〇欲と怒りのモグラ叩き
Aさん:
瞑想をやっていくと怒りが減る替わりに欲が出てきて、しばらくするとまた怒りの種になるようなことが浮かんできて苦しくなるという悪循環です。欲と怒りのモグラ叩きのようです。
アドバイス:
怒りには、こちらの思い通りにいかない状態に対する嫌悪という要素がありますから、ある意味では欲望系ということになります。こちらがウペッカー(upekhā:捨、平静さ)の心境で、まったく何も期待していない、狙っていない状態になっていれば、何が起きても怒りは出ずらいと言えるでしょう。しかし、こうあってほしい、これだけはまっぴらゴメンだというのが明確であればあるほど、それを妨げることが起きれば嫌悪や怒りは出やすいのです。
そのあたりはいわばセットになっているようなもので、結局自己中心性の如何ということになります。基本的に、心の中では快・不快があらかじめ明確に決まっていて、心地よいもので周りを固めたい、不快なものは全部遠ざけたいというのが人情ですから。この度合いが明確であるほど嫌悪が出やすいし、嫌悪があまり意識されない場合には欲望系の方が目立ってきます。
ただ、人間の脳の構造からは、欲望系よりも怒り系に対してはるかに敏感に反応すると言われます。確かに快感を求める欲望も強烈ですが、何よりも大事なのは自己防衛の方ですから、一瞬にして危険なものや不快なものを避ける、つまり嫌悪の瞬間起動の方が優位になるのです。
しかし、瞑想をきちんとやっている限り、怒りにしても欲にしても全体的にみれば弱まってきているはずです。また瞑想が進んでいくことで、今まで大ざっぱにしか感じられなかった細かなところにまで目が行き届いていくようになります。そうすると、全体として煩悩は減少していても、細部にはまだまだ残っている不善心に気がつくようになってくるので、いつまで経っても自分の心の汚染がなくならないという印象を受けることがあるわけです。ですから、単純に欲が引っ込めば怒り、怒りが引っ込めば欲が出るというような、出所が違うだけで絶対値が変わらないということではないと思いますが、どうでしょうか。
Aさん:確かに怒りの絶対値というのは減っているような気はします。そこは良かったなと思いますが、怒らなくなった代わりに食べたいとか、どこか遊びに行きたいとか、単純なのですが、そういう反動のようなものが出てきます。
アドバイス:
それは脳が刺激を求めていることを示しているのかもしれませんね。
怒りはたしかに「苦」ではありますが、怒り型の人にとってはその興奮状態自体が強い刺激となっているということがあります。例えば格闘技などはかなり荒っぽい世界ですが、殴られながらも殴り返す快感でワクワクするような興奮と充実感があるなどと言う人もいるようです。そのような怒り系からくる強烈な刺激が無くなってしまうと物足りないというか、血が沸き立つような別の刺激に向かうというのはよくある話です。
瞑想との関連で言えば、瞑想が深まって妄想がことごとく静まり、サマーディを体験するようなことが起きてくると、もっと深めたいとか禅定に浸り切りたいというモチベーションが一気に高まってくるのです。そしてサマーディの素晴らしさを味わってしまうと、もう戻りようがないみたいなことになります。
ところが、戒を守り瞑想もしっかりできて、煩悩も基本的に出なくなってきていても、まだサマーディ体験や瞑想の素晴らしさが体験されていない場合には、高いモチベーションを維持し続けるのはなかなか厳しいかもしれません。自宅で10分か20分程度の瞑想しかできなければ、ディープなサマーディに入るのは至難の業ですから、やはり合宿などで指導を受けながらもっと徹底的に瞑想に打ち込める環境が求められるでしょう。
サマーディが起きた時には、集中の度合いはかなり深いレベルに達しているわけで、その素晴らしさを体験することが何よりも一番です。瞑想の深い世界を垣間見てしまうと、その対極のこの世的な欲望や怒りの煩悩世界が鬱陶しいものに感じられ、厭わしくなってくるものです。瞑想が進むと素晴らしい世界が拓けてくることをぜひ検証してください。
〇悪い反応パターンが出る
Bさん:ヴィパッサナー瞑想によって自分の悪い反応パターン(悪い癖)に気づきました。それを善の方向に組み替えていきたいのですが、時々その癖が心に浮上してきて気になって仕方がなくなり、嫌だなと思っているうちにどんどん深みに入ってしまいます。
アドバイス:
心の反応パターンを組み替える前に、まずそのパターンのままでは良くない、ダメなのだということを知的に理解し、完全に納得了解してください。知的理解のレベルで曖昧さが残るようでは、必ず迷いが出てくるし、強力に組み込まれていた昔の悪い癖が蒸し返され、いつのまにか元の状態に戻ってしまいます。
例えば、いくら怒りは善くないと言われても、「正義の怒りもあるのではないか・・」「こんな理不尽なことに対しては、怒りの声を上げるべきだ」などといった気持ちがあれば、心は本気で怒りをなくそうとは思っていないわけですから、やはりイザとなれば昔のまま、心は変わらないという結果になってしまいます。
最近のことより遠い昔になればなるほど、繰り返された回数も膨大なものになり、幼少期に組み込まれた反応系のパターンは非常に強固で、それを変えていくのは並み大抵のことではありません。しかし、その反応パターンが良くないと心底理解できれば、必ずそれを変えていこうと決意が生まれてきます。そしてその意志(cetan?:チェータナー)によって新しいカルマが作られ、心はだんだんと変わっていき、やがて新しい反応パターンが揺るぎなく確立されていきます。
人の心というものは、ゆるやかに変わっていく方が本物です。悪い反応パターンが消えていく過程では、それを気にして意識すればするほど、廃用性萎縮で消滅しかかっていた脳回路にもう一度電気信号を通すようなものです。嫌がればますます執われてツカんで手放せなくなりがちです。そうして古い回路に電気信号を通していれば、やがてその回路が復活して昔の悪い癖が戻ってきてしまうかもしれません。
ですからそんな時は「誤作動」とラベリングしてサッと目を転じ、無視した方がよいのです。そのために迷いなく納得了解していなければならないのです。腑に落ちていなければ、モタついて切り換えることができなくなるからです。考察が完了していれば、あとは練習するだけです。必ず新しい回路が定着すると信じて、善いものを強化することだけを考えましょう。昔の癖が顔を出すのは自然なことですから、嫌悪したり詮索したり気にしたりしないで、新しい反応パターンのことだけを意識するのが良いと思います。
ついでに申し上げると、原始仏教は信仰や感情にアピールするのではなく、何事も正しく理解し心底から納得する智慧の教えなのです。確証の得られないものを信仰するような教えではありません。ダンマについて学び、自分で検証して正しく理解をしていけば、自然に悪を避けて善をなす方向に進路が決まるはずです。そういう科学的とも言うべき道筋を取らずに、信仰とその実践を求めるというのはおよそ原始仏教にはそぐわないのです。ここが仏教の清潔な部分であり、また、本当の自己変革というものは、自分で検証し理解した智慧に基づくことの裏づけなのです。
〇思考と気づきについて
Cさん:思考に対してこれまで言葉だけで「思考」とラベリングしていましたが、先ほどの集中瞑想では「どういう内容だったか」「思考だったのか、それとも感情だったのか」という心が生まれ、その判断の入った「思考」とラベリングしました。
また、思考というものがものすごいスピードでザァーザァー流れているらしいという感じが一瞬浮かびました。ザァーという感じになって、それにサティをした方が良いのかどうか迷いました。
アドバイス:
今まで漠然と大雑把に捉えていたことが、より詳細に、分析的に捉えられたわけですね。考察ではなく、経験的に観えてきたというレポートはヴィパッサナーとして良いと思います。ものごとの実情や実体がより正確に検証されることによって、妄想や概念が作り出している世界に振り回されなくなる技法ですから。
また、心が非常に高速に転回していることが垣間見えたのは、瞬間的に定力が高まっていたことの証しと言えるでしょう。情報として聞いていたかも知れませんが、心というものは本当にものすごいスピードでいつでも高速転回している事実を、自分の経験で確認できてきたのも結構ですね。
それをさらに強化するためには、ただ分かっているだけの状態よりも、はっきりラベリングしてその瞬間の体験を心に焼き付けた方がよいでしょう。サティを入れれば、心に強く残るのです。
このように、ダンマの知識として理解していたことを、実際に自分の身と心に起きている現象として目の当たりにしながら確証を深めていくのがヴィパッサナー瞑想です。事象の本質をありのままに、実証的に捉えていくことが、妄想で作り上げた世界に執着して生まれてくる苦しみを乗り超えていく道に通じています。とてもヴィパッサナー的なレポートで結構でした。頑張ってやりましょう。
〇心身ともにきつい
Dさん:最近心身ともにかなり良くない状態が続いています。自分では、感謝の気持ちが足りなかったり、周囲の人やものに愛情を感じていないからではないかと思うのですが。
アドバイス:
そうですね。もし現状をあなたの仰るように受け止めているのであれば、これから必ず良くなっていくと思われます。
なぜなら、この世で問題が発生する時は必ずといってよいほど利己的になっていて、我執が強い状態に陥っているはずですから。エゴ的になればなるほど「オレは正しい。なぜもっと自分に感謝しないのだ。自分はもっと評価され、愛されるべきだ・・」といった具合に、嫌われ者に特有の態度を取りがちなのです。
しかるにあなたは、現状が思わしくないのは、周囲に対する自分の感謝の気持ちが不足し、愛情が足りないからだと捉えています。もし心底からそのように思われているのであれば、どのようなトラブルも解決に導いていくであろう、極めて仏教的な態度に切り換わっている印象を受けます。
今までは失礼ながらその反対の自己中心的な態度だったので、心身ともに悪い展開になってきていたのではないでしょうか。それをどのように正していくべきか、すでにご自分で気づかれているというレポートに聞こえます。であれば、これから必ず良くなっていくのではないか、と私には思われます。
〇ツイてない時は・・・
Eさん:最近、間が悪い、ついてないことばかり起きるのです。災難は往復びんたでやって来ると聞いたことがありますが、本当なのでしようか。(『月刊サティ』2001/12再録)
アドバイス:
善業も悪業も、原因エネルギーのみで結果が出るのではなく、現象化をうながす補助原因とも言うべきものが働いています。それを「縁」と呼びます。
善も悪も、物事にはすべて勢いというものがあります。したがって不善業が現象化し始めると、潜在していた同類の原因エネルギーが芋づる式に出てくる傾向になります。
その辺の消息を「往復びんた」と称しているのではないでしょうか。言い得て妙ですね。悪い往復びんたがあるなら、善いことの3連発や笑いの5連発、幸福と幸せのピストン運動もあるでしょう。縁に触れた善いカルマのポイントがまとめて支払われるからです。現象世界というのは、そんなものです。仏教的には、苦楽にこだわらず、善・不善を超越して全現象にウペッカ(捨)の心になれたら最高ですが、それは悟りと一緒なのでなかなか難かしいでしょう。
災難の往復びんたが始まってしまったら、現象の流れ自体を変えてしまえばよいのです。どうすればよいかと言うと、徹底的にクーサラ(善行)をやりまくるのです。バス停に空き缶の吸殻入れを設置したり、他の人の犬のうんちも拾って上げたり、どんな些細なことでもかまいません。思いつく限りのあらゆるクーサラをやり始めると、そうした一連の善行為が縁となって蓄積してきた過去の善業の蓋が開いて、善いカルマの玉手箱になるでしょう。そうすると、とても流れの良い円滑現象が展開し始めます。人生の流れが変わるのです。
凶事が続くと心も反応して暗くなりがちです。それではただ情況に流されていくことになりますので、ハッキリ、意図的に善い流れを創出していくことを考えるべきでしょう。
ポイントは、絶対に暗くならないこと。つまり不善心所にならないことです。しかしそうは言っても、体調が悪いときなどに何もしないで手をこまねいていると、自然に気が暗転しがちです。そこで上述したクーサラ作戦なのです。心を変化させる最強の手段は、行為の実行、アクションを起こすことです。
もちろん慈悲の瞑想にも心を変える力があります。しかし不善心のエネルギーが強大なときには負けてしまうこともあります。しかし行為のエネルギーはそれを吹き飛ばしてしまう力があるのです。だからクーサラ行為に没頭してしまえば、心は必ず変化すると心得ましょう。
○瞑想の安定化
Fさん:2回目の参加です。前回教えてもらったように毎日自宅で歩く瞑想と坐る瞑想を10分ぐらいずっとやっています。また、時間がある時には少し長くやるのですが、坐る瞑想の時に、最初は良くても後半20分か30分するともうサティが入らなくなって、意識がどっか飛んでいって全然出来ないような状態になってしまいます。それに対して何かアドバイスがあればお願いいたします。
アドバイス:
少し長くやると、前半は安定していても後半になるとそうではなくなるということであれば、持続力に問題があるのかもしれません。極度に集中しないと良い状態が保てないとすれば、長時間の維持は難しくなります。
もし自然発生的に良い状態が訪れてきたのであれば、尻上がりに良くなっていくものです。また楽しくなってきて、専門用語で「ピーティ」という喜びが出てきます。勝手にうまくいっているとしたらすごく楽しいし、面白いというふうになって、時間も忘れて心地よくやっていけるものです。
しかるに、強引な荒業でねじ伏せるように良い状態を出現させていたとすると、過度の努力は精進過剰でヘトヘトになってくるのが常ですから、後半は崩れるでしょう。もし無理な努力によって辛うじて良い状態が保たれているのだとすると、果たして前半も本当はどうなのかなあという疑いも生じますが、どうですか?
Fさん:歩く瞑想の方は30分でも1時間でも集中できますし楽しいなあと思いますが、坐る瞑想に関してはそうかもしれません。
アドバイス:
なるほど。そういうことであれば、やはり坐りの瞑想自体に問題がありそうですね。基本的に坐りの瞑想の方が難易度が高いのですが、やり方が完璧に体得されていれば、歩く瞑想が好調だった後の坐りの瞑想も最後まで良くなっていてもおかしくないのですが。
歩きの瞑想はいくら長くやっても飽きも来ないし乱れないとすれば、多分セオリー通りに出来ているように思われます。ところが坐りの瞑想の後半で必ず失速するとなると、かなり無理をして前半の瞑想に取り組んでいて、後半になると持たなくなっているのかもしれません。もしやり方が正確に体得されていれば、あまり無駄なエネルギーを使うことはありませんから、淡々とサティを入れていくことができるものです。となると、やはり坐りの瞑想に不正確な要素があると考えられます。
瞑想会の初心者講習を一度受けただけで完璧に覚えられるということは普通はないですね。よほどセンスのある人でも、たった1回ですべてをマスターするというのは至難の業です。うまく身に付いていないやり方で瞑想を続けるのは苦しいことなので、後半で乱れる原因になり得ます。
もう一つ考えられるのは、やり方は迷いなく分かっていたとしても、坐る瞑想は歩く瞑想よりも中心対象の感覚自体が微弱なので、こちらから努力して集中しないと感じづらい一面があります。感覚を取る知覚力がそれほど鋭くなくても、足の感覚はまあ感じられるものです。しかし、そもそも微弱な腹部感覚ではそうはいきません。集中があまり良くない状態であれば、相当無理をすることになりますので、後半に疲れてしまうのは当然です。これはやり方の正確さの問題というより、集中力を研ぎ澄ます問題とも言えます。
理論上は、歩きの瞑想がうまくいっていれば、坐りの瞑想も中心対象が足からお腹に変わるだけで基本構造は同じなので、歩きの瞑想の正確さが増せば増すほど坐る瞑想も良くできるようになります。ともあれ、今日の瞑想会の最後に、超スローの歩きの瞑想をやりますから、坐りの瞑想を完璧に近づけるためにも、歩きの瞑想をさらに正確に、厳密にやるように努めてください。ブレないで、一点に正確に注意を注ぐことができれば、歩きでも坐りでも集中は高まるものです。
さらに言えば、瞑想の前に毎回テキストを読み返して、終了後にさらにチェックするようにしていくと良い結果につながります。いずれにしても注意深く、何度もおさらいしながら厳密さをもってやっていって欲しいです。特に坐りの瞑想では甘くなりがちで、フラフラと妄想に巻き込まれたり、トロンと眠気に誘われたりしがちですから。頑張りましょう。(文責:編集部)
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