月刊サティ!

2018年12月号  Monthly sati!  December 2018


 今月の内容

 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:ヴィパッサナー瞑想と心の変化(3)
  ダンマ写真
  Web会だより:『瞑想が振り返らせた半生』
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:『人類は何を失いつつあるのか』
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて頂        きます。ご期待下さい。


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:ヴィパッサナー瞑想と心の変化(3)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:この瞑想をする目的を教えてください。

アドバイス:
  ヴィパッサナー瞑想をする目的は、人生の苦しみを無くすためであり、苦を無くすために心を浄らかにしていくことが目的と定義できるでしょう。
  この瞑想はもともと、悟りをひらいて解脱することを目的として始まっています。お金のことや男女関係や親子関係など、この世の苦しみは無数にありますが、どんなに苦しみを乗り超えても、最後に生存そのものの苦しみに直面します。生きて、存在を続けることには根本的な苦しみがあるのです。必ず不具合が生じて病むことがあるし、元気でいても老いていくし、愛する人たちと別れて死んでいかなければならないのです。その究極のドゥッカ()を完全に乗り超えようと出家して、修行に全てを懸けた人たちのために説かれた教えが最初期の仏教であり、その方法論がヴィパッサナー瞑想だったのです。

  在家の煩悩生活を続けている私たちにとっては遠くかけ離れた雲の上の存在のように思われますが、驚くべきことに、そうしたプロの出家者の瞑想も私たち凡夫の瞑想も、実践すべき技法も教えもまったく同じなのです。立ち位置のレベルが違うだけで、同じ一つのゴールに向かってのグラデーションなのです。

  悟りを求めるレベルの高い人も、この世の幸福を求めている普通の人も、心の汚染である煩悩を引き算していくことに変わりはないのです。苦しみの根本原因である執着や渇愛を手放していくことが心の清浄道であり、自身の欲望や嫌悪や高慢に気づいて引き算していく度に幸福度が上がっていくし、その究極が出家修行者のゴールである苦の絶滅状態だという訳です。

  ごく稀れに悟りの完成を求めて出家する人もいますが、総じて、苦しい人生をなんとかしたいという目的で瞑想を始められる方が多いですね。苦しい人生を打開するためにいろいろな方法を試してみたが、相手を変えることも外側の情況を変えることは無理だということがわかってきて、結局、自分の心を変えるしかないと覚り瞑想に出会っている方が大半です。
  もちろん人生苦を乗り超えるモチベーションとは異なり、集中力を高めたいとか能力開発に活用したいという目的で着手する方もいます。その方々のためには、ヴィパッサナー瞑想の一部門である集中型のサマタ瞑想が適しています。しかし集中力を高めようとすると、その集中を妨げている妨害要因を引き算していかなければならないということにも気づかざる得なくなります。妨害要因の多くは過去のトラウマや劣等感やネガティブな体験だったりするので、能力開発のための瞑想を徹底させようとすると結局、サマタ瞑想だけでは追いつかず、やはり心の清浄道であるヴィパッサナー瞑想に取り組まなければならないと理解していく人たちも多いです。

  過去を手放すために懺悔の瞑想をするのも効果的です。嫉妬や高慢や怒りなど煩悩という心の汚染が集中力を阻み、人生を苦しくしている元凶になっていることも理解すべきでしょうね。だからまず自分の心の汚染に気づくためにサティの瞑想をして、心の反応パターンを書き換えていくために五戒を守り、善行をして、ヴィパッサナー瞑想というシステムを総合的に実践していくことが、下世話な人生苦からの解放に始まり、解脱という究極の苦の超克に通じているのです。

  他にもさまざまな説明の仕方がありますが、以上が原始仏教の瞑想の目的と言ってもよいでしょう。


Bさん:高慢を治す修行にはどのようなものが相応しいですか。

アドバイス:
  まず「慢」について説明しますと、「高慢」は他人を見下し自分は偉い、優れていると思ってしまう不善心であり立派な煩悩の一つです。高慢の反対に自分は人よりも劣っていると感じてしまう「卑下慢」というのもあります。あいつと自分はドッコイドッコイで優劣なしと見るのは「同等慢」です。いずれも比べることがポイントで、自分と他人を比較してしまう煩悩です。

  「慢」の煩悩は悟りの第三段階「不還果」になっても残存すると言われるるほど根深い煩悩です。この煩悩はエゴや我執の強い人に多い傾向ですが、いずれも相対的なものです。劣等感の強い人や自信のない人は卑下慢に苦しみますが、比べる人が変われば一瞬にして高慢にも同等慢にもなります。
  自分に自信のない人の「慢」が強くなりがちなのは、他人との比較で自分の能力や立ち位置を量ろうとしてしまうからです。優れた能力や財力や地位や出自や社会的ステータスの高い人を過度に評価して敬ったり、憧れたり、卑屈になったり、嫉妬しがちです。反対に自分より劣った人や程度の低い人には威張るし、見くだすし、傲慢になります。

  自信がないのも、劣等感が強いのも、本来の能力とは関係がありません。どれほど高い能力を持った優秀な人でも、さらに優れた人と比べれば劣等感を刺激されるに決まっています。無能な人でも、もっとダメな人と比べれば優越感と高慢が出るのです。

  「俺が、ワタシが・・」と自我意識の強い人は、他人のエゴや自我にも敏感なのでどうしても自他の比較をやりがちです。劣等感と優越感は表裏の関係なので、慢の強い人は一番にチェックすべきポイントです。自分に自信を持っている人や自己肯定感の強い独立独歩の人は、他人と比較して自分の価値や優劣を決める必要が少ないので「慢」の煩悩が激化する傾向が少ないようです。自信がないから人と比べてしまうのか、人と比べてばかりいるから劣等感と優越感のジェットコースターになるのか微妙です。幼い頃から、人と比べられてばかりいれば当然、比較するのが上手くなり慢の傾向が強化されます。できないのを指摘され、兄弟姉妹と比べられ、励まされ、駆り立てられてきたような環境があれば気の毒です。人の目を気にして反射的に比べてしまうだろうし、ダメ出しをされてくれば当然、自己肯定感が育まれず劣等感になります。

  慢の強い人には、そうなるだけの歴史があったはずです。根本的な原因に気づいて、自覚して、練習して心のプログラムを変更していかなければなりません。具体的には、心随観の瞑想で劣等感や比べる心の由来を直視して受容していくことが根本的解決に繋がるでしょう。自分の弱さやコンプレックスを自覚し、それを個性と見て引き受けていく覚悟が定まると自信につながるものです。

  宗教的なもので乗り超えようとする人も少なくありません。神や仏など絶対的な存在に帰依したり信仰することによって、世俗的なエゴ感覚は弱められます。我が身に起きる一切の事柄を、神や仏から与えられたものとして受け容れる感覚が、凡夫と凡夫がさしたる根拠のない比較をして優劣を競い合う愚かさを超越する一つの方法になり得ます。どんな詰まらない仕事でも、「神に召される」感覚や天が与えてくれたものと受け止める感覚があれば、バカにされたり見くだされたりしても動じないでしょう。比べる心を乗り超える有力な道です。

  問題点があるとすれば、神仏などの超越的存在にひれ伏すのも、融合し一体となり神人合一を目指すのも、その究極はエゴ感覚が肥大していった最終形のウルトラ・スーパー・エゴと一つになっていく方向なので、宗教戦争のような最悪の展開もあり得ることでしょう。自分の神を否定された怒りは、基本的に自分のプライドや自尊感情を傷つけられたのと同じです。世界史をひもとけば宗教が原因となった戦争は無数にあり、その本質はエゴとエゴの激突だと思われます。

  原始仏教の方法は、徹底した因果論の理解によって自分に与えられた一切を引き受けていく方向です。その瞑想を教えている私としてはこれをお勧めしますが、押し売りする気もありません。縁のある人がやれば良いのです。

  高慢の煩悩を弱めるのに簡単ですぐにできる代表的なものは、下座行です。トイレ掃除やごみ拾いや下足番など一般に軽視されている下座行が、優越感に浸って人を見くだしがちな人にはとても良い修行になります。謙虚に人を立て、自分は下座に就く修行は人格の向上にも直結します。

  慢は、人間以外の動物にも本質的な根深い煩悩ですから、簡単に乗り超えられると思わないほうがよいでしょう。いつの日か必ず慢を無くすと決意して、ブレずに実行していけば徐々に弱められていきます。完全に根絶やしにした聖者が過去に存在した事実は、われわれの手本となるし励まされます。


Cさん:悪いことが浮かんで来た場合はサティで早く消したくなり、良いことが浮かんだ場合は見送れない自分に気づきます。また、仕事中に浮かぶ妄想も、「欲しい」「こんなことしたくない」「早く帰りたい」等々ネガティブ系で、半年瞑想しているのにとがっかりしました。そのような自己嫌悪が高じて背中が重くなり、上手く手放せず未熟さを痛感しています。

アドバイス:
  これまで無自覚だったのが、自分の心の内を見ると不善心所のラッシュだということに気づき愕然したことは大飛躍であり、落ち込む必要はまったくありません。
  プライドの高さと落ち込む度合は相関していて、落ち込んだことを「こんなんではだめだ」と否定したくなるのです。しかしそうではなく、「こんなものなんだ」と認めて、そこから1ミリでもきれいにしていこうという決意につなげていけばよいのです。

  具体的な対策としては、好き嫌いの感覚や価値観が自分好みに固まっていると反応もこれまでと変わりませんので、その反応パターンを変える修行やトレーニングが必要です。

  ちょっと厳しいので皆やりたがらないのですが、嫌なものを敢えてやってみる修行です。高慢な人が心を変えるためには、軽蔑すべき下座行に敢えてチャレンジするように、嫌いなものが嫌いでなくなるためにはその練習が必要なのです。

  「欲しい」ものに対しては「どう考えれば、それが欲しくなくなるのか」「それがなくても楽しくやるにはどうしたらよいか」と発想の転換を試みるのです。そのためには、なぜ欲しがっているのだろう。本当に必要なものだろうか。何か嫌なことやモヤモヤしたものの不快さや詰まらなさを紛らわすための代償行為なのだろうか。いったいどの部分や側面に対して欲しい、手に入れたい、と反応しているのかを分析することも必要になってくるかもしれません。

  「こんなことやりたくない」と思うことに対しては「それを喜んでやるには、どう考えればよいのだろうか」という課題を自らに課すのです。そのやりたくないことを自ら進んでやった場合の結果はどうなるだろうか。周囲の者の反応はどう変わるだろうか。やりたくないのは、なぜなのだろうか。それを嫌がらないでやっている人は何を考え、どう感じているのだろうか。

  一人で考えてもらちが明かず行き詰まったら、検索したり関連本を読んだり、人に訊いてみることです。智慧のある人や、立派な人格の人に訊くのがよいのは言うまでもありません。自分の発想で変わらないことは外側の力や他者の智慧を活用するのです。ものごとの見方や感じ方や反応の仕方は癖になっているので、意識的に変える努力をしないとひとりでに変わることはまずありません。あるとしたら、環境が変わり、つき合う人の流れが変わったり、変わるだけの要因があるからです。それを自然発生的に生じてくるのを待っていると歳を取ってしまうので、修行としてこちらからトライするのです。


Dさん:ヴィパッサナー瞑想をやっていて、ものすごくヘビーな悩みを抱えていることが自覚され、つくづく瞑想どころではない人生を送っているんだなという感じで恐くなりました。でも、それが現実ですから、逃げずにサティを入れて凝視し続けていると、今度は自分の醜悪なものがいろいろ見えてきます。その醜悪な自分が不愉快になって非常に嫌悪を感じます。それを自己受容してみようとしても、これがまたやっかいです。そのときには取りあえず慈悲の瞑想が救いになっているのでやたらにしていますが、ヴィパッサナーからは逃げてしまう感じです。もう少し前に進むために、あとは何ができるかなと思っています。

アドバイス:
  瞑想者としては、今が正念場ですね。ヴィパッサナー瞑想の本質は「あるがままの受容」です。価値判断を超越して、あるものは在る、ないものは無い、と現状を正確に承認しなければ次の仕事に着手できません。
  お話伺うと、あなたの修行はとても進んでいるのですよ。誰もが反射的に目を背けがちな、自分自身の暗部というか、ネガティブな醜い側面を直視する仕事ができたレポートですから。最重要の、事実をありのままに承認する貴重な仕事ができただけでお手柄なのです。

  承認はできたものの、醜い自分の姿に耐えがたいからと慈悲の瞑想に救いを求めるのは、この場合根本的な解決にはなりません。

  第一関門は突破したのですから、受容の第二段階へ突入すべきです。心底から事実を認め、絶対にそれを乗り超えると決意し、実際的な修行を試みる順番です。「醜い状態や現状」で固まってしまうと、突破できません。そのような状態や性向がどのような流れで形成されていったかを、もっと正確に視るのです。全ては因果の所産なのですから、どんな性格や心の反応パターンでもそれが作られていった歴史があります。怒りっぽいのも、傲慢なのも、嫉妬深いのも、賞賛すべき好ましい傾向も・・全て必然の力に促されて形成されていったのです。

  ネガティブな傾向があるとしたら、幼少期から苦しい情況や難しい人間関係にさらされていたはずです。現状の直視でストップしてしまえば、不快な情緒的反応の域を乗り超えるのが難しいのです。その状態を構成しているファクターに分解して、なぜその状態になっていったかの由来や原因やいかんともしがたかった事の展開を読み解いていくプロセスで、どのように受け止め、これから何をどうすべきか、が見えてくるものです。「わからない」というのは「分けられない」からであり、要素や要因に仕分けることができれば、必ず解決の糸口が見えてくるものです。もちろん、自分一人では手に余るようでしたら、カウンセラーやセラピストなどその道の専門家がいますから、善知識の導きに任せることも必要でしょう。
  要因を分析する方法は、万人向けではないかもしれませんが、「ネガティブな事象の完全受容」には必要不可欠な一つの段階です。トラウマや情緒的な解放がなされていなければ、知的な納得だけでは限界があるのでその仕事もやらなければならないでしょう。他者からの共感や癒しが大きな助けになる場合が多いです。どんなに難しい問題であっても、そのように展開していった流れがあったのだから、それを解き放っていくこともできるのです。

  何事も、円滑に展開し、良き結果に繋げていくには無量無数の力が働いてのことです。良き流れにあずかるためには衆善奉行です。あらゆる善行を心がけてカルマを整え、波羅蜜を貯えなければ上手くいかないでしょう。善行を心がけてください。

  慈悲の瞑想は、苦しい現状から目を背ける作用をすることもありますが、苦しくて、切なくて、耐えがたく感じた時には、遠慮せずに堂々と慈悲の瞑想に救いを見出して結構です。ネガティブな傾向が刷り込まれていかざるを得なかった、憐れな、気の毒な幼い自分を優しく抱きしめるように自分に対する慈悲の瞑想をしてあげることも大事です。

  もう一つ、ネガティブな自分を完全に受容するのを妨げているのは、プライドだと思います。良い意味での自尊感情を守るために必要なプライドもありますが、くだらないエゴ妄想や「慢」の煩悩に根差したプライドは結局自分自身に苦を与えてくるので手放していかなければなりません。これも大きな仕事ですが、すべて関連し合った複雑系ですから、ここから突破口が開けることもあるでしょう。病気になった期間の2倍かかって治療は完了するなどと言われるように、長い時間をかけて形成されたものを変容させるには、さらに長い時間が必要です。長期戦と心得て、死ぬまでに解くべき因縁が解ければ成功した人生と言えるでしょう。

  何よりも大事なのは、揺るぎない決意です。事物も人の心も存在する全ての事象は無常の法則に貫かれています。変わらないものは何もないのです。断固として、ブレずに心の清浄道を歩み抜く覚悟を定めれば、いつの日か必ずそうなっていきます。人は自分のなりたい者になれるのです。がんばってください。


Eさん:内観によって過去から解放されましたが、自己否定的に捉えてしまう心のクセが残存しています。

アドバイス:
  内観で過去から解放されたとのこと、良かったですね。内観のポイントは、自我形成に最も大きな影響を及ぼした親や家族などいわゆる「重要な他者」との関係性を総点検して自分史全体を省みることです。過去を想起するチェックポイントが決められており、自己中心的な視座から編集された記憶の体系を突き崩して、自分自身を対象化する「視座の転換」の仕事に直結していることでしょう。

  なぜ内観はヴィパッサナー瞑想の一部門であり、反応系の心の修行として真っ先に取り組むべきだと強調するかは、まさにこの修行構造にあるのです。多くの方が、親や家族から受けたネガティブな仕打ちに対して憤りを抱えながら人生をやっています。これは、自分の受けてきた恩愛は当たり前で一顧だにせず、嫌な記憶を繰り返し脳内再生しながら怒りと恨みをくすぶらせて生きてきた証しのようなものです。自分は愛されてこなかった・・と怒り続けている人が少なくありませんが、誰からも愛されずに生き残ることはできないのです。「慢」の煩悩は大人にも子供にも動物にも共通の普遍的なものですから、兄弟姉妹と比べ友達の親と比べ、相対的に自分が受け取った愛情の分量は少なかったと怒っている状態です。典型的な自己チューの発想です。たとえ虐待した親であっても、愛情をくれた瞬間がゼロだったのか。ご飯を食べさせ、服を着せてくれなかったのか・・と問うのが内観です。

  こうして過去に怒りを持ちながら生きてきた人が内観の修行に入ると、自分の掛けられた迷惑は一切思い出すことが禁じられ、自分のかけた迷惑だけを思い出さなければならなくなる訳です。ここに「自己チュー」から「自己客観視」への視座の転換が強制的に要求されてしまう内観の真骨頂があるのです。

  その内観によって過去から解放されたとしたら、あなたが過去に対する怒りを手放すことができたのだと推測できます。今まで恨んでいた親や家族に感謝できるようになり、怒りが感謝に変わっていった構造そのものに、自己中心的な視座から自己客観視の視座への大転換が起きたのだと思われます。素晴らしいことです。

  しかし、怒りを手放し、親も自分も過去の全てを受け容れ、赦すことができたことと、ネガティブな思考パターンや思い癖が変化することは違います。関係はもちろんありますが、怒りがなくなれば、自動的にポジティブ思考や明るいキャラクターに変わるとは限りません。物事の否定的な側面に真っ先に注意を向けてしまうタイプと、肯定的な明るい面を見てしまうタイプは、生まれた時からの脳の使い方や注意の向け方の問題であり、その反射的な注意の向け方と発想パターンを変えるためには、別途に異なった修行やトレーニングを行なわなければなりません。

  ネガティブ思考が悪で、ポジティブ思考が善だということではありません。スポーツで互角の戦いをしている時に、6対4あるいは7対3で不利だと感じている人もいれば、その逆に自分が有利で勝っていると思うおめでたい人もいる訳です。純粋な自己客観視は至難の業ですから、どうしてもエゴが編集した認知に偏ることは避けられません。「自己否定的に捉えてしまう心のクセ」が一掃された結果、もし自己愛の強い自分大好人間になって傲慢でホラばかり吹いているナルシストになってしまったらとんでもないですね。自己肯定感が無条件で良いと言い切ることはできないでしょう。人として基本的な自尊感情が欠けているのは問題ですから、その場合は正当なプライドが持てるように心を整えなければなりません。自己肯定も自己否定もバランスが大事です。

  もし不当に自己否定感覚が強いのであれば、やはり修正すべきでしょうから、それなりのトレーニングや心構えが必要になります。例えば「褒める練習」などというものもあります。自分の家族、友人、同僚、顧客、その日出会った行きずりの人、動物も、テレビ番組も、社会的な出来事も、車の運転中にふと見かけた看板も・・あらゆる対象の良い点を3つ見つけるゲームです。褒めさえすれば何でもOKですから、やり方はいろいろです。何を見ても、誰に会っても、必ず対象の美点や良い点、ポジティブな側面に目を向ける練習です。

  あるタレントの女の子が子供の時から毎日家族で「褒めっこ遊び」というのをお母さんにやらされてきた、と語っていました。素晴らしい条件づけです。しかし明るくても暗くても、これは自分の個性でありキャラなんや、と受け容れて生きていっても問題ないでしょう。もし五戒を守り善行をして仏教の価値観を軸に生きていければ、陰も陽も、ポジティブもネガティブも、人間としてまったく問題ないし、必ず幸せな人生に展開していくでしょう。何十年も繰り返してきたパターンを組み換えるのは尋常ならざる努力やエネルギーを必要とします。それはある意味では自分でなくなる努力をしているかのようにもなりかねません。幸福な人生の展開も不幸な人生の流れも、カルマの問題であり、悪を避けて善をなしていけば陰のタイプも陽のタイプも正しく生きて幸せになれます。

  技術的には、思考パターンを組み換えるための発想の転換や注意の注ぎ方を修行として取り組めば必ず変わっていくでしょう。しかしどんなトレーニングや修行よりも最も効果的なのは、明るいポジティブ思考の権化のような人といつも一緒にいることです。話しながら、遊びながら、出かけながら、生活しながら、ポジティブ思考のタイプがどのように物事に反応し、発想し、楽しみ、人を評価し、自分の未来を考えているか・・具体的な現場に即して学ぶのです。練習も大事、お手本も大事です。幸せな人と一緒にいると周囲の人もいつの間にか幸せになるという統計を取っている人もいるようです。

   善き人と、肯定的な人と、心の浄らかな人と、共に歩むならば、必ずその人のようになっていくのです。人は自分の側にいる人のようになっていく・・ということをブッダも繰り返し強調しています。

  では、どうしたら明るい善き人に出会えるか。・・祈るとよいでしょう。そのような人に必ず自分は出会うであろうと日々祈っていたら、本当にそうなり法友に出会えました!と感動のレポートをしてきた方がとても多いのです。繰り返し、強く思っていることは具現化してくる。これは現象世界の法則であり、仏教用語で言えば「業」であり「カルマ」ということになります。がんばりましょう。
 今月のダンマ写真 ~
タイ仏像展にて
N.N.さん提供


    Web会だより  
『瞑想が振り返らせた半生』 T.G.
  自分はどうのような人間なのか、と最近自問しました。まじめ。思いやりがある。根に持たない。親切。周りへの配慮を忘れない、などなど。
  同時に、自分に利があるか否かを計算し、人から受けた苦痛を忘れず仕返す機会を伺い、 体を横にしだらだら過ごすことを好み・・という面も否定できず、むしろそちらの方が本来の自分の性質なのだと思い至りました。
  このような事を考えていたのは、うつ病による7ヶ月の休職から職場復帰してしばらく経ってのことです。
  ヴィパッサナー瞑想のおかげで職場に復帰できたものの、足ることを良しとしない競争の環境は貪りの世界そのものに感じられ、逃げたい気持ちが強くなっていきました。同時にその競争の世界に染まりきった方が楽なのでは・・とも考えていました。
  そんな折に参加した1day合宿で歩く瞑想を行なっていると、いつもなら集中が高まる絶妙のタイミングで眠気に襲われました。初めての現象で驚きましたが、地橋先生より瞑想を忌避している心があるのでは・・とご指摘を受けました。
  自分を救ってくれたヴィパッサナー瞑想を拒否しようとする心が自分の中にある、という事実に衝撃を受けましたが、この瞑想の前ではとことん本心が顕在化する、という地橋先生の言葉を受け、前述のような考察を行なった次第です。
  自分の本音(怠けたい・望むものを手にしたい)を棚に上げ、後付けで加えたまじめさや奥ゆかしさこそ自分の性格であり、人となりであるとして自身に暗示をかけていたような気がします。競争社会の猛々しい現実を否定することで、私自身の中には貪りの心などないかのように偽装していたのです。
  悪いのは周りであり自分ではないという言い訳を直視するのが怖く、瞑想を忌避していたということでしょうか。弱肉強食の非情な世界に抗い続けていくよりも、巧妙に適応しようとする自分の本心を見たくなかったのかもしれません。とはいえ、そこまで自分を取り繕い続けてきた背景というものも、霧が晴れたかのように見えてきました。
  小学3年の頃、父親の財布から現金がなくなったことがあり、それを自分のせいにされた事がありました。もちろん身に覚えのないことなので否定しましたが、怒鳴られ(オモチャのバットですが)殴られ、父親の言うとおり頷くほかありませんでした。父親は、自分の単独犯行ではなく近所の悪童に脅されたのだろうという考えで、自分の子供を救おうと必死でした。
  ただ、自分としては「その場をしのぐために、していない犯行を認める嘘をついた」「無実の人間に罪を被せた」「結果的に父親に不善業を作らせる形となった」と自分を含めた多くの人を不幸にする行ないをしたことに大変な恐怖を覚えました。
  以来、自分は大きな罪を犯した。故に罰せられる。という考えから、罰せられるべきだ、という内罰的傾向に変化していきました。進学や仕事など人一倍の努力をしてきましたが、それも「苦しむ手段」として用いてきたのではないかと思います。
  物事がうまく進んでいるような状況でも内心は、大きな不幸に見舞われるのでは、と常に怯えていました。学業や仕事では常に高い目標に挑むよう心がけてきましたが、それも今の自分ではない自分になることで、「罪を犯し」「いずれその報いを受ける」事実から逃れようとしていたのです。
  1day合宿に参加者が感想などを述べ合う時間がありますが、あるスタッフの方に「お話がいつもドラマチックですね」と指摘されたことがありました。劇的というのは極端な落差があるということだと思います。
  瞑想、仏道修行においても自身を否定するような、実現できそうもない目標を設定するクセが抜けていないと、そのスタッフの方のご指摘で気づきました。成してしまった業、それらの報いをあるがままに観察し、受け入れ、認める。今現在の自身の課題というか、宿題と考え日々を過ごしています。
  過去世から続く過ちと後悔の輪廻は、今生で終わりにすることなど到底叶わないと思います。それでも、地橋先生をはじめとするグリーンヒルの皆様や、合宿で共に修行に励む法友の方々とご縁ができたのは、奇跡に近い幸運と感じています。
  先ははてしなく遠いですが、道の上に立って少しでも歩みを進められればと、祈るような気持ちで今を過ごして生きています。
☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

       
 






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ダンマの言葉

  より深く、より大局的な見地から見るならば、普段抱いている安全という感覚は、私たちが気付かずにいるということと、ごまかしを行なう心の能力によって支えられている偽りの安全だということがわかります。私たちの境遇は、見方を限定したり歪曲したりすることによってのみ確固としたものに見えるのです。 しかし、安全に至る本当の道とは正確な洞察によるものであり、願望の詰まった思考によるものではありません。恐怖と危険を越えて行くには洞察力を研ぎ澄まし、視野を広げなくてはなりません。自らをだまして心地よい自己満足の中に誘い込もうとする心のごまかしを見抜き、不安げに目をそらしたり気晴らしを追い求めたりすることなく、自らの存在の奥深くを直視しなくてはなりません。(『月刊サティ!』20036月号より、比丘ボーディ『帰依と戒』より)

       

 今日の一言:選

(1)狸には狸の認識している世界がある。
  ニューヨークで理解している世界もあれば、生まれ育ったわが町の、家族の寝静まった古い部屋で、人間とは、人生とは……とまとめ上げられていく認識世界もある……

(2)不善心でグチャグチャになった状態を修復するために瞑想がある。
  坐ってみれば、ああ、こんなに心が乱れているのだ、と気づくだろう。
  これじゃ、瞑想にならない……と気づくだけでも、現状の対象化が始まっている。
  (最悪だ)と思った」「(瞑想なんかやる気になれない)と思った」……と、そのままラベリングしていけばよい。

(3)自分にとって最も大事なものは何か。
  これだけはゴメンだ、絶対にやりたくない……と感じるものは何か。
  譲れない「好き・嫌い」の根拠を見定め、拠りどころとなる価値観の基軸が確立されれば、迷いのない意志決定が即座にできるようになるだろう。
  そのために、自分自身を正確に、ありのままに掌握し、自覚する……

 


       

   読んでみました
     山極寿一、関野吉晴著『人類は何を失いつつあるのか』
                       (東海大学出版部 2018年)

   「ゴリラ社会と先住民社会から見えてきたもの」という副題の本書は、山極氏と関野氏による対談で構成されている。山極氏は1978年以来、アフリカ各地でのゴリラの野外研究を通じて、初期人類の生活や人類に特有名社会特徴の由来を探っている。関野氏は1993年から約10年間、南米からアフリカまでの「グレートジャーニー」完遂で有名。その後もシベリアやヒマラヤからの陸路の旅、インドネシアから沖縄までの手作りカヌーの航海などを行っている。
  特に瞑想との関わりを期待したわけでもなく、興味の赴くままに読み始めたが、なかには視野を広げられる見解が数多く見られ、情報を豊かにする一環として役立つものと思われるのでここに紹介したい。
  例えば、人間とチンパンジーのゲノムは1.2パーセントしか違わないことは今では広く知られている。また、ゴリラやオランウータンとも2パーセント以下の違いしか無いのに、サルとゴリラ、サルとチンパンジーでは3パーセント以上も違う。そこで、こう言うことになる。「正しい分類では、ゴリラのチンパンジーはサルの仲間ではなく『人間の仲間』なんですね」。
  また、食料の調理によって咀嚼時間が節約され自由時間を持つことが可能になり、その結果、「社会交渉」によって集団を大きくすることが出来るようになったと言う。これはしばしばダントークでも触れられているように、出産期間が短いこと、複数の育児や食物の分配をする必要性からの「共同保育」や「食物の共有」と大いに関係すると見られる。またそれが、男が集団を支える柱になると同時に子育てに参加する契機になり、人口増加への結びついたのではないかとされる。
  さらには、「勝つ論理」のニホンザルの社会と、「負けない論理」でできているゴリラの社会、そして誰もが負けないように作られた「社会の装置」である人類の家族の特徴も興味深い。また、森のなかの棲み分けという「勝ち負け」に関係しない精神風土、集団の維持のため食物を平等に分配する中で生まれた平等意識の規範化、狩りも道具作りも一人でできるのにわざわざ他人の力を借りて獲物を分け合うアフリカの狩猟採集民等々、役割分担と協力が人間にとってとても大切なことにあらためて気づかされている。
  おもしろいのは、初期の人類には「所有の意識」が無かったかというと、実はそうでもないらしいと言うことだ。例えば、アマゾン奥地に住む平等社会のはずのヤノマミ族が、野生のヤシの木を指して「あれはオレのものだ」と主張してそれを周囲も認めている。その反面、土地などのように自分の力でコントロールできないものを所有物だとは主張しないのだ。このように、野生の木には最初にみつけて利用した所有者はいるが、「その所有者はしかし、木の実を独占するわけでもなく、貯め込むわけでもなく、採ってくれば仲間に分ける・・・・。所有者が利用しなくなった時はほかの者に簡単に譲って」しまう。食料以外でも、「ナイフを3本持っている人は持っていない人にすぐにあげて」しまい、所有が独占や貯蓄には繋がっていない。「所有物でも、物とは本来、必要な人に渡っていくのが当たり前だ、と捉えている節がある」のだそうである。
  最後に、ゴリラには「他者をいたわる共感力や紛争の調停力も備わっていて、私たちの遠い祖先が偲ばれる」し、人間はそこからさらに進化して、「人間らしさ」を築き上げてきたにもかかわらず、それが今日失われようとしていることを憂慮しつつ、「家族やコミュニティーの崩壊、伝統技術や智恵の喪失、教育の変容、極端な個人主義の蔓延、奪われる平等、調停の効かない紛争などはその表れだ」と述べている。しかし、そう警鐘を鳴らす一方で、著者らは、歴史から学びつつ未来を展望し得るのもまた人間であると、ポジティブな捉え方も垣間見せる。
  本書はこれらさまざまの示唆を含んでいるが、特に「総合的な学力」に言及したところに共感を覚えた。それは、ある一つの分野だけではなく、「テーマや問題を大局的な視野で眺めることができる能力」であり、それは、「競争的な環境で鍛えられるわけがない。鍛えて発揮するには、さまざまな話をじっくり聞き、頭の中で整理して、過去に蓄積した知識や教養と照らし合わせていくことが求められ」るということである。まさにこれは、私たちがヴィパッサナー瞑想の一部に通じ得るのではないかと思われる。(雅)
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