月刊サティ!

2018年11月号  Monthly sati!  November 2018


 今月の内容

 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:修行上の質問:実践編(8)
  ダンマ写真
  Web会だより:『私のヴィパッサナー瞑想体験記』(後)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:『あなたの脳の話し』
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて頂        きます。ご期待下さい。


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:修行上の質問:実践編(8) 
               ―サマーディの周辺―
 
(おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:歩行瞑想の時に集中ができ、結構楽しいなと感じました。人が多くて邪魔になるかと思い外に出ようとしましたが、「この感じが多分消えてしまうだろう。行きたくない」と心に浮かび、「欲」というラベリングでサティが入りました。そうしたら、「欲をなくしに来ているのに何をやっているのだ」と浮かび、「じゃ外に出よう」とした時、「これはレポートするのに良い材料が出来たな」と思ったので「慢」とラベリングを入れました。このような感じでやっていってよろしいのでしょうか。

アドバイス:
  外へ出て行くまで同じような密度でサティが入っていれば何も問題はありません。
  基本的には、非常に集中が高まってきた時にはその状態で頑張った方が良いでしょう。サマーディは最初に立ち上がるまでがとても大変で、しかもたいそう壊れやすいものなのです。喜んだり期待したり、複雑なことをやるとせっかくのサマーディ感覚が立ち消えになり雲散霧消しがちです。
  楽しいという感じは、サマーディの構成因子であるピーティ()のはずです。うまく集中できてだんだん楽しくなってきたら、セオリー通りの展開でサマーディが高まってきているので、静かにその場に留まって頑張る方が良いでしょう。
  いろいろな思考が浮かぶ状態は集中が破れていく傾向なので、中心対象の感覚に集中を深めていく方がサマーディ確立に有利なはずです。しかしあなたの場合は、「欲」とサティ入れたり「慢」とラベリングしたりとてもうまくやれているので、心随観のセンスがあるのではないかと感じました。素晴らしいです。

Bさん:内観中、足が畳にくっついて離れなくなったことが何度もあります。これは一種のサマーディでしょうか。

アドバイス:
  足が畳にくっついて離れなくなったのは集中が深まっていたことを物語っていますが、それだけでサマーディと言えるかどうかは微妙です。
  内観の現場でサマーディが起きるとしたら、そうですね、内観は過去の記憶の想起が中心的タスクですから、思い出される記憶の内容が単なる回想モードではなく、リアル感がいや増す方向に絞り上げられていくべきですね。昔のことを思い出すレベルを超越し、タイムマシンで過去のその世界に戻ったような、鮮明で生々しい現実感覚が伴うようであれば、サマーディ状態が理想的に内観に適応されていると言ってよいでしょう。 
  足がくっついて離れなくなったのは、身体感覚が日常レベルとは異なって意のままにならない状態ですから、サマーディとは言えなくても、通常より集中がよくなっていたのは確かなことでしょう。もちろん足が痺れて動かなくなっていたのでなければですが・・。(笑)
  集中が深まっている状態の時に、動作の前にインテンションを入れないと固まるようになる事例はけっこう多いですね。

Cさん:サティを細かく入れると集中が高まらないような気がします。それでもサティはなるべく細かく入れた方が良いのでしょうか。

アドバイス:
  それは、その時の自分の状態にもよるし、瞑想をどの方向に進めていきたいかにもよります。サティとサマーディには拮抗し合う関係がありますので、今はどちらのファクターを成長させるべきかによって瞑想の展開が変わるということです。
  あなたの仰るように、サティを細かく入れすぎると、サティは強化されるが、集中を破る傾向があります。もしサマーディが自然に高まっていく流れにあり、集中を高めるべきだと判断された時には、意識的にサティを弱めた方がよいのです。なんとしても集中を高めたいのであれば、サティを一時的に中断し、時間を区切ってサマタ瞑想に切り換えるやり方もしばしば行なわれます。
  反対に、サティを成長させ強化したいのであれば、どんなものも必ず対象化し客観視すると断固たる決意をすれば当然そのようになっていきます。
  集中も弱くサティも甘くて不安定な時には、どちらに注力すべきか悩ましいでしょう。何のために瞑想をするのか。今の自分に必要なのは、気づきなのかサマーディの定力なのか。その瞬間の瞑想をどの方向に進めたいのか自覚的であるべきです。なんとなく場当たり的に瞑想をしていると、迷いが生じてきます。
  総じて、集中を高めるよりもサティを成長させた方がメリットが大きいでしょう。瞑想時間が限定されている在家の瞑想者はサティ中心になるのが一般的です。しかし瞑想修行としては、サマーディが高まらないとレベルの高い瞑想になりませんので、どちらに歩を進めるべきかは当人の判断に委ねるしかありません。
  そもそもこうした問題が発生しないように、古来から「戒→定→慧」の修行の流れが定められていたとも言えます。理想的な順番は、サマーディの修行をして集中力を完成させてからサティの修行に入る流れです。私流の言い方をすれば①反応系の修行(戒&善行)→②集中力の特訓(定力=サマーディ)→③洞察智の修行(サティ)ということになります。しかしこれはプロの世界のことであり、素人が俗世のベターライフのために瞑想する場合には②のサマーディの修行は後回しにならざるを得ないだろうということです。
  定力のない人が意図的にサマーディを高めようとしてもなかなか上手くいかないことが多いものです。原則としてサティを中心に瞑想し、たまさか自然発生的に集中が高まった時には、その自然な流れに乗ってサティよりもサマーディを狙うというスタンスもよいかもしれません。
  サマーディ重視の時に気をつけるべきことは、集中がよくなり心がシーンとなってくると惛沈睡眠に酷似してくることがあります。睡魔に襲われてトローンとなるのと紙一重の一面があることも心得ておきましょう。またサマーディ感覚が高まると脳内ホルモンの働きでうっとりとなり、気持ちよく現実逃避感覚を楽しんでしまうこともあります。さらに、サマーディが完成に近づいてくると強烈な快感ホルモン故にサマタ瞑想にハマり込みヴィパッサナー瞑想に戻りたくなくなる人も少なくありません。これも心すべきです。
  各人各様常に心身の状態は違いますし、同じ人であっても栄養状態とか抱えている問題によってコンディションはたえず揺れ動いているものです。その時々に応じたやり方を自分で調整しながらセルフインストラクションできるようになるためには、基本的な知識を取り入れるとともに経験的に体得する必要があります。

Dさん:集中がよくなり妄想のチラつきが取れてきたところでサマーディ状態を経験し、恐ろしくなりました。そうしたら、継続したい気持ちと恐怖心の葛藤が生じて集中を維持できませんでした。

アドバイス:
  惜しいことをしましたね。多くの人にとって、サマーディ状態は得がたい体験ですから、そのチャンスが到来した時には完成形に持ち込むように頑張った方がよいでしょう。
  サマーディは変性意識状態と呼ばれるように、日常意識とは異なるモードに入っていくので突然その状態に切り換わると恐怖感を覚える人も少なくありません。しかしそこがサティの瞑想の正念場です。サティというものは、妄想を離れて現実の瞬間に戻ってくる修行です。何も考えない完全な無思考状態で恐怖感が生じることはない、と心得ておいてください。目の前の現実の出来事から心にさまざまな想いが駆け巡ってきます。その思考のプロセスで怒りも恐怖も喜びも・・あらゆる情動が起きてくるのです。つまりセオリー通りサティが入って妄想が止まれば、どんな恐怖もパニックも立ち消えになるということです。
  何が起きても、どんな状態になっても、サティさえ入れば大丈夫、と心に叩き込んでいただきたいのです。怖くなってきたら「不安」「恐怖」とサティを入れます。きちんとサティが入りさえすれば、その状態は必ず雲散霧消していきます。不安な、恐ろしい状態が対象化され見送られてしまうからです。サティが入った瞬間、その状態にのめり込んでいないからです。
  しかしラベリングをしてもこの対象化が完全にできていないと、恐怖感は多少弱まりはしますが、結果的にあまり変わらないでしょう。するとますます焦るかもしれません。そうしたら、その焦っている状態に「焦っている」「恐怖感が続いている」「(サティを入れても恐怖が止まらないんだ)と思った」・・と、どこまでも次の瞬間の状態を対象化しようと、サティを入れ続ける「無限後退」をしていきます。たとえ効果のないラベリングでも、ラベリングできたということは対象化や客観視のファクターがあるのです。100%呑み込まれてしまって髪の毛が逆立つような状態とは違うのです。どんな状態になっても、次の瞬間の心がその状態を対象化するという原則が機能すれば、その情動から脱することができるしパニック状態も止まります。
  「サティが入れば、絶対に大丈夫!」という確信を持っていただきたいのです。これが身について成功体験を重ねると、人生を生きていく上での最強の武器になっていくでしょう。心が落ち着く。冷静さを取り戻す。その時が最も賢明な正しい判断や意志決定ができるものです。

Eさん:どのようになった時にサマーディと言われるのでしょうか。

アドバイス:
  集中の良い状態が極まっていくのがサマーディです。周囲の人も物音も気にならなくなり、頭や手や上半身など中心対象以外の身体感覚も意識されなくなります。足の歩行感覚やお腹に注意が絞り込まれ、自然に集中していきます。センセーションが非常にクリアーになり、努力感なしに安定してサティが入っていくのです。今まで感じたことのない鮮明さで中心対象が知覚されるので、思わず興味が惹かれて魅せられていく人も少なくありません。
  サマーディが高まってくると、対象への集中度、意識の明晰さ、知覚の透明感が印象的です。瞑想を意識的に展開させている印象が乏しくなり、無努力感が極まってくると完全に自動化して、コントロール不能性に陥るでしょう。固まるというか、没入感と合一感がピークに達してくるということです。
  この状態は、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想に共通する集中の完成ですが、ヴィパッサナー瞑想では、この状態にさらにサティというファクターが連動するのが特徴です。対象と合一し融け合ってしまうほど集中が極まっている状態に加えて、現在の瞬間の事実に気づく仕事が連動するのです。猛烈なスピードで生滅する事象のひとつ一つに対して、ブツブツにサティが入り続ける「瞬間定」と呼ばれる状態です。ヴィパッサナー瞑想者としては、この瞬間定を目指していくのが正道です。

Fさん:サマーディの状態になった時に注意すべき点を説明して下さい。

アドバイス:
  サマーディが未完成の時には、さらに集中を高めて安定した状態を確立するのがよいでしょう。サマーディが壊れない状態になれば、集中を高める努力は不要になるので、そこから意図的にサティを強化していくことが大事です。ヴィパッサナー瞑想の正しいサマーディは「瞬間定」だと心に刻んでおいてください。これを忘れてサマーディ状態になると、多くの人が快感ホルモンの気持ちよさにサマーディを楽しんでしまう傾向があります。
  崇高なものや美しい対象と合一するサマタ瞑想の方が楽しいし、面白いと感じられるのが普通です。ヴィパッサナー瞑想は、苦(ドゥッカ)を徹底的に見ていく瞑想です。しかも他人や世の中の苦の状態を観察するのではなく、自分自身の苦しみの原因である不善心の状態をありのままに直視していかなければなりません。多くの人が、ヴィパッサナー瞑想を続けていくのが苦しくなる一因はここにあります。サマタ瞑想のサマーディは、エクスタシーとも言える強い快感に惹き込まれる要素がありますから何度でも繰り返したくなる誘惑に駆られるのです。瞑想の心地よさを楽しんでも、人生の苦しみから根本的に解放される道は開かれてはこないのです。何のための瞑想修行か・・が問われます。
  「気持がよい」と感じたら「快感」とサティを入れ、それが生理的なものなのかメンタルなものなのか仕分けられるように観察眼を働かせてみるとよいでしょう。ダンマの知識があれば、メンタルな気持ちよさはサマーディの構成因子である「喜(ピーティ)」と判断されて「喜」とサティを入れることもできます。
  この「喜」の状態にサティを入れるタイミングが微妙なのです。繭玉の中の快感や蜜の味の蛸壺感覚に溺れ込まないと決心し、ヴィパッサナー瞑想をやり抜く覚悟が定まっていても、「喜(ピーティ)」が十分に成長しないうちにサティを入れて対象化してしまうと立ち上がってきたサマーディ感覚そのものがしぼんで元の木阿弥になることも多々あります。サマーディを安定させる努力とヴィパッサナー瞑想を貫こうとする努力は拮抗し合うので、ここが一番気をつけるポイントでしょう。
  ヴィパッサナー瞑想を維持しながらサマーディが成立すれば、サティが自動化して無努力で、どんな対象にもサティが勝手に入っていくようになります。サティの瞑想をやりながら自然に集中が高まってきた時には、力の配分として、サティをやや弱めてサマーディが安定するように集中をたかめるほうがよいでしょうね。
  私の場合も日によっては集中が悪い時もありますから、時間を区切って意図的にサマタ瞑想をやる、と決めて集中をかけることをよくやりました。サマーディ感覚が高まってくると「ニミッタ()」と呼ばれる視覚像やヴィジョンが出てくることがよくあります。この時そのニミッタにサティを入れてすぐに消してしまわず、その鮮明度や明るさや輝度をさらに高める方向に注力してサマーディの確立をうながすようなことをしましたね。サマーディが安定してきたら、再びサティを連動させてオーソドックスなヴィパッサナー瞑想を展開させるという具合にです。このあたりの展開は、一回一回の瞑想が微妙に異なるので失敗を重ねながら経験的に体得していくことになるでしょう。
  こんな事例もありました。長年に渡って寝る前にサマタ系の瞑想をやっていた方がいました。眠気が来た時点で瞑想を打ち切り、就寝するというパターンです。その方がヴィパッサナー瞑想を覚えて、いつも通り寝る前にサティの瞑想を始めました。するといつものパターンが崩れてしまって「眠れなくなった」というレポートです。眠くなってきた時に「眠気」とサティ入れたために、眠気が対象化されて消えてしまい、頭が冴えてきて眠れなくなったらしいのです。
  サティの特徴がよく現れていますね。サマタ瞑想のサマーディは心がシーンと静まり返って、昏沈睡眠と紙一重の際どさがあります。順調にサマーディ感覚が高まってきたのに、スルリと昏沈睡眠に移行してしまうことも珍しくないのです。サマーディに入っていましたとレポートされる方に、厳しく突っ込みを入れると「ひょっとしたら寝ていたのかもしれません・・」などと言うのです。
  サマーディという因子は、散乱する心を鎮めて、微動だにしない対象と融け合っていくような静けさの極みなのですが、意識活動が抑えられ停滞し静かに睡眠に移行する状態と酷似する一面があるということです。
  しかるにサティというのは、現実感覚に鋭く目覚めさせていくのが特徴ですから、これがうまく機能すると眠気が消えてしまうだろうし、高まってきたサマーディもかき消されてしまうことがあるということです。
  また、よく報告される事例としては、トローンとした気持ちのいい状態になってサティそのものが完全に失われれば、さすがに自分でもわかります。しかしそのような状態でも「膨らみ・縮み」「膨らみ・縮み」とラベリングが頭の中でメトロノームのように繰り返されていることが多いのです。『ラベリングしているのだからサティは続いているはずだ。大丈夫だろう・・」と現実のセンセーションに対してではなく、脳内にイメージされている腹部感覚に対して「膨らみ・縮み」とラベリングしているのです。
  これは厄介な事態です。光がキラキラしていたり綺麗なヴィジョンが出現したり、明らかにニミッタと分かれば、サマタ瞑想になっている自覚が生じますが、ニミッタの内容が「膨らみ・縮み」では当人に気づきづらいのです。これが、ヴィパッサナー瞑想がいつの間にかサマタ瞑想に陥っていく典型的なケースです。
  肝に銘じていただきたいのは、ヴィパッサナー瞑想が正しく実践されているか否かは、現実感覚の有無が目安だということです。怪しいと感じたら、現実の音に耳を澄ませてみたり、身体感覚の生々しさを確かめてみたりして「現在の瞬間の事実に気づく」というサティの鉄則が守られているかを確かめてみるとよいでしょう。
  話し始めるとキリがないのですが、最後に、サマーディを高めようと頑張り過ぎると上手くいかないことが多いということです。サマーディが完成するのは、成立するだけの全ての条件が自然に整った結果なのです。意識的にサマーディを狙っても、そうなるだけの流れになっていなければ良い結果にはなりません。欲が邪魔してしまうのです。がつがつサマーディを狙う、という点にそもそも問題があります。自然に来るものは来るし、来ないものは来ない、と心得て、淡々とその時の展開に身を任せ、何が起きてもそのように、ただあるがままに気づいていくだけ・・という覚悟が定まっている時の方が成功するでしょう。
 今月のダンマ写真 ~


       静寂な僧坊のたたずまい


    Web会だより  
『私のヴィパッサナー瞑想体験記』(後) K.U. 
(承前)
  この内観修行は、私にとって最も辛いものであり、同時に最も効果のある修行になった。そして、瞑想の理論からのアプローチもまた、苦しみを伴った修行であり、だからこそ、苦をなくしていけるのだと実感することができた。精神的・身体的・知的な障害や病を持つ人たちに、心から共感できるようになれたのも、内観修行のおかげである。

  そして、9年目に入ったある日、不思議な現象を経験した。なんと、この私にすんなり瞑想ができたのだ。意外なことに、中心対象に意識が自然にフォーカスできるようになっていた。また、思考やイメージなどの妄想、音、匂いなど、外部からの情報にも中心対象と同じくらいの自然さで意識が向けられていく。なぜかその時は、瞑想の実践に対する苦手意識が消え、実践に苦を感じなくなっていたのだ。これはたぶん、中心対象とそれ以外の感覚を等価に観られるようになっていたからだろう。「それ以外の感覚」には思考も含まれる。
  自分の集中力を妨げていた最大の敵であるはずの思考が、実は中心対象と何も違いがなかったということが不思議に実感され、思考が出ても全然気にならなくなったのだ。それゆえに、中心対象に集中しなければならないという強迫観念も現れてこなくなった。どこに集中しても同じだとわかったら、止のサマタ瞑想と観のサティの瞑想は、見かけは異なっていても、本質的にはその二つを分ける境界線などないように思われた。そのような自覚がベースにあると、努力しなくても自然に中心対象に意識を向けることができていた。
  たまたま特殊な意識の高揚から体験しただけだが、これこそが、サマタ瞑想とサティの瞑想の統合なのではないだろうかという気がした。先生は以前に、集中には2種類あると教えてくださった。一つは、中心対象以外のものをすべて封印して、強引に意識を一点に集中させる方法。もう一つは、中心対象以外のものが出現するたびに一つ一つ静かに見送ることを続けながら、最後に残された中心対象に意識が自然にフォーカスしていることに気づく引き算的な方法。そして、前者は典型的なサマタ瞑想、後者はサティの瞑想を軸にしながら集中力を養っていく方法ともおっしゃっていた。
  私は、理論面からのアプローチに必死で取り組んでいるうちに、いつのまにか引き算的な集中力を養っていたのかもしれない。また、ヴィパッサナー瞑想の修行の流れの一つに、身随観→受随観→心随観→法随観という順番がある。今になって思えば、私が8年間やっていた修行はこの流れに即していたかもしれない。そして先生は、反応系の心の修行に直結する心随観を、戒の修行が未熟な初心者には最重要と位置づけられているが、私も6年間念入りに取り組んでいたというわけだ。そして、そのおかげなのだろう、拙いながらもやっと身随観ができるようになったと喜んだ。
  思考への執着を手放すために、長年悪戦苦闘してきたおかげで、思考へのサティも身体感覚へのサティも匂いや音へのサティも、基本的には等質なものだという漠然たる理解が生じてきている。
  誤解を恐れずに言えば、身随観も法随観も、対象が意識に触れただけのことであり、同じではないか。少なくとも、私が8年前に始めた身随観のセンセーションと、このとき私が感じていた身随観は質的に異なり、より純粋な身随観ができていたような気がするのだ。
  うわー!私にも瞑想ができる!とすっかり感動していたが、なんと、翌日からはまたもや元の木阿弥。私の脳味噌は同じようなお腹の感覚や歩行感覚に注意を注ぎ続けていくことがどうしてもできないらしい。猿が木の枝から枝へ飛び回るように、頭の中では妄想が激しく駆けめぐり、自分でもギョッとするような面白い興味惹かれる妄想に飛びついては、キャーキャー喜んでしまうのだ。新奇探索性が生まれつき強力なのか、前世で修行を放っぽり投げて、妄想に耽ってばかりで次々と思索に夢中になっていたのか。
  それでもなんとも不思議なことだが、これだけ瞑想ができないと普通はさっさと止めてしまうものなのに、断じて私は止める気がないし、やり抜くしかないという揺るぎない確信が定まっているのだ。これも妄想だが、前世で修行もせずに哲学的妄想に耽っていたが、死ぬ間際になってやっと心の底から瞑想修行の実践以外に救いの道はないと気づいて来世に託したのかもしれない。今世ではその決心どおり修行しようと思っているのだが、あまりに何度も同じ脳味噌の使い方を繰り返したせいで、気持ちとは裏腹に、いざ瞑想修行を始めると自動的に妄想のスイッチが入ってしまい言うことを聞いてくれないのかもしれない。
  しかし、この世の一切は無常であり、どのような事象も存在も状態も永遠にそのまま固定していることはない。先生も仰るように、ブレないで決意を貫いていけば必ずその通りになっていくのが現象世界というものだと確信している。だから、私は断じて諦めずに、このヴィパッサナー瞑想を続けていくし、やり抜いていく。
  最後に、地橋先生に改めてお礼を申し上げたい。私が地橋先生の瞑想会にたどり着いた原動力となったのは、次男を赤ちゃんの時に亡くした体験による罪悪感を手放したい一心からの情熱だった。この罪悪感をなんとかしなければ、死ぬに死ねないという思いにとらわれていたのだ。数多くのスピリチュアル系の本を読み、いろいろな会にも顔を出したが、どれも○○を信じることが前提条件となっているものばかりだった。私には、その前提条件となっている○○を無条件で信じることにはどうしても抵抗があった。だからこそ、○○を押しつけないところ、○○が前提条件となっていないものを私は無意識に求めていたのである。そして、先生の瞑想会に初めて参加したとき、自分が望んでいた通りのところに私はやっとたどり着けたと直感した。それが、どんなつらい修行にも耐えることができた理由なのだ。
  そして8年間かかって、私は自分の直感が正しかったことを実感している。○○を必要としないどころか、○○を必要としないというその気づきさえやがて自然に生じなくなるのだろう。ちなみに、○○とは二元論を意味し、それがどのような概念であっても苦であることに変わらない。○○を手放し続けていく過程こそが、認知のプロセスであり、ヴィパッサナー瞑想なのではないだろうか。
  ・・と、また妄想してしまう私だが、ヴィパッサナー瞑想に興味を抱き、これから瞑想を始めようと思っていらっしゃる方々。そして、瞑想に何年も取り組んでいるのに、なかなかこれといった成果が出せなくてスランプに陥っていらっしゃる方々に、転んでも転んでも絶対に諦めずに瞑想に立ち向かおうとする私のような者もいるのだということが、少しでも励みになってくれればこの上ない喜びである。
  瞑想に不可欠な集中力がまったくない、箸にも棒にもかからない落ちこぼれの劣等生の私だが、修行の情熱は変わらないのだ。人の才能も、弱点も、自分に与えられた資質というものは、どうしようもない業の結果であり、そのあるがままの自分を認め、受け入れて、与えられた独自の道を最後まで歩み抜いていくことこそ、自分にとっては最高の生き方なのではないでしょうか。それこそが、どなたにとっても、究極に至る唯一の道なのだと、仏教から学んだ9年でした。
  先生、法友の皆様、本当にありがとうございました。そして、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。(完)



☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

      
 






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ダンマの言葉

  誰でも木とレンガで家を建てることができます。しかし、ブッダは、「そうした種類の家は私たちの『真の家』ではなく、名目上私たちのものになっているにすぎない」とお説きになりました。それは世俗の家であり、世俗の法則に従います。私たちの「真の家」とは内的平安です。外的な物質の家は確かに素敵かもしれませんが、それほど平安をもたらすものではありません。(『月刊サティ!』20053月号、「私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話」より(アチャン・チャー長老法話集)

       

 今日の一言:選

1)心の中でサヨナラを言わなければ、終わりにはできない。
 断言された言葉によって認識が確定し、混沌として心に癒着していたものが整理され、仕分けられていく……
 亡くなった人よ、別離した人よ、失ったものよ、叶わぬ夢よ、黄金時代よ……

(2)不善心所に圧倒されながらでも、ムカつきや興奮や焦りや混乱の泥沼状態に気づける一瞬が必ずある。
 すかさずラベリングを打って、事実だった確認をする。
 サティが、次のサティを生む法則……

(3)やりたくない、いや、やろう……と思いが千々に乱れ、迷っているとき、善心所と不善心所が交互に素早く点滅している。
 たとえ心がグチャグチャでも、取りあえず、瞑想してみよう……と思った瞬間の心は善心所なのだ、と胸を張る。


       

   読んでみました
     デイヴィット・イーグルマン著『あなたの脳のはなし』
                              (早川書房 2017年)

学校では色や光の三原色、そして波長の違いによって色の違いが生まれると学ぶ。その時はその先は無かった。しかし、実は、「外部世界に色は存在しない」「私たちは何百万という波長の組み合わせを区別できるが、そのうちのどれかが色になるのは、私たちの頭の中だけのことだ。色は波長の解釈で有り、内部にしか存在しない」のだという。また、「私たちに見えるのは、生物学的に限定された、現実の一部でしかない」ということ、ダニ、コウモリをはじめとして、「生物が感知できるのは生態系の一部」であり、「実際に存在する客観的現実そのものを経験している生物はいない」。
  著者はスタンフォード大学の神経科学者。本書は、情報を受け取った脳による認識、理解、決断の、行動という「プロセスの大部分は意識に上らず、本人も気づかないうちに終わっている。本書は、このような脳と意識や意思決定のことが歯切れよく語られてく」(「訳者あとがき」による)。
  このように、わたしたちの行動、信念、偏見もすべて、「意識的にアクセスすることができない、脳内のネットワークによって、決定される」のではあるが、しかし、脳は自らそのネットワークを書き換えることができる。それは脳の最も強力な特徴のひとつであって、良くも悪くも脳の回路に刻み込むことで考えたり意識することなしに実行されるようになる。まさに「反応系」の書き換えに希望を置くところの所以である。そしてついには、「新しいスキルは意識のおよばないところに沈む」ことになる。
  これは、脳は前頭葉抑制の状態になること、そしてその状態は「心中のおしゃべりによって気を散らされることがなくてはじめて、実現できる」し、「意識は傍観者になっているのがベストである場合が多い」。これはあらゆる修練と言われるものにあてはまることであり、ヴィパッサナー瞑想の訓練にも重なる。
  また、興味深い指摘は、共感が人類の進化の上で培われてきた有益なスキルだと言うことである。「私にあなたは必要か~」の章では、正常な脳の機能には周囲の社会ネットワークが欠かせないとする。「あなたは他人が苦しむのを見るとき、それは彼らの問題であって自分のことではないと、自分に言い聞かせようとするかもしれない――が、脳の奥深くのニューロンには、その差がわからない」「他人の痛みを感じるこの生来の能力は、私たちが自分の立場を離れて相手の身になれる理由のひとつである。しかし、そもそもなぜ私たちにはこの能力があるのか、(中略)人が感じていることをうまく把握できたほうが、人が次にやることを正確に予測できる」。
  その他、「時間的な差のある複数の情報を同時に感じるために、私たちは過去に生きることになる」ことや、決定に関する神経のネットワークは「自我消耗」と呼ぶ心理学者が呼ぶところの生物学的なニーズにしたがっていること、アイオワ州の小さな町の教師が教室で子どもたちに「他者視点の取得」と「ルール体系は恣意的」なことを体験させ、「自分自身の意見を持つ力を与えた」こと、さらには、最終章「私たちは何ものになるのか?」では、これからのテクノロジーの進歩の方向を予見するなど、興味は尽きない。
   最後に、「人類の明るい未来を望むなら、人間の脳がどうやって相互作用するかを研究し続ける必要がある――その危険と機会の両方を。なぜなら、私たちの脳の配線に刻み込まれた真実を避けることはできないから。私たちは互いに互いを必要としているのだ」と結ぶ。今まで学んできたことをさらにいろいろな面から補ってくれる一冊であった。(雅)


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