月刊サティ!

2017年3月号 Monthly sati!   March 2017


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:生き方をめぐって (1)
  ダンマ写真
   
Web会だより 『変わりゆく人生の流れ』

  スポットライト 『決意されていく心』(3)(「短期集中連載」を改称
  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -47-
   ダンマの言葉
  今日の一言:選
  読んでみました『介護のススメ』 三好春樹著                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ: 生き方をめぐって (1)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません

Aさん:私は失敗ばかりしてきました。ヴィパッサナー瞑想に若い頃に出会っていたら、どんなに苦が少ない穏やかな人生を送れただろうと思うと悔やまれてなりません。

アドバイス:
  瞑想修行はいつから始められても遅くはありません。過去に失敗経験を重ねてくれば当然人生の痛みが身に沁みていることでしょう。その痛みがあるからこそ真剣に修行に取り組もうという姿勢にもなるのです。

  もし心があまり汚染されていない人生の早い時期にヴィパッサナー瞑想と出会っていたら、余計な失敗をすることもなかっただろうし、どんなに良い人生になっていただろう・・と悔やまれるのもわかります。しかし、もし順風満帆、何の問題もなく穏やかな人生を過ごしてくれば、おそらく瞑想に出会うこともなければ、出会っても軽くつまみ食いをして真剣に修行に取り組もうとすることもなかったのではないでしょうか。
  嫌なことがなければ、人生につまずかなければ、痛い思いを何度もして傷つき苦しまなくては、真剣に自分と向き合い、内省モードになって自己変革をしなければならないとか、人生の流れを変えたいとか、瞑想に取り組んでみようとか、思わないものです。

  人生が楽しければ、夢のように遊び暮らして歳を取ってしまうものです。人生に打ちのめされ、挫折し、苦に遭遇して始めて、もうこんな愚かなことは繰り返したくない、もうやめよう、やめたいという気持ちが瞑想修行の原動力となるのです。
  何事によらず出会いというものは偶然のように見えても、実は退っ引きのならない必然の力によるものです。人生の辛酸をなめ尽くして瞑想に出会うのも、7歳で出家して比丘となり瞑想に出会うのも、各人各様の因縁と宿業の結果であり、必然の流れで出会うべき時に出会っているものです。たとえ何歳であっても、ヴィパッサナー瞑想に出会った時がその人にとっての必然でありベストのタイミングなのです。
 長年瞑想のインストラクターをしてきた経験から言えば、これほど才能に個人差が激しいものはないと痛感させられてきました。仏教には輪廻転生という考え方があり、生命は生まれかわり死にかわりを繰り返しているとされています。瞑想が最初から上手にできる人は前世で相当な修行をしてきたのだろうし、凡庸な才能の人は怠けていたのだろう、とでも考えないと説明がつきません。血の滲むような命がけの修行をしても悟れない人もいれば、7歳であっさり究極の悟りの境地に達してしまう人もいるのです。
  誰もが、出会うべきものに絶妙のタイミングで出会い、なすべきことをやり、来世につないでいくのだと仏教は考えます。たとえ何歳であっても、出会った時が最高だったのだと受け止めましょう。一所懸命修行をして、心を浄らかにしていけば、人生の苦しみから確実に解放されていくことは確かなことです。多くの老若男女の方々の苦しい人生が、瞑想によって乗り超えられていく姿をつぶさに見てきたことが、私の仕事の原動力になってきました。たとえ何歳からでも、瞑想は真剣に修行するに値するものであることを、私は知っています。

Bさん:私は、自分が進むべき道をみつけたように感じても、それは本当に自分の意志で選んだものなのか、親の影響を受けて無理に選ばされたようなものなのか、曖昧な感じがつきまといます。また優柔不断のところがあって、自分が今何をしたいのかよくわからなくなることもあります。後で後悔しないように、自分の本心を知るにはどうしたらいいのでしょうか。

アドバイス:
  
まず、自分の本来の意志による決定なのか人の影響を受けたものかという問題ですが、それは繰り返し再現性があるかどうかが一つの目安になります。
  例えば、欲しいものがあったとして、それが本当に譲れないものであればどうしても欲求は強くなり、渇愛状態がブレずに長く続くでしょう。しかし、ブームや流行、テレビのCM、噂や口コミなどに欲望が刺激された程度であれば、欲求は一過性であまり長続きしません。後者は作られたニセの欲望ですから、すぐに飛びつくと後で後悔することが多いものです。購入後に一度開けただけで興ざめしたように何の情熱も感じられなくなり後悔したことなど、誰にでも経験があるのではないでしょうか。
  いずれにせよ、欲望がうごめいた時には、それは本当に自分に必要なものかどうかを見定めなくてはなりません。
  基本的に、本心から欲求されたことや、本当に必要なものが望まれた時には迷いがないものです。パッと決断できます。結論を出しながら言い訳を考えていたり、頭でいろいろ考えてしまう時には、エゴの働きが関与していることが多いものです。エゴの猿知恵を排除して自分の内奥から導きだされた真実の声を聞くためには、何といっても瞑想が一番です。
  私が自分の本心を正確に知るためにやっている方法を紹介しましょう。
  まず懸案のものが必要か必要でないか、あるいは自分の進むべき道はAかBか、どちらの場合も徹底的に検討しシュミレーションしてみます。もちろん思考モードです。
  次に、自分にとって本当に必要か必要でないか、あるいは選ぶべきはAかBか、と自分自身に問いかけをした上で瞑想に入ります。瞑想が浅ければ正解は得られません。「浅い」という意味は、いつまでも雑念がチラチラしていて静まらないという状態です。「妄想」「雑念」というラベリングが延々と繰り返されている間は、エゴの干渉が続いていると見てよいでしょう。その時は仕切り直しです。
  思考モードが止まって心がシーンと鎮まった状態が到来してくれば、エゴは姿を消しているはずです。すると不思議に、瞑想を始める前に問いかけておいた答えがスーッと浮上する瞬間が訪れるものです。それに従うと、だいたいは正解です。確信に満ちた回答が、自分の心の底から浮かび上がってくるのです。昔から私は、大事な意志決定をする時には必ずそうしています。これを「内奥(ないおう)の声を聞く」と呼んでいました。
  本当に重要なことは複数回やってみて、やはり同じ回答が得られることを確認します。そうなれば、たとえ茨の道であっても前へ進むしかないし、その選択に迷いが生じることはありません。たとえ結果的に痛い目にあっても、それが正解なのです。学ぶべきことがあるから苦しい経験をするのであって、それは必ず次の段階にステップアップしていくことに通じています。心の奥底からどうしてもやりたいことはやるしかないし、それが自分にとって真実の道なのです。
  最も大事な判断基準は、その答えの内容が五戒に反しないかどうかです。五戒に抵触するものはどんなに心惹かれても遠ざけて、乗ってはいけないし選んではいけません。原始仏教の要である戒に反する選択肢はあり得ないと心得ましょう。ダンマに悖(もと)る道を行けば、必ずドゥッカ()に遭遇します。これは絶対的基準です。
  職業選択は人生の一大事です。ポイントは、心からやりたいこと、好きなこと、そしてダンマに基づくことです。ダンマに基づく仕事は、世のため人のためになるものであり、八正道の「正命」に合致するものです。天職と呼べる本当にやりたい仕事に出会えた人は幸せです。若いうちは自分のことが把握しきれないし、出会った仕事の意義や本質、魅力なども最初はわからないものです。それゆえに、瞑想によって「自分の内奥の声を聞く」ことが重要なのです。思考を止めて心の奥底から響いてくる声に従えば、エゴの猿知恵を排除した正しい選択ができるでしょう。


  二番目は優柔不断ということですね。
  なかなか意志決定できないというのは、頭の中であれこれ考えて堂々めぐりをしている状態になっているわけです。いつも同じパターンの思考が出てきて、少し考えてこうしようと思ってもまた違う考えが浮かんで結局わからなくなってしまうということの繰り返しです。この虚しい空回りを止め、優柔不断を克服するためには、頭の中を可視化する作業が大変重要になります。

  自分は何が好きなのか、どんなことをやりたいのか、が判然としないのであれば、まず頭の中のものを全部紙の上に吐き出すのです。ブレインストーミングの要領で、瞬間的に思い浮かぶものを書き止めていきます。ポイントは、考えてアイデアを出すのではなく、矢継ぎ早に思い浮かんだものを列挙していくことです。好きなこと、やりたいことなら何でもOK、テーマから外れていてもいなくても、突飛なこと、くだらないこと、あまり関係ないことなど、ツジツマ合わせもブレーキもかけずに、瞬間的に思い浮かんだことはすべて書き止めるのです。
  何も浮かばなくなり出尽くしたと感じたら、バラバラに殴り書きされている項目を内容的に関連のあるもの同士にまとめていきます。やりたい仕事系、娯楽系、食べ物系、欲しい物系、行ってみたい旅行系、楽しかった思い出系等々、まとめられる共通点を見つけてグループ化するのです。
  次に、グループ全体を眺めてそれに優先順位を付けていきます。最もやりたいこと、2番目にやりたいこと、3番目に魅力的なもの・・というように一つひとつ吟味していくのです。この分類作業と優先順位づけの作業だけでも相当自分の内面を客観視できます。
  これが終わったら、今度は自分の嫌いなものを書き出します。これだけはやりたくない仕事、大嫌いな物、耐えられない状態、許せない事柄・・等々を、思い浮かぶまま矢継ぎ早にランダムに羅列していきます。出尽くしたら、いちばん嫌いなもの、2番目に嫌いなもの、3番目に嫌いなものというふうに、これにも順位を付けていきます。この二つの作業をするだけで、自分の本音が整理されかなり明らかになるはずです。
  これら一連の作業のポイントは二つあります。一つは紙の上に書き出すことによって、頭の中でモヤモヤしていた欲望や欲求などの混沌状態を可視化(見える化)されるということ。そして二つ目は、思考で考えてはいけないということです。思い付いた瞬間に書き出すことに徹していくと、エゴの判断や干渉を遠ざけることが可能なのです。エゴは巧妙に言い訳をしたり、本音を抑圧したり、雑多な情報で混乱したり、私たちを迷わせる元凶です。思考プロセスの中で君臨するエゴの働きを封印するのは、サティの瞑想であり、思考モードを離れる作業です。自分の本音を浮き彫りにし、自己理解を正確にする技法として、ブレインストーミングのやり方を試してみてください。
  項目列挙と分類だけでも効果的ですが、さらに深めるには「文章化」することをお勧めします。
  「よくわからないことがあったら、そのことについて一冊の本を書け」という諺がヨーロッパにはあるそうです。独りで考える思考には、論理の飛躍があったり、曖昧なのにわかったつもりになったり、自己中心的になっていたり・・正確さや緻密さに欠けるきらいがあります。私的なメモではなく、第三者に理解してもらえるような文章に起こしてみると、とたんに思考は厳密になります。
  私自身もそのことを何度も検証してきました。すでに把握していることをスラスラ書いていくのではなく、何か閃くものがあった時に「これは何だろう」「もっとしっかり考えてみよう」とそれを文章に表わしていくと、途中で自分の思ってもいないような展開になったり、新たなアイデアが直観されたり、書き終わった時には、いつの間にか抱えていた問題の答えが明確になっていたということが少なくありません。頭であれこれ考えている時には、大事な要点を飛ばしていたり、強引な結論に結びつけようとしていたり、同じループをグルグルしていたり、要するに雑なのです。しかし、紙の上に書いた一行は、次の一行を正確に要求してきますので、必然的に論旨が明確になっていきます。正確な思考にならざるを得ないのです。
  まずカードに書き出し、優先順位を付けて分類し、文章化してまとめる。
  これが、サティの瞑想とは異なったアプローチの自己客観視の方法になります。
  さらに深めていくには「対話」という技法があります。自分のこだわっている問題が絞り込まれ、一応の結論が出たら、今度は自分と同じかもっと智慧のある人と対話するのです。自分の発想と他人の発想はまったく違いますから、対話することで、独りでは思いも寄らないまったく新しい視点や発想が得られる可能性が高くなります。相手から素晴らしい情報が得られることは勿論ですが、自分で話しているうちに、何だこういうことだったのかと明瞭になってくることが多々あるものです。理解してもらおうと、正確に伝える力が曖昧で混沌としていたものを明確化することに通じているのです。
  自分のエゴワールドに、他者の視点が導入されるのは感動的です。目からウロコが落ち、ものの見方が変わり、新たな視座が獲得されることもあるでしょう。自分を客観的に知る上で有効なばかりではなく、人間として幅を広げ、ステップアップする機会にもなります。
  以上申し上げたようなやり方で心の中を整理していくと、混沌としていたものが明確になり、自分のやるべきことや進むべき方向がはっきり視えてくるでしょう。揺るぎない意志決定ができるようになるのです。
  ここで改めて強調しておきたいことは、考え方と生き方の基軸として、五戒を厳守することです。いかなる場合でも、悪を避け善をなし、五戒を守っていく基本的な決意にブレることがなければ、樹海の中で方向をはっきりと指し示すコンパスを得たような具合になるでしょう。人生の迷いがなくなるのです。場当たり的に流されて生きてきた人が、いったん五戒を遵守しようと決めたとたんに、生きる上での指針が定まり即断即決ができるようになるのです。自信に満ちた真実の生き方が貫けることは、人生を最高に輝かせてくれることでしょう。

Bさん:自分の意志決定は、親の意志決定ではないかと思うことがあるのですが。

アドバイス:
  基本的に子どもは親のコピーですから、親の影響をまったく受けていないということは考えられません。本当に自分がやりたいのか、あるいは親の言動を近くで見ていて自分も同じことをしたくなったのか、あるいは親がそうするように強制したのか。つまり、自分はあまりやりたくないのに親の強い期待のもとに渋々従っているという感じなのかということですね。そのあたりは微妙だと私は考えています。だからこそ「自分の内奥の声を聞く」ことが必要になってくるのです。

  しかし、よく考えてみると、親の影響を受けていること自体は、一概に「悪いことだ」と断定することはできないのではないでしょうか。生きているということは何かの影響を常に受け続けているということですし、その影響はやはり最も身近にいる親からのものが一番大きかったというだけのことですから。基本的に親の影響を受けない子どもなんて存在しないのです。
  もし親のことをネガティブに捉えているなら、反面教師という形で影響を受ければ良いとも言えるでしょう。反面教師というのは、悪いお手本として「こうはなりたくない」という決意のことですが、それもある意味では親の反作用という強い影響を受けているということになるわけです。
  私の大学時代の先輩でものすごくハンサムな人がいました。水も滴る美男子とはこういう人のことを言うのかと思うほど整った容貌をしていました。その人はとてもモテるだろうと思われるのですが、絶対に女遊びはしない身持ちの良い人でした。なぜそのようになったかというと、その人のお父さんは地方の名士でお金持ちの方だったのですが、お金と名誉にあかして女遊びが派手だったらしいのです。それがあまりにひどくて、自分の母親がどれだけ泣かされてきたのかを傍で見てきたために、自分は絶対に父親のようにはならないと固く決意したというのです。
  そんなふうに、家族に迷惑をかけた父親を反面教師として立派に生きている人もいれば、親父もやっていたのだからオレもやると言って奥さんを泣かせまくっている人もいます。
  どちらの人も、親から影響を受けていることには変わりがないわけです。ですから、親の悪い影響を受けたので自分の人生は滅茶苦茶になったという言い訳はあり得ません。
  いずれにしても、人は、親か師匠か尊敬する人か誰かの影響を受けながら自我形成をしていくものです。そして、自我を確立して大人になったら、自我という名のエゴは実体のない虚妄なものと知り、最終的には「無我」を悟ってゆくのが仏教の道です。
   万物万象、あらゆる存在がつながり合い、結び結ばれ、諸法は相互に関連し合い無我であると、存在の真相を洞察して我執やエゴの息の根を止めていくのが、ヴィパッサナー瞑想の方向性です。そして、エゴを手放した人は、どのような環境にいようとも、いかなる苦しみも寄せつけない、苦の超克という究極のタスクをやり遂げた存在となって輝きながら残余の生涯を全うしていくのです。
(文責:編集部)

 
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 今月のダンマ写真 ~








  ブッダが多くの時間を過ごしたラージャガハ(王舎城)近郊の霊鷲山の頂上のカンダクティ(香堂)。
  竹林精舎での説法の後この山に登り、岩の上や洞穴でブッダや修行僧達は瞑想したと伝えられる。

 

 
 

 

 

  現在のインド、ウッタルプラデシュ州のシュラヴァスティーという小さな街にある、祇園精舎(ジェータワナーラーマ)内にある説法堂址。
  ブッダはその伝道生活の最も長い時間をこの地で過ごした。中央の壇上に座って、集まった人々に説法をしたと伝えられる。




T.O.さん提供


    Web会だより  
『変わりゆく人生の流れ』(匿名希望)
 

私は、十代の頃は肩や首の痛みや円形脱毛等、様々な身体の症状を持っていましたが、それに苦しむという事はあまりありませんでした。

今から当時の事を振り返ってみると、両親は多額の借金を含む財産の問題で対立しており、また兄は、父から「母親は財産を弟()に全て与えるつもりのようだ」等と聞かされ、兄が父のスパイとして私を監視し、私が母のスパイとして兄を監視するような状態の中で思春期を過ごしていました。

親が正式に離婚し、兄を含む大半の親族との緑が切れて落ち着くまで、私の心は「苦しい」「辛い」等の感覚を麻痺させてやり過ごしていたのかもしれません。自分のこころが悲惨な状態である事実に気づきはじめた時は、間もなく成人を迎える頃でした。

大学生の頃、私は同級生達からだいぶ浮いた存在だったようです。こころでは穏やかに、平静に努め、利他的であろうとしていたのですが、肩にずっと力が入っており、目つきは険しく、何を考えているのかよく分からない状態であったため、友人や教員からは、「危ない人間」「何かの拍子で自殺してしまいかねない人」として見られていたようでした。

また授業やアルバイトの途中で、何の脈略もなしに過去の記憶、特に父親より「お前の母親の旧姓は、部落出身者が多い」等と言われた事が勝手に想起され、ずっと風邪をひいたような状態が続いていましたが、私の様子を見た母からは「甘えで病人のふりをしているのではないか」と思われ、真剣に取り合われない状況が何年も続きました。

そんな中で、私は自分の心身の状態をどうにか健康に近づけようと様々なものに手を出しました。

身体を鍛えたり、断食をしたり、霊能者の訓練を受けたり、心理治療を受ける過程で、「日常生活の中で継続が出来るもの」「目に見えない世界よりも人格の成長に主眼をおいたもの」「科学か、長い歴史によって効果が示されているもの」等の基準を徐々に自分の中で築いていき、最終的にヴィパッサナー瞑想にたどり着きました。

しかし、私が「ヴィパッサナー瞑想がとても良い」という事を頭で理解してから、継続的に実践が出来るようになるには時間がかかりました。

地橋先生の講座に通うようになり、ダンマ・トークを聞いたり、他の瞑想を学び実践している方々とも交流し、瞑想会だけでなく、できるだけ日常生活の中でも気づきを心がける中で、心身の分裂も段々となくなってきました。

なかでも、慈悲の瞑想を習慣化していった成果なのではないかと思うのですが、大学生の頃の私を知らない人からは、「明るくて元気な人」「幸せそうな家庭で育った人」と思われることも増え、どのような仕組みが働いたのか驚くばかりです。

今、私は人間関係に恵まれています。かつて私を「危ない人間」だと距離を取られていた友人とも仲良くする事が出来、私に、結婚式での挨拶を依頼してくる親友も出来ました。また、自分が憧れていた職業に就いた上に、職場でも深い人間性を持つ上司や同僚に恵まれ、対人関係のストレスなく仕事が出来ています。父や兄とは今でも絶縁したままですが、過去の家族生活を、切り捨てるだけのものとしてではなく、父は私に身体的な暴力を振るう事がなかった事や、兄は兄なりに心配していた事など、冷静に振り返れるようになってきました。

私は、瞑想を継続し「自分が幸福な状態にもなりうることを認める」ことが出来るようになったと思います。

かつての私にとって、残りの人生は辛い過去の出来事の残滓に過ぎませんでした。しかし、自分の出来る範囲で利他を心がけ、またヴィパッサナー瞑想や慈悲の瞑想を続けた事で、幸せに対する感受性が養われてきているのだと思います。

自分にはまだまだ乗り越えなければならない心の中の障壁がありますが、年々と心身の不調が減る実感を持てています。以前は風邪を引きやすく、また慢性的な疲労感から殆ど横になって休日を過ごしていたのですが、坐った状態で腹部の感覚に注意を集中すると、疲労感がだいぶ軽減するようなことが何度もあり、心身の不調を気にしないで人生を送れるようになった事は信じられないような心地がします。

今後、私自身も瞑想や利他の実践を深めると共に、他の人にヴィパッサナー瞑想の事を勧めるなど、微力ですが、苦しみに思い悩む人を減らせるように貢献していきたいと思います。

このような執筆の機会を与えてくださり、まことにありがとうございました。  





☆1月より、最近のダンマトークから編集部がまとめたものを、適宜「スポットライト」として掲載しています。ご期待ください。 

<スポットライト>

 「決定されていく心」-3
                                 地橋秀雄

7.決意の力 ?意志の力(続き) 

  仏教では、決意はアディッターナといいますが、他に意志を意味するチェータナーという言葉もあります。チェータナーがカルマであると仏教は考えていて、業を作るのは意志であるとブッダも明言しています。このように強い意志や決意には、現象を動かす力があると考えられています。
  ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』という本がありますが、私は自分の経験上、願望実現の構造には根拠があることを実感しています。現象世界は自分の意志や決意によって変わっていくし、変えていくことができます。自分が心底願ったことは、基本的に必ずその通りになっていくものです。
  その願望実現のやり方については巷に多くの本が出回っていますので、ここでは、その願望を起こさせる意志決定は誰がやっているのかというメカニズムについて考察していこうと思います。本当に自分の自由意志でやっているのか、それとも、そのような意志決定をさせられているのか、という点を追究してみたいのです。最高司令塔が自由に決定しているのではなくて、末端の情報の奴隷のように意志決定をさせられているのではないかということです。
  私たちの心には、さまざまな情報が膨大に詰まっています。過去の経験も、周囲の環境も、その時の姿勢も、人間関係も、本で読んだ知識も、体調も、そのような諸々の要因の相互作用によって、総合的に意志決定をさせられているのではないかと私は考えています。

8.マナシカーラ
  仏教には、マナシカーラという言葉があります。人間の場合には、眼耳鼻舌身意の六門から情報が入ってくると、その情報が脳内の既存のデータと結びついて、そこからドミノが倒れるように連想や思考が始まります。情報が心に飛び込んできた瞬間、それを脳内の既存のデータにくっつける作用をマナシカーラと呼んでいます。
  これは、パッサー()と同じようにほとんど反射的に起きることなので、意識的にコントロールすることができません。例えば、何か連想が始まるときは、自分の意志で起こしたのでしょうか?  連想というものは、あッという間にかってに始まっていくのです。心のドミノは一瞬にしてパタパタと倒れていくのであって、自分では決められません。
  私たちは、ABBC・・と自分で思考を展開させているようにも感じますが、多くの場合、思考は無意識下で自動的に駆けめぐっていて、自分の意志の力はかかわっていないのです。
  例えば、瞑想会に参加した方はどなたも集中して瞑想しようと思うでしょう。ところが、いざ瞑想が始まると、お呼びではないのに妄想がかってに現れてきます。妄想したくなくても出てくるのです。そして、その妄想の内容は、自分が決めているのではなく、ひとりでに頭の中に浮かんできていませんか?
  自分としては妄想をしたくないのです。中心対象の足やお腹の感覚をしっかり取りたいと思っている。それなのに、勝手に妄想がフワーと浮かんできて、しかもそれは自分がまったく想定していない内容の妄想だったりする。
  このように、マナシカーラというのはコントロール不能なのですが、確実にあるやり方で心のドミノを倒しています。そしてその倒れ方がネガティブな方へ、悪の方へ、煩悩の方へと倒れていくものだったり、ポジティブな方へ、善なる方へ、浄らかな方へ、だったりするわけです。
  この心のドミノの倒れ方はいかんともしがたい、選ぶことのできないものだと絶望することはありません。たとえ時間はかかろうとも、心を浄らかにする清浄道の修行を徹底してやっていけば、必ず変えていくことができるのです。この修行が仏教のすべてであり、その詳細を解明していこうと思います。

9.自由意志に関する実験
  1970年代に、アメリカの脳科学者であるベンジャミン・リベットという人が、自由意志の研究を行ないました。それは、人の自由意志が生起する瞬間、例えば指を動かそうと意志決定するときの実験です。その結果、指を動かそうという意志が生じる0.5秒前には、すでに脳の中では指を動かすための活動が始まっていることが明らかになったのです。これは、当時としては衝撃的な実験結果であり、センセーションを巻き起こしました。
  この実験の方法というのは、まず脳活動が計測できるような装置を仕掛けて、指を動かそうと決めた瞬間、つまり意志決定がなされた瞬間を計測するのです。
  次に、準備電位を計測します。準備電位というのは、例えば物を取ろうとか、立ち上がろうとか思ったときに、その動作を開始する直前に態勢を整える準備をする瞬間のことです。脳が電気的に活動を起こして、それで立ち上がろう、取ろうというように、動作を始める前に準備をすることです。指を動かそうとするときも、その動作が開始される前の準備電位が始まった瞬間を計測する。それから、実際に指の筋肉が動いた瞬間を計測するのです。
  そうすると、本人が指を動かそうとする0.5秒前にはすでに準備電位が始まっていることがわかった、ということです。つまり、本人が何かをしようと思う前に、脳はすでにその準備を始めているということになります。
  この研究結果を受けて、自由意志というのは本当にあるのかという問題が起きたのです。自分が自由意志を起こす前に脳が活動を始めているというのは、因果関係の逆転現象のようなことで、にわかには受け入れられなかったのも当然でしょう。
  でも、これはよく考えると、不思議なことではないと思います。指を動かそうとする意志決定を本人がする前に、脳はいろんな情報を処理しているはずなのです。今、自分は被験者になったのだから指を動かさないわけにはいかないとか、右手でやろうか左手でやろうか、わざと普段とは違う指を動かしてみようか、などということも考えるかもしれません。
  これは、例えば右利きの人は左脳を使っているのですが、本人は自覚していなくても、右の脳を刺激すると、必ず左手でやるのです。ですから、いろいろな情報があって、ある意志決定をする前段階にはすでに何段階もの情報処理が階層的に行なわれている、そのような構造で意志決定がなされるから、準備電位が事前に起きてくるのは当たり前だろうという理解です。このように考えれば、ベンジャミン・リベットの実験結果は別に不思議ではないと私は解釈しています。
  しかしながら、その後、さらに意志決定に関する別の研究が出てきました。その一つは、右のボタンを押すか、左のボタンを押すか、それを自由に決めてもらうのですが、脳は7秒前にはすでに活動を開始しているという実験結果です。これが確かだとすると、自分がこうしようという意志決定の前に、脳が活動を始めていることは明らかなので、自由意志とは何だろうという問いが突きつけられたわけです。

10.ヨニソ・マナシカーラについて
  私がここで強調したいのは、マナシカーラという心のドミノ倒しです。ネガティブなドミノの倒れ方をしている人は、それをポジティブな倒れ方に組み替えなければならないということです。
  その方法はというと、総力戦ということになります。瞑想もする。必ず悪を避けて善をなす。知的理解もする。五戒を守る。善行をする。・・というように、一定の方向に向かってありとあらゆることを全人格的に総力戦でやっていけば、やがてマナシカーラの働きが変わるだろうということです。
  マナシカーラは「作意」と訳し、それが善なる方へ、正しい方へ、本質の方へと変わっていくのをヨニソ・マナシカーラ、「如理作意」と言います。英語ではマナシカーラは“attention”と訳されています。“attention”というのは、注意という意味ですが、作意が理の如くになるように注意を注ぐという意味に理解すればよいでしょう。
  ブッダも「ヨニソ・マナシカーラのない者に悟れる見込みはない」と明言しており、その重要性を繰り返し説いています。私もタイで修行したときに、ヨニソ・マナシカーラほど大事なものはないと何度も言われました。
  ヨニソ・マナシカーラの反対は、非如理作意、パーリ語ではア・ヨニソ・マナシカーラと言って、煩悩の方へ、悪の方へ、ネガティブな方へ、と反射的に心のドミノが倒れていく状態です。
  例えば、お金がチャリーンと音を立てて落ちたとします。その音を気にも止めない人もいるでしょうが、金儲けにしか興味がない人はこの音を聞き逃さないでしょう。このように、人の興味や関心の所在によってもパッサー()の起き方が異なるのです。
  何度も言いますが、マナシカーラは一瞬の反射的な現象なので、意識的なコントロールは基本的にはできません。でも、修行を積み重ねてブレない心になって、その上で、人生丸ごとの総力戦で当たれば、どんな場面でもヨニソ・マナシカーラが働くようになっていくことは確かなことです。
  これは矛盾していると思われる方がいるかもしれませんが、実際にそうなることを実感されれば、そのからくりが自ら理解されるでしょう。汚れた心を浄らかな心に構造改革するのが、ヴィパッサナー瞑想の最も重要な役目なのです。

11.ヴィパッサナー瞑想とマインドフルネスの違い
  ヴィパッサナー瞑想の最大の特徴は倫理性です。
  昨今流行のマインドフルネス瞑想や認知行動療法などは、ヴィパッサナー瞑想から派生して現代的にアレンジされたものです。こうした瞑想に共通して言えることは、サマタ瞑想の集中の要素は説いているし、気づきであるサティの要素も説いている。さらに最近では慈悲の瞑想の効果も説かれ出しています。ところが、肝心の倫理()は説かれていないのです。
  「戒慧」のシステムであるヴィパッサナー瞑想には、集中もサティも慈悲も、そして悪を避けて善をなす倫理性もすべて含まれています。もしマインドフルネス系の瞑想が倫理も説いてくれたなら、仏教の瞑想に限りなく近づくので、私としてはそれはとても好ましいわけです。お寺で説こうが、グーグルのような企業で説こうが、本質が同じなら構わないと考えます。
  しかし、五戒について言及しているマインドフルネスや認知行動療法は聞いたことがありません。たしかに、グーグルなどは企業と結びついていますから、倫理を明確に強調しづらいのでしょう。でも、倫理を説かなかったら仏教の瞑想にはなりません。ここが大きな違いです。ヴィパッサナー瞑想から完全に宗教性を抜き、戒の倫理性をボカしてしまうことによって、気づきの瞑想としてのマインドフルネス瞑想が世界的なブームになっているように思われます。清浄道の瞑想の目玉が抜かれてワールドワイドに広まっていく・・というのは皮肉な感じがします。
  悪を避けて善をなすというこの倫理性が如理作意の方向に導いていく根本であり、それがなかったら、いくら瞑想をしたところで、人生を幸せな方向に展開させていくことはできません。極端なことを言えば、落ち着いて悪いことをするために、心の動揺を食い止めるサティの技術を使うということになれば、とんでもないことになるでしょう。
  戒を守るということは、絶対に他人に苦しみを与えないことであり、積極的に幸福や喜びを与えることに通じているのです。善行をするのは、戒を守ることの究極の表現とも言えるでしょう。
  戒の遵守と同時に懺悔の瞑想を行なうことも、私は強調しています。
  ネガティブな過去に縛られて、怒りと戦っている人が少なくありません。懺悔の瞑想をすることによって黒いものを吐き出し、ネガティブな過去に終止符を打つことができれば、慢性的な怒りは激減するでしょう。過去への根深い怒りがどうしても払拭できなかった人が、懺悔の瞑想を試みることによって視座の転換が起き、心を縛っていた鎖から解放されていった事例が数多くあります。
  怒りが削除されれば、眠っていた優しい心が自然に現れてくるでしょう。復讐の怒りに燃えていた瞳の色が変わり、一瞬一瞬の意志決定の仕方が肯定的なものに変わり、人のために善をなそうと優しい心が輝き出す可能性があります。意識的に変えようと思っても変わらなかった心が、いつの日か必ず決意し望んだ方向に変わり始めるのです。マナシカーラが変わり、決定されていく心の方向が変わり、悪のドミノが善なるドミノの倒れ方に変わっていく・・・。
  これが清浄道の瞑想の真骨頂であり、心が変わり、生き方が変わり、人生の流れが変わっていく発端になっていくのです。(続く)。


             
 






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  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -47- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング
(承前)

デイヴィッド:
 四つの気づきの土台はどのような役割を果たすのですか?


ペーマスィリ長老:
  
サティパッターナ(satipa
ṭṭ
hāna:念住)を正しく実践すれば、第四段階のジャーナサマーパッティ(jhāna samāpatti:禅定等至)に入ります。第四段階のジャーナ(jhāna:禅定)を維持するのは難しいですが、ただそこに達することはそれほど難しくはありません。達するのは維持するのよりも簡単です。森に住むことは役に立ちます。

アルーパジャーナ(arūpa-jhāna:無色界禅定)

ペーマスィリ長老:
  
第四段階のジャーナから出た瞑想者は振り返って観察し、第四段階のジャーナに欠点があることを悟ります。それはやはり物質に依存しており、第三段階のジャーナのスカ(sukha:楽)という比較的粗野なジャーナの要素に近い状態です。

  アルーパジャーナ(arūpa-jhāna:無色界禅定)には物質が無いことを知った瞑想者はさらに洗練されて平穏な状態である四つの物質に依存しないジャーナ、すなわちアルーパジャーナに達するための修行に着手します。

・第一段階のアルーパジャーナ:無限の空間の領域、アーカーサナンチャーヤタナ(ākāsānañcāyatana:空無辺処)

・第二段階のアルーパジャーナ:無限の意識の領域、ヴィンニャーナンチャーヤタナ(viññānañcāyatana:識無辺処)

・第三段階のアルーパジャーナ:無の領域、アーキンチャンニャーヤタナ(ākiñcaññāyatana:無所有処)

・第四段階のアルーパジャーナ:認知が有るのでもなく、無いのでもない領域、ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(nevasaññā-n'āsaññāyatana:非想非非想処)

  アルーパジャーナはルーパジャーナ(rūpa-jhāna:色界禅定)とは異なります。四つのルーパジャーナの場合、瞑想者は同じ瞑想対象を保ったままジャーナの要素を克服することで上の段階へと進んで行きます。瞑想対象は変わりません。一方、アルーパジャーナの場合、瞑想者は瞑想対象を乗り越えていくことで上の段階へと進んで行きます。
  アルーパジャーナにおける瞑想の進歩は段階的に生じます。先行するジャーナの比較的粗野な対象から、次のジャーナのより繊細な対象へと注意を移すことで、粗野な瞑想対象は徐々に消えて行きます。瞑想者は繊細な対象だけに集中し、粗野な対象を完全に乗り越えるまでそれを続けます。そして繊細な対象のみが残ります。 

ペーマスィリ長老:
  
しかしながら、アルーパジャーナに取り組もうとする前に、瞑想者は第四段階のルーパジャーナに習熟しなければなりません。単に第四段階のルーパジャーナに達するだけでなく、それを自在にコントロール出来なければならないという意味です。思うとおりに第四段階のルーパジャーナに入り、そこに留まれるようにならなければなりません。

  第四段階のルーパジャーナにおいてはチッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)とウペッカー(upekkhā:捨、不苦不楽)というジャーナの要素が確立しており、呼吸の出入りは止まり、心が外部の対象に向かうことはありません。
  瞑想者は形態の性質と事実について熟考します。あるのは意識だけで身体に思いが及ぶことはありません。カシナニミッタ(kasianimitta:遍相)を原因として、アルーパジャーナという結果が生じます。カシナ(kasia:遍)は青い円盤のこともあります。ニミッタ(nimitta:相)は光などのような統合性の兆候で瞑想者の心に現れます。
  例えば青いカシナを観察することで瞑想者はカシナニミッタを生じさせ、それを大きくします。生じたニミッタには限界がなく、無限に大きくなります。その後瞑想者はルーパジャーナの第一段階から第四段階へと進んでいきます。
  第四段階のルーパジャーナから第一段階のアルーパジャーナへと進むため、瞑想者はニミッタを乗り越えなければなりません。ニミッタが占める空間だけに集中しながら「無限の空間、空間、空間は無限」と考えます。
  徐々にニミッタは瞑想者の心から消えて行きます。突然消えるわけではありません。長い間空間に集中していると、やがて瞑想者は強い風に吹き飛ばされたように感じます。さらに空間に集中し続けると、心が作り出したニミッタを含む粗大なあるいは微細な物質は吹き飛ばされます。
  瞑想者の心には形態は無くなっているため、意識は無限の空間を経験の対象にします。雲が漂う空のような空間でもなければ、惑星や恒星がある宇宙のような空間でもありません。第一段階のアルーパジャーナの空間にはそのような物はありません。目の前にある空気を見てください。意識はその空間を対象にします。意識は空間だけに固定されます。他の何ものも対象にすることはありません。物質としての身体について考えることはありません。全くありません。
  瞑想者は空間を何か広大なものとして経験します。その空間には終わりがありません。その空間に終わりがあると考えることは出来ません。意識の届くところは全て空間です。あなたの心の意識はこの広大で何もない空間の中にあるだけです。あるのは意識と空間だけです。そして命もあります。命と意識と空間です。
  無限の空間を乗り越えるために、瞑想者は無限の意識の方が無限の空間よりも平穏であると省察します。無限の空間のこのような欠点を知り、空間を対象とする意識に集中します。注意を意識へと移します。瞑想者は「意識、意識」と考えます。
  意識だけに集中することで、無限の空間にいるという認知は徐々に、極めてゆっくりと瞑想者の心から消えて行き、終には意識のみが残ります。

デイヴィッド:
  
ついていけません。


ペーマスィリ長老:
  
第一段階のアルーパジャーナでは、瞑想者は無限の空間を瞑想対象にします。無限の空間とは経験、すなわち意識の対象です。瞑想者の意識が届く分だけ無限の空間は広がっていきます。遮るものはありません。これは、無限の空間を対象とする意識もまた無限でなければならないということを意味しています。

  第二段階のアルーパジャーナに達するためには、瞑想者はまさにその無限の意識を瞑想対象にします。瞑想者は無限の空間を対象とする無限の意識に注意を向けます。このように無限の意識が意識の対象となります。意識が意識の対象となるのです。
  瞑想者はその無限の意識に集中し続けます。やがて無限の空間は克服され、完全に消え去ります。瞑想者に残るのは無限の意識だけです。こうして第二段階のアルーパジャーナに到達します。
  第二段階のアルーパジャーナは無限の意識の領域とも呼ばれます。無限の空間の領域よりも洗練されており、平穏です。
  第三段階のアルーパジャーナに到達するために、瞑想者は意識の性質について省察します。意識がなければ、いかなる物もありません。次いで瞑想者は意識のない状態を対象にして瞑想します。「何もない、いかなるものも存在しない」と瞑想者は考えます。
  何もない状態だけを対象として瞑想を続けると、意識は徐々に消えていき、終には何もなくなります。心は、いかなるものも存在しない、意識さえもないと認識します。心が唯一認識するのは何も存在しない状態です。

  こうした経験の中に留まりながら、何もない状態は無限の空間や無限の意識よりも洗練されており平穏であることを瞑想者は発見します。また、何もない状態の空虚と無限の空間の空虚(遮るものがない広大さ)とは異なることも発見します。ヴィタッカ(vitakka:尋)はありません。考えるものすらありません。(続く)

翻訳:影山幸雄+翻訳部


ダンマの言葉

入ってきた情報を思考レベルで纏める段階を踏んで、しかも、それを直接知覚というレベルで検証したうえで出てくる智慧、それによる理解があってはじめて生き方を100%変えることが可能となります。(ダンマトーク「ある出家者の修行から」より)

       

 今日の一言:選

(1)渾身の力を奮って、全力投球で、命懸けで、死に物狂いで……と言うが、火事場の馬鹿力が真の実力だとすると、その何割ぐらいになるのか……
  自分のために発揮できる力よりも、愛する人のため、誰かを助けるため、皆んなのため、義のため、ダンマのため……の方が、より強大な力が出力される。


(2)瞑想をしない人には、孤独が身に沁みるかもしれない……

(3)もし悪をなしているのであれば、時代によって、情況によって、偶然の出来事によって、業の法則によって、裁かれるだろう……
  無明の悲しさを想い、「悲(カルナー)」の瞑想を捧げるばかりだ。



      ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。


       

   読んでみました
     『介護のススメ』 三好春樹著(ちくまプリマー新書 2016年)
  「希望と創造の老人ケア入門」という副題のこの本の著者は、1950年生まれ。1年以上働いて失業保険で生活しながら職業を転々としたあげく、その時の仕事に飽き飽きしていた時に舞い込んできた「介護現場で人を探している」という話、何も知らないまま飛び込んだという。それが今では、介護という仕事にこそこれからの若者が働く希望があると話す。「私は思う。うつやノイローゼになる前に介護の世界を覗いてみないか。『命より金』という現在の価値観を覆したアナザーワールドが見つかるだろう」。(PR誌『ちくま』2017年1月号より)
  今、日本のあちこちで著者の考えに共鳴した若者が小規模ではあれどもデイサービスを起業している。そこはなんと老人たちが元気になっていく、「生活復帰」「人間復帰」の現場なのだ。それは「老人の置かれた状況と気持ちを考え」て「老人が嫌がることはしない」結果、自然と優しくなったことが老人を元気にしているのだ。
  介護というのは地獄のようなもの、そしてもし認知症になったらもう人生は終わりだと思っている人が多い。しかし、「でもそれは大変な間違いです。だって私はこれまでの40年以上の介護経験で、深い認知症がありながら、ちゃんと落ち着いて暮らしている人を何百人も見てきたんですから。さらに、いつも人に気を遣って笑顔を見せて、周りから尊敬されている人もいっばいいました」と著者は言う。
  息子が孫を連れて訪ねてきたある人は、嬉しそうな笑顔を見せながらも誰なのかははっきりわかってない様子。帰って15分くらい後に職員が「今日はお孫さん来てよかったね」と声をかけても「えっ来たか?」というくらいの物忘れだったという。ところがある日、主任生活指導員が会話の中で、「吾郎さんは歳いくつになったの?」と尋ねたところ、「うーん、ナンボになるかのお」としばらく考え、こう言ったという。「あんた、どうしても知りたけりや、役場へ行って聞いてみてくれ」。
  「私は感心しましたね。あっ、彼は、自分が歳もわからなくなっているということをちゃんと認識しているんだと。そしてここからです。そんな自分を隠そうとしません。そして、自分はよくわからないから、わかっている人に聞いてくれ、と言うんですよ。すごいじゃないですか。考えてみると私たちはみんなこうして生きてました」。
  分からない自分を恥ずかしいと思わずに、ちゃんと訊いて、「あ、そうか」と受け取れるなら問題は起こらない。それは認知症の問題と言うよりも、周りの人を信じられるかどうかということに帰するのだという。本書では、このエピソードを始めとして、老いるということが人間の基本に返っていくことを、介護の現場でのさまざまな場面を通して語られている。
  最後に著者は、若い人が少しでも自己肯定感を得られるために二つのことをアドバイスしている。一つは、人生はいくらでもやり直しができるということ。たとえ幼少時に母子関係で心的外傷を負ったとしても、成長につれての人との出会いの中で修復は十分できるはずだし、高齢で要介護になっても、今度は介護職との関係でもそれはあり得ることだと言う。
  そして二つめは、毎日の生活の中で身体感覚を賦活させることで自己肯定感を取り戻そうということ。例えば、「おいしいと感じて三度の食事をし、快適な排泄を喜び、風呂に入ってホッと」すること、そしてそれを共有して人へとつながっていくことだと言う。
  「考えてみると、介護がやっている仕事って、老人の、世界への信頼感と自己肯定感を作り出すことなんです。だって、おいしく楽しく食べてもらって、気持ちよく出してもらって、風呂に入って、『ああ生きてて良かった』なんて言ってもらう。これを毎日やってるんだからね。そんな普通の、日常的な、なんでもなさそうなことの中に、どうやらいちばん大切なものがあるらしい」
  「きつい」「汚い」「危険」にならって、介護は「危険」に替わり「給料が安い」が入る職場と呼ばれている。しかし筆者は介護の3Kを「感動」「健康」「工夫」と言い直し、若者に「過労なんかで死んじゃだめだ」と呼びかける。介護には「『命より金』という現在の価値観を覆したアナザーワールドが見つかるだろう」「老人介護をする若者は、老人から元気と希望を受け取るのだ」と。
  本書は本来の介護のあり方を示すとともに、若者への応援のメッセージであった。(雅)
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