月刊サティ!

2017年2月号 Monthly sati!   February 2017


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:ラベリング(2) -言葉と認識-
  ダンマ写真
   
Web会だより  『サティで消える幸福感』(後半)

  短期集中連載『決意されていく心』(2)
  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -46-
   ダンマの言葉
  今日の一言:選
  読んでみました『外来種は本当に悪者か?』                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ: ラベリング (2)  ― 言葉と認識 ―
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

ラベリングの言葉

Aさん:良くないラベリングとはどのようなものでしょうか。

アドバイス:
  例えば、ニャーニャーと聞こえたときに「猫」、ワンワンで「犬」、こんなラベリングはありません。
  猫である犬である、あるいは赤ちゃんだ激辛ラーメンだという判断は、「見た」「聞いた」という直接知覚と、その直後にそれまでの経験やイメージに照らし合わせて推測しているいわば非法の部分とが混ざっている状態なので、厳密な意味で法の対象にはなっていません。
  このように、対象の意味内容の方に意識が分け入ると、ラベリングの言葉も情報の中身を指示してしまいます。結局それは法から外れていく一瞬ということになるので良くないのです。視点は常に心と身体に向け、あくまでもナーマ(nāma:心)、ルーパ(rūpa:体)を観ていってください。
  ものごとを概念化する能力は、人類の知性の礎となる偉大なものです。しかし同時に、ありもしないものを在ると錯覚し妄想する能力にも通じるマイナス要因と裏腹なのです。事実と妄想&概念がゴッチャになるのを無明と言い、ここからあらゆる苦が発生してくると仏教は考えています。
  ヴィパッサナー瞑想は、厳密にこの法と概念を仕分けていくことから始まるのです。

Bさん:怒り狂っている時などは「妄想」というラベリングが貼れますが、軽い状態だと「妄想」よりは「夢心地」みたいな方が合っているような気がします。でも、そんな時でも、「これでも妄想なんだ」ということは分かっていますので、「妄想」というふうにラベリングする方が良いのでしょうか。

アドバイス:
  それは個人差があります。あまり時間やエネルギーをかけずにスッと言葉が出てくるなら、そのとき感じたままの言葉でよいでしょう。同じ「妄想」「雑念」でも価値の良し悪し重さ軽さをつけて、善いことを考えている時には「思考」とラベリングして、悪いことを考えた時に「妄想」のラベリングを付けるやり方もあり得ます。
  しかし、ヴィパッサナー瞑想の立場からは、内容が良くても悪くても、基本的に思考モードに入ること自体が駄目なのです。ですから「いかなる思考モードもダメ!!」と心に刻み込むために、どちらにもあえて「妄想」という強烈な言葉を使うのも十分理由のあることです。
  かつて「妄想」が多発する人が合宿に参加したのですが、その方に「妄想」の一本槍ではなくラベリングを換えるようにインストラクションしたところ、「回想」「追憶」という未練系ばかりのラベリングになってしまいました。そのことに、その方はショックを受け「覆水盆に返らずというのに、自分はいかに過去にとらわれ続けていたか・・」とガーンとやられたという例もあります。「未来形の妄想はほとんどしていない。全部過去のことばかりだ」と目の前に突き付けられた感じになって、「過去にとらわれていてはいけない。過ぎ去ったことは過ぎ去ったことで、前を見なければ」と、未練が吹っ切れるキッカケになったのです。
  「妄想」「雑念」とラベリングを繰り返していたのでは、おそらくこのことに気づけなかったでしょう。まさにラベリングの力がものを言っているわけで、このあたりがヴィパッサナー瞑想の醍醐味です。正確なラベリングを打つことによって、ありのままに自分の現状認識ができ、それまでの同じことの繰り返しから抜け出すことができたのです。


Cさん:ラベリングの言葉を捜す時間が長くて、次の瞬間には状況が変わってしまいます。その時は、ラベリングを「落とした」と入れた方がいいのか、状況が「変わった」と入れた方がいいのか、どうしようかなと思うのですけれど・・。

アドバイス:
  そうですね。適正なラベリングの言葉が見つからず、モタモタしているうちに状況が変わり、ラベリングを「落とした」事実が意識された・・ということですね。
  まず、ラベリングの言葉探しでモタモタ時間を費やしてしまうことがあまり良くありません。
  しかし、この場合はそうなってしまったのだから仕方がなく、今気づいた事実は、ラベリングできなかったこと、情況が変わってしまったという印象・・の2つです。
  これは心に浮かんできた順番の早い方をラベリングすべきです。もしくは、印象の強かった事実が「優勢の法則」上、ラベリングされるべきです。
  初心者が、現在の瞬間をきれいに捉え続けることは至難の業なので、どうしてもサティが落ちてしまいます。
  サティが落ちた事実は事実として、ハッと今の瞬間に気づいたところからサティを復活させれば良いのです。サティが落ちている時間が短ければ短いほど望ましいのです。
  そのためには、正確な言葉でラベリングしなければ!・・と神経質にならない方がよいのです。
  「素早く」と「正確にラベリングの言葉を選ぶ」のは両立しがたいのです。正確なラベリングを瞬時に貼れる人は上級者です。初心者はなかなか理想どおりにできないので、毎日練習するわけです。
  以前に詳しく説明したこともある()基本的なことですが、心の働きの9割は知覚、1割程度がラベリングというのが原則です。ラベリングが不正確でもサティを持続することが一番です。立ち止まって思考モードになれば、瞑想としては「×」と心得ましょう。修行が進むと、一瞬にして現状を把握し正確なラベリングが飛び出すようにだんだんなっていきます。(注:『月刊サティ』20097月号)

Cさん:ラベリングの言葉が飛び出してこないのは、単にまだ智慧が出ていないからですか。

アドバイス:
  まあ、そうですね。(笑)
  これまで人生をどのように生きてきたかによって、脳の使い方は千差万別、右脳型の人、論理や言葉優位の左脳型の人など個人差があります。例えば、直観やイメージ把握など右脳的働きが非常に良くて実に深い経験をしているのだけれど、ボキャブラリーも乏しく言語化して表現するのが苦手という人もいます。しかし今は苦手でも、ボキャブラリーを増やし普段から言葉を正確に使うように努力すれば、必ず上達します。
  最も大事なのは、今自分が何を経験しているのか正確に客観視できることです。その瞬間うまくラベリングの言葉が見つからなかったら、ただ「感覚」や「感じている」など大雑把な概念的なラベリングでもよいのです。
  ヴィパッサナー瞑想のラベリングには二つの方向性があります。正確な認知よりも、とにかくサティを入れ続けることが何よりも大事と考えて、サティの持続を重視する「撤退型」。これは、どんな現象に対しても巻き込まれず、相手にせず、サティを入れて「撤退」し、中心対象に帰っていくのです。
  二つ目は、その瞬間の経験事象の本質まで見抜こうとするように、注意を対象に絞り込み分け入っていくやり方です。対象の本質を正確に特化していくので「特化型」と呼びます。どんな対象や現象からも撤退する方向と、対象の本質を洞察するように注意を注ぎ込む方向との二つです。
  「特化型」は智慧の閃く瞬間であり、ものごとの本質が一瞬にして洞察され、今まで誤解や錯覚や間違いだらけの生き方をしてきたことを覚る方向です。
  「撤退型」は、初心者向きと上級者向きの2段階構えになっています。前者は、初歩的なサティの安定化を目指しています。後者は、最終的に現象世界そのものから撤退していく段階です。結局、ヴィパッサナーというのはどんな現象も最後は全部ゴミ箱行きなのですけれど、そういうレベルの高い修行をやるためには、正確に対象を認知する能力が必要だということです。
  ともあれ、その場で一瞬もたついたら仕方がないですから、大雑把なラベリングをしておけばいいのです。どんなことも「妄想」や「感じている」で括れるでしょう。そのうちだんだんと、正確に、一瞬にして分かるようになっていきます。修行ですから。

Dさん:いつも頭の中で音楽が鳴っています。そんな時のラベリングはどうすればよいのでしょうか。

アドバイス:
  中心対象のお腹や足の感覚もどこかへ飛んでしまって、明らかに頭の中の音楽に心が奪われているような状態であれば、それにラベリングを入れます。外界音も脳内音も聴覚野の神経細胞が興奮しているはずですから、「音」「聞いている」でいいでしょう。この場合、音も妄想ですから、音を聴いている印象よりも、フワフワした妄想の印象が強ければ「妄想」でも構いません。脳内音も音のイメージなので「音像」などと洒落たラベリングをしていた人もいました。
  「聞いている」でも「妄想」でも、チラチラ鳴っている程度であれば無視して、あえてラベリングはしません。優勢の法則です。あまり細かなことまで気にすると中心対象から外れっ放しになってしまいますので。微かな副流のように絶えず流れている雑多な妄想は、いちいち立ち止まらないで「何かゴミみたいに流れているなあ」くらいで気にしなくてもいいのです。
  サティを入れてもその音楽が消えない場合には、普通は何か原因があるものです。例えば、瞑想に飽きてくると妄想が出始めるのは定番ですね。大好きな心地よい音楽が鳴れば快感が得られますから、それによってストレスや心の凝りから解放されようとしていることもあるでしょう。あるいは一般的な話ですが、音楽の聞き過ぎや、瞑想の直前まで音楽を聴いていたことが原因ということもあります。なぜ音楽の妄想が出るのかが分かれば自己理解が深まるかもしれませんし、現象も収まるかもしれません。気をつけることは、サティを持続することです。思考や考察でそんな分析を始めれば、瞑想としては脱線ですから。
  ヴィパッサナー瞑想は、その瞬間の現象に気づくだけです。ただ認知しその状態を確認するだけで、意味が分からなくても結構です。考察ではなく、瞬間的に閃いて解ったことなら素晴らしいサティです。修行を続けていけば、やがて一瞬にしていろいろなことが洞察できる智慧が成長してきます。それを信じて、今は思考モードで考察したくなっても、そう気づいて、中心対象に繰り返し帰っていくようにしましょう。

ラベリングの言葉と認識
Eさん:ラベリングの言葉の付け方によって効果は違うのですか。

アドバイス:
  こんな例があります。
  眠気が起きたので、「眠気」「眠気」と入れてみたけれども消えなかった。その人は「いい修行をしたいのに、こんなに眠かったら修行にならない。・・ったく、イライラする」と感じていました。そのときどういうわけか「怒りかも知れない」と気がついて、「イライラ」「怒り」とラベリングしたら消えたのです。これは「眠気」というラベリングでは、その瞬間の状態を部分的にしか捉えられていなかったのです。確かに眠いのだから「眠気」で当たっていますが、よく観れば「眠気」+「(眠気に対する)イライラ」がミックスしていて、むしろ苛立ちの方が強かったので「イライラ」「怒り」とラベリングしたら消えたということを表しています。
  また、「眠気」でダメだったところが「貪り」としたらパタッと眠気が消えたという例もあります。これは、実は昏沈睡眠を楽しんでいる、修行が嫌になっていてトローンとしたぬるま湯のような快感といえば快感を楽しみたがっている心があったということです。こういうときは「貪り」というラベリングでうまくいく可能性があります。
  言葉を換えることは認識の角度を変えていくことです。例えば、納豆を食べるとき口に入れた瞬間のラベリングを考えてみます。「(箸を持つ手を)引いた」「(口を)開いた」「(口に)入れた」「触れた」「粘った」「味」等々、同じ口に入れた瞬間の動作ですが、どんな言葉でラベリングしたかによって、その瞬間の経験と意味が特化されると言ってよいでしょう。
  「入れた」とやれば、自分の意志で食べるという行為を実行しているという印象が出てきます。「触れた」とラベリングすると、唇や口内の皮膚感覚や接触感の経験を確認したことになります。「粘った」となると、食材の材質感の特徴である粘り気に注目していたことになるし、「味」なら味覚が優先されていたということです。
  たかが納豆を口に入れた動作ですが、どういったラベリングが飛び出すかはその人の経験の仕方に依っています。今、自分が何を経験しているかを厳密に理解するためにはきちんと観察しなければならないのです。「入れた」「食べた」などと機械的にワンパターンでやっていては、ものごとの本質を洞察するという仕事まではなかなか道は遠いでしょう。そのような意味で、ラベリングを正確に緻密に貼れるようになる過程と、今、経験している現象の本質を洞察する深まりは並行関係にあるのです。
  このように、ラベリングは非常に重要です。今の一瞬一瞬、眼耳鼻舌身意によって何を見、何を聞き、何を考えたか、その中身の本質を言葉で正確にラベリングできる能力、これはヴィパッサナー瞑想の基本であり、基礎です。ちょうど一字一字を正確に書く楷書のようなもので、それがしっかり書けるようになってから、初めて行書や草書で崩したりできるのです。ラベリングも楷書で画数や撥ねをきっちり書くように、しっかり基本を身につけてください。

Fさん:ラベリングが変われば認識も変わるというのは具体的にどういうことですか。

アドバイス:

  ラベリングが変われば認識も変わるのは事実です。例としては随念の修行があります。ただ、この隨念の修行は、インストラクションを受けながら正確に段階を踏んでその人に合わせながらやっていかなければなりませんので、ここではその特徴だけを申し上げます。
  隨念の修行は、経験に概念をかぶせていくやり方で、その意味で法の直接知覚ではなく、純度の高いサティの瞑想とは言えません。しかし、これは反応系の心を組み替えるためには非常に優れた方法で、何が浮かんでもその概念一筋にラベリングしていくわけです。ですから、それを一日中やっていれば心はその影響を受けるのは当たり前なのです。さらに、ラベリングする概念、つまり言葉もいくつかあって、それを順に集中的にやっていくと、この現象世界全体に対する認識が変わっていきます。
  要するに、ラベリングとしてどういう言葉を付けるかで、自分が経験していることの意味づけまで変わってきてしまうということです。つまり、今経験していることは長年にわたって意識下で続いてきた心の状態を表していること、そして問題の本質がどこにあったのかが、ラベリングの言葉によって観えてくるのです。
  そして、これまでの自分の心の反応パターンに問題があったなら、正しい認知の仕方と反応系を新たに組み込まなければなりません。同じ出来事であっても、ネガティブな言葉でラベリングするのとポジティブな言葉でラベリングするのでは、その後の展開も反応の仕方も生き方も異なるものになっていきます。
  だからこそ、意識的にネガティブな認知の言葉をポジティブな認知の言葉に換えていくのが清浄道の心の修行になるわけです。一瞬一瞬の出来事をどのように認知し、どう反応するかが「生きる」ということです。未来を苦しくするのも楽しくするのも、今、この瞬間の認知と反応しだいで決定されていく・・・。その最も重要な一瞬が、ラベリングする瞬間と言ってよいでしょう。
(文責:編集部)


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 今月のダンマ写真 ~















バガン近くの寺院で仏像の修復をする人々




 

 
 

 

 









イラワジ川から寺院群を望む



N.N.さん提供


    Web会だより  
『サティで消える幸福感』(後半) T.H.
 
  タイ森林僧院で迎えた7日目は、午前2時ごろに目が覚めた。起き上がって、歩行瞑想を始めることにする。しばらくすると手足に激痛が生じてきた。激痛は同じ部位で長く続くのではなく、短い時間間隔で激痛が体の様々な箇所に現れるという具合だった。原因はよく分からない。あまりに痛いので、このまま集中を深めるともっと痛くなるのではないかと不安が頻出して、足裏の感覚に集中できなくなった。痛みは結構長く続いた。朝食も痛みに耐えながら取った。それでも痛みが永続するわけではなく、次第に消えていった。印象的な体験だった。おかしな話だが、その後帰国してから、また激痛を体験したいという気持ちが出てきた。理由は、どうも激痛のことを集中が深くなった証と考えているからのようだ。まさか激痛に執着するとは。
  9日目の午後に日本人のお坊さんと話していると、アチャン・チャーの法話集「無常の教え」(訳: 星飛雄馬)の一節を読んでくれた。ある比丘がアチャン・チャーに「私は静けさを得たいのです。瞑想をし、自分の心を平安にしたいのですが」と言うと、それに対してアチャンは「そらそうじゃろう、お前さんは何かを得たいのじゃな」と返答した。それを聞いて、自分も何か興味深い瞑想体験を得たいと思っていたなと深く納得した。夜630からの全体瞑想のときに、坐禅をしながら次々と現れる瞑想に対する欲に注意してサティを入れていった。すると瞑想への欲が治まっていき、平静になっていく。そのうち息苦しくなってくる。何が起こっているのかと調べてみると、お腹の膨らみ・縮みに集中しているときには、呼吸が止まるようになっているのだった。お腹の感覚を取るのはやめて、意識的に呼吸すれば 楽になるのだが、再びお腹の感覚に戻ると呼吸が止まってしまい、息苦しくなる。これを何度も繰り返した。印象的な体験だった。瞑想中の心は平静で気分は良くも悪くもなかったが、呼吸のおかげで身体的には苦が多かった。今でもこの体験を思い出すことがあるが、また同じような体験をしたいという気持ちは出てこないようだ。
  10日目は出発日で、準備や掃除で忙しかった。午後になって、20日間のリトリートを終えたばかりのアチャンと話をした。アチャンの話の中で印象的だったのが「心随観が深まっていくと、心の深くにあるネガティブな感情が見えてくる(不好正念)、そのためにはまず心地よい現象にサティが入る(好正念)必要がある」というものだった。それを聞いて6日目の夜の坐る瞑想を思い出して、「気分が良くなったときにサティを入れても気分の良さが消えなかった」と言ったら、アチャンは「それはサティが未熟だからだ」というような説明をされた。サマーディの力で現象の無常をよく理解すれば鋭いサティが入ると言っていた。その話を聞いて私が思ったのは、気持ち良さに執着しながらサティを入れていたので現象が消えなかったのではないかということだった。

その後、夜行バスでバンコクに向かい、観光にも興味がなかったので空港に直行した。空港では待ち時間が15時間くらいあった。その間にドロドロに眠くなったり楽しくなったり、心が様々に変わった。暇だったので空港内を歩いていると、ふと幸福感を感じたので、注意しながら「幸福感」とサテ ィを入れてみる。その結果をよく見ようと思って「観察している」とラベリングをして(このラベリングを抜かすと妄想に流れる傾向がある)、心と体を観察していくと、なんと幸福感が消えていた! アチャンの言った通りだった。同じようなことがあと何回も起こった。印象的な体験だった。
  今回は途中で本を読んだり、托鉢に行ったり掃除をしたりと、グリーンヒル合宿に比べるとゆるめの修行だったが、それでも深い集中もあったし、このまま1カ月くらい修行を続けてみてもいいなあと思った。なんとか長めの休暇をとってまた寺に行ってみたい。 



☆1月より、最近のダンマトークから編集部がまとめたものを、適宜「短期集中連載」として掲載しています。ご期待ください。 

<短期集中連載>

 「決定されていく心」-2
                                 地橋秀雄

5.姿勢が心に及ぼす影響
 先日テレビでアメリカの心理学の番組を見ていたのですが、その番組によると、姿勢が心に及ぼす影響は、私たちの想像以上のものがあるそうです。
 両腕を大きく広げて胸を張り、大空を受け止めるように体をパーっと開くようなポーズを取るとポジティブで陽気な気持ちになるし、逆に、両肩を落とし背中を丸め、ガックリうつむいた姿勢を取るとネガティブで陰鬱な気持ちになるというのです。
 それを検証する心理実験を、ラスベガスの路上でやっていました。通行人に声をかけて、テレビカメラに撮影させてくれるように頼むのですが、被験者は必ず二人連れを選ぶのです。夫婦だったり、若いカップルだったり、男同士でも女同士でもとにかく二人連れにやってもらうのです。
 それでOKを出してくれた二人連れの一方には、ガッツポーズをして「人生、最高!」とこれ以上はないハッピーでポジティブな姿勢を取ってもらいます。そして他方には、この世の終わりみたいに頭を抱えて悲嘆にくれた、人生最悪のようなポーズを取るように依頼します。そして二人ともその姿勢を取ったままで何分間かいてもらうのです。
 その後、50ドルの報酬をそれぞれに手渡して、ルーレットの盤面を見せます。ルーレットは偶数と奇数がそれぞれ2分の1の確率で出るようになっているのですが、このルーレットに50ドルを賭けて、たったら2倍の100ドルあげるが、外れたら報酬は失われゼロになると説明します。そうすると、ポジティブなポーズを取っていた方は、次々と積極的に賭けに出るのです。ところが、ネガティブな姿勢を取っていた方は50ドルのままでいいと、賭けを断るのですね。
 この傾向は見事に分かれていて、そこから姿勢が人の心理にどれだけ大きな影響を及ぼすかが明らかにされていたのです。皆さんの中でも、これから仕事の面接を受ける方やデートに行く方がいたら、ネガティブなポーズではなくて、大空に向って両手を広げこれ以上はない陽気な盛り上がるポーズを取るようにしましょう。()
 この実験は、たかが姿勢なのですが、ポーズがその人の意志決定に影響を与える可能性を示唆していて、それがこの番組の前半で、後半は環境が心に及ぼす影響についての実験でした。

6.環境が心に与える影響
 この実験では、バスケットボールをフリースローで10本投げてもらって何本入るかという実験をやってもらいます。1本も入らない人が何人も出てくるのですが、一方で10本のうち9本や10本全部入れる人もいるのです。
 その後、全然入らなかった人を集めて、もう1回やってくださいと頼みます。そうすると、だれも不得手なものはやりたくないわけです。薬剤師をしている人などは、自分はバスケットボールなんてやったこ
とがないから無理だと断るのですが、それでもお願いして再挑戦してもらいます。
 実験の仕掛けは、まずは目隠しした状態で2本フリースローをやるように提案します。その時に、サクラの観客を何人も連れてきて、被験者には観客も応援していますからねと説明するのです。それでボールを投げると、やはり薬剤師の人はまったく入らない。でも、サクラの観客は「わー!すごい!入った!入った!」と拍手喝采して持ち上げるのです。そうすると、被験者は「本当?」と嬉しそうな表情になる。もう1本の時も同じようにサクラが歓声をあげて応援する。すると薬剤師の人はますます嬉しそうになり、自信に満ちた表情になる。
 次に、目隠しを外してフリースローを10本行なうわけです。すると前回は1本も入らなかったのに、今度は4本も入るようになったのです。中には5本入る人も出てきた。このように、全体的に成績が大幅にアップしたのです。
 なぜこのような結果になったのかを分析すると、ボールを投げようとする瞬間に、自分はどうせダメなんじゃないかとネガティブな妄想が浮かんだりすれば、脳が不快で余計な仕事をやることになり当然その影響が出てブレるだろうということです。ところが、周囲から好意的に応援されてポジティブになった場合には、迷いやためらいや疑いがないので集中しやすくなり、脳の処理の仕方が違ってくるのではないかと考えられます。
 番組では、さらに次のような実験もしていました。
 今度は、フリースローが10本のうち9本か10本入った人を対象にします。例えば、アスリートのような黒人の若者に目隠しをしてもらい、先ほどと同じようにやってもらいます。すると、サクラの観客が痛烈
なブーイングを浴びせかけるのです。「ブー!何やってんだ。ダメ!ダメ!才能ない、やめろ!」などとケナします。
 実際は惜しいところで入らないのですが、ブーイングで全否定の嵐状態にするのです。それを2回やって、その後目隠しを外してフリースローを10本投げてもらうと、驚いたことに、前回はほとんどパーフェクトに決めていた青年が5本くらいしか入らなくなったのです。カメラが顔をアップすると、表情には明らかに動揺が走っていました。同じように前回高得点だった他の被験者もほとんど成績が下がったのです。
 これを見て、「応援の力」というものを感じましたね。応援してもらって盛り上がれば、自分は肯定されている、評価されている、認められていると確信でき、明らかに成績が良くなります。反対に、ケナさ
れて自信を喪失させられると、成績は大幅に下がるのです。このことは、周囲の環境が自分の心に与える影響の大きさを示しています。
 この実験には、例外もありました。それは、スポーツが得意そうな、一目でアスリートとわかる白人の女性です。この人は同じようにブーイングされてもまったく動じないで、10本のうち9本入れることがで
きたのです。後で、その女性にインタビューして、周りの雰囲気に影響を受けなかった理由を訊いたところ、学生時代にバスケットボールをやっていて、試合中に観客のブーイングで動揺しないようにメンタルトレーニングを積み重ねてきたということでした。
 これらの実験結果から導き出される結論としては、自分が取った姿勢にも心は影響を受けるけれど、周りの人や環境からも相当影響されるということです。共感してくれる人がいる。心から応援してくれたり励ましてもらったりする。あるいは否定されたりブーイングされたり、さまざまな環境面での要因が、自分の心や能力や意志決定に少なからず影響を及ぼし、出力するエネルギーまでが変わってしまうということです。
 私たちは自分の自由意志で、何でも決めたり行なったりしているような気がしていますが、そうではなくて、その瞬間の身体の状態や環境から受ける影響、そして何よりも自分の過去の経験の影響を受けています。特に、無意識に反射的にする行為の場合には、親の影響や生育の環境の影響がとても大きいでしょう。小さい頃から刷り込まれたものが自動的に出てしまうということですね。つまり、自分が一瞬一瞬行なっている意志決定には、無量無数無辺のものが総合的に絡み合って影響を与えているということです。
 

6.姿勢とホルモンの関係
 先ほどの身体のポーズが意志決定に影響を与えるということの医学的な説明では、身体を外側に開くと血流が良くなるため、テストステロンという男性ホルモン、これは攻撃性を司っているホルモンでもあるのですが、この分泌が増えるらしいのです。そうすると、自信がみなぎってくるというわけです。
 動物たちでも、例えばライオンのたてがみが黒っぽい雄は強いのです。雄同士が争って勝った方が勝利感を味わうとテストステロンが分泌され、その作用でたてがみの色が濃くなると言われています。雌はそのことを知っていて、必ずたてがみの黒い方を選ぶのですね。たてがみの色で交尾の相手を決めているのは、少しでも強い遺伝子を残したいという無意識の生存本能がそのような選別を行わせているのでしょう。
 またテストステロンというのは、超ポジティブな気分にさせる脳内ホルモンでもあります。これが増えると同時に、ストレスホルモンであるコルチゾールのレベルが下がります。
 このように、たかが姿勢と思うかもしれませんが、姿勢によってホルモンの分泌が変わってくるとなると、それに伴って心の状態も変化するのは当たり前のことかもしれません。例えば、オキシトシンというホルモンが出れば、必ず優しくなるのはよく知られていますね。
 脳内物質には、他にも、恐怖のホルモンもあるし、怒りのホルモンもあります。私たちの気分や感情は、これらのホルモンの作用によるものだとされていますので、姿勢が心に及ぼす影響は科学的根拠があり、無視できないということでしょう。

7.決意の力 ?意志の力
 人生を変えていくのは、意志決定をする瞬間の決意です。この決意のことを仏教用語では、「アディッターナ」というのですが、人生は決意した通りになるというのが、私が経験によって検証した確信です。ブレないで断固たる意志を貫き通せば、良くも悪くも人生はそのように展開していくものです。
 私は幼少期から小学校、中学校にかけて、徹底した模範生でした。中学の時も高校の時も生徒会長をやったり、クラス委員をやったりしていました。それを私は、家庭環境ゆえに強いられているからだと受けとめていたのです。後に内観に行って、本当は自分が好きでやっていたのだと納得できたのですが、その当時は、親をはじめとする周囲の者に期待され、強いられて模範生をやらなければならないと思い込んでいました。
 自分の素直な気持ちや本音は押し殺し、無理をして息も絶え絶え常に模範生を演じていた反動で、高校生の半ば、17歳の時にもうやっていられるかとブチ切れてしまいました。よし、大学に入ったら、グレて遊び回ってやると決意したのです。その決意の結果、その後の20代の10年間は本当にデカダンスな生活を送ることになりました。その時代は、まるで過去の自分に復讐するような感覚で生きていたのです。模範生の正反対であるダメ人間になるのが目的であるかのような荒んだ、暗い日々を過ごしていました。あるとき高校時代の友だちにばったり出会い「お前、人相悪くなったな」と言われたくらい、心が荒廃しきっていました。
 そんな頽廃的な生活をトコトンやり抜いて限界に達し、三十歳になろうとする頃、心底から「もういい。もう十分だ・・」と思いました。自ら志向した負の人生が極限に達し、陰のエネルギーが極まって陽に変わるように、もうこんな生活はごめんだ、と心の底から思ったのです。
 「浄らかになりたい!」と痛切に願い、その一心から修行を始めたのです。汚れきった身と心を浄らかにしたい、穢れを払いたい、と毎朝水をかぶって禊をする水の行をその時から17年間一日もかかさず続け、さまざまな修行に着手していきました。
 グレ始めた頃には「自分は今まで他人のために生きてきた」と思っていました。家族や周囲の人を喜ばせるために生きるのが自分の義務なのだと感じていたのです。今から思うと、アダルトチルドレンの考え方を引きずっていたのでしょう。だからこそ、模範生を演じることに疲れきったことで、今度は、自分のために生きてやると決めたのです。そして、その後の10年ほどは、本当に自分のためだけに、つまり自分のやりたいように、誰にも邪魔されず好きなように、望むがままに生きました。しかしそれも最後には、もうこの人生はダメだ、もう生きていけない・・と破綻したのです。完全に敗北したと思いました。
 そこからよく起ち上がることができたな、と今にして思いますが、まだ生きていくだけのカルマがあったのでしょう。何者かに救い出されるかのように不思議な展開があり、新たな人生が始まりました。存分に自分のためだけに生きたのだから、これからは他人のために生きたい。自分の命を、人世のために捧げたい。そのために修行をしたい、と心底決意したのです。以来、一度も決意がブレることなく今に至りました。修行者になり、瞑想者になり、苦労して培ったものを捧げ尽くしたい、恩返しをしたい・・と、いつの間にか瞑想のインストラクターになりましたが、まさにすべて自分が望んだ通りの展開になっています。
 また三十歳になり、ちょうど修行を始めたばかりの頃、私に願望実現の技法を教えてくれた方がいました。私は人並みに集中力があったので、ヴィジュアライゼーション(視覚化)は得意なのです。望んだものを鮮明にヴィジュアライズして想い描くと、本当にイメージした通りに次々と具現化していくのを目の当たりにしました。一時期それにハマったことで、まさに願いごとはことごとく叶えられ成就することを身をもって体験しました。
 「強い意志的行為は、やがて現象化する」と、後年カルマ論で説明される現象世界の法則性を、この時代に検証していたのでした。しかし、願えば叶うというその願望実現もすぐに飽きてしまって、急速に興味を失っていきました。自然に次の修行ステージに入っていったのですが、こうした経験を重ねたことによって、決意の力、意志の力、決定していく心の力の重要性が、身に沁みて腹に落ちていきました・・。(続く)

                   
 






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  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -46- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング

ペーマスィリ長老:
  第三段階から第四段階の第ジャーナ(jhāna:禅定)へ進むためには、瞑想者はスカ(sukha:楽)というジャーナの要素を捨て去らなければなりません。安楽の感覚を手放して、ウペッカー(upekkhā:捨、不苦不楽)という苦しくも
安楽でもない中立的な状態になります。スカが心から脱落し、代わって第四段階のジャーナのウペッカーが生じます。
  第四段階のジャーナはウペッカーとチッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)からなります。第四段階のジャーナに入った瞑想者は、自分の経験が本に書いてあることと全く同じであることを悟ります。ジャーナを深めていくということは、ジャーナの要素を洗練させ、それを第一段階の五つから、ウペッカーとチッテーカッガターの二つに減らしていくことに過ぎません。
  マハーサティパッターナスッタ(Mahāsatipaṭṭhāna Sutta:大念住経)に説かれているブッダの教えはジャーナを培い、ジャーナに達するためには不可欠というわけではありません。仏教以外の伝統宗教でもジャーナの意識状態を培い、それに達することが出来ます。

デイヴィッド:
  なぜ人々は高いレベルのジャーナを望むのですか?


ペーマスィリ長老:
  瞑想者がより高いジャーナを望むのは、俗世間の通常の意識状態よりもジャーナの健全で洗練された意識状態を好むからです。

  しかしながら、ジャーナの第一段階の意識は通常の意識状態と恐ろしいほど近いのです。第一段階のジャーナに達したばかりの瞑想者は、ジャーナの意識状態から脱落しカーマーヴァチャラ(kāmāvacara:欲界)の意識状態に戻ってしまう可能性が常に付きまといます。瞑想者はそのような事態を避けたいと考えます。
  二番目の理由として、第一段階のジャーナから出た瞑想者はジャーナの要素を明瞭に観察し、ヴィタッカ(vitakka:尋)とヴィチャーラ(vicāra:伺)が、ピーティ(pīti:喜)とスカに比して粗野で心を乱すものであることを理解するからです。第二段階のジャーナにはヴィタッカとヴィチャーラが無いことを知った瞑想者は第二段階のジャーナを得ようと心に決めそのための修行に着手します。
  第一段階のジャーナから第二段階のジャーナへと昇っていくために、瞑想者は第一段階のジャーナへの執着を手放し、第二段階のジャーナのウパチャーラサマーディ(upacāra-samādhi:近行定)に入ります。そして、通常のカーマーヴァチャラの思考による五つのジャーナの要素が短い時間ではありますが再び生じます。これは粗野な二つのジャーナの要素を捨て去るためであることを心で理解しています。
  第二段階のジャーナに近づくと、通常のカーマーヴァチャラの思考は止まり、瞑想者はルーパーヴァチャラ(rūpāvacara:色界)の第二段階のジャーナに入ります。カーマーヴァチャラの思考が止まった後は、第二段階のジャーナの三つのジャーナの要素がはっきりと分かります。

  第二段階のジャーナから第三段階のジャーナへと昇っていくためには、瞑想者は第二段階のジャーナへの執着を手放し、第三段階のジャーナのウパチャーラサマーディに取り組み、そして第三段階のジャーナに入ります。さらに先へ進む場合も同じです。
  第三段階のジャーナを捨て去り、再びウパチャーラサマーディに入り、そして第四段段階のジャーナに入ります。
  それぞれのレベルのジャーナに到達できるかどうかは、そのひとつ前のレベルのジャーナにどれだけ習熟し、それをどれだけ理解したかにかかっています。
  ジャーナは一つ一つ段階的に進んでいきます。瞑想者はそれぞれのジャーナから出た後、それぞれのジャーナに特有の危険性と欠点を省察します。
  例えば第一段階のジャーナを省察した瞑想者は、それがヴィタッカとヴィチャーラという欠点を有しており、カーマーヴァチャラにおける瞑想の障害要因に恐ろしいほど近いことを理解します。瞑想者は粗野な意識状態を克服し、より平穏で洗練された意識の状態に達したいと願います。
  こうした目標を掲げていても、実際のところその瞑想者は何かを得ようとしているわけではありません。瞑想者は瞑想対象にとどまり続け、ジャーナの要素をさらに洗練させます。瞑想者に執着や強い期待があると先に進むことが出来ません。
  こうして洗練された意識状態にも嫌気がさすような負の側面があることを瞑想者は常に省察しなければなりません。
  スリランカには強いサマーディー(samādhi:定、集中)を持ち、第四段階のジャーナに達した瞑想者がたくさんいます。その意識状態は極めて繊細なものであるため、瞑想者は自分がアラハット(arahat:阿羅漢)になったと思いこみ、瞑想修行を完全にやめてしまうことがよくあります。しかし、その瞑想者は必ずしもアラハットではありません。

デイヴィッド:
  彼らはソーターパンナ(sotāpanna:預流者)ですか?


ペーマスィリ長老:
  第四段階のジャーナに入った瞑想者は一時的に集中を妨害する要因が抑えられているだけです。マッガパラ(magga-phala:道果)に達するのとは異なります。

  ブッダのご在世当時、500人の比丘からなるグループが二つあって一緒に旅に出ました。最初のグループは梵住の瞑想により第四段階のジャーナに達しました。二番目のグループはなんとかアラハットの覚りに達しました。合わせて1000人の比丘は神々と出会いました。
  神々は第四段階のジャーナに達した最初のグループの比丘に対してだけ敬意を払い、アラハットである二番目のグループの比丘たちを無視しました。神々が最初のグループにだけ敬意を払ったのは、比丘たちが放つ慈しみを感じ取ったからです。神々は完全に開放された心を感じ取ることが出来なかったのです。
  もう一つの逸話があります。
  第四段階のジャーナに達した一人の比丘が自分はアラハットだと思い込みました。彼には親友が一人いました。その親友は実はソーターパンナで、第四段階のジャーナを得たとしてもアラハットになったという意味ではないということを何度も説得しました。でもその比丘は友人の話を信じませんでした。ある日のこと二人は川で水浴していました。第四段階のジャーナに達しているその比丘に気づかれないようにしながら、ソーターパンナである友人は水の中にもぐって比丘の足を噛みました。比丘は叫び声を上げました。ワニに襲われたと思った比丘は急いで岸へ上がり、土手を駆け上がりました。

  ソーターパンナである友人は言いました。
  「見てごらん、君は怖がっているだろう。君がアラハットならば何も怖がらないし叫ぶこともないはずだ」
  この経験から比丘は自分がアラハットでないことを悟りました。比丘は修行を再開し、終にはアラハットになりました。
  第四段階のジャーナが、バランスが取れて揺るぎない状況になるとそれは第四段階のジャーナサマーパッティ(jhāna samāpatti:禅定等至)と呼ばれます。
  川の水が様々な支流に流れるように、瞑想者は極めて純粋な意識状態である第四段階のジャーナから三つの流れのいずれかに方向を定めます。一番目は超能力を得ること、二番目はアルーパジャーナ(arūpa-jhāna:無色界禅定)に達すること、三番目はウィパッサナー(vipassanā:観察瞑想)により真っすぐニッバーナ(nibbāna:涅槃)を目指すことです。

  超能力を得ることを選んだ場合、かすかな音を聞いたり、通常では見えないものが見えたりするようになります。過去の生存を見たり、空を飛んだり出来ます。第四段階のジャーナサマーパッティは分岐点です。

デイヴィッド:
  そこで自分の進む方向を決めることが出来るのですね。


ペーマスィリ長老:
  その通りです。(続く)


ダンマの言葉

次に述べる日々の訓戒はブッダが弟子達に与えたもので、解放の達成に至る「六つの稀な条件」の価値を強調しています。
  「比丘達よ、ぐずぐずせずに努力し続けなさい。
  *この世にブッダが現れることは稀である。
  *人として生まれることは稀である。
  *絶好の機会は稀である。
  *「出家」することは稀である。
  *真の法(ダンマ)を聞くことは稀である。
  *善き人との交友は稀である。
(混乱から智慧へ:『月刊サティ』200511月、ニャーニャナンダ長老より)

       

 今日の一言:選

(1)テレビを消し、インターネットも携帯もOffにして、誰もいない孤独な空間に身を置いて、思考モードを離れた時間の豊かさ……

(2)思いどおりにならない「親しい人」に、イラつきながら慈悲の瞑想をする。
  嫌悪が伴い、欲に支配された<慈悲の瞑想>……

(3)わかりました、もうこのままで結構です、と心から受容できるのを待っていたかのように、情況が一変していく。
  業が尽きたので、諦観が完成するのだろうか。
  心の底から諦めがついた時に、業が尽きているのだろうか……

       ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。


       

   読んでみました
     『外来種は本当に悪者か?』フレッド・ピアス著(草思社 2016年)
 日本には古来おびただしい数の動植物が持ち込まれてきた。近ごろテレビでよく取り上げられるのは、飼育目的で持ち込まれた動物が野生化し、それが元々の生態系を乱すばかりではなく、在来種を絶滅の危機にさらしたり、農産物にまで被害をもたらしたりという情報である。本書は、そうした次元を越えて、はたして「生態系は安定が基本で、変化は異常」という思い込みは誤りであると、島という閉じた空間から、湾や湖、都市の荒廃地に至るまで、じつにさまざまな事例を駆使して考察し主張する。
  知る限りではあるけれども、カスタマーレビューの多くは「☆」の数の分布(AMAZONによる)がどちらかに偏っているけれど、本書は現時点で21件が「☆」五つ(10件)と一つ(6件)とに分かれ、二~四つは計5件しかない。そのような意味から、紹介するかどうか少々迷ったが、評価が分かれた「悪者か?」どうか、の部分には触れずに、これまで疑問も持たずにいたことを再認識させてくれ、なるほど「無常」とはこういうことでもあるのだと気づかせてくれた部分についてのみ記してみたい。

  これまで学校で極相林と言うことを教わった時、それはもうこれ以上変化しない安定したものとして覚え、理解したように思う。しかし少し考えてみれば、それでも気候や自然災害によって影響を受け、変化していくであろうことは容易に推測できる。したがって、現在では極相と言えども、より適切には動的な平衡状態にあるという視点から森林の姿を理解するようになってきている。
  本書ではもう一歩進んで、生き物同士の接触、侵入とそれが及ぼす影響について検討していく。そしてそれは、「他種類の生き物がいる成熟した生態系は『飽和』していて、もう入る余地がない」のではなく、「外来種がたくさんいる環境には、在来種も多」く、「自然を乱すという概念がそもそもない」ので、「生き物の出入りも激し」く、「『在来』『外来』の区別もほとんど意味がなくなりつつある」という結論に至る。つまり、「ダイナミズムと変化こそ自然本来の姿なのだ」との主張、これが本書のバックボーンとなっている。
  「無常」のことわりはこの世のすべてに当てはまる。絶滅していくもの、絶滅を食い止めようとするもの、どちらも包含したまま濁流のように変滅していくのが残酷な無常の真理ではないか、と「無常=苦」の理解に思いを新たにした。このことを忘れずに、本書をきっかけにして自己の「ダイナミズムと変化」にも期待しよう。(雅)
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