月刊サティ!

2018年2月号      Monthly sati!     February 2018


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク  ~広い視野からダンマを学ぶ~

        今月のテーマ:慈悲の瞑想自己否定観を越えて-(2)
 
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~

            
今月のテーマ:ヴィパッサナー瞑想の基本 (3)
  ダンマ写真
  Web会だより:『五戒を守る』
  ダンマの言葉
  今日のひと言:選
 
読んでみました:『家庭でできる自然療法 
-誰でもできる食事と手当法-
                

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   巻頭ダンマトーク ~広い視野からダンマを学ぶ~

今月のテーマ:慈悲の瞑想 -自己否定感を越えて-(2)  

(承前)
6.「悲しみ」という名の「怒り」を手放す

  前述した未亡人ですが、悲嘆に暮れた母の様子を見かねた娘が『瞑想クイックマニュアル』出版記念講座の1dayコースに母親を連れて来ました。その後しばらくして、この未亡人は夏の10日間合宿にも参加されたのですが、娘から強引に背中を押されて渋々来たようで、瞑想ができない状態でした。ボーッと物思いに耽ってしまう感じで、リタイアするかもしれないと思いましたが、それでもなんとか踏み留まってがんばっていました。

  この方は、壁に手を付きながら歩く瞑想をしていました。「(手を)のばした」「(壁に)触れた」「(足が)離れた」「進んだ」「触れた」「圧」と繰り返しながらゆっくり歩いていました。

  印象的だったのは、この方は壁から手を離すと漠然とした不安を感じるらしく「不安感」「恐怖感」とラベリングしていました。面接で何度も確認したのですが、「奈落の底に落ちていくような漠然とした恐怖感」ということでした。「恐怖感」の他にも「(暗闇に落ちていくような一瞬の)恐怖」「(どこまで落ちていくかわからない)不安感」など、微妙に言葉が変わりましたが、足が床に着き、手が壁に触れると「安堵感」というラベリングに変わるのでした。

  「恐怖感」から「安心感」まで毎日毎日、えんえんと繰り返していたのです。すると、手足が宙に浮いている寄る辺ない感覚と、自分の置かれている現状がダブってきたのでしょうか。自分の悲しみや苦しみの構造がだんだん理解されてきたようです。

  どんなに恐怖があり不安があっても、やはり手が壁に触れる瞬間が来るし、足も必ず床に着いて両足で立てる瞬間が来るのだという安堵感です。誰にも頼ることのできない、孤独にひとり宙に浮いている感覚にも終わりがやってくる。必ず到着できるときが来て安堵することができるし、どんなことにも終わりがあるのだ・・ということがわかってきたのです。

  こうして、合宿が終わりに差しかかったある日の午後、真夏の陽射しがパタリと途絶え、辺りがにわかに暗くなって夕立ちが襲来しました。激しい雨が降るだけ降ると、やがて黒雲が破れて再び陽光が射し始め、すっかり晴れ渡りました。グリーンヒルはわりと緑の多いところですが、そこかしこの木々の緑からしたたり落ちる雨滴がキラキラキラキラ光り輝いているのが見えました。その時なぜか、この方の言葉だと、夫は成仏したと感じたというのです。

  夫は成仏したというのは、私の言葉に翻訳すると、悲嘆が手放せたということです。自分の中のどうしようもない喪失感と悲しみが終わりにできたのではないか、と。この方は、夕立の後に辺り一面の景色がキラキラ輝くのを見ながら「つかんでいて放せなかったあの人の腕を、私は今、放そうとしている・・」と感じ、涙がこぼれたと言っていました。

  この時からなぜか心がシーンと静かになって、瞑想が本格的にできるようになり、その次の日には、少女時代に描いていた絵をもう一度描いてみたいと思ったそうです。合宿が終わったら、絵筆を取ってみたい・・。今までは、とてもそんな気持にはなれなかったけれど、何かが確かに終わったと感じられたのです。

  合宿が終了し2回くらい瞑想会に来たのですが、その後はもう来られなくなってしまいました。苦しみが乗り超えられると、瞑想をやらなくなる方が多いのですが、この方もそのタイプだったようです。人生に躓いた人の大きなドゥッカ()がこうして癒されるならば、たとえその後、瞑想から離れていったとしても、苦を癒すためのシステムとして、仏教はひとつの役割を果たしたと言えるでしょう。

  この合宿に入るまでは、誰に会っても突っかかっていたと言っていたこの方も、あれだけの体験をなさったのですから、たぶん優しくなっているのではないでしょうか。


7.自己否定感覚を乗り越える
  いずれにしても、怒りが渦巻いている限りは優しさや慈悲が発露することはありません。その乗り超え方はいろいろありますが、もし誰かの悲嘆に立ち会うことになった場合には、余計な慰めは言ってはいけないというのが鉄則です。グリーフケアに携わっている方によれば、不用意に励ましの言葉などをかけてもまず良い結果にはならず、「あんたに何がわかるのよ」というふうになるそうです。

  傾聴してあげること、何もできないがただ聞いてあげるのがよいと言われています。信頼できる共感者の存在は、悲しみが癒される重要なファクターですが、誰でも簡単にめぐり会えるものでもありません。難しいところですが、ヴィパッサナー瞑想には希望があります。サティの瞑想では、ひたすら自分に向き合い、ありのままに客観視することが求められています。その結果、他人の助けがなくても、自分自身で負の情念を解き放つことが可能なのです。事実を正確に把握し受容するプロセスでは、他人に指摘されて気づくよりも、自分自身で気づいた衝撃の方が何倍も強烈な印象となります。それが、観察の瞑想の威力です。

  悲しみを乗り超えるためには、まず悲嘆という負の情念を解放しなければなりません。そのためには、辛く苦しい真実に向き合い、悲しみの涙に暮れるプロセスを経なければならないでしょう。悲しみを抑圧し、このプロセスをカットしている限り、いつまでも引きずることになります。悲しみも「対象を嫌う」怒りの心に分類されますので、悲嘆が抑圧されている心に慈悲の優しさは発露しづらいのです。

  悲嘆という怒り系の心を乗り超え、真の慈悲を体得していく上で最も大切なのは、自己肯定感です。悲嘆とトラウマ(心的外傷)と劣等感に共通するのは、怒りと、自己肯定感の乏しさです。自分は劣っているという認識も、嘆き悲しんでいる自分も、ズタズタに傷ついた自分も、当然肯定できようはずもなく、その状態を嫌悪している怒りと言えるでしょう。

  劣等感の場合、それが自分のキャラクター(性格・気質など)に関するものであれば「自己否定感覚」になるだろうし、自分が失敗したことによる単発的な出来事に起因するものであれば「自己嫌悪」になるでしょう。先ほどお話した4歳の娘が交通事故にあった方のケースでは、自分は母親失格ではないかという罪悪感と劣等感とトラウマと悲嘆がゴチャ混ぜになって、強烈な自己否定感覚に襲われていたので能面のような表情になっていたと思われます。それゆえにこの情況では、まず大いに泣くことによって悲嘆を手放すことがどうしても必要なのです。

  怒りの対象となるマイナス感情や負の情念を解放する仕事が終わったら、積極的に自己肯定感を高める営みが必要不可欠です。優しさを阻む否定感情が無くなり、ゼロになりました・・。それだけでは、積極的な慈悲の発露には弱いのです。自分を受け容れ、自分を愛することができ、自己を積極的に肯定できる心から、他者への優しさは生じやすいということです。

  では、自己肯定感を養うのに必要なものは何でしょうか。それは自己有用感です。私は無用な存在ではない。私は人のお役に立てる存在であり、私の存在にも価値があるのだという感覚です。そしてこの自己有用感を養うには、当然のことですが、どんな些細な善行でも躊躇せずに実行することです。義捐金を送ったり、ボランティアだけではありません。自分の家のトイレ掃除やゴミ出しからでも構いません。席を譲るのも、ネットに有用な情報を書き込むのも、他人の家の前の道路を清掃するのも、ゴミを拾いながら駅に向かうのも、最初は戸惑っても、しだいに人のお役に立てることが自然にできるようになります。

  さらに、自己肯定感と大いに関係があるのは達成感です。何事も投げ出さずに最後までやり遂げ、「やったぞ」「やればできるんだ」という気持ちです。常識的に考えても、自分のなすべきことを途中で投げ出してしまえば、そんな自分が嫌になって自己否定的な傾向に陥りがちです。やり遂げたという感覚は、なんとなく自分を褒めてやりたくなるし、自己肯定感覚につながっていきます。


8.善行を積むことの意味
  以上のようなことを大局的にみれば、大切なのは人との関係性だと言えるでしょう。やはり人間というのは孤立した孤独な情況では生きるのが苦しく不安定になる存在です。人は、人との関係性や繋がりの中で生きるように、遺伝的にプログラムされているのです。

  では、人との関係性を築いていくには、具体的にどのようなことを心がければよいのか考えてみましょう。

  まず第一には、前述した善行です。善行を行なうと気持ちが良いし、達成感があり、自己肯定感を高めてくれます。自分自身の心を浄化し、向上させていくのに強力な効果を発揮するでしょう。しかし、それ以上に大事なことは、善行をすれば、他人や社会との関係性が良くなり、素晴らしい絆ができるということです。相手のためになることや世の中に貢献する善行をしている人は必ず好かれるし、尊敬されるし、評価されるし、良い絆が培われ関係性がよくなっていくものです。その結果、世の中や人と関わることができている安心感や自己肯定感がさらに増していくでしょう。

  自分の心の闇に目を背けてそんな善行をするのは、偽善ではないかと言う人もいるかもしれません。だから何もしない方がよいのでしょうか? 何もしなければ、現状に何も変化は生じません。心の闇を根絶するのはライフワークと心得て、まず諸々の善行に着手し、人との関係性を良好にすることです。人間の幸福度や長寿の原因に指摘されている第一位は、良好な人間関係なのです。これは世界中に共通です。人というものは、人間関係や絆の良し悪しで幸福が左右されてしまう存在です。互いに協力し合って生き延びてきた700万年の人類史の結論なのでしょう。

  慈悲の瞑想も、本来は心の闇を一掃した人から発信されるべきものかもしれません。自ら浄められてから他を浄めよ、というブッダの教えからしても、それが正論です。しかし、誰もが修行第一の道を歩む訳ではありません。ほとんどの人は、ライフワークとして心の根本問題に取り組み、人生を閉じるまでにやり遂げることができれば大成功といったところでしょう。

  心の土台が浄らかな人は、慈悲の瞑想の上書き効果が鮮やかに現れます。しかるに、深刻な心の闇を抱えた人の上書き効果には限界があるのも確かなことです。では、そういう方の上書き効果はゼロかと言えば、そんなことはありません。繰り返され習慣化されたものは、必ず反応系の心を形成していきます。多くの場合は、繰り返された反応パターンが一番で起動するものです。

  土壇場に追い込まれた情況では、もっと深い心のプログラムが解除されますから、豹変し、本性が出た・・ということになるかもしれません。だから、どうだと言うのでしょう。慈悲の瞑想は虚しいもので、やらない方が良いと言えるでしょうか。土壇場の極限情況など滅多にあるものではありません。たとえ不完全な上書き効果であっても、心を浄らかにするあらゆる営みは価値あるものです。そのように、必ず心は変わっていくのです。

  たとえ不完全、不徹底でも、衆善奉行、諸々の善行を行じ奉るべし、です。何よりも、行為の実行ほどカルマが良くなるものはないのです。世のため人のために善行を積み重ねていけば、人生の流れが好転し、運が良くなったラッキーな日々が到来した印象を受けるでしょう。現実として日々、好きことが起きれば心は良い方向に傾くものです。それとも毎日、嫌なこと、苦しいこと、最悪な現象が続いた方がよいのでしょうか。善行をすれば、カルマが良くなり、穏やかな優しい心が立ち上がりやすくなるのですから、それだけでも心がけるべきでしょう。

  慈悲の瞑想の文言を繰り返すだけでも素晴らしいことなのだと、ぜひ言っておきたいと思います。たとえ悲しみや劣等感が心の奥底に残っていても、慈悲の瞑想の文言を繰り返していくだけで優しいモードになれるのです。それが不完全で脆くても、怒りモードでいるよりも、優しいモードになった方がよいのだと心得て慈悲の瞑想をしていきましょう。カルマが良くなれば、やがて素晴らしい共感者やカウンセラーや、安全基地になってくれる人との出会いにも恵まれてくるでしょう。そうして心が整い、環境が整い、時の流れ、因縁の流れに助けられて、成しがたきライフワークを成し遂げていくのです。

  心の奥深くに抑圧されている劣等感やトラウマや悲嘆に向き合い、その事実を直視して受け容れる人生最大の難事業をやり遂げるのです。始まりがあったものには終わりがあり、悪くなった原因に匹敵する良い条件や原因が組み込まれれば、完全に乗り超え終わりにできるのも確かなことです。長い間、黒くわだかまっていたものが完全に解体し、解き放たれたとき、素直で自然な優しさに満ちた慈悲が溢れていくでしょう。


9.エゴを乗り越える
  ここまで、悲しみや劣等感やトラウマという名の怒りを手放すことを強調してきました。では、怒りさえなければ自動的に慈悲の人になれるのでしょうか。残念ながらその保証はありません。怒りや残酷さが引き算されたニュートラルな状態から、温かい慈愛がこぼれる場合もあるし、そうでない場合もあるでしょう。確かなのは、ネガティブな悪いものが発信されなくなっただけです。

  それでは、優しさを充分に与えられれば、誰でも自動的に優しい慈悲の人になれるのでしょうか。多くの場合は、その通りです。虐待も慈愛も、暴力も優しさも、人は受けてきたものを反射的に出力してしまうものです。

  しかし、小さい頃から大事にされ、まるで王子様か王女様のように育てられたのに、ただワガママなだけで、やりたい放題のゴイストになり、慈悲も優しさも発信されない愚か者もいるようです。大事にされ、優しさを受けたのに、まるでダメ夫やダメ子になるのはなぜでしょうか。

  一つには、純粋で賢明な優しさではなく、愚かな溺愛や盲愛を受けてしまった可能性があります。もう一つは、我執やエゴ感覚や自我意識の問題です。ギブアンドテイクで取引される優しさもあれば、正直や優しさを戦略として利用している人たちもいます。

  薄汚れた優しさと慈悲が決定的に異なるのは、エゴ感覚の有無と言ってよいでしょう。エゴ性を乗り越えなければ、純粋な慈悲の心は育まれないのです。自分に被害を与えた人、敵対する人のためにも幸せであれと祈る、慈悲の瞑想のむずかしさがここにあります。純粋な慈悲の瞑想を体得するには、エゴを乗り超え、仏教の究極の到達点でもある「無我」を目指さなければなりません。

  こうして、慈悲の瞑想が完璧にできるのは、悟りを完成した人だけなのだと絶望的になります。まあ、致し方ありません。仏道を極めるのは至難の業であり、聖者のみが慈悲の完成形を体得するのであれば、われわれ泥凡夫は、自分の立ち位置から一歩づつ歩んで、果てしなく遠いゴールを目指して日々なすべきことを一つづつやり遂げていくだけです。途方もなく巨大なグラデーションですが、1ミリでも心が浄らかになれば、慈悲の純度も向上しているのです。それに正確に比例して、人生の幸福度も確実に上がっていくのです。


10.優しさのために
  慈悲の瞑想に真剣に取り組むことは、怒りを引き算し、エゴを引き算し、智慧を養い、捨の心を組み込んでいく修行であり、自己実現の道そのものとなります。この全人格的な営みがうまくいけばいくほど、優しさも智慧も崇高さも慈悲の心も深くなり、自己完結していくのです。

  この自己実現の悟りの道であり心の清浄道を歩み出すスタート地点は、私たちの顔が異なるように、長い輪廻の中で集積してきた宿業により千差万別です。優しくて賢明な両親や家庭環境に恵まれ、細胞レベルで優しさが自然に組み込まれた、生粋の慈悲の人もいるでしょう。正反対に、幼い頃から虐待を受け、トラウマや怒りを心中に深く抱えてきた人もいるでしょう。それは、カルマの相違であり、現象世界にこうした落差が生じているのは否めない現実です。

  だが、あらゆる存在は互いに己の分を守りながら公平であり、万物万象は平等にそれぞれの役割を果たしているのです。生来の優しい慈悲の人がその役目を果たすように、トラウマに深く傷ついてきた人は怒りを乗り超え、自らの運命を受容して「悲(カルナー)」の瞑想の達人として、世界中に溢れている虐げられた人々の等身大からの共感者となり、癒やしの仕事をやり遂げていくのです。

  銀の匙をくわえて生まれてきたおめでたき幸福の王子たちには、本当に傷ついてしまった人の悲しみは分かりません。経験が皆無なのだから、心底からの共感も同情もできないし、「慈しみ」の名人ではあっても「悲」の達人にはなり得ないのです。愛された者も、虐待された者も、人間として平等に、ただ異なった役割を果たしながら、因果法則を学び、エゴを乗り超え、自己実現の道を歩んでいくのです。

  誰も自分の運命を呪うことはできないし、手放しではしゃぐこともできないのです。肉食獣が獲物を倒して数の淘汰に一役買わなかったら、あっという間に草原は食い尽くされ増えすぎた草食獣も死滅するでしょう。他人の糞を日がなまるめていくフンコロガシが存在しなかったら、アフリカのサバンナはたちまち枯渇し、ガゼルもシマウマもチータもライオンも全滅するのです。カルマが違い、役割が違うだけで、フンコロガシもライオンも存在するものは全て、そのありのままで、公平で平等な立ち位置にいると心得、自分に与えられた運命や情況を受け容れ、なすべきことをなしていくということです。

  優しく愛され、悲嘆も劣等感もなしに来られたのであれば、それはそれでお人好しのような優しさが出るだろうし、苦渋の人生を歩んできた人は、それゆえに深く傷ついてきた人たちに奥深い優しさを発信できるようになります。ただ、自然にそうなるのではありません。

  放置しておけば必ず汚れていくし、悪くなっていくのが人の心です。汚れれば汚れるほどドゥッカ()の分量が増し、浄らかになればなるほど苦しみが引き算され幸福度が増していくのも確かなことです。心を浄らかにする瞑想は、苦を乗り超えて無くしていく瞑想であり、心を浄らかにする修行も、優しい慈悲の人になるための行法も、同じ一本の道なのです。遠大な計画の下に、その道を歩み抜いていきましょう。


関連質問
Aさん:
  慈悲の瞑想をしているとき「私を嫌っている人の悩み苦しみがなくなりますように」と唱えていると、私のことを嫌っている人の顔がまず浮かんできます。そのあと、その人の悩み苦しみってなんだろうとか、その人の願いは何だろうとかの考えが浮かんで、結局それはわからないというふうになってしまうのですが、どう対処すればよいのでしょうか。


回答:
  慈悲の瞑想は、テーマから外れなければ、たとえ考えごと的になってもよいのです。事実検証ができず、妄想や想像力の域を出ないものであっても、嫌いな人や自分を嫌っている人を受け容れ、好きになれるというのは良いことなのです。慈悲の瞑想は、嫌いな人が嫌いではなくなり、好きになっていくプロセスであるとも言えるでしょう。

  しかしそうは言っても、普通は好きになれません。嫌いな人を好きになるためには、認知が変わらなければなりません。認知が変わるためには、価値観や世界観や考え方など、心の中で事実上の自己変革をしていくのと同じようなものです。一方的なエゴの視座から眺めれば、嫌な人はいつまで経っても嫌なままでしょう。

  どうしたら視座を変え、発想の転換ができるのかという問題です。この時に大事なのは情報です。相手に関する情報が乏しく、その内容も劣悪なものであれば、結論は悪い人だ、残酷な人だということになり、頭の中にはモンスターのようなイメージが作り出されてしまうかもしれません。例えば、嫌いな相手というのは、こちらに対して優しさの反対の行為、冷たかったり被害を与えたり、こちらが嫌がることをしている人でしょう。しかし、もし相手の情報をたくさん持っていれば、なぜそんな態度を取るのかその背景が推測できるかもしれません。どんな人にもそれなりの事情があり、相手にもそうなるだけの理由があるでしょう。あるいはその人の来し方や現在置かれている状況がわかってくれば、悲しくも哀れな過去に同情的になり、受け入れて認めることもできるかもしれません。

  しかし嫌いな人の情報を客観的な立場から収集するのは、やはり難しいことです。情報が得られないのであれば、たとえ妄想であってもこちらに慈悲の気持ちが芽生えてくれば、それを活用すればよいという考えもあります。相手をゆるせず、こちらの怒りが永続するのはお互いのために不幸なことです。

  グリーフケアの高木さんが「私には、マリア様にしっかり抱かれて守られているように感じられる」と言ったのは、たぶん嘘ではなかったでしょう。私は、これは嘘の戒律に触れない巧みな言い方だと思いました。見えている訳ではないからわからないが、私にはそう感じられるし、そう確信している・・。人のケアに携わる人だったら、こう言うべきだと思います。もし「わからないですよ。ひょっとしたら地獄に行ってるかもしれません」などと答えたらどうでしょう。聞かされた方は救いようがありません。「私のせいで死んだ上に地獄で苦しんでいるのですか!!」となったら、どうしようもないですね。

  高木さんのこの言葉によって、能面のようになっていた母親は「本当ですかーッ!!」と号泣することができました。抑圧され押し込められていた悲しみの解放が始まれば、乗り超える可能性も開けてきます。こうしてグリーフケアが終了できるのでしたら、それはそれで素晴らしいことだと思います。

  情報が得られないなら、致し方ありません。大事なのは、怒りの認知を慈悲の認知に転換していくことです。たとえ事実かどうか不明な勝手な妄想でも、それでお互いにいがみ合いや怒りから解放されていくのであれば賢明なことでしょう。あの人があそこまで悪くなるのにはこんな背景があって、のっぴきならない事情からあそこまで荒れ狂っているのだと、頭の中で想像すればよいのです。そして、私は私のカルマによって、このような情況にめぐり合わせているのだと理解するのも大事なことです。こちらも苦受を受けることによって不善業の解消をさせられているのですから。

  たまたま入ったコンビニの店員の態度が非常に悪かったら「なんだあの態度は!」と憤慨するでしょうが、ちょっとでもこちらに余裕があれば「どうしたんだろう、あの人。あそこまで接客態度が悪いのは、どんな原因があったのかな」と思うことも可能でしょう。すると反射的に怒りに巻き込まれることなく、冷静に達観できる感じになるのではないでしょうか。

  サティの一瞬と、智慧の一瞬が問われるところですね。想像力の乏しい人、エゴの強い人には難しいわけです。相手の立場に立って眺めてみる視座の転換が求められます。自己中心的な視座を換えることができれば、共感能力も増大するでしょう。「客に対してあんな態度を取ってしまうのは、あの人は本当にもういっぱいいっぱいになっているのではないか・・」と発想が変われば、怒りから優しさへシフトできる可能性も開けてきます。

  また、人は、お腹が空いていたり体調が悪い時などには、余裕がなくなって怒りが出てくるものです。血糖値が下がってくると想像力が働かなくなってくるし、そうなるとエゴの立場からしか見られないので、どうしてもキレやすくなったり荒れたりします。体調もまた条件であって、それが安定していればやはり心にも余裕が出てきますので、相手の側に立つ想像力も働きやすいのです。

  そして、このような共感能力を体得しさらに高めていくには、やはり訓練をするしかありません。慈悲の瞑想が深くなるのも訓練です。慈悲の一点に絞り込んでイメージを浮かべ、そこから外れないようにいかにしてのめり込めるかが大切です。しみじみとした情感の込められた慈悲の瞑想の方が効果的なのです。情動脳が働きウルウルするほど優しい想いが深くなっているし、深く集中するほど自分の心が慈悲の色に染められ、その心のエネルギーは不思議に相手にも届いていくものです。

  慈悲の瞑想は、怒りを乗り超え優しい人になるためだけのものではありません。慈悲の究極を目指して修行していくことが、仏教全体の悟りの階段を上りきっていくことに通じています。サティの瞑想と並行し、日々修行を深めてまいりましょう。(完)


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:ヴィパッサナー瞑想の基本(3)   
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:禅宗の坐禅に対して、ヴィパッサナー瞑想の坐る瞑想の特徴は何でしょうか。

アドバイス:
  禅とヴィパッサナーでは、そもそも悟り観が違うので行法も異なりますが、共通点もあります。禅宗の中でも、例えば臨済宗では数息観から始まって公案を用いるし、曹洞宗ではひたすら坐り抜く只管打坐ですね。どちらも思考モードを離れることが最大のポイントで、概念の世界から来るものはしょせん妄想であって真実ではないという立場です。この点は、ヴィパッサナー瞑想とまったく同じと言ってよいでしょう。
  思考を止めるために、ヴィパッサナー瞑想ではサティという技法を使いますが、臨済禅では思考モードでは絶対に答えが出ない公案に取り組ませるし、曹洞宗では妄想を歓迎もせず嫌悪もせずひたすら坐り抜いていくようです。
  エゴを手放して無我を目指すところも共通点といえるでしょう。他力本願ではなく、自力の修行によって究極を目指すのも同じです。
  禅とヴィパッサナーが決定的に異なるのは、悟り観です。ヴィパッサナーでは、輪廻転生から解脱して存在の世界から全面撤退しますが、禅では輪廻転生を問題にしない立場のようです。存在の世界からの撤退とは、現象世界否定論と言うこともできます。一方、禅宗では万物万象と一如になる方向で、根本は現象世界肯定論であり、梵我思想と軌を一にすると言えるでしょう。

  禅の場合には、坐禅のやり方をあまり丁寧に説明しないところがあるようです。かつて八王子でグリーンヒルの合宿をやっていた頃、禅宗のお坊さんたちが何人も参加されました。ヴィパッサナー瞑想では、坐る瞑想のやり方を始め、歩く瞑想や立つ瞑想、喫茶や食事の瞑想など、どのようにサティを入れるか、詳細に徹底的に説明します。禅の修行を深めるのに、ヴィパッサナー瞑想の説明がとても分かりやすいし参考になる、ということで、いろいろ壁にぶつかっていた出家の方がかなり来られました。

  しかし坐禅の深め方や修行論でいくら参考になっても、そもそも解脱観が異なるので最終的には禅かヴィパッサナー瞑想か二者択一を迫られることになります。そのまま禅の修行を続けていくお坊さんもいましたが、なんらかの迷いがあって来られた方も多く、しだいに原始仏教に傾倒し、ヴィパッサナー瞑想に鞍替えして、禅僧の黒い衣から原始仏教の赤い衣に宗旨変えしたお坊さんも少なくありません。


Aさん:禅とヴィパッサナー瞑想では最終的なゴールが異なるということですか。

アドバイス:
  そうです。今も申し上げましたように、両者の間には悟り観や解脱観の明確な違いがあります。それはどちらが優れていて上だとか下だとかと考えるのではなく、総合的に検討し自分に合っている道を歩んでいくのがよいでしょう。

  優劣を問題にすれば喧嘩になるし、古来から宗教戦争までしてきたのが人類の歴史です。お互いの立場を尊重し合い、自分の求めている道に通じると感じる方を選んで他宗教を批判しないのが原則と心得ましょう。

  ヴィパッサナー瞑想はサティの技法を訓練していきますが、ご存知のように、サティはたんに思考を止めるだけではなく、気づき観察洞察という方向に悟りの智慧が発現するように設計されています。
  その智慧は苦しみの元凶である煩悩を無くしていくためのものであり、智慧の深まりがそのまま心を浄らかに成長させていく営みになります。
  智慧の修行は反応系の心の修行と重なりますが、その具体的方法については、拙著『瞑想のフシギな力』という文庫本を参照してください。

  ヴィパッサナー瞑想の特徴を整理すると、

  存在の世界を輪廻転生する流れから完全に解脱するための行法である。
  存在の世界は一切皆苦であるから、あらゆる苦を乗り超え滅尽させていった究極に解脱がある。
  ③解脱の瞬間は、存在の世界や生存そのものに対する完全な離欲であり、渇愛(執着)が絶え果てた状態である。
  ④解脱はサマーディなど特殊な変性意識状態の一時的な所産ではなく、心底から渇愛が手放され安定している状態である。
  それには、日常の通常意識モード時や土壇場の正念場でも諸々のこだわりや執着から解放されていなければならない。
  つまり、知的にも情緒的にもあらゆる意識レベル時に安定して無執着の離欲の状態が完成している。
  ヴィパッサナー瞑想とは、この智慧の完成を目指して、まず存在の世界の本質を洞察し一切皆苦の構造を検証する。
  苦の原因となる欲望や怒りなどの煩悩は、不正確な対象認知に端を発するので、事実を正確に、あるがままに観て、その本質を洞察する修行の流れになる。
  事実をあるがままに観るのを妨げているのは、妄想や妄執である。その妄想を排除する必要不可欠な技法をサティと言う。
  サマーディが完成し、サティが成長し、智慧が閃き出るのに充分な仕込みがなされると悟りの瞬間に近づく。

  以上、ゴールに到達するのは至難の業ですが、原始仏教には明確な悟りへの道が連なっています。

Bさん:煩悩から離れるのは分かりますが、良いことでも手放さなければならないのでしょうか。

アドバイス:
  悟りを開くための修行も含めて、生きていくために必要なものを全て捨てることはできません。
  しかし私たちは、無ければ無くてもよいものを貯め込んで執着していないでしょうか。自分の人生にとって本当に必要不可欠なものは手放さなくて良いのですが、シンプルな生活を目指せば今持っている大半は、無ければ無くても何とかなるものばかりではないかということです。

  人は所有しているものに束縛される法則なのです。

  美しいものや価値あるもの、好ましいものを多く持てば持つほど幸福度が上がると、欲望を煽る足し算がこの世の幸福原理です。しかし仏教では、良いものへの執着が苦の発端であると見なします。良いことを掴む欲望も、嫌なことを忌み嫌う怒りもネガティブに執われているので、両者には執着という渇愛があり、苦の原因である渇愛は手放していく方向になります。

  例えば、瞑想中に集中が良くなり、心が静まって好い感じになると、ついその快さを味わいたくなります。しかしこの快い状態も対象化しないと、いつの間にか巻き込まれて欲望や貪りが生じます。欲望や貪りは不善心所なので当然、好い状態は崩れていき、今度は失望や寂しさや失ったものに対する怒りが出るという具合になってしまいます。
  気持ちが良ければ「心地よい」とサティを入れ、静かに落ちついた感じなら「落ちついている」「静けさ」などとサティを入れます。
  これはとても重要なことで、嫌な現象にはサティを入れて見送るが、好ましい現象にはサティを入れずに楽しんでしまうものと心得て、気づきを維持する覚悟が必要です。
  妄想も同じです。嫌な妄想はなるべくサティを入れて消そうとしますが、好い想い出やアイデアなどはサティを入れずにのめり込んでいきたくなるのです。
  実際の現場では至難の業ですが、あらゆる現象に対して等しい距離を保ち、対象化して認知することがヴィパッサナー瞑想の極意です。
  好いものを掴む。執着する。ここからあらゆる苦が始まります。嫌なものを掴む人はいません。好いものを獲得したい。手に入ったら握りしめて離したくない。これが怒りの母親です。
  執着しない人、掴まない人は、何を奪われても別にどうということもないでしょう。捨てようと思っていたものを誰かが持って行っても、どうということはありません。ところが大事なもの、大切なものを奪われたら怒りや悲しみが出てきます。このように、好いものを掴もうとすることで執着が始まります。そしてそれも対象化し認知していくのです。
  あらゆるものを対象化し、「捨」の心で常に気づいていなさいと言うと、それは「私にはできません」となってしまうでしょう。だから、瞑想する10分でも30分でも、その間だけは何が現れても対象化して見送っていく練習です。
  心の中だけでも無差別平等に観ることができれば、少しずつ現実に反映してくるでしょう。そうして心は成長していくのです。

Cさん:サマーディが近づいてきた時にはどうしたらよいでしょうか。

アドバイス:
  自然展開に任せて、徹頭徹尾サティを入れ続けるだけです。集中がよくなってくれば嬉しいし、期待や欲が必ず出てくるものです。そうした心の現象が明確であれば「喜んでいる」「期待している」「狙っている」など、自覚された通りにサティを入れ続けます。
  サマーディ感覚が高まってきたのは、サマーディの構成因子が自然に出そろってきたからです。意識的な努力もありますが、たまたま全ての条件が整ってきたので、そのような展開になってきたのです。それまでと同じ状態を淡々と続けていけば、さらに深まり完成に近づいていく可能性があります。
  しかるに、多くの方がワクワクしたり、欲を出したり、ことさらなことをして自滅していきますね。たとえ欲や執着が出ても、平然とサティを入れて見送ることができれば問題ないのです。ところが、上手くいっているほど、期待が強くなり、その執着には気づくことできず、大魚を釣り落としたと後悔の臍をかむ人が多いですね。
  サティに徹してください。サマーディ感覚が遠のいても、失望落胆しないで、遠のいていくその状態に淡々とサティを入れることができれば、復活してくる可能性もあるのです。サティに始まり、サティに終わると心得ましょう。


Dさん:瞑想を終える時に終了宣言みたいなものは必要ありませんか。

アドバイス:
  一点集中型のサマタ瞑想では、瞑想が深くなるほど日常意識とは異なる変性意識状態になるので、「瞑想は終了。日常意識に戻ります」と宣言して瞑想状態を解くことも必要でしょう。しかし、ヴィパッサナー瞑想では、その必要はありません。サティが持続する状態で、通常の生活に戻ることは望ましく、むしろ奨励されるべきことです。
  サティがなければ、我執にとらわれたり自己中心的になったり、さまざまな失敗をするのです。気づきがなく、ものごとを客観的に観られないのが敗因なのですから、常にマインドフルに、普段の生活でもサティが入るのは素晴らしいことです。
  サティの瞑想を終了して、生活にもどる瞬間にも、サティを失わない!気づきを維持する!と決心した方がよいくらいです。
  サティの瞑想に関しては、終了宣言はないと心得ましょう。ついでに言えば、慈悲の瞑想が終わった時も同じです。普段の生活でも、慈悲モードで生きることができるのは素晴らしいことです。

  ヴィパッサナー瞑想は、実生活に
瞑想が直結する稀有な瞑想なのです。
(文責:編集部)

 今月のダンマ写真 ~

       

 

菩提樹と在家の祈り(インド)

T.O.さん提供


    Web会だより  
『五戒を守る』 K.I.
  ヴィパッサナー瞑想を始めてようやく半年になろうとしています。まだサティの入れ方も迷う入り口なので、瞑想による変化はよく分かりません。
  ですが、確かに変わったと自覚がある点がいくつかあります。

朝カルのクラスに通っていて、毎回先生の詳しい話を聞いていますと、瞑想の上達以前にしっかりと整えねばならないことが分かってきました。「戒定慧」の順に修めて行かねばならない。まずは「戒」です。

「不殺生:殺さない」「不偸盗:盗まない」「不邪淫:人倫に悖らない」「不妄語:嘘をつかない」「不飲酒:酒を飲まない」

普通に生活していたら、人を殺さないし、盗まないし、不倫もしないし・・・と比較的簡単に考えていました。ちょっと抵抗があるのは不飲酒かな?などと気楽に考えていたのですが、いざやってみると難しいのです。

「不殺生」手に止まった蚊を殺さない。台所のゴキブリを殺さない。今までの人生でいったいいくつの命を奪ってきたのか!愕然とします。

「不偸盗」他人の家に行って泥棒を働いたことは無くても、ちょっと拾ったものをそのまま使ったことは無かったか?人のアイデアを自分の思いつきのように喋ったことは無かったか?

「不邪淫」実際の行動に移さなくても、心はどうだったのか?

「不妄語」その場を穏やかに傷つけないために、と事実ではない理由をつけたこと。相手が言ってほしい言葉を口先だけで言ったこと。たくさん嘘を言ってきたと思い至りました。

「不飲酒」そもそも悪いと思っていなかった。

破戒のカルマは必ず我が身に返ってくると知り、「今後は戒を守って生きる!」と決めました。

そうして決意してみますと、毎日が清々しいのです!五戒を守るためには決意と智恵が必要です。嘘をつかずに酒を辞退する。怒りが起こらぬようにして害虫から逃れる。等々。

ある夜、面白いことがありました。深夜、裸で風呂場のドアを開けたところ、大きなゴキブリがいました。窓を開けて追い出すわけにも行きません。今までなら躊躇なく殺虫剤だったと思うのですが、静かにドアを閉めて捕獲用のカップを取りに出ました。戻ってくるとゴキブリは消えていました。その時に思ったのは「私が不殺生戒を本気で守るかどうか、試すために現れたゴキブリだったのだな」ということでした。

毎日の生活の中で小さな小さなできごとが、五戒を守るかどうかの試金石になっているのです。私にとっては最初の一歩でしたが、大きな一歩でした。五戒を守り続けている意識は、毎日を明るくします。

どれほど本を読んでも、実際の行動を起こさなければ涅槃には近づけない。瞑想をいくら学んでも、実際に瞑想を続けなければ涅槃には近づけない。大事なのは毎日毎日の地道な努力だと思います。道は遠くて、今生だけでは無理かもしれません。わずか半年ですが、これが如何に無理な話か、分かってきました。でも、何回の輪廻の先でも、こうやって努力を続けるしかないのだと思います。

カルマの法則を知ることで、とても楽になったことも特筆すべきことです。

今までは悪いことが起きると、自分のどこが間違っていたのか、どうすれば良かったのか、何をしなければ良かったのか、自分を責めて責めていました。

でも今私に起きていることは、全て過去の自分が積んできたカルマが発動しているだけ。すべてそう思ってただ受け入れるしかない。私にできることは、今後悪業を積まないことだけ。この考え方は私にとって大きな救いでした。

視点も変わりました。「何がいけなかったのか?」という自分の中の犯人探しをするのではなく、因果関係を知ろうとして、これから何が必要かを考えるようになりました。

焦らず怠けず、真剣に取り組んでいこうと思っています。

 

 




☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

       
 






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ダンマの言葉

すべての物事には二つの面があります。あなたは両面を見なければなりません。そうすれば、幸福が生じたときに、夢中になることはありません。苦しみが生じても、途方に暮れることはありません。幸福が生じたときに、苦しみのことを忘れません。なぜなら、これらが相互に依存しているのを知っているからです。(『月刊サティ!』20051月号、「私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話」より(アチャン・チャー長老法話集)

       

 今日の一言:選

(1)ヴィパッサナー瞑想の本を読んだ方がメールをくれた。 

 自滅しがちな傾向があったのだが、瞑想をやるようになり、生活がポジティブに変わってきたと言う。

 こんなエピソードが報告されていた。

 「……とあるファミレスのウェイトレスさんを主語にして慈悲の瞑想をやったところ、次の日、下を向いて読書してるときに、10年間ほとんど口をきかなかったウェイトレスさんにいきなり挨拶されました。

 そのウェイトレスさんは、客が読書をしているときに話しかけるような人ではありません。

 ウェイトレスさんもなぜ挨拶したかわからなかったようで、キョトンとしてました……

 

(2)人生をどのように受け止め、どう観るのか。

 生きていく拠りどころにしてきた自分の価値観や信念、習慣的思考、癖になった反応ややり方がこれまでと同じなら、何も変わらないだろう。

 変わるのは怖いことだが、何かが壊れれば、何かが新しく生まれてくる……

 

(3)何事にも、やがて、別れの朝がやってくる……

 


       

   読んでみました
  東城百合子著『家庭でできる自然療法 -誰でもできる食事と手当法-
                               (あなたと健康社 2002)

よい瞑想をするために、みなさん体調には気を付けていらっしゃることでしょう。特に食事は、その内容、量、摂取する時間などでさまざまに意識の透明度に影響します。たとえ瞑想者でなくても、現代を生きる私たちにとって、何を、どのくらい、どのように食べればよいのかは、非常に大きな関心事です。多種多様の健康情報と次々に流行る食材。情報の海の中で何をどう選べばよいのか、はっきりと分かるためには時間が足りなさ過ぎるようです。

この著者は戦後の若い頃、重度の結核にかかり死の床にありました。化学療法と栄養をつけよとの医師の指示で肉や魚、卵など努めて摂った結果、容体は悪くなる一方でした。そんな時、食養法を学んだ兄の友人である医師に教えられ、玄米菜食の自然の食物と自然の手当法を施すことで、みるみるうちに回復しました。

何が起きたのでしょう。著者は言います。自然がもたらす生命力豊かな食物を、感謝の気持ちで頂いたこと。料理も手当ても自ら手を動かし工夫することで少しずつ元気になり、希望に繋がっていったこと。それが病から立ち直らせ、自然の偉大さへのとめどもない感謝の思いから、以来70年近くを病に悩める人々のために草の根の健康運動に捧げ、90歳を超えた今も自然の教えを伝え続けています。

私もこの瞑想に出会う以前、一年近く著者の料理教室に通い、教えられた自然食を実践しました。実感として分かったことは、今までは食べ物を〝物として見ていたんだな、ということでした。栄養素がどうのとか、あれがいい、これがいいなどと、自分の都合でしか見ていませんでした。この世がエネルギーの出し入れの世界だとしたら、当然私たちは自分の身体の血肉となる食べもののエネルギーを取り込んでいるのです。瞑想の境地を言葉を尽くして説明したところで実際に体験しないと分からないように、ここはやってみないと分からない部分です。ですから著者は、実践と工夫を強く訴えます。

しかしそうすると、食生活に〝こだわりが生じがちです。肉はだめ、野菜は無農薬じゃないと、子どもにそんな添加物まみれのお菓子なんてとんでもないわと言って差し出されたものを邪険に断る・・・。そのような自己中心的態度が神経を詰まらせ、病気や人間関係の崩壊などの不幸を招くと著者は言います。そんなときも手本にするのは自然です。自然は完全に〝調和のとれた世界です。その姿から、自分の身勝手さを省み、気づくことで取るべき道が見えてくるのだと。

それを聞いて私が思い浮かべたのは、セイタカアワダチソウという外来の多年草です。背丈が高く、秋に黄色い鮮やかな花をつけて勢いよく群生する姿を見かける方も多いと思います。この草は根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出しているそうです。ですから在来の植物を駆逐して、大繁殖するのです。

しかし数年経つと、その毒が自分たち自身を衰退させ、背丈は低くなり、そこに在来の植物が再び育ち出します。周囲に混じり合い存在し続けるセイタカアワダチソウの姿に、自然の調和を見出すことができるのです。

(ちなみにセイタカアワダチソウを乾燥させ入浴剤にすると、アトピーのかゆみに効果があります。長男は軽度でしたので、これでほとんど治りました。この本に詳しく載っています)

この瞑想を始めた当初、先生がありとあらゆる修行の末にこれが唯一最高の道と確信されたというお話を聞いて、おかげで私は回り道をしなくて済むんだという有難い気持ちでいました。しかし、仏教の実践の究極は、慈しみの精神を養うことだと知りました。エゴを乗り越えるためには誤った認知を変えて反応系を整え、優しい心を育てていかなければならない。そのために色々な観点が必要だと感じています。

寒い冬に地中に向かって伸びる根菜類に、夏の暑い日差しを受けて色づき、成長する野菜たち。アスファルトの片隅にあってさえその根をしっかりと大地に根差して伸びてゆくタンポポやヨモギなどの野草。その力を頂いて生きていくことができるありがたさを思って涙するという著者に、深い慈しみの心を学ぶことができると思うのです。(M.N.)

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