月刊サティ!

2018年9月号  Monthly sati!  September 2018


 今月の内容

 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:瞑想のヒント(2)
  ダンマ写真
  Web会だより:『朝カルで叩き込まれた因果論』
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:『母よ嘆くなかれ』
(後)
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

おことわり:『ヴィパッサナー大全』執筆のため、今月の「巻頭ダンマトーク」はお休みさせて頂        きます。ご期待下さい。


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:瞑想のヒント(2)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:
  私は先生の文庫本『瞑想のフシギな力。』を読んですぐに試してみたところ、それまでどうしてもやめられなかった飲酒がセーブできて休肝日が作れるようになったことにまず驚きました。それで、もう少しこの不思議な力を持つ瞑想を深めてみたいと思って参加させていただきました。

  初心者は1日10分から始めると良いということなのですが、時間の区切りをはっきりつけると瞑想の時の心身の状態を無視しているようで、なんだか中途半端な気がします。かといって、逆に何分でも良いとなると、今度はやめ時がわからなくなるという混乱が生じるように感じるのですが。


アドバイス:
  瞑想時間に関しては、原則として良い瞑想ができている時は長く続けるように心がけるのがよいでしょう。瞑想が進むのは容易なことではなく、瞑想が深まるだけのすべての条件がたまたま整った時に進むものです。めったにないチャンスを逸しないように、予定を変更してでも頑張ってみることをお勧めします。 

  反対に調子の悪い時に、質の悪い瞑想をダラダラ続けると瞑想の質が低下するし、やっていても面白くないので瞑想のモチベーションが下がってしまいます。悪い状態にサティを入れて立て直す努力をしてもまったくダメな時は中止して、再挑戦したほうがよいでしょう。ただし、なぜダメだったのか、敗因の研究はきちんとしておくべきです。上手くいかない時には必ずうまくいかない要因があるので、それをしっかり解明しておけば同じ誤ちを繰り返さないですむし、失敗の研究そのものが瞑想修行の一部だと考えましょう。

  良い瞑想ができている時の心身の状態が普段と違って感じられるのも当然です。体調がよいと心もスッキリしますが、ネガティブ妄想に巻き込まれた不善心所でどんより心が濁っていると体調が悪くなるという逆の相関性もあります。嫌な妄想で不快な体感になっている場合は、ヴィパッサナー瞑想で思考モードを離れるだけで心も体もスッキリします。通常意識と瞑想中の意識モードには本質的なギャップがあるので、その落差をゼロにするのはあり得ないでしょう。

  サマーディ状態が体験されればさらに劇的な相違が経験されるでしょう。集中が高まるにつれ変性意識状態が深まるので、そうなると瞑想の終了宣言をして通常意識にモード変換しなければなりません。サマタ瞑想ではよくあることです。

  一方、ヴィパッサナー瞑想の中心的タスクは「現在の瞬間の事実に気づく」ことです。一瞬一瞬の現実に気づく心はいくら鋭くなっても、人生に支障をきたす心配はありません。むしろ瞑想中のマインドフルネスが、普通に生活する日常モードでも機能するように、その目的のために瞑想をしていると言ってもよいくらいです。ですから、ヴィパッサナー瞑想は終了宣言する必要はなく、サティの気づく力を失わないように心がけましょうと申し上げたいですね。サティの瞑想状態を日常にも持ち込めるのが理想とも言えます。ただし六門の情報の内容が分からないほどレベルの高いサティを入れ続けては、日常生活が成り立ちません。そんな高度なサティは修行の最中にも滅多にできないのだから案ずる必要はないと思いますが・・。()

  ヴィパッサナー瞑想の練習を終了するタイミングは、集中が悪くなってサティも入らなくなり、考え事に巻き込まれることが多くなったら止め時でしょう。もしいつまでもサティが入り続けて止め時が分からないというなら、一応修行は終わりにすると言い聞かせて、そのままサティを入れながら日常生活の瞑想に移行すればよいのです。そのままマインドフルネスが維持できたら最高です。しかし明確な目的のある仕事をやりながらサティを維持するのは至難の業なので、自然に瞑想状態は破れていくでしょう。瞑想と生活を切り分けるのではなく、人生全体のどの瞬間にも「よく気をつけておれ」というブッダの教えを実践し続けられるように、できるだけサティを入れられるように努力したいものです。

  一般的な傾向を申し上げますと、クオリティの良い瞑想ができると脳が疲れません。妄想が多発している時は脳の広い領域に渡って発火しているし、ネガティブな妄想に反応して怒りのホルモンや不安のホルモンが分泌するだろうし、ストレス過剰の人と脳活動情況が同じようになっているかもしれません。しかるに良い瞑想ができていれば妄想が激減するし、集中が良くなればなるほど脳の一部分しか使われなくなるのはよく知られており、瞑想中は何もしていない時のデフォルトモード・ネットワークに酷似してくるのです。ディープなサマーディ状態に近づけば、脳波的には熟睡状態のシータ波やデルタ波も現れるので目覚めたままの熟睡効果が得られている可能性が推測されます。

  現に、瞑想がよくできる人ほど短眠型になる傾向があります。私も修行時代に、外国の寺で数多くの瞑想者に出会ってきましたが、特にレベルの高い瞑想者には睡眠時間がどのくらいかを必ず訊きました。すると深い瞑想ができる人ほど睡眠時間が短い傾向が浮き彫りになりました。一日2時間ぐらいしか寝ないお坊さんにも逢うことも珍しくありません。私自身も、瞑想が深まるにつれ短眠型になっていきました。良い瞑想ができていれば、短い睡眠でも翌日のコンデションに差し障りがないどころか、却って調子がよいと感じるでしょう。良い瞑想ができている時は、予定を変更してでも続けるべきだと考える所以です。

  良い瞑想を成り立たせている要因として、体調が決定的に大事なことも何度でも強調しておきたいですね。透明に澄みきった意識状態の時に良い瞑想ができる可能性が高く、意識の透明感を決定づけている大きな要因の一つが体調なのです。体調も意識水準も日内変動を繰り返しているので、一日の流れの中で波の上下するのをよく観察してください。身体も心も軽くて集中力が高まりやすい時と、食べ過ぎたりしてドンヨリ濁った意識状態の時では明らかに瞑想の質が違ってきます。意識が透明で頭脳明晰な時を選んで瞑想するのが賢明です。

  また、常に良い瞑想ができることなどあり得ないし、1時間でも30分でも15分でも、瞑想時間の最初から最後まで丸ごと全部集中でき、質の高い瞑想ができるなどということは考えられません。とても良い瞑想ができるのは、短い時間でしかないことが多いのです。何事も下手だから練習して上達するものです。瞑想の初心者がガンガン良い瞑想ができるなどということもまずあり得ないので、あまり過剰な期待を寄せない方がいいでしょう。眠くて妄想だらけでサティがほとんど入らなくて、これでは修行と言えないのではないか・・と疑問になるくらいが普通だと心得ておきましょう。内容が悪い練習を繰り返しながら上達していくのが王道です。毎日最低10分以上という原則を貫いていけば、必ず瞑想が身に付いていくし、人生の流れが変わります。たとえ調子が悪くても心配せず、頑張ってください。

Bさん:
  どうすれば瞑想に頑張れるでしょうか。

アドバイス:
  そうですね。良いお手本を見ること、瞑想の重要さを認識すること、苦を感じること、人間的に成長する向上心を持つこと・・などでしょうか。

  タイのお寺で毎日尊敬するお坊さんの写真を見なさいと言われたことがありました。立派なお手本に接すると俄然ヤル気が出るのは、瞑想合宿中にも頻繁に起きます。疲れた、嫌になった、ヤル気が出ない、家に帰りたい・・と意気消沈してしまった瞑想者がいました。その日の昼食が終わり、瞑想室に戻る階段のすぐ前を歩いている先輩の足の動きが鼻先にズームアップされたように見えたのです。ゆっくり、力強く、一足ひと足の感覚を実感しながら、綿密なサティを入れている迫力に圧倒されてしまったのです。思わず溜め息が洩れそうな美しさと力感に感動したそうです。この一瞥でモヤモヤは吹き飛んで、一気にヤル気が高まりました。よくある話です。

  瞑想のやり方がマニュアルとして頭に入っただけではモチベーションが伴いません。技術的に理解しただけでは続かないのです。ヴィパッサナー瞑想で心をきれいにすることが人生苦をなくしていくのにいかに重要であるか、瞑想の真の価値を認識することや仏教思想の奥深さや次元の高さに感動すると途端にヤル気が出るものです。「真理のことば・感興のことば」(岩波文庫)などを再読し感動を新たにすると瞑想をしなければ、という気持ちが高まります。

  いちばん強力で、多くの人が何度も繰り返し検証し直しているのが、苦に叩かれて瞑想に救いを求めるケースです。人生が苦しくなり、嫌な相手を消すことも陥っている苦境から逃れることもできないと解ると、自分の心を変えるしかないと気づき始め、瞑想に救いを求めるものです。情況は何も変わらなくても、自分の心や認知が変われば苦しみが乗り超えられるからです。苦を視るのは能力です。幸せなのだが、その幸福がいつの間にか色褪せて、輝きを失っていく無常の苦を観て修行に励む上根の人もいます。

  煩悩に耽ってゲスな生き方をしていると、刹那的な快感ホルモンが分泌されますが、なんとなく卑しい感じを覚えるものです。相手を打ち負かして勝利しても、心底から喜べない後味の悪さや、自分の小ささに嫌気が差したりします。人間として成長したい、きれいな心になりたい、悔いのない立派な生き方をしたい・・と思うと、瞑想のヤル気が出るでしょう。

  瞑想の修行は四頭の馬車馬に譬えられています。賢い知恵のある馬は、御者の振るう鞭の影がチラリと見えただけで走り出します。2番目の馬は、鞭の先端がお尻に微かに触れただけで走り出し、3番目の馬はビシリと打たれてから走り出します。最後の馬は、ドゥッカ()という名の鞭に思い切り叩きのめされても走り出さず打たれ続けるというのです。(笑)


Cさん:
  ノルマと思って、毎日最低10分だけでもヴィパッサナー瞑想をするようにしています。でも、最近精神的にかなりひどい状態で、思うように瞑想が出来ません。それでも毎日続けた方がいいのでしょうか。また今日は体調もすぐれなかったのですが、何とか瞑想会に参加しました。


アドバイス:
  たとえ内容が悪くても、毎日瞑想をした方がよいでしょう。何もしなければ、私たちは不善心所でいることが多いのです。嫌なことや不快なことは生存に関わるのでどうしても過敏に反応するし、その日あった嫌なことを思い出しながら電車を待っていたりすることが多いのです。嫌なことを考えていれば不善心所になるので、放置された心は自然に汚れていく傾向です。

  たとえサティがきちんと入らなくても、眠気に襲われ妄想に巻き込まれても、瞑想しようと頑張るだけで意味があります。不善心と戦い、今の状態を対象化し客観化しようとするだけでもネガティブなエネルギーは減衰しています。不善心に抗うエネルギーを出力しながら、瞑想にチャレンジしていることが素晴らしいし、現に不善心の力を弱めているのです。

  これが、内容が悪くても毎日瞑想を続けたほうがよい理由でもあります。スポーツも芸事も瞑想も、練習というものは上手くいかないからやるものであり、どの分野でも初心者がやる練習内容はひどいものです。でも、それが王道なのですから自信をもっておやりになってください。

  今日は体調もすぐれなかったのに、よく瞑想会にいらっしゃいましたね。素晴らしいことです。家でゴロゴロしていて自然にピカピカの善心所になることはまずありません。やはり瞑想会に行けば良かったかな・・と後悔系の不善心所になるかもしれません。ブッダのダンマの一端に触れ、内容が悪くても瞑想にチャレンジされるのは、一日の過ごし方としては最高です。人間の営みの中で最も崇高なのは瞑想である。どんな善行よりも価値があると言っている経典もあります。

  現象世界の全てのものは、秩序のある状態からグチャグチャの無秩序状態に向かっていく・・。この基本傾向をエントロピー増大と言います。人の心も、意識的にきれいにしていこう、浄らかにしていこうと努力しない限り、必ず汚れていくし、混沌とした無秩序状態に陥っていくものです。心が汚れてくれば、善いと分かっていても、もうそんなのは嫌で、もっと自分の心を汚すようなことばかりやりたくなってしまうものです。煩悩には人を奈落に引きずり込む恐ろしい力があり、欲も怒りも人を転落させて完全に破滅するまで勢いを増し最後に苦の壁に激突して止まるのがパターンです。

  不善心に巻き込まれてしまうと本当に大変で、コストがかかりますから、心がまだ健全なうちに危険回避する方策を練っておかなければなりません。一番は瞑想なのです。どんな日でも、内容が良くても悪くても、毎日10分以上は必ず瞑想をするとルール化するのが智慧と心得ましょう。自分一人では枯渇していきますから、定期的に外からの刺激が受けられるように瞑想会参加を定番化すると怠け心対策になります。今日は本当によく来られましたね。あるがままを観る瞑想ですから、調子が悪い時にはそのように瞑想なされればよいのです。マイペースで、ちょっとだけ頑張りましょう。


Dさん:
  10分がいかに難しいか、これが毎日ということになると、と思っています。

アドバイス:
  仰るとおり、たった10分の瞑想がなかなかできないものです。でも、ここに私の巧妙な仕掛けがあるのです。本当を言えば、瞑想時間が一日にたった10分間では、あまりにも短か過ぎるのです。しかしそれでもOK、ちゃんと瞑想が身につくし心が成長していきますよと言えるのは、10分間の瞑想時間を確保するためにどれほど生活を整えなければならないかを心得ているからです。

  修行時間そのものよりも、毎日の激務や人間関係に揉みくちゃにされながら瞑想する態勢を整えることに意味があるのです。お酒を飲めば瞑想はできないし、食べ過ぎても眠くてもダメ、疲れきっていてもダメだし激怒した直後も瞑想に相応しい時間帯ではありません。そうなると、かなり生き方を改めて生活全般を整えていかないと、たった10分の瞑想が毎日できないのです。

  ヴィパッサナー瞑想は心の清浄道であり、人生全体である。だからこの瞑想を続けていくと、煩悩路線だったこれまでの生き方を根本的に改めていくことになるのです。生き方や考え方を変えないで週末に2時間瞑想して普段は全然やらない人よりも、毎日10分派のほうが結果的に定着することを私はよく知っています。瞑想を毎日続けるのが難しいのは、生き方に関わるからです。大変ですが、心が変わり、生き方が変わり、人生の流れが変わっていき、その結果苦しみを寄せつけなくなるのです。がんばってください。


Eさん:
  瞑想時間はいつでも良いのですか。


アドバイス:
  理想的には、体調が良い時や頭が冴えている時に瞑想するように心がけると、同じ10分間の内容が格段に良くなります。体調を整えるためには普段から摂生し、心が乱れないようにきれいな生き方を心がけなければならないので自然に人生の流れが良くなっていくとも言えます。

  こんな方もいました。

  帰宅してからでは疲れきって瞑想の質が悪すぎると悩んでいた方が、会社の昼休みに一人で瞑想する場所を見つけてからというもの、瞑想も人生の流れも素晴らしく良くなったのです。お昼に良い瞑想ができると、午後の仕事のクオリティが上がり、人間関係のイライラも激減したといいます。

  ミャンマーの首都ヤンゴンの寺で修行している時、毎日会社帰りの男性が瞑想堂で1時間ぐらい瞑想していくのを日課にしていました。座相を見ると、なかなか良い瞑想をしている感じでしたね。時々何か体験されるとサヤドウの面談を受けていました。帰宅すると狭い家で小さな子供がビービー泣いていたりで瞑想ができない事情なのか・・などという妄想が浮かびました。

  絶好調の時間を瞑想に捧げる覚悟は、瞑想を第一に考えないと難しいでしょう。そんな気持ちにもなれない初心者はどうしたらよいでしょうか。

  答えは無理しないことです。あるがままの自分の立ち位置で瞑想していけばよいのです。レベルの高い良い瞑想をするためには、必要な条件を組み込んでいかなければなりません。条件が悪ければそこそこの瞑想しかできませんが、大丈夫です。内容が悪くても瞑想する習慣が確立されれば、必ず効果が検証できるし良い人生になっていくでしょう。20年以上瞑想を教えてきた経験知ですね。

  朝でも昼でも就寝前の布団の上でも、いつでもかまいません。毎日10分以上の瞑想ノルマを果たしていけば人生の流れが変わります。妄想に巻き込まれウトウトしても、瞑想内容がボロボロでも、清浄道の瞑想に取り組むことに価値があり、効果もあるのです。

  瞑想は人生全体です。五戒を守り、悪を避け善をなすきれいな生き方を目指していくので、人生苦が乗り超えられるのです。集中力を高めるのもサティを入れて客観視するのも、汚れた心を浄らかにしていくためです。大事なのは、心をきれいにしていく方向性を堅持することです。今は煩悩だらけで真っ黒でも、心の清浄道を一歩一歩進んでいくのですから必ずきれいになっていきます。心がきれいになるのと、人生苦から解放されるのは比例していますから、良い人生になっていきます。速歩で進む人もいれば、のんびり歩く人もいるでしょう。目指す方向が同じなのだから、いつか必ずゴールに到達していきます。

  毎日瞑想を続けるためには、モチベーションを維持することが大事です。常にダンマ系の刺激を受け取るように心がけることが秘訣です。ヤル気を高めてくれる最高の刺激は、良い瞑想体験です。ビッグな体験に限らず些細なことでも、例えば、なぜか妄想が出てこないでお腹や足の感覚が鮮明に感じられたり、妄想は出てくるけれども面白いようにサティが入り続けて楽しくなってきたり・・ささやかな瞑想体験がいちばんヤル気を高めてくれるものです。これといった体験がなければ、ブッダの本や瞑想の本を読み、動画を観たり朗読を聴いたり、瞑想をしている法友と瞑想について話すだけでも仲間意識がヤル気につながります。どうぞ良い人生のために瞑想を続けてください。
 今月のダンマ写真 ~



宥座の器
K.U.さん提供


    Web会だより  
『朝カルで叩き込まれた因果論』 平明 創
  私が初めて地橋先生の朝日カルチャーセンターの講座を受講したのは5年前の4月でした。
  その2、3年前から先生の著書やその他のヴィパッサナー瞑想に関する書籍を読んでは自分なりに瞑想実践をしてきましたが、直接指導者から教えてもらうということはありませんでした。
  しかし6年前に大腸がんを患い、入院中に退院したらボランティア活動とプロから直接指導を受けて、瞑想修行を本格的にやろうという決意をしました。退院後、ボランティア活動はすぐに始めることができましたが、当時毎日のように飲酒をしていた小心者の私はテーラワーダのお寺の敷居が高くて、なかなかお坊さんのところへ瞑想を習いに行く気になれませんでした。そしてカルチャーセンターだったら本格的かどうかわからないけど、飲酒までは咎められないだろうという気軽な気持ちで受講を決めたのでした。
  初めて先生にお会いした時の印象は「本に載ってた写真と違って怖くて厳しそうじゃん」というものでした。
  初回の講座で歩きの瞑想の説明が一通り終わって「それでは実際に歩いてみましょう」となった時に、一人の受講者が遅れて教室に入って来ました。他人を見下してばかりいた私は「アホかこいつは?初回の一番大事な説明を遅刻して聞き逃すとは」などと心の中でその人を批判していたのでした。
  その後私は衝撃的な経験をしました。みんなが歩きの瞑想を始めている最中、なんと強面の先生が、その遅刻して来た人を教室の隅に連れて行って、たった今20人近くの受講生に説明したとおりに同じことをマンツーマンで丁寧に教え始めたのです。
  「なんてやさしい人なんだろう。この先生に教えてもらえば、間違いない」などと直感的に私の先生に対する信頼がその瞬間芽生えたのでした。
  それからリピーターとなり、現在まで朝日カルチャーセンターの講座を連続して受講しています。
  5年に渡って講座を受けてきて、私が一番良かったと思うことは、徹底して因果の法則を先生から叩き込んでもらったことです。なにか不愉快なことが起きると、すぐに他人のせいにする癖があった私は、自分の正当性に執着してばかりいて、心の中で相手を延々と批判しまくってばかりいました。
  仏教の本を読んで、なんとなく因果論を理解しているつもりだった私でしたが、所詮ただの知識ととして頭の片隅に存在する程度のものでした。そんな私にとって、「自己責任」、「起きたことは正しい」、これらの言葉が腑に落ちたことによって、自分の人生の苦しみ、怒りがどれだけ減少できたか計り知れません。
  先生の講座では特化して因果論を説明される回が必ずあります。当初私はこの因果論の回を受講するのが苦手でした。
  自分の犯した悪業を思い出し、因果論を聴けば聴くほど目の前が暗くなるといった感じになったからです。
  幼少期から劣等感や屈辱感にまみれていた私は小さくて弱い昆虫やカエルなどを見ると怒りがこみ上げてきて、踏みつぶしたりして数えきれないくらいの殺生をしてきました。ですから悪因悪果の話を身が縮みあがる思いで聞かなくてはなりませんでした。小学生の時にはよく近所のお兄さんとバッタやイナゴをたくさん捕まえては密閉された容器などに詰め込んで、爆竹で吹き飛ばすなどの遊びをしていました。ちなみにその遊びを教えてくれた近所のお兄さんは高校1年の時にバイク事故で踏切で電車に飛ばされて亡くなりました。
  そんな絶望的な私にも、その悪業を反対の善行によって相殺ができるという、願ってもない明るい話を先生はして下さいました。
  それ以来、人命、殺処分されそうな犬猫を救う団体、海外で臓器移植を希望されている方々、医療をうけるのが困難な難民や被災者等にお布施をしたり、スーパーで活きているシジミ、アサリ、ハマグリ、カニなどを買っては、川や海に放すなどのライフダーナをやるようになりました。そのおかげでしょうか、大腸がんも完治して、今のところ健康に生きることができています。ただこれらの事は、単に因果論に恐れをなした小心者の私が、自分の利益のためにやってる劣善に過ぎません。しかし劣善でも、何かしらの結果は出ると実感しております。実際、不衛生で水洗トイレのないカンボジアの村に水洗トイレを寄付した途端、自分で排泄できなかった知的障害の次男が自分で排泄できるようになったり、戦闘地で紛争予防活動をしている団体に継続的にお布施をしているおかげか、誰かと敵対するようなことも起きなくなりました。
  これらは全て表面的な事象ですが、私が先生から因果論を叩き込まれて最も感謝していることは怒りと心の苦しみの減少です。
  散々悪行を積み重ねてきた私ですので、不快な現象には常に遭遇します。そんな時、怒りが起きないと言えば嘘ですが、先生から教わった「自己責任」「起きたことは正しい」といった言葉を思い出すと自分が蒔いた種を刈り取っているんだからしょうがない、と思えるようになりました。実は私は散髪中に耳を切られるということが2回あったのですが、最初の時はまだ因果論など知らなかったので、ものすごい怒りを味わい不快な思いに苦しみました。しかし2回目の時は因果論を知った後だったので、自分の悪業の結果だ、あれだけ多くの生命を傷つけてきた私が「自分が傷つけられるのだけは理不尽だ」などという道理が通るわけもない、と納得することができました。そして、これで悪いカルマが1つ清算できたと思えて、怒り苦しまずに済むことができたのでした。
  それどころか、客の耳を切ってしまい、すっかり落ち込んでしまった熟練の床屋さんにカルナーの念すら覚えたのです。
  このように因果論の理解によって怒りが減少し、生きるのが楽になった私ですが、なぜ因果論が身に染みてきたのか考えてみますと、理由はやはり先生の情熱のこもった講義とそれをくり返し聴いてきたからだと思います。1回聞いただけでは腹に落とし込むところまではいかなかったでしょう。5年間、3か月に1回はこの因果論の講義を受けてきたので20回以上情報が上書きされた賜物にちがいありません。そしてこの因果論の理解が終生にわたり、そして来世にまでも私に恩恵をもたらしてくれるものと確信しております。




☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

       
 






このページの先頭へ   

『月刊サティ!』
トップページへ
 



 


ダンマの言葉

  肉体のあり方についてあなたは何もできません。若い女の子が口紅を塗ったり爪を伸ばしたりするように、しばらくの間、肉体を飾り立てたり、魅力的に見せたり、清潔に見せたりすることはできますが、老いると誰でも同じ運命になります。それが肉体のあり方であり、それを変えることはできません。しかし、あなたが向上させ、美しくできるものがあります。それは心です。(『月刊サティ!』20053月号、「私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話」より(アチャン・チャー長老法話集)

       

 今日の一言:選

(1)ムカつく出来事を想っていると怒りのホルモンが出てくる。
 性的なイメージに耽っていれば性ホルモンが分泌されてくるし、癒しの空間を想像するだけでセロトニンが放出されてくるだろう。
 心には、内分泌系の各種ホルモンを物理的に稼動させる力がある。
 生体から出力される行動エネルギーは、やがて山をも動かしていく……

(2)苦しんで苦しんで、苦しみ抜いたあげくに、手負いの獣が逆襲するように、人を傷つけてしまう。
 赦しがたい悪を犯す者もいるが、苦しんできたし、今も苦しんでいるし、自分が苦しんでいることすら分からなくなっている人ばかりだ。
 ……苦を熟知するがゆえに、全てに優しくなれる……。 

(3)私がやっている、というエゴ感覚が混入した途端に、その仕事は凡庸なものとなる。
 スポーツでも芸術でもいかなる分野でも、最高のパフォーマンスがなされる瞬間は、「神技・入魂・忘我・無になる・☆☆の神が舞い降りる・……」などと表現されるが、いずれもその行為になり切ったかのような無我感覚が特徴だ。
 たとえ千分の一秒や万分の一秒であっても、エゴ感覚が生じた瞬間、集中が破られている。


       

   読んでみました
     『パール・バック著『母よ嘆くなかれ』
                   (法政大学出版局 1993年)を読んで(後)

 (承前)
  私たち人間の生きる苦しみとは、二元対立の価値観に翻弄されることからくると私には思われる。次男の心臓の疾患がわかった時の私のネガティブな反応も、源をたどっていけばそこにぶち当たるのだ。

  進化の頂点と考えられている人間の脳は、思考やイメージという概念を発生させることで、この世の真理の探求の有力な手段を獲得したことと引き換えに、世界を善と悪、優れたものと劣ったもの、重要なものとどうでもいいものというように、自分が勝手につくり出した価値判断軸という妄想の基点に振り回されることを運命付けられることとなった。(これは地橋先生の持論でもある)
  そして、自分の知能に誇りを感じている者ほど、そのエゴの持つ極端性に心が引き裂かれることになる。なぜなら、二元対立という矛盾のバランスをとるために、自分がプライドを置いている対象と真逆の存在に必ず斬られるからだ。
  パール・バックの場合も、知的なものをことのほか重んじる家系に生まれ、たぐい稀なる人並み外れた文才に恵まれたゆえに、正反対の現象に襲撃されたかのようであった。
  自分自身の明晰な頭脳に多大な満足感を覚えていたパール・バックにとって、知能の発育が遅れたわが子の存在は、最初は地獄のような苦しみをもたらしたが、ドイツ人医師の言葉によって、その逃れることのできない運命を受け入れるしかないと腹を括った時に、地獄から天国への転換が始まったのだと思われる。そしてこれもまた二元論のエゴの性質ゆえに発生していたものなのだ。
  後になって、自分の子どもに知能の発育に問題があると知った時の激しい苦悩の理由を、パール・バックはこのように分析している。
  「わたしの家族はみな、愚かなことや、のろまなことを黙って見ていられないたちでした。しかもわたしはとくに、自分よりも感受性のとぼしい人にたいして我慢できない、というわたしの家族の癖をすっかり身につけていました。そのわたしのところに自分でもどうしても理由のわからないハンディキャップを受けた娘が授けられたのです」
  私の場合もパール・バックとまったく同じだった。
  人一倍、虚栄心が強くて、この自分には健康で優秀な子どもが与えられるのは当然だと考えていたのだ。そして、その子の能力を伸ばして、社会的に立派だと認められるように育てるのが自分の役目であり幸せなのだと信じて疑わなかった。それがどれほど傲慢な考え方であったのか、ヴィパッサナー瞑想の精神を受け入れることができた今ならはっきりわかる。
  自己中心的な二元論の価値判断軸を肯定している限り、私たちは生きる苦しみからは決して解放されないということも。
  ヴィパッサナー瞑想では、「捨(ウペッカー)」の心が何より大切だとされる。「捨」とは「平等性」と訳されることが多い。これは、百パーセントの希望は、百パーセントの絶望からしか転換されないということを教えてくれているのではないだろうか。
  だからこそ、無慈悲にも感じられるドイツ人医師の絶望的な宣告は、わが子の状況が何も変わらないままで、暗闇から希望の光を呼び込むきっかけとなったのだ。
  知能に障害のあるわが子の存在を完全に受容し、自分が死んだ後にも子どもが安全に幸福に生きていける施設を見つけたパール・バックは、そこの生活に娘が馴染み、家に帰ってきても間もなくその施設に戻りたがるようになったことに気づいて、ようやく子どもとの長い闘いに終止符が打たれたことを知る。
  しかし、それはわが子との闘いではなく、自分自身のプライドとエゴ妄想に対する一人相撲に他ならなかったことを理解するのである。私には、この心の変容の過程が、まさにヴィパッサナー的だと感じられたのだ。
  パール・バックは自分の思い込みが根本的に間違っていたことに気づいた時のことを次のように記している。
  「わたしは、この歩んで行かねばならない最も悲しみに満ちた行路を歩んでいる間に、人の精神はすべて尊敬に値することを知りました。人はすべて人間として平等であること、また人はみな人間として同じ権利をもっていることをはっきりと教えてくれたのは、他ならぬわたしの娘でした。どんな人でも、人間である限り他の人より劣っていると考えてはなりません。また、すべての人はこの世の中で、安心できる自分の居場所と安全を保証されなくてはなりません。わたしはこのような体験をしなければ、決してこのことを学ばなかったでしょう。もしわたしがこのことを学ぶ機会を得られなかったならば、わたしはきっと自分より能力の低い人に我慢できない、あの傲慢な態度をもちつづけていたにちがいありません。娘はわたしに『自分を低くすること』を教えてくれたのです」
  「娘はまた、知能が人間のすべてではないことも教えてくれました。娘はわたしにはっきり話すことができなかったのですが、その意思を通じさせる道はありました。娘の性格にはきちんと一貫したものがありました。彼女にはすべての嘘がはっきりわかるようで、どんな嘘でも決して許しませんでした。娘の精神はあくまでも純粋だったのです」
  「親は、自分の子どもの生命は決して無駄ではない、たとえ限られた範囲内であっても、人類全体にたいして重大な価値をもっている、ということを知れば、慰められるはずです。わたしたちは、喜びからと同様に悲しみからも、健康からと同様に病気からも、また利益からと同様に不利益(ハンディキャップ)からも、おそらく後者のほうから、より多くのことを学ぶことができるのです。
  人の魂は、十分に満たされた状態から最高水準に達することは滅多にありません。むしろ逆に、奪われれば奪われるほど、最高水準にむかっていくものなのです」
  人生のほとんどすべてであった茨の道を歩き通した果てに、パール・バックが得た洞察も、エゴレスの心しか救いはないということであった。エゴレスとは百パーセントの平等性という意味である。
  私には、それは、プライドだけでなく、何かがあるという存在妄想ですらも徹底的に否定すること、そしてそうだからこそ、完全なる平等性とは思考やイメージによっては決して伝えることは不可能で自分自身の修行によって覚るしかないということだと解釈された。そして、これこそが、ヴィパッサナー瞑想の本質に通じていると思われるのだ。
  『母よ嘆くなかれ』のこの本に出会ったことで、次男が姿を変えて、もう一度私のもとに現れてくれたような錯覚を覚えた。自分の傲慢さをなくすため、これまで一所懸命に修行を続けてきた私の努力を認めてくれたかのように。
  「お母さん、もう十分だよ。ありがとう」
  そう語りかける息子の声が、パール・バックの文章の行間から聞こえてくるような気がした。その声に向かって「・・生まれてきてくれて、ありがとう」と呟くと、感謝と喜びの涙が溢れ出て、一瞬、目の前が真っ白になった・・・。(完)(K.U.)
 このページの先頭へ
 『月刊サティ!』トップページへ
 ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)トップページへ