月刊サティ!

2017年4月号 Monthly sati!   April 2017


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:生き方をめぐって(2)
  ダンマ写真
   
Web会だより 『夫が教えてくれたこと』(前半)

  スポットライト 『決意されていく心』(4)
  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -48-(最終回)
  ダンマの言葉
  今日の一言:選
  読んでみました 『シン・ゴジラ』のメッセージ                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ:生き方をめぐって(2)   
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

◎不安感が消えない
Aさん:
  私は漠然とした不安感を持っています。この瞑想を始めてから2年間でだいぶ薄まりましたがまだ残っています。
  私には完璧主義のところがあって、自分自身に対しても会社の同僚に対しても高い水準を求めてしまいます。そして、これまでは貪りというと物欲のこととばかり考えていましたが、完璧主義から高水準を求めることも貪りなのかもしれないと思うようになりました。もしそうなら、常に上を求めすぎる心の傾向が原因で、漠然とした不安感を手放せなかったのかなと思い当たりました。

アドバイス:
  今のお話は、サティの瞑想修行中に洞察されたものではありませんね。ということは、考察や内省などが深まって、心の反応系や生き方系に新たな認識が出てきたことだと思われます。知的な認識だけでは不完全ですが、心が総体的に変わっていく一環として重要なものです。
  常に不安感があるということですが、それは愛着障害などの特徴でもあり、自己肯定感が乏しく、不安があるからこそ完全主義者になりがちなのです。幼い時期に親からの愛情を十分にもらってありのままに受け入れられてきた人は、何をしていても、どのような状態でも、自分の存在そのものをネガティブに捉えることはないので完全主義にはならない傾向があります。
  ところが愛着障害があって自尊感情に不安要素があると、悪い子では愛してもらえないのではないか、と考えるようになりがちです。100点を取り完全なら愛してもらえるが、そうでないとダメだ。完璧に愛されるためには完全でなければならない。自分で自分に対して駆け引きを行ない、常に漠然とした不安感に怯えるようなメンタリティになることがよくあります。

Aさん:
  私の中にある不安感というのは愛着障害の名残りという可能性が高いのでしょうか。

アドバイス:
  その可能性は高いように思われますが、いかがでしょうか。愛着障害は、生後12年くらいの母子関係に起因すると言われています。その頃に、母親から丸ごと受け容れられ、存在の絶対肯定をしてもらった安心感が植え付けられているかどうかなのです。
  自分はただ存在していてOKなのだという感覚があると、安定型になります。ところが、母親が病気だったり、仕事の関係でスキンシップが十分にされなかったり、兄弟姉妹との関係で相対的な不公平感を持つなど、何らかの事情によって愛着障害が発生すると、心は不安定になり、健全な自尊感情が育まれなくなります。そうなると、基本的に不安を抱えるようになります。
  不安になると、もっとがんばって完璧にならないと愛してもらえないのではないかと子供ながらに思うようになり、さらには、自分が愛してもらえないのは不完全だからだという発想になるのです。ここが不安感の一番の原点になっている場合が多いように思われます。

Aさん:
  完璧主義になると、どうしても求める心が強くなって、貪瞋痴の貪もひどくなるということですか。

アドバイス:
  完璧主義の傾向が一度始まってしまえば、それは癖になりますので、人間関係に関しては絶対的な絆を作りたいという方向に傾くでしょう。そうすると相手にとっては重くなってくるのですね。人間関係を長続きさせるコツは、あまり近づき過ぎず、濃密にならない腹六分目くらいに抑えておいた方がうまくいくと多くの人が言っています。「君子の交わりは、淡として水の如し」ですね。

Aさん:
  完全主義のそういう傾向は、貪瞋痴でいうと貪に当たるのですか。

アドバイス:
  そうですね。より完全なものへとエスカレートしていくところなどは、貪りの要素が入っていると感じます。80点で合格点に達しているのに、いや、ダメだ、なぜ100点取れないのだ・・となっていくところで貪りの心所が入っていませんか。
  ただ、その引き金を引いているのは、自分は生きていて良いし、存在していて大丈夫なんだ、という基本的な安心感の欠落ではないかということです。それが何らかの原因で十分に得られないと、いつでも不安感が通奏低音のように鳴り響いている状態になります。
  愛着障害があると、不安感を他の何かで補わなくてはならないと感じてしまい、人生全般に影響を及ぼす傾向がありますね。人間関係でも仕事の達成感でも、いつでも完全を求めて頑張り抜いてヘトヘトになりがちです。そんな自分を変えようと自覚的にならないと、どんな傾向も自然にエスカレートしがちです。
  完璧主義の人に対しては、不完全性を受け入れなさいというインストラクションもあります。ジグゾーパズルの完成まであと一つ残したところでやめておくというように。しかし、基本的に不安感がある人にとっては、なかなかそれができないのです。ですから、不安感を徹底的になくす方向に振り切るしかない。満を持して自分の問題の根っこに正面から向き合い、ありのままに受容するために、内観で発想の転換をしたり、認知を変えることによって乗り超えるのです。
  歳を取ってもこうした傾向が手放せないのは、幼少期の問題が尾を引いているからです。
  愛着障害の問題を解決していくのは一生かけてやる仕事といえるほど大変なことですが、死ぬまでの間に乗り超えることができれば、成功した人生だと言えるのではないでしょうか。


◎夢に向かって
Bさん:
  自分の夢ややりたいことに向かって、実現可能な範囲で努力するというのは、悪い意味での欲にはならないのでしょうか。

アドバイス:
  やるべきことをやり、見るべきほどのものを視なければ、無執着の心にはなれません。
  私利私欲に突き動かされ、エゴイスティックな欲望の充足をほしいままにすれば破綻するのは明白です。そうした苦の原因になる欲望と、夢の実現のための努力は、近似した紛らわしい状態です。果たして正しい精進なのか、不善なる欲のエネルギーがほとばしっている状態なのか、見極めなければなりません。
  ポイントは2つあるように思われます。
  ①今やろうとしていること、やりつつあることが煩悩の欲望なのか、それともやるべきタスクであり正しい夢を成就させる努力なのか、を見極めることです。
  ②正しい精進のエネルギーなのか、貪りの要素が混入した執着のエネルギーなのか、を明確にする。
  まず①ですが、これは目的論と言ってよいでしょう。あなたの言う「悪い意味での欲」になるか否かは、やろうとしていることがエゴイスティックな私利私欲なのかで決まります。言い換えれば、他人に苦しみを与える要素が含まれているか否かです。自分の夢がかなうことによって、誰かが陰で泣いていないか、苦しんでいないかを問わなければなりません。もしそうであれば、悪い欲でしょう。そのまま実行していけば、夢がかなった時点で一時的な幸福感や達成感が得られるかもしれませんが、最終的には不幸になり、苦渋を舐めるでしょう。
  この世界を貫いているのは因果法則ですから、他人を苦しめる行為や意図は必ず自分自身に返ってくるのです。苦しみの原因になる行為が不善業を作ると理解しなければなりません。それに努力すればするほど、実現すればするほど、誰かが苦しみ、最後は自分自身が苦しむことになるのであれば、不善なる行為であり、直ちに止めるべきでしょう。
  ②は、自分のやろうとしていることが誰にも苦しみを与えないし、五戒にも抵触しない、正しい目的の善なる行為であれば、努力しエネルギーを傾注することに間違いはありません。
  目的にも意図にも問題はなく、他人に対しても社会に対しても自分に対しても苦を与えるものではないなら、一所懸命がんばるべきだし、その夢がかなうことによって、自分も他人も多くの人も幸福になっていくでしょう。
  しかし例えば、多くの人の苦しみを取り除く医療の世界でも、醜い出世争いがあり、医療に従事することが劣等感の代償行為に過ぎなかったり、名誉や権力志向の本意が隠されていることもよくあります。結果的に病気から救われる人がいて、福利がもたらされている善行為なのですが、不純な心が不純な執着のエネルギーをほとばしらせていることになっていないか。そうであれば、悪い意味での欲になっていくでしょう。
  結局、どんな分野であれ、きれいな心で意志決定し、いつでも心が汚れていないかチェックしながら、よく気をつけて生きていなければ、いつの間にか道を踏み外し、最初は正しかったことが不善なる薄汚れたものになりかねない危うさがあるということです。
  揺るぎない悟りの境地にでも達していない限り、今は浄らかな心もいつ不純な心や煩悩に汚染された心になってしまうかわからないのです。
  その意味で、自分の心を信じてはいけないと戒めるべきかもしれません。
  多くの人が、正しい道をきれいに歩んで成功したのに、いつの間にか傲慢になったり、それまで存在しなかった欲望や煩悩にやられて転落していきます。ブッダが「修行僧よ、汚れが消え失せない限りは、油断するな」と言い、「よく気をつけておれ」と繰り返し説かれた所以でしょう。

◎ネガティブな発想に悩まされる
Cさん:
  何でも良くない方へ考える癖があります。何か良いことが起こってもそれを素直に受け取れず、ネガティブに考えるだけでなく、瞑想中のラベリングでも「恐怖」というような言葉が浮かんできます。

アドバイス:
  人の思考パターンや発想の基本傾向は長年の繰り返しによって組み込まれたものです。あなたの場合にも、ネガティブな思考回路が形成された原因があるのでしょう。一般論的には、幼少期にネガティブな考え方が刷り込まれていくことが多いようです。両親がネガティブな考え方をする傾向にあれば、子供は自然にその影響を受けます。褒めるのが下手な親もいます。95点を取ってきても、なぜ100点取れないのだ、と叱責するように励まそうとするタイプの親も珍しくありません。「世の中甘いものじゃないぞ」とか「どうせ上手くいく訳がない」とダメ出しばかりする親もいます。
  そうしたネガティブ思考形成の歴史があれば、意識的にそれを組み替えていこうと決意し、努力し、やり遂げていかないと変わるのは大変です。
  どのようなケースであれ、いちばんの切り札は、安全基地になってくれる人に出会うことです。絶対に裏切らない信頼できる人、プラス思考で必ず激励してくれる人、見守り寄り添ってくれる伴走者を見つけることができれば、自己変革は成功していくでしょう。良き友、師友(カラヤナミッタ)に出会うことができるように心から祈るべきです。切に願うことは必ず遂げられるし、真剣に祈ればやがて成就するものです。
  幼少期から何十年も繰り返されてパターン化したネガティブ思考を乗り超えるには相当なコストがかかりますが、そんなに根が深くない「思い癖」なら、正しく理解して、発想の転換を心がければ遠からず変わっていけるのではないでしょうか。
  この世のものごとはすべて崩れて無くなり、失われていくからこそ、今この瞬間を最高に輝いて生きようと考える人もいます。今この瞬間の状態と同じものは二度とないのだから、一瞬一瞬の今を充実して生きるという発想ですね。
  一方、苦労してやっと幸せになれたのに、失われ崩れ去っていくことを心配する人もいます。試験に合格したり、昇進したり、結婚が決まったり、幸せの絶頂のはずなのに、鬱的な傾向に陥る人がかなりいるようです。幸せな状態におびえてしまう。プレッシャーに押し潰されそうになる。夢がかなうまでは幸せに向かって努力するだけだったのに、その夢が具現化するやこの幸せが失われたらどうしよう、いつか必ず無くなる日が来るにちがいない、とせっかく手にした幸せが壊れていくことに不安になる・・。そんなネガティブ妄想をしていれば、最後は「恐怖」というラベリングになるのもわかります。
  しかし、われわれは仏教の瞑想をしているのですから、発想の転換をしましょう。この世を貫いているのは無常の法則であることを思い出しましょう。やっと手に入れたものかもしれませんが、失われたら失われたで、壊れたら壊れたで、いいじゃないですか。形あるものは壊れるのが現象の世界です。壊れて、失われて、茨の道に放り出されたら、またそこから歩み始めればいいのです。復興した時には、前よりもはるかに良くなっているものです。そうなるために壊れたと考えるのです。
  発想の転換をすれば、ある意味どんな状態も楽しめるものです。主人公が愛する恋人と楽しそうに過ごす場面ばかりが延々と続いていく映画を想像してみてください。敵対する人も、妨害する人も、嫉妬する人も皆無で、嫌なことは何ひとつ起こらず、すべてが順風満帆、何もかもがうまく行って、いつまでも笑いが止まらず、それでザ・エンドの字幕が出る。・・そんな映画観てられますか?「ウワー、どうしよう、大変だ!」と手に汗握って、ハラハラしながら乗り越えていくストーリーがあるからこそ楽しめるのでしょう。昔、登場人物が全員美男美女だった北欧の映画がありましたが、途中で観るのを止めました。()
  スポーツにしても同じことが言えます。圧倒的な強さで、ハラハラ、ドキドキの場面が一つもなく、はじめから終わりまでワンサイドゲームという試合は馬鹿らしくて観戦していられないのではないですか。
  このことから言えることは、一見不幸なネガティブ現象も発想を変えれば、同じ現象のままで意味は逆転するということです。それが認知を変えるということであり、それが徹底されれば、どんなことも与えられたものだけで満足でき、起きた通りで楽しめるという心境になれるのです。しょせん私たちの人生は自分の作ってきたカルマに応じたことしか起きませんからね。

Cさん:
  今先生がおっしゃったことは、仏教を勉強していると頭ではわかってくるのです。でも、実際の現場では、なかなか理解通りにはいかないものだということが痛感されることが多々あります。

アドバイス:
  知的に理解されるのと、深層意識が完全に受け容れているのとは違いますね。深いレベルの心でいまだに執着していることは、土壇場で現れやすいですね。何かにこだわってそれをつかめば、そうでなくなるのが恐くなります。
  間違った考えや思い込みがいつまでも執着の手を放させないのですから、さまざまな角度から心に言い聞かせ、納得させ諒解させていくのが大事です。この現象世界で起こるべくして起きてくることは、ネガティブなこともポジティブなことも全部カルマなのですから、避けられないのです。それが因果論の理(ことわり)というものです。
  私がいつも、起きてしまったことは仕方がない。あるいは起きたことは全て正しいと言うのは、結局そういうことだからなのです。因果論を徹底的に腹に落とし込んでいけば、起きたことは受け入れるしかないと諦観というか、達観されるでしょう。自分のカルマに逆らっていくらジタバタしても、どうにもならないのがカルマというものです。業によって起きたことからは、逃げ切れないのです。それゆえに、ネガティブなものをポジティブなものへと、こちらの認知を変えるしかないということです。
  私も昔は完璧主義で、自分は完全でなければならないと思い込んでいましたから、当然心配症の傾向がありました。自分で自分の人生を苦しくしていたのですが、今は、起きたことはそれでいいと即座に認知を変えられる自信もあります。
  どのようなことでも、視座を変え、別の角度から観れば肯定することができるものです。肯定し、受け容れることができれば、不安や心配は起きてこないのですね。なぜそんなことが即座にできるようになったかと言うと、瞑想をするようになってから、人生のさまざまな場面で認知を転換させる練習を膨大にやらされたからです。ものすごく嫌なことが起きたり巻き込まれた時に、いったいどう考えたらこんなこと受け容れられるのだ・・と理解不能なわけです。それも当然で、いわゆる思考モードでいるときには、基本的にエゴモードですから、視座の転換ができないのです。そこでやむなく瞑想をする。瞑想をすれば思考が止められていきますから、エゴの視座からは思いもよらない一瞬の閃きが生じたりするのです。
  「なるほど! そういうことか!・・そう眺めれば自分が悪いと思えるし、受け容れることができそうだ」と固執していた考え方やものの見方が瞑想の閃きで打開できたことが多々あります。こうした練習問題を数多く解いたことで、今、人に視座の転換をうながすようなアドバイスをやらせていただいたりしているのです。
  まあ、この瞑想に出会って心配症はなくなりましたね。修行の成果だと自分では思っています。自分の人生は悪くなりようがない。たとえ悪くなったように見えても、認知を変えれば受け容れることができるし、当初はネガティブだった出来事が最終的には大きな飛躍につながっていくし、必要不可欠なことだったと心から思える日が到来するものです。まさに、「瞑想のフシギな力」ですね。
  ということで、まず思考モードで結構ですから、意識的にものの見方を変え視座の転換を試みる練習をします。上手くいかなかったら、智慧ある人とその件について論議してみる。すると自分には思いもつかない視点を提示してくれたりします。それを参考に、同じ事柄をまったく異なった視点から眺める練習をします。そういう問題をたくさん解いていくうちに、外界の力や他人のアドバイスなしに、自分ひとりでできるようになるでしょう。どういう風にかと言えば、瞑想することによってです。瞑想をして思考を止めることです。思考が止まれば、エゴモードとは異なる見方や発想が閃いてくるようになります。がんばってください。

◎こだわりを捨てるには
Dさん:
  自分の生き方などの信念もこだわりの一つなのでしょうか。

アドバイス:
  「こだわり」という言葉は本来ネガティブな意味で使われます。「ささいなことを必要以上に気にする」とか「いつまでも過ぎ去ったことにこだわる」などの用法が本来だったのですが、昨今では「香りにトコトンこだわった一品」などと肯定的なニュアンスで使うケースもあるようです。
  あなたのご質問のされ方は、言葉の本来の意味に即しているように思われます。正しいことを貫き通す、揺るぎない信念を持つのは良いことなのに、エゴイスティックな執着になっていないか。信念が悪い意味での「こだわり」になることもあるのだろうかというご質問と理解してお答えします。
  例えば、仏教の五戒を守り抜くと世間一般の常識的な方々と軋轢が生じないだろうか。自分は仏教の提示する倫理を貫き通すのが正しいと思っているが、皆とも仲良くやりたいし、仏教の正義を貫こうとするのは、悪い意味での「こだわり」になっていないだろうか・・。こうしたお悩みは多くの方が感じられているようです。
  世間の多数派から浮いてしまっても、正しい生き方を貫くのは大事だと考えます。どうでしょうか。「みんなと仲良く一緒にやっていきたいので、みんなが赤信号を渡るなら自分も一緒に渡るし、戦争をやるなら一緒に戦う。とにかく仲良くやりたいのだ」という人がいたら、ちょっと変じゃないですか。
  この世を貫く理法に反すれば、確実に苦がもたらされるのです。殺せば殺されるし、奪えば奪われるし、欺けばあざむかれます。みんなが地獄に行くなら、ひとり浮いてしまうのは嫌だから、一緒に地獄へ行きますか。あなた達は間違っている、と説教するのは大きなお世話だと取られるなら沈黙すればよいでしょう。しかし、自分の生き方に信念を持っているなら、黙って独りそれを貫くのが正しいのではないでしょうか。
  それを悪い意味での「こだわり」と解釈するのは正しくないと思います。自分の信念の内容を精査して公正なものであるならば、それを貫くのは悪い意味での「こだわり」とは違います。智慧があり、美学があります。信念を曲げるべきではないでしょう。
  人と争わず、柔軟に妥協点を見出して、和をもって貴しとなすが、道理にもとることは断じてやらないという信念は貫くべきです。それを「こだわり」とネガティブに評価することはありません。
  ご質問は、別の意味に理解することもできます。
  今まで信念を持って生きてきたのだが、どうにも苦しくなってきて、どこか間違っているのではないか、変にこだわっているのではないか。信念ではなく、ただの執着ではないか・・・。
  信念は、執着と紙一重のところがあります。
  一つの目安は、自分が拠りどころとしているものが法(ダンマ)に照らし合わせて逸脱していないか否かです。自分のたんなる欲望にしか過ぎないものに向かって頑張っている場合には、煩悩の執着やその根拠になっているエゴ感覚に特有の、あまりよくない感じがどこかにあるものです。別表現をすれば、万人にとって善となる理法を貫こうとしている瞬間には、正しいことを実行している吹っ切れた爽やかさや、天に向かって恥じるところのない堂々とした矜持のような感覚があるはずです。
  エゴイスティックなものや煩悩系の不善心所には、重く、暗く、硬く、濁った印象が伴うからです。
  その反対に、善心所には透明で、柔軟で、軽やかで、爽やかな印象があります。
  どうやら自分が拠りどころとしてきたものは「信念」ではなく、たんなる「こだわり」に過ぎないということであれば、全力で頑張ってみて、それでもどうにもならない時には潔く諦めるしかありません。諦めるというのは、発想の転換をするしかない情況に追い込まれるということです。
  私も若い頃に、それまでの過去に復讐するような不善心所バリバリのこだわりで生きていた時代がありました。当然のことながら、すべてが破綻し暗礁に乗り上げてしまい、苦が極まったところで、自分の敗北を認め、やるだけのことはやり尽くした、もういい、もう十分だ、とどこか吹っ切れたものを感じながら、その生き方に終止符を打ちました。こだわりを手放し、諦観というものを学び、以来、修行者として今日に繫がる新たな生き方が始まりました。
  妄執がドゥッカ()の原因であることを骨身に沁みて叩き込まれたように思いました。諦めるということを学び、瞑想者として歳をとるに従って、執着を手放すことに長けてきたので、今ではストレスもほとんど感じないし、何が起こってもそれでいいと受け容れることもできていると思っています。
  その根拠は、因果論が徹底的にわかっているからでしょうね。こうして仏教の因果論を教えている立場なので当然といえば当然ですが、人生というのは、自分が組み込んだカルマ通りのことしか起きないことは熟知しています。このことは検証し尽くしました。
  そうすると、受け入れる能力もついてきて、「自分も過去には人を傷つけ、悪いことをやってきたのだから、こんなネガティブなことが起きるのも致し方ない。因果の帰結として、受け容れるしかない」という発想が速やかになされるようになります。
  受け容れる能力というのは、数多くの引き出しを持っていて、いかなる場合にも発想の転換ができる能力と言えるでしょう。ものの見方や発想の転換が柔軟に、自在にできないと、こだわりが強い、頑固者ということになります。多くの場合、エゴ感覚や我執の強いタイプの人ほど、自分の考え方ややり方、好き嫌い、生き方全般にこだわり、それに比例して苦しさを感じるという構造なのです。
  もし自分の夢や目標にこだわっているのであれば、実際にその夢を叶えた人の幸福度の追跡調査も大事ですね。ある方が、どうしても夢を叶えられず、そのことに未だにこだわっていて何とかして手放そうとしていました。そこでどうしたかというと、自分が実現できなかった夢をすでに叶えた人達の話を聞いたそうです。そうすると、案外幸福度は低いという場合が少なくないことがわかったということでした。そこから自分の執着している夢を手放す方向が見えてきたということでした。
  たとえ長年の人生の夢を叶えたとしても、それによって幸福度が上がらなかったら、何のための人生か、本当にそれで良かったのかという疑問が出てきますよね。

  夢を実現している途上では、鼻の先にぶら下がっているニンジンが、この世のものとは思えぬ限りなく甘美なものにイメージされてしまうものです。妄想は甘く、現実は苦く、がブッ飛んで「何がなんでも!」と強烈なこだわりとなって私たちを駆り立てていくのです。これが渇愛の構造であり、それに全力でのめり込んでいって、果たして本当に幸せになれるのかという疑問です。
  そうした妄執と、法としてのあるがままの事実を仕分けていく瞑想が、人生苦を根本から乗り超え、この世の幸福と、さらにはその果てにある究極の解放である解脱をなし遂げていくであろうということです。
(文責:編集部)


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 今月のダンマ写真 ~


瞑想者独居房(クーティ)















   瞑想者独居房(クーティ)の寝室

 
 
先生提供


    Web会だより  
『夫が教えてくれたこと』(前半) (匿名希望)
   昨年の12月に、夫が突然、不慮の事故で亡くなりました。私の人生で、最も衝撃的な出来事でした。
  朝元気に会社に出かけて行った夫が、夜、冷たい遺体となって警察の霊安室に横たわっていました。全身が震え、立っていられない経験を初めてしました。突然、地面が割れて地獄の底に突き落とされたような気持ちです。この世の全てが信じられなくなりました。
  葬儀、事務的手続きなど、日々やらなければならないことに没頭し、夫を喪った悲しみに浸ることができませんでした。ある意味、夫が死んだという事実をどうしても受け入れたくなかったのです。
  「悲しみ」の代わりに心の中に渦巻いたのは、思いもよらなかった感情でした。
  それは、まず、夫の突然の死を知って我が家に駆けつけた母から言われた「今までウチはずっと何事もなく平穏に暮らしてきたのに・・・」という不平めいた言葉から始まりました。
  この他にも、母からは、告別式で「今さっき(夫の)お母さんとお兄さん、お姉さんから『(夫が亡くなったので)これからはNさん(私のこと)をよろしくお願いします』って言われたけど・・・そう言われてもウチだって困っちゃう」と言われました。
  同様に、傷ついた心に塩を塗りこまれるような言葉をいくつか言われたのですが、その全てに悪意は微塵もなく、ただ、感じたままを口にしている様子だったので、聞き流していました。
  ただ、年末に電話がかかってきて「寂しいだろうから泊まりに行ってあげるよ。野菜とか持って行ってあげようか・・・」などと優しく言ってくれるのですが、最後に「本当にお前は、赤ん坊の頃から手のかかる子だった」と半ば呆れたように言われた時、「夫の事故死は私のせいではない!」という心の声が沸き起こり、発作的に「そんなことを言うのなら来なくていい」と言ってしまいました。
  赤ん坊の頃、母の母乳の出が悪くても、母乳しか飲みたがらなかった私は、いつもお腹をすかせて泣いていたそうです。農作業で忙しい父母にとって寝不足の日々が続いたのはかなり辛かったそうです。
  幼い頃から「赤ん坊のお前が泣きすぎて脱腸になり、夜中に小児科の先生を叩き起こして診察してもらったんだ。本当に大変だった」と何度も聞かされました。
  そして、私を苦しめた両親の言葉がもう一つあります。それは、「この家の財産は全て弟のものだから、結婚したらこの家の土地やお金をあてにしてはいけない。お前は、嫁ぎ先で苦労して、ウチにお金を無心しに来たおばさんにそっくりだ。将来そうならないように気をつけろ」と、物心ついた時から何度も言い聞かされました。その言葉は、呪いの言葉のようでした。
  ずっと父親に対して怒りの気持ちが強かった私は、ここ数年父親との関係改善に焦点を絞っていました。父親に対する認知が徐々に変化し、親に対する問題を乗り越えたと浮かれていたところに、今回、夫の死という突然の出来事が降りかかり、母に対して抱いていた心の問題が浮き彫りにされました。
  母親とは良い関係が築けていたとずっと思っていました。父親に受け入れてもらえないと思っていた私は、何がなんでも母親の愛情が欲しかったのです。結婚しても実家に何かあると積極的に手伝いをしてきました。
  夫の事故死という人生で一番心細い時、頼りにしていた母には「何かあったら手助けするからね」という優しい言葉を求めていました。ところが、返ってきたのはその正反対とも思えるものでした。
  「お母さんから拒絶された。私はどうせ厄介者なんだ。呪いの言葉通り、私の結婚は不幸に終わった。なぜ、『お前は幸せになるよ』と育ててくれなかったのか・・・お母さんに対する今までの努力は無意味だった」ぐるぐると心の中にドス黒い感情が渦巻いていました。(続く)

  





<スポットライト>

 「決定されていく心」-4
                                 地橋秀雄
12.プレッシャー研究
  これも、以前に私が見たテレビ番組なのですが、アメリカの女性脳科学者でプレッシャー研究をしている人がいます。この方は、学生時代はオリンピックに出られるくらいサッカーが得意で、ゴールキーパーのポジションでした。
  その方が選手生活をしていた学生時代に、ある有名な監督が試合を見に来たそうです。その監督の前でいいところを見せればオリンピックに選ばれるかもしれないという大事なチャンスだったのですが、絶対に取れるボールをプレッシャーのあまりミスしてしまったのです。それで結局オリンピック選手には選ばれなかったのです。
  それで、なぜあのとき自分はプレッシャーに負けてしまったのだろうという問いを究めるため、その研究を大学で専門にして、結果的にプレッシャー研究の脳科学者になったということでした。
  この方の研究は、とても面白いものでした。それを紹介しますと、アメリカの中学生か高校生を二人一組にして数学の問題を解くように指示します。そのとき二人に同じプレッシャーをかけるのですが、それは、ABのペアであれば、Aの成績がよかったらBの報酬も上がるけれど、Aの成績が悪いとBの報酬も下がるというものです。そうなると、Aとしては、自分がその問題を解けないとBの報酬が下がって迷惑をかけることになるので、心理的に大きなプレッシャーになるはずなのです。
  もう一つプレッシャーをかけます。それは、数学の問題を解いているときに至近距離のカメラで撮影するのです。すると、どのようにして解いているかがモニターに写し出されてしまい、他の人から丸見えになるという設定です。
  皆さんも、その状態を思い浮かべてください。よほど数学が得意でなければ、相当のプレッシャーを感じるのではないでしょうか。問題が解けない場合に、どこで躓いているかが一目瞭然になってしまうのですから。しかも、ペアを組んだ相手の報酬が自分の成績次第で上がったり下がったりするわけです。普通では耐えがたいというか、たまりませんね。
  一般的にも、プレッシャーがあると、だいたい12%成績が下がるとされています。こうしたプレッシャーの仕掛けをほどこした上で、実は実験の核心部分はこれからなのです。
  まず被験者を二つのグループに分けます。一方は、プレッシャーをかけてそのまま数学のテストをするグループ、そしてもう一方は、プレッシャーをかけた後に、紙に心の奥底にある考えや感情を、日記を書くような感じで書き出すことをさせます。それは誰に見せるのでもなく、ただ自分のためだけに書くのですが、その後に数学のテストをするのです。
  結果はどうなったでしょう。興味深いことに、何もしなかったグループの人たちはプレッシャーを受けたせいかとても悪い成績になりました。一方、紙に自分の考えや感情を書き出してからテストを受けた方はむしろ成績が良くなっていたのです。
  これは、かなりヴィパッサナー的だと思いました。
  成績が良かった方は、紙に書く作業を行なっただけで、カウンセリングを受けたわけでもなく、指導を受けたわけでもありません。ただ自分の心の中の考えや感情をそのまま事実として紙に書き出しただけなのです。それを誰かに読んでもらってアドバイスをもらったり共感してもらったりしたわけでもありません。それなのに、これだけ成績が違ってくるのです。
  なぜそうなるかというと、紙に書き出すという行為は、ストレスを軽減する効果があるからです。そのことを具体的に説明しましょう。
  人が何か行為をするときには作業記憶というのが働きます。作業記憶と言うのはワーキングメモリーとも呼ばれていて、前頭葉にある人間らしさの記憶の中枢を担っていると言われています。また、不安感やプレッシャーは扁桃体というところが司っているのですが、これは人の感情を読んだり、共感したり、恐怖などの感情を担っています。
  前頭葉の作業記憶が何かひとつの仕事をしようとしているときに、扁桃体から情動的な情報がくると、その仕事がスムーズにいかずに低下すると言われています。逆に、その二つの部位のつながりを切るとプレッシャーがあっても作業記憶の仕事は滞らなくなります。
  プレッシャーに強い人というのは、ほとんどこのような脳の構造的な特徴があるそうです。プレッシャーがあるときには、誰だって不安や焦りなどネガティブな感情になりますが、それは扁桃体の情報が前頭葉に伝わってしまうためであり、そうするととたんに意識の明晰さが濁ると言われています。
 しかし、作業記憶を行なう前頭葉と扁桃体との情報通路を遮断してしまうと、頭がクリアになって仕事率が格段に上がるというのですね。そして、その方法の一つが、紙に自分の心の奥の考えや感情を書き出すという行為なのです。
  なぜ、書き出すという行為が前頭葉の情報処理をスムーズに行なわせるのを手助けするかというと、紙に書いて表現するということは、文字通り「表に現わす」ことであり、心の中のストレスや混乱が外に出されて可視化され、自分自身を客観視することにつながるからです。問題が見えなければ解決しようがありませんが、はっきり見えれば整理されやすくなるのは言うまでもないことです。
  ストレスになっているものをうやむやにすると、頭の中が混沌としてきます。そうならないために、嫌なものから目を背けないではっきりと認め、自覚して、紙の上に書き表すのです。
  そしてこれは、サティの瞑想でラベリングが必要な理由でもあるのです。
  サティの瞑想をやっているときにも、私たちは誰に伝えるわけでもなく、心の中でラベリングをやりますね。このラベリングと同じように、ただあるものをあると認めて自覚するだけで、このプレッシャーの実験では、明らかに有意な結果が現れたことを示しているのです。
  これが、私がこの実験結果をヴィパッサナー瞑想に通じるものがあると感じた所以です。
  紙に書き出さなかった方のグループの成績が悪かったのは、自分の中にあるものをあると素直に認める手段を与えられなかったからです。プレッシャーを自覚しないでそのままにしておくと心の中で激しい葛藤が起きます。特にネガティブな感情や考えに対しては、それを打ち消したり対抗しようとする反応が出てきがちです。そのような葛藤や矛盾をそのまま放っておくと、心は膠着状態になってしまいます。これでは、どう考えても能力を発揮できませんし、それゆえプレッシャーに負けてしまうということです。
  ところが、ただ心の中の事実を認めて紙に書き出すことによって自分の内部のものを表面化すると、特に何らかの解決策が得られたわけでもないのに心はクリアになって落ち着いてくるのです。自覚することには力があると改めて思いました。「自覚する力」と呼びたいですね。
  サティの瞑想が人の心を解放していくメカニズムも、潔く事実を承認する力によるのです。これは、存在するものを存在すると認めないことが、どれほど心の無意識の部分に余計な仕事をさせているかということでもあります。それがなされないと、心はジレンマに押し潰されそうになるのです。

13.ジャーナリング
  心の中の考えや感情を紙に書き出す行為に似たものに、ジャーナリングというのもあるようです。(編集部注:ジャーナリングとは、思いつくことを思いつくままに、5分間~10分間、連続してひたすらノートや紙に書き出すこと。それによって、悲しみや喪失感や怒りといったさまざまな感情のもつれを解きほぐすことが出来るといいます)
  テキサス大学のペンベイカー教授の研究では、ジャーナリングによってストレスの値が低減することがわかっているそうです。
  ペンベイカー教授のある研究によると、失業した人たちを被験者として5日連続して毎日20分間のジャーナリングをしてもらい、その後8カ月間追跡調査したそうです。同時に、同じような失業者でジャーナリングしなかった人たちも同じ8カ月間追跡調査して、前者のグループと比較しました。
  8カ月後、ジャーナリングを5日間した人たちの就職率は、しなかった人たちよりも40%も高いことが判明したとのことでした。
  また別の調査では、学生に、自分にとって一番重要な個人的な経験について毎日連続でジャーナリングを実行してもらいました。結果、体調が良くなり学業成績が上がったそうです。
  さらに、別の調査では、大学生数十人に 2日連続で2分間、自分の感情を大きく動かした出来事について書いてもらったところ、学生たちは気分が良くなり健康状態を示すデータも改善されたのです。
  このように、ジャーナリングをするとストレスホルモンと呼ばれるコルチゾールが減少することが確認されています。これらのジャーナリングについての研究結果もまた、サティの瞑想のラベリングがいかに有効であるかを証明しているように思われます。

14.決定されていく心とヨニソ・マナシカーラ
  マナシカーラ(manasik?ra:作意、心の働きの向き)を「如理作意」という善なる方向に変えていくには、生き方全体で総合的に取り組む以外にはないということから、その具体的な方法についてこれまで述べてまいりました。最後にもう一度まとめますと、悪を避けて善をなすこと、常に気づいていること、慈悲の瞑想によって慈悲の心を養うこと、このように総力戦で実践していくことが、マナシカーラを変えていくことにつながっていくということです。だからこそ、瞑想は人生全体であるというのが私の持論なのです。
 単に坐ったり歩いたりすることだけが瞑想ではありません。気づくということは、普段の生活の中でも、例えば職場でもやろうと思えばできるものです。在家の瞑想者が普通の日常生活の中で、サマタ瞑想のような強烈な集中の訓練を続けていくことはまず不可能でしょう。
  それに対して、サティの瞑想はマインドフルに気づきを維持していく訓練なので、瞑想修行と日常生活が同じ意識モードで連続するのです。サティの瞑想をしている時と同じように、よく気をつけてマインドフルであればあるほど人生のクオリティが格段に向上するという画期的なものです。
  そして何よりも重要なのは、悪を避けて善をなすという、生きていく上での倫理的な基軸です。人に苦しみを与えない。その反対に、積極的に善行をして人に幸せを与える。このように心がけて日々生活していくと、カルマが良くなって人生の流れが大きく変わっていきます。何よりも自分の心が晴れ晴れとします。こうした行為の積み重ねが、人の心を根本から変えていって、結果的に心のドミノの倒れ方をも変えていくことになります。そうすると、自分の自由意志と、潜在意識や無意識でのドミノの倒れ方が合致してくるのです。
  自分自身の明確な自由意志による「決定する心」が、諸々の力によって「決定されていく心」と重なり合い合致していく・・。カルマという名の運命の力と、遺伝情報と、自分自身の過去の一切の経験と、環境や情況が強いてくる力と、さまざまな諸力の総和が、自分の自由な意志によって決定していく心と一つになって、心の清浄道を完成させていく。まさにそこに仏教の教えの正しさが実証されているのではないでしょうか。
  多くの人が、自分は善をなそう、人に善いことをしようと思いながら、反対のことをしてしまい迷惑をかける結果になるのは、心の深層では、自分の意志とは正反対の心のドミノの倒れ方をしているからなのです。 理性的に考えて、表面の意識では善いことをしよう、もうこんなことはやめようと思っているのだけど、本能の命令や長い間の習慣が反射的に命じるものなど、心には矛盾する命令が飛び交っているために、実際には理性が命じた反対のことをしてしまうということです。無意識の心のレベルでは、自分の意志とは正反対の方向に心のドミノが倒れていってしまう。それゆえに、いくら頑張っても、なかなか思うような結果に至らないのです。
  「決定されていく心」と「自分が決定していく心」が合致すること、これが、総力戦で修行を行なっていく者が必ず検証するであろう結論です。ブレることなく悪を避けて善をなせる心、そういう心になれば、意識の上だけでなく無意識的にも、いつでも、安定して、善なる方向へ反射的に倒れていく心、真のヨニソ・マナシカーラ(yoniso-manasik?ra:如理作意)が展開するようになります。心の清浄道が完成していくのです。
  断じて諦めることなく、日々修行を続けていけば、必ず人生の流れは変わっていきます。ブッダの言葉に信を定めて、希望を持って瞑想を実践していきましょう。(完) 

             
 






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  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -48- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング
(承前)
ペーマスィリ長老:
  何もない状態が消えていき、それが克服されると瞑想者は深い平穏の境地(第四段階のアルーパジャーナ(arūpa-jhāna:無色界禅定))に達します。楽しむというよりも味わうという言葉がふさわしい境地です。瞑想者は、これが達しうる最も高い境地であることを知ります。これに比べれば何もない状態はまだ粗野です。物質とは全く関係ない境地です。あるのは命と活力だけです。

  第四段階のアルーパジャーナに到達した後、瞑想者はアルーパジャーナの全てを第一段階から第四段階へと昇り、あるいは逆に第四段階から第一段階へと下降する訓練を行います。次いで下から上へ、そして上から下へと順に八つのジャーナ(jhāna:禅定)に達する訓練をします。超能力を発揮する場合は、第四段階のルーパジャーナ(rūpa-jhāna:色界禅定)の状態で行います。アルーパジャーナでは超能力を発揮することはできません。
  アングッタラニカーヤ(Ańguttara Nikāya 増支部経典)の中でブッダは、ジャーナは瞑想者が今ここで経験できるニッバーナ(nibbāna:涅槃)ですと説かれました。瞑想者はジャーナを用いて、安楽に住することを楽しむのです。

デイヴィッド:
  
ジャーナに達する瞑想者は多いのですか?


ペーマスィリ長老:
  たくさんいます。ブッダが教えを説き始めた前でさえ多くの人がジャーナを探し、ジャーナに達してきました。現代ではブッダの教えに触れることができることから、ジャーナに達するのは以前より簡単になりました。ジャーナに達するのは難しいというならあなたは間違っています。


デイヴィッド:
  
どうしてそうなるのですか?


ペーマスィリ長老:
  
瞑想実践で最も難しいのは最初に集中の障害を抑えることです。集中の障害が抑えられれば、あとは大きな問題はありません。ジャーナは自然に進んで行きます。

木を切り倒したり、岩を粉砕したり、くぼみを埋めたり、ジャングルの密林に道路を作るのは大変な作業です。しかし道が出来てしまえば誰でも易々とジャングルを通ることが出来ます。そして集中の障害が抑えられれば第一段階のジャーナに達することが出来ます。残りのジャーナに達するのもそれほど難しくはありません。

デイヴィッド:
  どうして高い段階のジャーナに達するのが簡単なのですか?


ペーマスィリ長老:
  
瞑想者は集中の障害を抑えるための仕事を既に終えているため、より高い段階のルーパジャーナそしてアルーパジャーナを得るのは
容易です。

  瞑想修行を始めた時点においては、瞑想者は集中の障害を抑えるために多大な努力を払わなければなりません。ジャーナの意識状態に達することと、心をジャーナの状態に維持することとは全く異なります。
  ただジャーナに達するだけであれば実際はそれほど難しくありません。しかしジャーナの意識状態はとても脆いため、それを維持するのは難しいです。こうした洗練された状態は簡単に崩れてしまいます。

デイヴィッド:
  
崩れるとはどういう意味ですか?


ペーマスィリ長老:
  瞑想者はルーパジャーナから脱落し、通常の日常生活に戻ってしまいます。カーマーローカ(kāmāloka:欲界)に戻ってしまった瞑想者の感覚機能は再び粗野な状態に戻ってしまい、しばしば不満の種になります。そこにはドゥッカ(dukkha:苦)があります。

  ジャーナに達することが出来ても、それを維持できなければ落胆してしまうことがよくあります。瞑想は意味がないと決めつけ、修行を完全に諦めてしまう人がたくさんいます。

デイヴィッド:
  
悲しいことですね。


ペーマスィリ長老:
  
ジャーナにおいては、心は高度に洗練されていますが、所詮意識の状態に過ぎません。ジャーナに達することは修行のゴールではありません。

  腐ったゴミの山に出くわした男のことを憶えていますか?


デイヴィッド:
  
はい。その人はゴミの山を掘り進んで道をきれいにしました。


ペーマスィリ長老:
  
瞑想者がサマーディ(samādhi:定、集中)を得るためにサマタバーヴァナー(samatha-bhāvanā:止の習修)のみを実践するとしたら、それは単にゴミを覆い隠しているだけです。ゴミを掘り、取り除いてサンマーサマーディ(sammā-samādhi:正定、正しい集中)を得るために、瞑想者はサマタバーヴァナー(samatha-bhāvanā:止の習修)とともにヴィパッサナーバーヴァナー(vipassanā-bhāvanā:観の習修)を実践します。これが、ブッダがサティパッターナスッタ(Satipa
ww
hāna Sutta:念住経)で説かれた方法です。
  集中の障害を抑えるため、瞑想者は、最初はサマタ瞑想のみ実践します。最初はサマタという方法が全てです。
  しかしながら、集中の障害が抑えられた後は、四つのルーパジャーナ全てに達してそれに習熟するめにウィパッサナーとサマタを交互に実践します。ジャーナを手放し、第四段階のルーパジャーナから先へと進みます。超能力を手に入れたり、アルーパジャーナに達したりするためにジャーナを使うことはしません。

デイヴィッド:
  
瞑想者は何故アルーパジャーナに達しようとしないのですか。


ペーマスィリ長老:
  
サティパッターナスッタに書かれているサンマーサマーディ(sammā-samādhi:正定、正しい集中)は第四段階のルーパジャーナのサマーパッティ(samāpatti:等至)までしかありません。その先はありません。第四段階のルーパジャーナから先へ進み、サマタの力を高めウィパッサナーをさらに育てる作業を続けます。

  瞑想者は自分自身の体験を通じて、無常で苦しみで実態が無い(無我)という物事の本質への洞察を得ます。条件づけられた全ての現象の本質を見抜くことで瞑想者は智慧を育て、自分への執着を克服し、ニッバーナへと近づきます。一度信が定まると何が正しくて何が正しくないかを知るのは簡単です。
  これで四つの聖なる真理と八正道についての話は終わりです。他に聞きたいことはありますか?

デイヴィッド:
  
何を質問したらいいのかわかりません。私はまだシーラ(sīla:戒律)の修行に取り組んでいる段階です。


ペーマスィリ長老:
  それで良いです。人々が真摯にダンマ(dhamma:法)に関心を寄せるなら、教えを説くのは楽しいことです。


デイヴィッド:
  
ありがとうございます。私はまだジャーナに入ったことがありません。


ペーマスィリ長老:
  でもあなたは学ぶことが好きですよね。(完)

 翻訳:影山幸雄+翻訳部

編集部より:翻訳シリーズは本号をもっていったん終了させていただきます。読者の皆様には長い間ご購読ありがとうございました。また、翻訳を担当されていただきました各位には心より御礼申し上げます。これからも皆様のご修行が着実に進まれますように!
 


ダンマの言葉


願いには、この世における願いとダンマ(Dhamma)の世界における願い、その2つがあります。この世における願いは欲です。ダンマの世界における願いは道の一端です。・・・努力は道です。ねばり強さは道です。忍耐は道です。解き放たれようとする、あらゆる努力は道です。(『月刊サティ!』20081月、「砂の一粒、一粒にも」アチャン・マハブア、より)

       

 今日の一言:選



(1)きれいサッパリ諦めがついて、現状のまま楽しく生きていけると心から思えるのであれば、人生の禍福もカルマも、どうでもよいではないか。
 波瀾万丈が好きな人には、苦しみも不運もストレスも何もない、平穏な日々がえんえんと続いていけば、ウンザリして不幸と感じるだろう。
 花に嵐も良い……


(2)ああ、私はどうしたらよいのだろう……と、途方に暮れることもある。

 不安感や恐怖感は伴っているだろうか。

 もしそうなら、わが身かわいさの「自己チュー」に陥っているかもしれない。

 エゴ的になればなるほど、漠然とした怒りと混乱が深まり、判断が狂っていく……


(3)否応のない力で濁流に押し流されていくのを楽しみながら、自分の人生を生きていく……


       ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。


       

   読んでみました
                     『シン・ゴジラ』のメッセージ (今月は映画の紹介です)
  映画『シン・ゴジラ』を観ました。今まで多くのゴジラ映画が製作されましたが、今回のシン・ゴジラは、完全に大人受けをしたようです。日本アカデミー賞においても、最優秀作品賞含め7冠の栄誉に輝きました。これほどの動員は映画業界関係者や当の制作者も予想していなかったそうです。何が大人に受けた要因だったのか、私なりに考えてみました。
  シン・ゴジラは、今まで映画化されたゴジラと比べてリアリティが格段に違い、迫力もいっそう増しています。東京の街の映像にしても、普段目にしている現実の風景が精巧に見事なまでに複製されています。これを、踏みつぶして壊していく、自衛隊の火器もバッタバッタとなぎ倒す、この快感が何とも言えないのだと思います。
  観ていてスカッとした気持ちになります。そこに人間の破壊願望の大きさを感じます。破壊願望は本能として組み込まれているのでしょうが、このような映画を観ることでそうしたエネルギーを中和できるのであれば、こういった映画も世の中に役立っているのではないかと思います。
  ゴジラは、1954年以降何回も映画化がなされてきました。日本人はなぜゴジラにあこがれるのか、何ともいえないものを感じているのでしょうか。ゴジラと同類のウルトラQやウルトラマンで現れた怪獣、また、かなり古い映画なので、若い方は知らないかもしれませんが、巨大な蛾であるモスラの映画など、大変人気がありました。
  実はこのような現象は日本だけかというと、そうでもなく、アメリカではキグコングが何回も映画化され、非常に人気のあるキャラクターでした。キングコングがエンパイヤステートビルに美女を抱えて登った場面を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
  ゴジラもキングコングも何回も映画化された人気のキャラクターであり、それがいつも同じような結末になるというのも、そこに何か本質的なもの普遍的なものを感じます。中生代に栄えていった恐竜も然りです。恐竜展にも観客は押し寄せ、今も昔も絶大な人気を博しています。
  これほどの人気の秘密の一つは、先ず大きくて強いというところにあるのは確かでしょう。しかし、私はそれ以上に、その大きくて強いものが、最後には滅んでいくところに人に悲哀を感じさせるのではないか、これがより以上に日本人に愛される理由になっているのではないかと思っています。

大きくて強いものに憧れながらも、やがては滅びゆくものへの悲哀、そこに人は人生における無情を重ね合わせ、知らず知らずに心の底の琴線を震わせているのではないでしょうか。これが、ゴジラが私たちにこれほどまで受けている理由のひとつなのだと思いました。(NN.)

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