月刊サティ!

2017年9月号 Monthly sati!   September 2017


 今月の内容

 
 

巻頭ダンマトーク  ~広い視野からダンマを学ぶ~

          今月のテーマ:受け入れから「赦しの瞑想」へ (2)

  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

         
今月のテーマ:修行上の質問 実践編(3) ―姿勢―

         
   ダンマ写真
  Web会だより 『怒りと恐怖と調和と:
         
ヴィパッサナー瞑想の「見えざる手」と繋がって ―1―
   ダンマの言葉
  今日の一言:選
  読んでみました 『楽しい縮小社会』森まゆみ、松久寛著                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   巻頭ダンマトーク ~広い視野からダンマを学ぶ~

今月のテーマ:受け入れから赦しの瞑想へ (2)  

 ③ ジェーン・フォンダの場合 -2- 自伝
  彼女が60歳を過ぎて書いた自伝を読むと、おそらく彼女は「赦しの瞑想」をやり遂げることができたのではないかという感じがします。マリリン・モンローとは異なり、彼女は自分の過去を受け入れるという非常に難しい仕事ができた人だと思われます。
  ジェーン・フォンダは5年ほどかけて自伝を著しましたが、その本に自分のすべてを書こうとしました。光よりも闇を暴き出すように、我が身に起きたすべてを包み隠さずありのままに書くと決めて、相当悩みながらもそれを実行したのです。
  その頃彼女は、テッド・ターナーというCNNの創始者である大富豪と3回目の結婚をしていたのですが、自伝の執筆が契機となり最終的には離婚に至ります。真実のジェーンを受け止めきれなかったのです。
  彼女が最初に結婚したフランスのヌーベルヴァーグの映画監督ロジェ・ヴァディムは、彼女と同じベッドに娼婦を連れ込んだりするような男でした。当然のことながら彼女は嫌がったのですが、ノーと言えませんでした。「捨てられたくない」とか「男に捨てられたらお終いだ」と感じていたからです。自信の無さがそう思わせていたと彼女は自伝に赤裸々に書いており、インタビューで訊ねられた時にもできれば書きたくなかったと述懐しています。
  ではなぜ書いたのでしょうか。それは、過去の嫌なことを書かなかったら、今の自分を語ることも受け容れることもできないからです。ネガティブなことを誰にも言えない、書けない、表現できないということは、黒いドロドロしたものをどこにも吐き出すことができず、心の奥底に抱え続け、否定し続け、葛藤し続けるということを意味します。
  本当に嫌なことは、誰かに語ることによって心の奥底から外に吐き出され、話すことによって対象化され、客観的に語ろうとして自ずから整理され、また相手に理解してもらい、共感してもらうことによって癒され、手放され、完全に終りにすることができるものです。
  トラウマに終止符を打つとは、そういうことです。トラウマから目を背けるのではなく、直視することによって正しく理解し、納得して受け容れることができるので完全に乗り超えていけるのです。
  それゆえ彼女は、固い決意をした上で、多大なエネルギーを費やして自分のすべてをさらけ出し、自伝を書くという作業に立ち向かったのでした。普通ならそんなことまで書くことはしないでしょう。誰だってネガティブな過去は人には見せたくないし秘めておきたいものです。しかし口に出すことも書くこともできないまま、ドロドロしたものを独りで抱え続け抑圧していれば、いつでも誰かに恫喝されているような怯えを感じながら自分の怒りに押し潰されていくでしょう。
  比較的軽症のトラウマなら、忘れたフリをし続けることもできないことはないかもしれません。しかし、反吐が出るほど嫌な経験や深刻なトラウマを秘めたままにしていては、完全に忘却することも終りにすることもできないのです。心の奥底で葛藤に悶々とし、抑圧することにヘトヘトになり、苦しい人生から解放されないでしょう。問題の真相に向き合うことから逃げ続けている限り、完全に解放され満ち足りた人生にはならないのです。
  問題に終止符を打ち、完全に終りにするためには、本当は何が起きていたのかを正しく理解し、事実を事実としてすべて認め、承認する仕事に立ち向かわなければならないでしょう。直観的にそれが分かっていたジェーン・フォンダは、勇気を出して自伝を書く決意をし、ありのままに真実を語り、書き表わしていく作業に取り組んだのです。グチャグチャなまま嫌悪し目を背けていた事実を事実として冷静に、客観的に認め、その意味を新たな視点からとらえ直し、受け止め直していけば、心に落とし込むことができ、事の全容を納得了解して解放されていくからです。
  5年の歳月をかけてジェーンはこの難事業を最後までやり遂げ、自伝を完成させることができました。そして「私はダメな人間だ 完璧にならないと愛されない・・」と思い込んできた彼女が、62歳でこ自伝を出すことによって初めてありのままの自分を受け容れることができたのです。「一番大きかったのは、許す気持ちになれたことよ。自分自身をね」
  また、彼女は優秀な人でしたから、自分の経験に普遍性があることもわかっていたようです。つまり、自分はジェーン・フォンダという大成功をおさめた者ではあるけれど、そういう成功者であっても過去には食べ吐きをやっていたという事実、コンプレックスを抱え、自分の無価値感と戦いながらこれほどまでに苦しんでいたという事実の普遍性です。
  たとえ大女優と思われていても、自分に対して自信がない人生の実情はこんなものでしたよということを明らかにする、その影響力というのも考えていたのです。どれだけ多くの人が劣等感や自信のなさで苦しんでいるか知る由もありませんが、正直に自伝を書くことは、代償を求める人生はダメだというメッセージを力強く伝えることにもなるわけです。
  そして彼女は、自分の真実をすべて語ることによって、仮面の人生に終止符を打ったとも言えるでしょう。私はジェーン・フォンダを演じていただけで、私の本当の人生を生きていなかった。だから幸せではなかった、と言っているのです。なぜなら、いくら成功をおさめても、心には常に空虚感があって食べ吐きを止められず、自己否定感覚に苛まれていたわけですから。
  彼女は2005年の「アクターズ・スタジオ・インタビュー」で次のように語りました。
  「すべてを話すための勇気を出すのに2年かかった。そして話した。結果、独りになった。最愛の夫は受け止めきれなかった。大切な結婚生活が終わってしまったが、本当の自分であることの方が大切だし、自分にも子供たちや友人にも正直に生きたなら、人生をひとりで終えたとしても後悔しないとわかっていた。つらかったが、正しいことだとわかっていた・・」

④ ジェーン・フォンダの場合 -3- 父親との映画出演
  彼女が本当に自分の過去を受け入れることができた、赦しの瞑想が成功したと思える証しのエピソードを一つ紹介します。
  彼女の父親ヘンリー・フォンダは名優だったのですが、その頃彼はアカデミー賞をまだ一度も受賞していませんでした。ジェーン自身は主演女優賞を2回も取っているので、そういう意味では父親を乗り越えてしまったのですが、彼女は父親にもアカデミー賞を取らせたかったし、また父親もそれを望んでいることを知っていました。
  そこで彼女は『黄昏』という映画の版権を自分で買い取って、自分でキャスティングして父親を主演にした上で、キャサリン・ヘップバーンと自分も出演して、この映画によって父親にアカデミー賞を取らせたのです。
  アカデミー賞の受賞の時は、ヘンリーはもう死にかかっていて式には出られなかったのですが、ジェーンが代理で賞を受け取ってその足で病院に駆けつけ「愛しているわ、パパ。苦しめてごめんなさい。精一杯やってくれたわ。感謝してる」と声をかけたのです。そして、父親に尽くしてくれた奥さんは永遠に自分の家族だと約束し、父親は泣き崩れたということでした。
  それは作られた美談かもしれないという疑いも残ると言えば残るのですが、彼女はインタビューで「天国があるとして、もし自分が天国に行けたとしたら、神様に何と言って迎えられたいか」という質問をされた時に「『両親がお待ちだ』と神様に言ってもらいたい」と答えていました。これには感動しました。
  このエピソードからは、彼女は完全に父親も母親も受け入れることができ、確執は本当に終わったのだな、という印象を受けます。つまり、彼女は相当に難しかったけれども、自分の過去を完全に受け入れる仕事ができたのではないかと感じられるのです。実際に父親と和解することができ、アカデミー賞を取らせて、心から感謝を述べ、父親は泣いて、天国で待っている両親に「両親がお待ちだ」と神様に言ってもらいたいということが語られるということは、タテマエの綺麗事ではなく本当に乗り超える仕事ができていたのではないかという印象を受けました。

4.認知の歪み
  ジェーン・フォンダの人生は素晴らしいと思うのですが、彼女はなぜこの赦しという困難を極める仕事ができたのでしょうか。それは、彼女がこれまでの一つ一つの経験をありのままに自伝に記すことによって、ヴィパッサナー瞑想の本質である事実そのものを客観的に観るという作業が実行されたからだと思います。その結果、人生の流れが変わるほど大きな認知の変化が起きました。エゴの立場から一方的に眺めていた視座が変わって、自分自身を赦し受け容れることができたとき、父親との長年の確執が終わり、全てを受け容れることができたわけです。
  では、どうすればこうした認知の変化がわれわれの身にも起きるのか、ということが問題になります。

  人は、ネガティブな経験が激烈であればあるほど、認知全体がそれに圧倒されてしまう傾向があります。仮に100のうち98は問題なく愛されていて、嫌なことは2ほどだったとしても、その「2」がどうしようもなく嫌なことであったら、絶対に赦せないと思い込んでしまいます。たった一つのネガティブ経験のせいで、大切に養育され愛されてきたはずの98がブッ飛んでしまい、頭の中ではそれだけがリフレインのように繰り返され、恨みや怒りを持ち続けるといったことが起きてしまうのです。
  普通の考え方をしている限り、私たちは「良いことは空気のように当たり前、嫌なことは一生恨んでやる」といった自己中心的な傾向になりがちなのです。
  そのくらい認知の歪みというのはありきたりに起きていますから、自分の考えに執着して頑として譲らないとなると、ネガティブな過去を怒りと恨みで捉える認知も一向に変わりませんから、赦しや受け入れなどという話にはまったくなりません。
  しかし、もし事実を客観的に視ることができたなら、双方の言い分を精査し、過去の事実をあったがままに正しく眺め、今の一瞬一瞬を正確にありのままに客観視して、自分にばかり好都合な自己中心的な事実認識を改めていくことができたなら、ネガティブな経験は100分の2に過ぎなかったことが分かってくるでしょう。そうすれば、一方的に偏った認知にとらわれて受け入れようとしなかったものが赦せるようになり、怨みや怒りといったものが手放せる可能性があります。
  この怨みや怒りを手放して「赦し」に至るプロセスが心の清浄道の真骨頂です。嫌だったものが嫌でなくなっていくプロセス、絶対に赦せないと怒っていたものが赦せるようになり、拒絶していたもが受け容れられるようになっていくときの心の変容・・。それが認識革命であり、ものごとの見方、事の意味を理解し解釈する仕方、納得の仕方、受け止め方、どのように反応するかその反応の仕方・・等々に決定的な変化が生じるのです。起きてしまった事実がまったく異なった様相で意識に映じてくるとき、人生の苦しみも乗り超えられていくのです。ヴィパッサナー瞑想の真髄とも言うべきものです。
  とはいえ理念に賛同はできても、いざ自分の人生の現場でこれを実践するとなると途端に難しくなり、言うは易く行なうは難しの現実に愕然とするのが通例です。よほどのドゥッカ()に叩きのめされた人たちが、もはや他に選択の余地もなくこの困難な仕事をやり遂げていく傾向が見られます。まさに身につまされるように、四聖諦の真理が浮かび上がってくるかのようです。
  「苦の現状の真理(苦諦)」→「苦の原因の真理(集諦)」→「苦が超越された真理(滅諦)」→「苦を超越する具体的な8つの方法論の真理(道諦・八正道)」の公式です。この苦を乗り超えていく八正道の一つが、正しいものの見方であり「正見」と呼ばれます。因果法則と四聖諦の構造を心得て、事実を正確にありのままに観じていくサティの修行によって得られる「如実智見」が体得された状態です。
  ジェーン・フォンダは自らの血を流して自伝を書き切ることによって、事実をありのままに観る「如実智見」の一端に触れていたのかもしれません。(続く)
 


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:修行上の質問 実践編(3) -姿勢-   
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:瞑想で歩いたり坐ったりしていると、そのうち背中が丸くなって姿勢が悪くなってくるのが感じられるのですが、そうならないようにするにはどうしたらいいでしょうか。

アドバイス:
  一般に、歩く瞑想よりも座る瞑想中に姿勢が崩れて背中が丸くなるケースが多いです。

  いずれの場合も「姿勢保持」に意識がまったく払われなくなった時に起きる現象と言えるでしょう。

  良い姿勢で瞑想ができている場合、自覚するしないにかかわらず「姿勢保持」に注意が払われているからです。

  「姿勢保持」がまったく意識されなくなると自然に背中が丸くなって姿勢が崩れていくことになります。
  対策は、瞑想を開始する前に「絶対に姿勢を崩さないぞ」としっかり自分に言い聞かせるように決意することです。
   姿勢に限らず、「しっかり意識する」「注意を注ぐ」と決意すれば多くの場合そうなるものです。
  人の心というものは、しっかり命令されると必ずそうしようと頑張るものだし、何事も決意次第でそのようになっていくものです。
  「決意」は「アディッターナ」という十波羅蜜の一つに挙げられるほど重要かつ強力なものなので、しっかり決意すれば「姿勢保持」は必ずクリアーできるのではないでしょうか。
  もう一つ、普段から姿勢が良くないことも原因の一つとして考えられるかもしれません。例えば腰痛などもそうですが、前屈みになりすぎていると腰などの関節が痛くなってくることがあって、それを予防するためには、その反対の動作をすればいいという考えです。
  一つの方法としてヨーガやストレッチをすることで効果が出ると思われます。ヨーガには前屈のポーズも反りのポーズもありますが、自然に背中が丸くなるということは前屈み傾向になっているということですから、反りのポーズをやると是正というか矯正されるでしょう。
  例えば、腹這いになって、手のひらを床につけて上半身を支えながら起こしていくというコブラのポーズがあります。私の場合、腹這いになって、その姿勢のままタブレットを打ったりすると自然にヨ-ガのコブラのポーズをしているのと同じになります。
  猫背になりがちな人なのだから反対の姿勢を取るようにつとめるという考え方なのですが、コブラのポーズよりも強力なのは弓のポーズでしょう。それは、腹這いになった状態から上半身を起こして天井を見上げるようにしながら、自分の足首を取って弓なりに反り返っていく姿勢です。このようなポーズはヨ-ガの本にも詳しく紹介されていますので参考にしてください。姿勢の良くない人も、こうした訓練をすることで改善することができます。
  しかしある年齢になってしまうと、元に戻せなくなります。私の母親も晩年は少し猫背になっていたので、私は直してあげようと思って一所懸命にいろいろと試みたのですが、80歳後半にもなるとそれは逆効果なのだそうです。 医者にも、すでに骨がかたまってしまっているから無理に戻さないでくださいと言われました。
  でも、若いうちは可塑性があり体も柔軟ですので、生活習慣でどうにでもなるのです。
  特に現代人は、パソコンの前に長時間坐り、スマホを見たりするなどの生活習慣で前屈みになっている方が少なくありません。普段から直す努力をした方が良いのですが、猫背だから真っ直ぐ背筋を立てるということでは直せないのですね。前傾を直すには反対側に反り返る姿勢を取るようにしないとだめなのです。それが、コブラのポーズや弓のポーズの姿勢です。
  特に難しいポーズではないし、普段から心掛けると戻せますのでやってみてください。
   瞑想というものは心の営みと考えられていますが、姿勢もことのほか大事なのです。私が今でもヨーガを続けているのは、姿勢が良くなるだけではなく、血液の循環が良くなって体が整えられるからです。まず姿勢を整え体を調えると、自ずから心も整い、瞑想の状態も良くなるという心身一如の法則が働いているからです。仏教ではヨーガのように体の調整について言及していませんが、どちらも経験してきた私の瞑想理論からは体調は瞑想に直結する重要ファクターです。
  食事に配慮するのも、同じ理由です。私が食事に細心の注意を払うよう強調するのは、食事の内容と分量が体調を整え瞑想のクオリティーを上げるのに大きな影響を及ぼすからからです。
  良い瞑想をするのに最も即効性があるのは、適性な食事と体調を万全に調えることだと長年の経験から学びました。
  皆さんも、検証なさってください。

Bさん:スポーツをしていて腰を痛めました。脊椎分離症です。背筋延ばして長時間坐っているのが苦手ですが、そう言う人でもこの瞑想法は可能なのでしょうか。

アドバイス:
  可能です。
  どんなハンディのある人でも、あるがままの自分の状態を客観視していくのがヴィパッサナー瞑想だからです。
  良い状態を良い状態、悪い状態を悪い状態と、ありのままに正しく客観視できれば、両者に優劣はなく、どちらも良い瞑想ができていると考えてよいのです。
  ですから、もし足が悪ければオーソドックスな座禅は無理なので、椅子に坐ることも許されます。以前に長期合宿に何度も入られた人で、腰が痛くてまともに坐禅ができない方がいました。瞑想はとてもよくできるのですが、どうしても腰が立てられない状態で、それ以外にやりようが無いのでもっぱら寝禅をしていました。

  寝禅というのは、仰臥して寝た状態で瞑想するので通常の座禅より難しいのです。仰向けに寝た状態だと、よほど精神をしっかり保っていないとトローンと眠くなったり、意識が散漫になったりしがちです。その方はよく気をつけて寝禅の姿勢もしっかり保っていましたから、たとえ仰臥の姿勢でも身が整えば心が整い、良い瞑想ができていました。
  足を組んで背筋を伸ばすのが座る瞑想の理想ではありますが、身体的なハンディがあるのならその条件の中で一瞬一瞬のありのままを客観視していく他ないし、それでその人の最高の瞑想ができるのです。要は、気づきの瞑想ができればよいわけで、気づくのは外界の対象ではなく、自分の心と体の現象です。身体能力の優れた人もハンディのある人も誰も煩悩があり、自ら人生を苦しくしているのですから、その自分のあるがままの状態に気づいて、煩悩を手放し、心を浄らかにし、ドゥッカ()を乗り超えていく瞑想なのです。変則的であっても、与えられた自分の条件の中でマインドフルに気づいて観察の瞑想が徹底すれば良いと考えましょう。
  もちろん医学的に治療して治るべきものなら、そのような対応をしていく方がよいのは言うまでもありません。また、カルマという点から言えば、身体に損傷や疾病などの不都合が起きていてそれが苦を与えている状態ですから、それは過去のいずれかの時点で殺生系の不善業があった結果と仏教では考えています。
  対応策としては、命を守り助けるようなことを積極的にやっていくとよいとされています。身体に起きている問題ですから、善行のボランティアなどを積極的になさって、傷ついたり病んだり老病死で苦しむ方を無償の行為で介護したり助けたりすると良いでしょう。これは人間に限らず、犬や猫など生き物全般の命を積極的に助けることによっても、殺生が多かった不善業を相殺するカウンターパンチになると考えられています。
  私もタイの魚市場で魚や貝類、カニなどを購入し、海や川に放って命を助ける「ライフダーナ」をしたものです。命を奪い傷つけたなら、命を救い守りいたわることによって、殺生する瞬間に放たれた不善業が相殺され、自分の身体にも良い結果が現れやすいと原始仏教は考えています。医療に従事する方々を支援するのも良いことです。命を傷つけない、殺さない。その逆にどんな小さな命も守り、大切にする。そのように心がけている人は、五戒を守っているだけではなく、命を慈しむ慈悲の心を養うことにも通じていて、瞑想する心の基盤を整えていることにもなります。

Cさん:私は時々ベッドの中で寝禅の状態でやっています。そうすると、案外お腹は感じることは感じるのです。

アドバイス:
  坐禅の時以上に寝た状態の方が、膨らみ・縮みが分かるという人は結構いらっしゃいます。しかし長時間続くかどうかは疑問です。やはり先ほど述べたように、仰向けに寝た状態だと一点に集中をかける求心的な意識状態を作りづらい傾向があります。したがって寝禅では中心対象を定めずに、例えば背中と布団の「接触感」「妄想」「音」というふうに六門から入ってくる情報に万遍なく気づいていくやり方のほうが良いでしょう。
  夜、床に着く時に寝禅を試みるのはお勧めです。その時の意識状態にもよりますが、布団に入って最も強く感じた感覚や、音、雑念に気づいいていれば瞑想になりますが、何もしなければ普通にフワフワ妄想しながら眠気が来るのを待っているだけになるでしょう。サティ入れている限りは中心対象に集中しようがしまいが心は成長するのです。たとえ布団の中であろうとも、毎日続けていればそれだけサティが身についてくるし、必ず心は成長していきます。何もしなければ、何も変わらないのです。
  「30分にたった1個しかサティが入らなくても心は成長する」と、いろいろなお坊さんに私も言われました。29分妄想や眠気だらけで、そして残りの1分の内、本当にちゃんとしたサティは1個ぐらいしか入っていなくても、その1個で心は成長する。1個サティが入れば再生が1回減らせると言っていたお坊さんがいるくらいです。
  これは経典の言葉にもはっきり証拠があります。指をパチンとはじく1個のサティほど価値ある善はない。どんな布施よりも、五戒を守ることよりも、慈悲の瞑想よりも、サティの方が価値が高いと明言している経典があります。たとえ30分に1回しかサティが入らなくても価値のあることだと信じて、布団の中でも続けていけば心は成長していくでしょう。そこまでサティに信頼を定められる人は、必ず他の時間帯にもやるものです。
  それはそれとして、やはり修行を進めていくためには、きちんと時間を取って歩行や坐禅をやった方がよろしいことはよろしいのです。なぜかと言えば、たった10分間でも、純粋な瞑想のために時間が割ける体制というのは、かなり生活を改善する感じになるからです。例えば暴飲暴食をしたり不摂生をしていたら、たった10分間の瞑想でもやろうという風にはなりにくいのです。最悪の状態で瞑想しても、まったく瞑想にならないか、やっていても何の面白みも手応えも感じられないでしょう。それでは続く訳もなく、たとえ10分でも、それなりに摂生して意識が冴えた状態に整えなければなりません。そうしないと、束の間の瞑想もできなくなっていきます。そのような意味で、きちっと10分間の瞑想をすることは生活全体を改善して行く結果につながるということです。
  本日のような一日瞑想会であっても、もし昼食を食べ過ぎれば必ず眠気が来ることが次第に分かってきますし、きちんと腹六分目という感じで摂生して来られれば良い瞑想ができることも検証できるでしょう。こうした経験を重ねていけば、瞑想をするために心も体もきれいに整えようという気持ちが必然的に起こってきます。たとえ10分でも瞑想に最適の心身状態をセッティングして、結果的に生活全体が改善されていくという方向が出てくるはずです。
  瞑想内容がそれほどうまくいってると感じられなくても、毎日10分間以上の瞑想を日課とすることは意義深いという意味はそういうことなのです。
  付け加えれば、歩行瞑想は感覚が取りやすいので、坐る瞑想の中心対象が感じづらい時は、歩行瞑想だけで終わってしまってもかまいません。頑張って続けてください。

Dさん:結跏趺坐や半跏趺坐という姿勢でないと乗り越えられない壁みたいなものはあるのでしょうか。

アドバイス:
  ないと考えてよいでしょう。多くの方が歩きの瞑想の最中に悟っていますし、あるいは食事のサティの最中に預流果になったという人の話も多く聞いています。
  ただ、本当に体調、環境など条件を整えた状態で瞑想してみれば分かりますが、歩きの瞑想の時と坐りの瞑想ではやはり質が違います。歩きの瞑想はダイナミックに体が動いていますからセンセーションも取りやすいのは確かです。しかし坐禅ではきちんと座が決まって心も体も鎮まり、うまく集中できると歩く瞑想より深くなった印象を受け、より精妙な瞑想の拡がりが感じられるといった一般的な傾向はあります。
  どなたにも得手不得手があるし、過去世の修行履歴の影響もあると言われます。ですから、自分に与えられた条件でそれなりに最善を尽くしていけば、それで良いのです。がむしゃらに頑張り過ぎれば続かなくなるし、ちょっと背伸びする程度にがんばって、マイペースで継続を心がけるのがよいでしょう。自分の人生のかたち、与えられている条件というのは過去の宿業の結果であって、その条件の中でなすべきを成しながら、悟る者は悟るしかなくて、宿業が命じている環境や状況から逃げ出して何者かになろうとする努力はヴィパッサナー的ではありません。
(文責:編集部)

 ~ 今月のダンマ写真 ~












                     タイの寺院にて

 

     
        












沙弥の少年たち


N.N.さん提供


    Web会だより  
怒りと恐怖と調和と:
    ヴィパッサナー瞑想の「見えざる手」と繋がって -1-
 Abe-chan

1 感謝
  まずは私に執筆の機会を提供してくださいました【月刊サティ!】編集部の方々に、この場を借りまして感謝申し上げます。ヴィパッサナーについて、瞑想について、ひよっこの私ですので、誤用がある場合はどうかご容赦ください。2017年がもう、3分の2を終わろうとしています。250日余りの間に、なんとたくさんの出来事があったことか。改めて振り返ってしまいます。
  3カ月の朝日カルチャーセンター(以下朝カルと表記します)のヴィパッサナー瞑想の講座を終えた直後でした。いっしょに仕事をしている同僚のSさんから、「僕らを信じられないみたいだから・・・(仕事の)モチベーションが下がりました」と突然言われ、私の心は大混乱でした。(いや、まだ鎮火しきれていませんが)。
  結局、最終的には協同で行っていた仕事を中断放棄することになりました。国からの委託事業のようなものですから、そのダメージは覚悟しなければなりません。しかしながら、どうしようもない「量子のもつれ」ならぬ「心のもつれ」は不可逆的でした。
  そんな大事件の勃興期に【月刊サティ!】への執筆の依頼をいただきました。上記の大騒動のさなかでしたが、頭のどこかで、この騒動と向き合う良いきっかけを与えてくれたのも朝カルかもしれないと思い、原稿を執筆してみることにしました。
  私の直感と直観から人生には「川の流れ」みたいなものがあって、その流れにいかに乗るかが大事だと思ってきました。流れをつかむときに大事なのは「感謝」とも感じてきました。感謝すると何かが変わるって。ですので、私の拙文も、まずは感謝から始めさせていただきました。でも、執筆依頼のメールに、こうも書かれていました。プレッシャーとも言い換えることができますが・・・。
  Abe-chanの人生経験の豊かさからは、優に23回の連載になる素材がおありになるのではないでしょうか」
  光栄かつ過分なお褒めの言葉でした。でも、過去の【グリーンヒルWeb会だより】を拝見すると、いやいや、私の人生の出来事なんてちっぽけな気がしてきます。みなさん、とてもたいへんな山あり谷ありの人生を送ってこられて、乗り越えたり、乗り越えようとしていることがひしひしと感じられ感動するばかりでした。
  それに比べると、私の人生は平坦なものであったでしょうし、なによりも、ヴィパッサナー瞑想によりドラスティックな変化が起きていないと思っています。なによりも、ヴィパッサナー瞑想によってドラスティックな変化が起きているというわけではありません。ですので、読者の方には感動的な経験を語れませんが、今、進行中の自分自身と向き合う、もう一人の自分との対話を書かせてもらえればと思います。そして、WEBをご覧になった方々が、自分でも実践できそうとか、瞑想はおもしろそうと思ってもらえたら嬉しいです。
  さて、Sさんからの突然の告白。それは、私の中にたくさんの「大波」を起こしました。きっと、今までの自分だったら海の大波の波頭のはじけ飛んだひとしずくになってしまっていたでしょう。
  地橋先生が御著書(DVDブック『実践 ブッダの瞑想法 -はじめてでもよくわかるヴィパッサナー瞑想入門』、春秋社、2008)のDVDの中で、海の波の一部に自分がなってしまうというのは刹那的な感情に飲み込まれてしまうこと、海の波が寄せたり返したりするのを島から見ているようにするという趣旨のことを語っておられました。たいへん印象深く、私の心をぐいっと掴んだ一言でした。
  この本に出会わなかったらば、きっと上に書いた知り合いの一言で私の心は大混乱になり、次々に押し寄せる疾風怒濤の刹那的なエモーショナルエネルギーのウエイヴのはじけ飛ぶ水の一滴となってしまったことでしょう。様々な感情、しかもそれはネガティブで破壊的な感情でした。ヴィパッサナー瞑想の実践は私に、感情との向き合い方を諭してくれました。

2 怒り
  上記のSさんの言葉で私の中に起きた感情は、まずは怒りでした。強い怒り。最初は何に怒っているのかわかりませんでした。ただただ強い怒り。
  私はどうも変わったイメージ力があるらしく、強い怒りは視覚化されてイメージされるのです。たいていは、ダークグレーの煙が左向きに渦を巻いている状態です。今回もそれが見えました。何に対して怒っているかわからないので、当初は「怒り」と気づきを即言葉でラベリングする(以下、サティを入れると表記)ことしかできませんでした。歩く瞑想をしても坐る瞑想をしても、すぐに怒りが感じられました。
  何日かしてある夜、怒りのサティを入れたとき、その怒りが二つであることに気づきました。一つは、Sさんの私に対して言った言葉の使い方に対する怒りです。ありありとその会話の場面が思い出され、そのときの言葉の使い方、声のイントネーションに対する怒りでした。「妄想」とわかっていましたが、当時は注意を「妄想」に奪われてしまいました。
  もう一つは、「信じられない」ということの内容についての怒りでした。つまり、Sさんの態度への怒りと仕事の打ち切りについての怒りでした。仕事の打ち切りについての怒りはすぐに、「Sさんは自分勝手であることへの怒り」というサティに変わりました。
  さらに何日かして、もう一つ怒りがあることに気づきました。それは自分自身への怒りでした。Sさんのような人を仕事のパートナーとした自分への自責に由来する強い怒り。これもすぐにサティを入れました。自分への怒り、自分への自責・・・・・・あらあら、たくさん自分への感情が芋づる式に出てきたじゃない・・・と、どこか他人事のようにサティを入れ続けられるようになっていました。
  青年時代から、私は「貴方は短気だよ」とか、「すぐに怒る」と他人から言われてきました。話し方も攻撃的で語気が強いと。本人は全くそういう自覚がありませんでした。若い頃はそういうわけで、同世代の女性から敬遠されることばかりでした。いつも私は怒りの感情をあまり自分の中で消化することなく、即、表面に出してしまうようでした。
  怒りは対人関係を悪化させるだけではなくて、自分の身体も壊すことがよくありました。強い怒りが続くと、不眠になり、胃はきりきりと痛くなるし、そして、暴飲暴食。果てには、耳の聴こえの異常にもなりました。ヴィパッサナー瞑想の練習の中で、「怒り」を感じたら、まずは「怒り」とか、「怒っている、いらいらしている」とサティを入れることを修習しました。否定的な感情がわき上がったらすぐにサティを入れる。これはとても効果的でした。4月からの朝カル講習に通うようになってからは、それ以前よりもずっと怒りに飲み込まれないようになりました。それでもなお、怒りが収まらないことは今でもあります。地橋先生が講座の中で「絶対に怒らない」と決意して、絶えず「怒らない」と意識するようにしていたとお話しされていました。私も見習おうと思って心がけてはいるのですが、なかなか全ての怒りの感情を冷静に見つめることは未だできません。(続く)



☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

         

読者の方より
 










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ダンマの言葉

身体(ルーパ)というのは何から作られているかと言うと、アビダルマでは四つの要素を取り上げています。一つ目はカルマ(業)、二つ目は心、三つ目は時節、そして四番目は食物です。(ダンマトーク「ある出家者の修行から」より)

       

 今日の一言:選

1)善いこともしたが、悪いこともした。人を助けたこともある。迷惑もかけてきた。バカにされたこともあれば、上から目線で見下したこともある。同じ人に、愛も憎しみも感じた。
 優しい心も、冷たい心も、どちらも本当だった……。

 あざなえる縄のごとくに、禍福の原因を自分でまき散らしてきたのだ。
 新たな業を作ろうが作るまいが、人生は混沌としたカオス状態のまま、否応のない力で変滅していく……。

2)業が尽き因縁の糸が切れれば、関係は自然に終息するだろう。 
 複数の因縁が束ねられた強固な絆であれば、一本の糸が切れても他の糸によって支えられていく。善業の関係も不善業の関係も。
 否応のない力で日々わが身に生起する事象に一喜一憂すれば、反応するその心が新たな業を作り、輪廻の輪を永遠に回していくだろう……。
 涅槃を体験した心は、六門になだれ込むこの世の事象に一瞬たりとも振動することがない、不思議な静けさを保つ。
 果定という……。

3)王女の人生も、娼婦の人生も、学者も商人も主婦も前線の兵士も、誰の、どのような人生も、<無常・苦・無我>の真理に貫かれているではないか。
 自分に与えられた諸々の条件をあるがままに受け容れ、苦の真理を正しく洞察するならば、究極の境地に到達するだろうということ……。

 ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。


       

   読んでみました
 『楽しい縮小社会』森まゆみ、松久寛著(筑摩選書 2017年)

 <個から社会まで「少欲知足」という発想への転換>を促すのが本書の主旨だと思う。今の日本で、なんとなくそういうものかと思っている(思わされている)発想のパターンは果たして望ましいものなのかもう一度考え、身近なところから踏み出してはどうかという数々の提言がなされている。
  少子高齢化で社会保障が破綻、マイナス成長で日本経済はガタガタ、このままでは日本は沈没する。「作家の森まゆみさんは考えた。・・・でもそれは本当だろうか。それなら、最先端技術の開発にしのぎを削ってきた科学技術者に聞いてみよう!」「京都大学名誉教授の松久寛氏は、「少子化はいいことです。日本をはじめ成熟した先進国は、これからは経済成長でなく縮小しなくてはいけません」と言い切る。(カバーコピーより)
 本書は、森さんの書き下ろしと松久氏との対談からなっている。いかに私たちの今の、平均的に望ましい、あるいは当たり前と感じている生活があやうい土台の上にあるか、あるいは作られたものであるかが語られている。一例は、電通が1970年代に掲げていた10の戦略である。「もっと使わせろ、捨てさせろ、無駄遣いさせろ、季節を忘れさせろ、贈り物をさせろ、組み合わせで買わせろ、きっかけを投じろ、流行遅れにさせろ、気安く買わせろ、混乱を作り出せ」というものだった。

  森さんが参加した脱原発の勉強会で、20人ほどの参加者の会議室に蛍光灯100本以上、加えてマイクまで用意されていたという。また「養殖になると、養育で増える重さの何倍もの餌が必要です。タイやブリでは三倍、マグロになると十倍です。養殖の餌となるイワシを獲る船に使うエネルギーから考えると、養殖魚は石油を濃縮したようなものです」と松久氏。森さんは、住宅の契約アンペアを60から40に落として基本料金を月2千円下げた。それまでは毎年24000円も必要もない電気代を払っていたことになる。
  こうして、谷根千という共同体の中に生活する森さんが、身近なところに軸足を置きつつグローバルな問題へ視野を広げており、松久氏は、もちろん自分の生活の仕方を踏まえつつも、それら提起された問題を具体的な数字を根拠として裏づけている。これが本書の説得力を増していることは間違いない。
  では、(普通に生活している)私たちでも、今出来ることは何だろうか?まさに「個」の段階の<少欲知足>の実践がその小さな一歩ではないかと思う。「『一家にあるもののうち五十パーセント以上はいらないもの』というのは本当だ」。森さんが会った若い男性の「がらくた整理士」は、「ものを持つのは自信の無い証拠、自信のある人はものに執着しません」「もう少し勉強すればこの本が読める。もう少し痩せればこの服が着られる。・・・これすべて執着です」と言ったという。
  「『無駄遣いはしない』『丈夫で長持ち』など縮小のキーワードはかねてより皆の価値観の中にあり、・・・すでに多くの人が実践していて、難しいことではない」(松久氏)
  瞑想とは直接的な関係はない本書であるが、仏教の<引き算の世界>という生き方系に繋がるものとして紹介させていただいた。(雅)

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