月刊サティ!

2017年6月号 Monthly sati!   June 2017


 今月の内容

 
  巻頭ダンマトーク  ~広い視野からダンマを学ぶ~

        
今月のテーマ:心を変える取り組み (1)
                 
      ―厳罰主義の場合― 


  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:妄想を離れる (1)
   
ダンマ写真

  Web会だより 『ヴィパッサナー瞑想に出会って』 
   ダンマの言葉
  今日の一言:選
  読んでみました 『君の名は。』を観てきました                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   巻頭ダンマトーク ~広い視野からダンマを学ぶ~

   今月のテーマ:心を変える取り組み (1)
           
              ―厳罰主義の場合―  

 1.はじめに

  ヴィパッサナー瞑想は、みなさんよくご存じのように、心の清浄道という、不善心あるいは煩悩で汚染された心をきれいにしていく瞑想です。心は、汚染された状態から浄らかな状態に変わることができます。この瞑想はそのための行法であるということができます。そして、心がきれいになると、苦を発生させている原因がなくなり、幸せな人生になっていきます。

  心が変わるという現象は、一時的には起こりやすいものです。しかし根本から変わるということになると、やはり難しいものがあります。変わったかなと思ってもいつの間にか元に戻ってしまったり、再びネガティブな方向に向かったりと、根底から心を浄らかにするのはなかなか難しいという印象があります。

  心が変われば人生をやり直すこともできるでしょう。しかし、本当に心は揺るぎなく変わることができるのでしょうか。そこで今回は、根本から心が変わるというのはどういうことか、またそのためには何が求められるかを事例を挙げながら考えてみたいと思います。


2.心の分析:三つのカテゴリー

  生きるということは、日々さまざまな出来事をどのように経験し、受け止め、いかに反応していくかということです。こうした心の働きを分析的に考えてみると、認知の流れに沿って①情報処理系のプロセス、②解釈のプロセス、③反応するプロセスというように分けることができます。
  情報はまず六門(眼耳鼻舌身意)から入ってきます。六門からの情報がどのように処理されるか、これを情報処理系と呼んでおきますが、その処理の仕方には個人差があります。
  個人差があるとは何を意味するのでしょうか。それは、選択的注意が働くということです。選択的注意というのは、六門から次々と流れ込んでくる膨大な情報の中から一つの対象を選び、エゴの立場から、一定方向に優位に注意を注ぐことです。
  例えば、皆さんはいま前を見ています。私の声が聞こえている。座布団に坐った感触があります。エアコンの温度も感じます。何かを考えて、連想が起きているかもしれません。あるいはガムを噛んでいたりすれば味覚もあるでしょう。こうした情報が常に入ってきているわけです。

  
このとき講演に集中するか、ボードの字を確認するか、エアコンからの風を気にするか、ガムの味がうすくなってきたと感じているか、知覚される情報のどこに注意を注ぐかは、その瞬間の自分のエゴの立場からなされるので、当然個人差が出てきます。情報は誰にでも同じ一定の強さで入ってくるのですが、注意の注ぎ方で千差万別の違いが出てくるわけです。
  解釈のプロセスはどうでしょうか。入ってきた情報をどう解釈するかによってさまざまに編集され、どのようにでも変わっていきます。仮に同じものごとを経験したとしても、その解釈は人さまざまであり、ここでもまた個人差が大きくあらわれます。
  次のプロセスを私は反応系と呼びますが、処理され、解釈された情報に対してどう反応するかにも、当然ながら多種多様な選択肢があり得ます。例えば、思わぬ言葉を投げつけられたとき「罵られた」と受け止め、言い返してやろう、殴ってやろうと続くかもしれないし、「怒らない」修行だと抑止することも、サティを入れて淡々と受け流すこともあり得るし、人それぞれの反応が異なるのです。

  このように、情報が入ってきた瞬間、どう処理し、解釈し、反応するかは、その人の個人的な履歴や過去の経験の積み重ねや生き方の流儀によって大きく違ってくるのです。

  ところで、入ってきた情報が不快なものや、ネガティブなものであっても、それを肯定的に解釈することは不可能ではないでしょう。また、過去にも現在にも自分の人生に何も問題がなければ、受け止めたさまざまな情報に対して100%完璧な反応を示すことができるかもしれません。しかし、一般的に言ってそれは不可能に近いと思われます。なぜなら、これまで何の問題もなく生きてきたと言える人は皆無でしょうから。

  人は誰でもネガティブな心の反応パターンを多かれ少なかれ抱えていて、それによって人生を苦しくしてきたというのが実情でしょう。心の反応パターンを正していく清浄道の瞑想が必要な所以です。

  瞑想者に限らず、一般社会においてもこのような努力はさまざまな場面で行なわれています。ここでは、最も画然たるものとして、犯罪者や犯罪予備軍にあたる人の心に外部からの働きかけがどう影響するかを取り上げ、その例を見ていくことで、心を変えるには何が最も大切かを考えていきます。


3.仲人の達人の事例

  ところでその前に、この情報処理と解釈に関連して面白い事例がありますので、お話ししたいと思います。
  あるテレビ番組で、仲人の達人を視たことがあります。40年間で310組くらいの結婚を成立させて離婚がほとんどないという、別れないカップルを作る仲人名人のコツが紹介されていました。

  絶対に別れない夫婦を作る極意として、まずお見合いする前に必ず双方のデータをよく調べ、最初から別れづらい夫婦を組み合わせるというのです。そのポイントは、必ず本人と一緒に親御さんにも来てもらい、親の人間性も観察すると、より正確に当事者の個性や性格がわかるのだそうです。その相性を要素的に分析し、両者の要素が互いに相補われるよう「相補性」にポイントを置くのです。なるべく違う性格やキャラクターを組み合わせてから、いよいよお見合いになります。

  例えば、すごくお茶目な人には誠実な人を合わせ、わがままだったり頑固な人にはおっとり型や無口な人を組み合わせます。あるいは、すごく自由奔放なタイプには芯がしっかりしていて包容力がある人、キャリアウーマンにはやさしくて無口なタイプだとか、好奇心旺盛な人にはどっしりとしたタイプとか、そういう長年の経験をもとに、うまく相補うようにアレンジするのだそうです。
  
男も女も完全無欠な性格というのはありませんから、ちょうど欠けているところをお互いに補うように組み合わせるということです。そのために、事前調査をして、人物のキャラクターを親まで同伴させてよく見抜いておくということでした。
  また、お見合いの場所はホテルなどのかしこまった場所ではなく、この仲人さんの家にします。その家は普通の家なので、リラックスして話しやすいというか、そういう環境設定をするのです。
  そして、ここがポイントなのですが、お見合の前には名前と年齢、そして性格についてごく簡単に紹介する程度で、あとはいっさい教えません。職業も教えないし写真も見せない、履歴書もなければ、本当に何も教えないのです。
  そうなると、先入観なしに「どんなお仕事をしていらっしゃるのですか?」とか「何に興味をお持ちですか?」と本気モードで関心事を語り合い、だんだん「そういうお仕事ですか」とか「そんなご趣味だったのですね」とわかってきて、その結果とても自然にお互いの姿をあるがままに見ることができるという具合です。
  
先入観なしに相手を見なさい、などと言われても、普通はなかなかできません。あらかじめ情報が与えられると、それを抜きにして「あるがまま」を見ようとしても、口では言えても実際には難しいことです。しかし最初からデータがない状態なら、外見とはおよそ似つかわしくない職業・・とか、強面だけど話し方は意外にやさしい・・など、そのあたりは自然に相手を見られる可能性があるわけです。ここはとても大事なテクニックで、感心しました。
  それから、お見合いが終わったら、相手の良いところを一つだけ聞き出すそうです。たいていは「ここがちょっと・・」「あれは、どうも・・」などと引き算をしてネガティブな面を見がちなのですが、お見合い直後に、素晴らしいと思った相手の美点を一つだけでいいから言ってくださいというのです。するとネガティブな面にイメージが固定されようとしている時に、経済的なことでも何でも相手の良かったところに選択的に注意を注ぐように仕向けるのです。
  こうしてお見合いをした人の半数が一回で結婚を決め、全相談者の七割が結婚を決めるとこの仲人さんは言っています。さらにまた、何かもめごとがあったときには相談する人がいないと離婚が早いらしいので、仲人さんが必ず相談に乗ってよりを戻させるということでした。
  この番組では、事前にデータを与えず、現場であるがままに相手の人物を見させていること、そして相手を知った後は、さまざまな側面の中の良いところに注目させるという、この二つがポイントではないかと思いました。これは、我々の瞑想にも関係がある大事なところですし、これからお話しするいくつかの例にも通じるものがあると考えられますので紹介いたしました。

4.心を変える取り組み

 (1)厳罰主義
  先ず厳罰主義です。
  刑務所に入った人が、どのように更生していくか、あるいは劇的に心が変わるかということです。もちろん、死刑というような脅しには確かに一定の抑制効果はあるでしょうが、実は厳罰主義ではほとんど心は変わらないのです。
  たとえばアメリカにはスリーストライク法という法律があります。これは、どんな罪でも3回以上有罪になれば必ず死刑になるというもので、アメリカの半分の州がこれを採用しています。このスリーストライク法は厳罰主義の最たるものですが、これを実施して16年経過したところでは犯罪者は70%増加しているそうです。ぜんぜん減っていません。

  あるいは、かつてのノルウェーではものすごい厳罰主義でした。20年か30年くらい前までは、罪を犯せばこんな目に合うのだと犯罪者に見せつけるような、例えば汚いベッドだとかまずい食事だとか、非常に過酷な扱いを受ける刑務所でした。この時も犯罪はぜんぜん減りませんでした。

  こういった例からも、厳罰主義で殴ったり蹴ったりしても、まず人の心は変わらないということです。もちろん殴られたくはないですから、一応変わったかのような反応、態度を示しますが、それで心が変わるかというとそうではない。問題にならないほど何も変わらないと見ていいと思います。


  (2)ノルウェーの温情主義

  これに対して、厳罰主義で犯罪者が増える一方だったノルウェーでは、囚人に対して非常にやさしい対応をするように変えていきました。
  ニルス・クリスティ(Nils Christie)というノルウェーの犯罪学者は次のように言っています。
  「モンスターのような犯罪者に私は出会ったことがない。どの犯罪者だって、近づいてみれば普通の人間なんです。生活環境を整えれば必ず立ち直ります」編集部

  犯罪を犯すような人というのは、それまでに十分苦しんできたし、冷たくされ、その結果犯罪を犯すまでになってしまったのだから、そういう人たちに対しては愛情とかやさしさを与えない限り心は変わらないという考えです。テレビで見ましたが、驚きました。

  ノルウェーの刑務所というのは完全個室で、普通の家庭のような感じできれいなキッチンがあり、冷蔵庫があってテレビもある。パソコンもインターネットには繋げられないけれど自由にできるし、タバコも許可されている。食事も自分で作ったりして、食べる時には、広々としたところで看守と囚人が一緒に取り分けて食べたりしているのです。

  島全体を刑務所にしているのですが、ぜんぜん刑務所のような感じではありません。窓を開けると湖があって、山があって、まるでリゾートのようなのです。私も行ってみたいと思いましたね。()

  その上、模範囚のような態度の良い囚人は3日間ぐらい休暇も取れて、手錠も何もなしで家族のところに帰ることができるのです。もちろん逃げたら大変ですからそれには罰則があるけれど、家族との関係が長い間、10年、20年と切れてしまうと社会復帰が難しくなるので、家族との絆を切らさないようにするのです。普通の人と同じような服を着て、まず船で本土に行き、バスに乗って、家で3日過ごしたら帰ってくる。このように、ものすごく囚人にやさしいのです。
  数字の上からは、たとえばアメリカでは刑務所に入る率は100人に一人なのが、イギリスは600人に一人、ノルウェーは1300人から1600人に一人だそうです。アメリカはノルウェーの16倍、イギリスは2倍以上です

  厳罰主義とこの温情主義を比べてみれば、ノルウェーの犯罪学者の言うように、囚人にやさしく接した場合の方が犯罪も減るし、更生率も明らかに高くなるようです。傷ついて、意固地になって、人間不信になってしまった囚人たちに対して、罰則や刑罰の脅しで心を変えるというのはたいへん難しいことであって、変え得るとしたら愛を与えることによって、ということでしょう。

  この温情主義は「里親」の考え方と似ているかもしれません。
  日
本ではまだ少ないのですが、アメリカなどでは里親になる方がかなり多く見られます。子どもというのは親に捨てられた段階で、赤ちゃんや乳幼児のごく小さい時から、人間不信というか、心をあまり開かなくなってしまいます。そうすると、里親は愛情のかけ直しをしなくてはならないのです。
  今まで、何年間か愛情をかけてもらえなかった子に、親がわりになって甘えさせます。すると、始めは反抗したり里親を試したりしていたのが、もう自分を見捨てないとわかると懐くようになります。中には赤ちゃん返りといって、赤ちゃんのとき抱っこしてもらえなかったら、心理的に赤ちゃんになってしまって、バブバブとか言ったり、あるいは小学生なのにおむつをしたいと言って赤ちゃんの真似事をしたりします。
  もし里親にそういった知識がなければ戸惑ってしまうのですが、そんなときにはプロからの助言として心理的な事情を説明してもらう。そして納得してその通りにやってあげていると、しばらくして「もういい」というように満ち足りて止めるのです。そのようにして、里親は教育を通して立派な人間を育てることになるのです。
  ノルウェーの刑務所のやり方はこの里親の考え方と共通していると思います。でも、この場合の欠点は、コストがかかりすぎるということですね。この方式で刑務所を作ったら膨大なコストを見込まなくてはならないでしょう。愛情をかけるというのは親と同じようなことをするのですから大変です。

  確かにこの方式なら囚人の心が変わる可能性がありますが、多人数に適用していくことはかなり難しいのではないでしょうか。


 (3)因果関係を目の前に見せる

  心を変えていく大きな要因は因果関係の理解です。今やっていることは将来にこう繋がるのだ・・と、因果関係が正しく理解されると心は変わります。

  アメリカの刑務所の更生プログラムに取材した「20年目の再会」(Scared Straight!)という1978年度のアカデミー賞を受賞し、八つのエミー賞を受賞したドキュメンタリーがあります。これは私が過去に見たドキュメンタリーの中で、最も迫力のあるものでした。

  アメリカのローウェイ刑務所というところで、そこに収容されている囚人たちが、新しい若い犯罪予備軍、すでに罪をおかしている少年少女たちなのですが、彼らに対して更生プログラムを行なっているのです。終身刑とか、懲役何十年という囚人たちが、自分たちの役割を見出すというか、更生に情熱を注いでいるのです。

  殺人や盗みを犯したりした少年少女たちが2030人、ヘラヘラ笑いながらローウェイ刑務所の見学にやってくるのですね。まずその子たちにインタビューすると、盗みをやっても被害者なんかどうでもいいとか、酒飲んで麻薬がどうとか、子供なのに本当に悪を感じさせる雰囲気なのです。少年も少女も、どうしようもないほど、これは将来まちがいなく罪を重ねるだろうと思わせる顔ばかりなのです。

  それで、肩で風を切りながら刑務所にやってきて物見遊山の気分でいると、囚人たちが、その少年少女たちに対して更生プログラムを始めるのです。これがすごい。

  刑務所がいかに恐ろしいところかということを見せつけるのです。まず、殺伐とした監獄のトイレの汚さとか。それから、凶悪犯たちが上から見下ろして「あの黄色いシャツを着た少年かわいいな。あれは俺のものだ。俺のホモセクシュアルの相手に選んだ」などと言うのです。少年少女たちは壁際にズラリと並ばされて、囚人たちはひとり一人に顔を接近させ、怒鳴りつけるようなしゃべり方で「いいか! よく聞け!」とか言うわけです。
  説教というか、演説というか、これが囚人とは思えないような朗々たるもの言いで、シェークスピア劇の役者かと思うような感じなのです。言葉は汚いのだけど、すごいセリフ回しで、私は感心してしまったのですけどね。

  例えば「いいか、質問には必ず返事しろ!俺が話すときは絶対に俺から目を離すな。文句あるか!首をへし折られたいのか!俺は終身刑をくらっているんだ。・・お前ら、何のために盗むんだ。今から靴を脱げ!」と言って、全員に靴を脱がせるのです。その30足ほどの靴を、足でバーンと蹴っ飛ばして壁際に叩きつける。すると少年少女たちは、全員裸足というか靴下だけで呆然としている。そして「どうだ! 盗まれる方の気持ちがわかるか!」って言うのですね。

  とりあえず靴だけですけど、靴を脱がされて、それが壁際に蹴り飛ばされて山積みになってしまっている。自分たちは靴下で立っていて、自分の持ち物が盗まれるということが今目の前で起きている。だから、囚人の言っていることがリアルにわかるのです。

  ローウェイ刑務所の怖さがわかれば、もう盗みなんかできないですよ。(続く)

 


     

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:妄想を離れる(1)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:「妄想」「妄想」と何度サティを入れても消えない場合、どうしたらよいのでしょうか。

アドバイス
  瞑想している時に、妄想を消すことにこだわってあれやこれやと試みることは執着につながります。妄想が出たのはちょっと前のことなのに、それにこだわると次々と新たな妄想を生み出して現在の瞬間をとらえるという定義からは外れることになりますから。

  その場合は、素直に「消えないんだ」とか、「妄想が止まらないんだ」とラベリングするといいでしょう。なぜなら、そのラベリングはまさに今のその瞬間の状態にふさわしいからです。

  「妄想」「妄想」と何度サティを入れても止まらなければ、「妄想が止まらない状態」とラベリングし、次の瞬間にも同様にラベリングして無限後退していけばよいのです。妄想している状態をありのままに認めてしまえば、不思議に妄想は消えていくものです。そのうちうまくサティが入ったら、「いいサティが入った」とラベリングします。

  高尚なカッコよいラベリングをしようと構える必要はありません。どこまでも今の瞬間を対象化できていればそれでよいのです。その訓練がサティの瞑想なのですから。

  このように、妄想が消えなかったら、消えないという現実を承認したサティを入れてください。



Bさん:妄想がネガティブなことばかりです。ポジティブなことは消えていくのに、なぜネガティブなことはまとわりついて消えないのでしょうか。また、なかでも特に不安や怒りが出てきやすいのはなぜでしょうか。

アドバイス:
  不安も怒りも嫌悪も、煩悩としては欲望系ではなくすべて瞋り系です。基本的に、瞋り系の反応というのは欲望系よりも速くて執拗なのです。
  例えば、心理学的な実験があります。50人ほどの小さな顔写真をズラーッと並べておいて、その顔の中に一枚だけ挿入した笑顔の写真を見つけるのと怒り顔を見つけるのとでは、どちらが速いかというものです。圧倒的に怒った顔を見つけるのが早いのです。

  これは人間に限らず生命というものは、瞋りに対して敏感でなければ自己保存が難しいということから来ています。もし猛獣に襲われたら直ちに危険を回避しないと生命が存続できません。そのような時には、攻撃にせよ逃走にせよ瞋り系の反応をただちに立ち上げて身を守ってきたということです。

  それとは違って、人類の歴史上、空腹などはゆるやかに耐えていくものだし、楽しいことをしたい好きなものを手に入れたいという欲望や、何か目標に向かって頑張ろうなどのポジティブな思考は、すべて「命あっての物種」ですから、生存の危機を回避する欲求を超えるものではありません。つまり、自分の生存が関わっている以上、生命としてはどうしてもネガティブな不安や瞋り系の反応が多くなるのは避けられないということなのです。

  ただし、反応の立ち上がり方には個人差があるのも事実です。同じ現象に対してある人は瞋りや嫌悪を覚え、別の人はそうではないということもよく見られることです。結局それはアドレナリンなど瞋り系のホルモンの関係で、習慣づければいくらでも分泌しやすくなるというわけです。瞋りの本能も、使えば使うほどいつでもスタンバイの瞬間起動状態でどんどんエスカレートしていくのです。

  希望は、「逆もまた真なり」と言えることです。ネガティブな妄想、怒り系の妄想を止めるためにどうするか、それには瞋りを抑制するのです。一見すると循環論法のように見えますが、そうではありません。瞋りを抑制している時は、やはりそのためのホルモンを使っています。ですからたとえ初めのうちは出づらくても、繰り返し習練していけば脳のその回路が活発化して分泌しやすくなるのは脳科学的に知られています。

  ブッダは経典の中で「怒らないことによって瞋りにうち勝て」(1)、「『他の者たちは瞋恚の心がある者になるかもしれない。しかしわれわれは、ここに瞋恚の心がない者になろう』と削減を行なうべきです」(2)と言われていますが、まさに脳科学的にその通りなのです。怒らない時には瞋りを抑制するホルモンを使っている、それを繰り返せば安定化していくということです。

  ということで、ネガティブな妄想が消えないというのは、瞋り系の不善心所モードに巻き込まれている状態ですから、それに気づて「瞋り」「嫌悪」「不安」とラベリングしましょう。ポイントは、そうした瞋り系モードを嫌わないことです。当たり前の反応なのです。そういう反応が出たのだから、ああそういう状態なのね、と気づいて見送るのです。

  しかし、どうしてもそれでは離れられないという場合には、根源的な心のプログラムに問題があるかもしれません。幼児期の悲しかった体験、苦しかった過去、トラウマ等々があれば、不安、怒り、恐怖、嫌悪といった反応が多くなるのは当然です。その場合には、問題をはっきり見定めて自覚化し、受け止める発想の転換をして、完全に受け容れて手放せる方向で最終解決していけばよろしいのです。そうすれば瞋りの根源が一つ消えた状態になります。

  このような作業を続けながら、最終的に貪り、瞋り、無知という貪・瞋・痴の煩悩をなくしていけるように、心の清浄道を静かに歩んでいくのがヴィパッサナー瞑想です。その現場は、まさに妄想に気づいて捲き込まれないようにしていくところから始まりますので、これからもぜひ頑張ってください。


注1:『ダンマパダ』第17怒りの章 223
注2:中部経典第8『削減経』


Cさん:この世の存在の世界は甘く美しい、という印象をどうしても持ってしまうのですが・・・。

アドバイス:
  存在そのものの本質を本当に観てしまえば、そのおぞましさとかドゥッカ(dukkha:苦)性とかが身に沁みるのですが、頭の中で快楽系の妄想を追い回して楽しんでいる時には、この世は甘く美しいという印象になるでしょうね。しかし実際にそれが手に入り現実のものになると、途端に色が褪せてしまうものです。快楽は、頭の中で妄想されている時が最も純度の高い快美な印象でウットリと人を誘惑するものです。妄想はどのようにでも「いいとこ取り」ができますが、現実の存在の現場はそうはいきません。つまり、妄想する力を借りなければ煩悩が紡ぎ出す快楽を味わうことはできないのです。
  例えば、誰かに身体を触られたとします。それが好きな人であれば心地良くても、嫌いな人だったら鳥肌が立つでしょう。ヴィパッサナーの視点からはどうでしょうか。「触れた」「圧」。これだけ。ただの接触感とその生滅です。好き嫌いによって正反対の反応をしてしまうのは、全て思考プロセスから生み出されてくる妄想の所産です。妄想の力を使わなければ楽しめる世界ではないし、憎んだり嫌悪したりもできないのです。

  これを欲界と言います。誰でも自分が生きているこの世界はまさに本物であり、事実の世界だと思っていますが、実は妄想が編集している世界です。私たちはそこで楽しみ、欲望を起こし、それが邪魔されたといって怒ったり嫉妬したりしているのです。

  見るものも聞くものも全て妄想の力を使って楽しんでいる。徹頭徹尾そうなのです。歌や音楽が分かりやすいので例に挙げますが、ヴィパッサナーのやり方で純粋に「音」とサティを入れ、確認していったらまったく快楽とは無縁になるでしょう。絶対音感を持つ人は音が全てドレミに還元されて音楽を楽しめないと聞いたことがありますが、中身はともかく様子は似ています。そもそも、他人が楽しんでいる音楽でも興味がなければただの騒音、耳障りにしかなりません。

  ですから、ヴィパッサナーの修行をやっていけば、少なくとも欲望や怒りの度合いは減っていきます。妄想を止めるのですから今まで楽しんでいたものもストップです。もちろん人によって違いはありますが、どの段階で夢から覚めても成果はあるのです。完全に覚める人と半覚半眠の人、いろいろでしょうけれど。(笑)



Dさん:私は思考型の妄想がたくさん出てきます。それ自体にはいいとか悪いとかいう価値判断をまったく挟まずにただ観ています。「こういう事を考えているな」と気づき、「考えてもいいのだ」というふうに心の中で言って戻るのですが、それでよいのでしょうか。

アドバイス:
  思考や妄想を非常に嫌悪して、「妄想が出たら駄目だ!」と瞬間的に判断を入れている場合には「妄想」「妄想」とやってもなかなか妄想は止まりません。ところが出たら出たでいいのだと、それをあるがままに容認すると妄想は止まることが多いのです。
  妄想が出るという現象が起きている。それに対してこれはいけないとネガティブに掴んでいる。これが次々と妄想を発生させている原因です。妄想が起こると無意識のうちにそれを嫌がる。妄想は出ない状態が正しいのだと心に決めて出ないように頑張ると、かえっていくらでも出てくるのです。

  ところが、考え方を変えて「出てもいいぞ」「出たらその瞬間に気づいてやるぞ」「よし出て来い、待ってるぞ」という感じになると今度は出ないのです。

  心というのは天の邪鬼です。嫌がると言うことは却ってそのことに執らわれているわけで、そちらにチャンネルを合わせているのです。それを最初からあるがままに容認してしまう。自然な展開にまかせてネガティブに掴まない。関心を向けない。だから出なくなる。こういうことです。

  ですが「そうやると妄想が止まるのか。それならそういう風にやろう」と狙うと、今度は作為的でうまくいきません。最初の内はいろいろと工夫をしたがるのですが、結局ヴィパッサナーというのは、何をどうやっても加工をしない、テクニックを弄さないでやるのがベストという結論です。



Eさん:会社から帰る途中に今日あったことなどの考えごとをしていても、ふと気づいて歩く瞑想などをしてみると、家に帰り着くころには考えごとを全くしなくなっていることに最近気づきました。

アドバイス:
  考えごとに引きずられないと楽でしょう。ヴィパッサナーは、考えても仕方がないことをいかに手放していくかです。特に妄想などに対して「思考」「妄想」「雑念」とサティを入れるということは、妄想を続行しない、いわば離欲の一瞬一瞬です。
  存在というのは無常の法則を受けて壊れていってしまうのですから掴めるわけがないのです。それなのに、どうしても概念の世界、妄想の世界ではずっとその状態が続くものと勘違いしてしまい、掴んで、執着するのです。仏教ではそれを放さないことが苦しみの原因だと考えています。そういう意味で、心が成長するということは執着しなくなることと比例しているので、大変結構なレポートです。



◎「妄想」について・・・修行をもう一歩進めるためのアドバイス

  こちらが何もコントロールしないで自然に起きてきた現象を「法」と呼びます。妄想も同じで、消すことなくまた反応することなく、ただ何でも受け身、受け身でピンポン玉を打ち返すように気づき続けるのがヴィパッサナーです。むしろ法随観なら妄想を中心対象にしても良いような話で、要するに全現象完全受容です。

  妄想を消すことだけが目的であれば、マントラを繰り返したりするなどいろいろな技術があります。しかしヴィパッサナーは、妄想が出るんならしようがない。それが現象なのだから、それに対しては「受け容れ」という姿勢です。何があっても瞬間的な反応をすることはないのです。

  現象というものは、さまざまな原因とこちらの諸々の事情によって否応なく起きてしまいます。自ずから生起するのです。妄想が起きてくる自分の心は、今まで条件づけてきた刺激に勝手に反応しているだけですからコントロールできません。そこで、それを正しい善なる条件づけに組み替えていこう。そうするとその先に前進して行けますよということです。

(文責:編集部)



 ~ 今月のダンマ写真 ~










                 韓国寺の引き締まる掛け軸

 



 

 
 

 

 

  チャイを飲んで喜んで、通りすがりの女の子に挨拶して、適当に道端で瞑想する、とある日本人巡礼者。

           (インド、クシナガル)

 


T.O.さん提供


    Web会だより  
ヴィパッサナー瞑想に出会って』(紫苑)
  ヴィパッサナー瞑想に出会い、私は、自分の身体を実体のあるものとして実感できるようになりました。
  五十歳を過ぎた頃、突然「一過性健忘症」という聞き慣れない病気に罹りました。医師によると、ストレスや疲労が要因となり、特に身体の変調をきたす更年期の女性が多いとのこと。再発は少なく命に関わることはないとの診断でしたが、夢遊病のような言動をくり返す私の様子に、家族はパニックになったようです。
  本人は半日の記憶が飛び、夢のような断片的なことが頭の中をめぐり、倦怠感が残りました。当時、仕事も私生活も順調で、身体も絶好調と過信し、日々フル回転で動いていました。自分の身体を客観的に感じられない私に、脳がストップをかけたのかもしれません。このことがきっかけで、家人が朝日カルチャーセンターの「ヴィパッサナー瞑想」の受講を勧めてくれました。
  日々の生活の中で、手足を車のドアにはさんだり、家の中でも気づかないうちにぶつけて青アザを作ったり、小さなケガは日常茶飯事のことでした。些細なケガや火傷は、幼い頃、戯れに小さな生き物の命をもて遊んだことのカルマと納得しましたが、自分の身体への気遣いが足りなかったことに気づきました。気づきの瞑想を始めてから、少しずつですが、切り傷や青アザが減ってきたような気がします。長い間雑な扱いをしてきた自分の身体に詫び、労(いたわ)りたいと思います。
  「ヴィパッサナー瞑想」に出会って気づかされたことがもう一つあります。子供だった私を、長所も短所も丸ごと受け止め、慈しみ愛して育ててくれた家族に対し、感謝の思いが湧いたことです。当たり前のように思っていたことを恥じ、今の自分の礎を作ってくれた祖父母、父母に感謝することが出来ました。この5年ほど、ひとり残った認知症の母を介護するために毎週実家に通っています。昔話や季節の移ろいを語り合うことがささやかな恩返しであり、私にとっても喜びになっています。
  退職後は、仕事に追われることも職場の人間関係からも解放され、心穏やかに暮らせると思っていましたが、「苦」は姿を変えて次々と現れて来ます。まだまだ、怒りの虫が治らず、自分の未熟さにつくづく嫌気がさします。でも、生きている証しと気を取りなおし、瞑想をしています。以前よりは、わずかながらも、早めに怒りを手離すことができるようになりました。行きつ戻りつですが、少しずつでも心が浄化するよう自分自信を戒めていきたいと思います。
  家族が目覚める前に歩く瞑想をし、悩める息子と餌を求める野鳥たちに慈悲の瞑想をして私の一日が始まります。
  生きとし生けるものが幸せでありますように。





☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

                         
    
 





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ダンマの言葉

ラベリングの重要さを言えば、正確に貼れるプロセスと、今経験している現象、その本質を洞察する深まり、度合いというのは併行関係にあるということです。(リトリート中のダンマトークより)

       

 今日の一言:選

(1)頭ではよく分かっていても、結局、自分が同じことをされてみなければ、身に沁みることがない……
  二度三度と、繰り返さない。

(2)黙って耐え忍ぶしかない時もある。
  「忍耐は最上の苦行である」というブッダの言葉を思い出しながら、一群の不善業が過ぎ去るのを待つ。

  善業の結果である幸福も消え去っていくが、恐ろしい苦もやがて消えていく。

  万物の無常性を想い、やがて終わる日が来ると信じて、静かに、心を乱すことなく耐え忍ぶ……

(3)もし苦楽を等価に眺める捨(ウペッカー)の心を保持できるならば、受け身の人生に徹しきり、日々わが身に起きる出来事を、生起するがままに見物し、受け切っていくことができる。
  無願三昧の世界も、相当楽しい……


       

   読んでみました
 『君の名は。』を観てきました
                                                (今月は映画の紹介です)
  二軒隣に住む80代のYさんとたまたま道で会い、駅まで一緒に歩きました。そこから映画の話題で盛りあがりました。私が「最近、心に残った映画ありますか?」と尋ねたところ、「そうだね。『君の名は。』が一番良かったね。でもね、若い人にはあの映画は理解できないと思うよ。人生の酸いも甘いも経験した大人の人でないと本当の良さがわからないと思う」と即座に答えが返ってきました。
  私もその少し前に、『君の名は。』を映画館で観て心底感動していて、Yさんの感想に深く同感しました。
  Yさんは三年前に最愛の奥様を病気で喪くされました。私もつい最近、大切な家族を喪いました。私たちは、人生がいかに自分の思い通りにならないのかということを痛感していた二人でした。
  まず『君の名は。』を語る上で外すことができないのは、圧倒的な映像美です。雨粒一粒でさえ輝いて見えます。見慣れた景色に「美しさ」という魔法のベールがかけられているようです。
  また、「君の前前前世から僕は 君を探し続けたよ♪」と映画の主題歌で歌われているように、前世からずっと変わらない「私」が存在し、主人公は運命の人を探し続けます。電車の中にたくさんの人が乗っていても、「迷うことなく」強い確信をもって相手を探しだすことができます。時々、自分自身が何を求めて生きているのか分からなくなりなったり、人生の選択肢に思い悩んだりする我々と全く違うのです。
  さらに、主人公は、時間をさかのぼり死すべき人の運命を変えることができました。人生を思い通りにコントロールしたのです。日々、思い通りにならないことに心を煩わせ、時に、過酷な運命に翻弄され、四苦八苦している我々とは大きく異なります。
  そして、映画で表現されていた男女の入れ替わりは、相手の自我とぶつかりあうことなく、相手と一つになる「究極の合一」経験です。100%相手の立場に立つという経験によって、これ以上ないほど相手に対する理解を得ることができます。
  映画を観終わった直後、深い満足感に包まれましたが、その興奮も家に帰ると徐々に落ち着きました。そして、ずっと輪廻を続けている主人公も、結局、「渇愛」という不満足に支配されているのだという思いに至りました。「ずっと運命の人を探し続けている」というロマンチックな設定も、突き詰めて考えると、「渇愛」に支配されていた構造だったのです。
  永い輪廻の中、ずっと思い続けている「二人」のどちらかの思いが少しでもねじれてしまったら、今回描かれた「純愛」の物語は、「サスペンスホラー」や「呪い」の映画に変化しうるのです。N

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