月刊サティ!

2018年6月号      Monthly sati!     June 2018


 今月の内容

 
 
「サマーディの脳の基礎:瞑想的没入の神経科学」の連載を終えて(前)
    
                                 
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:修行上の質問:実践編(7)
  ダンマ写真
  Web会だより:『真実に向き合う力を得て・・』
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:
 『ダイヤモンド博士の“ヒトの秘密”「動物のコトバ、ヒトの言語」』を観て
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

「サマーディの脳の基礎:瞑想的没入の神経科学」の連載を終えて(前)
                                    鈴木孝信
                       
アダムズ州立大学大学院
                                             東京多摩ネット心理相談室
はじめに
  前月まで連載させて頂いた「サマーディの脳の基礎:瞑想的没入の神経科学」(Yamashiro, 2015)の翻訳及び監訳を行いました鈴木孝信と申します。今回の「連載を終えて」では、本稿の内容を軸として、臨床心理/カウンセリング学の視点から解説をさせてもらえたらと思っています。
  まずは簡単に自己紹介をさせてください。
  私は10年程の経験を積んだ心理の専門家です。その臨床経験から「心の傷を癒す力をさらに高めたい」という想いが募り、そのためには力(知識と態度)を拡張する必要があると段々と考え始め、遅れながら大学院(博士課程)に戻って学びを受けている科学者/臨床家です。
  10年の臨床経験で癒す力を高めたいと思いましたが、それには瞑想的な態度を身につけ培うことが必須だと確信しています。そのための大学院教育でもありますが、一方で瞑想的な態度を強調した心理療法「ブレインスポッティング」という方法を現在、日本のリーダーとして普及させる活動もしています。
  この「瞑想的な態度」によって、今後新しいより効果的な心理臨床が生まれてくると私は予測しているので、私にとって瞑想は大変興味深い研究の対象でもあります。そんなことで、昨年はマインドフルネス心理療法の創始者でもある米国、マサチューセッツ大学医学大学院のジョン・カバットジン博士の最新書籍を翻訳させて頂き(「マインドフルネスのはじめ方)金剛出版)多くを学ばせて頂いたという経緯があります。

ジャーナ
  自己紹介はこれくらいにして、早速本稿の内容に触れていきたいと思います。本稿では、サマーディに至るまでのジャーナ(jhāna、禅定)の段階を、脳科学的に説明したとても興味深い内容が述べられています。その要点に振り返って、臨床心理/カウンセリング学という違った視点から、ジャーナ要因、それとジャーナ段階の移動について解説していきたいと思います。まずは本稿のジャーナ要因の表に沿って一つ一つ要因を振り返ります。

ヴィタッカ
  ヴィタッカ(Vitakka、尋)は、認知科学では「注意を向ける」という概念で説明できる現象です。注意(Attention)は認知機能の一つ重要な働きとして考えられていて、そのコントロールがしばしば研究対象となり臨床での診断的評価のポイントとなります。注意のコントロールには ①抑制 ②移動の二つが直接関係している機能としてあります。これらの機能の程度は、その時の状態によって変わり、コンディションが良いときは高いレベルで機能します(悪いときは低いレベルで機能します)。
  以下、色々な説明をしますが、説明の際に具体的なケースに照らし合わせて読み取ると理解しやすいと思います。なので、一つ架空のケースをご紹介します。
  Aさんは人間関係に敏感で、最近では新しく赴任してきた彼の上司にどう自分が評価されているかが気になっています。Aさんは金曜の夕方、仕事を終えて会社を出る際に上司に言われた何気ない一言(お疲れさん。今日は帰りが早いね。また来週よろしく頼むよ。)が頭から離れず、土曜日は家族と外出するなど、楽しいひと時を過ごしている際にもたびたびその時の上司の顔や言葉が頭に過り、不安を感じていました。不安を感じてもそれを振り払うようにして日中は過ごし、疲れもあったので夜はすぐに入眠しました。そして翌朝、習慣としている日曜朝の瞑想(30分間)を始めました。
  このケースを使いながら、まずは注意の機能の一つ、抑制を説明します。注意の抑制機能は、意識上に別の対象が現れても、それへの注意関心を抑える機能です。瞑想をされているみなさんならよく分かると思いますが、呼吸へ注意を集めている際に、別のことを考えてしまう、周囲の物音が気になる、身体のかゆみや痛みが気になる。こういったことは頻繁にありますよね。抑制の機能が十分働いていない時、呼吸へ集められていた注意が、例えばその時気になっていることが意識に出現した際に、そちらに流れていってしまいます。それは認知機能の注意の働きのうち、抑制が働きにくい状態にあるために起こることです。
  Aさんの瞑想はどうでしょう。前日まで侵入的に上司のことが意識に現れていました。根本的な解決もなく眠りましたので、瞑想を始めて呼吸に注意を集め、外を走る車の音やひんやりとした空気にたびたび注意が向きますが、気になることなく呼吸へと注意を戻すことを繰り返します。そして2分程で少し落ち着きが無くなってきました。今まで流せていた外界の刺激が気になり始めました。また自分の身体のちょっとした不調(頭が重かったり痒みがあったり、また腰が痛かったり)も気になり始めました。これが抑制の機能が十分に働いていない状態です。
  次に注意のもう一つの機能である移動です。私たちが日常的に使う「気持ちを切り替える」というのが、この移動に近い概念だと思います。これは、意識上の一つの対象に注意が集まっている際に、他の対象に注意を移すことを指します。
  Aさんの瞑想に戻ると、抑制が働かず、色々と気にはなりながらも注意を呼吸に戻すことを繰り返してさらに3分、今度は上司の顔が意識に現れました。その強力な引き寄せる力に抵抗できず、「なぜあんなことを言ったのだろう」「あの表情から考えると私のことを非難していたのだろう」「こんなことなら後一つだけ仕事を終わらせてから帰れば良かった」等と考え始めました(抑うつ・不安反芻)。23分あれこれと考えていると、少し冷静になり、「今考えていた」ことに気が付きました。そこで注意を呼吸に戻そうとしますが、戻してもまたすぐに上司のことに意識が支配されてしまいました。これが移動の機能が十分に働いていない状態です。
  まとめると、ヴィタッカでは、上記二つの機能が要となります。これらの機能が低下していると、呼吸へ注意を集めようとしても、別の対象に注意が奪われ、そこから戻せなくなります。脳の機能としては前頭前皮質のいくつかの部分ともう少し奥に位置する前部帯状回の活動が不十分であることが要因であると分かっています。

ヴィチャーラ
  ヴィチャーラ(Vcāra、伺)は「表象へとフォーカスする注意の維持」と認知科学では捉えられます。瞑想でしたら、呼吸へ注意を集めそれを保つ現象のことを指します。
  ヴィタッカ、ヴィチャーラ共に意図的な現象で、つまり目的を達成しようとして実施する行いです。脳では実行機能を司るネットワークの活性化(上記の前頭前皮質のいくつかの部分と前部帯状回を含む)が生じます。また本稿での説明では、この二つの要因が抜け落ちたところでジャーナが次の段階へと移行すると説明されています。つまり、ジャーナの次の段階は、意図的な努力が抜け落ちている段階であると捉えられます。
  ヴィチャーラで特に問題になるのが、上記に説明した注意の抑制でしょう。注意の抑制とは心に浮かぶ様々なことを「軽視」出来る機能です。軽視できないと、それらに囚われて一つの対象に集中することが困難です。
  Aさんのケースに戻りましょう。その日の瞑想は、30分間がほぼ上司のことで支配されていました。翌日機嫌の良さそうな上司を見ると、Aさんは少しほっとしました。午前中の業務が終了する前に、一度上司に呼び出され、以前取り組んでいた仕事の出来が良かったと高評価をもらいました。そこでAさんは深い安堵感を感じました。そして昼休み、10分程瞑想することにしました。
  瞑想を始めて2分程度は、ついさっき起きたばかりの「褒められた」体験が思い出されましたが、段々と記憶が想起されることが減り、呼吸への注意が集まり維持されるようになりました。そして呼吸への集中を実感したまま10分の瞑想を修了しました。Aさんは、上司から褒められることで先週末の不安から解放されました。不安がある状態では認知機能が損なわれることが多いので、その不安がなくなったAさんの瞑想では、十分に「抑制」と「移動」の機能が働き、意図的に呼吸へ注意を集め、その状態を維持するということが成功したのでした。

ピーティ
  ピーティ(Pīti、喜)は「身体的感覚に関する快」だと認知科学的には捉えられます。上記二つの要因の脱落により、これ以降のジャーナ要因には、意図的な努力は含みません。身体感覚への気づきは、何か達成しようとしていたり(実行機能が働いている)不安がある脳状態では生じにくい傾向があります。そういった状態の時は、実行機能の中枢である腹外側前頭前皮質(額の奥当たり)が活発に活性しています。
  一方身体の感覚に気が付ける状態は、脳はいわゆる「何もしていない時の脳活動」(デフォルトモード・ネットワーク)がより活性化しているように思えます。脳のデフォルトモードは、いわゆる「情報処理」をしている状態です。脳は常に情報を処理していますが、デフォルトの状態では、日常生活の中で処理しきれない情報(例えばAさんの例で言うと上司の一言)を整理して、自分の中に存在する情報のシステムと一貫性のある形で統合します。
  Aさんが土曜家族との楽しいひと時を過ごしている間にも、積極的に脳はデフォルトに戻り、情報を処理しようとしましたし、日曜の朝の瞑想時には、何かを達成しようとすることをあえてしていないので(瞑想をすると言う形で)脳がなおさらデフォルトになり、処理できなかった情報を処理しようとします。この要因の脱落によりジャーナは次の段階へと移行します。
  余談ですが、こういった処理できず今の生活に支障をきたす元となっている情報を素早く処理をする方法が、私が指導をしている「ブレインスポッティング」です。問題に集中した状態で、瞑想状態を促すことで、情報の処理が加速的に行われ、既存の方法と比べてとても早く安全に問題の改善に至ることが、経験的にも、臨床試験的にも認められています。

スカー
  スカー(Sukha、楽)は「ポジティブな情動」と認知学的には捉えられます。本稿では「ドーパミンの減少」により身体の心地良さが体験されなくなることで次のジャーナの段階(スカーとエカ―ガターのみの体験)に移動するとあります。ピーティの脱落に続くスカーの体験では、幸福感が体験されますが、これはカウンセリング(特にブレインスポッティング)における情報処理の順番と似ている気がします。特に心的外傷体験(トラウマ)の治療の過程では、身体の情報処理が終わると、情動、そして認知の情報処理へと移行していきます。ピーティで身体に集まっていた注意が、情動へと注がれるようになるのは(それが何であれ)身体の情報処理が終わったことを示唆しているのではないかと、個人的には推測します。
  話が脱線しましたが、スカーにおいても、脳がデフォルトでないと感情的な体験にも気づきません。ピーティ、スカーに共通して言えると思えることは、意図的に注意を注がなくとも、注意を注いでいるようなありありとした体験が生じるということです(これは私自身の解釈です)。脳には一度発火したニューロン同士がもっと働きやすくなる(へブ則)という傾向があるようで、プライミングという現象がそれを実感できる一つの現象だと思います。
  プライミングは、例えば勤め先からの帰宅中の電車で、特定のビールの広告が目に入ったとして、最寄り駅につきスーパーでビールを購入する際に、そのビールを(無意識に)選んでしまうこと等が例に挙げられます。また特定の問題についてカウンセリングで話すことで、それに関することがカウンセリングを終えた後でも数日間脳の中で続く現象も起きますが、これもへブ則を実体験できる現象の一つです。脳にはこういった可塑性があるため、呼吸に伴う身体の感覚に力強い注意を注ぎ続けることで、その影響が残り、デフォルトの状態になった脳であっても自然と、身体の感覚に注意が注がれありありとその良い感じを感じられるのだと考えています。
  またこれも個人的な推測ですが、ピーティでの身体感覚、スカーでの情動体験は、普段の生活の感覚ではあまり味わえない体験だと考えます。普段は微細すぎて知覚しえない、あるいはとても弱い感覚に対して、注意が拡大鏡の役割を果たし、拡大されて体験されているように思えます。カウンセリングでも同様のことが起き、問題(「処理されるべき情報の記憶」)に対して対話をしていくことにより、注意がその問題に注がれ、フォーカスされることで、普段感じることのないその問題に由来した身体感覚や情動を体験するということが生じます。(続く)


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:修行上の質問:実践編 (7)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:日常生活でサティを入れると余計なことを言えなくなったのはよいのですが、理論的な説明をする時にも言葉が出づらくなってきた感じです。

アドバイス:
  毎日瞑想される時間はどのくらいでしょうか。一日の瞑想が1~2時間以内だったら、その瞑想が原因で言葉が出づらくなることはあまりないように思われます。瞑想が終われば、普通に妄想し、会話し、メールを読んだり書いたり新聞を読んだり・・と言語の脳は必ず使っているからです。
  私の経験では、瞑想リトリートに入った3カ月間、来る日も来る日も1日中サティを入れ続けるだけで、本もパソコンも他人との会話も皆無になります。週に2回程度のダンマトークと面接時間以外は、言葉をほとんど使わないのです。言語脳は短いラベリングを入れるだけで休止状態になってきます。
  その結果、修行が終わって帰国直後、言葉が出にくくなっていることに驚いたことがあります。言語野が凍結したかのようでしたが、2~3日で回復し、その後は頭の回転が速くなり、適確な言語が流れるように出てくるのにまた驚きました。
  ディープなサマーディに入っている時間が長いと、その直後はやはり言葉が出づらくなる傾向があります。しかし在家の普通の生活をしている限り、深いサマーディも長時間の修行時間もなかなか取れないでしょうから、深刻な影響が出るとは思えません。読んで書いて会話をしている限り、言語脳を使用しているので大丈夫でしょう。
  これまで無自覚に言いたいことを言っていたことに気づき、人を傷つけてはいけないとか、正確に表現しなければ・・とマインドフルになり、失言しないよう慎重になり過ぎた結果、言葉が出づらくなるということは考えられるかもしれません。サティの瞑想というものは、ものごとを正確に観察し、分析的な見方が訓練されるようになっています。論理的思考が正確になり、理路整然と無駄のない説明をする能力はむしろ向上するはずです。正確にサティの瞑想を修行している限り、心配ありませんのでがんばりましょう。

Bさん:サマタ瞑想のサマーディに入り込まずにヴィパッサナー瞑想に戻るにはどうすればよいでしょうか。

アドバイス:
  多くの瞑想者がサマーディの快感に溺れて、サティの瞑想に戻りたくない傾向があります。肝心なのは、決意です。サマーディを高めることよりも、厳密にサティを入れ続けることに覚悟が定まっていれば、必ずヴィパッサナー瞑想に回帰できるものです。もしサティの瞑想が復活しづらいとしたら、ご自分の心をよく観察してください。サティよりも快感の伴うサマーディを楽しもうとする心はないか。対象と融合していく、とろけるようなサマーディ感覚に陥っていくと、変性意識状態ゆえに、いかにも瞑想をしているという達成感も起きがちです。
  サマタ瞑想ではなく、ヴィパッサナー瞑想をするのだと決意がしっかりできれば、サティを強化することが一番です。思考に手を出さない決意と、現実感覚を生々しく感じることがポイントです。中心対象の感覚を鋭く実感し、現実感覚を強化することが、サティに回帰してくる道です。
  もしサマーディが強すぎて、サティが入りづらくなっていたら、例えば、歩く瞑想中だったらわざと意図的にドスン、ドスンと歩いてサマーディ感覚を弱めます。あまりやり過ぎると、サマーディ感覚も破壊され失われるので適当にです。
  坐る瞑想中だったら、閉じていた目をパッと開いて、視野に飛び込んできたものを強く意識に焼き付けて「見た!」とサティを入れます。音に耳を澄ませて聞こえた瞬間に「音!」「聞いた!」と力強くラベリングして現実感覚を呼び戻すやり方もあります。
  普通に淡々とサティを入れ続け、強めていくのが最も望ましいのです。そうすると、高まった定力と明確なサティが連動して、瞬間定というヴィパッサナー瞑想に特有のサマーディが完成してきます。これが目指すべき正しい道です。

Cさん:少し前に瞑想をしていたら、自分ではとてもよい状態になりました。でも、その状態を再現しようとすると、焦って空まわりしてしまいます。再び同じ状態になるのは、どのようにしたらいいのでしょうか。

アドバイス:
  結論は、諦めることです。その状態は、1回だけでも体験できてありがたいことだった。良い思い出になりました・・と()
  どういうことかと言いますと、初体験の時は、淡々と無心に瞑想をしていて、たまたま良い瞑想ができる全ての条件が自然に出揃ったのです。ところが今度は、最初の記憶に邪魔されてどうしても期待や欲が出てきて初期条件が異なり、同じことが起きない構造です。
  過度の期待も欲も不善心所です。善心所のサティが不善心所の欲と同居はできないので、二度と起きないのです。
  無欲になれば、また初期条件が合致して同じ体験ができる可能性があります。しかし、無欲になるのは難しいでしょう。「無欲になれば、またあの同じ体験ができるのか・・。よし、わかった! 無欲になってやる」と無意識に狙い始めてしまうものです。これは、多くの瞑想者が繰り返し検証してきた事実です。欲は巧妙に忍び寄り、こちらはオモチャにされてしまうのです。
  だから「キッパリ諦めることです」というインストラクションにならざるを得ないのです。本気で諦めない限り、つまり少しでも欲がある限り絶対に同じことが起きないと心底理解した人に、再び同じ体験が起きるものです。「狙っている」「諦めようとして、諦められないでいる」と、起きた通り、感じた通りにサティを入れていく原則です。サティの瞑想というのは、どんなものも現れてくるままに見送って手放していく、離欲の訓練なのですから。

Dさん:歩行瞑想はゆっくりの方が瞑想の効果があるのでしょうか。また、自宅で歩行を中心に30分ほど瞑想すると気持ちがよく、手も熱くなり、頭の中もスッキリしてきましたが、これは瞑想の効果なのでしょうか。

アドバイス:
  中心対象の感覚が微妙に変化していくのを丁寧に感じ取ろうとすれば、動作のスピードは遅くなるのが自然です。だからといって、レベル高く瞑想しなければならないと頑張ってしまうのは、ヴィパッサナー瞑想としてちょっとおかしいですね。あるがままを観ていく原則から外れていくからです。
  心がザワザワして知覚力が弱ければ、感覚は詳細には感じられません。動作もそれ相応の速度になるでしょう。ゆっくり歩いて瞑想している人たちは、自然に集中が高まり、センセーションが微妙に推移し変化していくのを感じているので、自ずからゆっくりした速度で歩いているだけです。
  それを横から眺めて、あんな風にゆっくり歩くのが良い瞑想なんだ・・と猿真似で自分もゆっくり歩くのは勘違いです。真似をして動作だけゆっくり歩いても、感覚がしっかり知覚できていなければ、妄想が多発するし音に注意が取られるし、上手くいかないものです。
  感覚が丁寧に感じられたら「鮮明に感じた」とラベリングするし、大雑把にしか感じられないのなら「右・左」や「離れた・着いた」の段階に戻した方がよいでしょう。どちらが良い悪いと考えるのではなく、どのような状態であろうとも、その瞬間に経験されている現実をあるがままに自覚していくのがヴィパッサナー瞑想です。鋭く感じられたら鋭く、鈍くしか感じられないなら鈍く、ありのままに確認していけば、どちらも立派にサティが入っている状態であり等価なのだと考えましょう。自分のその時の知覚力に応じたスピードで行なえばよろしいです。
  また、手が熱くなったり頭がすっきりしてくるのは、瞑想が順調な時の兆候と考えてよいでしょう。過度に精進すれば、体に緊張やコリが発生しがちです。体が冷たく、固く、鈍く、重くなるのは不善心所の特徴であり、反対に、軽く、柔らかく、しなやかに、温かく、軽快であれば善心所の体感と考えてよいでょう。
  頭がスッキリしたのは、妄想が減少した証しです。妄想を止める瞑想が首尾よく機能したのです。ネガティブな妄想が激減すれば、心は善心所モードになり、善心所モードに特有の体感が感じられてくるということです。

Eさん:ヴイパッサナ一瞑想がうまくできるコツがあったら教えてください。

アドバイス:
  2つあります。
  1つは、徳を積むことです。どんなことでもよいから、世のため人のためになるボランティアや善行を続けていくと、不思議に環境が整ってきて、良い瞑想ができるようになります。サティがきれいに入る一瞬にも、無量無数の因縁因果が働いています。その瞬間の物理的環境、体調、心の状態、周囲の協力・・等々。膨大な要因が有機的に結晶し、一瞬のサティが成立したのです。良い瞑想ができるのは、無数の徳の賜物と理解すべきです。
  徳のない、カルマの悪い人はどうでしょうか。まず瞑想時間が思うように取れません。時間があっても体調が悪い。ちょうどいいところで邪魔が入る。仕事や家庭に由々しい問題が発生する。心が乱れる。ヤル気が出ない。集中できない。坐ればとにかく眠いだけ。毎回コックリ舟こぎをする・・等々。良い瞑想ができるために必要なすべての条件が満たされなければ、瞑想はうまくいかないのです。
  なぜ仏教では、あらゆる悪を避け、善をなすことが奨励されているのか。その答の一つがここにあります。環境が整わないのは、不善業の結果であり、その責任は結局これまでの自分自身の行ないにあると考えられます。
  しかしたとえ悪条件の中にいる人でも、これから五戒を守って、あらゆる善をなしていくならば、必ずヴィパッサナー瞑想ができるようになります。希望も救いもあるのです。徳を積むこと。必死で頑張っているのに、修行が進まないと感じている方はぜひ試してみてください。
  もう1つは、心の中だけで構いませんから、瞑想中は一時的にこの世のことを捨てる覚悟をするのです。本物のこの世を捨てることは、おそらくできないでしょう。だから捨てるのは想いの世界だけでかまいません。浮かんできたどんな想念も、所詮この世のことであり、そのこの世の事柄に執着している証左なのです。
  瞑想がうまくいかないと感じるのは、多発する妄想にとらわれ巻き込まれてサティが入らなくなるからです。執着がある限り、その妄想は手放せず、巻き込まれて弄ばれてしまいます。だから、一時的に、今だけは、この世のことはどうでもよい、と潔く捨ててしまうのです。本気でこの世を捨てることなど、在家の私たちにはできません。でも今は、想いの世界だけですが、この世を捨てる覚悟をしてみるのです。その覚悟に比例して、妄想は激減するはずです。それが、今の一瞬一瞬に全てを懸けるということです。すると、きれいにサティが入り始めるでしょう。しょせん私たちには、一日に短い時間しか修行できないのですから、その束の間だけこうして腹をくくってみると良い瞑想ができます。

Fさん:瞑想をしていてもネガティブな方に心が向いていくことを止められず、結局瞑想もできなくなります。そこで他のことをして気をそらそうとするのですが、やはりうまくいきません。そのような状態の時には、どのように瞑想すればいいのでしょうか。
  状態が悪い時は、瞑想をやらない方がいいのでしょうか?

アドバイス:
  まず、歩く瞑想や坐る瞑想の最中だけが瞑想ではなく、瞑想が正しくできるように諸々の条件を整えていくことが瞑想の一部であると考えてください。
  あなたの場合、ネガティブな妄想に囚われて瞑想ができなくなり、気をそらそうとしてもうまくいかない状態ですね。ということは、気分転換やストレス解消のテクニックではダメだということですから、そのネガティブな問題にきちんと自分なりの解答を与えないと先には進めないし、瞑想状態に入ることもできないと考えるべきです。
  ネガティブな何に心が傾いていくのか、まずそれを整理してください。思考モードで構いませんから、その問題にどう対処すべきかを徹底的に考察し方向性を見つけます。もしうまくいかなければ、信頼できる人に相談します。自分とは異なる視座や発想やさまざまなヒントが得られるでしょう。自分よりも優れた智慧者と話すのが理想的です。
  もしそのような適当な人がいなかったら、ジャーナリングのように、思いつくことを手当たりしだい書き出すやり方も良いでしょう。頭の中だけで考えるのと、文字に書き起こすのとでは大きな違いです。
  きちんと紙の上に問題を書き出して、内観などの確立された技法で発想の転換を試みるのも効果的です。例えば、①恩恵を受けたこと、②自分がしてあげたこと、③自分がかけた迷惑や自分の落ち度や問題点に着目する、のが内観ですが、こうした自己中心的な発想を転換するためのきちんとした思考法に則って整理していくことが大事です。
  問題にきちんと向き合えば、仮に明確な対応策に至らなくても、今の自分にできることはここまで・・とやるべきことが整理されます。すると、同じ問題が堂々めぐりして、どうしても心が囚われてしまっていた状態に終止符が打たれます。
  ここまで来ると、瞑想ができる状態といっていいでしょう。サティを入れ、思考モードを徹底的に離れていくと、考察の次元では決して浮かばなかった智慧の閃きが得られたりします。
  以上のような営みはオーソドックスな瞑想とは言えませんが、「心の全体的成長」と言われるヴィパッサナー瞑想の一環と見なしてよいし、広義の瞑想になります。

  状態が悪い時は瞑想をやらない方がいいか、という問題も考えておきましょう。
  基本的に、コンディションの悪い時間帯に瞑想をするのはお勧めできません。瞑想する時間が自由に決められるのであれば、体調が良い時や心が整っているタイミングを狙って修行した方がよいのは言うまでもありません。瞑想は体調しだいです。瞑想を開始した瞬間にはすでに勝負がついているとも言えるほど、良い瞑想をするためには、その全ての条件を整えていかないとならないのです。
  とはいうものの、毎日仕事をし、諸々の人間関係を持ち、家庭があるのですから、こちらの望む通り、ベストコンディションの時間帯に悠々と瞑想ができる人は少ないでしょう。頭がスッキリ、体調も抜群、さあ、瞑想しよう・・と思っても、子供がビービー泣いていたり、「早く〇〇やってよ!」と奥さんに怒鳴られたりして、思い通りに静かに瞑想などできないのではないでしょうか。
  致し方ありません。それが在家の宿命です。やっと瞑想する時間が到来した時には、血糖値が下がって冴えなかったり、疲れて眠気に襲われたり、茶の間から聞こえてきたニュース番組の一言が心に刺さって妄想が多発するのを抑えがたくなったり・・等々。状態が悪い時にしか瞑想できない悲しさです。
  それでも毎日最低10分間以上は瞑想をすると決めたのですから、やるしかありません。サティが入らず、脱線するたびに戻して、眠気に襲われるたびに再び「眠気」とサティを入れて悪戦苦闘する。こんな瞑想でよいのか・・と疑が生じてくるでしょう。大丈夫です。それが修行というものです。ボロボロになりながら、負け戦をなんとか立て直そうと奮闘努力している時に力がついてくるのが練習というものです。
  スイスイ、スラスラできる練習はあまり効果がないかもしれません。できないことができるようになっていくのが練習であり、修行なのです。崩れながらも頑張って気づこうと努力している限り、立派な瞑想であり修行と考えてください。闘う気力が失せ、思いっきり眠気を貪っていたり、妄想に耽ってしまえば、それは修行とは呼べなくなるでしょう。でも、現場はボロボロでも、精進している限り必ず良い結果につながっていきます。
  一方、それとは対照的に、瞑想が深まり、心が澄み切って、サティの切れ味も鋭く、禅定感がいや増していく・・。こういう修行現場は素晴らしいですね。良い瞑想ができる条件をできるだけ揃えて臨んだ方が瞑想が進むのはもちろんです。そのためにエクササイズやヨーガをしてから瞑想を始めるのもよいでしょう。瞑想のために栄養バランスのよい食材を選び、過食しないよう細心の注意を払って腹7分目、6分目に抑えることも大事でしょう。ヤル気を高めるために「ダンマパダ(真理のことば・感興のことば)」の傍線を引いたページを再読し、感動を新たにするのも賢明な瞑想技術と言ってよいでしょう。
  まとめますと、時間が許すなら、状態の悪い時に瞑想するのは避ける。良い瞑想ができるための条件作りをする。やむを得ず、状態の悪い時にしか瞑想できないのであれば、果敢にチャレンジする精神さえあれば立派な瞑想になると心得る・・。以上です。
 今月のダンマ写真 ~

 










      祈り!

T.O.さん提供


    Web会だより  

『真実に向き合う力を得て・・』S.S.

  19歳から36歳の現在に至るまで、人生のおよそ半分を過食嘔吐という摂食障害と共に生きてきました。この摂食障害を完治させることが、私がヴィパッサナー瞑想を始める一番の目的でした。
  201610月から瞑想の実践を始めて13カ月が経ちます。始める前と後での大きな違いは、摂食障害が自分から排除したい汚点から、自分の一部として受け入れられるようになったことです。摂食障害だったからこそ、時間をかけて自分と向き合いながら少しずつ人生を軌道修正してこられたのだと気づきました。
  またこの症状について自己開示ができるようになったことには、自分でも驚いています。摂食障害はまだ完治していませんが、学ぶことがまだあるのだろう、学びきったら自然と症状は消えるだろうと今は思います。
  ここ半年ほど、毎月1day合宿に参加しています。それまで瞑想は一人でするものと思っていましたが、私の場合は実践されている方と定期的にお会いすることが瞑想の質の深まりやエゴを手放す大きな糧となっています。参加者は性別も年齢もバラバラですが、一番目を背けたい自身のネガティブな部分と真摯に向き合おうとする強さと柔軟性をお持ちの方が多く、お話を伺うたびに本当にたくさんの気づきや刺激をいただきます。そして同時に自分の凝り固まったものの見方や悩みのちっぽけさなんかも再確認します。
  瞑想を始めるきっかけは摂食障害でしたが、不思議と生活全般、自身との関係を含めた人間関係においても幸福度が増している実感があります。大きな幸せというよりは、視座の転換による日々の小さな幸せに気づけるようになった感じです。
  思い起こすと、私は、「家の外で」自分の外面と内面が人からどう見られているかに執着し、完璧な自分を演じ、その演じられた部分だけが本当の自分だと思っていました。そして私の基準から外れたことには怒り、周りのせいにして勝手に苦しんでいました。傍からは、カッコつけだし、こだわりが強くて付き合いにくいと思われていたこと間違いなしです。また外で頑張る分、家では超わがままな怠け者でしたが、そんな自分の存在には見向きもしてきませんでした。今は良好ですが、当時夫婦関係が破綻していたのも今なら納得です・・。
  ヴィパッサナー瞑想でこんな自分に衝撃を受けてから、普段こだわっていることを、できそうなことから敢えて手放す試みを始めました。例えば、私はくせ毛が嫌で高校時代からストレートパーマは欠かせませんでしたし、毎朝時間をかけて生えてきたくせ毛を引っぱり続けてきました。毎日髪型を気にしていました。そのこと気づいた時、幸運にも旦那さんがいますし、髪型にこだわることを一度やめてみようと思いきって地毛のままのショートカットにし、白髪もあえてそのままにしてみました。綺麗な女性からはほど遠いですが、周りの反応も上々で、朝の準備も自分をつくろう手間も省けて楽になりました。気をよくしてその後スポーツ刈り級の短髪にしたら、なにを目指しているのか、出家するのかと数日間行く先々で質問攻めにあいました。自分でも似合っていないと思ったのでさすがにやりすぎたと思いましたが、どんなに見た目にこだわろうとも他人の見た目への関心は数日程度だという収穫がありました。
  お蔭さまで瞑想は順調に深まっており、数か月前には2週間ほど禅定状態を味わう経験もできました。しかしその後は見事に禅定どころか良い瞑想すらできず、仕事も忙しくなりイライラ期に突入しました。そして数日前に理不尽な仕事が降ってきた際、ちょうど上司が不在だったこともあり、不満を口にし始めたら仕事そっちのけで不平が止まらなくなってしまいました。自分のキャパシティー以上に頑張ることで出来る自分を装い、ありのままの自分に目を背けてきた結果でした。この状況を自覚したその晩、昔大好きで通っていた音楽がガンガン流れているジムに直行してノリノリで汗を流しながら運動をすると、すっきりしましたし何よりとても楽しんでいる自分がいました。そこで私は所詮こんなものだと受け止めることができました。
  今の私は強烈な苦を感じた時、欲界の一時しのぎでしかまだ対処できません。その対処法で一番身近で即効性のあるものが過食嘔吐です。今の私はこの段階にいます。それなのに瞑想が順調だったこともあり、解脱候補者気分でおおらかな自分を装っていました。良い瞑想ができないことも仕方がないと思えるようになりました。
  私の苦しみのほとんどは慢と我欲から生じる怒りです。私はこんなにやっている、こんなにしてあげているという自己中心的な視座からものを見て、そこから強情にも動こうとせず、周りに理解しろ、評価しろ、動けと非難しています。今まで自分が正しいと思い込んでいたので気づきもしませんでしたが、最近は少しずつこのことに気づける回数が増えています。
  また人間関係において1日にイラっとする機会は数えるほどしかない恵まれた環境にいることも認識し始め、少しずつですが謙虚さも出てきた気がします。そして数度しか起きない怒りに固執しているちっぽけな自分を滑稽に思い、時間はかかりますがこのよう視座の転換の連鎖反応により、考えを手放せるようになり始めました。
  この一年、ありのままを見ることで今まで見えてこなかった問題の本質に多く触れ、日々が刻々と変化していることを実感しています。摂食障害の克服の鍵も、現状を受け止め執着せず、無理な部分は智慧を使って脱するところにあるように思えます。つくづく今の自分にはありのままを観る瞑想の練習が必要だなぁと思う今日この頃です。
  最後になりましたが、このようにアウトプットする機会をいただけたことに大変感謝をしております。ただ思っているのと開示するのでは雲泥の差があり、日々の変化により集中することができました。誠にありがとうございました。



☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

       
 






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ダンマの言葉

世俗を捨てなさい。世俗とは今のあり様です。世俗が心に生じ、意識を支配することをあなたが許してしまうと、心は曇り、心は自分自身を見ることができ無くなります。ですから、心に何が生じようとも、ただこう言いなさい。「これは私には関係無い。これは無常であり、苦であり、無我である」と。(『月刊サティ!』20053月号、「私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話」より(アチャン・チャー長老法話集)

       

 今日の一言:選

1.たとえ外界の事象に影響を及ぼす力がなかったとしても、慈悲の瞑想を繰り返し唱える人の心は変わっていく。
 優しい人になれる。
 そして、人の本当の気持ちというものは、必ず伝わっていく……

2.夢は、必ずかなう。
 想いも、遂げられる。
 望めば、完璧な幸福が到来するのだ、と信じる。
 想い続け、信じ続け、望み続ければ、いつか必ずそうなっていくのが現象の世界だ。
 業が異なるので、時間のかかる人もいる。速い人もいる。
 望み続ければ、ものごとは必ず成就するし、成就したものは崩壊していく……

3.赦しがたいものを受け容れることができた瞬間、それまで固執していた「正義()」や「理想()」を手放している……


       

   読んでみました
  『ダイアモンド博士の“ヒトの秘密”「動物のコトバ、ヒトの言語」』を観て
  2018/1/17NHKで放映された『ダイアモンド博士の“ヒトの秘密”「動物のコトバ、ヒトの言語」』を観た。この番組は、『若い読者のための第三のチンパンジー』(ジャレド・ダイアモンド著)をベースにしながら野外講義という形をとったもので、今回の内容はその本の第6章にあたる。
  人間がどのようにして複雑な言語を獲得したかは、非常に興味深いテーマである。この課題に対する回答は、動物の鳴き声やアフリカなどの原住民のコトバから推定されるという。
  では、単純な言語は、どのように獲得されたのであろうか。
  ベルベットモンキーやプレーリードッグは、言葉を使って、敵の襲撃を仲間に知らせることができる。敵によって鳴き声を変えるのである。その点では、これらの動物は名詞を使い分けてはいる。しかしその言語は単純であり、複雑な表現はできない。
  ではヒトの言語はどう発達したのであろうか。それを考えるに当たって、博士はこの人間社会で単純な言語を使う民族を探すために各地を調査して回ったそうである。
  パプアニューギニアの人々(フォーレ族)は、石の道具を使い、文字はなかった。フォーレ族の使っている言語(フォーレ語)を調べると、場所を示す動詞があり、主語が人間かどうかで違う動詞を使っており、英語より複雑だった。
  この調査でわかったことは、人間の社会においては単純な言葉で生活している民族はいないということであった。どの民族も、複雑な言語を駆使している。
  とはいえ、人間社会で単純な言語を使う環境はあった。異なる言葉を使う商人同士が、交易のために使った単純な言語(これをピジン語と呼ぶ)がそれであった。この言語は、商売のための言語であり日常生活の言語ではない。
  ヒトの言語が、どうやって複雑で洗練されたものになったかという疑問を解くヒントは、ピジン語で育った子供たちの言葉に見つかった。昔、インドやハワイの農園には、いろいろな国(例えば、フィリピン、日本)の移民が集まってきていた。それらの移民たちは、仕事ではピジン語を使っていた。
  ピジン語は仕事をするには十分であったが、普段の生活には物足りない。彼らの子供は、両親のピジン語を聞いて育っていったが、言いたいことが充分に表現できない。ピジン語では満足できなかった子供たちは、自分たちで複雑な言語を作り始める。それをクレオール語と呼ぶ。
  クレオール語は、各地のピジン語を使っていた家庭で自然発生的に生まれた。このようにして、単純な言語から複雑な言語へと進化していったと考えられる。
  人間が、なぜ複雑な言語を獲得することができるのかというと、人の脳に備わった遺伝的なプログラムから生まれたのだという考えがある。
  代名詞や副詞も、我々の遺伝子のプログラムに由来する可能性がある。この考えは「普遍文法」と言い、言語学者ノーム・チョムスキーが提唱した。人は生れながらにして、あらゆる言語に適用可能な文法を持っているという考えである。
  脳の発達に伴って言語も進化してきたという訳である。高度な言語は、人間のような複雑な脳を持ったものにしか与えられていない。そして、そのような脳をもっていれば、文法を持つ言語を持つようになるのは必然だと言っているのである。クモが巣の作り方を生得的に知っていたり、また鳥は教わらなくても空を飛ぶのと同じように、人間も生まれながらに言語の使い方を知っているというのだ。人間は、特別な存在なのかもしれない。
  ここで重要なのは、人間が言語に文法を持ったことだ。人間以外に言語に文法を持った動物は見つかっていない。それほど、文法を持つということは、画期的であった。
  文法は、単語に順番を設けて手順を示す。文法をもう少し科学的に分析すると、文法によって、単語と単語との間の関係を表現できる。もう少し深く考えると、空間的な関係や時間的な関係(現在のことなのか、過去なのか、過去分詞的なことなのか)を表現することが可能だ。そして、言語に文法を持つことにより、思考の概念空間が一挙に拡大した。これにより、妄想する能力も飛躍的になったが、空間的な関係や時間的な関係により、自分自身を対象化して観るという「気づき」が生じてきた。この自分自身を観るという「気づき」は、メタ認知と呼ばれているもので、ヴィパッサナー瞑想の核心部である。
  動物の言葉の単語には、順番を操作するルールがない。すなわち、人間の言語のような文法を持たない。動物には気づき自体はあるのだが、人間のようなメタ認知的な気づきはないように思われる。言語にとっては、文法を持つことがメタ認知的な気づきを得るための必須条件ではないかという気がする。
  では、メタ認知的な「気づき」は、大脳皮質のみに局在するのかと言うと、それだけではないと思う。人間が気づけるのは、身体という存在があるからである。気づきを得るためには、身体を通して、人間の周囲の空間である外界に働きかけができる(出力する)ことが重要である。
  出力することによって、環境に働きかけることができる。そうすると、その働きかけに対するリアクションが返ってくる。そのリアクションが新たな気づきとなっていく。そして、気づきの連鎖がもたらされる。入力だけだったら、そのような気づきの連鎖はない。そして、時間的な要素も加味し、それらが渾然一体となって気づきを補完していく。
  人間が外界に働きかけができるのは、身体を持っているからこそ可能となる。だから、身体を持つことにより、瞑想もできるし、気づきの極みである「智慧の発現」につながっていくのである。
  このように、メタ認知的な「気づき」は、言語に文法が備わったことと、身体が存在するということによって得られた。
  人間は、抽象化する能力によって、主観的にも客観的にも、この現象世界を見ることが可能になった。しかし我々人間は、全てを概念化して思索するという枠の外には出られない。しかし、それに気づいているということは、その枠の外に出られる可能性を示唆しているのではないだろうか。
  人間の言語に文法が備わったのは、画期的なことだった。さらに、今、この素晴らしい言語を停止させることによって、次のステップに進むことができるのではないか。それが、サティの瞑想であり、言語を介することなく、直接知覚による気づきによって、全てが概念化されてしまう思考の枠の外に出て、現象世界を対象化して認識する可能性が開けたのではないだろうか。
  その偉業が修行現場でなされた時、一切の人生苦は無明(貪・瞋・痴)という名の妄想から生じていると認識できるのではないかと妄想している。
   言語による気づきと違って、サティの瞑想では、事象の本質を直接知覚する衝撃とともに、世界が180度ひっくり返るような認知の転換がもたらされるのだろう。真理の究極を究めていく最終章は、サティの瞑想の実践に徹するしかないのではないかと夢想しながら、今日もまた瞑想修行を続けようと思う。(N.N.)018/1/17
NHKで放映された『ダイアモンド博士の“ヒトの秘密”「動物のコトバ、ヒトの言語」』を観た。この番組は、『若い読者のための第三のチンパンジー』(ジャレド・ダイアモンド著)をベースにしながら野外講義という形をとったもので、今回の内容はその本の第6章にあたる。

  人間がどのようにして複雑な言語を獲得したかは、非常に興味深いテーマである。この課題に対する回答は、動物の鳴き声やアフリカなどの原住民のコトバから推定されるという。
  では、単純な言語は、どのように獲得されたのであろうか。
  ベルベットモンキーやプレーリードッグは、言葉を使って、敵の襲撃を仲間に知らせることができる。敵によって鳴き声を変えるのである。その点では、これらの動物は名詞を使い分けてはいる。しかしその言語は単純であり、複雑な表現はできない。
  ではヒトの言語はどう発達したのであろうか。それを考えるに当たって、博士はこの人間社会で単純な言語を使う民族を探すために各地を調査して回ったそうである。
  パプアニューギニアの人々(フォーレ族)は、石の道具を使い、文字はなかった。フォーレ族の使っている言語(フォーレ語)を調べると、場所を示す動詞があり、主語が人間かどうかで違う動詞を使っており、英語より複雑だった。
  この調査でわかったことは、人間の社会においては単純な言葉で生活している民族はいないということであった。どの民族も、複雑な言語を駆使している。
  とはいえ、人間社会で単純な言語を使う環境はあった。異なる言葉を使う商人同士が、交易のために使った単純な言語(これをピジン語と呼ぶ)がそれであった。この言語は、商売のための言語であり日常生活の言語ではない。
  ヒトの言語が、どうやって複雑で洗練されたものになったかという疑問を解くヒントは、ピジン語で育った子供たちの言葉に見つかった。昔、インドやハワイの農園には、いろいろな国(例えば、フィリピン、日本)の移民が集まってきていた。それらの移民たちは、仕事ではピジン語を使っていた。
  ピジン語は仕事をするには十分であったが、普段の生活には物足りない。彼らの子供は、両親のピジン語を聞いて育っていったが、言いたいことが充分に表現できない。ピジン語では満足できなかった子供たちは、自分たちで複雑な言語を作り始める。それをクレオール語と呼ぶ。
  クレオール語は、各地のピジン語を使っていた家庭で自然発生的に生まれた。このようにして、単純な言語から複雑な言語へと進化していったと考えられる。
  人間が、なぜ複雑な言語を獲得することができるのかというと、人の脳に備わった遺伝的なプログラムから生まれたのだという考えがある。
  代名詞や副詞も、我々の遺伝子のプログラムに由来する可能性がある。この考えは「普遍文法」と言い、言語学者ノーム・チョムスキーが提唱した。人は生れながらにして、あらゆる言語に適用可能な文法を持っているという考えである。
  脳の発達に伴って言語も進化してきたという訳である。高度な言語は、人間のような複雑な脳を持ったものにしか与えられていない。そして、そのような脳をもっていれば、文法を持つ言語を持つようになるのは必然だと言っているのである。クモが巣の作り方を生得的に知っていたり、また鳥は教わらなくても空を飛ぶのと同じように、人間も生まれながらに言語の使い方を知っているというのだ。人間は、特別な存在なのかもしれない。
  ここで重要なのは、人間が言語に文法を持ったことだ。人間以外に言語に文法を持った動物は見つかっていない。それほど、文法を持つということは、画期的であった。
  文法は、単語に順番を設けて手順を示す。文法をもう少し科学的に分析すると、文法によって、単語と単語との間の関係を表現できる。もう少し深く考えると、空間的な関係や時間的な関係(現在のことなのか、過去なのか、過去分詞的なことなのか)を表現することが可能だ。そして、言語に文法を持つことにより、思考の概念空間が一挙に拡大した。これにより、妄想する能力も飛躍的になったが、空間的な関係や時間的な関係により、自分自身を対象化して観るという「気づき」が生じてきた。この自分自身を観るという「気づき」は、メタ認知と呼ばれているもので、ヴィパッサナー瞑想の核心部である。
  動物の言葉の単語には、順番を操作するルールがない。すなわち、人間の言語のような文法を持たない。動物には気づき自体はあるのだが、人間のようなメタ認知的な気づきはないように思われる。言語にとっては、文法を持つことがメタ認知的な気づきを得るための必須条件ではないかという気がする。
  では、メタ認知的な「気づき」は、大脳皮質のみに局在するのかと言うと、それだけではないと思う。人間が気づけるのは、身体という存在があるからである。気づきを得るためには、身体を通して、人間の周囲の空間である外界に働きかけができる(出力する)ことが重要である。
  出力することによって、環境に働きかけることができる。そうすると、その働きかけに対するリアクションが返ってくる。そのリアクションが新たな気づきとなっていく。そして、気づきの連鎖がもたらされる。入力だけだったら、そのような気づきの連鎖はない。そして、時間的な要素も加味し、それらが渾然一体となって気づきを補完していく。
  人間が外界に働きかけができるのは、身体を持っているからこそ可能となる。だから、身体を持つことにより、瞑想もできるし、気づきの極みである「智慧の発現」につながっていくのである。
  このように、メタ認知的な「気づき」は、言語に文法が備わったことと、身体が存在するということによって得られた。
  人間は、抽象化する能力によって、主観的にも客観的にも、この現象世界を見ることが可能になった。しかし我々人間は、全てを概念化して思索するという枠の外には出られない。しかし、それに気づいているということは、その枠の外に出られる可能性を示唆しているのではないだろうか。
  人間の言語に文法が備わったのは、画期的なことだった。さらに、今、この素晴らしい言語を停止させることによって、次のステップに進むことができるのではないか。それが、サティの瞑想であり、言語を介することなく、直接知覚による気づきによって、全てが概念化されてしまう思考の枠の外に出て、現象世界を対象化して認識する可能性が開けたのではないだろうか。
  その偉業が修行現場でなされた時、一切の人生苦は無明(貪・瞋・痴)という名の妄想から生じていると認識できるのではないかと妄想している。
   言語による気づきと違って、サティの瞑想では、事象の本質を直接知覚する衝撃とともに、世界が180度ひっくり返るような認知の転換がもたらされるのだろう。真理の究極を究めていく最終章は、サティの瞑想の実践に徹するしかないのではないかと夢想しながら、今日もまた瞑想修行を続けようと思う。(N.N.)
 
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