月刊サティ!

2016年10月号 Monthly sati! October 2016


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:ヴィパッサナー瞑想と心の変化(2) 
  ダンマ写真
   
Web会だより 『四つ目の山に出会う』

  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -42-
    今日の一言:選
  読んでみました 『日本人はなぜ存在するのか』                 

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ : ヴィパッサナー瞑想と心の変化(2) 
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:自分が大切にしているものやきれいにしているものを他人に汚されたりするとどうしても怒りが出る時があります。サティでその場は収まっても同じことがあればまた堂々巡りです。そんなにきれいにしなくてもと頭では分かっていても、脅迫的なものでどうしても治まらないところがあって、そういう性格を自分でも治していきたいと思っています。

アドバイス:
  サティを入れて妄想を止めそれ以上エスカレートさせないというのは大事なのですが、それだけでは完全には治せませんから、反応系の修行をする必要があります。それは結局発想の転換にもっていくことです。
まず第一に視点をちょっと変えてみます。
  
大切にしているものを汚されたら嫌だという人はけっこういるでしょう。あるいは、汚れは気にしないけれど音に対しては敏感だというように、これまでの人生の積み重ねによって人それぞれにそのこだわり方や心の癖に違いがあります。
  また、ひと口で汚されるのが嫌だと言っても、誰が汚したのかということでまた違ってきます。他人に汚されたらすぐに怒るような人でも、子供や孫、あるいはペットだったらどうでしょうか。
  私の場合を例にあげてみましょう。私はけっこうきれい好きの方で、もし自分が一人でコーヒーをうっかりこぼしたりすると、「やっちゃたか!」とか「あーあ、汚したか!」とか、わりとそういう反応が起きるタイプでした。
  ところが、瞑想合宿の時に気づいたのですが、そういった汚れが全然違って見えるのです。喫茶コーナーというのがあって、コーヒーの粉やらなにやらでけっこう汚れた跡を見ても、「10日間みんなここでサティを入れながら喫茶の瞑想に頑張っていたのだな・・。まさにツワモノどもが夢のあとだ」と言うような気持ちが湧いてきました。
 私には子供はいませんが、合宿という状況では父親の立場なのですね。また生徒さんにとっては、私のインストラクションしかありませんから子供とも言えますし。そうすると、合宿が終わったあとのコーヒーのシミやら何やらがかえって可愛く見えてきました。汚れたと言えば言えるのですが、汚されたという感覚はまったくなくて、むしろ「こうしてみんな頑張ってくれたんだなあ・・」というような気持ちしか起きないのです。
 それは自分でもちょっと意外でした。そのシミがみんなが修行した証し、成長した証しに見えるという経験をしてから、汚れに対しては発想が変わりました。子供が柱に傷をつけたり落書きしたりは、まさに子供が元気いっぱい遊んだ証しです。そしてその傷跡は育っていった夢のあとみたいなものと思ってはどうでしょうか。
  「一水四見」という言葉があります。天人は水を水晶の床と思い、人間は水と見、餓鬼にとっては血膿であり、魚は棲みかとしている。つまり対象は一つでも見方によって認識が変わるという喩えです。視点が変われば同じものが全然違って見えるということですね。ここのところのプログラムの書き換えができれば、まさに一瞬にして終了するくらいの話です。
  第二は、それにこだわるようになった原因を遡って探していくというやり方があります。すべての習慣的な心癖にはそれが作られてきた歴史があるわけですから、それを探究してみます。もしかすると、汚れに対して決定的に嫌うことになった幼い頃の体験があるかも知れません。汚したことでこっぴどく叱られたり虐められたりして子供心に大きな傷痕を残したというような、決定的に汚れを忌避する原因があれば、それが無意識のうちに現在に影響を及ぼしていることが考えられます。もしそういうことがあったと分かったなら、原点に遡って徹底的に理解して受け容れ、その上で手放してしまう、そうすれば終わりになります。
  最後は、視点の違いをも越えるような、根本からの発想の見直しです。
  生きるというのは汚れること、逆に無菌状態は異常だということを理解しましょう。たとえば、花粉症などは日本と比べてより自然に近い暮らしをしているような所では起きません。なぜなら、ひと言で言えば人間も動物ですから。つまり、本来雑菌に囲まれて免疫を働かせながら生きていくように設計されているということです。病気の治療のために求められているわけでもないのに、無菌の状態や限度を超えて何でもかんでも抗菌製品を好むというのはむしろ異常です。雑菌に対する免疫が、その本来の仕事がなくなったために今度は花粉にまで反応するようになってしまったということです。もちろん、わざわざ汚い環境にする必要はないですし、病気その他で免疫力が低下している時や、災害の後などで伝染病の蔓延が憂慮される場合には、それ相応の対応が必要なことは言うまでもありません。
 私の学生時代に銭湯へ行っていた時のことです。遅い時間に行くともう湯船はけっこう汚れています。でも入らなくてはならないので「よしそれなら」と思って発想を変えました。
 「純粋培養の世界にばかり生きていたのでは、生命力が弱ってしまう。みんな一日働いて流した汗をきれいにするために汚れていったお湯ではないか。ここにはみんなの垢が浮いているかもしれないけど、それがまさに雑草のように強く生きていく生命力の象徴なのだ」と。そう発想したらまったく嫌ではなくなりました。
  自分なりの発想の転換をいろいろ試みてください。そうすればきっと新しい発見があって考え方の幅も広がり、人生への理解も深くなることでしょう。



Bさん:幼い時に体験した心の傷などはどのように解決していくのでしょうか。

アドバイス:
  もしトラウマと呼ばれるような心理的な傷を負っていたなら、きちんと理解して納得することが必要です。難しいことではありますが、それを乗り超えないと終りにできないでしょう。
  例えば、幼児の時に虐待された記憶があれば、どうしても親に対して良い感情は持てません。親の顔が浮かんだら「怒り」、また浮かんだら「恨み」とサティを入れればサッと離れられて、取りあえずは問題から遠ざかることができますが、少し時間が経つとまた出てきます。残念ながらサティの働きだけではこの構造は組み替えられません。何度でも蒸し返されてずっと続いていってしまいます。
  そこで、どうしてこのようなことになったのかを徹底して観ていくのです。例えば、親に虐待されるというのは、過去世からの因果関係があってのことに違いありません。そのようなネガティブな関係になってしまった因縁の流れを想像し、それに納得がいけば発想が変わるでしょう。「過ぎてしまったことだし、仕方がないことだ。私は私が受けたのと同じ苦しみを絶対に人には与えない。これからはただ前を向いて、未来を良くしていこう」とポジティブな反応が生じるものです。親の顔が浮かぶと必ず怒りや嫌悪が込み上がる反応パターンが変化し、組み替わったということになります。
  自分のネガティブな経験は、このようにまったく違う意味づけで受け入れることができない限り傷は傷のまま残り続けます。否定する心を一掃するのがポイントです。
  ただし、この作業はサティの瞑想とは別件の修行としてやらなければなりません。私はこれを反応系の修行と呼んでいて、人格を完成させる「戒」の修行の一環と考えています。在家の瞑想者にとって、これはサティの瞑想と車の両輪のように並行してなされるものと心得ておきましょう。



Cさん:ヴィパッサナー瞑想を通じてトラウマの克服が出来たらと思っています。サティだけでは難しいとのお話ですが、では具体的にはどういった過程を踏んでそうなるのでしょうか。また、そのポイントはどこにあるのでしょうか。

アドバイス:
  トラウマやコンプレックスという言葉は大まかな概念で、心に受けた傷の大きさ、深さによってその程度は千差万別です。自覚されているケースでは比較的傷が浅いのですが、重症の場合には、抑圧が深くなり本人の自覚にのぼらないというのが特徴です。 トラウマは精神医学で扱われるべきものですが、瞑想との関連でみると、①過去に問題があったことを自覚し、②ものの見方を変え、事実をありのままに受け容れることによって克服されていくケースがあります。これは心の清浄道に直結するもので、自我意識やエゴ感覚を弱め無くしていくことが重要なポイントです。「無我」の修行と言うこともできます。
  詳しく見ていきましょう。
  先ず、自覚されていないトラウマに苦しんでいるとします。このとき本人はなぜ人生がこんな苦しみの連続なのか分かっていません。トラウマ(心的外傷)の自覚を妨げているのは何かと言うと、エゴが自分を守るために、いわば自我の防衛反応としてトラウマなどどこにも無いように見せかけているのです。エゴが隠蔽しているので、エゴモードが強力である限りトラウマは浮上してきません。その結果、見事にトラウマの存在が見えなくなり自覚できなくなるのです。
  意識するのを拒んでいる張本人はエゴですから、エゴを弱め無くしていくことが取り組むべきタスクです。

  では具体的にどうすればよいのでしょうか。

  エゴを無くしていくことは、自己中心的なものの見方を無くしていくことであり、それは取りも直さず公平に、客観的にものごとを観ていく訓練に他なりません。これを私たちはすでにヴィパッサナー瞑想のサティの訓練として実践してきているのです。

  初心者は歩く瞑想や座る瞑想など身随観から始めますが、次に一瞬の心の状態とその変化プロセスを観ていく心随観に着手します。サティがうまくいくと、当然エゴ感覚が弱まってきますので、エゴが抑圧していたものの蓋が一瞬外れるということが起きてきます。強烈に抑え込まれていたトラウマが浮上する瞬間があって、それは物語の全貌がゆっくり姿を見せるといったものではなく、フラッシュバックのように原風景や最重要な出来事が一瞬浮かび上がるような具合です。もしその瞬間にサティを入れて、心に焼き付けることができたらどうでしょうか。抑圧されていたものが意識化される瞬間です。

  これは、どんな事実もありのままに観ていくサティの瞑想の真骨頂と言ってよいでしょう。一瞬一瞬のサティによって思考が止められると、思考モードから作られるエゴ感覚も弱められ一時的に消えます。すると、抑圧の蓋が外れてトラウマの所在に気づくことができるのです。隠されていたものが露わになり、無自覚だったものが自覚化され意識化されると、それだけで癒えてしまうこともかなりあります。
  「隠蔽」が主因だった場合には、正体が暴露されるだけで劇的に症状が消えていきます。しかし、苦しみの原因が自覚されただけでは克服できないケースも少なくありません。何が問題なのか分かったら、それに適切な解答や処置を与えなければ症状が続いてしまうケースです。トラウマによって個々別々の対応が必要ですが、すべてに共通しているのは「受容」することができるか否かです。

  そもそもトラウマとは、受け容れることなど到底できない、最悪の出来事に見舞われてしまった過去をもてあまし、強烈な心の生傷になっている状態です。心の傷に正面から向き合うことに耐えられないので抑圧されてしまうのですが、本心はそれに執らわれ続けているので、訳の分からなくなった苦しみに混乱しているのです。
  嫌う心、怒る心、否定する心がある限り、苦しみが根本治療されることはありません。しかしいくら打ち消し、どう抗ってみても、起きてしまった事実を変えることはできません。事実は変わらない。ネガティブに受け止める認知も変わらない。となれば、苦しみも終わらないのです。
  治るためには、起きたことは起きたこととして、心を変え、認知を変えて、受容できるかどうかの問題になるということです。絶対に許せない、受け容れられないと頑張っている限り、心の生傷が乾くことはなく、悲しみも怒りも続くでしょう。トラウマの根底にあるのは、受け容れることができない精神に帰着します。苦しみの渦中にいる方はここをまず押さえておきましょう。
  
これを別の角度から観てみましょう。
  今日までトラウマとして残ってきたということは、これまでのご自身の生き方や、ものごとの受け止め方では駄目だったということです。つまり、過酷な言い方ですが、ものの見方が自己中心的と言うか、自分の視座やエゴの立場からの発想を転換する試みがなかったからでしょう。そうであれば、何らかの発想の転換がない限り、これまで通り苦しい人生が続いていくことになります。つまり、被害者であるエゴの立場から怒り否定し恨み続ける発想のまま、問題が解決し無傷の状態に癒やされていくことは困難というより不可能なのです。

  ネガティブな事実が変わらないのであれば、幸福になるためには、心を変え、経験の意味を変えるしかないでしょう。同じ経験、同じ事実であっても、従来の発想を転換し、これまでとまったく異なる受け止め方をして、新たな解釈で経験の意味を大転換させるのです。自分が経験してきたこと、起きた事実は事実として承認し、それを受け容れたうえで、自分は自分の人生を完成させていくのだと発想を転換していく・・。こうしたプロセスを経ることで、過去と訣別し、癒やされる可能性が生まれてきます。
  とは言うものの、そういう発想の転換を自分一人で行うにはやはり難しいものがあります。そこに第三者の視点から客観的な助言があれば、やはり大きな手助けとなるに違いありません。合宿などでは、私がインストラクターとしてその発想の転換を促します。例えば「あなたの考え方はとてもよく分かるし当然のことですが、でも仏教では、それはこう考えられていますね」「こういう視点もあるのではないですか」などというような双方向のやりとりがなされて、それを本人が理解し、考察し、納得した場合に最終的に発想が転換されていきます。

  強い自我を持つ方にとっては、外側の力を借りるという気持ちになることができただけで、エゴがかなり手放されているかもしれません。素直に人の助けを求めることができるのは素晴らしいことです。もちろん、これは依存心の強い人には当てはまりませんが・・。実体のないエゴにしがみついて、自分一人の力で生きていく・・と息まくのは非仏教的な発想なのです。あらゆるものが相互に関連し合って変化していくのが真相であり、それを仏教では「諸法無我」と呼んでいます。

  また、心の転換をうながす技法の一つに、瞑想とは違いますが「内観」があります。これもエゴの編集した世界を逆転させる強力な力を持っています。これはトラウマそのものに向き合うのではなく、自分が親や家族などから傷つけられたり苦しまされた百倍も千倍も愛されてきた事実に圧倒されることによって、ちっぽけなトラウマなどブッ飛んで霞んでしまうというやり方です。ただこれも、誰でもやりさえすればうまくいく保証はありません。断じてエゴを手放すものか、と自己中心的な視座を崩さずに内観をしても成功しないのです。認知の根本が変わらないからです。実体のないエゴに固執している限り、人生は苦しくなるということです。
  いずれにしても、「これは世の流れに逆らうものである」とブッダが言明されているように、仏教では「煩悩をなくせ」「心を清らかにしろ」と本能の命令や世間の生き方とは真逆の価値観を突きつけてくるわけです。心の中に革命を起こすような話ですから、もし仏教を全体的に受け入れることができれば、反応系の心が組み替わり、発想や生き方が変わるのは当然なのです。そうした別次元の地平に立ったとき、トラウマは完全に乗り越えられているでしょう。


Cさん:そのような指導は、合宿に参加することでしか受けられないのでしょうか。

アドバイス:
  やはり難しいでしょうね。現状では、個人的にアポイントを取って話をする余裕はありませんので、合宿にご参加いただき、問題に向き合っていただくことになるでしょう。1Day合宿でも個室での面接の時間が用意されていますので、検討してください。


Dさん:過去の問題もありますが、現在非常に難しいけれども解決しなければならない問題があります。それが実務に絡んでいてたいへん辛く、そんな時に怒りや投げやりの気持ちが生まれるのを少しでも無くしたいと思っています。

アドバイス:
  過去のことばかりではなく、現在進行形で起きていることも、問題を解決していく基本構造は変わりません。エゴの立場に固執すれば、捨てられないものばかりだし、変更できるものなど何もないと言いたくなるものです。しかし「ダメなものはダメだ」「許せないものは許せない」と抱えている問題や相手側を一切受け容れることができなければ、苦が無くなることはありません。世界中どこでも異なった考えや立場の違いからエゴとエゴが激突し合い、相手側や対象を否定し、ままならない苦しみに直面しているのではないですか。受け入れられないものを受け容れる発想の転換がなければ、これまで通り苦しい現状は変わりません。
  ところが仏教の根本的な考え方ははるかに超越的で、構造が雄大で最終的にはあらゆることを受容できる思想があり、その思想に基づく実践システムが見事に確立しています。単なる瞑想の技術だけの世界ではなく、今までの判断基軸とは違った価値観が入ってくるので、今まで許せなかったことが許せるようになるのです。その意識革命が起きたとき、苦しみがなくなっていることに気づくのではないでしょうか。(文責:編集部) 

 今月のダンマ写真 ~
 ミャンマーの寺院にて

 



 

 
            
 N.N.さん提供


    Web会だより  
『四つめの山に出会う』 M.K.

 2ヵ月ほど前、私は急に腰痛になりました。この腰痛は心因性だとすぐにわかりました。日常生活でトラブルが起こり、もうこんなことが続くのは嫌だと思い、思い切って人生を転換したいと、糸口を求めて悶々と格闘していた中でそれが起きたからです。
 アドラー流にいえば、「現実に直面するのが嫌だから、私は腰痛を作り出した」ということになると思いました。現実に向き合うのが嫌でたまらないから、私の脳は身体のトラブルを起こし、不安や怒りや憎悪など心の葛藤を強制終了した・・・。腰痛でも、喘息でも、ヘルペスでも何でもよかったのだなと思い、脳のやり口にアゼンとしました。
 まる2週間、寝返りもできず、エビのようにベッドに丸まって過ごしました。出口が見えず、不安で気が滅入っていくので、寝たままひたすらロールレタリングをしました。
 ロールレタリングというのは、特定の相手に対し手紙を書く、という形の心理療法です。「小さな私から母へ」「高校生の私から母へ、その年の大晦日のこと」「母から私へ」など、その時の自分になりきって本当の思いを書きます。ネガティブな感情をむき出しに書きなぐる感じで、ナマの気持ちを紙にぶちまけるのがポイントです。一方的であろうが、読むにたえない罵詈雑言であろうが、おかまいなし。投函するわけではないので、噴き出してくるものをどう書こうと、本人も知ったことではないのです。
 ロールレタリングをするのは、これが初めてではありません。これまで何度かトライしましたが、うまくいったことはありませんでした。それどころか、内観をしても自力の認知療法を試みてもどうにもなりませんでした。今から思えば、その時点では無意識に自分を抑圧してしまい、ホンネを吐露するに至らなかったからではないかと思います。
 私には越えるべき山が3つあります。実母と妹の問題、婚家にまつわる問題、そして夫との課題です。それらは相互に絡み合っており、何から手をつけたらいいのかも見えませんでした。しかし、この2週間のロールレタリングで心に化学変化が起こりました。母と妹に対する気持ちが初めて緩んだのです。二人の影は薄くなって、遠ざかりました。母も妹も、そして私も、お互いに仕方がなかったのだと素直に思えたのです。「受け容れる」とはこういうことなのか、と心に落ちました。
 唐突に思えましたが、それは2週間のロールレタリングだけで起こったことではなく、縁あってブッダの瞑想の講座に出るようになってから今日までの積み重ねの結果ではなかったかと、後になって気づきました。
 この2年半、毎日10分の歩く瞑想を続けてきましたが、さしたる進展もなく、智慧もわかず、妄想にまみれてじたばたするばかり、忸怩たる思いがあります。「苦」のカラクリは論理的にはわかるような気がするけれど、適切なサティも入らず、瞬時に「反応」にまで至ってから「ああ・・・」と気づき自己嫌悪に陥る、その繰り返しにゲンナリしていました。
 一方、地橋先生のダンマトークと瞑想合宿でのご指導、講座のインタビューなどから、深い示唆をいただきました。加えて、法友の方々からはあふれるほどの価値ある情報をいただいてきました。そういうことがあって、このたびのことがあり、大元の山が小さくなったのだとわかりました。
 そして、これには続きがあります。4番目の山がせり上がってきたのです。それは自分という問題です。これまでいくら検証しても、相手がまちがっているとしか思えませんでした。けれど実際は、頼まれもしないのに相手に合わせて被害者意識をホコリのように溜め込み、慢の心を肥大させていったこの私自身が、ネガティブなものを引き寄せ、かってに苦しんできただけではないのかと気づき、戦慄しました。そのせいか、第2、第3の山はかすんでしまいました。迷路をさまよったあげく、自分が変わらなければ何も変わらないという、基本の「キ」にたどりつきました。
 瞑想を続け仏教を学ぶ、今後はこの両輪で自分自身という課題に取り組んでいこうと思います。法友の皆さまに心から感謝し、幸いをお祈りします。

              
 
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  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -42- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング

(承前)
ペーマスィリ長老:
  サティ
sati:念)があると怒りをやり過ごすのが容易になります。なぜなら、怒りが生じる時点から観察しているからです。私たちは渇愛、慢、邪見のために何かに執着します。それを自分で観察することができます。サティにより、障害が生じた瞬間にそれを認識して直ちに取り除くことが出来ます。執着を手放して困難を克服するためにサティを使います。障害が生じてそれが過ぎ去ってから気づいたのではほとんど意味がありません。それではあまり役にたちません。でも初心者の場合はそれで十分です。

デイヴィッド:
  過去の障害を認識するのと、現在の障害を認識するのは何が違うのですか?


ペーマスィリ長老:
  過去に生じた障害を振り返ることで、現在の瞬間に生じる障害に気づく能力を改善します。自分の気づき、サティを高めます。でも、最終的には障害が生じたその瞬間にそれを認識して取り除く必要があります。懐中電灯は暗闇で物を見つけるのに役立ちます。光を当てれば、探しているものを見つけることが出来ます。対象に光を当てることと、その対象を見ることは同じ瞬間に起こります。別々の瞬間に起こるのではありません。暗闇に光を当てるその同じ瞬間に対象を見て認識します。光を当てるのは心であり、対象を認識するのは思考であり、それは全て同時に起こります。水が心で、色素が思考であるのと同じように、心を透明にしておけば、どのような色素が加わっても私たちはそれに気づきます。


デイヴィッド:
  心を透明にしておく、ですか。


ペーマスィリ長老:
  そうです。心を透明で純粋にしておけば、どのような色素が加わってもそれを観察できます。時には善が加わり、別の時には不善が加わります。心の対象に対する気づきの瞑想を学び実践すること、それはニッバーナ(nibb
āna:涅槃)に達することの障害になる心の要素と、ニッバーナに達する支えとなる心の要素を選別して、障害となる心の要素から距離を置くということを意味します。心を清らかにして心の要素を有益な方向へと向かわせます。

  基本的にはこれがサティパッターナ スッタ(Satipa
wwhānasutta:念処経)の四つの気づきの土台、すなわち身体、感受、心の状態、心の対象の四つに対する気づきの瞑想が目指すところです。サティがある時には、私たちには常にこの四つの土台のいずれかがあります。ある時は、心の状態に対する気づきの瞑想に取り組み、ある時には感受、ある時には身体、そしてある時には心の対象に対する気づきの瞑想に取り組みます。規則正しく瞑想する瞑想者は常に四つの気づきの土台の中にあり、善なる心の状態とともに住し、不善に汚されることがありません。瞑想者は常にサティとともにあります。「全ての善なる心の状態はサティです」とブッダは説かれました。

デイヴィッド:
  もう一度訊きますが、人生を有益な方向に向かわせるためにはどうしたら良いのでしょうか?


ペーマスィリ長老:
  何の期待もせず、行為を行い、感受を経験し、心の状態を経験することで、善なる方向へと向かいます。ブッダが見つけられた苦しみからの解放を信じることにより善へと向かいます。私たちはブッダが特定の道を歩んで特別な状態を生じさせたことを信じます。同じ道を歩めば私たちもその状態を生じさせることが出来ると信じます。その道とは八正道です。私たちはブッダがその道を歩んで苦しみからの解放を成し遂げたことを信じます。


直通の道

  八正道はエーカーヤナ・マッガ(ekāyana-magga:一つの道)、直通の道と呼ばれています。八正道に相当するものは他に何もありません。それはゴールへの直通路です。ブッダの道と四つの気づきの土台、それが直通の道を歩む人の修行です。
  八正道は一人で歩みます。森に隠遁したり、部屋に閉じこもったり、といった意味ではありません。一人で住する人には町も森も同じです。八正道を歩む人の生活を表現するために、エーコー ヴーパカッタ アッパマットー アーターピ(Ekovūpakawwhaappamattoātāpi)という文章が良く用いられます。エーコー ヴーパカッタ アッパマットー アーターピには一人で暮らすことも含まれますが、熱意を持つこと、自分自身のマスターになることも含まれます。人里離れた、一人の生活に習熟することに熱意を燃やします。これは物理的に他の人々から離れるという意味ではありません。そのような意味ではありません。一人で暮らすということは、有害なものを慎み捨て去るように努力すること、有益なものを育て維持するように努力することを意味します。一人というのは不善が伴うことが決して無いということを意味します。八正道を一人歩む人は他人を判断したり批判したりすることはありません。

  「この道はドゥッカ(dukkha:苦)を克服するための唯一の道です」とブッダは説かれました。

  瞑想センターはこの直通の道を歩む人が共に暮らす場所です。何も期待せずに暮らす訓練をします。食事をする時は、明日の食事について考えることはしません。心を維持するために奮闘努力し、全ての行動を現在の瞬間に行います。現在の瞬間とは今です。次の瞬間も今です。まさにその瞬間に、私たちは有害な状態が生じないように懸命に努力します。今の瞬間に欲が入りこまないようにします。怒りが入りこまないようにします。智慧が無く混乱した状態が入りこまないようにします。これは原因と結果、へートゥ・パラ(hetu-phala:因果)の訓練です。原因とその結果を理解し、信じることは智慧が無く混乱した状態から離れること、アモーハ(amoha:無痴)です。

  瞑想と訓練によってサティパッターナ(satipawwhāna:念処)の実践が進みます。一カ月ないし二カ月、途切れることなく、適切に訓練すれば、私たちのサティは自動的に機能するようになります。四つの気づきの土台が確立すると、サティの状態が分かります。

デイヴィッド:
  気づきの土台を築く際に、ジャーナ(jh
āna:禅定)はどのような役割を果たすのですか?

ペーマスィリ長老:
  私たちは何かを考えるとき心の中に物体、カーヤ(k
āya:身)を作り出します。これは精神的な物体、心により作られたものです。ジャーナの修行をする時にはジャーナの兆候、ニミッタ(nimitta:相)が心に現われます。これもまた精神的な物体です。よく訓練されたニミッタは超能力の訓練に使うことが出来ます。例えばある人を探そうとした場合、その人のイメージがニミッタに現われるように欲します。ある種の光が作り出され、それを使ってその人を探します。サティパッターナヴィパッサナー(satipawwhānavipassanā:念処ヴィパッサナー)の一部として、こうした外部の物体に気づくことはダンマーヌパッサナーです。

デイヴィッド:
  夢についてはどうですか?


ペーマスィリ長老:
  優れた瞑想者は滅多に夢をみません。しかしもし夢を見た場合は、心が作り上げた夢の中のイメージに対し、サティパッターナ(satipa
wwhāna:念処)の一部として気づきを入れます。他の現象に気づきを入れるのと同じように気づきを入れます。歩いている状態と夢を見ている状態の間には違いはありません。この世における私たちの存在も夢のようなものです。精神的な物体は実在しません。それは心が作り上げたものであり、私たちは心でそれを認識します。
  ジャーナニミッタ(jhānanimitta:禅定相)のような心が作り上げたものは、この世で普通に出会う物質的なものよりも手放すのが難しいです。なぜなら、ジャーナニミッタのようなものは障害が抑えられた時に生じて、心に静寂と満足をもたらすからです。そして瞑想者はニッバーナへ心を向けることに興味を失ってしまいます。(つづく)

翻訳:影山幸雄+翻訳部


       

 今日の一言:選

(1)不快な現状を乗り超えようと願うのも、実行するのも当然のことである。

 問題は、怒りを覚える前に、まず、事実をありのままに、冷静に認める精神が生まれるか否か……

 苦の現状を正しく知るがゆえに、智慧が生まれ、慈悲の心が発露する。

 「事実の承認」「乗り超える決意」「祈る、実践する、改善する……

 怒らなくても、苦を乗り超え、幸せになれる。

(2)「現場・現物・現実、て言うけど、現場なんかいくら見たってダメですよ、固定観念や先入観念があれば、本当の状態は見えませんから」

 と長年現場に立ち続けた人が言う……。 

(3)エゴを完全になくすことは、悟るのと同じくらい難しい。

 相手の嫌な部分を思いきって受け容れた瞬間、心のなかで突っ張っていたエゴが崩れていく。

 一時的であっても、ピュアな慈悲の瞑想が発露する……

           ◎「今日の一言:選」は、これまでの「今日の一言」から再録したものです。

       

   読んでみました
    与那覇潤著 『日本人はなぜ存在するのか』 
                      (集英社インターナショナル 2013年)

日本人のルーツを探る本かと思って読んでみたら、良い意味で期待は裏切られた。著者は歴史文化を専門とする大学の先生。「日本人とは?」を出発点として、これまで意識してもいなかったものが、実は「?」をつけるに値することを改めて知った。
  例えば、「赤い夕焼け」というものが先に存在するのではなく、「人間がそれを認識するから『赤い夕焼け』という現象が現れる。・・・人間の認識が現実に働きかけることで『赤い夕焼け』なるものがはじめて出現し、それがふたたび人間の意識にフィードバックされる」。この、現実認識現実認識・・・というループ現象を再帰性と呼ぶ。
  これは、別の角度から私たちも学んでいることだ。そして著者は、「そもそも社会学的に考えれば、この世界の事象のほとんどは再帰的なのですから、存在の根拠はあやふや」と述べ、親子、国籍から始まって、歴史、文化、伝統、そして人類とは、人間とはまで、再帰性がなければ人間社会にならないと主張する。なぜなら、私たちはもともと再帰的にものごとを作り上げて生きる存在だからだ。だが、「子ども」という概念が再帰的だからと言って、「子ども」を区別することに価値がないとは言えないように、たとえ再帰的であっても、それには価値がないということでもないと言う。
 そして、「私たちが、私たち自身の意識を媒介しない『あるがままの自然』にしたがって生きることをやめ、みずからの周囲にある環境を再帰的に認識し、再構成し、同じ社会のメンバーのあいだでだけ通用する現実に作り上げることを始めたときから、動植物とは異なる『人間』の歩みが始まった」とし、「それを自覚することが、この世界でよりよく生きるための基礎なのだ」と訴える。
  しかし私たちは、再帰性に合わせて現実を作り上げながら生きていることに気がつかない。作り上げられた現実が確固としたものだと思い込む錯覚、仏教の視点からはここに苦が生まれるということになる。
  このように社会学的に理解される概念と社会との関係は、仏教の無常観、無我観を別の面からバックアップするものとして意味があるのではないかと思う。あげられている具体例をみれば、改めて概念とその用語の意味の曖昧さに驚く。たぶん私たちは、世の中で言われていることを簡単に鵜呑みにしすぎているのではないだろうか。
 瞑想で概念というとどちらかと言えばマイナスに位置づけされているが、なぜ概念とは曖昧なのかをしっかり認識しておくことは知的な理解につながるのではないかと思う。あたまを整理するのに適する一冊だと思った。(雅)

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