月刊サティ!

2017年1月号 Monthly sati! January 2017


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:感覚の取り方のヒント (2)
  ダンマ写真
   
Web会だより  『サティで消える幸福感』(前半)

  短期集中連載『決意されていく心』(1)新企画
  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -45-
   ダンマの言葉新企画
  今日の一言:選
  映画『奇跡がくれた数式』を観て                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ :感覚の取り方のヒント (2)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:歩く瞑想のとき、足を上げて前に進める時には足裏の感覚が取りにくくなります。そのときには、膝とか太股に意識を移しても良いのでしょうか。

アドバイス:
 理論的には、膝や太股など他の部位に意識を移さない方がよろしいです。
 歩行の時に一番感覚がはっきりしないのは進む時です。膝や太股の筋肉はかなり動いていますから、そちらの感覚はだいたい取れるのですが、足首から下のあたりはやはり弱いです。
  そこまで出来るかどうか、常にそのようにやらなければならないかどうかはとりあえず別にして、ここではなぜ足裏に集中させるのかについて説明します。
  私たちが歩くときのことを厳密に観察してみましょう。そこに存在する事実は何でしょうか。事実として存在するのは、足の裏を着けるときの接触感、圧迫感、移動感、そして脱けていく感覚などだけです。この変滅するセンセーションだけは紛うかたなき事実として捉えることができます。
  では、「足」というのはどうでしょうか。私たちは体のある部分を名付けて足と呼んでいるに過ぎません。そもそも足というのは概念でしかないのです。つまり、足がある、足が動いているというように私たちは言いますが、ヴィパッサナーというのは、「足」という概念で捉える見方を徹底的に破っていくことなのです。足で歩いているのではなく、世間では「足」と呼ばれている身体の末端に「離れた感覚」「移動した感覚」「着地した感覚」「圧迫の感覚」が次々と現れては消えている。異質なセンセーションが無常に変滅している。足を概念で捉えるのではなく、法として実際に存在し消えていく感覚の生滅変化を観察することが狙いなのです。
  そのために、徹底的に感覚という事実に集中します。右足を感じたり、左を感じたり、下半身全体や上半身まで感じたり、とあちらこちらを観察すると「無常性」が見えなくなるので、一点に絞り込んでその生滅変化を観るのです。定点観測をすることによって、法として存在している世界と妄想や概念の世界とを識別することが修行ポイントになっています。
  なぜ事実と妄想・概念の識別が重要かと言うと、両者を混同する無明の状態が諸悪の根源だからです。自分の思い込みや先入観を投影し、事実を不正確に認知し、その誤解し錯覚したものに対して激しく貪ったり怒ったりして不善業を作り、自ら人生を苦しい泥沼にしてしまうからです。
  事実の世界ではどのような事象も必ず変化し、壊れていってしまいます。無常に変滅するものに対しては執着しようがないのに、妄想や脳内イメージの世界はズーッとそのままで変化しません。変化しないので「何がなんでも欲しい」とか「絶対にイヤだ」とか執着や渇愛が激しくなっていき、結果的に苦しい人生になってしまいます。
  私たちは、事実ではなく妄想や思い込みが作り出した世界で苦しんでいる。事実と妄想がゴッチャになっている状態を無明と言い、ヴィパッサナー瞑想で法と妄想・概念を仕分けることが無明を破り智慧が現れる第一歩になるのです。こういう訳で、大げさに言うと「存在の無常性」を確認するために、足に生滅するセンセーションの変化に絞り込んで観察しているのです。

  良くない例ですが、足のイメ-ジを浮かべながらやると、感覚がはっきりするような感じになることがあるのです。でもそれは、イメ-ジを浮かべながら感覚を取っているのですから、意識の門からの情報と身体感覚の門からの情報が重ね合わされていることになります。眼、耳、鼻、舌、身、意の感覚は純粋に生滅しているのに、そこへそれぞれのイメ-ジを重ね、ダブらせて経験しているというのは、妄想を投影しながら見たり聞いたりしているのと同じで、これでは法とは言えません。この仕分けを明確にするのはとても大切です。
  なぜダブらせたくなるかと言えば、足が前に進む感覚はどうしても微弱なので補強したくなるのですね。 ここは確かに感覚が取りづらいのですが、足を前後にブラブラ何度も揺すってみてかなりの重さのある質量が前方に放られる移動感覚を確かめるようにしてください。ああ、この感覚かと分かると思います。
  歩きの瞑想は、法と概念を仕分けるヴィパッサナー瞑想の核心部に触れる原点ですので、しっかり修行してください。

Bさん:歩く瞑想で、「進んだ」というのはこういうセンセーションなんだと自分で思いながら今までやっていました。先生から「車が急ブレーキをかけた時に、先に進んでその反動でまた元に戻るような感じだ」と言われ、そうかなと思ってその感覚に注意を向けたら、「今までのは違っていた。これなんだ」というのが非常に明確に分かるようになりました。

アドバイス:
  それは良かったですね。
  少し解説をすると、まず、歩行にしてもお腹にしても、よく観れば毎回微妙に違うということです。その違いは何だろうと観察すると、一足一足、あるいはお腹の一呼吸一呼吸の動きが毎回完全に同じということはあり得ません。身体の微妙な動きは速度や強さなどが違いますから、その微妙な差を検出しようと思っただけで集中がピンポイントに絞り込まれるでしょう。その辺が漠然としていると、どこに集中しようか、何を観ようか、どの感覚だろうか、ということが全体的に曖昧になり、結果的には大ざっぱでよく分からなくなります。これが一つです。
  それから、最初から答えを想定してそれを体で確かめるというような発想だと、やはりヴィパッサナーの世界とは違ってしまいます。現象が勝手に起きて、それを受動的にありのままに観るのがヴィパッサナーです。たまたま今のお話ではうまくヒットしていますが、頭の中で「この感覚だ」と決めてしまわずに、よろめいたり、あるいは足を出す感覚が違えば、また違うセンセーションがあり得るはずですから、そのあたりを常に心がけ、一回一回微妙に異なるセンセーションを確かめるように新鮮な集中力を注いでください。
  それは大変といえば大変で、決めたことを機械的に繰り返したほうが楽なので、どうしても心は楽をしたがります。「なるほど、足の感覚はこういうことか」と一度しっかり確かめ「よし、これで出来ている」と思うと、その後はどうしても丁寧に観る方向には向かわなくなりだんだんマンネリ化して、瞑想が進んだ感じがしなくなる原因にもなります。とりあえずポイントがピタッと定まると鮮明になってきますので、その辺を心がけてください。

Cさん:歩行の時にはずっと目を閉じていなければいけませんか。

アドバイス:
  いいえ。目を閉じたければ閉じてもいいですよ、という程度のものです。瞑想会の時には、人が多くてぶつかったりしますので目を開けている方がよいでしょう。当然のことですが、目から情報が入れば足の感覚への集中が弱くなります。見ていないようでも必ず情報処理をやっていますから。そうすると一瞬注意が分散されるので、それだけ感覚への集中は悪くなりますね。なので、目を閉じた方が集中が良いことは良いのです。
  また、多くの方が経験していますが、目を閉じた時に壁に手をついて歩くと、ふらつかずに足の感覚に集中しやすくなります。この時は、手を壁沿いに動かすときだけ「(手を)伸ばした」「触れた」というふうにサティを入れて、あとは手は無視して足の感覚に集中してください。
  何をどのようにやっても、心はいつでも何かの対象と結びついて、途切れることなく何かやっているのです。そこで、耳の情報でも意識の情報でも、中心対象以外の眼耳鼻舌身意の情報はすべてオブラートの膜で薄っすら閉ざして、中心対象である足裏の感覚やお腹のセンセーションに絞り込むのです。なぜオブラート程度の薄い膜かと言うと、ぶ厚い耳栓で塞ぐように完全に他の門をシャットアウトしてしまうと、あるがままに観る瞑想から狙ったものだけを強引に観ようとするサマタ系瞑想に移行してしまうことがあるからです。
  センセーション(身体実感)が鮮明に感じられないのは、集中が悪く、中心対象と中心外の音や妄想などに注意がさまよっている状態です。だから日々訓練をし、心の乱れが鎮まれば必ずセンセーションがクリアーになってきます。サマーディ感覚が高まった時には、全然感じられない、わからないと言っていた人でも、驚くほどハッキリ鮮明に感じましたという報告がたくさんあります。
  ヴィパッサナー瞑想では、あまりテクニックに頼らず、集中が悪ければ悪い、集中がよければ良い、妄想が多ければ妄想が多い、妄想が出なければ出ないと、あるがままに気づいていることが何よりも重要です。歩行瞑想で目を閉じるのは、どちらかと言うと集中力が弱い方がやりたくなる傾向です。集中力が高まれば、眼を開いていても何も見えていないくらい足の感覚に集中できますので、眼を閉じるとか閉じないとか関係なくなります。
  気をつけるべきことは、集中を高めようと執着し過ぎていないかどうかです。集中力に限らず、過度に何かを求め過ぎると「あるがまま」から脱線していきます。修行を進めていきたいと思うのは当り前で、それは健全な向上心です。だからがんばることができるし、瞑想修行に必要不可欠な精進力が高まるのです。しかし、夢中になり過ぎていつの間にかエスカレートしていることには気づきづらいのです。サティという気づきが、いつでも必ず伴っていなければならない所以です。
  人は人、自分は自分で、上手い下手や集中の良し悪しではなく、一瞬一瞬自分の真の状態がありのままに観察され自覚できていればヴィパッサナー瞑想として申し分ありません。
  訓練を繰り返せば脳は必ず変わっていくし、どんなものも無常に変化していくのです。感覚を取るのに理想型があってそれが出来なければいけないという発想になっていないか気をつけましょう。ヴィパッサナー瞑想は理想の追求をしているのではありません。自分が感じた通りで良いのです。自分の状態をあるがままに気づいて、汚れているところはきれいにし、改めるべきところは正しく改めていく清浄道です。
  
Dさん:感覚をもっと強く感じたいという欲が出たので「欲」とサティを入れました。でもその後の感覚は余り変わりません。

アドバイス:
  サティを入れても、ラベリングの言葉を言っただけで、心が本気でその状態を対象化していないことはよくあります。例えば、「怒り。怒り」とラベリングしても、怒りモードは全然変わらなかったとか、「貪っている」とラベリングしているのに食べるのが止まらない、とかです。怒りも欲も、心底から手放したり見送ったりするのは難しいのです。心が本気で手放し、見送る気持ちになっていなければ、そのラベリングはヒットしません。サティを入れているので空振りではないのですが、対象をまっ芯に捉えたサティではなく、ファウルチップぐらいなのでしょう。
  3カ月前に瞑想を始めた方で、歩行瞑想はうまくいっているのですが、坐禅の腹部感覚がはっきりしない、分からないという方がいました。どうしても命令をかけて膨らませたり縮めたりと意識的に操作しているところがあったようです。
  その方が、たまたま瞑想会の日に風邪をひいていて、鼻水が出るは喉が痛いはという状態でしたが、参加することに意義ありと「今日は良い瞑想は出来ないだろう」とダメで元々みたいな感じで、何の期待もせずに来てとりあえず坐ったそうです。そして、喉が痛いので「痛み」、鼻水が出るのでその感覚にサティを入れるとやっているうちに、なぜか感覚がものすごく鮮明にわかって感動したというレポートがありました。初めてお腹の感覚が完全に感じられたと言うのです。
  怠けがちなタイプもいれば精進過剰なタイプもいる、と人はさまざまです。精進過剰な人は、明確に感じようとする欲が出てきますので、「どうしたらもっと鮮明になるのだろう」と無意識のうちに頑張ってしまいます。その結果、肩に余計な力が入って心がムダな仕事をしますから、かえって感じにくいということにもなります。 
  いま挙げた例では、結果的に風邪のために欲の起きようもなく、どうしたら感覚が鮮明に感じられるだろうかというこれまでの執着がゼロの無欲の状態でした。そうしたら、今まで感じたことがないくらい鮮明に腹部感覚を感じることが出来たというというのです。これは、非常に教訓的です。その時はエゴの期待や欲が弱められ、淡々と受動性に徹した理想的なヴィパッサナー感覚で純粋な気づきの瞑想ができたのだと言えるでしょう。 
  また、もっと強く感じたいと「欲」が出るのは、「こんなのでいいのかな・・」と思う時です。どうもイマイチ感覚がはっきりしないという自己評価があってのことでしょう。でも、その奥には、自分もちゃんと感じてはいるにもかかわらず、他の人はもっと鮮明に感じて上手くやっているのではないか・・と妄想して心が乱れているのかもしれません。多くの人が経験することです。これは、他と比べる「慢」の心がうごめいて余計な妄想がチラついてしまい、せっかくちゃんとやれていたのに、自分の余計な妄想で自滅していく状態です。あくまでも、あるがままに、起きたとおりの現象を淡々と気づいていれば瞑想は自ずから進んでいくはずなのです。

  体調を始めとするいろいろな条件によって、本当に感覚がくっきり取れる時は自分で分かります。その時には、感覚をきちんと余韻まで感じて次の動作に移る、そのタイミングや動作の区切りに注意を絞っていきます。また、そう努めることで感覚の鮮明度も上がっていきます。
  また、感覚を細かく観ていくところでは、この肉体に現れてくる現象が一瞬一瞬生滅し変化しているという無常性に注目することが重要です。感覚そのものが鮮明に感じられただけではまだ集中が少し良いくらいであり、仏教の大事な智慧の部分に入っていくのはまだまだです。
  感覚を取るのは切れ味よく刀を研ぐ作業と言えます。心がどう変わったかということは、その刀で自分の不善心所や煩悩をスパッと切れるかどうかにかかっています。
  そのような意味で、鮮やかにサティを入れて心を随観する方がすぐに結果が出てずっと効果的です。つまり、自分の心の欲や嫌悪や怒りを、サティを入れてサッパリと捨てていく対象として意識することは、明らかに心をきれいにしている作業だということです。感覚が鮮明に取れることは、集中力の強さやサマーディの高さの指標にはなりますが、そこから肉体の存在の本質まで洞察するというのはなかなか大変なのです。
  もちろん集中は無いよりはあった方がよろしいですし、それに心を注いで頑張るのはとても素晴らしいことですが、仮にそこまでの集中がなくても、心をきちっと随観できて反応系の修行に生かせれば、日常生活を生きていく上での収穫ははるかに大きいと言えます。そのような意味で、感覚の鮮明さには余りこだわらずに修行を進めていって欲しいです。
(文責:編集部)


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 今月のダンマ写真 ~








約1ヶ月のリトリート中、誰にも逢わず、黙々とひとり修行する姿を見守ってくれていた漆黒のブッダ・・・。




 

 
 

 

 




タイで最も貧しい山岳民族カレン族の集落を行く比丘。


 

 

 地橋先生提供


    Web会だより  
『サティで消える幸福感』(前半) T.H.
 
  以前から行きたいと思っていたタイ、チェンマイの森林僧院で修行してきた。グリーンヒルの法友が出家して修行しているので、連絡を取ってみたら快諾してもらえた。日本人になじみのないサンガの実態を理解できるようにお坊さんと同じような生活をしてみたらどうかと言われて、その提案に乗ってみた。
  毎日、夜11:00ごろ就寝し、朝3:30ごろ(外は真っ暗)に起床するという生活を送った。必ずこの時間に起きると決めて就寝すると、朝はまだ真っ暗なのに、不思議と寝坊しない。
  4:00から全体瞑想+読経を行い、6:00から托鉢をする。托鉢は村まで30分くらいの距離を裸足で歩いていく。道中では妄想が頻発したり、逆に歩行感覚に集中できたりと様々なことが起こる。托鉢コースは決まっていて、村人たちが家から出てきて野菜や炊いたご飯などをお坊さんの鉢に入れてゆく。私の役割は托鉢で受け取った食物の荷物持ちだ。ちなみに季節は9月の雨季で、強い雨が頻繁に降った。強い雨が降っても托鉢は傘をさして決行される(裸足で)
  7:30くらいに寺に戻ってきて、朝食の準備をし、8:00くらいにそろって食事を開始する。朝食の後は午後4時くらいまで自由に瞑想した。午後4時から日本人比丘2人と話をするのが日課だ。彼らが出家に至る経緯を聞いたり、私のことも話してみたり。ちなみにもう1人、日本人のアチャンがいたが、20日間のリトリートに入っており、最終日に話をしたのみだった。
  夕方6:30からお堂にて一同そろっての読経+瞑想がある。寺には蚊がかなりいて、虫除けを塗っていても、坐る瞑想中に何匹も蚊が刺してくる。最初の数日は蚊に対して嫌悪が出ていたが、途中からやや諦めの気持ちが出てきて、「生きているとこういう苦しみは避けられない」とか思うようになって、だいぶん気が楽になった。
  6日目の瞑想では読経を聞いているうちに集中が深くなってきて、その後の坐禅で鋭いサティが続くような瞑想になった。お腹の感覚、(蚊による?)かゆみ、足の痛みなどに意識を集中して、詳細に感覚を取ることができた。そのうち気持ち良くなってきた。「気分が良い」などとサティを入れたが、消えなかった。
  瞑想が終わると、なんとなく誇らしい気持ちになり「自分がいい瞑想できた雰囲気が他の人にも伝わったりしてないかな」とか、恥ずかしい妄想が出てきた。全体的に、夜にそろって瞑想するときに集中が深くなることが多かった。お坊さんと一緒に瞑想するという環境の力もあるのだろうか?
  蚊がとても多かったので、自由時間のほとんどはクティ(独居住居)で瞑想していた。あてがわれたクティには寝室とトイレ・シャワーまで付いており、予想していたよりも快適だった。ただ森林僧院なだけあって、部屋の中に蚊、アリ、芋虫などがよく出没し、まれに大トカゲ、ヘビ、ゴキブリも出た。
  最初は虫に嫌悪が出ていたが、だんだん慣れてきて、親しみを感じるようになった(ヘビ・ゴキブリを除く)。蚊がクティに入ったときにはまず腕か手に留まらせてから、静かに玄関のドアを少し開け、腕をドアのすき間に近づけ、ふっと息を吹いて蚊を外に出して、素早くドアを閉めた。
  戒律を受けていないから午後に食事をしても良いと言われたので、朝食を多めにもらって半分クティに持ち帰り、午後2時くらいに食べた。朝食が8時なので、このくらいの時刻にお腹が減ってくるのだ。少し甘いものを置いておくとたちまちアリの行列ができるので、飲み物・食べ物の管理には工夫が必要だ。
  長期で修行していると決まって出てくる、おなじみの煩悩が今回もしっかりと出てくる。3日目あたりになると、過去の瞑想体験と比較して今の瞑想はたいしたことないという自責が頻発するようになる。今回は一人で瞑想することが多かったので、他人と比べての劣等感はほとんどないのだが、過去の自分との比較は避けようもない。また集中が深くなると、もっと集中したいという欲が出て、なかなか消えないこともある。これらの煩悩は手ごわいのでサティを入れて一発で解決!とはならない。さらに7日目になると、手足に思いもよらない激痛が生じてきた。(続く)
 





☆今月より、最近のダンマトークから編集部がまとめたものを、適宜「短期集中連載」として掲載することになりました。ご期待ください。 

<短期集中連載>

 「決定されていく心」-1
                                 地橋秀雄
1.瞑想ブーム
  世間では今、瞑想ブームが起こっていて、世界中で瞑想を実践する人が多くなってきています。特にマインドフルネス系の気づきの瞑想に取り組んでいる方や研究者の方が急増しており、最近グリーンヒルの瞑想会にも、都内の大学で瞑想研究をされている大学院生の方々が来られました。
  これまでの研究者というのは、修行の実践はあまりやらずに、知的な研究にばかり専念する傾向が強かったのですが、最近は様相が変わり、瞑想の実践もとても熱心に行なう方が増えてきているようです。
  つい先日も若い大学院生の方が1Day合宿に参加されました。
  1Day合宿では、瞑想初心者の方のやり方が正確かどうかを個人面接で点検することになっています。
  一般的にほとんどの方が何らかの修正をされることになります。この合宿に参加するまでに、朝日カルチャーの講座や他の講習を受けていても、それだけでマスターできる人は極めて少ないのが実状で、どうしても微調整が必要になるのです。
  ところが、驚いたことにこの大学院生の方は完璧でした。まったく修正する必要がないくらい正確にできていて、研究者でもここまでの瞑想ができるようになるのかと感銘を受けました。この方は、面接以外の瞑想の時間にもその正確さを保っていたようで、スタッフも異口同音に素晴らしいと絶賛するくらいだったのです。

2.瞑想と脳科学
  瞑想に関する論文も、ここ数年で膨大に書かれるようになってきて、瞑想に対する認識が一変したような感じがします。瞑想に対して胡散臭いイメージを持たれていた昔を知る私は、本当に時代が変わってきたのだと感慨を禁じ得ません。
  瞑想についての論文で目立つのは、瞑想状態の時の脳活動の研究です。
  学術的な論文に仕上げるためには、科学的手法を用いてエビデンス(証拠)を示さなければならないので、はっきりしたデータで表すことができる脳科学的なアプローチが必然的に多くなる傾向があります。このことについては「日経サイエンス」という雑誌でも特集を組んでいました。(『瞑想の脳科学』20151月号)
  それらの研究によると、例えば、注意散漫になっている時には、内側前頭前皮質という部位が働いていることが示されています。
  また、「あっ、注意散漫になっていた」と気づく瞬間、つまりサティが入る瞬間の脳は島皮質というところが中心的に発火していると言われています。
  注意を向け直す瞬間には、背外側前頭前皮質と呼ばれる部位が活動しています。
  そして、集中の維持には、背外側前頭前皮質が引き続き活性化するそうです。
  あるいは、仏教系の、恐らくヴィパッサナー瞑想だと思いますが、瞑想の熟達者20人くらいの脳活動を調べた研究結果もあります。その研究によると、島皮質という部位と、前頭前皮質のブロードマン領域910という部位の脳組織の体積が普通の人より大きく発達しているということでした。
  このことからわかるのは、熟達者と呼ばれるくらい瞑想修行をやると、瞑想に必要な脳領域が発達するということです。
  同様のことがロンドンのタクシー運転手における研究でも証明されていて、彼らは海馬という記憶の中枢が肥大しているそうです。ロンドンの道は複雑な上に、それを厳密に覚え込まなければタクシー運転手の試験に合格できないということで、実際に受験者の七割から八割は不合格になってしまうくらい難関なのですね。その難しい道を完璧に覚える習練を毎日やっていると、海馬が肥大するほどになるということです。
  脳も肉体ですから、鍛えればそれだけ発達するのは当然のことかもしれません。瞑想をする時に使われている脳領域は特定されてきていますので、瞑想をやればやるほど、その部位は発達するでしょう。脳科学では、このようなことがすでに明らかになってきているのです。
  先ほどのデータの元になっている被験者の数が20人というのは、証拠としては少ないような気もしますが、こうした研究が盛んに行われるようになってきたという事実が、瞑想が本当に実践され、社会的に認知されてきている証左ではないでしょうか。

3.意志決定のメカニズム
  しかしながら、これだけ瞑想に関する脳科学的な論文も増えてきたとはいえ、まだわかっていないことも多々あります。その一つが、今日お話ししようと思っている意志決定のメカニズムなのです。
  意志決定というのは、我々が「こうしよう」と何かを決める瞬間の行為です。これは自分の自由な意志ですべてを決めているような印象がありますが、本当にそうなのだろうかということです。自由意志ということをとことん突き詰めていくと、果たしてどこまで自由意志があるのかわからなくなってくるのではないでしょうか。
  このことを踏まえて、今回は『決定されていく心』というタイトルでお話ししたいと思います。なぜなら、自分が「決定する」というよりは、「決定されていく」のではないかという疑問を投げかけたいからです。
  私たち人間の脳は司令塔に喩えられていて、脳が「手を上げろ」と命令するから手が動くし、足を上げろと命令するから足が動くと考えられています。つまり、脳は司令官のような感じで、末端の身体に命令を発して自由に従わせているかのようですが、同時に「中枢は末端の奴隷である」という言葉もあるのです。
  たしかに、脳は最高司令官のように末端から上がってきた情報をまとめて意志決定する構造になっています。しかし末端から上がってきた情報は、絶対的な命のいとなみの現場から由来するものなので、それを無視するわけにはいきません。
  そうなると、末端の情報に指令させられているという印象も出てくるのです。
  例えば会社組織でも、意志決定者であるCEOや取締役が自由にやりたい放題にしているかどうか。トップがワンマンな独裁者のようにものごとを決めてしまえば、反対運動の闘争が激化したり離反して離れていく者が続出して組織の存在が危うくなるでしょう。
  そもそも現場の声を無視したり、末端からの情報を重視しない経営がうまくいく訳がないのです。まさに「中枢は末端の奴隷」であり、命令しているのではなく、命令させられているのではないでしょうか。
  人の心や身体も、基本的に同じ構造です。つまり、脳が好き勝手に自由意志で身体に命令を下しているのではなく、全身の末端から上がってくる膨大な情報を瞬時に処理しながら、生命活動を最適化するために否応のない必然の力で意志決定をさせられているのではないかということです。
  これが『決定していく心』ではなくて『決定されていく心』なのではないかというタイトルの所以です。

4.「触(パッサー)」について
  グリーンヒルの瞑想会に初めてこられた方に真っ先に説明しているのは、「対象」「六門」「識」「受」「想」「尋」「行」という認知のプロセスです。これは、例えば「対象」である情報が心に入ってくる瞬間、人間の場合には、まず眼耳鼻舌身意の「六門」のどれかに接触して意識が生まれます。ほぼ同時に「受」という感じる働きがあり、次にその情報の中身を知覚する「想」が働き、さらに細部にフォーカスする「尋」、最後に「行」の反応が起きるという認知のメカニズムが基本になります。
  このプロセスでは「対象」と「六門」がカチッとリンクする瞬間に心が生まれるとされているのですが、この瞬間のことを「触(パッサー)」と言います。この「触」は、自動的な作用のように感じられるかもしれません。例えば、バン!と音がしたら否応なく聞こえてしまうでしょう。そのため「触」は機械的に起きるので選択の余地はないという印象ですが、実はメンタルファクター(心の構成因子:仏教用語で「心所」)だとされています。
  メンタルファクターというのは、心の構成因子のことです。同じ人の心が激怒したり優しくなったり、瞬間瞬間異なるのは、一瞬一瞬の心を構成しているファクターが変化するからだと考えられています。
  例えば、怒りのメンタルファクター、嫉妬のメンタルファクター、喜びのメンタルファクターというように、情動をいくつかの感情という要素に分けて、その感情の性質に従って概念化され分類されたものをいいます。 私たちの心にさまざまなメンタルファクターが瞬間ごとに入ってきて、それによって怒ったり嫉妬したり喜んだりという行為につながるという理解の仕方です。
  いま問題の「触(パッサー)」は、機械的な作用ではなく、こうした心所の一つに分類されているのです。つまり、私たちを取り巻く膨大な「対象」の中から一つを選び出し、心を押しつける働きをしていると考えられています。バン!と音が鳴ると、その音は自分の意志と関係なく、勝手に脳の中に飛び込んできているような印象がありますが、実は、自分が心の方を音にくっつけるから、音が聞こえているという解釈の仕方です。
  例えばお腹がペコペコで無我夢中で物を食べているとします。そんな時には、パッサーは食べることのみに向いていますから、よほどの大きな音でない限り気づかないでしょう。
  ブッダご自身にも、サマタ瞑想の深いサマーディに入っている時に雷が鳴って、それは農夫が二人雷に打たれて死んだほどのものすごい音だったにもかかわらず、まったく気づかなかったというエピソードがあります。
  また目の前を五百台の牛車が通りすぎて行ってすごい砂埃と大音響を立てたのにまったくわからなかったという話もあります。
  これは、ブッダはそのとき普通では考えられないほどの深い禅定に入っていたので、たしかに耳の鼓膜は振動してその電気信号が聴覚野まで届いていたのですが、脳神経細胞を発火させることなくオフになってしまうメカニズムが働いていたということです。あまりに深いサマーディ状態においては、パッサーは外界の対象に対して心を押しつける作用をしなくなるのです。
  自分が選んだ一つの対象に注意が注がれれば、他の対象が強烈なものであってもすべて無視され無化されます。
  これが、パッサーがメンタルファクターの一つであるとされている理由です。
  しかしながら、私たちには、自分からパッサーを働かせているという自覚はありません。自分の自由な意志によって音や視覚情報に注意を向けているという意識はなく、反射的にそうしているという印象を持っています。
  実際のところ、パッサーには個人差があり、大きな音が鳴っても、百人が百人すべてその音を聞くかというとそうではないのです。音が鳴ったその瞬間であっても、それがとても大事なことを思い出したのと同時であったら、「あっそうだ!忘れていた!」という動揺で目一杯になり、その音が聞こえない可能性があります。
  さらに喩えをあげれば、台所で料理を作っていたとします。トマトサラダを作って、サンマを焼いていました。その時、外で「ガチャン!」と大きな音がします。そしてまさにその瞬間「彼女にフラれたのはこういうわけか」という妄想が浮かんだとします。
  もしこれが時系列で起きたのであれば、「(トマトを)むいた」(包丁を)握った」(トマトを)切った」(サンマが)匂った」「音」(フラれた理由が)閃いた」というサティが入ることになります。
  しかるに、時系列ではなく、これらがすべて同じ一瞬に起きたとします。すなわち、トマトの皮を剥きながらサンマを焼いていて、それが匂っている時に外で「ガチャン!」と音がして妄想が浮かぶ・・。これが完全に同一の瞬間に起こったその時、人は何に気づくでしょうか?
  たとえ100%同じ情報の中にいても、何を重視して何を無視するか、その取捨選択は人によって千差万別だということがおわかりになると思います。
  実際の生活現場では、さらに大量かつ複雑な情報が入ってくるわけです。そうした情報の海の中から何か一つを選んで、それ以外はすべて捨て去るということを瞬間瞬間に行なっているのです。人生観も価値観もこれまでの来歴も違う人たちが、それぞれまったく異なる方向にパッサーが働いて別々の認識になっているのは当然ではないでしょうか。
  これからイタリアン系のレストランで料理人として働くことを考えている人は、トマトを料理することに集中するでしょう。
  視覚的な情報処理にしても、絵を描いたりするのが好きな人はトマトの赤い色に注目するかもしれません。また、最近ガステーブルを買い替えたばかりで、グリルの状態が気になる人は、どうしてもそちらの方に優先的に注意が注がれるでしょう。 これが初物のサンマだった場合、トマトよりもサンマを焼く匂いに強く惹かれるのも当然です。
  また例えば留学していた時に、たまたまテロ事件に巻き込まれて爆発音に対してトラウマがある人なら、外で「ガチャン!」と大きな音がすれば病的に敏感に反応せざるを得なくなります。
  あるいは恋愛が人生の何よりも大事なことだと考えている人にとっては、彼女にフラれた理由を思いついた瞬間、その思考にのめり込んで他のことに意識が行かなくなるかもしれません。
  このように、パッサーというのは、その人の知識や経験や情報処理の仕方や反応の仕方、価値観、生き方の全てがミックスされた中で、ある一つの「対象」が瞬時に選び出され、それに心が反射的に押し付けられるのを繰り返しながら人間特有の認知の流れが生まれてくるメカニズムなのです。
  そして、このメカニズムを機能させているのは何か、ということです。
  自分の自由意志でしょうか? 
  自分の思い通りに、こんな複雑な認知のプロセスを采配し、展開させることができますか? できる訳がありません。
  そうしている自覚がありますか? あろう筈がありません。
  ということは、自分の心なのに、自分の裁量の及ばないところで勝手に優先順位を付けられて、反射的にパッサーが起きてしまっているということになります。
  自由意志のようでいてそうではない。自分が選んで対象認識をし、情報を取っているように感じられるが、実は選ばされているという状態。意志決定させられている状態といえばいいのでしょうか。
  こうして、自由意志というものは本当にあるのだろうかという疑問が発生するわけです。
  決定しているのか、決定されていくのか・・・。 (続く)

(文責:編集部)

 

                   
   






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  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -45- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング

(承前)
ペーマスィリ長老:
  瞑想者のジャーナ(jhāna:禅定)の要素が力強く安定し続けていることで指導者はその瞑想者がジャーナに達したに違いないと判断します。一方瞑想者自身は自分が初めてジャーナに達したことに気づくことは滅多にありません。

  ジャーナを経験する時間はほんの短い瞬間(心が生じては滅する時間、数個分)であり、その後すぐにウパチャーラサマーディ(upacāra-samādhi:近行定)に戻ってしまうからです。ジャーナの要素は力強いままですがわずかにバランスが崩れてしまいます。
  ジャーナの要素が強くなると自分がジャーナに達したと考える瞑想者がたくさんいます。しかし、ジャーナに達した場合の集中の形はウパチャーラサマーディとは根本的に異なります。
  ジャーナをさらに高めるために、瞑想者はジャーナがより規則的に生じるように、またより長い時間維持できるように訓練します。サマタ瞑想の対象に注意を固定することで瞑想者はサマーディ(samādhi:定、集中)の時間を徐々に伸ばしていきます。
  少しずつですが、選んだ対象をより一層コントロールできるようになります。瞑想対象が素早く心に現れるように、対象が心に現れたらそれを安定させるように練習します。カーマーローカ(kāmā-loka:欲界)から離れる時間を増やします。

ルーパジャーナ(rūpa-jhānas:色界禅定)の第一段階

ペーマスィリ長老:
  ディーガニカーヤ(Dīgha Nikāya:長部経典)のマハーサティパッターナスッタ(Mahāsatipa
wwhāna Sutta:大念住経)の中で、ブッダはサンマーサマーディ(sammā-samādhi:正定、正しい集中)について、微細な物質に対する四つの心の没入状態、ルーパジャーナ(rūpa-jhānas:色界禅定)に入りそこに留まることであると説明されています。

・微細な物質からなる世界における第一段階の心の没入状態、パタマッジャーナ(pathamajjhāna:第一禅定)

・微細な物質からなる世界における第二段階の心の没入状態、ドゥティヤッジャーナ(dutiyajjhāna:第二禅定)

・微細な物質からなる世界における第三段階の心の没入状態、タティヤッジャーナ(tatiyajjhāna:第三禅定)

・微細な物質からなる世界における第四段階の心の没入状態、チャトゥッタッジャーナ(catutthajjhāna:第四禅定)

  パタマッジャーナ(pathamajjhāna:第一禅定)では五つのジャーナの要素全てが働き、集中の障害を抑えます。ヴィタッカ(vitakka:尋)、ヴィチャーラ(vicāra:伺)、ピーティ(pīti:喜)、スカ(sukha:楽)、チッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)の全てが力強く、安定し、調和しています。
  より高い段階のジャーナへ進むために、瞑想者はそれぞれのジャーナを磨き上げ、ジャーナの要素を取り除いていきます。ジャーナの進歩とはそれ以外の何物でもありません。
  瞑想者がドゥティヤッジャーナ(dutiyajjhāna:第二禅定)に入るとヴィタッカ、ヴィチャーラが取り除かれます。
  瞑想者がタティヤッジャーナ(tatiyajjhāna:第三禅定)に入るとピーティが取り除かれます。
  そしてチャトゥッタッジャーナ(catutthajjhāna:第四禅定)に入るとスカはウペッカー(upekkhā:捨、不苦不楽)に変わります。チャトゥッタッジャーナに入った瞑想者に残っているのはウペッカーとチッテーカッガターだけです。

 表1を見てください。

表1 四分類法によるジャーナ


  

 

 

第一

第二

第三

第四

ジャーナの要素

ヴィタッカ(尋)

機能

除去

除去

除去

ヴィチャーラ(伺)

機能

除去

除去

除去

ピーティ(喜)

機能

機能

除去

除去

スカ(楽)

機能

機能

機能

除去

チッテーカッガター(心一境性)

機能

機能

機能

機能


  アビダンマ(Abhidhamma:論蔵)ではジャーナは四段階ではなく五段階としています。パタマッジャーナ(第一禅定)では五つのジャーナの要素全てが働いているのは同じです。しかしながら、次いで取り除かれるのはヴィタッカだけです。

 表2を見てください。

表2 五分類法によるジャーナ

 

 

第一

第二

第三

第四

第五

ジャーナの要素

ヴィタッカ(尋)

機能

除去

除去

除去

除去

ヴィチャーラ(伺)

機能

機能

除去

除去

除去

ピーティ(喜)

機能

機能

機能

除去

除去

スカ(楽)

機能

機能

機能

機能

除去

チッテーカッガター
(心一境性)

機能

機能

機能

機能

機能

 

 
デイヴィッド:
  ヴィタッカが脱落するのは何故ですか?

ペーマスィリ長老:
  しばらくすると自分が何をしているのか分かるようになるのでヴィタッカは必要なくなります。

  蜂は花を見つけるまではあちこちと探しまわらなければなりません。一度花を見つけたら、蜂はまっすぐにそこに向かいます。そして瞑想者の場合は第一段階のジャーナに熟達すると、瞑想対象に対するヴィタッカはもはや必要なくなります。チッテーカッガターの力が強いので対象を捉えたままでいることができます。
  瞑想者には、対象に対するヴィチャーラが直接生じます。第一段階のジャーナに達した瞑想者の善なる心はアナーガーミー(ananāgāmī:不還果)の聖者に匹敵します。しかしながら、ジャーナの修行を止めてしまうとその善なるこころは消えてしまいます。アナーガーミーの場合は消えて無くなることはありません。
  四段階のジャーナを進んでいくために、瞑想者はまずヴィタッカとヴィチャーラにより慈しみを全ての生命に送り、慈しみによる第一段階のジャーナに達します。修行を繰り返すことで第一段階のジャーナに入り、そこにとどまることが容易にできるようになります。そしてそれが習慣になります。
  第一段階から第二段階のジャーナに進むために、瞑想者は第一段階のジャーナに特有の二つのジャーナの要素、ヴィタッカとヴィチャーラを取り除かなければなりません。
  瞑想者は第一段階のジャーナに何度も繰り返して入ることに成功しているため、ヴィタッカとヴィチャーラを脱落させることが出来ます。そして第二段階のジャーナの要素であるピーティにより第二段階の慈しみのジャーナに達します。
  第二段階のジャーナに習熟し、それが洗練されてくると、瞑想者は第二段階のジャーナの性質であるピーティを脱落させることが出来るようになります。そしてスカとチッテーカッガターによる第三段階の慈しみのジャーナに達します。
  第三段階のジャーナの要素はスカとチッテーカッガターだけです。瞑想者の心と体は安楽を感じます。瞑想対象として慈しみを用いる場合、到達できるのは第三段階のジャーナまでとなります。この第三段階のジャーナで止まってしまう瞑想者はたくさんいます。(続く)

 


ダンマの言葉

昨日とは昨夜の夢

明日とは今夜の夢

今日とは白昼夢

「感覚の喜びとは、夢のようなものである。人は夢の中で、美しい公園、森の中の沼地、すばらしい風景や池を見るけれど、目覚めた時にはそれらの跡形もない。まさに、感覚の喜びとは、夢のようなものであったのだ」と目覚めた方、ブッダはおっしゃっています。(月刊サティ20061月号:「混乱から智慧へ(三)」ニャーニャナンダ長老、より)  

       

 今日の一言:選

(1)愛は命を生み出していく本能の営みだが、慈悲が発露するには、努力と修行によってエゴを削り落としていかなければならない……

(2)「現場・現物・現実、て言うけど、現場なんかいくら見たってダメですよ、固定観念や先入観念があれば、本当の状態は見えませんから」
 と長年現場に立ち続けた人が言う……。 

(3)心が折れそうになってきたら、まだ残っている力でささやかな善行をする。
 独りではもう無理なら、仲間の力を借りて一緒にクーサラができる場へ這ってでも行く。
 安っぽい笑いでもお涙頂戴感動物でも、笑えば、涙を流せば、内分泌系が一変するので、暗転していく意識のチャンネルを換えることができる。
 人の力、環境の力、外側の力をいただいて、折れそうな心にスイッチを入れる・・・。


           ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。

       

   読んでみました
   
             『映画『奇跡がくれた数式』を観て  (今月は映画の紹介です)

  この映画を観るまで、天才数学者ラマヌジャンの存在を知りませんでした。
  ラマヌジャンは、南インドに生まれ、高校卒業後、マドラス港湾局の事務員として働き、独学で数学を勉強し、ノートに数多くの定理や数式を書き留めました。ヒンドゥー教のナマギーリ女神を深く信仰しており、「ナマギーリが自分の舌に方程式を書いてくれるのだ」と言っていたそうです。
  周囲に彼の研究を理解できる者はいなく、当時宗主国であったイギリスの著名な数学者に手紙を送ります。その中で、ケンブリッジ大学(トリニティ・カレッジ)のハーディー教授が唯一彼の才能を認め、大学に招聘してくれます。
  映画では、ラマヌジャンを軸として二種類の人間模様が描かれています。
  一つは、インドを舞台として、ラマヌジャン、母親、妻の三人が繰り広げる世俗的な世界。ラマヌジャンは、嫁姑問題に苦しめられます。息子の妻も渡英してしまったら、二人とも、二度とインドに戻ってこないのではないかと危惧した母親は、ラマヌジャンが妻に送った手紙を渡さず、妻が夫宛てに書いた手紙も投函せずに隠してしまいます。
  『心は孤独な数学者』(藤原正彦、新潮文庫)には、母親がいかに愛情深く彼を育てたのかが描かれています。おそらく、母親から深い愛情を受けとったからこそ、彼の才能は開花したのだと思います。一途な母の思いは、嫁の出現によって一転し、疑心暗鬼にまみれた嫉妬心に変わってしまったのです。トレードオフだと思いました。ラマヌジャンは、死ぬ間際まで嫁姑の争いに苦しめられたそうです。
  二つ目は、イギリスのトリニティ・カレッジ(トリニティは3という意味だそうです)で、ラマヌジャン、ハーディー、リトルウッドが追い求める「真理」の世界。
  ハーディーは、論理的に証明できないものは信じない無神論者。かたや、毎日神にお祈りするラマヌジャン。この正反対の二人の緩衝材的な役割をリトルウッドが担います。
  ラマヌジャンがひらめいた数式を、ハーディーは証明すべきであると説得します。ラマヌジャンが直観的な右脳ならば、ハーディーは論理的な左脳で、リトルウッドは両者を橋渡しする脳梁。また、3人の関係を清浄道に見立てると、ラマヌジャンが瞑想、ハーディーがダンマの教え、リトルウッドが慈悲の心を表しているように思えました。
  世俗的な世界と異なるのは、「自我」を超えて「真理」を追い求める世界では、「偏見」や「差別」もありません。ハーディーは、高校を卒業した一介の事務員の才能を認め、彼をケンブリッジに招聘することを決意します。ハーディーの高潔さに感激しました。
  私は、『奇跡がくれた数式』の映画を二度観たのですが、二度とも感動して涙してしまいました。でも、なぜ涙が出てくるのか、理由がわかりませんでしたが・・・・しばらくしてからその理由が思い浮かびました。ひとつは父との関連でした。ラマヌジャンが殴られて顔にあざができていても気づかずひたすら数学の証明に専念するハーディーに、「優しくない父」の姿を重ねて観ていたのです。でも、映画の終盤では、病に侵されて弱ってしまったラマヌジャンの為にハーディーが必死になって奔走する姿に、一種の癒しを感じていました。(穂)

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