月刊サティ!

2017年10月号 Monthly sati!   October 2017


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク  ~広い視野からダンマを学ぶ~

        今月のテーマ:受け入れから「赦しの瞑想」へ (3)
 
ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~


        今月のテーマ:日常の場面で(1)
 
 ダンマ写真
 
Web会だより 『怒りと恐怖と調和と:

         ヴィパッサナー瞑想の「見えざる手」と繋がって ―2―
   ダンマの言葉
  今日の一言:選
 
読んでみました 『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』森達也著 
                 

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   巻頭ダンマトーク ~広い視野からダンマを学ぶ~

今月のテーマ:受け入れから「赦しの瞑想」へ(3)  


5.ネガティブな体験は宝物
  さらに私が強調したいことは、ネガティブな体験というものは必ず宝物になるということです。宝物どころか人生の必須アイテムと言うべきかもしれません。そもそもネガティブな体験がなければ、人は成長できないかもしれないのです。
  人が心底から反省し我が身を振り返るのは、連勝街道を順風満帆に突き進んでいる時でしょうか、それとも挫折し失意のどん底で打ちひしがれている時でしょうか。何もかもうまくいっているときには、上手くいったプロセスを再生しながら、勝利の方程式を確認しがちです。自分の問題点や欠点に目を向けたり、謙虚にそれを改めようと考えたりはしないでしょう。そういう人も時にいるかもしれませんが、レアケースです。そしてそういう人たちはほとんど例外なく、人生の節目で痛切な失敗体験を乗り超えてきているものです。
  なぜそんな失敗をしてしまい、痛恨のミスを犯してしまったのか。どのような経緯と由来でそれが起きたのか。その原因を徹底的に究明し、これから何をどうすれば良いのかを胆に銘じて再び立ち上がった経験があったはずです。「最悪のネガティブ体験を、人生最大の学びにしてきた」という共通項があることに気づくでしょう。
  どの世界でも超一流の人物は、挫折や失意のどん底を乗り超えてきています。自分の失敗体験だけではなく、生まれつきの障害や先天的なハンディキャップがあったので、逆に成功したという人たちも少なくありません。
  例えば、100メートル短距離走で世界最速の伝説を作ったウサイン・ボルトは先天的脊柱側湾症という障害を持っていました。脊髄がS字状に湾曲し、左右に大きく揺れながらしか走れないのです。上半身が揺れ過ぎると力が分散し、効率の悪い走りになり、その結果、左足のスライドが右よりも20cmも長くなってしまうのです。大腿の筋肉が負担に耐えかね何度も肉離れを起こし、そのハンデを筋肉の強化で補うしかなかったのです。しかしまさにそのお陰で、太股の筋力測定数値ではボルトの右に出る人はいないのです。ボルトはこう語ります。
  「曲がった背骨は僕に困難を与えた。だが、その背骨が僕を育て、速く走れるようにしてくれたのかもしれない。自分の肉体に感謝し、僕はこれからも受け容れていく。
  生きていれば思うようにいかないこともあるが、立ち止まってしまったら、チャンピオンでい続けることはできない。もがいて、そして前に進み続けていく」
  ボルトが日頃どれほど厳しいトレーニングをしているかを紹介したTV番組を観たことがあります。常人にはとうてい耐えられない過酷な筋トレに挑んでいました。なぜ、それほどまで凄まじい修練を積むことができるのでしょう。言うまでもなく、アスリートとして致命的欠陥を持っていたからです。ハンディキャップというマイナス要因がなかったら、ボルトのモチベーションが維持されることはなく、伝説の男になることもなかったでしょう。
  心に刻んでおくべきことは、ネガティブ体験もハンディキャップも、マイナス要因というものは全て宝物なのだということです。ネガティブ体験こそ智慧の眼差しで受け止めるべきです。それは価値ある情報の宝庫であり、最高の個性や特質になり得るものです。
  医学の進歩は、最悪の病気という現実を克服してきた歴史です。病というネガティブな現実が乗り越えられていった輝かしい成果だったとも考えられるでしょう。あらゆるものごとが改善されるのも、困り果て途方に暮れるような最悪な事態が引き金となって乗り超えられているものがほとんどです。何も問題がなければ享楽的になりがちだし、人が最大限のエネルギーを出力し努力するのは、ピンチに陥った時でしょう。
  ネガティブな出来事は決して好ましい事態ではありませんが、それがキッカケでもっと良くなっていく法則を見抜けば、宝物という意味が納得されるでしょう。
  それだけではありません。苦しいネガティブ体験が骨身に染みているが故に、やさしい人になれるとも言えるのです。苦しんでいる他者の痛みに心から共感してあげられるのは、かつて自分も同じ苦しみを体験してきたからこそです。人の苦しみに心から共感できるやさしさこそ、慈悲の瞑想の2番目、カルナー()の瞑想の真髄です。
  「ああ、可哀想やな、この人は今、あの苦しみの渦中にいるのだ・・」と一緒に泣いてあげられるのは、自分も同じ苦しみを味わってきたからです。どのように優しさの手を差し伸べてあげればよいのか熟知しているが故に、「悲(カルナー)」の瞑想が深くなるのです。
  こうして嫌悪すべきマイナス体験を宝物として見ることができ、認知を根底から変えることができれば、一切を受け容れていく赦しの瞑想が可能になるでしょう。全てのものごとを等価に観る、より高い視座が得られているからです。ポジティブなこともネガティブなことも、快い情報も不快な情報も等しいものと観て、両者ともただの現象にしかすぎないと、公平に達観する視座の確立です。どちらも大事だし、またどちらもどうでもいいという心境は、仏教の奥義とも言うべき「捨」の心に通じています。どのような出来事も経験もありのままに受け容れて心がいささかも乱れなくなったなら、仏教の到達点に限りなく近づいていると言えるでしょう。
  人間であるかぎり、ネガティブな経験がゼロだったという人は一人もいないし、もしいたとしたら、そんな薄っぺらな人とは付き合いたくないでしょう。どんなことであれ、起きてしまったことは、起きなかったことにはなりません。ものごとが破綻するのも、崩壊するのも、致命的ミスを犯してしまうのも、ネガティブな事象が起きてしまうだけの原因があり、それが帰結していった結果なのですからどうしようもありません。失うものは失うし、得られないものは得られないし、やってしまったことはやってしまったことです。それを否定すれば「対象を嫌う心」と定義される怒りや恨みに苦しむことになるし、否定する精神からは何も生まれてきません。
  では、どうしたら認知を一変させ、ネガティブなものを受容していくことができるのでしょう。今までと同じものの見方や受け止め方をしている限り、何も変わりません。エゴに固執し自分中心の視座を捨てないかぎり、人生はこれまで通りです。
  ネガティブなものを受け容れ、認識革命を起こすには、大人にならなければなりません。お子さまのエゴのままでは、歳を取るほど人生はさらに苦しくなっていくでしょう。欲しいものは手に入れたい、嫌なものは排除したい、敵対するものは潰したい・・。自分の好き嫌いで思い通りにしたいという自己中心的な小児的エゴイズムに固執している限り、ネガティブなものはいつまで経ってもネガティブなままです。認知を変えるということは、お子様を卒業して大人になるということです。与えられる側から与える側になることであり、他人のわがままを黙って受け容れることもできるようになるということです。
  昔、若い頃、向上心の強かった私は、もっと教養を身に付けたい、豊かになりたい、成長したい、価値あるものを限りなく得たい・・と自己実現に固執していました。するとある日、「お前は、与えるだけでよい!」と天から声が聞こえてきて、衝撃を受けました。とても空耳とは思えない、厳かな強い響きの声でした。この言葉の意味を繰り返し反芻しながら、そろそろお子様を卒業しろということか、と腹を括りました。
  思えば、あまりにも自分中心の考え方で生きていたのではないか、と我が身を振り返り始めた頃から、視座の転換ということが本格的に起き始めたように思われます。これが大人になるということか、と納得がいったのでした。もう自己チューの発想はこのへんで止めよう、と本心から決意しない限り、認知が変わることはないでしょう。物理的にも心理的にも、本気で思ったことしか具現化していかないのがこの世です。
  エゴの立場に固執する力をゆるめ、相手の立場から観てみようと視点を変えてみれば、すべてが異なった様相で観え始めるものです。認知が変われば世界が変わり始め、嫌だったものが嫌ではなくなり、否定せずにはいられなかったものをありのままに受け容れることができるかもしれない・・。なるほど、一切を赦し、すべてを受け容れるとはこういうことか・・。「大人」にならなければ、赦しの瞑想はできないと腑に落ちてきました。
  自我を確立していくことが大人になっていくことですが、真の大人になったら、諸悪の根源であるその自我=エゴを乗り超えて無我を目指すのが仏教であり、智慧ある人の進むべき道ではないでしょうか。
  この世にはどうにもならないことがあるのだと受け容れた上で、嫌なことが嫌でなくなるように認知を変えていくことが賢明な生き方です。そしてやがて気づいていくことでしょう。ネガティブなことが本当にあるのではなくて、ネガティブな認知があるだけなのだと。
  よく知られている譬えに、人間の目に映っている川の流れは、餓鬼の世界の住人には血の膿が流れているように見え、天界の住人には砂金が燦めくように光り輝いている流れに見える・・と言われます。死ねばいいのにと思うほど憎んでいた人と最終的な和解ができたとき、一転して無二の親友になれた、などという話は枚挙に暇がありません。同じ顔をした同じ人なのです。その人物を見る目が変わり、いったん認知が変われば、まったく異なる世界が開けてくるということです。
  世界は血の膿であり、燦めく砂金の流れであり、ただの流水なのです。そのように眺める認知が変われば、同じ現実が異なったものに映じてきてしまう。そんな認知にこだわって、人を憎み、愛執にとらわれ、激突したり争ったりしながら、歳を取って死んでいくのです。その虚しさに気づいて、視座の転換を自在に行なえるようになると、嫌なことが起きてもそれが乗り超えられたときには宝物になる、と説かれていることが検証されるのではないでしょうか。

6.要素に分けること
  さて、どうしたら視座を自在に転換し、認知を変えることができるのでしょう。その練習法、修行方法を考えてみましょう。
  さまざまな方法がありますが、どんな場合にも必ず、相手の立場に我が身を置いて、そこからこの問題や状態がどのように見えるだろうかと想像し、シミュレーションしてみる習慣をつけることが助けになるでしょう。うまく置き換えられなかったら、実際にロールプレイングをしてみるとハッとさせられるかもしれません。相手の立場に視座を置き換えてみることができないのが子供であり、大人になるということはこの視座の転換ができることです。自己チューの人が小児的な印象を与えてしまう所以です。
  このやり方を掘り下げるのは別の機会に譲り、ここでは原始仏教が非常に重視する分析論の発想について考えてみましょう。
  混沌としていてよく分からないものごとを要素に仕分け、分析し、その問題を構成しているファクターを精査し、事の真髄や問題の核心部を詳らかにしていく方法です。何がなんだか分からないということは、「分からない」→「分けられない」→「仕分けられない」のです。それがどのように成り立っていて、どんな経緯でそのような問題に展開していったか、真の原因を明らかにするためには、徹底的に分析し、構成因子を洗い出して、なぜそのようなことになっていったのか究明するやり方です。
  いろいろなものをゴッチャにして混ぜてしまうことが「法としての事実」からかけ離れていく原因です。例えば、大事な人を失ったとします。病気で亡くなったとしたら、何の病気だったか、亡くなったときの年齢、闘病期間、経済状況など、さまざまな条件によって残された者の気持ちは異なっていきます。治る見込みのない病気だったのか、若すぎる死だったのか、天寿をまっとうした年齢だったのか、突然死されたのか、長年に渡って介護を続けてきたのか・・。そうした要因がごった煮状態になって、故人に対する思惑が複雑なものになっていきます。
  一人の人が死去したという事実に、さまざまな出来事や愛憎の記憶が上乗せされ、ごちゃ混ぜになって印象が作られ、事実の意味がさまざまに変わってしまう。人は事実を見ない、自分の見たいものだけを視ている・・と言われる所以です。
  人生の苦しみや愛執や憎しみや怨恨は、こうして人の心が形成していくものです。心が化作したパパンチャ(心に拡がっていく概念の世界)で、人は苦しんでいます。それ故に、心がさまざまなものを自分好みに編集した概念世界と、法としての事実を仕分けることが、苦しみを乗り超える技法になるということです。
  もし亡くなった方が病死ではなく、何らかの事件による死だったらどうでしょう。普通は喪失という事実に加害者への怒りが足し算され、とうてい加害者を赦せなくなるのではないでしょうか。さらにその加害者が今まで信じていた人だったりすれば、裏切られた無念さが怒りに上乗せされていくでしょう。
  では、人の手にかかったのではなく、自然災害による事故死だったらどうでしょうか。不可抗力の災害死も加害者の手による死も、大切な人を喪った喪失の事実は同じです。しかし、純然たる自然によって惹き起こされた出来事に対しては怒りや仕返しの持っていきようがありません。大自然に怒りを向けることはできないと誰もが心得ているので、悲しいことですが、喪失という事実だけに向き合うしかありません。怒りようがないので、悲しみだけになるのです。恨みも復讐心も起こしようがありません。
  このように、失ったものは同じなのに、エゴの思惑で編集された妄想がミックスされると、受ける悲しみの質も深さも衝撃の度合いも千差万別に異なってしまいます。かけがえのない人を喪った悲しみに向き合い、受け容れ、乗り超える仕事に専心すべきなのに、上乗せされた付帯条件に対する怒りや闘争に矛先を向けて、歳月が過ぎ去っていく人たちも少なくありません。大切な人を喪った悲しみと、加害者に報復を企てる怒りは、別々の2つのことです。さらに裏切られた無念さなどが足し算されれば、ネガティブな感情が複雑にコジれて肝心な喪失の悲しみを乗り超える仕事が難しくなっていくでしょう。
  なぜヴィパッサナー瞑想が、感覚の実感ではっきり確かめられる事実と、頭の中でまとめ上げられた概念世界とを厳密に仕分けることを重視するのか、その理由の一端がここにあります。純粋に我が身に起きた事実に向き合い、ネガティブな体験を受け容れ、乗り超えていくのに瞑想が必要不可欠な所以です。

7.最後に ―サティの重要性―
  これまで述べてきましたように、自分の考えや信念、人生観、世界観に執着している間は、ネガティブな経験を受容することはできません。なぜなら、起きてしまった事実を否定し拒絶する根拠になっているのは自分の信念や価値観であり、それを手放さない限り、嫌なものは永遠に嫌なまま変わりようがないからです。
  捨てるべきものは、目の前の現実ではなくて、自分の心の中の考え方や価値観や信念なのです。しょせんエゴの猿知恵で作り上げた認知ワールドです。そんなものにこだわって握り締めていれば、ただ苦しい人生がいつまでも続くだけです。その空しさを心得て手放し、こちらの認識を変更しない限り、黒いものは永遠に黒いままだし、白くなければ嫌だと固執すればいつまでもイライラするだけです。
  エゴの立場を離れて、相手の立場に立って観る。ネガティブなことを受け容れる瞬間は嫌な感じがしても、それがやがて宝物になると心得ているのだから、結局「どちらでもいいではないか」と発想が変えられないでしょうか。
  もし出来たなら、その達観は「捨」の心に限りなく近づいているかもしれません。こうした視座の転換こそがエゴを捨て去る修行であり、ヴィパッサナー瞑想の本質であると申し上げてきました。
  とはいえ、こうした話は聞いている時にはスラスラと頭に入るだろうし、おそらく納得されるのですが、いざ自分自身のことになるととたんにわからなくなり、眼が曇ってしまうのが悲しいところです。頭で理解している100分の1もできないのが私たちです。しかし、もし頭で理解することもなければ、情報すら知らないとなると、もっと絶望的でしょう。たとえ実践できなくても、理念としてダンマを学び、聞法していないと次の展開につながりません。ヴィパッサナー瞑想の進むべき方向性や、心の清浄道として何をなすべきかの基本的理解がなければ、必死でサティの瞑想だけをしても、心は変わらないし、苦しみから解脱する可能性も見えてこないでしょう。サティの瞑想とダンマの学びは並行して習得されるべきものです。
  感情的反応を一時停止できるだけでも、サティの瞑想がどれだけ自己制御能力を高めるか量りしれません。しかし心の反応パターンを根底から書き換えていくには、サティの気づく力と洞察の智慧が必要不可欠です。この世の仕組みや存在の本質を目の当たりにする衝撃が、妄想だらけで苦しんできた愚かな人生の流れを変える原動力になっていくのです。あるがままの真実が視えてくるので、認知が根底から変わり、ネガティブなものがネガティブではなくなっていくのだ、と言うこともできます。
  サティの精度を高め、学ぶべきを学んで認識の世界が熟してくると、一瞬一瞬のサティに洞察の智慧が伴ってくるということです。智慧の修行は、サティの瞑想やサマーディの確立よりも難易度が高く、総力戦になると心得なければなりません。総合的システムとしてのヴィパッサナー瞑想全体を修行していくことになるでしょう。具体的には、例えば、ネガティブな過去に終止符を打つための懺悔の瞑想や、自分自身を赦し、一切を赦して受け容れていくための赦しの瞑想が欠かせないのです。このようにして心を成長させていくのが清浄道の瞑想です。
  心を浄らかにして、苦しみを完全に乗り超えていく瞑想は、一生ものと心得ましょう。究極のゴールに到達するのは無理でも、欲望や怒りや嫉妬や高慢などの煩悩が少なくなっていけば、それに比例して苦しみから解放されていくのは確かなことです。万人に検証されてきたからこそ、2500年の長きに渡って現代にまで継承されてきたその道を、私たちも一歩づつ歩み抜いていきましょう。()

<関連質問>
Aさん:起きたことを受け入れることと赦しの瞑想とはどう関係するのですか。

回答:
  同じと考えて結構です。赦しの瞑想というのは、自分を赦し、他人を赦し、天地一切のものを赦し、受け容れていく瞑想ということになります。
  「起きたことは全て、正しい」といつも私が言っているのは、赦しの瞑想の別名でもあり、真の受容ということでもあります。この世は因果法則に貫かれているので、我が身に起きる好いことにも悪いことにもすべて、それ相応の原因があってのことです。つまり無限の過去から自分が組み込んできた原因エネルギーが、たまたま縁に触れて現象化しただけのことで、善きも悪しきも起きたことは全て、自分にふさわしいことばかりなのだから受けきっていくしかない。善い現象は幸せなのだからそれで良いし、悪い現象もそれで不善業が消えていくのだからこれまたそれで良しとするのです。起きてしまったことは起きなかったことにはできないのだから、すべて受け容れていけばよいと考えます。
  これは「捨」の心の実践とも言えるでしょう。全ての現象を完全肯定して受け容れることができるのは、因果法則を心得ているからであり、一切のことを等価に観ているからです。

Bさん:赦しの瞑想と懺悔の瞑想の違いを教えてください。

回答:
  赦しの瞑想の中に懺悔の瞑想が含まれています。
  赦しの瞑想は、上述したように、一切のものを赦していく大きなコンセプトです。懺悔の瞑想は、ネガティブな過去の所業から解放されるために、自分の過ちをお詫びして謝ることが基本です。過去から解放される瞑想とも言えるでしょう。自分の犯した非を認め懺悔しないと、自分を責める心とそれを打ち消す心が葛藤を起こし、心の中でえんえんと言い訳を続けることにもなります。
  忸怩たる思いがくすぶっていたのでは、とても瞑想に専念することなどできません。罪悪感に悩まされるということは、自分を否定する心があり、自分への怒りを抱えているとも言えるでしょう。自責の念にかられ、また別の瞬間には抑圧し、自分は何も悪いことはしていないとシラを切ったり、怯えたり、いつまでも過去に縛られて、なんとも晴れやらぬ心の内です。
  そうした自己嫌悪や自己呵責や自責の念から解放されるためには、思いきって自分の非を認め謝ることです。自分はとんでもないことをしてしまった、愚かなことをしてしまったと、天に向かって、あるいは三宝に向かって心から謝り、二度と同じ過ちをくりかえさないと誓うのです。
  ポイントは、自分という人間が悪い根性の腐った愚か者だったと考えないことです。そうではなく、仏教を知らず、ダンマを知らず、因果法則も業論も知らなかった無知ゆえに犯してしまった愚行であった。悪いのは自分という人間ではなく、ダンマ(理法)を知らない無知の状態が悪かったのだとするのです。
  しかるに今は、ブッダの教えを知り、多少なりともダンマを心得、因果の法則も学んだのだから、もうこれからは殺さないし、盗まないし、不倫をしないし、嘘をつかないし、酩酊しないと、五戒をしっかり守って、仏弟子として正しく、きれいに生きていきますので赦してください・・と謝って、謝って、謝って、心からお詫び申し上げていくのです。
  無知ゆえに愚かな所業をしてしまったが、これからは、正しくきれいに生きて償っていく、と未来に目を向けさせるのがポイントです。因果応報なのだから、過去の自分がやった通りのネガティブなことが必ず起きるだろうが、それは潔く引き受けていくと覚悟を定めることです。ネガティブな出来事は宝物になると心得てもいるので、何も怖れるものはないし、苦楽を等価に観じきって、一切のものをありのままに受け入れていこう。無知で愚かだった自分もありのままに認め、赦し、受け容れて、心ひろびろと爽やかに生きていこう・・。このように自分を赦し、解放されていくのが懺悔の瞑想です。
  ネガティブな自分を赦し受け容れることができるからこそ、どんなネガティブな人も赦し、受け容れることができるようになるだろうということです。
  過ちを認め心からお詫びして、そんなどうしよもない自分でも赦し、受け容れていくのが懺悔の瞑想。自分も、他人も、善いものも悪いものも、一切を赦し、受け容れていくのが赦しの瞑想ということです。
(終)

 


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:日常の場面で(1)   
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:日常生活の中では、歩行瞑想や坐禅瞑想と違ってサティがかなりいい加減になってしまいますが、それでも瞑想した方がいいのでしょうか。

アドバイス:サティが粗くなっても、できるかぎりサティを入れるようにした方がよいのです。
  そもそも日常のサティは、今自分は何をしているかの「自覚のサティ」が維持されていればマルと考えます。
  日常の細部にまで細かなサティは入らないのが当たり前と考えてください。

  日常生活は、大事な目的のある仕事や対人関係が多いのですから基本的にサティを入れる余裕は生じないものです。それでも我を忘れて夢中になり過ぎると自己チューになって大失態を演じることになりかねませんので、常に自分を客観視する視座を維持できるように努めるのが「自覚のサティ」です。

  「今、何してるの?」と絶えず自分に問いかける脳回路を作ってください。

  自己客観視の視座が時おりでも保たれている限り、大失敗にまでは至らないはずです。気づきがあればブレーキがかかるからです。何事も集中した方が仕事効率が上がるのですが、断続的に一瞬「今、自分は何してるの?」と自問することができれば、日常生活のサティは良くできていると考えてよいでしょう。

  こう考えてもかまいません。

  ブッダのヴィパッサナー瞑想は「苦をなくすためのシステム」なのだから、苦しみの原因になる不善心所が出現した時だけ気づければよい。善心所モードの時にサティが入っていなくても、取りあえず不善業を作ることはない。だから、不善心所モードになった時だけは必ず気づくぞ!と決意して、煩悩の振る舞いを阻止するのです。

  例えば「高慢になり始めた時だけは必ず気づく!」「怒りにだけは必ずサティを入れる!」という具合にです。これを決意の力と言いますが、人の心というものは、絞り込んだ単一のターゲットは必ずやり遂げようとするものです。決意がしっかりしていると、案外できるものだと気づくでしょう。

  誰もが、日常のサティを入れようと思いながら、結果的には全然入らないでガッカリしています。そこで、どうしたら入りづらい日常サティを維持できるかという問題です。その最良の方策の一つが、決意の力なのです。あれもこれもと二兎を追う者は一兎も得ずになりますから、一発必中、一つの目標だけに絞り込むとサティが入るものです。試してみてください。

  うまくいったら、五戒は必ず守ると決意し、さらに貪瞋痴の不善心をなくしていく、と決意します。決意が徹底してくると、心の中で情報処理をする時にその意識がいちばん上位で働きますから、貪瞋痴や不善心が出たことを敏感に気づくようになります。



Bさん:例えば、家事をしている時など、手の動きに気づくとか、まずはそういうレベルから入ってもよいのでしょうか。

アドバイス:
  もちろんそれで結構です。家事のようなルーティンワークには適したやり方です。営業をしながらとか、接待をしながら自覚のサティを入れようと思ってもまずできません。ですが家事の場合は、仕事自体は体が覚えていますから心に余裕がある状態と言えます。そういうシチュエーションでの気づきはわりと行ないやすいのです。

  日常の家事をしている場面で、もし自覚のサティをしていないとしたら何をしているかというと、くだらない妄想を反芻しているだけでしょう。そうした妄想が素晴らしい価値ある思考になることは極めて少なく、たいていはその日あった嫌なことを断片的に思い出していたり、これからどうしようかという漠然とした心配や不安なものが多いのです。心が弾むような妄想でも、しょせん欲望系や快楽系のつまらぬ妄想が大半ではないでしょうか。

  何もしなければ、ただ心が薄っすら汚れる妄想に流れてしまうのですから、今の動作にサティを入れることは素晴らしい価値あることなのです。顕微鏡モードでの瞑想を必ず1日に10分間以上やり、それ以外の時間にもなるべく自覚的にマインドフルネスの状態を維持しようと努めることができたら、人生は必ず良い方向に展開していくでしょう。心を浄らかにしていく清浄道を着実に歩んでいます。



Cさん:再就職しましたが給与も各段に下がり掃除当番もあります。ですが、傲慢な自分の修行にもなり、幸せを感じている自分に以前との違いを実感しています。

アドバイス:
  それは素晴らしいですね。いま自分に与えられている全てに幸せを感じることができるのは、瞑想者の本来あるべき姿です。どのような現実も最高のものとして感謝できることが、ヴィパッサナー瞑想の向かう方向と言ってよいでしょう。

  掃除というのは乱れたものをきれいにする営みであり、まさに心の清浄道に対応しています。放置すればたちまち劣化して汚れていくし下落していく世界で、浄らかな状態を維持しようとする掃除の意味は、生きるとは何か・・という根本的な問いを投げかけてくるものです。心の掃除をやり続けなければ、欲望で汚れ、怒りでドス黒くなり、高慢で悪臭を放ち始めてしまうのです。日常的な環境の掃除は、そうした心の清浄道に直結しています。

  また傲慢を乗り超える修行には、日々の生活の中で下座行と呼ばれる修行が有効です。公園のトイレ掃除や下足番のような低く見られている事です。女性歯科医の宝田恭子さんという方は、週1回喫茶店でウエイトレスをしていると聞きました。いつも先生と呼ばれていることに慣れてしまうと心が汚れてしまうので、敢えて下座行をなさっている好例だと思います。



Dさん:瞑想を始めて一年、「清浄道に役立つ仕事を与えて下さい」と三宝に祈り、先日念願の再就職を果たしました。

アドバイス:
  好かったですね。この世は業の世界ですから、強く願えば強い意志(チェータナー)が働き、業が形成され、やがて具現化していくものです。切に願うことは必ず遂ぐるなり、ですね。それ故に、エゴの欲望の願いにならないかを常に気をつけて、間違ったことを願っていたら叶わないようにしてください、と付け加えるとよいでしょう。

  エゴは必ず自分に好都合な発想や解釈をするものです。そのエゴの身勝手さを阻止する仕掛けや装置を設けておくことが大事です。


Eさん:実母の介護や義父の入院で心身共に疲弊しています。瞑想に集中しようと思うのですがなかなかできません。

アドバイス:
  それは大変ですね。私も両親の介護をした経験がありますので、とてもよく分かります。介護はとてもハードで大変疲れますし、疲れてくればどうしても嫌悪などの不善心が出やすいのです。不善心所で介護をしていると、相手にもそれが伝わり悪循環に陥ってしまいます。不善心に陥らないようにするには、介護をする時のその動作に「見た」「手を触れた」「持ち上げた」というように、細かくサティを入れながらやると良いでしょう。

  意外なようですが、肉体的に疲れるよりも、サティを入れないから疲弊するのです。つまり、サティを入れないということは、水道水の出っぱなしのように「疲れた」「嫌だ」「苦しい」と不善心所のオンパレードになりがちなのです。そして人を疲れさせる元凶は、この不善心なのです。楽しい旅行に行ったときは、身体的にどれほど疲れても「楽しい」としか感じなかったりするのではないでしょうか。

  不善心所が人を疲れさせる。それ故に、サティを入れて不善心所モードに陥らないことが、苛酷な現場では必須アイテムになります。

  もう一つ、必ず休息や休暇を取り入れてください。どれほどサティを入れても、休息の時間がなくなればボロボロになって、不善心所が立ち上がるのを阻止できなくなります。クオリティの良い介護のために、上手な休息の取り方は不可欠だと心得てください。



Fさん:84歳の母が物を捨てられずゴミ屋敷状態になっています。今後、母を介護するにあたり、捨てられるように母の気持ちを変えるにはどうすればよいでしょうか。

アドバイス:
  片付けがまったくできない脳の人も存在するようですが、若い頃は整頓していたのに最近になってゴミ屋敷になったのであれば、その原因があるはずです。将来不安や家族との信頼や愛情関係に問題があれば、物にこだわって捨てられないという事態が起きるようです。
  あなたは孤独ではない。家族に守られている。安心してよいのだと実感していただくことが第一でしょうね。

  認知症が始まるとゴミの処分が一人ではできなくなるとも言われています。その場合は、誰か人の手を借りる必要があるでしょう。一度に処分するのではなく、今日はこれとこれを捨てようね、と段階的にやっていくのがいいようです。



Gさん:息子の友達の親が交通事故、半月板損傷、その子が怪我をして何日もの病院通い等々、親子して怪我が多いのです。運を良くするためには、運の悪い人とは付き合わない方が良いと言われるので相手と距離を置こうかと思案していた矢先、息子が相手の女の子に大怪我をさせてしまいました。

アドバイス:
  不善業が現象化してくる流れにハマると、ネガティブな事象が次々と芋づる式に現れてくることがあります。だから距離を置こうとしたことには、それなりの意味があります。幸せな人と一緒にいれば幸せが伝染するのは根拠がある。確かに幸福になる率が高いという研究もあるようです。

  人は必ず人の影響を強く受けるものです。だから、自分と同じかそれ以上の者と共に歩めないなら、独り犀の角のように歩め、とブッダも説く訳です。

  心のきれいな人、幸せな人、運の良い人と一緒にいた方が、そうでない人と共にいることよりもよいでしょう。しかしこの考え方がエスカレートすると、差別や利己的な傾向が強まる危険性もあります。自分さえ良ければいいという無慈悲な人たちもいますから。

  息子さんの場合、セオリー通り距離を置こうとしたのは正解だと思われますが、相手の方に大怪我を負わせてしまったとなると、やはりそれだけの因縁のある相手だったと考えるべきでしょう。このまま遁走すれば、良心の呵責に苛まれるかもしれないし、人の道から外れるのではないでしょうか。相手の方も大変な情況にいるのですから、たとえ火中の栗を拾うことになっても、できるだけのことをして差し上げた方が良いように思われます。人間万事塞翁が馬ですから、陰が極まれば陽になるのも法則です。ネガティブな事象から学ぶことも多く、人はネガティブ体験を通して成長するのも真理です。

  予備知識のない方にカルマ論を説くのは危険ですが、怪我が多いのは、過去世や今生での殺生戒系カルマのあらわれとも解釈できます。業論的には、殺生があったなら反対をやれば良いのですから、ライフダーナ(生命を救う目的の善行)をすることによって相殺される可能性があることをそれとなく婉曲に伝えるのは良いかもしれません。



Hさん:家庭や職場で苦しんでいる人を見るとカルマ論について説明したくなります。ただ、そうなるのは、自分はヴィパッサナー瞑想をやっていて人とは違うという高慢もあるような気がします。

アドバイス:
  人に法を説くのはとても難しく、相手に聞く耳がないときはどれほど立派に真理を語ってもうまくいかないのが通例です。

  また、どんなにわずかでも、上から目線の説教調になれば反発されます。言葉で伝えるのが上手くいくのは、相手が道を求めている絶妙なタイミングの時に限定されるようです。

  成功率が最も高いのは、何も言わず、黙々と修行し清浄道を歩んでいる姿を見せることです。ダンマを実践している人の姿が本物であれば、それだけで人を動かす力が生じてくるし、相手も、何をしているのか自分にも教えてほしい・・と求めてくるようになります。

  その時が、落としどころですね。

(文責:編集部)
 今月のダンマ写真 ~








 

                        祈り

 
 
 










     無想


T.O.さん提供


    Web会だより  
     怒りと恐怖と調和と:
    ヴィパッサナー瞑想の「見えざる手」と繋がって -2-
 Abe-chan

(承前)
  一つ例を出させてください。6月のある日、直島という島にある地中美術館に見学に行きました。すると、美術館の敷地内には盲導犬は入ることができないと言われたのです。(後に書きますが私は目が見えず、盲導犬を同伴しています)。遠方からはるばる行ったのに見学できないのは後悔するので、仕方なく、美術館から1キロ弱離れた駐車場近くの屋内に盲導犬を係留して見学しました。犬がかわいそうでした。犬への不安と、それに勝るベネッセホールディングスに対する強い怒りで胸が張り裂けそうで、胃袋がひっくり返りそうでした。
  帰宅してからも怒りは収まりませんでした。一人になると、そのときの怒りが再度わき上がってきました。すぐに「地中美術館が許せないという怒り」とか、「不本意に扱われた事への怒り」など、いろいろとサティを入れてみました。でも、なかなか収まりませんでした。カルマの話を講座でお聞きして、なるほどと思う一方で、理不尽なという気持ちも起きます。それでも今はずいぶん、その怒りをまるで空の上から眺めるように客観化できるようになっています。きっと、怒りもエネルギーですから、そのエネルギーに負けずに根気強くサティを入れることをした結果、破壊的な事態に至らなかったのだと思います。怒りの感情とのつきあい方は私の瞑想鍛錬にとって大きな課題です。

3不安、恐怖
  Sさんとの仕事のトラブルは怒り以外に、不安や恐怖の感情も起こしてくれました。「協同で行う仕事を突然キャンセルしたら周囲の人々、特に雇用主からの評価が下がるのではないか」、「どうやったら自分の仕事をいっしょにやってくれる人を探せるのだろうか」という恐怖と不安が心の中にわき上がってくるのでした。「他人からの評価への不安」、「(アシスタントを)見つけられないという不安」というように、思い浮かんだら間髪入れずにサティを入れるようにしてみました。だから意外に心は平安でした。
  実は、ずっと私に貼りついてきた不安と恐怖があります。ふと、自分一人になり、ぼうっとしているとき、まどろんでいるとき、あるいは夢かうつつかわからないような状況でそれは突然に浮かんできます。真っ白な壁、真っ白なベッドシーツ、四畳半くらいの細長い部屋、奥には窓がある。小さい子どもは一人で白いベッドの上にいる。よく見ると、うずくまっている私。冷たい空気、曇り空の窓、音もなく、とても寂しい。この情景とともに、強い不安、恐怖が首をもたげて心を覆う。直感的に私の幼少の頃の光景だと感じる。おそらく、病院のベッドの上でしょう。この情景が過去の事実の出来事なのか、それとも空想(妄想)なのかはわかりません。母が情景に含まれていないことから、おそらく空想だと思います。風景とともに立ち現れる感情、不安や恐怖が重要なのでしょう。
  私は生まれながらにして眼の欠陥を持っていましたので、視力が弱く眼の状態もしばしば悪化していました。そのため、生後90日目にして初めて大学病院で眼の手術を受けて以来、3歳になるまで数十回の手術を受けていたそうです。まぁ、そこまでしても結果的には現在、別の眼の病気で全盲になってしまいましたので、視力温存のための手術は徒労に終わったわけですが。
  それらの手術はもちろん覚えていません。しかし、推測ですが、私の無意識の中にしっかりと刻印されているのでしょう。それらの手術と病院での入院生活は乳幼児期の私にとっては強烈なストレスとなっていたに違いありません。理解不能な眼の痛み、麻酔の臭い、命がなくなるのではないかという危機的不安、そして、母親から引き離されるのではないかという分離不安を潜在意識の中に抱くようになったのだと思います。この光景と不安、恐怖は理由もわからずずっと断続的に私を苦しめてきました。 (続く)





☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。
         

                読者の方より

 





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 『月刊サティ!』
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ダンマの言葉

誰もが瞑想中に集中の高まった状態に到達したいと思いますが、そうした集中が得られるかどうかは、実のところ、心の中にある慈しみによって決まります。たしかに、実践の量も集中力を左右します。しかし、実践が不足している場合にも、慈悲の心がその代わりになり、集中力を生み出すことがあるのです。(『月刊サティ!』20049月号、「四人の友」アヤ・ケーマ尼より)

       

 今日の一言:選

(1)頭の中にあるものは、やがて現象世界に具現化してくる。
 心が混乱していれば立ち居振る舞いが乱れ、心が整えば威儀もまた端然と正されていく。

 心が変われば行動が変わり、行動が変われば人生が変わる。

(2)集中できない時もある。
 集中が悪いと感じた瞬間にサティを入れる。
 中心対象の感覚が判然としないのか、妄想が多発するのか、妄想に巻き込まれてサティの入らない時間が長いのか。
 取りとめもない妄想なのか、同じ妄想の蒸し返しなのか。
 イライラや失望感にまで発展していたのか。
 瞑想そのものにヤル気が起きないのか……
 ネガティブな状態を、丁寧に、落ち着いて観察すると、無限の学びがある……

(3)「ミャーオ~」と聞こえたのと猫のイメージが浮かぶのが、通常はほとんど同時の印象だろう。
 「情報」「概念化」……の速度は、極めて速い。
 「ブカピカボーン」と聞こえたが、何のイメージも浮かばない。
 音が聞こえた刹那に鋭いサティが入ったので、「概念化」が止められたのだろうか。
 ボーッとしていても、脳内に判断材料がなければ、何のイメージも浮かばないだろう。

 ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。


       

   読んでみました
 『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』森達也著(筑摩書房 2015年)
  映画監督であり作家でもある著者は、小学校に入るころ、死という概念を初めて知って自分でも制御できないほどの恐怖に襲われたという。ポール・ゴーギャンの代表作、「我々はどこからきたのか、我々は何ものなのか、我々はどこへゆくのか」にあたることを悶々と考える子供であった。
  本書は、純度の高い文系と自認する著者が、第一線の理系の知性10人との対話を基にしてまとめたものである。その内容は幅広く、もちろんすべを紹介することは出来ないし、また専門的なところでは理解の及ばない面もあるが、ここでは、なるほどと思われる知見や仏教の教えに通じるのではないかと思われるところに限って紹介したいと思う。
  まず、「目ができる」というような進化はどのように起こったかについて。たしかに生物の時間にさまざまな「目」の形態があることを教わった。しかし、それがどのように生まれたかについては学んだ記憶が無い。そのことについて、光や形を認識するためには、レンズ、網膜、神経、脳の仕組みなど複数のサブシステムのそれぞれが相互につながらなければ視覚という形質は発生しないわけで、「すこしずつゆっくりと、だけでは説明できない」と福岡伸一氏(『動的平衡』の著者゙)は言う。
  また、「相対論や量子論や分子生物学が実証される過程で、この世界は人類にとってあまりに都合良くできすぎていることが、徐々に明らかになってきた」らしい。太陽と地球との距離、凍ると体積が大きくなる例外的な物質としての水の存在(もしそうでなければ氷は海や湖で沈んだまま融けることばなく、やがて地球上の水はすべて氷になったにちがいない)、「他にもプランク定数や光速度、電子と陽子の質量比やビッグバン初期の膨張速度など、多くの物理定数のうち一つだけでも現状と違うのなら、この世界や人類は誕生しなかったことがわかってきた。宇宙が生まれ、太陽系が形成され、地球が誕生し、生命が発生して現世人類へと進化するというこの状況が現出する確率は、10のマイナス1230乗であるとの試算もある」(福岡氏)。自ずと「盲亀の浮木」が連想された。
  また、なぜ人は互恵的な利他行動をするのかという点については、体重の2%にすぎない脳が20%のカロリーを消費していることから、「つまり神経系はとてもコストがかかる。燃費が悪い器官です。だから食生活に余裕がある動物じゃなければ、神経系は進化しない。つまりよほど条件が良くなければ、脳は進化できないんです。ならば人間はどうして、脳を進化させるだけの資源の余裕が生まれたのか。やっぱり共同繁殖社会だからだろうと考えているわけです」と長谷川寿一氏。
  さらにラジカルな主張をするのは団まりな氏だ。彼女は科学者の多くが嫌う擬人化を厭わない。そこで、細胞の「機能」とは言わず「意思」と呼んでいる。「擬人化を排除したら生物はわからない」と、細胞は生きるために「意思」をもつのだと主張している。
  きわめつけは、生命の源に関して、「原初の細胞がその時期、複数できていた可能性はあったかもしれません。だけど今も生き残っているのは一つだけなのです。他のものはうまくいかなかった。つまり子孫を残せなかった。どうしてそんなことがわかるかというと、今生きているすべての生物で、遺伝子のコドン(遺伝暗号の最小単位)は共通しているからです」(A:アデニン、T:チミン、G:グアニン、C:シトシンのこと)。
  「そしてこれはすべての生物が同じ。・・・すごいですよねえ。植物でも何でもみんな一緒なんだから。つまり生命はすべて、一個の原初の細胞から分岐して、一度も新しく付け加えられることもなく、私たちまで運ばれてきたといえるんです」(団まりな氏)。
  さらには、地球の生きもののDNAはすべて右巻きの螺旋で例外はないと言われていることから、長沼毅氏は、「全生物に共通のご先祖様という存在を想定すると、生きものは全部つながっているんです。進化論で本当に大事なことはそこなんです」と語っている。
  これを突き詰めていけば、他の生命を傷つけ殺すことは、自分を傷つけ殺すことと同じだということにはならないだろうか。殺生戒の説得力を限りなく強くするように感じた。
  また藤井直敬氏は、「もしも『我々は何者か』という命題を幼稚園児から聞かれたとしたら何と答えますか?」との質問に、「世界の一部ですね。個というものはない。本来は、たぶん境界がないはずなんです。もしかしたら人以外の生きもの、もしくは高次霊長類以外は、境界という意味であまり個というものをもっていないのかもしれません。それを切り離してしまったことで、僕たちの不幸は始まったのではないか・・・」。
  ここではこれらの結論に至る筋道を紹介するまでにはいかなかったが、本書にはそれらが森氏の見解、解説とともに語られている。そのような意味から、一読の価値は十分にあると思う。
  当然のことかも知れないが、表題の『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』については結論は出ていない。著者はインタビューの2年半、もがき続け、足掻き続けた期間だったと言う。でも多くの最先端の科学者たちの話を聞きながら、「足先が何かに触れたような感触は何度か持った。触れた何かが何なのかもわからない。・・・ほんの微かな感触ではあるけれど」と結ぶ。
  人が生きていくことと理解の研究とのあり方を考えさせてくれる一冊であった。(雅)
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