月刊サティ!

2016年12月号 Monthly sati! December 2016


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:尋ねたかったこと (2)
  ダンマ写真
   
Web会だより  『見えてきた、自らの課題』
  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -44-
  今日の一言:選
  読んでみました 『たった一つの「真実」なんてない』                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ :尋ねたかったこと (2)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:ブッダは悟りを開かれた時、なぜ伝道をためらったのでしょうか。 

アドバイス:
  それは悟りの内容が、この世間の流れに逆らう教えだったからです。以前にも紹介した(1)ことがありますが、経典には次のようにあります。

  「困苦してわたしがさとりを得たことを、今またどうして説くことができようか。貪りと瞋りに悩まされた人々が、この真理をさとることは容易ではない。
  これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ、と。

  世尊がこのように省察しておられるとき、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった」(2)

  実は欲望を貪り満たすというのは生きる原動力であり、怒りは自分の生命を守っていく上での最強の武器となっています。生命というのは貪って怒って苦しむものであり、総じてこれが生命の原初の姿と言えます。
  もし、苦しみを根本的に無くしてしまおうと修行に励み、首尾よく完成し欲も怒りもまったく無いゼロの状態になってしまったら、もはやこの世の生命として相容れな
い存在であるとも言えます。生命の基本条件を卒業してしまったようなものですから。阿羅漢の聖者は、阿羅漢になった瞬間、その場で出家するか死ぬかどちらかだと言われています。完璧な無欲状態では、欲望と怒りのこの世界で生きていけるわけもないのですから。弱肉強食の論理に貫かれた生命の世界では、怒りもしないし貪りもしないというのは生存から脱け出すような話なのです。
  ですから、仏教というのは、とことん突き詰めればまさに世の流れに逆らう教えであって、そのような意味では世間的には分かってもらえないという本質を持っていま
す。貪瞋痴を無くしていこうという発想には、反生命・反自然の本質が包含されていて、どだい生命本来のあり方に逆らうものなのです。これは大変なことであり難しいところです。
  しかしだからといって、世間の流れのままに欲望と怒りを激突させ淘汰し合う生き方では、苦が増大し凄まじい地獄絵図になってしまいます。酸鼻を極める戦争状
態が常態になっては生存そのものが疑問になってしまうでしょう。日々食うか食われるかのむき出しの暴力世界ではあまりにも苦しいので、生命自体が基本法則にブレーキをかける方向に進化を進めた結果、高度な群れ社会を形成する生きものが登場し、人類はその一員なのです。欲望と怒りを抑制し、全開状態にしない方が生存率と幸福度が上がるのではないか。幸せに生きられるのではないか・・という試みです。そんなに貪らず、怒らず、執着しなければ、お互いへの優しさが現れてくる・・。貪瞋痴を減らした分だけ人生から苦しみの分量が引き算されるという厳然たる法則です。
  苦しみを絶無にする道を説いたブッダは、そのような究極の解脱まで目指すプロの出家者を対象にしています。そこでは、世の人々には受け容れがたい厳しさで完
全な無欲・無瞋・無痴の方向を示したのです。しかしブッダは同時に、一般の在家者に向けた経典では、無欲ではなく少欲、怒りゼロではなく、あまり怒らない、という程度に、苦しみを限りなく少なくしてこの世で幸せに生きるための説き方をしているのです。幸福度を高め、苦しみを無くしていく道はグラデーションになっていて、自分の分に応じた道を歩みながら、いつの日か究極の状態に達していけばよいと考えましょう。
  注1:『月刊サティ』2008/11

  注2:中村元訳「仏伝に関する章句」(『原始仏典』)筑摩書房
   

Bさん:煩悩の上で男と女の違いがあるでしょうか。

アドバイス:
  嫉妬深い男性もいれば女性もいる、怒りの強い男性もいれば女性もいます。ですから、男とか女とかはたいした違いではありません。有身見です()

  ただ、女性は出産しますから、一般論としては子供に対する愛着は男性より強いでしょう。なぜなら、女性は出産してお母さんになった瞬間、オキシトシンという愛
情ホルモンが10何倍か大量に分泌され、どうしようない力に突き動かされて赤ちゃんを愛しく可愛いと感じてしまうと言われます。さらに授乳の際に、赤ちゃんが乳首を吸うとプロラクチンという別の愛情ホルモンが分泌され、子供が可愛いという気持ちになってしまう仕組みが生物学的に備わっているからです。ところが、何かの原因でホルモンの分泌が阻害されると、可愛いという気持ちがあまり湧いてこないのです。逆に男性でも赤ちゃんを抱っこするとオキシトシン・ホルモンが出てくると言われます。
  つまり、愛情系であっても煩悩系であっても、脳にそのような信号を通せば通すほど通電性が良くなって、そのような反応が自動的かつ瞬間的に起きてくるということ
です。そして愛情に限らず、怒りのホルモンが出やすい条件付けをしてしまった怒りっぽい人も、怒りを抑制すればするほど抑制するホルモン分泌が強化されていくことが知られています。脳をいつもそのように使うように心掛けて訓練していけばよいのです。煩悩を抑制しようと様々に工夫して頭を使えば使うほど、必ず怒りや貪りなど諸々の煩悩が抑制できるようになります。男性も女性も関係なく、脳も筋肉同様、訓練によって変化し、いくらでも組み替えられるようになっていくのです。頑張りましょう。 

Cさん:友人からご主人の介護のことで相談の手紙をいただきました。かなり精神的に追い詰められているような文章でした。心配し過ぎて倒れてしまうのではないかという感じもします。楽になるような言葉を掛けたいのですが、先生に何かアドバイスを頂けたらと思います。お歳は70代前半です。

アドバイス:
  間接情報だけでは明確なことは申し上げられないのですが、心労の部分が多いのではないかと推察します。実際の介護の作業自体は大変は大変ですが、ここでは一般
論として「余計なことを考えるな」ということを強調したいです。
  深刻な情況では無理もないことなのですが、「この先どうなるんだろう・・」「これ以上悪くなっていったら、耐えられるだろうか・・」などと否定的な妄想に悩まさ
れると、とにかくヘトヘトに疲れてしまいます。身体的な苦労よりもダメージが大きいと言ってよいでしょう。
  私も父親の介護をした時に、1カ月ちょっとの期間だったと思いますが、毎晩父の病室に泊まって世話をしたのです。夜中に何度も起こされて便で汚れたオムツの交
換をしていると、本当に苦しく疲れてしまった経験があります。最初は元気いっぱいやっていても、日数が経ってヘトヘトになってくると本当に大変です。もしサティをやっていなかったら、とても持たなかったでしょう。介護の現場では厳密にサティを入れて、余計な妄想をしないようにしました。本当にその時にしていること、今の作業だけに集中したのです。
  例えば、寝入りばなや明け方近く睡眠が深くなっている時にを起こされて、ソファーから起き上がる瞬間など「またか」というような気持ちが一瞬浮かぶのは誰にでも
あり得るのです。それに巻き込まれてネガティブな不善心所系妄想にハマって行動しているとグダグダに疲れるものです。何が人を一番疲れさせるかと言えば、ネガティブな妄想に反応した不善心所モードというのが、身体的疲労の何倍も悪い作用をします。
  嫌悪も、怒りも、不安も、悲しみも・・ネガティブな想念は恐らくネガティブなホルモンを分泌させるのでしょうが、心身を最も痛めつけ疲弊させてしまうのです。ネ
ガティブ妄想は「見ざる言わざる聞かざる」が良いのではないかとアドバイスしたいですね。
  ご相談の方に関しては詳細が分からないので答えづらいのですが、一般論としては余計なことは考えないように、苦しくても現状をありのままに受け入れる気持ち
が持てるようにということを強調してアドバイスされたらいかがでしょうか。もし余計なことを考えないのが難しいようでしたら、どんな妄想も必ずプラス思考に転換させる練習をするようにお話してあげたらいかがでしょうか。
  それからもう一つ大事なことは、必ず休暇を取り、介護現場を離れて気分転換をする時間を作ることです。どんなに優しい気持ちを持っている方でも、休暇を取ってリ
フレッシュしないと優しさがだんだん擦り切れてしまうものです。必ずそうすべきだと私は考えます。お休みを取ってから現場に戻ると、驚くほど優しい気持ちになれることを試していただきたいですね。

Dさん:瞑想の途中で神秘的な体験がありました。びっくりしたような感じで、サティは入らなかったです。

アドバイス:
  その時にサティが入らなかったところはやはり問題です。サティが入らないと、心はその意味付けの方に向かってしまいますから。

  ヴィパッサナー瞑想は、気づく対象の内容の良し悪しは関係ありません。価値あることでも、くだらないことでも、素晴らしい意味のありそうな神秘体験であれガセネ
タ体験であれ、ただそのように体験していると気づきモードをキープできるか否かです。
  定力が高まりサマーディ感覚が深まってくるとヴィパッサナー瞑想が高度なレベルになってきます。すると、不思議現象のようなものが強力に現れてきて、「観の汚染
(ヴィパッサナーの汚染)」と言われるものが起きてくることがあります。その内容は瞑想体験として非常に素晴らしいのですが、その圧倒的な不可思議現象に惑わされず、足をすくわれないで観じ切っていけるか否か・・。これはかなりレベルの高い話なのですが、どんな素晴らしい現象や瞑想世界が出現してきても、淡々と客観視して見送っていくという意識モードを保つことが最重要なのです。
  何かが出てきたら、そう「感じた」、驚いたら「驚いた」、「『これは何かすごいんじゃないか』と思った」というふうにどんなものも掴まないで見送るのです。進め
ば進むほど限りなく、いくらでも高いレベルの修行が要求され、それに応えれば応えるほど心は解脱の方向に向かいます。いかなるものにも食いつかずに淡々と冷静に観ていきましょう。

Eさん:出家と普通の在家の暮らしの中での清浄道の関係を教えてください。

アドバイス:
  それは、必然の流れで答えが自ずから出てきます。寺に入れば時間も環境も整っているので、瞑想の修行だけは存分にできます。しかし心を全体的に清らかにしてい
く「戒慧」のシステムの流れのなかで清浄道の完成を目指さない限りは、仏教の悟りに達することはありません。
  まず戒をしっかり守って倫理的にきれいに生きていく状態、あるいは人格がほぼ完成しているかのような安定した状態を目指す「戒の修行」から始めるのですが、実は
その前にするべきことがあります。それは善行です。
  善行によって善いカルマを積み重ね、それに支えられなければ、清浄道を進めていくことがなぜか難しくなり、阻まれてしまうものです。戒を守りたくてもなかなか条
件が整わず、どうしても破戒の不善業を作ってしまうような流れになる。善行をしたくてもできない。瞑想をやりたい気持があるのに、時間も体調も環境も整わない・・というように、やるべきことができないのは徳がないからなのです。徳=善行の集積です。ここでは「布施(ダーナ)」という言葉で善行を代表させますが、ダーナ()、シーラ()、サマーディ()、バーバナ()のこの流れは崩せないです。
  瞑想と言うと多くの方が定から入ろうとしますが、その前の段階ができていないことが多いようです。これは私が痛感してきたところです。

  タイ、ミャンマー、スリランカ、どこへ行っても、出家してしまえば戒律を守って同じ意識で修行している人ばかりなので、世俗でのようなトラブルは本当に少ないの
です。ですが、そうすると自分の心の汚染は観えづらくなります。自分より修行ができている人に嫉妬したり、劣っている者を見くだすなどの問題は寺にもありますが、多くの煩悩が特殊な環境ゆえに観えづらいと言えます。ですから、戒の修行が完成していない状態で出家するのは、自分の心の汚染が見えなくなる状態、これを随眠と言いますが、そういう落とし穴があるのです。
  アヌサヤー(anusaya:随眠、悪習、悪しき習い)というのは、本当は存在しているのに、現れる機会が無いとまったく存在しないかのように心の奥底で眠りこけている煩悩です。そうすると本人は無いと錯覚してしまいます。例えば電気も無いし水道もないし、釣瓶で水を汲み、カマドで薪を燃やして湯を沸かし、夜はアルコールランプだけといった環境の森林僧院では、欲望を刺戟する物も食べるものも異性ももともと無いのですから欲望の起こりようがありません。そんな環境にいれば、自分はもう物欲から解放されたのだ、というように錯覚してしまいます。でも、随眠状態でその煩悩が残っていれば、環境が変わればたちまち吹き出してくるということになります。
  そうすると、反応系の修行というのは寺ではむしろ難しいというか、出来ないとも言えます。在家として娑婆世界で、愚か者も欲深な者も、いろんな人がいる中で揉み
くちゃにされて、ストレスが多くイライラさせられ、食べるために嫌な仕事もして、そうした娑婆の苛酷な情況で心がいささかも乱れなくなったとしたら大したものです。あるいはどんなイヤらしい人や難しい人に対しても、嫌悪や怒りを出さず人としてなすべき完全な対応ができるでしょうか。至難の業です。こんな高度な修行は、苦海か憂き世かといった在家者の普通の日常生活の中で、玉石混淆の普通の人間関係を持ちながらの方がはるかに本格的な良い修行ができるのです。反応系の修行に関しては、寺よりも苛酷なこの世の方が立派な道場と言えるでしょう。
  もちろんお寺に入れば瞑想は進みます。サマーディに到達し、サティも入るでしょう、瞬間定も出来るかもしれません。これはもうアスリートと同じ、朝から晩まで瞑
想していたら、どんな人だってそういう脳の使い方のトレーニングで瞑想は上達します。でも、どれだけサマーディに入れても、瞬間定ができても、解脱の智慧が生じなかったら悟れないということを、徹底して理解しておくべきです。正しい順番で心の清浄道を歩んでいかないと、瞑想が現実逃避の手段にもなりかねません。
  先ず戒を完全に守り善行を積みかさねたうえで、劣等感やトラウマやらいろんなものから解放され、人格が安定し、悪を避け善をなすということが完全にできた状
態の人、そういうほぼ人格完成者のような印象の人が瞑想の修行に専念すべきなのです。そこまで行った人は寺に入って、朝から晩までいくら瞑想しても問題はありません。反応系の心のプログラムに汚染はほとんど無い状態ですから。
  ということで、自分に何かへのこだわりがあって、意図的に出家してやろうとかこの世に留まってやろうとか言うのは、所詮エゴの囁いていることであって、概ねハズ
レになります。真の意思決定というのは、もっとダンマに任せて、あるいは三宝に任せきった先に自然に道がついたならそうすれば良いのです。完熟した柿が一人で落下するように出家する自然さが望ましいのです。
  この世でうまくいかなくて、まるでヤケクソで出家しているかような人にも何人も会いました。それは事実上寺への逃避です。基本的に嫌な人はいなくて、慈悲の瞑
想をして、みんな清らかに生きているから、そういう人にとっては寺は天国ですよ。でも、悟れないでしょう、現実から逃げていては。
  この世に留まるだけの因縁があれば、それは留まって反応系の修行をした方が良いのです。そういうことが全部終われば自然に道がついて、まさに完熟した果実が落ち
るように出家することになるだろうと思います。 (文責:編集部)



 今月のダンマ写真 ~






 ナーランダ大学遺跡内にあるブッダの十大弟子の中で智慧第一の者として知られるサーリプッタ尊者を祀ったストゥーパ。

 龍樹、法顕、玄奘三蔵、など歴史に名だたる面々もこの地で仏教を学んだ。遺跡内には、僧院、僧房も備えられており、当時の学生が学問だけでなく修行にも励んでいたことが見て取れる。
 
 

 

 



 成道の地ブッダガヤーにある大菩提寺(マハボーディ・マハーヴィハーラ)。
 この裏手に菩提樹があり、金剛宝座と呼ばれるその樹の下でブッダは悟りを開いたと伝えられる。
 紀元前3世紀にアショーカ王が建立し、19世紀の大改修を経て、現在に至る。参拝者は絶えることなく、各宗派の人々が各々の方法で礼拝する。

 

 T.O.さん提供


    Web会だより  
『見えてきた、自らの課題』Y.J.
 
  2年前、上座部仏教と出会い、興味本位で瞑想の実践を始めました。 特に悩んでいることは、ありませんでした。
  仏教に全く理解を示さない家族、特に母親には閉口することがしばしばありましたが、悩みという程のことではありませんでした。職場でも悩みはありませんでした。

  それは、私が日々、自己中心的に言いたい放題、やりたい放題であったためです。ストレスフリーです。

  自分で言うのもおこがましいのですが、悪意ある言動では無かったため、周囲からは「変わったやつだけれど、ネタを提供してくれるし、害はない。まあいいか」というように受け止められていたように思います。

  私自身「特に趣味が合う者同士でもなし。適当にコミュニケーションをとって、仲が良いような感じであればいいや」と、この状況を楽しんでいました。今思えば、仏道を知らない他人を見下していたのです。

  その結果は、職場の同僚とのトラブルという形でやってきました。
私の相手のことを考えない発言が、鬱気味の同僚Aの心をえぐったのです。
  そのAへの同情。日々、傍若無人に振る舞い、飄々としている私への鬱憤が一気に噴き出しました。

  大人の集団です。表立って何かあるわけではありません。ただ、私への無言の非難や悪意、疎外されているという感覚はありました。

  見下している相手からどう思われようが、何も感じないものなのでしょうか。私は、特に困ることもなく「勝手に嫌ってくる。私にも問題はあったけれど、相手の思考に問題があるのだから、どうでもいいか」と日々過ごしていました。

  「自分は泥の中にいる。愚人の中にいる。その中で咲く蓮だ・・・」

  この頃の私は、恥ずかしながら、そのように思っていました。

  法の力か、瞑想の結果か。多少の苦しみが降りかかってきても、心は落ち着く。しかし、反応パターンに大きな問題が残っているため、いつまで経っても多少の苦しみが降りかかってくるという状況が改善されない。そんな状態だったように思います。

  どうも瞑想が進まない感じがする。何かテクニックとして間違っていることがあるのではないか。そう感じて、グリーンヒル瞑想研究所の門を叩きました。
そこで、「戒→定→慧」の順に修行を進めること、心の清浄道を歩んでいくことの重要性を痛感しました。
  同僚Aとのいざこざから、8か月程たった時です。何か縁があったのでしょうか。
同僚Aとチームを組んで、仕事をすることになりました。
  後から聞いた話では、上司の決定にAは困惑し、上司に苦情を述べたそうです。私自身は、多少心に引っかかりを感じましたが、問題とは認識しませんでした。ただ、せっかく一緒に仕事をするので、同僚Aの名前を入れて毎日、慈悲の瞑想をすることにしました。また、幾度か、真剣に懺悔の瞑想を行いました。

  Aは、私のことを嫌悪しています。しかし、私はAを嫌うどころか、真剣に慈悲の波動を送り続けています。Aは、何かおかしいと感じていたことでしょう。

  Aとの関係が改善されたきっかけは、覚えていません。まさに氷が少しずつ溶けるように、わだかまりが無くなっていました。それはAへ慈悲の瞑想を始めてから、8か月程たった時のように思います。その後の結果は、劇的なものでした。

  Aとの関係が改善されたどころか、職場で一番親しい間柄になりました。マインドフルネスの話をすることもありました。「職場の人間とは趣味が合わないから、どうでもいい」と感じて、適当に過ごしていた日々は終わりました。トレンドとしてのレベルではありますが、瞑想の話をできる相手ができたのです。


  ①何も考えない自分本位の言動。

  ②他人を見下していること。

  同僚Aとの関係の改善から、自分の課題が浮き上がってきました。

  同時に、なぜ、大きな恩を受けてきた母親に閉口するのかが見えてきました。まさに自分の課題を、鏡のようにきれいに映し出していたのです。

  今、私は自分の課題に向き合っている真っただ中にいます。

  みなさんの瞑想修行が進みますように。

  生きとし生けるものが幸せでありますように。  
 

                   
   






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  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -44- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング

ペーマスィリ長老:
  私たちは今ジャーナの要素がどのようなものか学んでいます。鐘を叩くのが
ヴィタッカvitakka:尋)で、鐘が鳴っている状況がヴィチャーラvicāra:伺)です。私たちはヴィタッカを用いてふさわしい瞑想対象を叩きます。鷹が羽ばたくのがヴィタッカで、その鷹が空へ舞い上がるのがヴィチャーラです。

メッタバーヴァナー(mettā-bhāvanā:慈の習修)の場合は、生命に向けた慈しみに心を向けるのがヴィタッカです。最初に心を向けるだけです。ヴィチャーラヴィタッカより発展し安定した状態です。

生命に慈しみを向けそれを維持しようと努力することにより、残りの二つのジャーナの要素であるピーティ(pīti:喜)すなわち集中の高まりにより生じる喜びと、スカ(sukha:楽)すなわち集中が深まったことにより生じる安楽が生じます。集中の初歩的なレベルの場合力は強くありませんが、五つのジャーナの要素が生じます。心と身体は軽くなります。 

心を瞑想対象に向けるといっても、瞑想対象以外に何も考えないというわけではありません。実際様々な思考が生じますがその大半は瞑想対象に関連したものです。心が遠くに彷徨うことはありません。

例えば慈しみの実践をしている時に仕事や、これから出かける旅行のことや外に干した洗濯物のことを考えます。こうした散乱した心が生じた場合、それを手放して、全ての生命に慈しみを向ける作業に戻ります。

このように慈しみの心を対象に向けてそれを維持すると、チッテーカッガターという心の要素はほとんどの時間慈しみに留まります。まるで注意が小さな円の中に閉じ込められたかのようになります。心はその円の外に出ません。しかし、心が完全に一か所にとどまり隠れ去るというわけではありません。

  ウパチャーラサマーディ(upacāra-samādhi:近行定):サマーディ(samādhi:定、集中)の一歩手前の集中

 ペーマスィリ長老:
  瞑想者がふさわしい瞑想対象に心をとどめる時間が長くなるにつれて、五つのジャーナの要素は力を強め、集中を邪魔する要因が弱まります。

ある時点ではヴィタッカとヴィチャーラは強力ですがピーティとスカはそれほど力強くありません。また別の時点ではピーティとスカは強力ですがヴィタッカとヴィチャーラはやや弱くなります。おそらくチッテーカッガターは強力と思います。これがウパチャーラサマーディ(upacāra-samādhi:近行定)です。

五つのジャーナの要素全てが強いレベルで生じますがバランスが取れていません。ウパチャーラサマーディ、ジャーナに入る前に生じるレベルの集中です。ウパチャーラサマーディに入ると瞑想者は五つのジャーナの要素が全て揃っていると感じようになります。瞑想者は選んだ瞑想対象に心が向かい続け、心が長時間対象に留まり続け、そして他の対象に心が散乱していないことを自ら悟ります。

時にヴィタッカとヴィチャーラというジャーナの要素が生じていることを認識します。

時にピーティとスカも生じていることを認識します。

瞑想者は身体と心が軽いことに気づきます。瞑想者は粗雑ではありますがジャーナの状態に達し、心のプロセスの中にジャーナの要素が実際に生じていることを悟ります。ジャーナの要素が生じたことで、瞑想者がウパチャーラサマーディに達したことが指導者にも瞑想者自身にもわかります。

  瞑想者はウパチャーラサマーディに入ったことを頻繁に知りますが、ウパチャーラサマーディを超えてジャーナ)に達するために何をすべきかを正しく理解することは稀です。瞑想者は全てがわずかに物足りないということだけわかります。

これは、瞑想堂に入ろうとしている人に似ています。その人は正しい道を歩き、門を通って敷地の中に入り、瞑想堂の入り口の階段の手前に達します。階段を上ることもありますが、階段の端から一歩踏み出して瞑想堂に入ることが出来ません。その人は瞑想堂のすぐそばに居て、瞑想堂がどのようなものかある程度の知識を得ますが瞑想堂の中にしっかりと入ることはありません。階段の端に佇むだけで、家に帰ってしまいます。

アッパナーサマーディ(appanā-samādhi:安止定):ジャーナに達した集中

ペーマスィリ長老:
  
ジャーナに入る前に瞑想者はウパチャーラサマーディのジャーナの要素のバランスをとらなければなりません。誰でもその道を通らなければなりません。

一つの対象を使って丸一年かけて訓練し、ジャーナの力を強め完璧なバランスとろうと努力する場合もあるかと思います。強力な瞑想者であっても、その一年の大半、ウパチャーラサマーディにとどまりその先へ進めないこともありえます。

瞑想者の対象が慈しみの場合は、「全ての生命が幸せで苦しみから逃れられますように」と、慈しみの心を直接生命に向けます。瞑想者の心の中で慈しみが長時間継続するとヴィタッカとヴィチャーラとともにチッテーカッガターが生じます。

さらに瞑想修行を続けるとピーティとスカが生じ、チッテーカッガターも力を増します。五つのジャーナの要素全てが一定の力のレベルで生じると、突然没入状態の意識が生じ、アッパナーサマーディ(appanā-samādhi:安止定)に達してジャーナに入ります。

  初めてアッパナーサマーディに達する瞬間は、道を歩いていて道の裂け目に遭遇した時に似ています。私たちはいつもの歩き方を止めて、裂け目を飛び越え、またいつもの歩き方に戻します。裂け目を飛び越えたことに気づかない場合もあります。

  日常生活の中で私たちは官能的快楽に対する渇望のままに絶えず感覚器官の対象に関心を寄せます。私たちの心は、官能的快楽を追い求める領域、すなわちカーマーローカ(kāmā-loka:欲界)の街路を彷徨っています。ウパチャーラサマーディに入ると、ジャーナの要素が官能的快楽に対する渇望を抑えます。

しかし、ジャーナの要素の力はバランスがとれていません。これは瞑想者がカーマーローカに留まっていることを意味します。五つのジャーナの要素がバランスをとりながら一定の力強さを得ると通常の感覚器官の活動は中断し、完全に停止した状況が続きます。瞑想者はカーマーローカから離れて微細な物質からなる領域、ルーパーローカ(rūpā-loka:色界)に入ります。ジャーナに達しています。

  ルーパーローカに達している時間はほんの短い瞬間(心が生じては滅する時間、数個分)で一秒にもなりません。ルーパーローカに達した後、瞑想者はカーマーローカに戻ります。

ジャーナの要素は生じ続けますが力のバランスがわずかに崩れています。ジャーナはほんの短い瞬間しか続かないため、瞑想者はジャーナの要素のバランスがとれてジャーナに達したことに気づかないこともよくあります。

デイヴィッド:
  ジャーナから離れても、ジャーナの要素は強いのですか?

ペーマスィリ長老:
  ジャーナの要素は強力で安定したままです。時にはジャーナの要素が生じては滅する状態が半日にわたり続く場合もあります。食事の時も、トイレに行く時も、誰かとしゃべる時もウパチャーラサマーディのジャーナの要素は生じ続けます。

  ジャーナの要素が散乱しなければ、他の人の行動に対する怒りが生じることはありません。瞑想者が怒って、音をたてた人に怒鳴っていたとしたら、その瞑想者はただジャーナの要素の一つ、たとえばチッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)にしがみついているだけです。自分がしがみついている一つのジャーナの要素が壊れたために怒るのです。

以前私はドアをバタンと閉めた人に大きな声をあげました。私がジャーナの修行をしていて、五つのジャーナの要素が生じていたとしたら、怒り、欲、後悔、心の散乱、眠気、無気力、疑いという集中を傷害する要因が抑えられているため怒ることはありません。でも今は私を乱す人がいたら怒ります。(続く)


       

 今日の一言:選

(1)雑念と戦いながら必死でサティを入れているときは、まだ普段の思考モードと大差がないのだ。
 ところが、急にサティを入れようとする努力が要らなくなり、全てのものが、音が消えたテレビ画面を見るような感じに映ってくる。
 一瞬一瞬の状態が難なく対象化されていくと、今まで頭にお椀をかぶった状態で生きていたのだとハッキリわかってくる。

 喜怒哀楽、不安、絶望、恐怖・・・に巻き込まれる思考モードとはこういうことだったか・・・と。

(2)自分に被害を与え傷つけた人の頭上にも、満点の星が輝き、月光が平等に降り注いでいるではないか。
 ダンマを学んだのだから、理法に貫かれた視点に立って、見つめ直してみる・・・。

(3)地球の裏側の難民に対してなら、愛憎の入らない淡々とした慈悲の瞑想ができるだろう。
 身近な人に対して、ウペッカー()の聖なる距離感を保つことは難しい。
 愛の場合も憎しみの場合も、濃密な関係には、そうなるだけの因縁があったのだ。 その因縁の流れを、他人事のように振り返ることができれば、ウペッカーの心が立ち上がる・・・。


           ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。

       

   読んでみました
    森 達也 著
   『たったひとつの「真実」なんてない』(筑摩書房 2014年)

かなり衝撃的なタイトルの、特にメディアによる情報に対する受け手の意識を喚起する著作ということが出来ます。著者はドキュメンタリー映画監督、ノンフィクション作家で、ご存じの方も多いと思われます。このコーナーの主旨の一つには柔軟な思考を養いましょうというものがありますが、この本もその範疇に入ると思われますので紹介いたします。
  私たちは、幅広く知識を得ることもヴィパッサナー瞑想を進めるためには大切な一面であることを学んでいますが、メディアもそれを得る大きな手立ての一つです。しかし、それが客観的で公平中立なことはあり得ないと著者は言います。メディアによるものはあくまでもひとつの視点であって、どうしても偏りが避けられないというわけです。
  ところで、ブッダの教えを学び始めたころ、それまで馴染んできた価値観との違いにたいへん驚きました。もちろん次元は違いますが、この本でも、なんとなくこれまで素通りしていた視点に次々に気づかされていきます。例えば、「『とても』という言葉から9割をイメージする人もいれば、控えめに7割くらいをイメージする人もいるはずだ。つまり言葉とは、とても主観的な存在だ。人によって意味が違う」「カメラで『何かを撮る』という行為は、『何かを消してしまう』行為と同じことなのだ」等々。
  そして、次のような言い換えも人の目を曇らせていると言う主張には、日ごろ感じていたこともあり納得できました。曰く、「事故」を「事象」、「老朽化」を「髙経年化」、「危険」を「要注意」等々。たしかに、言い換えによって不安感を和らげようという意図は感じますが、行きすぎればかえって現実から目を逸らす弊害に至るのではないでしょうか。
  「たった一つの真実を追究します。こんな台詞を口にするメディア関係者がもしいたら、あまりその人の言うことは信用しないほうがいい。確かに台詞としてはとても格好いい。でもこの人は決定的な間違いをおかしている。そして自分がその間違いをおかしていることに気づいていない」。けっこうありそうな話しに聞こえます。
  メディアによって伝えられる情報の中身には当然取捨選択が行われるわけですが、その際、やはり多くの場合興味ある方向へ向かうことは避けられず、その結果、受け手の見方もそちらに誘導されることになります。しかしながら、「ある事件や現象に対して、メディアの論調は横並びにとても似てしまう」のですが、それは、「その視点が、最も視聴者や読者に支持されるから」というわけです。では私たちにはどういう態度が望まれるのでしょうか。
  著者は結論として、「受け手にとっても、得た情報は一つの視点であることを認識し、自ら推理や想像力を働かせることが重要になる。事実は限りなく多面体であり、視点によって全く違って見えるからである」と主張しています。
  このように、私たちも単に情報を鵜呑みにするのではなく、自分で考え、あるいは可能なら自ら体験し「検証する」ことが重要だということ、そしてそれはブッダの教えの立脚点にも通じるものであることを改めて認識しました。(雅)

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