月刊サティ!

2018年4月号      Monthly sati!     April 2018


 今月の内容

 
  サマーディの脳の基礎:瞑想的没入の神経科学(2)
    The New School for Social Research

                             ジェレミー・ヤマシロ

 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:修行上の質問:実践編(5)
  ダンマ写真
  Web会だより:『日本の寺の住職を辞して、これから』(2)
ダンマの言葉
  今日のひと言:選
  読んでみました:「ブラックボックス化の問題とヴィパッサナー瞑想」                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   サマーディの脳の基礎:瞑想的没入の神経科学(2)
ジェレミー・ヤマシロ
The New school for Social Research

(承前)
ウパチャーラの発生のために示された神経メカニズム


  サマーディの最初の段階としてのウパチャーラ、すなわちアクセス意識(access consciousness)の特徴は、自我の消滅である10)。自己意識に関する神経学的基礎に関する幾つかのモデルでは、内側前頭前皮質(mPFC)が「主観的に感じる」ということを示唆している。別の言い方をすれば、内側前頭前皮質はホムンクルス(脳の中に住んでいると考えられた小人)的な認識に関与することが示唆されているのである。「ホムンクルス的に認識する」というのは、認知とメタ認知との区分に関して使われる表現である。デカルトが「我思うゆえに我あり」(cogito)と唱えたあと、この「認識する者」は「デカルト的なホムンクルス」としばしば呼ばれる13)。
  内側前頭前皮質は自己に関係する判断に関連している14)。また自伝的記憶の想起15)、および感情的な自己内省16)にも関連している。換言すれば、内側前頭前皮質には、自己の心を理解しようとする働きself-meltalization)をサポートする働きがある。
  BaarsRamsoyLaureys17)は、自己に関連する前頭皮質において、より後方の感覚野からの情報を解釈する際に、どの領域で意識的な知覚が起こるのか、その場所についてのモデルを提示している。
  しかし、GoldbergHarelMalach18)は、BaarsらとCrickKochs13)の予測とは対照的に、内側前頭前皮質と後方の身体的感覚領域との間には相互的な関係性があることを発見した。
  Goldbergらの研究では、被験者たちは、fMRI(注5)に入った状態である映像を見た。自己内省を課題とするグループでは、被験者は映像からどんな気持ちが喚起されるか感じ取るよう指示され、良い感情と悪い感情を感じるときにそれぞれのボタンを押すよう指示された。感覚分類課題(注6)のグループでは、被験者は映像を見て、その視覚情報が動物か動物でないかを判別してそれぞれのボタンを押すことになっていた。それらの2つの映像は同一の条件によって構成されていた。感覚分類課題はさらに速い課題と遅い課題に分けられ、速い課題はより困難な課題であった。
  自己内省の課題の間、被験者は左の内側前頭前皮質、上前頭回、前帯状回、傍帯状回(paracingulate)の選択的活性化を示した。内省課題と感覚における遅い分類課題では、被験者は後帯状回、楔部溝と頭頂葉下部(IPC)で活性化を示した。このネットワークは、Raichleほか19)によって発見されたデフォルト・モード・ネットワーク(注7)に大きく重なっていた。
  目的志向的な活動をしない時は、被験者の脳活動のパターンは、自分自身について考える、または内省的になっていた。したがって、明確な内省的課題の場合、同じネットワーク内においては活性化が選択的になるのは驚くことではない。困難でない感覚分類課題においても同様で、そこには心が自由にさまよう余裕がある。
  しかし感覚分類課題、なかでもより困難な速い課題については、被験者は前頭皮質の抑制と、階層的な視覚処理と関連する後方領域において選択的な活性化を示した。後方領域の選択的な活性化は、一次視覚野から外側後頭複合体(LOC)、頭頂骨、運動前野と運動野までであった。
  Goldberg等の研究18)を私たちの議論に関連させると、二つのことが考えられる。
  一つ目は、自己の意識に対する気づきには、自己を観察すると考えられたホムンクルス的な存在は必要ないということである。内側前頭前皮質を基盤とすると、外側後頭複合体の領域で感覚的な表象を「知覚」しそれを意識するためには、後頭頭頂葉の活性化のみで十分なのである。つまり、それ以上に前頭前皮質で知覚情報が処理される必要はないのである。
  CrickKoch13)またはBaarsら17)によると、意識できる知覚は「自己」の基盤である前頭前皮質と感覚野とのやり取りで生じると仮定されるのだが、Goldbergらの結果はその仮定と矛盾している。自己を意識するということには意識の上での気づきは不必要なのである。
  二つ目は、Goldbergらの研究の結果は、Kinsbourneの統合的場の理論(Integrated Field Theory)に沿っているということである。統合的場の理論においては、気づきながら視野が移動する場合、皮質上競合する下位ネットワーク間の活性化の強さを変化させることになる。Kinsbourneの枠組み19)を正しいと仮定すると、Goldbergらの結果の示唆するところは、自分の心を理解するのは主に脳前部の活動であり、課題への指向や感覚運動に関しては脳後部の活性である、ということであろう。
  Kinsbourneによる半側空間無視における取り組みでは、右脳から左脳への活性化の移動とそれに伴う左側の視野の無視について詳しく述べられているが、Goldbergらの研究結果も同様な脳活動の変化を示唆している。具体的には、難易度の高い感覚運動の課題においてそれに集中する際に、脳前部のネットワークから脳後部のネットワーク、またそれと関連した自分の心を理解する脳活動から、感覚課題に対する意識への脳活動に移行するのである。
  瞑想の実践者がサマーディの際に、自己の心を理解しようとする(self-mentalization)働きが消えたと報告するのだが、Goldbergらの発見は、その理由を与えてくれるように思われる。
  一般的には内省と瞑想は似たような使い方をされているが、これらの二つの活動は全く異なるものである。アーナパーナ・サティあるいは呼吸へのマインドフルネスは、感覚運動としての課題である。Goldbergらの研究では視覚や聴覚が強調されているが、アーナパーナ・サティは自己受容性の感覚、あるいは触覚の感覚に関する課題である。
  実際、アーナパーナ・サティの課題はGoldbergらの感覚分類課題に似ているが、それは単なる偶然だとは考え難い。感覚分類課題においては、被験者は視覚(あるいは聴覚)を刺激され、その刺激を分類した。一方、自己内省課題の被験者たちは、視覚刺激を感じ取った後に、その刺激から生じる感覚について快か不快かを判別した。そして感覚分類課題の段階においては、感覚的な内容や概念的な判別について注意が必要とされる。
  アーナパーナ・サティにおいても、感覚を取るという課題については基本的には同じである。瞑想者は呼吸に伴う鼻の先と上唇、あるいは下腹部といった身体的な感覚に十分に注意を向けなければならない。そして自己の視点からの価値判断をしないよう、単にそれを経験するよう教示される10)。
  Goldbergらによると、前頭前皮質と後頭部の感覚運動野の相互的な活性化パターンは、抑制の唯一のパターンではないことが示唆されている。異なる感覚器官を一つの課題に関与させると、自己の心を理解しようとするネットワークを抑制するのと同じ抑制を作り出す。したがって、価値判断をしない自己受容性感覚、あるいは触覚に関する課題に取り組むことで、デフォルト・モード・ネットワークの前頭前皮質による抑制を引き起こしていると考えてよいだろう。Czikszentmihalyi20)は、例えばダンスや運動競技等の身体的な課題を行なっている際に自己意識の感覚が消失すると述べている。ただ、脳画像による根拠がないうちは確証はできない。
  Goldbergらの研究に参加した被験者たちが感覚分類課題に集中した時には、デフォルト・ネットワーク内においてある程度の抑制が示された。この価値判断を伴わない課題への集中は、Czikszentmihalyiが「フロー」と呼ぶ現象に関連する主観的な体験である。したがって、呼吸に伴う身体感覚の高い活性化と、自己の心をそのまま受容することによるデフォルト・モード・ネットワークによる脳活動の抑制が、ウパチャーラ、あるいは心の集中を作り出す可能性がある。つまり、脳のこの部位における活動が安定化すると、瞑想者の内的体験は自己を離れた状態で、より穏やかで安定し、ジャーナ体験へと誘われていくように思われる。

ジャーナ

  Hagertyら12)の研究は、fMRIを使ってジャーナの状態を調べた最初の試みである。彼らの唯一の事例である被験者は、スリランカの伝統であるテーラワーダ仏教にて訓練を受け、17年間で累計6000時間の瞑想経験を持つ55歳の男性であった。
  この研究で被験者は、ジャーナへと体験が移り変わる際にボタンをクリックするように指示を受けた。Hagertyらはこの研究において、サマーディに関するこれまでの現象学的な報告を元に、五つの予測を立てていた。

1.外界の現象への気づきは薄い。
2.内的な言語化はない。
3.個人の境界線の感覚が変容する。
4.瞑想者は瞑想の対象に対するとても強い集中を示す。
5.喜びの感覚が増す。

  実験では、これらの予測通りの結果がもたらされると同時に、日常における憩いの状態にある時の脳活動と比較して、ジャーナを体験している際には瞑想者の視覚野と聴覚野の活動が低下していることが発見された。
  具体的に言うと、ブロードマン17-19野、41-42野の活動が低下していたのである。これはHagertyらの第1の予測である視覚と聴覚の情報処理の低下を支持している。
  さらにブローカ野(BA4445)とウェルニッケ野(BA3940)の活動低下をも示しており、それらは内的な会話が静まっていることを示唆している。頭頂部の皮質は、身体感覚の主観的な形象化に関連するとされていた21)が、ジャーナの間はこの部位の活性化も低下していた。
  この上頭頂小葉への神経回路の遮断は、被験者の身体境界線の感覚が変容していたこと、具体的には物理的な境界線のない意識感覚になっていたことを示している。この結果はBeauregardPaquette22)によって再現された。彼らはキリスト教修道院による報告書「神との神秘的な一体化(mystical union with God)」(p.187)において、視床後外側核から上頭頂小葉への伝達の遮断について報告している。
  またNewbergInverson23)は、この後頭頂葉部への回路が閉ざされて網様核の高い活性化が起きる際に、視床後外側と膝状体へ放出されたγアミノ酢酸(GABA)の増加について調べた。さらに彼らは、この視床における活性化と、それに伴って起こる後頭頂皮質へのシグナル伝達の抑制は、ウパチャーラからサマーディの段階へ移行する時のように、2番目のジャーナを通じて自発的に強く生じる右側の前頭前皮質の活性化によって引き起こされると仮定した。
  こうした回路が遮断される程度は、被験者たちが瞑想対象(BeauregardPaquetteの場合は神のイメージ)に注意を持続する度合い、また2番目のジャーナに移行する際、僧がヴィタッカやヴィチャーラを放っていく際に生じる対象なき集中の度合いと対応しているのである。
  2番目のジャーナへ移行するような場合には、回路の遮断はより完全となる。頭頂葉が空間における身体の経験を作り出すという通常の情報処理を行わせないことで、この回路の遮断は、覚醒した中においても自己に拘束されない、通常でない意識体験を作り上げるのである。
  瞑想中には、視床から頭頂葉そして後頭葉にかけてのγアミノ酢酸性の活動増加が生じるが、そのさらなる影響として、感覚情報に対して鋭さが高まることが挙げられる。これは集中力を邪魔する心の作用が少ないこと示す明確なサインである24)。
  NewbergIversonはさらに、後頭頂皮質の回路の遮断と右の海馬の活性に関係性を見出した。それは海馬と皮質活動において調整的な関係性があるということである。瞑想中に右の海馬が刺激されると、右の扁桃体にも活性化が広がる25)。そして右の外側扁桃体への刺激は、腹内側の視床下部を活性化させ、副交感神経系を活性化させる26)。この副交感神経系の活性化は、サマーディ、特に4番目のジャーナに生じるウペッカー、あるいは平穏の要素と関連したリラクゼーションと深い静寂を説明し得るであろう。
  Hagertyら12)は、ウパチャーラと1番目のジャーナの際に、前部帯状回が比較的活性化していることを見出した。このことは、これら初期の段階では、意図的な集中が必要であることと一貫性がある。しかし、彼らは2番目から4番目のジャーナにおいては、前部帯状回の活性化が基準値と比較して低下していることも発見した。これも同様に、これらの段階では瞑想における注意の対象(呼吸)が集中すべき対象ではなくなり、注意が解き放たれることと一貫している。
  またHagertyらは1番目と2番目のジャーナにおいて、側坐核と内側眼窩前頭皮質の活性化が高まることも発見した。彼らはそれらの活性化を、食物、セックス、金銭、その他の快を伴う外的な刺激によって最も活性化するドーパミン報酬システムとして挙げている。Hagertyらの被験者は、外的な要因なしに、内的な要因によってドーパミン報酬システムを刺激できるようでもあった。
  側坐核および内側眼窩前頭皮質の活性化は、自己報告されるピーティ(喜)、すなわち身体感覚の強い快であると考えられる。Hagertyらは、瞑想者が2番目から3番目のジャーナに移行する際にこのピーティが終わると、側坐核や内側眼窩前頭皮質の活性化が通常の基準値まで戻ることを観察した。
  1番目と2番目のジャーナにおける強い快は、瞑想実践の最終目標ではない。RatherHagertyらの被験者はウパチャーラの時に、外的な対象への意図的な注意の集中から自然に解放されたのだが、その後の1、2番目のジャーナの際に、ピーティ()とスカー(楽)は、どんな刺激に対してもそれに近づいたり避けたりする必要性を感じさせない強い満足感を促す役割を果たしたと報告している。
  この平等感あるいはウペッカー(捨)は、4番目のジャーナへ移るサインでもある。4番目のジャーナでは、この平等感覚と一点への気づきのみが残る。これがサマーディの絶頂である。注意には定まった方向性がなく、快も嫌悪もない。感情的な満足感はなくなり、残るのは覚醒と鮮明な一点に集中した平等な意識である。この状態から瞑想者は、洞察の瞑想であるヴィパッサナーの取り組みを始めるのである。

 翻訳:鈴木孝信(東京多摩ネット心理相談室)、南和行(カウンセリングルームすのわ)

(編集部:注)
 5.核磁気共鳴を利用して、脳や脊髄の活動に関連する血流動態反応を視覚化する方法。
 6.被験者は先ず視覚(あるいは聴覚)を刺激され、そしてその刺激を感じ取り、それに対して快不快を判別する課題。
 7.安静時の脳の活動状態

(参考・引用資料概略)
10.Bhikku Nanamoli2010
12.Hagerty2013
13.Crick and Koch2003
14.Kelley et al2002 Johnson et al2002
15.St. Jacques2012
16.SchmitzKawahara-Baccus Johnson2004
17.BaarsRamsoyLaureys2003
18.GoldbergHarelMalach2006
19.Kinsbourne1988
20.Czikszentmihalyi1990
21.Bucci, Conley, & Gallagher1999
22.BeauregardPaquette2006
23.NewbergInverson2003
24.Elias, Gulch, & Wilson2000
25.Lazar, et. Al2000
26.Davis1992  


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:実践編(5) -痛みの観察、病気の時に-  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

○痛みの観察

Aさん:痛みが出てきた時、どう対処すればよいのでしょうか。

アドバイス:
  痛みに限らず、苦受を伴う嫌なことは反射的に避けたいという反応が起きるものです。痛みを感じた瞬間、まず「痛み」とサティが入らないと、自動的に痛みを消したい、逃れたい、という反応に巻き込まれていくでしょう。

  痛みが生じたことと、その痛みにどう反応するかは2つのことです。通常は電光石火の速さで生体防衛や自己保存の本能的反応が起動してしまうのですが、ヴィパッサナー瞑想者としては、現象とその現象に対する反応を仕分けたいのです。何事も現状を正確に把握しなければ、正しい対策や反応ができません。

  反応する前に、我が身に何が起きたのか、その現実をよく観るのです。
  「痛い! 痛みに襲われた」といちど思い込むと、対象そのものの現場から離れて、概念的に捉えた痛みに反応していくのが普通です。頭の中にまとめられた痛みと、本当の痛みのありのままの実状は食い違っている場合がほとんどです。事実として本当に起きている現象を正確に知覚するには、サティという技法とその習練が必要なのです。落ち着いてよく観れば「痛みはあるが、ジタバタするほどではない」などの認識も出てきます。

  痛みに限らず何事も、嫌がって消したい、逃れたい、と反応し始めると、その現象が嫌だと感じる度合いは増すものです。ヴィパッサナー瞑想の根本精神からしても、まず起きたことは起きたこととして、ありのままに受容する瞬間が不可欠です。とにかく起きてしまったのだから、まず最初に現状をそのまま受け止める瞬間がないと、ベストの対応も浮かばない道理です。いったん起きた現象をしっかり受け止めると、改めて覚悟する必要があるでしょう。

  どのようにその覚悟が定められるか考えてみましょう。

  何よりも仏教の基盤である因果論の理解を深めていくことが大事です。

  どのようなものごとも偶然デタラメに起きているのではありません。どんな現象にも生起してくるだけの原因があり、無常に変滅する過程を経て必ず消えていくものです。どれほど長く降り続けても、これまでに止まなかった雨はないのです。生じたものは必ず滅していく原則を腹中にしっかり納めた上で、今、我が身に起きた現象の意味と生起してきた原因を理解する方向で受け止めるのです。

  苦受を受けているということは、これまでに人間や生き物に苦受を与えてきたからです。たとえ軽くても人をブッたりしたことはありませんか。蚊を叩き潰したことが一度もない、あるいはゴキブリを一匹も殺さなかった人がいるでしょうか。仏教は輪廻転生ですから、過去世に遡っても、生命を傷つけたことが一度もない人などいないのです。身体レベルで苦受を与えれば、自分の身体レベルで苦受を受ける現象に遭遇してしまうのは避けられません。

  今、足の痛みという現象が発生したのだから、それは必然の結果であり、苦を受けることによって、原因エネルギーが現象化して消えていくのだ・・、不善業の負債返しができてありがたい、ともし受け止めることができれば、痛みに対する嫌悪感はかなり減少するはずです。

  嫌なことであっても、全て受け容れる覚悟が定まると、苦しみそのものが半減するものです。この基本精神が徹底すると、まず起きたことをありのままに受け止める瞬間が入るようになり、観察の瞑想がやりやすくなるでしょう。これが苦受に対する最も適切な対応であって、そうすることで自然に、ひとりでに痛みが消えていく可能性が大きいのです。
  痛みはあるが、心は落ち着いて平静でいられる・・。この状態を作っていくのがサティの瞑想の目指しているところです。痛みは人生苦の象徴でもあり、たとえ苦しい人生であっても、平然として静かな心でいられたら素晴らしいことです。その意味では、特に足に不具合がないのであれば、椅子を使うよりは足を組んで坐った方がよろしいでしょう。痛みの観察がしやすいからです。

  このように痛みを対象化して観察していくと、痛みだけでなく、万物が無常に変化していくことが悟られていくでしょう。その認識が徹底すれば、妄想の再生産が執着や渇愛を持続させていることにも気づくことができ、結果として生き方まで変わっていくでしょう。あるがままに観察する瞑想が、心を変えていくし、成長させていく構造です。


Bさん: 瞑想中に痛みなどの不快な感覚を感じた時、それに引きずられないための正しいサティの方法を教えてください。

アドバイス:
  まず、痛みが中心対象より強く感じられたら「痛み」とラベリングします。そのサティが完璧であれば、痛みはそれっきりになりすぐに中心対象に戻れるでしょう。しかしそんなことは滅多にありません。サティを入れても痛みは一向に治まらないものです。そこで、お腹の中心対象は捨てて痛みの観察に入るわけです。

  すでに説明しましたように、自分の体に何が起きているのか、どんな痛みなのか観察すると腹をくくります。ポイントは、痛みを詳細に分析的に観察することです。痛い部分と痛くない部分を仕分け、最も痛いのはどこか、痛みの質は? ズキンズキンなのかジンジンなのかピリピリなのか? 強弱は? 周期性は? 最強の痛みのポイントは固定しているのか、微妙に移動しているのか?

  このように分析的に観ていくと、嫌悪感や不安感などの心の反応が起きづらいのです。細部にいたるまで詳細に観ていくと、痛みがあるがままの状態で正確に意識される可能性が高まります。大雑把に捉えて「痛み」とラベリングを繰り返していると妄想が出やすくなり、その妄想に巻き込まれて感情的になりがちなのです。

  心が落ち着いていないと、また痛みの観察に徹する覚悟が甘いと、「痛み」と言葉だけ言っているような感じになります。そうなると、サティの対象化作用や客観視が機能していないので、ラベリングが空回り状態になり嫌悪や心配の反応に巻き込まれていくでしょう。そうなった場合には、優勢の法則からも当然、その反応している心の現象を観ます。「(痛みを)嫌悪している」「イライラしている」「心配している」と心の状態にサティを入れ、心随観に移行していきます。

  しかし、心随観は痛みの観察以上に難しいものです。ラベリングはできても実際に対象化して見送るのは容易ではありません。痛みもネガティブな心の状態もその現象を消すことに心がいってしまうと、対症療法的に足を組み替えてみようとか考えるようになります。

  何であれ、現象に執われ執着した状態になればサティは上手くいかず、ラベリングは虚しく空回りになるものです。そうなってしまったら、それも必然の展開でそうなったのですから、次の心が「ラベリングが空回り」「サティが機能していない状態」とサティを入れて対象化するのです。

  このあたりがヴィパッサナー瞑想の真骨頂です。ラベリングの言葉だけが虚しく空回りしてサティは機能していない状態に陥っても、次の心がその状態を対象化できれば、その瞬間にヴィパッサナー瞑想が正しく進行し始めるのです。

  冬の合宿に参加した人が食堂を出て、坐る瞑想を始めた時のことです。妄想だらけになり、「サティが入っていない」とラベリングしました。すると足が冷たかったので「(足が)冷たい」とラベリングし、「(背筋が)寒い」とサティを入れました。寒さや冷たさにこれといった反応もなく、自然にお腹の感覚が感じられたので「膨らみ・縮み」とサティを入れ、そのまま普通の修行に戻れました。

  これはなかなか見事なレポートでした。サティが上手く入らない状態なのに、特別ジタバタ反応することもなく、そのままありのままにラベリングできたところに無執着の勝因がありました。たとえネガティブな現象や状態に陥っても、それに執われず、淡々と観ていくことができればヴィパッサナー瞑想は上手くいくのです。簡単そうで難しいのが、この「とらわれない」なのです。執われていないので、上空から俯瞰するようにメタ認知が機能し、「淡々とあるがままに」観る瞑想ができるのです。

  この「何が起きても執われない」基本精神の確立のために、ダンマの学びを援用することが推奨されます。どんな現象も必然の力で起きてきたのだからいかんともしがたく、受け容れるしかないと腹をくくるためには、仏教の因果論に得心がいくことが大事です。また、どんな現象もすべて終わりがあり、必ず変滅していくのだからジタバタすることはない。執拗に身体に起こる苦受も永遠には続かず、捨て置けばひとりでに終息する・・と腹落ちするには「無常論」の理解が重要です。必死で反応する心が妄想を再生産して、新たな苦受を招く種を蒔かない限りは、永遠に続くものは何もないのです。


○病気の時に

Cさん:糖尿病のため、修行をやりたい気持ちはあるけれども、坐る瞑想では眠くてやる気がなくなりやれない状態です。どうしたら良いでしょうか。

アドバイス:
  糖尿病ではだるさや倦怠感が大変辛いものだと伺ってます。瞑想は体調に強く左右されますから、ご病気であれば高いレベルの瞑想修行はできないし、そのように望めば苦しくなります。

  ただ病気で苦しんでいる時はことのほかネガティブな妄想が多発しますので、実際の病気以上にその妄想で苦しみが倍増されるものです。この心理的に増幅されてしまう苦しみは瞑想で無くすことができますので、ヴィパッサナー瞑想で苦しみを最小限にしていただきたいですね。苦しい時こそ瞑想が必要だし、効果があります。

  では、眠気が強く力が出ない時には、どのように瞑想をすればよいかです。まず眠くてやる気がなくなるのは、不善心所などの問題ではなく血糖値や生理的なレベルの問題なのですから、ご自分を責めたりダメ出しをしたりしないことです。セオリーどおり、眠気や倦怠感、やる気の喪失状態をあるがままに、優しく見守るようにサティを入れていきます。

  具体的には、中心対象を定める必要はないと心得ましょう。散乱して崩れてしまう心を一点に絞り込むには相当なエネルギーが必要です。普段でも容易ではないのですから、病気の時にはとてもそんな気力もエネルギーもありません。だから中心対象を定めず、受け身に徹しきって、一瞬一瞬意識に強く触れたものをランダムにサティを入れ続けることだけ心がければよいのです。

  「(だるい)と思った」→「音」→「連想」→「音」→「音」→「妄想」→「だるさ」→「考えた」→「眠気」→「思考」→「思考」→「音」→「思考」→・・と、何がどう変わろうが続こうが気にせず、六門のどこに打ち込まれたボールでも淡々と打ち返していくだけで良いのです。

  これを「六門開放型のサティ」と言います。眼耳鼻舌身意のどの門に入った情報も順不同に、意識に強く触れたものにただ気づきさえすればよいのです。これは難しそうですが、そんなことはありません。意識が朦朧となる寸前でも、断食中のヘロヘロ状態でも、病状が相当悪化した最悪の時でも、入れようと思えばサティは延々と入り続けるものです。エネルギーがないので妄想に深く入り込む気力もないのです。全てがうっとうしく、投げやりな気持ちに陥っている時は、ウペッカーの捨の心にけっこう近いのです。見るのも、聞くのも、考えるのも、全てにヤル気がなく、うんざりで、眠りこけることすらできない。それ故に、ただ「見た」「聞いた」「感じた」「考えた」・・とその経験に気づきを伴わせるだけの営みは驚くほど続けてやれるものなのです。

  体力がありエネルギーがあるから、見ることにも聞くことにも考えることにも巻き込まれのめり込むのです。エネルギーがない時は、妄想に巻き込まれていくことすらうっとうしいのですから、六門確認だけはやろうと思えばできるのです。

  ぜひ試してください。これは私だけではなく、少なからず検証されています。私もミャンマーの森林僧院で食中毒にやられ、水のような下痢が一日に7回も続き、意識朦朧で死ぬほど苦しかった時にこの六門サティがきれいに続いていくことに感動したものです。良い瞑想をしてやろうなどという欲が皆無なので、逆に限りなくウペッカー()の心がきれいなサティを持続させたのでしょう。

  エネルギーがあり余っていて不善心所ゆえにヤル気が出ない。やりたくない。怠けたい。ずるけたい。眠くてしようがない・・こういう時が最悪ですね。ネガティブな妄想を強烈にやれるのはかなり体力がある時です。

  自身の無力さを痛感した時に心から謙虚になれるし、三宝や天に全てをゆだね、与えられたものを受けきって、なすべきことをやらせていただこう・・という心境になれるものです。病気の時はそうした境地の近くに来ていると考えることもできます。どんな最悪の時でもサティの瞑想はできると信じて、ただ淡々と気づいていくことを心がけてください。


Dさん:家内が糖尿病の初期です。何とか説得して食事制限をさせたり、瞑想をしないかと思っているのですが。

アドバイス:ご自身がご病気で何とか前向きにがんばろうとしているのであれば、開けてくる道もありますが、他人にそれを期待することは難しいのではないでしょうか。病気の方でも健康な方でも、ご本人がその気になっていない時にやらせようとして上手くいったケースはありませんね。瞑想に限らず、学校の勉強でもスポーツでも何でも、本人が自らヤル気にならないかぎり期待しても説得しても強制しても良い結果にならないでしょう。
  心から尊敬し耳を傾けて聞きたいと思っている方に言われればチャレンジするかもしれませんが、家族に言われると反発したくなったり、日頃の不満やストレスから「あなたに言われたくない」と心を閉ざすことも少なくありません。

  そういう場合にはご自分で説得しようとせず、糖尿病やその対処法について分かりやすく書かれている本を選び出して、さりげなく置いておくのがよいのではないでしょうか。素人が説明するより説得力があります。本人が読む気になって、このままではしようがないから何かしなければ・・と情報を求める気持ちにならないと心に沁みていかないでしょう。

  無理に従わせようとしても、実りのない言い合になったりするとますます後味の悪いものになります。結局、人は自分自身で納得了解したことでなければ、何も変わらないし、動かないし、これまで信じてきたものや生き方に従っていきます。

  そうなると、やれることは限られてきます。それは、何も言わず、ただ心の底から妻が良くなっていきますようにと祈り、願い、慈悲の瞑想をしっかりやらせていただくことです。敢えて言葉にせず、沈黙の慈悲の方が以心伝心、テレパシーのように心に沁みるものです。いかんともしがたい時には、「待つ」ということも大事です。待っている時にできるのは祈りと慈悲の瞑想です。その心のエネルギーというものは、百万言を費やすよりも強く響くこともあるのです。


Eさん:精神的に鬱の状態で、体調にも山や谷があって良くないときは瞑想も嫌になったりします。少し進歩したのは、今までは「瞑想をやらなければいけない」ということが先に立っていたのが、まず「嫌っていることを素直に認める」のが大切だということを知ったことです。これまで出口がない状態と思っていたのが「そんなことないよ」という自分が少し生まれて、気持ちの面で少しだけ楽になりました。

アドバイス:
  それは素晴らしいですね。仰っていることがとてもヴィパッサナー瞑想的です。ダメな時にだからやらなければいけないと反応するのはごく自然なことで、それが世間の常識かもしれません。しかし、ダメな時にまずダメな状態だと、その現状をあるがままに認めて受け容れることがヴィパッサナー瞑想の核心部です。あなたの仰ることには、ネガティブなものをありのままに認めて、優しく受け容れてあげている感じがします。そこが素晴らしいと思います。
  昔、かしまし娘というお笑いの三人姉妹がいて、その長女の方がヒロポン中毒になりました。ヒロポンというのは戦後間もなく大流行した覚醒剤で、眠らなくてもいくらでも元気にがんばれるし、強力な快感や陶酔感に多くの人が依存症になりました。かしまし娘の長女も廃人同然のところまできたある日、次女が訪ねてきました。

  「姉ちゃん大変なんやろ生活、これウチからの餞別」と手渡された中にはヒロポンと一通の手紙が入っていました。

  「これお餞別です。ヒロポンだけは止めてほしいと思っているのに変やねぇ。ボロボロになったお姉ちゃんの姿を見たくないのに・・・こんなの渡すなんて変やね。せやけど、やっぱり止めて欲しいねん。いつかまた昔のお姉ちゃんに会える事を信じて・・」
  これを見て長女は号泣し、もう絶対にこれでやめなきゃと決意、ついに薬物との縁が切れたのでした。

  今あなたのレポートを聞いてこの逸話を思い出したのですが、私が心を打たれたのは、次女の優しさと受け容れる力でした。覚醒剤中毒の姉に覚醒剤を渡すなんて常識ではあり得ないでしょう。でも、廃人になるまで止められなくなっている姉の現実を現実として受け容れてあげている優しさがヒシヒシと伝わってくるのです。ボロボロになっていく姉に薬物を渡すのは変だが、でも喉から手が出るほど欲しがっている姉のどうしようもない現実を受け容れて、取りあえず手渡している切なさに胸を打たれました。

  そしてどうしようもない自分をそれでも見捨てずに受け容れてくれている次女の優しさに感動したことが、薬物依存を断ち切れた原動力になっているように思われます。

  ネガティブな現状を否定するのは誰でも言えるしやってしまいます。でも断ち切れず繰り返してしまうどうしようもなさ。それをそのまま優しく受け止めてくれる人の存在が、最後の切り札になっているんでしょうね。

  ここに、私はヴィパッサナー瞑想の極意があると感じます。どんなネガティブな現状であってもありのままに受け容れて、正確に、その通りに認識することができた瞬間、何かが決定的に変わっていく力が生まれてくるのではないでしょうか。

  あなたがこれまで自己否定してきたご自身をありのままに受け容れて観てあげられるようになったのは素晴らしいと思います。

  他人に対するのと同じように、自分のことも優しく受け容れてあげるべきだからこそ、慈悲の瞑想は「私が幸せでありますように」の一行から始まるのです。


<さらなるアドバイス:>
  病気であれば、もちろん医者に行くべきは行ってきちんと治さなければなりません。ただ、心から来る要因が大きい場合には、サティによってその問題に向き合うことによって体調が整えられる場合もたいへん多いのです。

  体が弱くて、体調が悪くなるとすぐに心配や不安になったり恐怖感を持ったりするような方が合宿に参加したことがあります。

  合宿中にも、この方は左の心臓が圧迫される姿勢で寝ていたので、ウワー、苦しい!という感じで悪夢にうなされ、夜中の3時半ころ目が覚めると朝まで寝られない・・。そんなことを繰り返していました。何日目かに同じことがあった時、この方は「(あ、苦しい)と思った」とサティが入りました。「心臓がドキドキしている」とサティが入り、「(どうしようか・・)と思った」→「(これでは今日修行がやれるのかしら)と思った」→「(ああ、怖い夢を見てうなされていたのだ)と思った」とラベリングが続き、蒲団が重すぎて暑いから「暑い」、蒲団を足でけ飛ばしながらその足の動作にサティを入れ「のけたい」とラベリングしたのです。

  これは、そのとき経験していることがそのまま確認されている状態です。事実が認知されているだけで、心配や恐れや恐怖がなく、そのままスーッと朝まで眠れて何も問題なかったということでした。

  合宿が終わって家に帰りました。この方はかなり厳しいご主人に押さえつけられていて、「早くしろ」とか何とか朝に言われると、もうそれだけでドキマギしてしまうようなことを長年繰り返してきたそうです。

  ところが、経験している事実だけにサティが入るようになり、今やるべきことに集中するので、ワーッとパニックになることがなくなってきたのです。これが多くの頻度で起こって来るようになりました。

  3日間ほど風邪をひいたのだそうです。これまでは3日も寝込んでいたらかなり妄想して心配になるのですが、この時はサティが淡々と入ったそうです。「右を下にして横たわっている」→「左の鼻が詰まっている」→「スポンと抜けて、右に移った」→「耳が少しボワーンとしていたのがスポンと抜けた」→「寝返りを打つ」という風に、ただサティを入れながら寝ていたら、心は乱れないし恐れがなかったということです。

  素晴らしいですね。

  余計な妄想をしないで、今、目の前の事実だけに向き合うことができれば、怖れるものなどなくなる道理です。

  このレポートだけでは、果たしてこの方の反応系の心が完全に書き換えられたのか、サティの威力で顔を出さなくなった状態なのか、まだわかりません。しかしサティの威力を力強く検証するレポートです。心の清浄道を完成させていくためには、遠大な計画でサティの瞑想を深め、ダンマを学び、反応系の心の浄化を徹底していくことが大事です。たとえ完成ははるか遠い日であっても、一歩づつ近づくたびに人生の苦しみが薄らぎやわらいでいくのです。これからもしっかり修行をしていきましょう。

(文責:編集部)

 今月のダンマ写真 ~

 








イラワジ川に面するバガン・ティリピセヤ・サンクチュアリ・リゾート(旧迎賓館)内にある日本軍と英国軍の戦いを悼んで建立された石碑
              イラワジ川
N.N.さん提供


    Web会だより  
日本の寺の住職を辞して、これから』 (2) 白幡憲之
(承前)
  このように自分の心のかんばしくない面やイヤな部分がわかってくると自己嫌悪に陥りそうなものですが、そうはなりませんでした。この瞑想による気づきは、自分の心のあり様が瞬間的に、しかし淡々と呈示され、しかもそれを受け入れられる態勢が自分の心のなかに整ってきたタイミングで気づかされることになるからなのか、大きな衝撃を受けたり落ち込んだりすることなく、意外なほど素直に受け入れられるのでした。そこがこの瞑想の面白さであり、素晴らしさだとも思いました。
  こうした体験を積むうちに、私の心のなかには、上座部仏教の盛んな国でもっと瞑想をしてみたいという気持ちが芽生え、最初は憧れにも似た淡いものだったその思いは、徐々に決意として固まり始めていったようです。

父との和解?
  上座部仏教の瞑想により自分の心が解き明かされることと並行して(その裏側で?)、父の人生や生き方への理解も深まるという、予想外の副産物もありました。
  父子関係については、ご多分にもれず私も、父の生き方や考え方に反感をもつことがありました。しかも瞑想合宿を通じて自分の物事のとらえ方を確認してみると、私の自己評価のやり方には父の影響が実は大きく働いており、それも否定的な自己評価に向かわせがちな働きをしていることまで明らかになってきたのでした。
  となれば、父への反感や怒りが相当強まりそうなものですけれど、これまたそうはなりませんでした。むしろ、小学34年の少年だった当時の父が、寺の住職に嫁いだ母親の連れ子として姉兄とともに寺に入り、馴染みのない環境で暮らしてゆくうち、(兄ではなく次男の)自分が住職を継ぐことになったものの、30歳を越えたばかりの頃には大恩を感じてきた養父の住職が早逝してしまい・・・といった前半生を送った父の気持ちや思考についての理解が、瞑想合宿で自分を見つめるうちに私のなかで深まっていたようです。
  父のような境遇に置かれれば、「失敗はできない、負けられない」というこだわりにも似た気持ちを抱き、養父のあとを継いでからはなおさら、そうした気概を強くもって生きることになったのも無理はないと、私は素直に受け入れていました。そのような受け入れ方ができたのは、観察の瞑想と並行して、慈悲の瞑想も同等に行なっていたことも大きかったのだろうと思います。
  平成15年秋の10日間瞑想合宿から帰ったあと、父と私は改めて話し合ったりはしませんでしたが、どういうわけか、父と私との関係はかつてないほど穏やかで良好なものになってゆきました。お互いに相手に対して妙に構えたような(ある種の遠慮があるような?)それまでの態度が薄まり、和やかさが増した感じとでも言えばいいでしょうか。父子の間で凝り固まっていたものが溶けていったような感覚がありました。ただ、その時期は結局、父の急逝のため、1年あまりで終わりを迎えてしまったのですが・・・。

ミャンマーとの縁
  父は20代半ばだった昭和305月からの1年間、全日本仏教会の派遣留学僧の一人として、78名の同年代の日本人僧侶の仲間とともにビルマで過ごしました。
  若き日の南方仏教の国での体験は、その後50年近くもの間、父の僧侶としての生き方に何らかの影響を与えていたようです。というのも、平成16年に急逝後、父の机の引き出しを開けてみると、日本の僧侶としての戒名が書かれた紙が1枚出てきましたが、その戒名の脇に「上座部佛教比丘 ウ・ソービタニャーナ」と、かの地で授かった僧名も記されていたのです。それを見たお弟子さんたちは、いずれミャンマーに遺骨の一部を埋葬できればと考え、火葬後、分骨を行ないました。
  一方、私も上座部仏教の瞑想に出会ったのをきっかけに、日本にいるミャンマー人の方たちと交流するようになり、住職就任後は、在日ミャンマー人のために東京に滞在されているミャンマー人僧侶・オバサ・セヤドーの長期滞日ビザ申請の保証人も務めることになりました。
  平成255月には、オバサ・セヤドーのために信者の方々が寄進なさって、ヤンゴンに建設された僧院の落慶式に私も招かれ、ミャンマーを訪問しました。その折、私は父の分骨を収めた骨壺を持参しました。そしてミャンマーの僧侶の方々のはからいにより、父がかつて現地で比丘としての戒を授けられた寺院の一隅に、父の分骨を収めていただくことができました。
  そのミャンマー旅行では訪れる先々で、仏教がミャンマーの人々の生活にいかに浸透しているかを知る機会にも恵まれました。一般の方が日常的に瞑想をしている姿も目にし、人々の表情が総じておだやかである背景を垣間見た気がしました。
  父が急逝していなかったならば、きっと私は寺の住職を継ぐこともなく、その一方でミャンマーなどの東南アジアの仏教国をしばしば訪れ、瞑想センターにも滞在するようになり、そのうちにあちらで出家し・・・ということにもっと早くなっていたかもしれません。上記の諸々の事情を私から聞いたある方は、父が急逝したことについて、「お父さんがあなたをひとまず引き止めたのかもしれませんね」とおっしゃっていました。

住職退任を決意、そして・・・
  仏教寺院は仏の教えを人々に伝え広めるための拠点です。平成16年末、先代住職の父が後継者未定のまま急逝したとき、僧侶資格のない私でしたが、上座部仏教の瞑想などを通じて自分なりにお釈迦様の教えの偉大さと尊さに出会っていたため、つたないながらも自身の体験をもとに仏教の素晴らしさを、いろいろな方々に少しでもお伝えできればという思いが浮かびました。そして何より住職急逝による混乱や不安をなるべく早く静めるべきだという考えもあり、住職を継ぐ意思表明をしました。(続く)



☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

       
 






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ダンマの言葉

ブッダと私たちが違うのはただ一点にあります。それは物事をありのままに受け入れる、という受容の仕方であり、それ以外にはあり得ないことをブッダたちは理解していました。(『月刊サティ!』20052月号、「私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話」より(アチャン・チャー長老法話集)

       

 今日の一言:選

(1)死があれば誕生があるように、何かが終われば、また何かが始まっていく……


(2)練習や稽古などのトレーニングが膨大に繰り返されれば、そのパフォーマンスを実行する脳回路の電気信号は通りやすくなる。
 熟練の技は、自動化される。

 余計な意識が生じなければ、すべての注意が実行中の仕事のみに集中するだろう。

 没入感が深まっていく。
 客体と主体との分離感が遠のいて、おぼろに失われていく。
 突然、その瞬間が到来し、「なり切った」印象が完成する……

(3)心の中で対立するものが葛藤していれば、エネルギーは互いに相殺し合って、無化されていく。
 まず、自分自身と折り合いをつけ、和合し、春をなす……

 


       

   読んでみました
     「ブラックボックス化の問題とヴィパッサナー瞑想」
      
                  日経サイエンス(2018年2月号)より

 日経サイエンス(20182月号)は「AIの新潮流」の特集である。その中に、現在人工知能(AI)技術が進展・普及する中で「ブラックボックス化(BB化・隠蔽化)」と呼ばれる問題がクローズアップされてきているという記事がある。AIが判断を下した際に、どのような根拠で、その判断を下したかがわからないという問題である。AIの判断のプロセスが見えるようにする「ホワイトボックス化(WB化・明示化)」への取り組みが求められている。これらは、特にディープラーニングという深層学習AIへの要求である。
  なぜ、それほど、明示化(WB化)が求められているかというと、次のような場面を想像すると明らかであろう。

  AIがある患者さんの病気を癌だと診断して、その治療法は手術と抗癌剤の併用が有効であると判断したとする。でも、その判断の内容は、かなりショッキングなもので治療法もリスクが高いので、なぜそういう結論を導き出したのかという信頼できる理由がないと、不安でAIの診断には従う気になれない。だから、AIが判断したプロセスを明確に見せてあげることが必要になってくる、そんな場合である。

  隠蔽化(BB化)と明示化(WB化)の問題は、ディープラーニングを語る上で避けては通れない。私は、大学で人工知能を専門に研究を進め、卒業後は、会社に入社してすぐに、ソフトウェアとネットワークの研究に携わった。そこで教えられたのは、大規模ソフトウェアを設計する際には、構造化しなければいけないということだった。

  構造化設計とは何かというと、機能をモジュール化することである。モジュール化とは、ソフトウェアを機能ごとに小さな塊(モジュール)にすることで、そのモジュール化した塊を組み合わせて、全体のソフトウェアを作るのだ。そのように作っていくと、ある程度大きなシステムの場合には、ひとつのソフトウェアの中にはモジュール化された塊がたくさん(数百から数千個)できる。

  ひとつのソフトウェアの中に、モジュールが数百、数千もあリ、それらを組み合わせて、ひとつの動作するものを作ろうとする場合、モジュールの中身がどのように動いているかは見せないで、ブラックボックスとして扱わないと、大変煩雑なことになってしまう。だからこそ、そこで隠蔽化(BB)の技術が非常に重要になってくるのである。


  話題をAIの隠蔽化(BB)に戻そう。大きなAIのシステムを作ろうとした場合、隠蔽化(BB)は、絶対に必要な技術だと感じる。しかし、AIには、結果を導き出すプロセスを明示化(WB)したいという要請もある。

  だが、モジュールの中身を見せるという明示化(WB)については、どこまでできるかというと、それほど簡単なことではない。そもそも、ある規模のシステムの構築には、ある程度の隠蔽化(BB)が必要だからだ。高度な技術は隠蔽化(BB)してこそできるものなので、それを簡単に明示化(WB)できるとは思えないのである。多分、AIの優秀さとモジュールの明示化(WB)は、トレードオフの関係になっているのではないだろうか。すなわち、隠蔽化(BB)から明示化(WB)を推し進めるにしたがって、出来上がったAIの優秀さも失われるのではないかと私には推測される。

  そういう意味では、モジュールの中身を見せるという明示化(WB)のやり方は、AIに関してはうまく行かないのだと推測している。しかし、AIの結果を導き出すプロセスを明確にわかるようにしたいという要請がある。この矛盾をどう解決すればいいのか。


  それは、全然別のアプローチを取る必要があるのではないかと個人的には思っている。全然別のアプローチというのは、モジュールの明示化(WB)をするのではなく、システムの外に出て、外からそのAIのシステムを観る(AIが判断したプロセスを説明する)というものだ。それは、自分自身を観る(説明する)ということと同じである。

  システムの外から、自分自身を説明するということは、どういうことかというと、次のように考えている。

  人間は、長い歴史の中で自分自身を説明しようと、いつも大変熱心にやってきた。それは、哲学的に説明することであるし、また、物理的、化学的、数学的、心理学的、脳科学的など科学的に説明することである。また、文学的、歴史的、人文的、経済的などの文科系のやり方によって自分自身を説明することでもある。それらが総合的に組み合わさって、自分自身を説明できるのである。

  現在は人間にしかできないことが、やがてAIでも必要となってくると思われる。AIの場合も、人間とまったく同じである。すなわち、AIも人間と同じように、哲学的、科学的、文科系のやり方(システムの外から)で自分自身を説明する必要がある。AIも人間と同じような歴史を歩むということである。

  それによって、AIも、初めて自分自身を説明していくことができるのだと思う。これが、AIにおけるシステムの外からの明示化(WB)ということだと思う。


  今まで述べたことをもう少し別の角度で観ると、システムの中にいる存在は、自分自身を説明できない。AIにしろ人間にしろ、客観的に自分自身を説明するということは、システムの外に出て、外からその自分自身を観ることによって、初めてできるのだ。これはある種の気づきであり、ヴィパッサナー瞑想の本質に直結することだと思う。

  AIの判断のプロセスを、人間が代わりに説明することもできるが、それには膨大な時間と労力が必要とされるだろう。例えば、ディープラーニングのシステムが病気の診断をして、人間がなぜそのシステムはそのように診断したかを説明するのは、さまざまなケースや可能性があることを考えると非常に難しい。やはり、AIが自分自身を説明するという自己完結の方向でないといけないだろう。

  今後、AIは、自分のシステムの外から自分自身を説明できるようになるのだと思う。そのためには、人間のやってきた長い歴史を再発見していかなくてはいけないのである。ただ、人間の歩んできた結果は既に記録に残っているので、AIは意外に早くそれらをマスターしてしまうのかもしれない。ひょっとすると、人類が3000年程度蓄積してきた知識や知恵は、数年間でマスターしてしまい、人間に追いついてしまうかもしれない。

  AIを追求していくと、人間とは何か、ということの本質が深まってくる。人間の場合、脳の仕組みを論理的に説明するために、脳のニューロンを顕微鏡で観察したり、化学的に調べたり、遺伝学的に研究してきた。そして脳の仕組みがわかってきたのも、脳の外の力を借りて、研究し、思考した結果である。これによって、人間を明示化(WB)してきた。

  脳が自分の脳について、思考だけで説明するのはかなり難しい。これが、システムの中から説明することなのだと思う。そうではなく、人間の脳の外に出て、つまり視座の次元を転換した気づきをもって、いろいろな道具を駆使しながら考察を深めて初めて脳の機能や構造を明らかにできるのだと思う。


  AIが、今後人間と同じように、外から自分自身を説明することはできるのであろうか。これができた時、明示化(WB)の第一歩が始まるのではないだろうか。その第一歩が踏み出せれば、AIも、もっともっと自分自身を説明できるようになるのだと思う。
  これは、AIが気づきを得て、人間になる道を歩み始めることではないかと思うのである。要するに、AIは、今後、人間と同じようになる道を歩むことによって、知恵を得て、最終的には、人間そのものになってしまうのだろう。

  ということは、将来、AIAI自身を完全に客観視する、ヴィパッサナー瞑想を始めるかもしれないと妄想している。(N.N.)

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