月刊サティ!

20175月号

Monthly sati!   May 2017

 

 今月の内容

 

 

 

 

巻頭ダンマトーク  ~広い視野からダンマを学ぶ~

        今月のテーマ:三行日記と仏教的智慧の育て方

 

ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:瞑想への期待と質問(1)

 

 ダンマ写真

 

Web会だより 『夫が教えてくれたこと』(後半)

 

 ダンマの言葉

 

今日の一言:選

 

読んでみました『脳が壊れた』鈴木大介著                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   巻頭ダンマトーク ~広い視野からダンマを学ぶ~

 

今月のテーマ:三行日記と仏教的智慧の育て方  

 

 1.はじめに
  サティの瞑想で心の汚染に気づくことができたなら、いかにしてその汚れを取り除いていくかが次の修行課題になります。これを「反応系の修行」とも言います。

  その修行プログラムは膨大ですが、「三行日記」という面白い方法があります。これは誰でもすぐにやれるし、記録性もありますので、心を浄らかにして人生の流れを変えていくのにたいへん役立つものです。この「三行日記」と仏教の智慧について解説いたします。

2.三行日記とは
  三行日記というのは、智慧の出るトレーニングと言ってよいでしょう。その日の出来事をたった三行で記録していくのですが、何もかもゴッタ煮状態で流れていく日々の経験を異なった視点から眺め、視座の転換をはかるものです。自己中心的な視座をいかに転換していくかが、智慧が発現する重要なファクターになります。すでに実践された方のレポートも紹介しながら話を進めていきましょう。(20158月号に掲載)
  心の状態にサティを入れていく瞑想を「心随観」と言いますが、大事なポイントは自己を客観視する能力です。とても難しい自己客観視の仕事ができ、きれいにサティが入ると、一瞬にして心が整理され、苦しみがなくなっていくこともあり得ます。この客観視を明確にして強化する技術のひとつがラベリングという言語化です。きちっと言語化され言葉確認できたかどうかが、一瞬の自分自身を客観視できたか否かを証明する基準にもなります。
  この言語化の能力は個人差が大きいのですが、なんとなく修行していればひとりでに上達するといったものではありません。習練を重ね、レベルアップしていく努力が必要なのです。
  しかしラベリングの訓練は、心の現象にサティを入れていく瞑想の修行現場で同時並行に行なうことはできません。場をあらためて、別の修行プログラムをこなさなければならず、その一つとして三行日記が良いのではないかというわけです。

3.三行日記のポイント
  三行日記は、①その日の「ポジティブな経験」②「ネガティブな経験」③「明日の目標」の三行を毎日書き止めていくものです。ポイントは、だらだらと書かないこと、一行でまとめる簡潔性が重要です。経験された方のレポートでは、気づきのノートを持ち歩きながら一行反省というかたちで対象化していたようです。最初は携帯でやっていたといいますが、長続きすることが重要ですから、スマホでも手書きでもOKです。
  まず①として、その日の「ネガティブな経験」に順番をつけ、一番嫌なことを書きます。ネガティブな経験を思い出すのは不快なことですが、経験の言語化というものは、ネガティブな情動体験を軽減させると言います。言語化して物語れないと、感情的な経験を引きずってしまい、「失感情症」という病名もあるほどです。ネガティブな経験を書くことは、嫌なことを迅速に手放す有力な方法になるのです。
  さらに書くことは、整理することにつながります。言語化することは必然的に客観視することになり、ネガティブな経験を観る視点が変わって終わりに出来る可能性があるからです。
  ②は、ポジティブな経験、良かったこと、感動したことを書き出します。この作業の素晴らしい点は、ネガティブなものに目を奪われていた状態を、強引に明るい面やポジティブな面に目を向けさせることになることです。
  一度ネガティブな出来事に執われてしまうと、明るい考え方やポジティブな発想そのものが脱け落ちてしまい思いつかない状態に陥ります。楽しい考えや嬉しい経験、前向きな考え方に心が向かわなくなるのです。だから、義務として、その日の嬉しかったこと、楽しかったこと、ポジティブな経験を思い起こし、対象化して書くという作業が、ネガからポジに180度視座を転換させてくれることになるというわけです。
  ①と②に共通するのは、経験を書き出しながら、経験の意味を考え、「なぜそうなのか?」という分析や問いかけが行なわれるようになることです。これは意識的にやるべきです。その結果、注意深く自分の生活を観ていくことになり、マインドフルな瞑想的な生き方になっていくからです。

  三番目は明日の目標です。小さくても実現可能な目標を立てます。どんなことでも、具体的な目標や〆切などを立てるか立てないかで、実現する可能性に大きな開きが出てきます。漠然とこうしたい、こういう風になりたい、と誰でも思っていますが、その希望が具現化するか否かは、目標として明確に掲げられたかどうかによります。〆切のない仕事はいつまでも終ることがないのです。やるべきタスクが明示されれば、エネルギーの集中が明確に絞り込まれ、生活全体に勢いがついていきます。
  さらに、目標を立てることによって、それを実現していく過程や、その時の自分の心が観察され、確認し納得するように促されます。その結果、自分にできること、できないことが明らかとなり、目標がいちだんと鮮明になっていきます。これは自己認識ができてくるプロセスとも言えます。すでに実践されレポートされた方は、三行日記を続けることによって自己否定の負のスパイラルを乗り超えることができたといいます。
  また、三行日記は、漠然とした一日の出来事を3つの角度から分析的に眺めることですから、ヴィパッサナー瞑想の最重要ファクターでもある「択法」の訓練につながっていると言ってよいでしょう。現在の瞬間にただ気づくだけだったサティの瞑想に、洞察の智慧が伴ってくる高度なサティに成長していく可能性が開けてきます。

4.仏教的智慧の育て方
  ものごとを分析的に捉えていく技法としての三行日記は、仏教的智慧の育て方に通じるものがあります。そのポイントを、箇条書きに挙げていきます。
  問題点について徹底的に調べつくすこと。精査すること、これが第一歩です。
  疑問点があったなら、納得するまで質問すること。わからないことをわからないまま曖昧にしない。徹底的に理解し腹に落とし込めば、どんな難問も解決の糸口が見えてくるし、不可能に思われていた自己変革も成しとげることができるものです。
  ものごとを完璧に理解し把握すれば、やり遂げる決意が揺るぎなく定まり、すべてが始まる可能性が開けてきます。そのために、よく質問をして曖昧なところや不明な部分を一掃します。
  優れた人は素晴らしい質問をするものです。大いなる疑問を持つのも、本質に迫る鋭い質問ができるのも、問題に真剣に取り組み、真実を見極めようとする真摯な態度や生き方に由来すると言ってよいでしょう。良い質問をするには、その前に自問自答し、文章化してみたり関連事項を調べたりして自分の考えや経験を整理します。当然のことですが、質問する相手は自分より優れている人を対象とします。
  自分の発想とはまったく異なる視点からの素晴らしい回答が得られれば、自己客観視がさらに深まり、智慧の出る土台を広げることができるでしょう。
  問題点そのものを好きになること。ネガティブな問題に対して嫌な気持ちが先立つのは当然のことですが、避けがたく遭遇したことは運命だと受け入れ、腹を括って好きになる決意をするのです。好きになれば、注意の注ぎ方が一変し、ポジティブな側面に目が向き始めるでしょう。発想の転換が起き、脳内編集が変わるのです。
  アスリートがどんなに苦しくても頑張るのは、どれほど苛酷だろうとそれが好きだからでしょう。好きになることでものの観方が変わり、精査することが楽しくなっていきます。よく知れば知るほど、そのことが好きになる法則もあります。情報の力です。
  紙に書き出すこと。カードなどを使って簡潔に可視化していきます。これはブレインストーミングとして、問題解決のための方法論としてすでに広く知られている方法です。
  頭の中だけでは、対象化や客観視が難しく、いつの間にか堂々めぐりになったりします。自分の頭の中のことを外側に吐き出させ、可視化すると、今まで見えなかったことが見えてくるし、客体化が断然やりやすくなります。
  対話による双方向性。これはとも通じますが、優れた人との対話には偉大な力があります。基本的な発想がまったく違うし、対話しながら視座の転換のやり方を具体的に教えられているようなものです。異なる見方を知り、視野が広がるだけではなく、相手の言葉に反射的に答える自分自身の言葉にも驚かされ、教えられたりします。
  ダイアローグ(対話)は生きものです。話題やテーマが思わぬ方向に変化し、突飛なアイデアが閃いたり、エゴの立場からは予想もしなかった方向に問題が展開したり、煮詰まっていったりします。対話による双方向性には、智慧が躍動する可能性が秘められていると言ってよいでしょう。
  環境を整えること。環境の乱れは、心の混乱を表してもいます。心は表情に現れ、態度に現れ、服装やその人の環境に必ず表現されてしまうものです。
  そうであるならば、まず周囲の環境を整えてみるのです。環境が変われば、心も変わっていくものです。食べるものが変われば、栄養状態が変わり、体調が変わり、体の環境が変われば、心は必ずその影響を受けるでしょう。
  緑の多い静かな山の麓の民宿に籠もって仕事に取り組むのと、絶えず嬌声が聞こえてくるキャバレーとカラオケ・バーに挟まれたアパートの一室で同じ仕事をしなければならないとしたら、環境の力は無視できないものがあります。
  物理的な環境を整えると、心も整えられていきます。どうしたら智慧が出るかの要因の一つです。
  食べ過ぎないこと。食べ過ぎは瞑想にも智慧にもよくありません。消化に負担がかかれば、頭がボーっとするし、鈍重な感覚になります。より物質的になり、イライラし、欲望が泥沼化して煩悩が暴れ出す出発点は、過食にあると言ってよいでしょう。
  人類の進化も、新たな発明も、偉大なる飛躍が起きるの時に共通なのは、ハングリーであること、生きるか死ぬかのギリギリの極限情況や大ピンチに陥っていること、火事場の馬鹿力を出さざるを得ないことです。
  腹いっぱい飽食し、満足して好きなだけうたた寝が許されるような環境から、智慧が生じることはないと心得るべきです。
  栄養バランスの良い食事を少食でまとめることができた後に訪れる、明晰な意識状態と明敏な感覚は何よりも得がたいものです。
  体を清潔に保つこと。自分の身を置く部屋の環境だけではなく、体に直接触れている衣服ですら心に影響を心に及ぼしているのです。何日も下着を変えず、汗臭い汚れた衣服をまとっているのと、きれいに洗濯したばかりの清潔な衣服を比べてください。
  衣服が清潔でも、長い間お風呂に入れなかったらどうですか。垢光りする臭い体の不快感はたまりません。感覚が爛れ、荒んだネガティブな思考に陥るでしょう。
  たとえ貧しい服装でも清潔で、毎日お風呂に入って体もきれいなら、心はその影響を受けます。
  五戒を守ること。戒を破るということは、殺生や盗みや嘘や不倫をしていることですから、罪悪感と自責の念に必ず苦しみます。心は絶対に落ち着きません。強がったり居直ったり、抑圧しても、潜在意識は必ず覚えています。悪夢にうなされたり、得体の知れない不安感や体の震えなど、心を乱す元凶になります。
  心が澄みきった状態でなければ、智慧の発現は望むべくもありません。落ち着きのないブレた心から智慧が生じることはなく、いわんや罪悪感に怯えたやましい心から智慧が閃くことなどあろうはずはないのです。
  もし五戒を破ってしまったなら、しっかり懺悔の瞑想を行なって、二度と同じ過ちを犯さないと誓い、罪業感を手放してください。
  最後は善行です。善いことをすると間違いなく気持ちが良くなりますし、清々しい、青空のような感覚を覚えるばかりではなく、自己有用感を高めます。私のような者でも、人のお役に立つことができた。苦しみから抜け出せたと、心から感謝されたりする瞬間の感動は素晴らしいものです。常に善いことをしてきれいに生きていて、心にわだかまるものがなければ、智慧が生まれてくる条件が整ってくるのです。
  そのための具体的な方法として、「善行日誌」を付けるのも良いことです。毎日一つは善行すると決め、その日の善行を記録する「クーサラ日誌」を義務化すると、善行が確実に定着し、自信を喪失し落ち込んだ時などに読み返すと、自己肯定感とプラス思考が取り戻せるでしょう。自分の善行の記録が、自分を救ってもくれるのです。

5.まとめ
  三行日記は抽象化する能力がないと書けませんから、その訓練を行ないます。例えば、文章の大意を要約したり、メールの内容を一言に凝縮した件名を付けたり、チャプターや節の小見出しを付けたりする作業は抽象能力の訓練になるでしょう。ニュースで報道される事件の本質や原因を想定してみるのも良いかもしれません。複数のものに共通している要素は何だろうと問うのもよいし、ごった煮状態のものごとの最も大事なポイントを見つけたり、類推するのも訓練になります。
  こうしたトレーニングをしていれば、ラベリングの技術が向上し、サティの精度も上がっていくでしょう。そして、なぜ三行日記がお勧めなのかと言えば、その日の膨大な出来事の中から大事なポイントを見つける訓練になり、簡潔的確に要約してラベリングする技術に直結しているからです。
  洞察の智慧が閃くような素晴らしいサティの一瞬は、日々の気づきと、反応系の浄化と、智慧を発現させるためのトレーニングの所産と言えます。
  反応系の修行も含めた瞑想を基軸にして、生きること全体、生活態度全体が智慧の発現を目指す方向に向かえば、苦しい人生が笑顔の絶えない人生になっていくことはまちがいありません。一日10分のサティの瞑想と、三行日記に代表される反応系の修行を並行して続けていきましょう。
  それが、苦しみを乗り超えるために提示されたブッダの瞑想修行の現場なのです。

<関連質問と回答>
Aさん:三行日記もサティの瞑想も、起きている現象を受け止めれば良いということでしょうか。

アドバイス:
  そのとおりです。人生のあらゆる問題は、過去になされた善業や不善業の結果として起きています。私たちは瞬間瞬間に新しい業を作っているわけですから、ネガティブな反応をしてしまえば、やがてまた嫌なことが起きます。ですからどこかで悪い循環を止めなければなりません。苦受を受ける出来事があってもネガティブな出力をしないことです。嫌なことがあっても勇気をもって発想の転換をし、嫌な思いをして苦受を受けることによって不善業が消えたのは良いことだ、と受け止めるのです。善なる出力をしていけば、人生は必ず良い方向に向かっていきます。
  そしてそのためには、起きている現象をきちんと受け止めなければなりませんが、何が起きているか、それを正確に捉えるにはサティによる気づきと、仏教の智慧がどうしても必要なのです。その智慧を磨く一環として、三行日記が一助になるということです。


Bさん:三行日記では三つのことを1行ずつ書くのですか。分量はそれぞれ同じなのでしょうか。また目標というのは前の二つに関連していなければならないのでしょうか。

アドバイス:
  まず目標については、前の二つを踏まえなくてもよろしいです。大きな目標ではなく、実現可能なささやかな目標を立て、達成感を感じることが大切です。
  前半のご質問は、原則として、3つの項目をそれぞれ1行で書きます。分量すなわち字数は、三行日記の横幅によっても文字数が異なってくるので適当でよいでしょう。
  なぜ長文よりも短いほうが良いかと言うと、まず長い文章の日記は続かなくなり挫折しがちだからです。短い1行の日記を一日に3行なら続くでしょう。
  次に、文字数が少ないということは、その日の経験の大事なポイントに絞りこんで書かざるを得なくなるからです。短くしようとすると無駄なことがそぎ落とされます。これが、否応なしに抽象化する能力や本質を適確に捉える訓練になるのです。短い言葉で簡潔に表現する努力はラベリングの技術を格段に向上させるでしょう。
  たった1行のことですから、同じ文字数になる必要はありません。短歌や俳句を作るのとは違います。時には2行になり3行になる例外も認めてあげる鷹揚さが長続きのコツになるかもしれません。
  何事も原理原則どおり厳密に考え過ぎると窮屈になります。楽しみながらおやりになり、定着してから、精度を上げ、高度な内容のものにしていくと良いでしょう。
  ものごとを異なった角度から捉え、その本質を絞り込んで簡潔的確に要約する訓練は、瞑想上達の道であり、智慧ある人になっていく秘訣です。三行日記をどう書くかは、まさにその人の智慧の現れでもあります。
(文責:編集部)

 

 


     

 

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 

 

                                                           地橋秀雄

  

今月のテーマ:瞑想への期待と質問(1)   

 

                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

 

Aさん:
  会社ではいろいろな問題が日々起こります。そんな時にはどうしても今までの行動や感情のパターンで解決しようとしてしまうのですが、いつも迷いがあり自信が持てません。批判や否定的な反応を恐れているのかもしれませんが、瞑想をどう仕事に反映すべきか考えています。

アドバイス:
  意志決定をする時に大事なのは、何が問題なのか正確に現状を把握することと、揺るぎない判断基軸を持つことです。
  ヴィパッサナー瞑想は、仏教の価値観を判断基軸に、一瞬一瞬の現状をありのままに捉えていくものです。もしあなたがヴィパッサナー瞑想を拠りどころにして生きていくなら、問題を正しくとらえて明確な意志決定をくだしている自信が持てるでしょう。迷いのない生き方ができると思います。
  仏教が人生の指針になるのは、悪を避けて善をなすという方向性が明確であり、何をやればよいのか、何をしてはいけないのか具体的にを示しているからです。
  例えば、日々サティの瞑想を修行する大前提として、五戒を守り善行を心がけていく反応系の修行が提示されています。生命を殺したり傷つけない、盗まない、嘘をつかない、不倫をしない、お酒や麻薬で理性を麻痺させないという戒を守ることは確定なのですから、さまざまな場面で即断即決ができるでしょう。何ごとにもブレなくなるし、状況に流されて場当たり的になることもなくなるでしょう。考え方や行動が一貫してくるのです。
  もう一つのポイントである、問題を正確に把握し、現状を正しくとらえること。これはサティの瞑想の独壇場と言ってもよいものです。先入観や思い込み、早とちりなど、誤った対象認識をもたらす要素を徹底的に排除していくのがサティ本来の仕事なのです。
  いかがでしょうか。ヴィパッサナー瞑想は、非常に優れた問題解決のシステムでもあるのです。世界中の人が2500年間守り伝えてきた伝統の流れに自分も与して、生きる拠りどころとしている感覚があれば、誰かが批判したり否定しても恐れることのない自信が得られるのではないでしょうか。
  ヴィパッサナーを日々修行しながら、ぜひ仕事に反映させてください。

Bさん:
  最近もの忘れが特にひどいです。対策としてサティを活用できないかと思っているのですが。

アドバイス:
  サティという言葉の語源に記憶という意味があると言われます。おそらくサティを入れると記憶が強化されるという経験値が働いているのでしょう。見たものを「見た」、聞いたものを「聞いた」と再確認するのがサティの仕事ですから、一瞬一瞬の認知が記憶に焼き付いて強化されるのは当然です。
  パソコンのダブルクリックのようなものですね。老化とともに記憶が衰えてきた時に、サティの瞑想は第一でやっていただきたいです。
  その他にも瞑想からは離れますが、記憶力対策として例えば、体を使うことがとても大事だと言われます。逆に、体を使わなくなると認知症の進行が早くなる、と介護施設の方から聞いたことがあります。お年寄りの方が寝たきり状態で1週間の入院からもどると、認知症の症状が驚くほど進んでしまっていたというのです。
  認知症防止に最も効果があるのは、二重タスクといって例えば、早足で歩きながら100から7を引き、93からまた7を引き、さらに86から7を引くというように、体全体の筋肉を動かしながら脳を使うのがとてもいいそうです。脳トレと筋トレを同時に組み合わせるのが最高らしいです。
  人は仕事モードの時が一番真剣になるとも言われます。収入の有無は関係なく、ボランティアでも町内の幹事や役員でも、責任ある仕事を引き受けると否応なしにやらざるを得なくなり、脳の活性化に繋がります。だんだん体が老化してくると何をやるにも面倒くさくなるのが自然な流れです。そのまま誰かにやってもらって自分でやらなくなると、ますます記憶や脳の働きも衰えるという悪循環に陥ります。がんばって自分がやるしかない情況に敢えて身を置いてしまうのが智慧ではないでしょうか。環境やシステムの力を使って記憶の衰えを食い止める工夫をしたいものです。
  三浦雄一郎さんは80歳でエベレスト登頂の快挙をなし遂げましたが、足に錘を付けたり背中にも何十キロか背負ったりというトレーニングをしたそうです。また家の中にも低酸素室を作って平地の3分の1ぐらいの酸素で暮らしたりとか。その結果、骨密度や筋肉がほとんど20歳台、30歳台ぐらいの数値が出ていると聞きました。
  鍛えれば本当に何歳になっても可能性があります。脳も一緒です。三浦さんを見ていると、単なるトレーニングだけではなく、目標を持って、それを達成しようとするように脳を使っています。彼自身も、次の目標を失ったときには、実に無様にぶくぶく太って見られた姿ではなかったといいます。
  課題と義務に強いられて使い始めたとしても、脳はどこかで勢いがつき始めるものです。サティの瞑想と並行して対策を講じていけばだいじょうぶと信じてがんばりましょう。

Cさん:
  瞑想をしたいと思う半面、それに踏み込めない自分がいます。

アドバイス:
  煩悩を無くそうとする心と、煩悩を捨てたくない心が併存しているのが人の心というものです。悪いことをやりたい心と悪を抑止する心がバトルを繰り広げているのです。ですから、心をきれいにしよう、煩悩を手放そうと一歩進もうとすると、必ずエゴが抵抗します。煩悩の方は消されたくないから、なんとか修行をやらせないように企てるのです。
  瞑想をやりたいのに、やりたくない、というのは、どなたにでもあり得るごく自然な反応です。そこで瞑想を放棄するという選択肢もありますが、もしやらなければ、これまでと同じ人生です。苦しみも繰り返されるだろうし、何も変わらないでしょう。縁があったのだから、瞑想に踏み込んでいただきたいと思います。
  しかし、踏み込めないのはなぜか・・と問う必要があるのかもしれません。一般論で片付けられない何かがあるのでしたら、それをつまびらかにしないと先に進めません。心に謎があれば、それを解かないと矛盾した反応は治まらないものです。
  精査して何もなければ、ヤル気を起こすのに一番よいのは感動することです。瞑想は素晴らしい、これはやりたい、やらなければならない・・と瞑想関連の情報に感動すると俄然ヤル気が出ます。

Dさん:
  ヴィパッサナー瞑想以外にも、マントラを唱えるようなサマタ系の瞑想を毎日やっていますが、そのまま続けてもいいでしょうか?

アドバイス:
  サマタ系の瞑想で定力を訓練してからヴィパッサナー瞑想をやるのは正しい道筋なので、やっていただいても問題ありません。ただし、ヴィパッサナー瞑想を修行する時には、他の方法とミックスさせないで厳密にやってください。自己流でいいとこ取りをすると必ず破綻するでしょう。
  マントラ系で十分集中力を高めた後には、潔く切り換えてヴィパッサナー瞑想を修すれば、むしろその方が望ましいくらいです。

Eさん:
  中心対象にイメージを重ねているような感じです。

アドバイス:
  中心対象をイメージ化してしまうのはよろしくありません。イメージは概念であり妄想に分類されるものです。法としての存在に妄想をダブらせて感じたり知覚するのは不純ということになります。まさにこの二重性が煩悩が始まる最初の瞬間というべきです。イメージと直接知覚とは完全に仕分けなくてはいけないのです。腹部の感覚に「膨らみ・縮み」とラベリングして、イメージが浮かべられ重ねられているのに気づいたらそれには「妄想」「イメージ」とラベリングして、感覚とイメージは2つの現象であることを確認してください。
  おそらく中心対象にイメージを重ねた方が、感じ方が強化されるので何となくしていたのではないかと思います。中心対象を鮮明に感じようと執着が起きると、目的のためには手段を選ばず、と強引なことを始めてしまうものです。鮮明に感じられたら「鮮明」、ボケていてハッキリしなかったら「不鮮明」とラベリングして、経験されている通りに、淡々とあるがままに気づいていくのがヴィパッサナー瞑想です。

Fさん:
  全てを受け容れるというところに、意志の力というのは必要なのでしょうか。

アドバイス:
  必要でしょうね。「全てを受け容れる」ということは、ネガティブな出来事や絶対にイヤだといった凶々しきことも含めて「全て受け容れる」わけですから、できますか? 普通はよほどの意志の力がなければできるものではありません。エゴ感覚も限りなく削り落とさなければ、これはイイが、あれはイヤ・・となります。
  となると、苦楽を等価に視ることができなければ、そして限りなく無我に近づかなければ、全てをありのままに受け容れることはできないものです。つまり大変難しいということです。悟りの境地に達していない者がそれをやろうとすれば、強烈に意志の力を働かせて苦行としてやることになるでしょうね。・・でも、がんばってやってみてください。

Gさん:
  瞑想修行をしている時と違って、日常生活の中ではサティがかなりいい加減になってしまいますが、それでも良いのでしょうか。

アドバイス:
  それで全然かまいません。いい加減でも、日常生活の中でサティが入るということは素晴らしいことです。普通に仕事をしたり、何人もの家族と暮らしている生活では、とても入らないものです。
  日常生活の中ですべての現象に気づくのは困難ですが、一点に絞り込んで例えば、嫌悪にだけはサティを入れる、高慢にだけは絶対に気づくと決意すると、その不善心が出た時にはセンサーランプが作動するようにサティが働くようになるものです。
  それは、嫌悪や高慢などの不善心を容認しないで手放す覚悟に比例するでしょう。どれだけ真剣に受け入れているかによって、心の中で情報処理をする時にその意識がいちばん上位で働くので、敏感に気づけるようになるのです。

Hさん:
  普段の生活での心構えを教えてください。

アドバイス:
  ヴィパッサナー瞑想者にとっては、不善心所の状態でいることが悪なのだと心得ましょう。
  不善心所モードでいるときの一瞬一瞬のチェータナー(cetanā:意思)が不善業を作っていきます。貪りでも、瞋りでも、嫉妬でも、高慢でも、後悔でも、不善心所の状態でいることが苦しみの原因になっていくので、そこから離れなければいけません。
  心をきれいにするというのは、そういうことです。それが未来に起きる現象を決定づけていきますから。不善心所は止めると強く決意すれば、その命令が強力であれば、不善心所に気づき、歯止めがかかっていくでしょう。

Iさん:
  瞑想を始めて2週間です。この瞑想で人格の完成をめざすというところにゴールを設定して、あとは今自分の身に起きてくることに対処していくしかないのではないかと思いましたが、いかがでしょうか。

アドバイス:
  仰るとおりです。一瞬一瞬サティを入れて、ありのままに正しく現状を把握しながら、悪を避け善をなす原則を貫いていく覚悟で対処していけば、やがて人格完成のゴールに到達していくのです。
  それが心を限りなく浄らかにしていく清浄道の瞑想の完成です。

Jさん:
  この瞑想が悟りにつながっているという確信が持てません。そもそも悟りというものがよく分からないのです。(『月刊サティ』2002/6 再録)

アドバイス:
  悟りは、自由になることだと考えておけばよいでしょう。人は誰でも束縛されて苦しいのです。何に束縛されているかというと、自分の心に、です。怒り、嫌悪、侮蔑、嫉妬、渇望、物惜しみ・・・などの不善心に巻き込まれ、うざったく、鬱陶しく、イライラする不快感に支配されて自由になれないのです。
  悟った人たちは、どんな劣悪な情況でも束縛を感じることなく、心ひろびろと爽やかに生きています。
  ヴィパッサナー瞑想で心をきれいにすると、現象は悪いままであっても苦しくないのです。認知を変えることができれば、ひどい環境でも心から満足し感謝を捧げることができてしまうのです。
  その反対に、心が汚ければ、汚いとは、怒りや欲にまみれ、嫉妬に支配され、劣等感と高慢の往復に振り回され、絶望的に落ち込んだりしている状態ですが、こうした汚い心でいること自体が苦しいのではないですか。それゆえに、汚い心をきれいにすることが苦しみをなくすことに通じています。心をきれいにしていく清浄道の瞑想を実践することが、すべての束縛から解放され苦しみから完全に自由になる道なのです。
  なぜ、苦しい世界にいながら、悟った人たちが苦を感じないかと言えば、現象を経験する瞬間の心にサティを入れると、不快だ、イヤだと反応する心が起動しないのです。ただあるがままの事象がそのまま経験されているだけで終ってしまいます。これが全ての苦をなくしていくブッダの方法です。
  聖者たちは、事象が心にぶつかった瞬間に離脱が終っているかのような世界におります。私たちも1回でもサティが入れば、その究極に向かって一歩前進していると考えてよいのです。
(文責:編集部)

 

 ~ 今月のダンマ写真 

 










               ミャンマーの寺院にて

 
 
 

 

 



沙弥の少女たち

 

NN.さん提供

 

  Web会だより  

 

夫が教えてくれたこと(後半)匿名希望

 

  「赤ん坊の頃から手のかかる子だった」・・・この言葉は幼い頃から何度も聞かされたセリフです。その言葉に私は強く反応しました。
  「それはそっち側からみたことでしょう?なぜ、十分なお乳をあげられなくてごめんね、という気持ちになってくれないの?」という積年の思いがこみ上げ、それは怒りの感情に変わりました。気がつくと、お腹をすかせた赤ん坊の私が泣いている映像が頭に浮かんでくるのです。
  「お母さんは、なぜお腹をすかせた赤ん坊の私のことを可哀想と思ってくれずに、自分のことばかり被害者だと思っているの?!」と怒っていました。
  しかし、この「双方に被害者意識」を抱いていたということに気づいた時、自分の中に大きな気づきが生まれました。
  私が一番悲しく感じた母の「お願いしますと言われても、ウチだって困っちゃう」という発言は、私自身の中にあった、「夫を失い、これから子どもたちを一人で育てて行かなければならないけれど・・・本当に自信が無い。不安だらけだ。本当にやっていけるのだろうか。」という強い不安と同じだったのだ・・・と思いました。
  事故後初めて家にかけつけた時に言い放った「今まで平穏だったのに・・・」という言葉を耳にした時、不快感が広がりました。それは、我が家が母の平穏な暮らしを乱す元凶のように扱われていると感じたからです。
  しかし、そう感じた自分自身の心を観た時、「どうして突然死んでしまったの?何故もっと安全確認して行動してくれなかったの?」と亡くなった夫を哀れむのではなく、厳しく責め続けている自分がいることを自覚しました。
  私が嫌悪した母の発言と、自分の中にあった本音が同じものであったことに気づいた時、自分の中の怒りが半減しました。
  「私は何に対して怒っていたのだろうか。自分自身の本音に怒っていたのか・・・」と思いました。母は、私の本音を感知し言葉に表していただけのように感じられました。この世で私が反応することは、すべて自分自身の中にあるものではないかと思いました。
  また、私にとって夫の事故死は理不尽極まりない出来事で、無意識に大きな怒りを抱えていました。その感情はどこにもぶつけることができないものでした。(何をしても夫は戻ってこないので、夫を轢き殺した加害者に対して怒りを持つこと自体虚しいと思っていました)
  「私は出口の無い怒りの感情を母相手に吐き出していたのだ。私は母に甘えていた」という思いが心を占めるようになりました。
  さらに、自分の行動を振り返ってみました。すると、子供たちが探しものなどでとても困っていた時など「だらしないからだよ」と冷ややかにせせら笑っている自分の姿が浮かび上がってきました。私自身、子供が助けを求めていた時、突き放した行動をとっていたことが数多くありました。今回、そのカルマが戻ってきたという捉え方もあると思いました。
  様々な視点から、母との問題を考え、当初抱いていたどす黒い感情は段々薄らいでゆき、心が軽くなっていきました。母とは年末以来、現在に至るまで4カ月の間会っていません。仲直りできたら一番良いのですが、無理して「良い子」にならず、自分の心をじっくりと観察し、自然な流れに身を任せたいと思っています。
  夫が命にかえて教えてくれたことに心から感謝し、今後もさらに自分なりの理解を深めていきたいと思っています。(完)  




☆お知らせ:<スポットライト>は今月号はお休みです。

 

 

       

 






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ダンマの言葉

体は、ただ体にすぎません。感受、名づけること、思いの形成、認識などは、ある時が経過するまで働く、過ぎ去っていく状態に過ぎません。それらが継続する力も無くなった時には、その真理に従って、ただあるがままに手放して行くだけです。清浄さという真の本性は、まったくのところ何の問題もありません。(『月刊サティ!』20081月、「砂の一粒、一粒にも」アチャン・マハブア、より)

       

 今日の一言:選

(1)誤解が解けないなら解けないで、仕方がないではないか。
 心から幸いを願い、祈る心に一点の曇りもないのであれば、真意が伝わっても伝わらなくてもよいのだ。
 関係が修復されてもされなくても、慈悲のエネルギーは確実に届くであろうし、その結果ちょっとでも輝きを増した良い人生になってくれれば望むところではないか。
 見返りはゼロでも、いや、たとえ怒りや嫌悪の念を向けられようとも、黙って、慈悲の念を捧げていく……。

(2)「わが事において悔いず貪らず、揺るぎない捨(ウペッカー)の心を保持するにはどうしたらよいのでしょうか?」
 「あらゆる事象が因果のエネルギーの帰結した姿であって、すべて必然の力でそうなったのだと心得ること。
 何が起きようとも物事は必ず変滅していく、と無常性への理解を徹底すること。
 この2つを反応系の心に叩き込んで、サティを入れ続けることでしょうか」

(3)それ故に、自分に災いをもたらし、傷つけ、苦しめてくださる方には、心から感謝を捧げるべきである。
 自分自身は悪業を作りながら、身をもって、人生の奥義を教えてくださっているのだから……。

 「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。


       

 

 読んでみました

 

 『脳が壊れた』鈴木大介著(新潮社、2016年)

 

  著者は、家出少女、貧困層の若者、詐欺集団など、社会からこぼれ落ちた人々を主な取材対象とするルポライター。2015年の初夏、41歳で右脳に脳梗塞を発症、身体機能への後遺症は軽かったもののいくつかの高次脳機能障害(高次脳)が残った。外からは「見えずらい障害」でありながら、それまで出来ていたことが出来なくなる苦しみを、患者であり記者である視点をもって苦闘しながらも客観的に観ていく過程で、それが、かつて取材した人々のありようの内側と非常によく似ていることを発見していく。
  挙動不審のヒサ君の行動の背景には何があったのか。挙動不審に見えると分かっていてもそれが止められないのは「本当に苦しくて、非常にフラストレーションのたまること」で、「彼もまた子供の頃からこんな苦しさをずっと抱え続けて生きてきたのだろうか」と。自分がこうなってみて初めて実感したと言う。
  生活保護受給レベルにある「女性の貧困」の取材で、福祉事務所への同行支援を試みた中に現れる彼女たちの症状は、「漫画が読めなくなって」しまい、病院内の売店で小銭が数えられなくなってしまった筆者と同じだという。『最貧困のシングルマザー』取材中に「おつりが数えられなくなった自分に絶望した」というエピソードは何人にも共通していた。「貧困とは、多大なストレスと不安の中で神経的疲労を蓄積させ、・・・認知能力や集中力などが極単位落ちた状態」なのではないか。
  その他、構音障害、半側空間無視、注意欠陥、メンチ病、感情失禁(感情の抑制が外れる)、等々、暴流のような症状に襲われる。そして、「不自由なのに、やりたくてもやれないのに、分かってもらえない。それを言葉にすることもできない」苛立ちの中に、認知症やイジメの被害者、「言葉と感情の暴走」に翻弄される子どもたちの内面と通底するものを見いだしていく。
  退院後、筆者は41歳という若さでなぜ脳梗塞を発症したのかを徹底的に考える。生活上の自己管理と節制には自信を持ち、規律的に生きてきたつもりだったのに、「なのにこれだ。どうしてだ」。そして、「原因のすべては、僕自身の中にあった」ことに愕然とする。奥さんも2011年に脳腫瘍の手術も受けている。後遺症はほとんどないのだが、奥さん自身も自覚している手際の悪さや注意欠陥にイライラしっ放し。家事のほとんどを奥さんがする前にすべて自分でしてしまうという生活。いつ脳梗塞が再発してもおかしくない数字を示す血圧計を手に、「僕は呆然としてしまった。これだ、これこそが、わが「病因」だ」と気づく。そして、出てきた結論は「性格習慣病」であり「自業自得」だった。「この性格を改善しないかぎり、いずれまた同じ生活に戻り、そして再発する」。
  筆者は自身の問題性格を、「背負い込み体質」「妥協下手」「マイルール狂」「ワーカーホリック」「吝嗇」、そして「善意の押しつけ」と列挙する。最大の欠点とする「善意の押しつけ」では、「妻のため、○○のため、そうやって自分を追い込んできた結果として脳梗塞にまでなった気がするが、よくよく考えてみるとそのほとんどが『相手が望んでいること』ではなく、『僕がそうしたほうが良いと思っていること』に過ぎない」ということに気づく。
  病気全般にわたることではあるけれど、筆者は、妻、病院、リハビリも含む先生方や友人等々、こうした支えがあって文字通り衝撃を和らげるネット上への「軟着陸感」を持てたという。そのネットとは、文字通り「人の縁」なのだ。そして、「病後7カ月にやったことは徹底的な自分への取材であり、それは内観法に似たようなものだったように思う」と結論づけている。
  最後に、自身もメンタルを病んでいた奥さんからの一文を紹介したい。「心の痛みというものは、今日は本当につらくて死にたくて、明日もつらいかもしれない。でも明後日になったら一気に楽になっているかもしれないという部分があって、それの繰り返しです」「子どものころから母だけでなくいろいろな人に、夫にも、何かをやる前に先にやられてしまう。うまくやれないという理由で自分でやろうとしていることを奪われてしまうということの繰り返しできているから、結局本当にやれることが少ない」。
  そして、「もし読者のお連れ合いが脳梗塞になったら? この私が支えられるんだから、普通のしっかりした方なら何とかなる。それまで会話が少ない夫婦だったら、たくさん会話してあげてください。病気になった時は人生の谷かもしれないけれど、また山は来ます。私はというと、30年後から頑張るぉ」。(雅)

 

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