月刊サティ!



2018年10月号  Monthly sati!  October 2018


 今月の内容

 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:クーサラを心がける(1)
  ダンマ写真
  Web会だより:『私のヴィパッサナー瞑想体験記』(前)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:『ゲッベルスと私』を観て
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて頂        きます。ご期待下さい。


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:クーサラを心がける(1)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:徳の高い方へお布施をする方が良いと読んだことがありますが、例えばホームレスの方へお布施をするのはどうなのでしょうか。

アドバイス:
  徳の高い比丘へのお布施は、徳のない人へのお布施よりも波羅蜜(善業の集積)のポイントが高いと言えるでしょう。なぜなら、徳の高い人ほど受けたお布施のエネルギーをさらに善なる方向に及ぼしていくからです。善いものが何倍にもなって広く世の中に還元される可能性が大きいのです。

  これはテーラワーダ仏教圏では周知のことなので、多くの人が徳の高い比丘にお布施をしたがる傾向があります。お布施の善果を効果的にしたいと期待する心があるからでしょう。

  これが行き過ぎると、自分の徳のポイントのことしか考えない「劣善」と呼ばれるようになります。出せば入ってくる。与えれば与えられるのだからお布施をすれば幸せになれる、という発想です。しかし誰でも最初は、利己的な要素の強い善行から始めるものでしょう。それでもかまいません。何もしなければ、いつまで経っても善行が始まりません。たとえ劣善でもやり始めれば、人に善いことをする勢いがつくからです。心が成長してくればだんだん中善(相手のことを真に思いやる善行)、勝善(積善=波羅蜜→清浄道の完成)と進んでいけるものです。
  ただ、どんな初心者でもブッダが言われた次の言葉を忘れないようにしましょう。

  「請われたならば、たとえ乏しい中からでも、与えよ」(真理のことば 第17224) 

  どんな人でも、困っている人から求められたなら、与えるべきであり、助けるべきだと言うのです。苦しみを無くすために瞑想しているのだから、他人の苦しみをなおざりにしてはならない、と。どんなに貧しくても、分かち合うことはできるのです。

  物惜しみする人は、死後天界に再生することはない。愚かな人は、分かち合うことを讃えない、とも言ってます。天界に再生できる3つの条件は「①真実を語る。②怒らない。③乏しい中からでも与える」とも言われてます。

  また、お布施やボランティアなど諸々の善行は瞑想の一部門として実践すべきです。他人に善なる行為をする瞬間の自分の心を、マインドフルに、よく気をつけて、自覚的に観察することを忘れないことです。日常生活の瞑想になります。

  劣善になっていないか。傲慢になっていないか。弱者を憐れむよりも、上から目線の優越感がうごめいていないか。その善行を嫌々ながら、渋々やってはいないか。本当にやさしい心は発信されているのか。・・等々、よく気をつけて自分の心を観る絶好のチャンスになるのが善行の瞑想です。


Bさん:陰徳を積むにはどうすれば良いでしょうか。

アドバイス:
  陰徳というのは、人に知られずに行なう善行のことですね。

  普通は善いことをして徳を積めば、表彰されたり、賞賛されたり、評判が良くなり、名誉を得がちです。名誉という価値を得れば、その善行の善き結果を得たことにもなるので、波羅蜜として積善される分量が少なくなるとも言われます。

  陰徳は、人に賞賛され尊敬されたい誘惑に耐える修行にもなります。自慢したい。褒められたい。立派な人だと思われたい・・というのは、かなり根深い煩悩なのです。「慢」の煩悩の背景には、乗り超えられていない劣等感や承認欲求の問題があるかもしれません。瞑想者には、大きな課題です。

  陰徳を積むには、因果の法則を良く理解して、自分の放ったエネルギーは必ず未来の自分自身に返ってくることを熟知することです。人は誰も助けてくれなくても、自分の善き業が自分自身を救ってくれるのだと腹に落とし込むことが大事です。

  陰徳を邪魔しているのは、今申し上げた褒められたい、尊敬されたい、良く思われたい、という承認欲求や名誉欲やプライドですから、その煩悩を観じきっていく覚悟や乗り超えていく決意が重要です。

  徳を積んで果報を得て幸せになりたい・・というこの世的なレベルからさらに上を目指し、善業の集積である波羅蜜を蓄えて聖なる修行を完成する方向に歩を進めることができれば素晴らしいですね。


Cさん:クーサラ(善行)をしたいと思うのですが、日常的にはどのようなことを心がければ良いでしょうか。

アドバイス:
  「徳のない人には、徳が積めない」法則があると言われます。何も善行をしたことがない人が初めてクーサラをしようとすると、いったい何をすれば良いのだろう・・と途方に暮れるものです。だから多くの人が、誰でもすぐにできるゴミ拾いなどから始めることになります。通勤時に道路や駅の階段など、目についたゴミを拾っていく。公園や公共の施設、バス停のベンチや周辺など、きれいにするところはいくらでもあるし、道行く人には快適さや爽やかさ、小さな幸福感などを与えることになるでしょう。

  困っている人を見かけたり、何か訊かれたときや、お役に立てるチャンスがあれば見逃さない原則を立てると良いでしょう。電車の席を譲ることさえ、タイミングが悪いと気恥ずかしい感じになり、できなくなるものです。また、クーサラをしようという高揚感は長続きしないものです。だから、ルール化することが大事なのです。

  毎日必ず善行を一つ以上する、と決めて、その記録をノートしていくとよいでしょう。「クーサラ日誌」と言います。これは素晴らしい効果があります。その日の善行だけを記録していくノートなので、何もしなければ空白が続きます。そうなると、このノートのために善行をしようと頑張り始めるようになります。このくらいの仕掛けを施さないと、善行を定着させるのは難しいものです。水が流れるように、善行が当たり前にできるようになるまでは、ルール化や仕掛けが大いなる助けになるでしょう。

  善行をすると、心が爽やかになり、とても気持ちが良いことに必ず気づきますから、だんだん無理なく自然に善行ができるようになりますので頑張ってください。


Cさん:その他に、何か具体例はないでしょうか。

アドバイス:
  私がスリランカで修行していたときの経験ですから日常生活とは違うのですが、白人の修行者であまり良い結果が出ていない様子の人がおりました。見ていると、その人は作務の時間になるとさぼって必ずシャワーを浴びにいくのです。みんなが作務をしているにもかかわらずです。それではもう何のための修行なのかと言うことになってしまうでしょう。さもしいというか、自分のエネルギーを人のために使うのは損だとでも思っているのでしょうか。そんなみみっちい、貧しい心では修行がうまくいくはずがありません。
  瞬間、
私は「よし! 人の分まで作務ができるのはありがたい」という感じでトイレ掃除をしました。バケツでザアザア水を掛けて、デッキ・ブラシでピカピカにしたものです。サボる人に嫌悪感や蔑みの心で不善心所になるのではなく、天が善行の機会を与えてくれたとプラス思考するのです。
  毎日陰徳を積まなければ修行が進まないことは熟知していましたから、こんな風にスリランカで1カ月修行して次に、初めてミャンマーの僧院に入りました。すると不思議な展開で、良い結果が出たのです。「おお、クーサラやっててよかった!」という感じで、感動的でした。

  まあ、その因果関係を科学的に証明しろ、などと言われれば無理な話なので、ミャンマーで起きた良いことがスリランカでやった善行の結果である証拠は出しづらいのですが、やはり善因善果には法則性があるとだんだん腑に落ちていきます。瞑想者を助ける善行をすれば、自分の瞑想修行が助けられる基本傾向があるのです。良いことが起きても、悪いことが起きても、その現象に反応するのではなく、自分の記憶をサーチして、そのような現象を体験することになった原因を何か作っていなかっただろうか、と調べる習慣をつけるとよいでしょう。

  また、日本の坐禅道場で接心に参加していた頃のことです。私はヴィパッサナーをしても良いですかと了解を取ってから、みんなは禅をしている時にヴィパッサナーをしていました。その時に見たのですが、五十代後半くらいの男性がよく居眠りしているのです。根性あるというか、本当に歯を食いしばるように頑張っている感じは半端ではなく伝わってくるのですが、でも居眠りなのです。本当に気の毒な有り様に見えたものです。
  ところが何を思い立ったか、ある日の昼食後に、皆さんだいたい袴を履いているのですが、その袴を端折ってトイレ掃除やっているのです。作務はいつも朝なのに。「おお、頑張っているなあ」という感じでトイレをピカピカに磨いているのです。そうしたら、午後の坐禅は別人のようでした。昼食後はいつも必ず居眠りしているパターンなのに、その時には相当気合が入って微動だにせず集中されている様子でした。判で押したような居眠りパターンが生じなかったのは、トイレ掃除の善行と関係があると私には見えました。

  後日譚ですが、後に私自身が自分の道場でヴィパッサナー瞑想の合宿をやるようになったあるとき、長年禅の修行をしてこられた方が、皆に迷惑はかけないので自分は密かに坐禅の修行をしてもよいですかと訊かれたのでOKしたことがありました。かつて自分が禅堂でヴィパッサナー瞑想を密かにやっていたのを思い出し苦笑したことがあります。禅の接心でヴィパッサナー瞑想をやっていた者が、今度はヴィパッサナー瞑想の合宿で坐禅の修行をやられる羽目になったのです。

  また、これは10日間合宿での話ですが、頭がボンヤリして坐禅の調子が思わしくなく、肩と首筋がバリバリに凝って修行がうまくできない状態になった方がいました。それまで私はサティを一瞬も切らさずに徹底させる連続性を強調して指導してきたのですが、スリランカで作務の重要性を叩き込まれましたので、早速導入しようと思っていたところでした。そこで、風呂の清掃はどうかと面接で提案したら、やらせてくださいということになりました。

  すると風呂掃除を50分かけてやり終わったら、頭が雲が晴れたようにスッキリし、凝りのバリバリも完全消失です、というレポートがありました。作務によって不調が改善されるという、セオリー通りの結果が出たのです。以来、多くの瞑想者がこの作務効果をさまざまなケースで検証されてきましたので、今では揺るぎない確信を持っているのです。

  それにしても、なぜ作務にそのような効果があるのでしょう。それは、心が善心所モードに変わるからです。サティは善心所モードに分類されており、不善心所になれば当然サティは入らず、心は乱れ瞑想は崩れます。焦ったり、イライラしたり、調子良さそうな人に嫉妬したり、そんな自分に自己嫌悪したり、心は泥沼に陥っていくのです。

  そんな状態で瞑想を続けても、善心所に転換するのは容易ではありません。そこで、作務の出番なのです。道場での作務というのは、他の瞑想者が気持ちよく修行できるように、人のためにささやかながら善行をする利他行です。それまで自分の瞑想が進むことしか考えられなかった人が、人様の修行が進むことを願って善行をするのです。利己心は瞑想の妨害要因であり、利他行をする自分の行為によって善心所モードの心に変わっていくのは自然なことです。

  さらに、毎日スローな動きでサティを入れ続けるのが苦しくなっているときに、デッキブラシでタイルの床面をゴシゴシ洗う行為は新鮮だし、浮かんでくる妄想も当然自分の善行に刺激されたものになる傾向です。こうして、作務に取り組むと心が変わり善心所になるので、再びサティが入り始め集中が深くなったり良い瞑想ができる可能性が開けてくるのです。

  カルマ論から説明することもできます。修行がうまくいくのもいかないのも、すべて諸々の因果関係の結果です。良い修行ができるのもできないのも、無量無数の因縁因果の然らしめるところであり、もし修行がうまくいかないのであれば、足りないものがあったからで、打開し改善するには良い結果をもたらす因となる行為をする。つまり何らかの善業を積むことです。トイレがピカピカになれば修行者は気持ちよく修行ができるわけで、瞑想者を間接的に助けているしお役に立っているのですから、結果として自分の修行も後押しされ好転していく流れになるのです。

  瞑想修行がとてもやりやすい環境に恵まれている人もいれば、場所も人も仕事もことごとく流れが悪い人もいます。それはけっして偶然ではなく、膨大なカルマの集積である「徳」があるかないかが問われるのです。もし今自分に瞑想修行のできる環境が与えられているとすれば、実はその背景には膨大な善行による徳の結晶があって、そうした力に助けられ修行がやりやすい環境に恵まれているのだと考えられます。ですから、瞑想したいのに環境が整わない人は、徳が足りなかったのだから今から善行を心がけていくと流れがだんだん良くなってくるでしょう。

  その結果はいつ出るのですか?と訊かれても、今日やった善行為が明日必ず結果を出すという単純な式が存在するわけではありません。前提条件が千差万別なのも一因です。昔から基本的に良いことをしてきた人と、積極的に人に悪さをして邪魔ばかりしてきた人が、今日同じ善行をしても、その結果の出方は当然異なってくるのです。良いカルマも悪いカルマも宇宙的な現象ですから、あらゆる他の事象との関連の中でその結果が出てきます。そうなるだけの全ての条件が整ったタイミングを「縁に触れる」と言いますが、因果が帰結する補助的要因が必要なのです。

  例えば、向日葵の種の中には遺伝子があって、必ず花が咲く要因が組み込まれているとはいえ、水や土や光や温度や諸々の条件が整わなければ発芽しないし花も咲きません。補助縁とはそういうことです。カルマがあっても、縁に触れるタイミングは設計しきれませんから、業の帰結は千差万別になるのです。宇宙の全体的な相関関係の中での複雑系なのです。カルマは、見えにくいし解りづらくなるのは避けられません。しかし基本的な因果性まで否定するのは問題です。

  重要なのは、善いことをしたという事実です。人のお役に立てる善をなせば、心がきれいになるし爽やかな後味が残ります。瞑想者には、それだけでも十分に意味があることです。その善業の結果は楽しみに待っていてください。ブッダはこう言ってます。

  「この世で善いことをしたならば、安心しておれ。その善いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、安心するがよい。人に知られずにしたことであっても、安心しておれ。それの果報があるのだから、安心しておれ」(感興のことば 第2831)

  「久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰ってきたのを祝う。
  そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。――親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように」(真理のことば 第16219220)

Dさん:クーサラ日誌をつけると良いというお話を伺って書き始めました。そうすると、自分がしてあげたことよりしてもらっていることのほうがすごく多くて、感謝の日記みたいになってしまいました。それでも良いのでしょうか。

アドバイス:
  けっこうです。例えばどんなことがありましたか。


Dさん:
  例えば、エレベーターの中で荷物をたくさん持っている人に「持ちましょうか」と声を掛けただけなのに、その人は降りてからわざわざ私を待って、「すごくうれしかったわ、ありがとう」と言ってくださったことがありました。そういうことが多い気がします。


アドバイス:
  今の話では、明らかに人から感謝されるものを与えているわけですから素晴らしい善行ですね。
  相手の方は待っていて、ただお礼を言っただけですが、それを聞いてあなたの心は明るくなり、嬉しくなったことでしょう。相手の方も、あなたのためにささやかな善行をしたという解釈もできるでしょう。人の心を喜ばせて、きれいに、爽やかにしてあげることができれば、それも善行と考えてよいのです。そういうのは「心施」と呼ばれ、「笑顔も、お布施になる」と経典には説かれています。人に接するときに、何もしてあげられなくても、本当に気持ちよく、心からの笑顔や優しい心で接することができれば、相手の方を幸せにしているのです。

  たとえ寝たきりであっても、お金を全然持っていなくても、心のお布施はできるということです。そのように、人から人へ善行が伝播し、束の間の幸せが拡がっていくのは素晴らしいことです。あなたのなされた善行は、一つの行為がただ完結しただけではないということです。これからも、自分の行なう善行の波紋が、世の中の水面に次々と拡がっていくことを意識しながらおやりになってください。自分の善業の結果をよく理解してなされる善行は、智慧が伴っているがゆえにワンランク上なのです。

  また、クーサラ日誌を付けることは、そのようなことを習慣化させていく強力な仕掛けになります。技術的にそのような手段を使うことで、「またやろう」という気分になるからです。「クーサラをやると良いですよ」という話を聞けば、数日は「やろうかな」と誰でも思いますが、結果的に続かないことも多いのです。継続できる工夫をし、何かの仕掛けを施さないと、電車道のように轍のできた心はなかなか変わりづらいものです。クーサラ日誌は日々の善行を永続化させてくれますので、試してみてください。


Dさん:私がやってあげなくても、やっていただいたことに対して書いていると、ありがたかったり嬉しかったり、すごくいい波動の気持ちになるので、そういうものでも書いていいのでしょうか。

アドバイス:
  もちろんです。感謝するということ自体が素晴らしいことです。善行の瞑想は、心を浄らかにする清浄道の修行の一環です。相手の幸福のために善行をするのですが、その行為の結果、利己心を乗り超え、自分の心が成長し浄らかになっていくから瞑想になるのです。傲慢な人には、感謝はできません。自己チューで、相手の立場に立って物ごとを見ることができない人は、何をしてもらっても当たり前で、一応言葉では「ありがとう」と言うものの心から感謝している訳でもなかったりします。真の感謝は、エゴを乗り超え、諸法無我を覚っていく修行の一環になっています。
  「よい波動の気持ちになる」こと自体、善心所モードになった証しです。心が善なる方向にパタパタと倒れていったのです。毎日のように起きる嫌なことに目を向けるのはアヨニソ・マナシカーラ(ayoniso-manasikāra:非如理作意)です。その反対に、善いことに注意を注ぐのはヨニソ・マナシカーラ(yoniso-manasikāra:如理作意。本質へ、真理へ、善なる方向へと注がれる注意)です。嫌なことがたくさんあった日でも、その中から嬉しかったこと、ありがたかったこと、感謝すべきこと、きれいな心になれた瞬間を見つけていくのは素晴らしいです。そちらに目を向けるだけでも心の清浄道、反応系の修行としてはとても良いことなので、感謝の日記になったらなったで全然かまいません。ぜひ続けてください。


Eさん:クーサラをする時に気をつけることがありますか。

アドバイス:
  何事も、反射的に、習慣的に、無自覚にやられてしまう傾向ですが、自覚的に善行ができると素晴らしいですね。常によく気をつけてサティを入れなさい、と言われているようなものですが、自覚的でないと傲慢な心が起きがちなのです。褒められたい。尊敬されたい。立派な人だと思われたい。徳があると言われたい。わたし善行してるの、偉いでしょ?と言いたくなったりしがちです。黙っていても人はよく見ているし、自分からひけらかすのはカッコよくないのです。善行の業の結果は人が見ていても見ていなくても必ず現れるのですから、黙々となすべきことをやっていれば、ブッダの言うように安心しておれ、です。

  善行をすると善き果報が得られると期待する心がどのくらいあるのか。相手のことをどこまで純粋に思いやってしている善行か。自分の善行がどのような因果の帰結をもたらすか明確に自覚できているか・・等々、よく気をつけていると善行を通して教えられることが多々あります。よく気をつけてサティを入れながらの行為は、素晴らしい善行の瞑想です。

  それが積み重なって自信が深まっていくのも確かなことです。ひそかに陰徳を積みながら、自分の心が立派になっていくのを一人静かに検証していけばよいのです。やがて必ず人の認めるところになっていきます。

  本当に自信のある人は、あまり他人と比較したりしません。劣等感の強い人ほど、いつでも人と比べて落ち込み、自分よりも低い人には猛々しく傲慢になります。ブッダも「自らを拠りどころとし、他を拠りどころとするな。法を拠りどころとし、他を拠りどころとするな」と言ってますよね。凡夫の思惑などに惑わされず、法を拠りどころとして生きていけば、自分はダンマと共に生きているという揺るぎない自信が生まれてくるのです。ダンマと共に生きるとは、五戒をしっかり守り、善行をなしながら日々正しく生きている人です。五戒を守り、善行をなし、瞑想をしていたら、ブッダの弟子として申し分ありません。仏教の真髄である「七仏通誡偈」の実践者なのですから。

  「諸々の悪を避け、あらゆる善をなし、自ら心を浄らかにする(=瞑想をする)。これこそが諸々の仏たちの教えである」(真理のことば 第14183)


 今月のダンマ写真 ~

     

下館道場の仏像
地橋先生提供
 


    Web会だより  
『私のヴィパッサナー瞑想体験記』(前) K.U.
  地橋先生の瞑想会で修行をさせていただくようになってから、いつのまにか8年が過ぎようとしている。ここで、ひとまずの区切りをつけるためにも、ヴィパッサナー瞑想に出会ってから今に至るまでの自分の修行を総括的に振り返ってみたいと思う。
  先生の瞑想会を知ったのは、『DVD版ブッダの瞑想法』がきっかけだった。それまで瞑想というと、何時間も不動の状態で坐り続けていなければならない苦行のイメージがあり、集中力のない私には無理だと思い込んでいた。
  しかし、このDVDを見ると、坐る瞑想だけでなく、歩く瞑想や立つ瞑想、さらには日常モードの瞑想など動きながらできる瞑想が紹介してあるではないか。
  「なんだ、瞑想って実は簡単なものだったのね。こういうことで悟りも得られるならやってみようかな」とこの上なく軽い気持ちで瞑想会に出かけたおめでたくも哀れな私。
  初めての瞑想会で、先生は初心者の我々に、まず「認知のプロセス」についての説明をされた。これは後に、ブッダのヴィパッサナー瞑想の理論の中核であり、先生の瞑想理論が凝縮されたまさに智慧のエッセンスであると知る。
  次に、瞑想の詳しいやり方を、先生ご自身が丁寧に説明してくださった。これは後に、ヴィパッサナー瞑想の具体的な実践方法であり、智慧のエッセンスがそのまま身体的に表現されたものだと知る。
  これほど密度の濃い内容を、瞑想のことなど何も知らない我々に一度に教えてくださったのだ。当然、何のことかさっぱりわからない。でも、要は、自分の身体の一部に意識をフォーカスさせて、他の感覚や思考やイメージなどの妄想にサティを入れることを繰り返していけばよいということは理解できた。
  早速その日から瞑想の実践を開始した。ところが、いざ実践しようとしてみると、まったくできないことに戸惑った。妄想が気になって、身体の中心対象になかなかフォーカスできないのだ。歩く瞑想なら、中心対象がはっきりつかめそうなものだが、坐る瞑想と同様、ほとんど集中できない。
  「離れた」「移動」「着いた」「圧」とラベリングだけはしっかりと口をついて出てくるが、実感を伴わない言葉がただ空回りしているだけの状態だった。
  その時、私の集中を妨げている最大の敵は、思考であったことに気づく。すなわち、思考を封じ込めようとすればするほど、過去の記憶にまつわる後悔や怒りが、心の奥底から噴き出す感じになるのだ。それを訓練で何とかしようと、それから丸2年の間、来る日も来る日も一日2時間瞑想の実践を行なった。
  瞑想を開始して間もない頃に、2度だけ、歩く瞑想と坐る瞑想中に、サマーディらしきものを体験したことがある。ところが、その体験をしたがゆえに、心は至福体験の再現を求めるようになり、妄想がいちだんと強化されてしまい、ますます思考の泥沼に巻き込まれるという悪循環が始まった。
  結局、2年間がんばったところで、燃え尽き症候群のようになり、瞑想の実践はできなくなってしまったのだ。
  そこで、やむをえず、戦法を変えることにした。
  今度は、ヴィパッサナー瞑想の理論からのアプローチである。「認知のプロセス」には、先生がご自分の瞑想修行で得られたすべてが詰め込まれている。この認知のプロセスの本義を知ることがブッダの教えのすべてであるという直感を抱いていた私は、その暗号を解くことに一生懸命になった。瞑想会での先生のダンマトークと本などの文字情報を中心に、理論面での修行()の始まりである。
  そして、ほどなくして、このアプローチの方が私には合っていることがわかり、それから6年間は瞑想の前座修行()に没頭した。元々読書が生き甲斐になっていたこともあり、ありとあらゆるジャンルの本を片っ端から読んでいくことになる。哲学や心理学の分野はもちろんのこと、物理学や数学、生物学など理系の分野、さらには経済学など以前の自分だったら見向きもしないような分野にまで及んだ。
  瞑想会スタッフとして毎回参加させていただきながらも、瞑想実践はほとんどしないで本ばかり読んで知的ワークに専念している自分に若干の後ろめたさを感じてはいた。しかし、ヴィパッサナー瞑想の理論の真髄である認知プロセスの意味を自分なりに納得しなければ実践には移れないような気がして、「これでいいのだ」と自分に言い聞かせるようにしてこのやり方を貫いていた。
  この間、善行の修行にも情熱を傾け、自分のできる範囲で徹底的に財施や身施などの布施行を始め、多くの方々にダンマ情報の提供も心がけた。また、先生が反応系の修行として推奨されている内観の修行にも、間隔をあけて2度行くことになる。(続く)



☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

      




むらさきしきぶ
 
 







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ダンマの言葉

  私たちは、「私の」家、「私の」家具、「私の」夫、「私の」妻、「私の」子ども、「私の」親戚、「私の」車、「私の」仕事、「私の」職場、「私の」友達、といった風に「私のもの」と思うことで、「私」を安心させています。それが、「私」を支えている仕組みなのです。こうしてエゴは、安定を得たような錯覚に陥ります。しかし現実には、いかなる人も所有物も永遠に存在するわけではなく、あらゆるものは常に消えつつあるのです。
  上に述べたような安定が真実のものなら、家や車は大きければ大きいほど、友人や子どもは多ければ多いほど、夫や妻も多ければ多いほど、その人は安心できるということになるでしょう。しかし、これらすべての人や物を持つと、心配ごとややっかいごとが増えるばかりです。(アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました。:『月刊サティ!』20032月号より)

       

 今日の一言:選

(1)こちらの苦境を事務的に、淡々と聞き取り、機械的な仕事口調での受け答えだったが、よく見ると両の眼に涙が潤んでいた……
  共感と情動の脳が作動して涙するのだが、抑制系の脳が働くことによって冷静な対応となる。
  どのような対象にも熱くならず、最愛の家族にも赤の他人にも等距離で接する「捨(ウペッカー)」の心は、「聖なる無関心」と訳すべきか「聖なる関心」と訳すべきか……

(2)無我夢中で必死に生きてはきたが、過ぎ去ってしまえば、何もかも夢のようではないか……
  もし、ブッダの説かれるように、この世のことを泡沫のごとく、陽炎のごとく観じることができるならば、全てのものに無差別平等の、同じ分量の優しさと無関心を保つことができる……

(3)悪を避け、善をなしている限り、必ず良くなるから、安心してよい……
  怖れることは何もない。生きている限り、なんとかなる。
  徳を積むことを第一に考え、残余の業は、来世につないでいく……


       

   読んでみました
     映画『ゲッベルスと私』を観て
  先日、岩波ホールで『ゲッベルスと私』というドキュメンタリー映画を観た。
  この映画は、第二次世界大戦中、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書として働いていたブルンヒルデ・ポムゼルという女性の独白を主軸として制作された作品である。
  彼女が映画のためのインタビューに応じたのは、103歳の時。106歳で亡くなるのだが、その年齢にしてはあり得ないほどの研ぎ澄まされた記憶力で、当時の出来事を淡々と語っていく。そのモノローグの合間に次々に映し出されるホロコーストにまつわるアーカイブ映像も衝撃的だ。
  虐殺されたユダヤ人の死体が道端に転がっている映像。
  それを荷車で運んで、死体置き場に投げ捨てる場面。
  死体置き場に積まれた屍体の山
  私も今までにテレビなどでこの種の映像は数多く見てきたつもりだが、これほど悲惨で生々しい映像ははじめてだったのでショックを受けた。
  しかし、目をそむける気にはなれなかった。それどころか、これはめったに見ることができない貴重な映像だから、この機会にしっかり目に焼き付けておこうとさえ思った。
  これは、普段は怖がりの私にとっては非常に珍しいことである。だからこそ、その翌日、目覚めた瞬間に、この映画の中のブルンヒルデ・ポムゼルさんの表情とアーカイブ映像が鮮明に頭に浮かんできたのだろう。
  ・・・不思議だと感じたのは、頭に浮かんできたのが言葉ではなく映像だったこと。思考優位の脳の持ち主である私の場合、今までだったら、夢にしても言葉でのメッセージばかりだったからである。その時に感じたのは、「思考より映像の方がより事実を直感できる」ということだった。
  映画の中で、ポムゼルさんは「なにも知らなかった私には罪はない」と断言していた。その言葉は、それを聴く者の心に突き刺さるような印象を与える。だからこそ、映画のポスターにもはっきりと明記されているのであろう。
  しかしながら、そのポスターに全面的に映し出されているポムゼルさんの顔の写真は、その言葉は本心からのものでないということを如実に物語っているように私には感じられるのだ。実際に、私はこのポスターを目にした時に、激しい違和感を覚えた。
  言葉は便利なツールであり、人は軽々しく口を開き思ったことを口にする。だが、その言葉が本心からのものかは言っている本人にもわからないことが多々あるのではないだろうか。そういう意味では、自己保身に一番便利なのは言葉のような気がする。
  自分自身を省みても、言葉では立派なこと、模範生のようなことを語っていても、実態はそれとは真逆で、本心ではそういう理想的な状態になりたいと切望しているだけということがよくあるからである。それに対して、映像、特に人の顔の表情は本心をそのまま伝えていることが少なくないように感じる。
  ドキュメンタリーの賞をとるような写真などを見ると、言葉では言い尽くせないありのままの情報が込められていると感じることがよくあるからだ。ポムゼルさんの場合もそれに当てはまると思った。
  彼女が記憶の糸を手繰り寄せるようにして絞り出す一言一言よりも、その言葉を発している時の表情の方が強烈に印象となって残っているからである。話の内容はほとんど忘れてしまっても、映像だけは記憶に残っているといった方がいいかもしれない。
  ポムゼルさんの表情で特に特徴的なのは、顔の隅々にまで刻まれた無数の皺である。その皺の深さと数の多さに衝撃を受けた私は、もはや人間の皮膚ではないとさえ感じたくらいだ。あまりの心の葛藤ゆえに、人間を通り越して樹木になってしまったかのようにも見えた。そのような表情が2時間近くも映像として映し出されるのだから、記憶に焼き付くのは当然のことかもしれない。
  それに、その表情の合間には、これ以上ないほどのやせほそった死体の山がこれでもかこれでもかというように迫ってくるのだから。そのような映像にさらされながら、当時の記憶を淡々と語るポムゼルさんとそれらの生々しいアーカイブ映像の対比に、ある意味、芸術的だとさえ感じたのを覚えている。
  ・・・しかし、映画を見ながら思ったのは、私はそこにいない、だから本当にはわからないのだということだった。なぜなら、当時その現場にいる人たちには、死体の山が否応なく目に飛び込んできただろうから。肉片が飛び出している状態だとか、宙に浮いたような視線の死体の目もそうだし、それにあたり一面に漂っている死臭からはどうやっても逃れることはできなかったにちがいない。
  そう思ったら、岩波ホールのような近代的で清潔な映画館で映像を見ているだけの自分には、いくら映像からリアル感を感じられるといっても限界があると悟った。ただできるのは、想像することだけだというように。
  ポムゼルさんも、当事者といっても、そのような極限的に悲惨なホロコーストの現場に立ち会ったわけではないだろう。だからこそ、「私には罪はない」と言って目をそらすことができたのではないか。ヒトラーやゲッベルスのように、逃れる道を断たれたものは自殺する他なかったのだから。
  そのように考えれば、ポムゼルさんもまた時代の生き証人にはなれなくて、あくまでもその時代の断片の一つにすぎないということではないだろうか。
  ・・・では、本当の事実、本当のリアルを知っている者は誰なのかというと、そんな存在などどこにもいないということにならないか。
  確かに体験は言葉や映像よりも強烈である。でも、その体験も瞬間的なもので、人それぞれの主観的なものにしかすぎないのだ。それに、ポムゼルさんも、渦中の現場にいる時には、実際に何が起きているのかは当事者にはわからないという意味のことを話されていた。自分がどのようなことをしていたのかを、客観的かつ理性的に把握できるのは、すべてが終わった後のことだと。その時に変だと薄々は気づいてはいても、時代の流れに逆らうことは最悪の事態を覚悟しなくてはならないことを意味するから、あえて突き詰めて考えないようにしていると。
  つまり、そのような非常事態のまっただ中にいる者は、思考停止に陥らざるをえないということだ。
  東日本大震災の場合も同じことが言えるだろう。
  津波に巻き込まれそうになった人たちに冷静な判断を求めるのは、安全圏にいる部外者の発想なのだと思う。そういう事態の時に、思考優先の理性的な判断などできるわけがないのだから。生き延びようとする本能に身をまかせ、体が勝手に動くのについていくのが精一杯なはずで、判断をしたと認識できるのはその後のことなのである。
  ・・・この映画から学んだことで、私にとって一番大きかったのは、思考なんて所詮遊びなんだなと痛感したことだ。思考よりイメージ、イメージより体験の順番で、リアル感は増していく。でも、その体験すらも、また瞬間的に移り変わっていく幻なのだということかもしれない。
  ホロコーストの犠牲になった多くのユダヤ人の方々でさえ、死んでしまえば、忌まわしき記憶も消え失せる。殺される瞬間の恐怖や苦しみの感覚さえ、刻々と変化していくものなのだから。
  そこまで突き詰めて考えたら、思考やイメージや体験に対して赦せないという怨念が執着心と言えるのかもしれないと思った。その執着が手放せない限り、ありもしない幻覚を自分が作り出してそれに自分が苦しむことになるだろう。
  だが、そのことに気づけるのは、遊びの次元のものである思考ができるようになってからなのかもしれない。つまり、すべてが終わって、何もかもが関係なくなってからということだ。
  そういう意味では、進化の頂点をきわめた人間しか持てない思考能力というのは、この世には意味はないとはっきり自覚された後に確かな意味を与えてくれる、矛盾の極みなのかもしれないなと思った。
  ・・・最後に、ポムゼルさんがなぜ驚異的な記憶力と思考力を晩年まで持ち得たのか、その理由を私なりに分析してみたい。
  それは、「なにも知らなかった、私には罪はない」と思いたかった自分の表層意識と、「なにも知ろうとしなかった、私には罪がある」と本心では感じていた自分の深層意識のギャップを埋めるために、トラウマの記憶を忘却することができなかったからだと思われる。じっとしていると当時の記憶がよみがえり、常に自分で自分を責め続ける人生だったのではないのか。
  「自分には罪はない」とさわやかに言い切れるのは、ヴィパッサナー瞑想を始める上での基本となる五戒を厳守することと関係する。地橋先生によると、戒の瞑想が完成することは仏道を完成したことと同じ次元であるということだ。私たちは、はたして「自分には罪はない」と言い切れるのか。
  今、この時代にあって、ポムゼルさんと同じ轍を踏まないと自信を持って胸を張れるだろうか。「トランプ米大統領が演説しているのをテレビで見たら、昔を思い出しましたよ」とは、106歳で死去したポムゼルさんがクレーネス監督に電話で伝えた言葉なのだそうだ。
  その言葉の重さを知るものは、ヴィパッサナー瞑想の修行に真剣に取り組むようになるだろう。勇気をふりしぼって、人生の最期に全世界に向けて独白をしてくださったブルンヒルデ・ポムゼルさん。ご自分にできる最大の使命を果たされたその行為に心から感謝を捧げたい。(K.U.)
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