月刊サティ!

2016年11月号 Monthly sati! November 2016


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:修行上の質問 ―実践編― (2)
  ダンマ写真
   
Web会だより  『真実を見つめた先にあるもの』
  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -43-
  今日の一言:選
  読んでみました 『ヒトはイヌのおかげで人間になった』                  

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ :修行上の質問 ―実践編― (2)  
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

〇欲と怒りのモグラ叩き
Aさん: 瞑想をやっていくと怒りが減る替わりに欲が出てきて、しばらくするとまた怒りの種になるようなことが浮かんできて苦しくなるという悪循環です。欲と怒りのモグラ叩きのようです。

アドバイス:
  怒りには、こちらの思い通りにいかない状態に対する嫌悪という要素がありますから、ある意味では欲望系ということになります。こちらがウペッカー(upekhā:捨、平静さ)の心境で、まったく何も期待していない、狙っていない状態になっていれば、何が起きても怒りは出ずらいと言えるでしょう。しかし、こうあってほしい、これだけはまっぴらゴメンだというのが明確であればあるほど、それを妨げることが起きれば嫌悪や怒りは出やすいのです。
  そのあたりはいわばセットになっているようなもので、結局自己中心性の如何ということになります。基本的に、心の中では快・不快があらかじめ明確に決まっていて、心地よいもので周りを固めたい、不快なものは全部遠ざけたいというのが人情ですから。この度合いが明確であるほど嫌悪が出やすいし、嫌悪があまり意識されない場合には欲望系の方が目立ってきます。
  ただ、人間の脳の構造からは、欲望系よりも怒り系に対してはるかに敏感に反応すると言われます。確かに快感を求める欲望も強烈ですが、何よりも大事なのは自己防衛の方ですから、一瞬にして危険なものや不快なものを避ける、つまり嫌悪の瞬間起動の方が優位になるのです。

  しかし、瞑想をきちんとやっている限り、怒りにしても欲にしても全体的にみれば弱まってきているはずです。また瞑想が進んでいくことで、今まで大ざっぱにしか感じられなかった細かなところにまで目が行き届いていくようになります。そうすると、全体として煩悩は減少していても、細部にはまだまだ残っている不善心に気がつくようになってくるので、いつまで経っても自分の心の汚染がなくならないという印象を受けることがあるわけです。ですから、単純に欲が引っ込めば怒り、怒りが引っ込めば欲が出るというような、出所が違うだけで絶対値が変わらないということではないと思いますが、どうでしょうか。

Aさん:確かに怒りの絶対値というのは減っているような気はします。そこは良かったなと思いますが、怒らなくなった代わりに食べたいとか、どこか遊びに行きたいとか、単純なのですが、そういう反動のようなものが出てきます。

アドバイス:
  それは脳が刺激を求めていることを示しているのかもしれませんね。

  怒りはたしかに「苦」ではありますが、怒り型の人にとってはその興奮状態自体が強い刺激となっているということがあります。例えば格闘技などはかなり荒っぽい世界ですが、殴られながらも殴り返す快感でワクワクするような興奮と充実感があるなどと言う人もいるようです。そのような怒り系からくる強烈な刺激が無くなってしまうと物足りないというか、血が沸き立つような別の刺激に向かうというのはよくある話です。

  瞑想との関連で言えば、瞑想が深まって妄想がことごとく静まり、サマーディを体験するようなことが起きてくると、もっと深めたいとか禅定に浸り切りたいというモチベーションが一気に高まってくるのです。そしてサマーディの素晴らしさを味わってしまうと、もう戻りようがないみたいなことになります。

  ところが、戒を守り瞑想もしっかりできて、煩悩も基本的に出なくなってきていても、まだサマーディ体験や瞑想の素晴らしさが体験されていない場合には、高いモチベーションを維持し続けるのはなかなか厳しいかもしれません。自宅で10分か20分程度の瞑想しかできなければ、ディープなサマーディに入るのは至難の業ですから、やはり合宿などで指導を受けながらもっと徹底的に瞑想に打ち込める環境が求められるでしょう。

  サマーディが起きた時には、集中の度合いはかなり深いレベルに達しているわけで、その素晴らしさを体験することが何よりも一番です。瞑想の深い世界を垣間見てしまうと、その対極のこの世的な欲望や怒りの煩悩世界が鬱陶しいものに感じられ、厭わしくなってくるものです。瞑想が進むと素晴らしい世界が拓けてくることをぜひ検証してください。

〇悪い反応パターンが出る
Bさん:ヴィパッサナー瞑想によって自分の悪い反応パターン(悪い癖)に気づきました。それを善の方向に組み替えていきたいのですが、時々その癖が心に浮上してきて気になって仕方がなくなり、嫌だなと思っているうちにどんどん深みに入ってしまいます。

アドバイス:
  心の反応パターンを組み替える前に、まずそのパターンのままでは良くない、ダメなのだということを知的に理解し、完全に納得了解してください。知的理解のレベルで曖昧さが残るようでは、必ず迷いが出てくるし、強力に組み込まれていた昔の悪い癖が蒸し返され、いつのまにか元の状態に戻ってしまいます。
  例えば、いくら怒りは善くないと言われても、「正義の怒りもあるのではないか・・」「こんな理不尽なことに対しては、怒りの声を上げるべきだ」などといった気持ちがあれば、心は本気で怒りをなくそうとは思っていないわけですから、やはりイザとなれば昔のまま、心は変わらないという結果になってしまいます。

  最近のことより遠い昔になればなるほど、繰り返された回数も膨大なものになり、幼少期に組み込まれた反応系のパターンは非常に強固で、それを変えていくのは並み大抵のことではありません。しかし、その反応パターンが良くないと心底理解できれば、必ずそれを変えていこうと決意が生まれてきます。そしてその意志(cetan?:チェータナー)によって新しいカルマが作られ、心はだんだんと変わっていき、やがて新しい反応パターンが揺るぎなく確立されていきます。

  人の心というものは、ゆるやかに変わっていく方が本物です。悪い反応パターンが消えていく過程では、それを気にして意識すればするほど、廃用性萎縮で消滅しかかっていた脳回路にもう一度電気信号を通すようなものです。嫌がればますます執われてツカんで手放せなくなりがちです。そうして古い回路に電気信号を通していれば、やがてその回路が復活して昔の悪い癖が戻ってきてしまうかもしれません。

  ですからそんな時は「誤作動」とラベリングしてサッと目を転じ、無視した方がよいのです。そのために迷いなく納得了解していなければならないのです。腑に落ちていなければ、モタついて切り換えることができなくなるからです。考察が完了していれば、あとは練習するだけです。必ず新しい回路が定着すると信じて、善いものを強化することだけを考えましょう。昔の癖が顔を出すのは自然なことですから、嫌悪したり詮索したり気にしたりしないで、新しい反応パターンのことだけを意識するのが良いと思います。

  ついでに申し上げると、原始仏教は信仰や感情にアピールするのではなく、何事も正しく理解し心底から納得する智慧の教えなのです。確証の得られないものを信仰するような教えではありません。ダンマについて学び、自分で検証して正しく理解をしていけば、自然に悪を避けて善をなす方向に進路が決まるはずです。そういう科学的とも言うべき道筋を取らずに、信仰とその実践を求めるというのはおよそ原始仏教にはそぐわないのです。ここが仏教の清潔な部分であり、また、本当の自己変革というものは、自分で検証し理解した智慧に基づくことの裏づけなのです。


〇思考と気づきについて
Cさん:思考に対してこれまで言葉だけで「思考」とラベリングしていましたが、先ほどの集中瞑想では「どういう内容だったか」「思考だったのか、それとも感情だったのか」という心が生まれ、その判断の入った「思考」とラベリングしました。
  また、思考というものがものすごいスピードでザァーザァー流れているらしいという感じが一瞬浮かびました。ザァーという感じになって、それにサティをした方が良いのかどうか迷いました。

アドバイス:
  今まで漠然と大雑把に捉えていたことが、より詳細に、分析的に捉えられたわけですね。考察ではなく、経験的に観えてきたというレポートはヴィパッサナーとして良いと思います。ものごとの実情や実体がより正確に検証されることによって、妄想や概念が作り出している世界に振り回されなくなる技法ですから。

  また、心が非常に高速に転回していることが垣間見えたのは、瞬間的に定力が高まっていたことの証しと言えるでしょう。情報として聞いていたかも知れませんが、心というものは本当にものすごいスピードでいつでも高速転回している事実を、自分の経験で確認できてきたのも結構ですね。

  それをさらに強化するためには、ただ分かっているだけの状態よりも、はっきりラベリングしてその瞬間の体験を心に焼き付けた方がよいでしょう。サティを入れれば、心に強く残るのです。

  このように、ダンマの知識として理解していたことを、実際に自分の身と心に起きている現象として目の当たりにしながら確証を深めていくのがヴィパッサナー瞑想です。事象の本質をありのままに、実証的に捉えていくことが、妄想で作り上げた世界に執着して生まれてくる苦しみを乗り超えていく道に通じています。とてもヴィパッサナー的なレポートで結構でした。頑張ってやりましょう。



〇心身ともにきつい
Dさん:最近心身ともにかなり良くない状態が続いています。自分では、感謝の気持ちが足りなかったり、周囲の人やものに愛情を感じていないからではないかと思うのですが。

アドバイス:
 そうですね。もし現状をあなたの仰るように受け止めているのであれば、これから必ず良くなっていくと思われます。

  なぜなら、この世で問題が発生する時は必ずといってよいほど利己的になっていて、我執が強い状態に陥っているはずですから。エゴ的になればなるほど「オレは正しい。なぜもっと自分に感謝しないのだ。自分はもっと評価され、愛されるべきだ・・」といった具合に、嫌われ者に特有の態度を取りがちなのです。

  しかるにあなたは、現状が思わしくないのは、周囲に対する自分の感謝の気持ちが不足し、愛情が足りないからだと捉えています。もし心底からそのように思われているのであれば、どのようなトラブルも解決に導いていくであろう、極めて仏教的な態度に切り換わっている印象を受けます。

  今までは失礼ながらその反対の自己中心的な態度だったので、心身ともに悪い展開になってきていたのではないでしょうか。それをどのように正していくべきか、すでにご自分で気づかれているというレポートに聞こえます。であれば、これから必ず良くなっていくのではないか、と私には思われます。



〇ツイてない時は・・・
Eさん:最近、間が悪い、ついてないことばかり起きるのです。災難は往復びんたでやって来ると聞いたことがありますが、本当なのでしようか。(『月刊サティ』2001/12再録)

アドバイス:
  善業も悪業も、原因エネルギーのみで結果が出るのではなく、現象化をうながす補助原因とも言うべきものが働いています。それを「縁」と呼びます。

  善も悪も、物事にはすべて勢いというものがあります。したがって不善業が現象化し始めると、潜在していた同類の原因エネルギーが芋づる式に出てくる傾向になります。

  その辺の消息を「往復びんた」と称しているのではないでしょうか。言い得て妙ですね。悪い往復びんたがあるなら、善いことの3連発や笑いの5連発、幸福と幸せのピストン運動もあるでしょう。縁に触れた善いカルマのポイントがまとめて支払われるからです。現象世界というのは、そんなものです。仏教的には、苦楽にこだわらず、善・不善を超越して全現象にウペッカ()の心になれたら最高ですが、それは悟りと一緒なのでなかなか難かしいでしょう。

  災難の往復びんたが始まってしまったら、現象の流れ自体を変えてしまえばよいのです。どうすればよいかと言うと、徹底的にクーサラ(善行)をやりまくるのです。バス停に空き缶の吸殻入れを設置したり、他の人の犬のうんちも拾って上げたり、どんな些細なことでもかまいません。思いつく限りのあらゆるクーサラをやり始めると、そうした一連の善行為が縁となって蓄積してきた過去の善業の蓋が開いて、善いカルマの玉手箱になるでしょう。そうすると、とても流れの良い円滑現象が展開し始めます。人生の流れが変わるのです。

  凶事が続くと心も反応して暗くなりがちです。それではただ情況に流されていくことになりますので、ハッキリ、意図的に善い流れを創出していくことを考えるべきでしょう。

  ポイントは、絶対に暗くならないこと。つまり不善心所にならないことです。しかしそうは言っても、体調が悪いときなどに何もしないで手をこまねいていると、自然に気が暗転しがちです。そこで上述したクーサラ作戦なのです。心を変化させる最強の手段は、行為の実行、アクションを起こすことです。

  もちろん慈悲の瞑想にも心を変える力があります。しかし不善心のエネルギーが強大なときには負けてしまうこともあります。しかし行為のエネルギーはそれを吹き飛ばしてしまう力があるのです。だからクーサラ行為に没頭してしまえば、心は必ず変化すると心得ましょう。



○瞑想の安定化
Fさん:2回目の参加です。前回教えてもらったように毎日自宅で歩く瞑想と坐る瞑想を10分ぐらいずっとやっています。また、時間がある時には少し長くやるのですが、坐る瞑想の時に、最初は良くても後半20分か30分するともうサティが入らなくなって、意識がどっか飛んでいって全然出来ないような状態になってしまいます。それに対して何かアドバイスがあればお願いいたします。

アドバイス:
  少し長くやると、前半は安定していても後半になるとそうではなくなるということであれば、持続力に問題があるのかもしれません。極度に集中しないと良い状態が保てないとすれば、長時間の維持は難しくなります。

  もし自然発生的に良い状態が訪れてきたのであれば、尻上がりに良くなっていくものです。また楽しくなってきて、専門用語で「ピーティ」という喜びが出てきます。勝手にうまくいっているとしたらすごく楽しいし、面白いというふうになって、時間も忘れて心地よくやっていけるものです。

  しかるに、強引な荒業でねじ伏せるように良い状態を出現させていたとすると、過度の努力は精進過剰でヘトヘトになってくるのが常ですから、後半は崩れるでしょう。もし無理な努力によって辛うじて良い状態が保たれているのだとすると、果たして前半も本当はどうなのかなあという疑いも生じますが、どうですか?


Fさん:歩く瞑想の方は30分でも1時間でも集中できますし楽しいなあと思いますが、坐る瞑想に関してはそうかもしれません。

アドバイス:
  なるほど。そういうことであれば、やはり坐りの瞑想自体に問題がありそうですね。基本的に坐りの瞑想の方が難易度が高いのですが、やり方が完璧に体得されていれば、歩く瞑想が好調だった後の坐りの瞑想も最後まで良くなっていてもおかしくないのですが。

  歩きの瞑想はいくら長くやっても飽きも来ないし乱れないとすれば、多分セオリー通りに出来ているように思われます。ところが坐りの瞑想の後半で必ず失速するとなると、かなり無理をして前半の瞑想に取り組んでいて、後半になると持たなくなっているのかもしれません。もしやり方が正確に体得されていれば、あまり無駄なエネルギーを使うことはありませんから、淡々とサティを入れていくことができるものです。となると、やはり坐りの瞑想に不正確な要素があると考えられます。

  瞑想会の初心者講習を一度受けただけで完璧に覚えられるということは普通はないですね。よほどセンスのある人でも、たった1回ですべてをマスターするというのは至難の業です。うまく身に付いていないやり方で瞑想を続けるのは苦しいことなので、後半で乱れる原因になり得ます。

  もう一つ考えられるのは、やり方は迷いなく分かっていたとしても、坐る瞑想は歩く瞑想よりも中心対象の感覚自体が微弱なので、こちらから努力して集中しないと感じづらい一面があります。感覚を取る知覚力がそれほど鋭くなくても、足の感覚はまあ感じられるものです。しかし、そもそも微弱な腹部感覚ではそうはいきません。集中があまり良くない状態であれば、相当無理をすることになりますので、後半に疲れてしまうのは当然です。これはやり方の正確さの問題というより、集中力を研ぎ澄ます問題とも言えます。

  理論上は、歩きの瞑想がうまくいっていれば、坐りの瞑想も中心対象が足からお腹に変わるだけで基本構造は同じなので、歩きの瞑想の正確さが増せば増すほど坐る瞑想も良くできるようになります。ともあれ、今日の瞑想会の最後に、超スローの歩きの瞑想をやりますから、坐りの瞑想を完璧に近づけるためにも、歩きの瞑想をさらに正確に、厳密にやるように努めてください。ブレないで、一点に正確に注意を注ぐことができれば、歩きでも坐りでも集中は高まるものです。

  さらに言えば、瞑想の前に毎回テキストを読み返して、終了後にさらにチェックするようにしていくと良い結果につながります。いずれにしても注意深く、何度もおさらいしながら厳密さをもってやっていって欲しいです。特に坐りの瞑想では甘くなりがちで、フラフラと妄想に巻き込まれたり、トロンと眠気に誘われたりしがちですから。頑張りましょう。(文責:編集部)

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 今月のダンマ写真 ~

     写真
 タイ北部の森林僧院での一日一食の食事風景。


 在家者が献じた食物が品目ごとに台車に載り、上座から下座に向って流れ、各自の鉢の中に取り分けていく。 
 
 

    ←写真左
 在家者の食事は、ピントーと呼ばれる5段重ねの弁当箱で各自のクーティに届けられる。


 タンパク質がほぼ皆無の完全菜食。

 

 
 
 地橋先生提供


    Web会だより  
『真実を見つめた先にあるもの』 M.N.

  昨年、夫婦の諍いがきっかけで長男が精神的に不安定になり、一時期は学校にも行けなくなりました。それまで積み上げてきたものすべてが崩れていく様を目の当たりにして、私は焦りと不安で一杯になり、それがさらに状況の悪化を招きました。そんな繰り返しの毎日を少しでも好転させたい、その一心で辿り着いたのがこのヴィパッサナー瞑想でした。
  すがるような思いで朝カル講座に飛び込んだのが今年3月、GWには初心者ながら10日間合宿に臨みました。はじめは帰りたくて仕方ありませんでしたが、すぐに気持ちを切り替え、真剣に瞑想に取り組みました。なぜなら、母親である私に10日も家を空けることを許してくれた主人と子供たちのため、何が何でも自己変革するぞ、との強い思いがあったからです。それは私の人生の素晴らしい転機となりました。
  ダンマトークでは原始仏教の教えの明晰さに何度も感激し、9回に及ぶ面接では、両親に対する視座の転換が起きました。私は親への不満から思春期の頃より精神的な問題を抱え、カウンセリングを学んだりと、20代はその解決のために使い果たしたと言っても過言ではありません。そうまでしても解決しなかった心の葛藤が、たった10日で両親、そして祖母(抑圧されていた本当の原因)への感謝に変わっていったのです。
  その後、すっきりとした頭で瞑想に取り組むと、ビシ!バシ!サティが入るようになりました。手足には電気が走っているかのような感覚があり、坐る瞑想では青白いほのかな光が見えました。これまで感じたことのない幸福感でした。この素晴らしい成果は何よりも地橋先生の全力のご指導と、これまで多くの方々に行った面接経験の結晶であることに深く感謝しています。
  その後6月に短期合宿、7月に1Day合宿に参加させていただきました。8月には静岡で集中内観をし、祖母に対する自分をさらに深く観ることができました。それ以来、祖母のことを思うと、涙の出ない時はありません。
  9月には悪天候のため持病が悪化、気持ちも後ろ向きでした。こんな時こそ瞑想だと分かっていても心は落ち着かず、5分もできない日もありました。そんななか、10月に2回目の1Day合宿に参加させていただきました。10日間合宿以来、こんなに憂鬱な気分で合宿に臨むのは初めてでした。何とか一日乗り切りましたが、特に成果を感じることなく歯がゆい思いで終了しました。しかし、帰宅後、いろいろと変化が起きたのです。
  まず、日常の動作にすんなりとサティが入るようになりました。いつも頭の中でおしゃべりをしていて、そこに居なかった私が<今、ここ>に存在している実感が得られるようになりました。これは私にとって大きな変化であり、かなり楽になったと感じます。また、子供の言動にイライラするような時でも、サティを入れることで乗り切れるような場面も出てきました。
  気持ちの上でも変化が起きてきています。瞑想に出会うきっかけとなった苦を受ける寸前の私と長男は、目標を持っていきいきと毎日を過ごしていました。その状態が忘れられず、ものすごく執着していることに気づいたのです。失ったものを嘆き悲しみ、そのことが次の悪いカルマを作っていると知っても、いつまでも手放すことができませんでした。ここにきてようやく、過ぎたことは仕方のないことだと、受け入れられるようになりつつあります。
  今、その時点から瞑想に出会うまでと同じ時間が経ちました。はじめに望んだように、そこを起点として私の心は大きく変遷を遂げています。息子も私との会話で笑顔を見せるまでになりましたが、ここまで困難な場面も幾度となくありました。しかし人は事実を事実として認識すれば、自然に頭を垂れ、感謝できることを内観で知りました。瞑想の修行と反応系の修行は、わたしにとっては車の両輪のようにそのどちらも必要なものです。いつの日か息子のおかげで私の人生が深い学びのあるものになったと感謝する日が来る。そう信じてこれからもこの道を歩んで行きます。そしてその先に何が見えるのか、楽しみに待つ自分がいます。

                
   






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  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -43- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング

(承前)
ペーマスィリ長老:
  「地の
カシナ(kasiņa:遍)を究極の目標としてそれを成就する瞑想者がいます。他の瞑想者は水のカシナ、火のカシナなどを究極の目標としてそれぞれの瞑想状態に達します。しかしブッダはカシナの限界を直接理解され、カシナがもともとどのようなものであるか、カシナの危険性、カシナによる真理からの逃避をご覧になられました。そして何が正しい道で何が誤った道かについての知識を得て洞察されました。これら全てを観察されたブッダは真の目標、心の平穏を成就することについて理解されました」(マハー・カッチャーナ尊者:カリ経)

18 正しい集中

ペーマスィリ長老:
  八正道の八番目は正しい集中、サンマーサマーディ(
sammā-samādhi:正定、正しい集中)です。これはただの集中ではありません。


  サンマーサマーディには理解と智慧が必要です。仏弟子としての戒律を守り、感覚器官を慎み、瞑想の障害を捨て去るという段階的な訓練が必要です。サンマーサマーディを生じさせるためには、私たちは念を保ち、全てに気づく必要があります。
  四つの気づきの土台を実践します。身体、感受、心の状態、心の対象について瞑想します。このように実践してジャーナを得た時のサマーディ(samādhi:定、集中)はサンマーサマーディと呼ばれます。

  私たちの心は球形の鍋のようなものです。支えが無ければ不安定ですぐに倒れてしまいます。鍋を支えてバランスをとるために、私たちは鍋の下に石を三つ置きます。球形の鍋の下に石を二つだけ置いても意味がありません。鍋を適切に支えるためにはその下に石を三つ置かなければなりません。鍋を適切に支えて初めて火を起こし、調理することが出来ます。

  同様に、心のバランスをとるためには八正道の最初の七つ、正しい理解、正しい思考、正しい言葉、正しい行動、正しい生計、正しい努力、正しい気づきを確立します。七つの道のそれぞれが大切です。適切な支えにより心は安定し正しい集中が生じます。私たちは覚醒し、対象をありのままに知ります。

  サンマーサマーディは八正道の最初の七つが集まったものです、とブッダは説かれました。

集中を育てる

ペーマスィリ長老:
  私たち二人がサマーディとジャーナについて正しく議論するためには、サマーディとジャーナを自ら経験しなければなりません。修行の中で経験したことがなければ、指導者は弟子にサマーディとジャーナを指導することはできません。弟子もサマーディとジャーナについて真に理解することは不可能です。

  私たちは経典の内容を議論しているのではありません。私は最近ジャーナを実践していません。ですから若い比丘だった時に森林に住んで行った修行を思いださなければなりません。これは難しいです。
  心の一点集中、チッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)は集中、サマーディを育てるための出発点の一つであると言われています。一点集中とは、私たちの心と、それを刺激する対象が一つになるということを意味します。一つの対象に集中し没入すると、その瞬間私たちの心にあるのはその対象だけとなります。私たちの心のプロセスの中で中立的な要素である一点集中は様々な対象を認識し把握します。
  認知対象を一つ選び、繰り返し心をその対象に向けることにより、選んだその対象を完全に把握する瞬間の数が増えていきます。同じ対象を通常よりも高い率で繰り返し把握するようにすると、一点集中はサマーディへと高まっていきます。限られた短い時間に一点集中が生じる回数が大幅に増加します。

  テーブルの上の茶碗を見ると、その茶碗に関連した一点集中が生じ、直ちにその茶碗を認識します。その茶碗に集中力の全てを傾けそれを繰り返すと、その茶碗に関連した一点集中が生じる頻度が高まり、他の対象に関連した一点集中が生じる数が減ります。そして茶碗に関連したサマーディが生じてきます。
  茶碗を対象としてサマーディを15分間維持することが出来たとすると、茶碗に関連した一点集中は10~15回生じます。茶碗・・・茶碗・・・茶碗・・・茶碗・・・といった具合に、茶碗のイメージは15分途切れることなく維持されるわけではありません。

デイヴィッド:
  どうしてそんなに頻度が低いのですか?


ペーマスィリ長老:
  ここで示した頻度は一つの例に過ぎません。選んだ対象に関連して生じる一点集中の数は、個々の瞑想者の修行の程度により異なります。サマーディが成立した初期の段階では、瞑想者の一点集中は強くありません。一つの対象を用いて一年も修行すると瞑想者の一点集中は極めて強くなる可能性があります。


集中の初期段階

ペーマスィリ長老:
  集中力を強化するというのは、以下に示す五つのジャーナの要素を強化するという意味です。


1.ヴィタッカ(vitakka:尋)、対象に注意を向ける働き

2.ヴィチャーラ(vicāra:伺)、対象に向かった注意を持続させる働き

3.ピーティ(pīti:喜)、集中の高まりにより生じる喜び

4.スカ(sukha:楽)、集中が深まったことにより生じる安楽

5.チッテーカッガター(citt'ekaggatā:心一境性)、心が一つの対象に向かい続ける状態

  五つのジャーナの要素全てを育てなければなりません。善なる心の状態とともに、私たちはふさわしい瞑想対象に注意を向けます。
  次いで対象を調べ、対象に向かった注意を持続させます。対象に注意を向ける働きヴィタッカと、対象に向かった注意を持続させる働きヴィチャーラが高まると、ついには集中の高まりにより生じる喜びピーティと集中が深まったことにより生じる安楽スカが生じます。
  そして心が一つの対象に向かい続ける状態チッテーカッガターは何らかの対象に心をとどめ続けさせる働きであり、常に他の四つのジャーナの要素を伴います。

  例えば、慈しみを送る実践をする場合、まず自分自身に向かって慈しみの念を送りそれを持続させます。

デイヴィッド:
  慈しみは他者に送るものだと思っていました。


ペーマスィリ長老:
  他者に対して慈しみを感じる前に、まず自分自身に慈しみを感じることが出来るようにしなければなりません。自分が不幸なのに他者を幸せにすることができるでしょうか。持っていない物を他者に与えることは出来ません。


  慈しみについてよく理解出来たら、私たちは慈しみの瞑想、メッタバーヴァナー(mettā-bhāvanā:慈の習修)を実践します。悪意は無くなり、心は共感と平穏で満たされます。慈しみの心を周囲に放ちます。全ての生命の幸せを願います。これはヴィタッカ、対象に注意を向ける働きです。まず慈しみの心を全ての生命に向ける、ただそれだけです。
  慈しみの心を繰り返し送ることで、慈しみに関連する心の一点集中が生じ、その頻度が高まります。そして他の思考に関連した心の一点集中が生じる回数が減ります。
  ヴィタッカ、すなわち対象に注意を向ける働きというジャーナの要素とともに、チッテーカッガター、心が一つの対象に向かい続ける状態というジャーナの要素が生じます。
  ヴィチャーラ、すなわち対象に向かった注意を持続させる働きがこの過程をさらに進めます。生命に対する慈しみを実際に調べます。
  ヴィチャーラ、すなわち対象に向かった注意を持続させる働きが、生命に向けられた慈しみという一点に集中する心を支えます。慈しみの対象に心がとどまる時間が、ヴィタッカ、すなわち対象に注意を向ける働きの場合よりも長くなります。

デイヴィッド:
  ついていけません。(続く)


翻訳:影山幸雄+翻訳部


       

 今日の一言:選

(1) どんなものも否定することができるし、肯定することもできる。
   人の頭の中で作られる解釈や判断は、いかようにもまとめられるからだ。

   来るべくして来た苦楽は、拒むことも求めることもなく、あるがままに受け取っておく。


(2) 慈悲の瞑想をしても効果がない、とボヤく声も耳にする。
   幸せであれ、望みがかなえられるように、と祈る心に、怒りや嫌悪は含まれていないだろう   か。

   現状を良しとせず不幸と認識するのはよいが、その状態を激しく嫌い、怒りの心で幸福を求   めていないか。

   嫌悪とセットの慈悲の瞑想・・・?


(3) それ以外に、どんな人生があり得たのか。
   否定すべきことでも、隠すべきことでも、抑圧すべきことでもない。

   すべての細部を含めた一切が、かけがえのない宝物のような経験だったのだ。

   最高の価値に転換されていく源泉ではないか。

   借り物でもない、まね事でもない、「私」だけの一本の道が、究極のゴールに向かって開か   れているのだと心得る・・・。


           ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。

       

   読んでみました
    ジェフリー・M・マッソン著
   『ヒトはイヌのおかげで人間になった』(飛鳥新社 2012年)

猫とならんでぺットの双璧をなしている犬は、人類が最初に順化(家畜化)した動物であるといわれています。その始まりは、人の集落に残飯をあさりに来た多少警戒心の薄かったオオカミの縄張りを守る本能が、そのまま集落周辺の夜警につながった、つまり番犬として役に立ったという持ちつ持たれつの関係から、次第にパートナーとして認められていったという推論もあるようです。
  この本の著者は、そんな犬と人との関係がどのように築かれ、それが両者にとってどんな意味があったのかを考察した結果、「愛情、親しみ、友情を感じる私たちの能力は、イヌのおかげで発達したのではないだろうか」と、つまり犬との交流の産物ではないかと考えるに至りました。
  題名からは少し大げさな印象も受けますが、納得するかどうかはともかく、「なるほど!」という話も多く展開されており、利他や慈悲の心が人間に共通して存在することの一つの見方、そしてその心を育てることがごく自然であることが説得力を持って述べられています。
  さらに著者は、飼い犬ベンジーとの交流をきっかけに犬には「異種の動物と心を通わせる、生得的な性質」が備わっており、ほかの動物を区別しないばかりか、人間に対してもまったく偏見がないので、犬は、「平等な世界に生きている。私たちよりもよほど進歩的な考えのもち主ではないか」とまで考え、その背景として、犬の先祖とされる狼の一種ハイイロオオカミの習性、そして、犬と人とは究極のネオテニー(neoteny:幼形成熟)であることに注目して説明していきます。
  アシュレィ・モンタギュー(アメリカの人類学者)は次のように述べているそうです。

「幼い子供が愛清を求めるのは非常に重要なことで、その欲求が満たされてこそ健全な人間に成長する。愛されたいという欲求だけでなく、愛したいという欲求は、健全さをひどくゆがめようとする力が社会にいかに多くとも、ともに人間の最も強い欲求として人生の終わりまで失われない。これは明らかにネオテニーの特徴である」(本書より引用)

そうであれば、犬と人とが互いに惹かれあうのも不思議ではないですし、その結果として、「人が犬に思いやりを伝え、犬は伝え返す。自然界ではまれに見る博愛の循環」が実現されたということでしょう。そして、返される保証が一つもなくても、「見返りを求めることなく愛せるのは犬のほうだ。それが犬の愛の本質」なのだと述べ、人が種の壁を越えて愛情を広げるという画期的な一歩は、人の力のみで踏み出されたのでなない、と結んでいます。

いずれにしても、人間は傲慢であってはいけないし、すべての生命に対して謙虚でなくてはならないと思います。また犬のみならず、他の生物と人間との関係への思いがけない視点を開かせてくれる好例として紹介する次第です。(雅)

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