうとするのではなく、「優しく見守る」ように観察する、という言い方でピンと来る人もいるでしょう。不善心だからこそ、優しく見守るくらいにしないと、公平な「捨(ウペッカー)」の心が生じづらいのです。エゴ感覚が弱められた時に浮かび上がってくるものを洞察していくのがヴィパッサナー瞑想です。 |
~ 今月のダンマ写真 ~ |
|
N.N.さん提供 |
『人生が集約する瞑想』(前)R.Y. |
私は61歳女性、瞑想を始めて7年になります。正直言ってあまり出来の良くない瞑想者です。地橋先生が「素晴らしい瞑想体験が羅列されている原稿よりも、失敗談や瞑想が遅々として進まない話の方が、誰にとっても身近で共感を呼ぶものです」と勧めて下さいましたので、それでお役に立てればと、拙い筆を取りました。
私が瞑想を始めたのは、娘が試験に落ちてばかり、しかも心がけが悪い。夫はテレビを見てばかり、当然コミュニケーションがない。ぜんぶ相手が悪いと心の中で責めていましたが、これは私に問題があるのではと思ったからです。その2~3年前に『瞑想クイックマニュアル』を知人から頂いて読んでいました。少し読んで「これだ!私がずっと求めていたのはこれだ!」と思っていました。しかし、それでなぜか安心してしまいました。実際に実行し出したのは自分に問題がある?と気づいてからです。 瞑想を始めたばかりの頃には一生懸命出来ましたが、少し慣れると、妄想や散漫な心や退屈や慢の心で行き詰まりました。エゴワールドへの執着が強いのではないか・・と、瞑想会で先生に言われてもいました。 瞑想を始めて2年目の頃、2泊3日の短期合宿に参加しました。「歩行瞑想をしてみて下さい」と先生に言われました。少し歩行瞑想したものの見られていると意識すると、集中力はぶっち切れ、「出来ません」とふてくされて坐り込んでしまいました。でもそうしながらも、昨夜も遅くまで、そして今朝も早くから音がしていたのを思い出しました。多分先生とスタッフの方が準備して下さっている音でした。こんな私の為にあんなに一生懸命・・と思うと感謝の心が自然に湧いてきて、涙ぐんでしまいました。瞑想は集中力を欠きましたが、素直に感謝できたのが嬉しく今も思い出します。感謝の気持ちが湧いてから、少し気合を入れて瞑想するようになったかと思います。 瞑想を始めると妄想が山のように出てきます。その奥にはものすごい恨みのような怒りがあり、さらにその奥の院には怖い顔をして立ちはだかる父の姿がありました。私の心の奥底にわだかまっていた父のイメージでした。 父は私を大変可愛がってくれました。しかしその可愛がり方は、私の先回りをして、悪いことから私を守り、父が良いと思う方へ導こうとするレールを敷くものでした。要するに過保護なのでした。それは心地良い時もありましたが、成長と共に窮屈で息詰まるものとなっていきました。成績は良い点を取れ、映画や歌は低俗、美術館はOK、など戦前の古めかしい教養主義でした。あまりにも古すぎて時代に合わず、次第に私は父を殺したいと思うくらい憎むようにさえなっていました。しかし父は全く気付かず、良い事をしていると完璧な自信を持っているかのようでした。 私の希望は、真っ向から否定しないで、私の意見を聞くだけでも聞いて欲しい、私の自由や意志を尊重して欲しいというものでした。良いことも悪いもことも経験したい、そして自分で判断したいというものでした。 「お父さんの姿は、前世のあなたの姿と考えるのです。自分が過去にしてきたことを、今度は逆の立場で受けることになるのがカルマの法則です」と瞑想会で地橋先生に言われました。 びっくりして目が覚めました。前世の私というのは理屈としてよく分からないのですが、腑に落ちるものがありました。腹の立つことに、私と父は似ているのです。「イヤだ!嫌いだ!こんなの自分の人生じゃない!」と怒りまくっていたのに、私の今の幸せはやはり父の恩恵によるものが大きいと認めざるを得ませんでした。父に感謝せざるを得ません。 考えれば、父も祖父に同じような仕打ちを受けていたのでした。もっと虐待に近く酷いものでした。お父さんはどんなに辛かったか!私など比べものにならない!守って欲しかったし、良いことをいっぱいしてもらいたかったんだ・・。父の立場を思いやることが出来て初めて父を赦せると思いました。 私は、「一生懸命育ててくれてありがとう」と父を抱きしめることが出来ました。 「そう言われたら嬉しいわ。本望や・・」、うれしい言葉が父から返ってきました。(前) |
☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。 |
しかし、懺悔が赦しを目的としている訳ではないことは強調しておかなければなりません。倫理的な過ちを犯したからといって、誰かが怒ることもなければその過ちを赦してくれる人がいるわけでもありません。また、戒の違反によって作られたカルマが懺悔によって取り消されることもありません。カルマは意志と行ないによって生じ、時がくれば結実するものです。懺悔の基本的な目的は、戒を破ったことで深い悔恨にかられている心をきれいにすることなのです。懺悔はとりわけ堕落を隠匿しようとするのを防ぎます。自我は自らが思い描いている完璧さのなかでプライドを保つため、巧妙な手段で過ちを隠そうとするものです。(比丘ボーディ「帰依と戒」、『月刊サティ』2004.3より) |
鈴木大介著『脳は回復する』 (新潮社 2018年) |
昨年5月号に掲載した『脳が壊れた』のその後の経過のレポートである。そこからは改めて心の内にあるある苦しみの困難さ、大きさが見えてくる。
発症直後には、主に視線、表情、涙(感情)、言葉のコントロールができなくなってしまう。視線を外すことが出来ずに凝視してしまう、喜怒哀楽が抑えられない「感情の脱抑制」「感情失禁」、そして「言葉の発作」、それらは性格が変わったのではなく、病前と同じパーソナリティでいるための「コントロール」が失われてしまったためであった。 あるいは「僕じゃない感じ」。その理由を脳の情報処理速度にあったのではないかと著者は推測する。身体感覚として残っている病前のそれと病後の速度の低下とのギャップが世界の現実感を失わせてしまったのではないか、それが「離人症的な症状」についての一番しっくりした解釈としている。 この情報処理能力の低下は、五感で感じるあらゆる情報の本流から必要なもののみをピックアップできなくしてしまう。「全ての情報を受け入れて、結局全ての情報を処理できない」結果、何も出来ずに苦痛だけが膨れあがる。ちょうど、昔のパソコンのフリーズ状態に譬えられる。 こうした数々の苦しみは、当然人を不機嫌にする。そこで著者は病前には想定していなかった発見をする。その一つ目は、「不機嫌な人はつらい人」だということ。「自らの不機嫌や不快な気分を自力で払拭できないことは、こんなにも『つらい』ことなのだ。どんなに楽しいことも気持ちよい事も、止まらない不快な感情が思考の底流にあり続ける状態では、その喜びを享受できない」。 そして二つ目は、世の中に当たり前のように使われている「気は持ち樣だよ」という言葉が、じつはとても残酷であるということ。この言葉は意味がないだけではなく、無責任で、不親切で、不案内で、残酷だと言う。「持ち様って簡単に言いますが、その持ち方がそもそもわからないんです!」。 最後に「受容」ということの意味について考える。左手に麻痺があるため、パソコンの音声入力環境を整えたところ、作業療法の先生から、「それはよろしくない」と強く制止されたと言う。「不自由を受容してしまって使わなくなってしまえば、回復も望めない」ということであった。こうしたこともヒントに、著者は受容には二種類があると考える。 リハビリの現場などで忌避される受容は、「諦めを伴う受容」。それは自らの障害を認識した上で、抗うことを止めてしまうもの。もう一方の受容とは、障害を認識して見つめ、理解することで、周囲の環境調整に工夫を施し、障害の苦しさを和らげるものである。 そして著者はこう言い切る。「この『受容』ができるかできないかが、病後の人生について大きなリスクを被るか回避するかの分岐であり、受容できなかった場合の問題があまりにも甚大と感じざるを得なかった」と。 この著書は、あくまでも自分の体験をベースにしたものであって、3年未満でほぼ回復に至るという軽度であったことを前提にしている。しかし、著者の体験した、どのように工夫すれば苦しさを緩和することが出来るかについての模索とそのメソッド(注)は、多少なりともいま苦しみつつある人々とその周囲の方々には役立つのではないかと思われる。(雅) 注:「周辺者」や「支援者」ではなく「伴走者」であることや、「家庭復帰」と「社会復帰」の難易度の違い、また「復帰の前に休ませる」「情報量を減らす」「やれることの識別」「伴走者の基本姿勢は肯定」等々、現場における具体的な方策が提言されている。 |
このページの先頭へ |
『月刊サティ!』トップページへ |
ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)トップページへ |