月刊サティ!

2018年3月号      Monthly sati!     March 2018


 今月の内容

 
  サマーディの脳の基礎:瞑想的没入の神経科学(1)
    The New School for Social Research

                             ジェレミー・ヤマシロ
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:修行上の質問 (実践編) ー4-
  ダンマ写真
  Web会だより:『日本の寺を辞して、これから』 (1)
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:
「心のなかの独り言  内言の科学」
              (日経サイエンス、20181月号)を読んで

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

  サマーディの脳の基礎:瞑想的没入の神経科学(1)

編集部より
  瞑想においてサマーディ状態にある脳の基礎的活動に関する研究論文が、ワシントン大学のジェレミー・ヤマシロ氏によって、“The New School Psychology Bulletin”(2015Vol.13)誌に発表されました。これは、これまでの脳科学を始めとする数々の研究成果を網羅して細かく検討した報告で、ヴィパッサナー瞑想を実践する方々に対しても深い理解と貴重な示唆を与えてくれるものと考えられます。
  地橋先生の推薦を踏まえて筆者の承諾を得、鈴木孝信(東京多摩ネット心理相談室)、南和行(カウンセリングルームすのわ)両氏のご尽力により、当該論文の翻訳を今月号から3回にわたり本誌に掲載するはこびとなりました。つきましてはその間、毎号の『巻頭ダンマトーク』休載とさせていただきますので、ご了承ください。
  なお、本文中の半括弧小数字は原文中に挿入されていた引用・参考資料を読みやすくするために欄外に、また(注)は編集部によるものであることをあらかじめおことわりいたします。また、原論文における詳細な引用・参考文献は最終回にまとめて掲載いたします。

サマーディの脳の基礎:瞑想的没入の神経科学(1)
ジェレミー・ヤマシロ
The New School for Social Research

はじめに
  マインドフルネスへの科学的、臨床的な関心は過去10年間で劇的に増加をしている。一方で、マインドフルネスの臨床家やマインドフルネス研究者が、伝統的な仏教文献を深く研究すること稀である。本稿では、まず瞑想的没入として訳されている意識状態のサマーディ(samādhi、禅定)について述べられ、古典的なテーラワーダ仏教の枠組みが要約される。
  次に、サマーディの段階が伝統的な現象学的観点から議論され、認知的、神経画像的、および神経心理学の文献が紹介され議論される。それらの文献から、深い瞑想時に生じるサマーディの主観的な経験と、その際の脳の働きについて考究される。
  そして、これらに関係する研究が解釈され、将来の方向性について提示される。最後に、瞑想実践の長期的な効果について述べられる。

キーワード :瞑想、サマーディ、脳の基礎、可塑性、意識、変容した意識、 ジャーナ

本稿では、認知神経科学と、アビダルマとして知られる体系化された仏教の現象論という、二つの非常に異なる学術的な伝統が、並列的に検討される。それにより、瞑想における没入について分析するのが本稿の試みである。
  これら二つの捉え方は、その方法論において実質的に異なっている。認知科学者と神経科学者は意識に対して存在論的な立脚点から「客観的に」アプローチするが、仏教の伝統では意識に対して現象論的にアプローチする。すなわち、科学的伝統が「意識とは何か?」と問うのに対して、仏教的な伝統では実践者を苦しみから解放したり、正しい生活を送るといった意識を作り上げていく。こうした違いにも関わらず、これら意識についての二つの視点から得られる相互理解は、非常に意義深い。
  紀元前3世紀にインドで始まった知識体系であるアビダルマは、現代においては ミャンマーとスリランカに集中している1)が、瞑想中の意識経験について極めて正確で、かつ技術的、現象論的な説明をしている。そのため、アビダルマは意識体験について容易に理解出来る下地となっている。また、アビダルマでは、どのようにその体験を導き出すかについても説明されている。
  「マインドフルネス」は現代の非宗教的な瞑想実践であるが、その実践と研究では、瞑想をストレスを軽減させる方法としてのアプローチとして比較的単純に捉えられる傾向がしばしばある。2)しかし、精巧で洗練された一連の仏教文献に見られる心の構成要素は、意識体験を研究し、意識を変容させて苦しみからの解放に活用したいと願う科学者にとって、価値あるものとなり得るだろう。そういった願いを持つ科学者であるVarela's 3)は、主観的な意識経験と、客観的な神経学的活動を関連づける「神経現象学」のためのツールを的確に集めた。これは西洋の学者と仏教実践者が協働して心を科学するための興味を喚起するものであった。
  数十年の間、仏教の理論と実践は心の科学に浸透してきたが、アビダルマはスリランカと東南アジアの伝統的な学術センターの外にはほとんど知られていなかった。その理由はおそらく、専門的で気後れさせるようなその性質によるためと、基本的な英語文献が比較的最近まで手に入らなかったためであると考えられる。
  Lutz4)は、仏教の瞑想における神経科学的な研究の状況について、幅広く分析をした。 その結果、彼らは「瞑想」という用語が非常に不正確に使用され、それは幅広い実践と現象を表すために、研究者たちが正確にどの種類の活動を研究しているのか特定することが困難であると訴えている。
  Lutzらの訴えに基づいて、本稿では、アビダルマで説明されている瞑想的没入の段階に関連する一連の現象にかかわる神経学的な活動に厳密に焦点を当てている。つまり本稿は、パーリ語でサマーディと言われる瞑想的没入について言及するものである。
  アビダルマの伝統では、サマーディは一連の段階を通して達成される。そしてそれぞれの段階は、質的に異なる意識状態を表している。これらの段階はジャーナ(jhāna、禅定)と呼ばれる。本稿の範囲では、心の科学と仏教の伝統で扱われている意識のモデルについて完璧な議論はできないが、将来の研究のためのモデルとなることを望んでいる。つまり本稿では、ジャーナ時における神経活動の相関を調べるが、そのような意識体験のメカニズムを理解する糸口を見つけることが期待される。また瞑想的没入がなぜその順序で、そのような形で、そして主観的な質を帯びるのかという理解への糸口を見出すことが期待されている。
  アビダルマにおける秘伝的な文脈を除いて、それ以外の知識が実践に適用され得るなら、ジャーナをもたらすやり方は習得されるべき技術である。しかしそれは、通常における神経学で扱われる個人の範囲を超えるものではないであろう5)。そのような道を開くことは、臨床家と同じように、認知科学者や神経科学者にとっても興味があるはずである。

瞑想的没入のための基本的知識
  人の経験は神経組織によって媒介され伝達される。私たちが心や身体、また他との関係性において何らかの認識が生じるのは、大脳新皮質の活性化と抑制という動的パターンを介してである6)。意識による経験はさまざまに揺れ動くが、それは仏教徒がドゥッカ(dukkha、苦)と呼ぶものを経験している限り、誰にでも起こっていることである。
  
ドゥッカは通常「苦しみ」と英訳されるが、パーリ語では「不満」に近い意味の言葉である5)。仏教の伝統においては、苦しみと不幸の根源的な分析は、四つの聖なる真実(四聖諦)として描かれている。

  1.全ての意識ある生き物はドゥッカ()を経験する。
  2.ドゥッカは全ての現象が一時的なものに過ぎないことへの無知と、本質的で永久的な自己は存在しないことを認識できないことが原因である。
  3.ドゥッカから解放される方法が存在する。
  4.ドゥッカから解放される方法は八正道に描かれている。

  八正道の要素の一つがサマーディ、すなわち瞑想的没入である。これが実現されると、通常の意識は明らかな寛容さと集中という安定を経験する形で変容する。実践者はこのような意識状態を検証することによって、繰り返しドゥッカを引き起こすパターンから抜け出すために必要な洞察を得ることもある。

サマーディ
  サマーディは、正確に余すところなくアビダルマの文献に記述されている。アビダルマでは、仏教の教義が綿密に組織化されている。そのなかにおいて仏教現象についての知識は「系統的に組織されて、そして細心に集計され、分類され、細かく定められている」1)。アビダルマで述べられているサマーディの技術的な面に関するまとまった知識は、特に認知科学における見解を検討し合う助けとなる。それはまさに、主観的な経験を神経学的に関連する現象と結びつけるために役立つ素材になる7)。
  サマーディはジャーナと呼ばれる瞑想的没入の複数の段階に分かれる8)。各々のジャーナは特定の現象学的な特性の有無によって定義される。それらはジャーナ要因と呼ばれており、対応する認知科学的な構成概念と共に、標準的な英訳9)を附して表1に示した。ジャーナ間の移行は、実践者がこれらの要因のうちの1つ以上をなくすか加えることによって達成される。

              表1 ジャーナ要因と標準的な英訳、認知科学の構成概念

パーリ語・仏教用語

標準的な英訳

認知科学の構成概念

ヴィタッカ(Vitakka尋)

Movement of the mind onto the objet(心を対象に向ける動き)

注意を向ける

ヴィチャーラ(Vicāra伺)

Retention of the mind on the object(心を対象に向けることの維持)

表象へとフォーカスする注意の維持

ピーティ(Pīti喜)

Joy(喜び)

身体的感覚に関する快

スカー(Sukha楽)

Happiness(幸福)

ポジティブな情動

エカーガター(Ekaggatā一境性)

One-Pointedness(一点集中)

 

集中された表象の活性化が比較的高く、持続されているので、意識は表象のみを知覚する。その他の表象は脱活性化される(初期は抑制され、後期は生じなくなる)

ウペッカー(Upekkā、捨)

Equanimity(平静)

 

意欲的な表現は全く顕著ではなく、注意が拡散しているため、接近と回避のどちらの動機も生じない状態

 これらの要因に基づいて四つのジャーナが示される(注1)。 そしてそれらの瞑想的没入の段階は、現象学的な説明としてアビダルマでは示されている。アビダルマの文献では、ジャーナは純粋に意識経験のあり方として構成されている。
  ジャーナに見られる意識の変容状態は、仏教的な洞察、あるいはヴィパッサナーそれ自体を表しているわけではない。そうではなく、それらはむしろ不穏な感情がなく、穏やかで明晰かつ柔軟性のある意識経験をもたらす手段としてであり、仏教的な洞察を培う仕事をするのに最適化の状態を作り出す。 ただし、洞察を培うのは別の話題であって、それはサマーディを培うという仏教的の特徴的な主題であるため、本稿では扱わない。
  最初のジャーナでは五つの要因すべてが存在し、瞑想が深まるにつれてそれらが落ちていく。具体的に言えば、最初のジャーナでは、ヴィタッカ(vitakka尋)、ヴィチャーラ(vicāra伺)、ピーティ(pīti喜)、スカー(sukha楽)、エカーガター(ekaggatā一境性)が存在し、二番目のジャーナではピーティ、スカー、エカーガターのみが存在する。三番目のジャーナではピーティが脱落しスカーとエカーガターは残る。四番目のジャーナではエカーガターが残り、ウペッカー(upekkhā、捨)が現れる9)。(注2)
  伝統的な文献および瞑想実践によれば、ジャーナは順番通りに誘発される。理想的には、僧は森林の間の小舎などできるだけ感覚への刺激が少ない所で独居する。彼は蓮華座(結跏趺坐)という坐り方をする。手を膝に置いて体をまっすぐ起こし、緊張をほぐして鼻孔の先端における吸気と呼気の感覚に注意を集中させる。この呼吸へのマインドフルネスは、アーナパーナ・サティ(ānāpāna-sati)(注3)と呼ばれる。
  ジャーナの開始はウパチャーラ(upacāra:近行定)(注4)がその起点となる。これは一般的には「アクセス意識」と訳され、呼吸の感覚が、注意を向けた認識の唯一の中身となったときに起こる10)。この一点への鋭い集中が一旦達成されたなら、最初のジャーナが始まるだろう。
  各段階のジャーナは、それぞれの集中が継続的に移り変わっていくことによって起こされる9)。ウパチャーラが現れる第一の転機は、外部からの刺激に対する反応を抑制し、呼吸へと意識を集中することによってもたらされる。ウパチャーラによって起きている気持ちの良い温かさの感覚に集中することによって、瞑想者に最初のジャーナが始まる。
  こうして注意を一点に留めることで起こることのつは、運動系がその注意の対象に対して動く準備をすることであろう11)。よって、このように随意運動を厳しくコントロールすることは、注意の焦点化を妨げ、逆にそれを広げ拡散させるのを助けるかもしれない。
  対象に対して注意の方向づけを止めること(すなわちヴィタッカを解放すること)と、また対象に対して注意の集中を止めること(すなわちヴィチャーラを解放すること)の2つによって、瞑想者は第1から第2のジャーナに移る。
  第2から第3ジャーナへの移行においては、身体的感覚による喜び(ピーティ)はなくなる。Hagerty12)らは、後に議論する通り、第2のジャーナにおいて身体的感覚の喜びがなくなるのは、強い解放に続いて一時的にドーパミンが減少することによると示唆している。最後に、第3から第4ジャーナへの移行においては、ポジティブな情動(スカー)がなくなり、平静と一点集中の気づきだけが残る。
  ジャーナに伴って、脳神経ではどんなパターンが起こるのか? 意識体験の体系的な変容には、やはり、意識を支える脳の基本構造の組織的な変容が必要となる。仏教学の2500年に及ぶ生きた伝統は、意識経験において非常に高度な知識・技術の体系化を生み出し、そしてジャーナに導く瞑想実践を生み出してきた。それに比べて認識神経科学者は、最近になって瞑想における没入について調査研究を始めただけにすぎない。しかしながら、これらから得られる知見には今後の期待が見込める。(続く)

翻訳:鈴木孝信(東京多摩ネット心理相談室)、南和行(カウンセリングルームすのわ)

 (編集部:注)
 1.第一禅定から第四禅定までの四禅定のこと。
 2.仏教では始めの禅定(第一禅定、初禅)を支える要素として尋・伺・喜・楽・一境性があげられている。
 3.呼吸による気づき。
 4.禅定の前段階の心の集中。upacāra-samādhi、近行定。

(参考・引用資料概略)
 1.Bhikku Bodhi2000
 2.GrossmanNiemann Schmidt、&Walach2004
 3.Varela's1996
 4.LutzDunneDavidson2007
 5.Bhikku Bodhi1999
 6.Dennett1991
 7.Varela1996
 8.Nyanaponika Thera1976
 9.Shankman2012
10.Bhikku Nanamoli2010
11.Kinsbourne2010
12.Hagerty2013


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:修行上の質問 (実践編) -4-   
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 
Aさん:悩みを抱えている時には、とにかくその悩み自体を見たくなくて感覚に集中しやすかったのですが、あまり悩みごとがないと体がむずむずしてきて、感覚に集中してラベリングすることがとても苦しく感じられます。

アドバイス:
  一般的にどなたでも、瞑想をやってみよう、修行をしよう、と思うのは、苦(dukkha:ドゥッカ)に遭遇したときが多いのです。

  苦がなければ、誰でも楽しいことや好きなことにエネルギーを費やしたいのですから、ことさら瞑想をしようなどとは思わないでしょう。嫌なことや困ったことがあれば、なんとか逃れよう乗り超えたいと模索するので瞑想に縁ができたり、以前から興味があったので瞑想を試してみようと思うものです。

  しかし順風満帆がいつまでも続く訳もなく、順調に幸せに生きていても、有為転変は人の世の常、何が起きるかは予測不能、望まない状態に転落してしまうのはよくあることです。面白半分の余裕でパチンコやギャンブルをやってみたら大当たりしてあぶく銭を得たばかりに、ハマッた挙げ句の依存症で身を滅ぼしてしまうなどということも少なくありません。
  人の心は、日々生起する現象にどうしても振り回されるものです。凶事に対しても慶事に対しても本気でのめり込み反応すれば、悪しき展開になることが多いのですから、常に冷静沈着な対応で一喜一憂せず、良い方にも悪い方にも傾かずものごとを公平に、平等に、淡々と見るウペッカー(upekhā:捨)の心を養っていくことができたら素晴らしいですね。
  どうやって、それを・・?となれば、もちろん何もせずに棚からボタ餅という訳にはいきません。何が起きてもキャーキャー興奮せず、執着心も起きない心を育てる最強の技法である瞑想を毎日行なっていくことです。
  サティという技法自体が、ウッペカー()の心を養う構造になっているのです。何が見えても、聞こえても、感じても・・、ただそのように認知して見送っていく訓練です。無執着の心を一瞬一瞬養っている現場と言ってよいでしょう。ウペッカーを軸として常に目覚めていること、現れては消えていく苦楽の現象を淡々と、ありのままに気づきながら自覚的に生きていくこと・・。
  これがいちばん問題を起こさず苦を発生させない秘訣です。私たちの生活のどんな場面でも、この基本精神が根本にあれば間違いなく人生のクオリティが良くなります。悪い方向へ向かうことはなくなっていくのですから、ネガティブな出来事に巻き込まれてから慌てて瞑想するのではなく、悩みごとがない時であっても、毎日瞑想をしっかりやっていきましょう。


B
さん: いろいろな問題がなかなか解決できないこともあって、毎日の生活に常に虚しさを感じています。ちょうどわびしさや寂しさがバックに流れているような状態です。

アドバイス:
  たとえ漠然とした虚しさであっても、それには必ず起きてくる原因があります。虚しさというのはやはり一つの現象ですから、その現象を徹底的に細かな要素に分解してみましょう。そしてよく観察するのです。そうすると次第にそうなった自分の心に関係する原因が分かってきます。

  原因が判明してきたら、その元になっている心のありかたを修正していきます。分析論の手法が原始仏教の基本的なやり方です。漠然とした曖昧模糊の状態は、訳の分からない無明の状態に似ていますが、その情況や対象を構成している要素や要因に仕分けられていくプロセスで、問題がほどけてきて、解決の方向が閃いてくることも少なくありません。

  たとえ結果的に修正できなかったり、修正したのにその効果が現れなかったりすることもありますが、しかしそうして頑張って努力するプロセスから多くのことが学べるものです。「起きたことには必然の力が働いているのだから、これは自分の過去のカルマによる結果であると受け容れていこう」という心境がもたらされる可能性もあるでしょう。

  一般的に言えば、虚しさというのは物質的なものであれ精神的なものであれ、価値のあるものを喪った喪失感や、達成感の欠如から来ているものです。

  もし何かを喪ったという喪失感から来ているのであれば、それが自分の人生に果たしていた役割や意味を客観的に分析し、考察し、ありのままに受け止め、納得できる理解に落とし込んでいく方向でしょう。喪ってしまったものはもうどうしようもないのですが、その悲しみや虚しさが完全に消失するまでには時の助けを得なくてはならない場合が多いですね。もしそうであっても、知的に納得し諒解していれば、情緒的に終わりにできる時間が短くなる可能性は高いように思われます。

  また、達成感の欠如が原因だった場合には、プライドや承認欲求が背景に絡んでいることもよくあります。自分の努力が適切に評価されなかった事実が起きてしまったのはいかんともしがたく、結局受け容れるしかない・・。こうした時に人は虚しさや悲しみを覚えます。人は誰でも自分を認めてもらいたいのですが、必ずしもそうはなりません。なぜそうならなかったのか、事の次第と因縁の流れが明瞭に視えている人は、ネガティブな事態を受け容れる能力が高いものですが、見えなければ、理不尽な印象が醸し出され、怒り系の心に分類される悲しみや虚しさにつながるでしょう。

  評価してくれるべき人が評価してくれなかったら、誰か他の人に認めてもらい評価してもらえれば、心の補償になるでしょう。自分にとって最も信頼できて価値を置いている人が評価してくれれば、わだかまっていたものが解放されていく可能性は高いように思われます。

  もしそのネガティブな経験をプラス思考に切り換えられるなら、積極的な対応の仕方もあります。自分が適切に評価されないで虚しさを感じた経験をしたのだから、その淋しさや辛さがどんなものか熟知している状態です。そうであるが故に、自分は絶対にそのような思いを人に与えないと決心するのです。特に自分が他を評価する立場にいるのであれば、ぜひそうなさっていただきたいですね。カルマの法則から言えば、「評価すれば評価される」ことになります。そもそも正当に評価されなかった事態は、過去のどこかで自分が他人を正当に評価しなかった結果ということですから、それを修正するためには真逆の働きかけを積極的に行なうことで転換していけばよいのです。

  以上のいずれも難しい場合には、自分で自分を褒めてあげ評価するとよいでしょう。自己満足のように思われようと、自分の気持ちを持ち直すことができれば精神衛生的な効果は十分にあったわけです。過去のことは過去のこととして近未来の目標を定め、それが達成できたら「よくやった!」と自分で自分を褒めるのです。目標はあまり高くしないで、少し頑張ればできるようなものがよいでしょう。例えば、1日10分の瞑想をまず1カ月続けてみる。それができたら3カ月、6カ月、1年と延ばしていくのはいかがですか?()

  たとえネガティブなことであっても、必然の力で我が身に起きたことには必ず意味があり、学ぶべきことがあるのだと心得ておけば、情緒的に打ちのめされたりいつまでも引きずったりせずに、発想の転換がしやすくなるでしょう。

Cさん: 今まで何をやっても良い結果が得られない人生でした。あまりにも運のない自分の人生を振り返ると、悪霊かなにかが憑いていて自分の往く先々でことごとく妨害しているかのように思えてなりません。今は何もやる気がなく、情緒不安定にもなり毎日胸が焼けそうなほど自分の運命に怒り狂っています。そんな見えざる手に妨害され続けてきた人間にも、この瞑想は救いの手を伸ばしてくれるのでしょうか。

アドバイス:
  仏教の立場からはこの世は徹頭徹尾因果応報なのです。自分が蒔いた種は自分が刈り取るほかありません。どんな人も誰でも、善い種も悪い種も蒔いてきています。したがって、わが身の不幸・運の悪さは、すべて自分がその原因を作ってきた結果なのだと理解しなければならないのです。これは一見残酷なようですが、きわめて公平であって、逆に言えば、だからこそ確かな希望を未来に託すこともできるのです。
  これまでことごとく不本意な現象に遭遇してきたのであれば、その原因は、過去世を含めて過去のどこかで他人を妨害したり邪魔をしたことがあったのではないかと考え、これからは反対のことをしていけば必ず良くなっていくのだと発想を転換させるのです。

  妨害の反対は、人を助けることです。人の幸いのためにエネルギーを放てば、今度は自分が人から助けられるし、万事がスムーズに展開する「円滑現象」が多くなる道理です。あるいは、一見すると不都合に見えた現象が、あとで振り返るとかえって幸いしたというようなことも頻繁に見られるようになります。

  ヴィパッサナー瞑想は、貪り、怒り、嫉妬、高慢、物惜しみなど、不善心で汚れた心に気づいて見送っていくことによって心をきれいにしていく営みです。これからは悪い心のエネルギーをいっさい放たなければ、未来は確実に良くなっていくし救いがあるのです。


Dさん: カヌーで川下りをしたとき滝壺に落ちて危うく溺れそうになりました。滝壺の中には縦型の渦があり、体を丸めると出られないという知識があったので、体を伸ばしてその渦の外に足が出て助かりました。

アドバイス:
  情報の力ですね。素晴らしい。
  極限情況になると、脳はそのとき本当に必要なタスクのみに一瞬で没頭し、危機的情況脱出するのに最適な対応を電光石火の速さで提示しようとします。途方もない智恵が閃き出るポイントは2つです。良い情報やデータが記憶されていること、もう一つは脳内環境が最適化されたクリーンな状態であることです。滝壺に呑まれた瞬間のあなたの脳内では、野生動物のような直感が働いたのでしょう。

  極限情況でパニックに陥り混乱する人もいるし、普段の雑念状態がブッ飛んで最適な智恵が閃く人もいます。その差はが何に由来するのか確たることはわかりませんが、目の前の現象に食いつきのめり込んでしまえばパニックになるでしょう。私たちは、優れたと経験知と良いデータを脳内に定着するために学び、脳内環境の整理と冷静沈着を瞑想修行によって養っていると言えるでしょう。

  あなたの話を伺って思い浮かんだことがあります。

  三浦雄一郎が標高4000m、マイナス60度Cの極限情況で紅茶を飲もうとしていた時のことです。突然の強風が襲いかかり、カップの紅茶が突風に飛ばされて自分の腕にかかってしまったのです。一瞬にして火傷をしたように熱くなり、そのまま冷凍の魚のように凍傷が始まり、瞬間冷凍されていったのです。

  このままでは腕を失う・・どうしよう!という文字通り焦眉の急に、三浦雄一郎は雪原を全力疾走し始めたのです。体温を上昇させれば融けるかもしれない・・という一縷の望みを抱いて、猛ダッシュして汗をかきながら必死で走ったのです。結果は上首尾でした。迷っていたら片腕はなかっただろう、と言っておりましたが、一瞬の英知が閃いて、瞬間冷凍され始めた腕を自分で解凍したというのです。

  凄い話ですね。極限情況や非常事態では、生き残るという唯ひとつの目的のために、脳が強制的に最適化されるのかもしれません。それは、余計な妄想や雑念が一掃され、智慧の閃く瞬間に酷似しており、私たちは日々の瞑想修行によって、それを常態化させようとしているのです。

  ヴィパッサナー瞑想の基本は、考えごとにならないようサティを入れ続けるという単純な作業ですが、それだけで大きな効果があります。瞑想合宿などで凄い体験をしたりサマーディ状態に入ったわけでもなく、ひたすら妄想を止め続けただけなのに、帰宅後、驚くほどの効果があったと報告される方が多いです。例えば、翌日から驚くほど仕事効率が良くなっていたり、感情的な反応が無努力で抑えられたり、必要な情報になぜかスーッとアクセスできてしまうような不思議さ、等々です。

  円滑現象と言われるこうした流れの良さは、ネガティブな妄想にハマって不善心所モードの時にはまず起こりません。朝から晩まで瞑想に専念する合宿のような劇的効果はなくても、日々の瞑想修行は、確実に智慧の発現する脳構造に変えていってくれるでしょう。

  私が1日最低10分は必ず瞑想しましょうと言うので、実際に10分しかやってない方が多いのですが、本当はそれでは充分とは言えません。実はもっとやって欲しいのです。合宿ではダンマトークとインタビュー以外は、朝から晩まで思考を止めてサティ以外にはやりません。通常の修行時間とは比較にならないので、効果が絶大になるのは当然です。

  心が整ってくれば、これまでに体験してきた全ての経験や知識が情報として自在に活用できる可能性があります。本物の智恵の出る準備が整えられるのですが、智恵のクオリティは、ダンマについてよく勉強している人とそうでない人に違いがあるのも致し方ありません。個人差はありますが、自分の持っているものが全て、いかんなく発揮できる状態が、その人にとっては最高であり、充実した人生につながっていくでしょう。よく学び、瞑想することですね。


Eさん: 随観についてお伺いいたします。身体の随観と心の随観は何となく分かるのですが、受の随観がよく理解できないので、詳しくご説明して頂けたらと思うのですが。

アドバイス:
  受というのは感受、つまり感じることですから、例えば「かゆい」とか「痛い」などが当てはまります。これらは身体の姿勢や動きの様子を観ているのでもなければ、イライラしたり喜怒哀楽といった心の状態でもありません。「感じた」経験ですね。

  瞑想の現場で概ね多く出てくるのは痛みでしょう。あまり強烈でなくても、痛みというものは意識に触れてくるので無視はできません。一過性のものであれば単発のサティを入れるだけですが、繰り返し続くものであれば当然その痛みが消えるまでは中心対象にしてサティを入れ続けることになります。より強いものを強引に無視してお腹の微弱な感覚を感じようとするのは理に合いません。目安はフィフティ・フィフティの法則です。より強い現象、より多くの注意が注がれ意識に触れたものがサティの対象になります。もし組んでいる足が痛くなったら、それがその瞬間経験されている現実ですから、その痛みを徹底して観ていきます。それが受の随観をしている状態ですね。


Eさん: それは身の随観とはまた違うのですか?

アドバイス:
  アビダルマでは「共一切心所」と言いますが、どんな心の現象にも共通で働いているメンタルファクターがあります。受はその一つとして、あらゆる心に必ず伴って役割を果たしていると考えられています。どんな意識も知覚も経験も、何も感じられなかったら認識のしようがないのです。歩いたり坐ったり、日頃のどんな動きにも「受」が働いているので、知覚できるし経験されている訳です。

  しかし、そうした基本的な機能としての「受」とは異なり、強烈な快感や苦痛が感じられる経験は特筆すべきものであり、その「受」を別立てのカテゴリーとして随観していくのが「受随観」です。通常は、身体レベルでの快感や苦痛やかゆみなどを随観していくことになります。心の現象として強く感じる経験もありますが、多くの場合、強烈に感じた瞬間、喜怒哀楽系の情動の経験になりますので、そちらにサティを入れるのは「心随観」のカテゴリーに分類されます。

  こうした分類は一応理解しておくだけで特にこだわる必要はありません。瞑想の修行現場では、常に優勢の法則が重視されます。受け身に構えて、一瞬一瞬、意識に強く触れたものには必ずサティを入れて客観視する原則です。強く意識されたのには訳があり、中心対象であれ中心外であれ、そちらにより多くの注意を注いだのは自分なのです。自分の心がなぜかその現象に強く反応したのですから、それを徹底的に観察していけば、あるがままの自己客観視ができるように設計されているのがヴィパッサナー瞑想です。

  一瞬一瞬の自分の実情がありのままに知られれば、問題点を修正していくことも優れた点を成長させていくことも、次の仕事が明確化され心の清浄道は進んでいきます。
  「受随観」が淡々と続くこともありますが、たいていは快感や苦痛を強く感じた直後に貪る心や嫌悪する心などが生起するので、「心随観」に移行していくことも多々あります。その心の状態にサティを入れれば消滅していくでしょうから、そしたらまた「受随観」に戻り、さらに「膨らみ・縮み」が強く感じられたらの中心対象の「身随観」に戻ればよいのです。

  いついかなる時にも、何が起きても必ずサティを入れ、優勢の法則に従っていけば、自然展開で「身受心法」のオーソドックスな四念住の修行が進行していきます。

  「比丘たちよ、この道は諸々の生けるものが浄まり、愁いと悲しみを乗り超え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を視るための一道である。それは四つの念住である・・」(大念住経)
(文責:編集部)
 今月のダンマ写真 ~

       






      網戸のジャロジ窓
 
深い木立の中のクーティから                                           
                 
地橋先生提供


    Web会だより  

「日本の寺の住職を辞して、これから」 (1) 白幡憲之

先代住職だった父の急逝
  平成16年の暮れ、寺の住職をしていた父が急逝したとき、私は45歳でした。住職の長男ではあるものの、その頃の私は僧侶の資格を得るつもりも、いずれ寺を継ぐ意志もなく、20代後半から30代初めまでは会社勤め、30代半ばから10年あまりは翻訳者として過ごし、寺とはまったく関係ない仕事をずっとしていました。
  当時73歳だった父は、これといった体調の異状もなく年齢相応に元気でしたから、まだ後継住職のことなど決めずにいたところ、突然亡くなってしまったのです。そのため、誰が次の住職になるのか誰にもわからず、誰もすぐには決められない状態が生じました。住職が未定であれば、どうしても寺の内外がざわつき始めます。檀信徒の方たちのあいだにもある種の不安が広がりつつあるようでした。
  そうした緊急事態が出来したこともあり、そもそも僧侶になる考えすらなかった私が、「あとを継ぐ」という決意表明を周囲の方々にしました。(いま振り返れば、「思いあまって」というべき部分もあったかもしれません)

  寺の住職は世襲制だと思っておられる方が現代の日本では少なくないおかげもあり、住職の長男がともかくも「継ぐ」と表明したことで、いわば「落ち着くところに落ち着いた」といったおおかたの方々の受けとめがあり、結果的には幸いにも寺の内外の混乱や不安は静まっていきました。

上座部仏教の瞑想との出会い
  実は、私が住職になる決心をするに至るには、それよりさかのぼること3年ほどの経緯が関係していました。その間のさまざまな出来事がなかったならば、先代住職である父が急逝したときも、それをまるで他人事のように眺めるだけで、あとを継ぐという思いなどまったく浮かばなかったかもしれません。
  父が逝去する3年前に起きたこと――それは私と仏教との「邂逅」でした。そのさらに数カ月前、私は軽い鬱病になり、症状は薬で軽減したものの、この鬱の原因は自分の物事のとらえ方やそれまでの生き方にあるのではないかと感じるようになっていました。
  そこから自分の心や精神的な事柄に関心が向き、インターネットなどを通じてあれこれ探索した末、上座部仏教とヴィパッサナー瞑想や慈悲の瞑想に触れることになりました。
  当時の私は、上座部仏教が2600年前のお釈迦様の教えを忠実に守り実践しようとしている仏教であるという知識もろくになく、ましてやその上座部仏教で、「いま・ここ」にいる自分自身の変化を客観的に見つめる「観察の瞑想」や、慈・悲・喜・捨の4つの善き心を育てる「慈悲の瞑想」が実践されていることなど、つゆほども知りませんでした。
  そんな私が上座部仏教と最初に出会うことになったのが、瞑想実践では東京・新宿の朝日カルチャーセンターにおける地橋秀雄先生による入門講座、教えのほうはスリランカから来日なさり今や滞日25年におよぶアルボムッレ・スマナサーラ長老の著書を読んだことでした。私としてはそれぞれ別々に見つけた瞑想と教えでしたが、じつは二つで一つのセットになっているものの両方に、たまたま同時期にめぐり遇うことになったわけです。
  寺の住職の長男に生まれながらお恥ずかしい話ですが、私は40歳過ぎまで仏教についてあまり知らず、特に関心もありませんでした。その私が自分の心の問題をなんとかしようと彷徨した結果、一番しっくりきて得心のゆく教えと実践方法が、お釈迦様の開かれた仏教に近いとされる上座部仏教とその瞑想法だったとは・・・広い意味での因縁だったのかもしれません。

自分の心を見つめる
  私はそれからの約2年間、上座部仏教の教えと瞑想、とりわけヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想の実践にのめり込みました。といっても、瞑想が進んだとか、悟りが云々などという話ではまったくなく、むしろ門をちょっと入ったあたりでウロウロしつつ、『ああ、うまくいかない、よくわからない・・・』と、もがいていたというのが現実でした。
  ところが、そんな悪戦苦闘のなかでも、自分の心の状態やクセについて数々の気づきがあり、そのつど自分の心が解放されたようにラクになってゆくのを実感しました。瞑想の素質や才能がとりたててない初心者にも、それなりの効果がある方法――『これを見つけ出したお釈迦様って、本当にスゴイなぁ』と、僭越ながら、また遅まきながら、私は驚嘆にも近い感慨を抱き、その教えと実践に生きる希望を見出した思いでした。
  平成15年には春と秋にそれぞれ10日間、地橋先生が主宰するヴィパッサナー瞑想のリトリート(合宿)に参加し、朝、目が覚めてから、夜、寝るまで瞑想を続けるなかで、こだわりやプライドが自分では容易に気づけない形で確かに私の心に巣くっていることや、自分の心のクセのいくつかをも痛切に思い知らされました。(続く)




☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

       
 






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ダンマの言葉

ブッダは老齢に達されると、肉体を捨て、その重荷から解放されました。ですから、あなたも多くの年月を自分の肉体に頼ってきたことに満足することを学ばなければなりません。もう十分だと感じるべきなのです。(『月刊サティ!』20052月号、「私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話」より(アチャン・チャー長老法話集)

       

 今日の一言:選

(1)ラッキーな、楽しいことが起きるなら起きても、よいではないか。
  徳を使ってしまったのは残念なことだが、善行をして、また貯めればよいのだ。

(2)主体と客体が融合する瞬間の不可思議さが、奇妙な印象をもたらす。  自分が裁量しコントロールしていたはずの対象が、不意に「私」に襲来し、「私」と一つのものになり、融け合ってしまったという主客未分の合一感……
  まるで、「☆☆の神」にすくい取られ、一体になったかのようだ……
  サマーディの成立する瞬間に多発する神秘体験の構造……

(3)風化していくものは、風化していくままに任せればよい。
  赦せないもの、忘れられないもの、受け容れられないものを、いかにして終わりにしていくことができるだろうか……
  何かが自分の中で壊れていかなければならない……


       

   読んでみました
  「心のなかの独り言  内言の科学」(日経サイエンス、20181月号)を読んで
  私は日経サイエンスという雑誌をほとんど毎月買って読んでいるのだが、最新号(20181月号)に掲載されている「心のなかの独り言  内言の科学」を読んで驚いた。なぜならその論文は、地橋先生の指導されている瞑想法の有効性を科学的に裏付ける内容であったからだ。
  先生の瞑想法では、初心者はまず歩く瞑想のやり方をマスターするように促される。
  歩く瞑想のやり方は、中心対象を足の裏に定め、その一点の感覚に意識を集中させる。感覚を十分に感じたら、次に間をしっかり取ってから「離れた」「進んだ」「着」「圧」などというようにラベリングをする。そしてそのラベリングは、過去形であること、または漢字などを使用する圧縮型であることが特徴だ。
  私はこの瞑想法が、先生が体得されたブッダの教えであるヴィパッサナー瞑想の真髄を凝縮した暗号のようなものであるという直感があった。そして、その暗号を理論的な観点から読み解くには、科学の力を借りる必要があるのではないかとも考えていた。
  本来は理系音痴の私が、日経サイエンスを購読しているのもそのためであり、今までにも先生の瞑想法の理解につながる数多くの論文に出会うことができている。それらの論文は、物理学や数学、化学や生物学、そして脳科学や心理学など多岐にわたるもので、その数が増えるにつれて仏教の本質がこの世のあらゆる現象に投影されていることを次第に確信するようになっていた。
  今回の論文「内言の科学」もその一つであり、内言のメカニズムを科学的に追求することで、サティの瞑想にはなぜラベリング(内言)が必要なのかの理由の解明につながる画期的な内容のものである。
  私は、内言を扱った科学が存在すること自体知らなかったのだが、1920年代から1930年代にかけてピアジェやヴィゴツキーという心理学の大家が内言についての説を打ち立てており、この論文の著者である英ダラム大学のファニーハフ教授は、特にヴィゴツキーの考え方に強く影響を受けたそうだ。
  この論文によると、ヴィゴツキーの内言についての説は、「他者の行動を調整するために用いた言葉を、他者ではなく自分の行動を制御するために用いる」手段であること、また「大人が行っている声にならない独り言は、子供として発達していたころに他者と交わした会話を内面化したバージョン」という特徴がある。
  私はこの部分を読んで、ヴィゴツキーの説は、自分の外側にあると見なしている世界と自分の内側の世界すなわち脳内は、実は同時かつ時系列的にまったく同じ構造のものであると言いたいのではないかと直感した。
  ファニーハフ教授も、人間が他者に対して発話している時と自分自身の頭の中でダイアローグを行っている時では、脳の使い方に共通点があるだろうという推定に基づいて機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)を使って実験を試みている。
  そしてその実験結果は、ファニーハフ教授らの仮説を見事に裏付けるものとなった。
  日経サイエンスの論文には、ファニーハフ教授らが行った複数の実験結果を脳の図でまとめてあるのだが、この図が実にわかりやすい。
  簡単にそれについて解説すると、実験では、内言がモノローグ(独白)型かダイアローグ(対話)型かによって脳内で発火する部分の違いがあるかを調べる。
  結果は、モノローグの内言では「通常の発話の際に活性化する標準的な言語システムが動員される」のに対して、ダイアローグの内言では「他者の考えを推測するのに関与しているとされる脳領域と部分的に重なっている」ことが明らかになった。
  また、実験では、被験者に特定の言葉を頭のなかでつぶやくように依頼した場合と、自発的に行った場合の内言で、脳内の活動を比較する。
  結果は、要請されたケースでは「脳の標準的な言語システムの一部であるブローカ野が活性化した」のに対して、自発的なケースでは「より後方に位置する側頭葉の一部領域が活性化した」という結果を得られた。
  このことを表した脳の図で見比べると、違いは明確だ。
  実験のモノローグ型と実験の要請された場合の脳の発火の状態は一カ所に集中する一元論的であるのに対し、実験のダイアローグ型と実験の自発的な場合の発火の状態は分散型の二元論的になっているのが一目瞭然である。
  これは、私にはまるで、数直線の縦軸と横軸の広がり(サティの瞑想)と数直線の中心であるゼロの焦点(サマタ瞑想)のように感じられた。
  また、ヴィゴツキーは内言と私的発話は他者へ向けられた発話に比べ省略が多いと指摘しているそうだが、このことを検証するためファニーハフ教授らが行ったアンケート結果をまとめたものも非常に興味深い。それによると、内言には次の4つの大きな特徴があるそうだ。

  基本的にはダイアローグであること
  表現が圧縮される傾向があること
  他人の声が組み込まれるのには限度があること
  自分の行動を評価あるいは動機づけする役割があること

  この4つの特徴は、仏教の根幹とされている四聖諦(苦・集・滅・道)の解釈に通じるものがあるのではないだろうか。
  この内言についての論文から見えてきたことを、ヴィパッサナー瞑想の理論に結びつけて私なりに解釈すると以下のようになる。
  二元論(多様性)で成っていると思い込んでいる外界の現象それは自分の体の感覚でもあるのだがを、ヴィゴツキーの説のように内言(ラベリング)によって脳内に取り込んでいくと、ダイアローグ型の内言から次第にモノローグ型の内言へと移行していく傾向がある。
  それは、地橋先生が講座の初回に教えてくださる認知のプロセスを逆方向にたどっていくようなもので、だからこそ、自発的な(能動的な)内言から要請(受動的な)された内言に移るのである。
  そしてそれが、最初はラベリング(二元論)が必要不可欠であり、次第にラベリングが圧縮されていく(一元論)傾向にあることも説明できる。
  また、二元論から一元論に変化するということは、二元論が過去の妄想であると捨てられるという意味になり、それが過去形のラベリングでなければならない理由であろう。
  認知のプロセスを逆方向に進むということは、因果関係の逆転を暗示しているとも言え、これが物理学ではニュートリノが光速を超えたと一時的に騒がれていた現象を説明するものではないのか。
  そして、先生の瞑想法では、最後はラベリングのない瞑想、つまり「サティの自動化」の状態になるという。
  このことは、一旦確立された認知のプロセスを逆向きにどんどん進んでいけば、鳥が卵の殻を突き破って外に羽ばたくように、いつかは認知のプロセス自体の枠を超えて真実を直観することが可能となる。それが、私には、この世のありのままを瞑想によって洞察する智慧の発現のように思えるのだ。
  (ちなみに、幼児が私的発話を繰り返すのは、「他者の視点に立てず聞き手に合わせた話ができないことの反映である」とするピアジェの説は、ヴィゴツキーの説とベクトルの方向が逆向きの認知のプロセスを確立するまでの過程を指していると考えられる)
  数学でも物理学でも、難問とされているのは皆このことを言っているだけのような気がしてならない。
  なぜなら、人が外界を知覚する手段は脳を通すしかやりようがないから。自分の外界は左脳(二元論)と右脳(一元論)から成る脳構造の反映であるのなら、脳も外界の反映であるといっていいだろう。
  そしてその外界と内界を別のものとして分けているのは何かというと、自分が存在するという錯覚なのだ。
  脳の構造でいうと、左脳と右脳をつなげる脳梁があるという錯覚とも言えるかもしれない。養老孟司さんが「バカの壁」と呼んでいるのも自我という妄想への執着に他ならない。この「バカの壁」を完全に取り去るとどうなるか。それが仏教の「涅槃」に当たるもので、それがわかれば「涅槃」という概念だけでなく何もかも元々存在しなかったことが明らかになるのではないか、と私は勝手に妄想している。
  ファニーハフ教授らによる内言の4つの特徴もまた、突き詰めるとこのような意味になると私には感じられる。
  以上、できる限りわかりやすい表現を使って、この論文から読み解くことができる先生の瞑想法の解釈を試みたが、やはり、思考を用いて自分の理解した内容を人に伝えることには限度があることを痛感している。
  このことも、ブッダの教えの真髄はパパンチャ(概念)を超越したものであるからなのだ。だからこそ、パパンチャ(概念)への執着がきっぱりと絶ち切られなければ真実は悟られることは不可能でありそれが自灯明の意味ではないかと愚考している。
  地橋先生が、なぜ実践を重視されているかというと、ブッダの教えの実践方法であるヴィパッサナー瞑想は、概念や思考をもてあそんでいる限りその入口にすら立てないのだと知り尽くされているからである。なぜ、そのことを確信を持って断言できるのかというと、地橋先生ご自身が厳しい修行時代を経て、仏道の本質は煩悩を滅尽させていくことであり、それは取りも直さず思考や妄想で何を考えようが、クズでしかないと痛感されたからだということが、先生の下で8年間修行させていただいた私には感じられるからである。
  先生は、二十年以上に渡って、ご自分が体得されたことをなんとか私たちに伝えようと、一生懸命に瞑想を教え、ダンマトークをなされてきた。私もまた、先生がどのような状況でもまったく動じない姿も目の当たりにしてきた。妄想を一蹴する迅速さの故だろうかと想像している。
  私自身、この世の真実を知りたいという欲求の根源には、生きる苦しみから解き放たれたいという原動力があった。何をやっても、永遠の幸せに行き着くことができない虚しさと苦しさ。でも、幸せはないと諦めなければ苦しみも決してなくならないと身をもって知ることができた。
  それは生存本能を諦めるということと同じくらい困難なことなのだが、それがなされたら、生存本能こそ貪瞋痴だと心底納得されるのではないかと憧れている。生存本能を言い換えると、言葉(概念)ということになるのではないだろうか。  
  この論文は、内言がこの世のすべてであり、その正体を暴くことが真の安らぎに通じる道であることを教えてくれた。
  ファニーハフ教授も論文の最後のところで、「内言の科学を正しく追求していけば、これら人間の認知のすべての側面を言語的思考から解明できそうだ」と言っている。
  このような価値ある素晴らしい科学の論文に出会えたことは何よりの喜びである。
  地橋先生の代表作である『ブッダの瞑想法  ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』の本のタイトルに「実践」だけでなく「理論」も明記されている理由は、私のように瞑想の実践が苦手な者でも、ヴィパッサナー瞑想を信じて、諦めることなく修行を続けていけば、必ずパパンチャ(概念)を超える次元に達することができるという意味なのだと思いたい。
  パパンチャが超越された次元とは、すなわち無のことだが、いったん存在の妄想の罠にからめとられたら、量子論でいうところの波と粒子の矛盾のように、一番シンプルなことを理解するのが、認知的かつ情動的に一番困難になってしまうのだ。
  先生の瞑想会で、信頼できる家族や法友の方々に支えられながら修行を続けてこられた私は、すでに100%幸せであったのだと生きとし生けるものすべてに、心から感謝がわき上がってくるのを感じていた。(K.U)
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