月刊サティ!

2016年9月号 Monthly sati! September 2016


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:瞑想と食(1) 
  ダンマ写真
   
Web会だより 『ケンタウロスへの道』

  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -41-
  読んでみました 『幸せは私の中に そしてあなたの中に』                 

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ : 瞑想と食(1) 
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 

Aさん:早食いとドカ食いの傾向があります。それを改める目的で、ゆっくりご飯を食べるイメージトレーニングをするのは間違っていないでしょうか。また2週間に一度ぐらい断食をしています。

アドバイス:
  早食いもドカ食いも瞑想にはあまり良くありません。なぜかと言うと、どちらも消化に負担をかける食べ方だからです。良い瞑想に必要不可欠なのは意識の透明感ですが、消化に負担がかかると意識がドンヨリ濁ってボーッとした冴えない状態になりやすいのです。
  ですからなるべく消化に負担がかからないよう、ゆっくりご飯を食べるのは正解です。そのためにイメージトレーニングするのも奨励すべき良いことです。
  基本的にこの世の現象世界では、強くイメージしたものは具現化されていく法則です。この世は業の世界であり、強い意志
(チェータナー)が業を形成し、その業が具現化していく構造なのです。ですから、はっきりと自分がそうありたいというイメージを可視化させ、それが単なる絵ではなく、事実であるかのような強さで熱望したものはそうなっていくものです。自分にも他人にも世の中全体にとっても価値のある善いことを願い、そのようにイメージトレーニングすることはマルです。
  ですが、
2週間に一度の断食は少々多いのではないでしょうか。その頻度ですと、どうしても身体が飢えた状態になり、栄養を摂取して体を回復させようと食欲の反動があるからです。長期の深い断食をした場合と、短期でも断食の回数が多過ぎると、どうしても食欲に執らわれてしまい、ちょっと餓鬼道のような感じになりがちなのです。身体は本能的に何とか食べさせよう、体に栄養を入れさせようとします。その時の強烈な食欲は押さえがたい生命反応といってよいでしょう。
  ですから、断食をしようとする場合には、何のためにするのかを先ずはっきりさせておくことが大切です。心を透明に、明晰な状態にして良い瞑想をするのが本来の目的です。もし断食を解いたあと、餓鬼道のように食べてしまえば却ってマイナスになることもあり、本末転倒ということになります。
  瞑想修行のための断食の前後は、かなり制限した食事になるので、全体としてみるとかなり体は飢えた状態になっています。もし目的に適ったきれいな断食をしようというのであれば、もう少し時間をゆるやかに、
1カ月に一度くらいが適当な間隔ではないかと思います。


Bさん:けっこう瞑想時間を長く取れるので、一日一食のことが多いですがどうでしょうか。

アドバイス:
  一日一食ということになると、やはりそこで一日分の栄養を摂ることになりますね。そうすると、量も品目も多くなるのは避けられないでしょう。

  テーラヴァーダのお寺では一日一食のところがけっこうあります。朝食と昼食の間隔が短いと体に良くないからです。一日一食だと一回の食事量が多くなるので、食後の負担が大きくなりますが、この辺はその人の消化能力に関係する事柄です。消化器系が強い方と弱い方とでは展開が違ってきて当然ですね。

  もし摂食障害などメンタルな問題が何もないのであれば、一日一食でもあまり問題はありません。食べることをどう調整するか、自分に最適の栄養摂取の仕方を確立していくことです。

  良い瞑想をするには食事や体調をいかに整えるかが大前提ですから、気を配らないといけません。そもそも体調に最も大きな影響を及ぼしているのは食事のコントロールなのです。それがうまくいけば体が非常にすっきり整って、意識が明晰になる可能性が高くなります。そうなると良い瞑想ができます。

  在家であれ出家であれどんな人も、一日中パーフェクトに良い瞑想状態を維持できることはあり得ません。どれほど食事の摂り方や環境などを工夫しても、意識がボンヤリして瞑想が低下する時間帯をゼロにはできないものです。

  そこで私たちにできることは、いかにダメーシが少なく、効率の良い状態で瞑想ができるか、そのための自分流の工夫を重ねることです。その一環として、食事のコントロールは外すことのできない重要事項であり、できるだけ体調の維持管理をしていこうということになります。

Cさん:つい食欲に負けて食べ過ぎてしまうことがあります。食欲を抑える良い方法があるでしょうか。

アドバイス:
  人類の歴史は常に飢餓との戦いでした。現代でもアフリカなど飢餓によって死んでいく人が跡を絶ちません。ですから、食べられる時に食べておくことは生命を維持するためにインプットされた本能とも言えます。しかしその貪りの衝動に負けた結果、病的な肥満体や生活習慣病に苦しむ人が大勢います。もちろん意識を研ぎ澄ませていく瞑想の仕事にもダメージとなります。

  さまざまな対策がありますが、ダイエットに失敗する人がゴマンといるように、基本的に食欲のコントロールはとても難しいものです。テクニックよりもしっかりした決意、その決意を支える正しい理解が大事です。

  食べ過ぎれば瞑想中に必ず睡魔に襲われるし、中心対象の感覚も鈍くなるでしょう。なぜ満腹や過食が瞑想にはいけないのか、腹七分目腹六分目などの少食にどれだけ価値があるのか、等々を正しく理解して納得諒解がいけば食欲のコントロールに成功するでしょう。

  仏教の歴史では、肥満で大食漢だったパセーナディ大王がブッダから伝授された方法が有名です。

  王が食事をする時にブッダから授かった偈
()を唱える係の者を配置したのです。その文言は「しっかりと気をつけて、自分に応じた食事の適量を知りなさい。また節度をもって食事をとりなさい。そうすれば、苦しみは少なくなって、安らかに、長く生きることができるでしょう」という内容です。食事が終りに近づいた頃この言葉が朗々と唱えられれば、ハッとして食欲の暴発を抑えることができるでしょう。お付の者を雇うことはできないでしょうから、「食べ過ぎるな・・」と書いたポップを食卓に立てるとか、スマホの画面に表示させておいたらいかがでしょうか。

  また、仏教には「食厭想」というサマタ瞑想もあります。大食いや美食を続ければどうなるか、どう体を痛めるかを徹底的に心に焼き付けていくのです。そうすると、それが全くの自殺行為だということがよく理解されます。

  このやり方は食欲ばかりではなく、その他の欲望や抑えがたい怒りの煩悩にも応用できます。その煩悩につき従っていった時の悲惨な末路について徹底的に理解することで、それらは抑制され離れることができます。

Dさん:食事の時のサティのやり方を教えてください。

アドバイス:
  合宿の時の例をあげましょう。食事の始まりから終りまでのあらゆる動作に気づきを入れていきます。目で「見た」から始まって、箸の動き、箸に食物が触れたときに指先に感じる反動、ご飯を切る、持ち上げる、口に触れる、口に入る、噛む等々の動作に「
(箸を)取った」「伸ばした」「(ご飯に)触れた」「切った」「持ち上げた」「引いた」「(口を)開けた」「(口に
)入れた」・・・と丁寧にラベリングしながら食事をします。
  ふだんの食事ではなかなかできませんが、食べる瞑想はとてもおもしろいしサティの良い練習になります。と言うのも、座る瞑想と歩く瞑想を繰り返しているだけでは単調で飽きてしまうものですが、食べる瞑想は動作が複雑だし、身体感覚だけではなく嗅覚や味覚や視覚などバラエティ豊富なサティを入れることになり刺激的でおもしろいのです。また食物の好き嫌いなど、私たちがいかに妄想に支配されて食べる行為をしているか、新しい発見も多いので食べる瞑想を得意にしている方は少なくありません。また時間のある時には、ぜひ合宿に近い形での緻密な食事のサティにも挑戦してみてください。

  食事の時には、口の中に食べ物が入ったら、だいたいはもう連想、妄想になってしまうのが普通です。誰かと会話しながらの食事では味なんか全然分かっていないも同然でしょう。一人で食べていても、テレビを観たり、スマホを触ったり、妄想しているのですから同じです。しかるに、食べることだけに集中し、口の中に入れてからも一噛み一噛み味わって、丁寧にサティを入れ、この筋肉の感じは、衝撃感は、その食物から連想される食卓の記憶は・・とマインドフルに自覚しながら食べることがどれだけ人生のクオリティを上げるか検証してください。

  ある時の合宿で、
40代でかなり集中の良い方でしたが、レンコンを口に入れ、ガリガリと噛みました。そうしたら、レンコンの水分が口にバッと広がった。当たり前といえば当たり前なのですけれど、その人は40何年生きてきて、レンコンってこんなに水分があったのかという発見に驚きました。つまり、本当に集中してサティを入れて噛んでいたので、ガリッと噛んだときの水分の広がりに「驚き」という認知をしたのです。そして一噛み一噛み丁寧にサティを入れていたら、味が激変したと言っていました。要するに、今までこうして一つひとつきちんと認知しながら食べたことはなかったので、その時初めて経験して驚いたわけです。40何年も生きてきて。

  そうするうちに食べたものがグチャグチャになってきました。すると怖いと感じたので「怖い」とサティを入れ、それから「気持ち悪い」「その先を観たくない」という心が生まれてきました。ここのところはけっこう面白いですね。つまり、綺麗に料理された食物がグチャグチャに壊れて崩れ去っていくことに、気持ち悪い、怖い、その先を見たくないとか、存在する物に潜んでいるドゥッカ(dukkha:苦)の本質を結構感得しています。仏教では、どんな物や現象にも「無常・苦・無我」の本質が見られると考えていますが、本当に集中してそのときの一瞬一瞬の対象を観ていくとそういう方向に目が開かれていくという例ですね。


Eさん:食はそんなに大切なのですか。

アドバイス:
  心の状態、意識の状態が非常にクリアでなければ良い修行はできません。そして、心は身体の状態に決定的に条件づけられています。アビダルマでは身体は四つの要素によって作られていると説かれています。一つはカルマ、2番目は心、3番目は食物、4番目は時節なのです。

  ここで私が強調したいのは3番目の食物です。食物エネルギーが身体を形成しているのは決定的です。飢餓状態になれば痩せ細るし、過食すれば肥満体になります。小さい頃からの栄養状態、偏食の度合い、習慣や食べ方の違い等々が今の自分の身体を作ってきました。そしてその体の状態に、瞑想は支配され決定的な影響を受けるのです。このことに無自覚であれば、なぜ瞑想がうまくいかないで睡魔にやられてばかりいるのかも分からないのです。

  自分の消化能力に適した量がバランス良く摂取されれば、身体の状態は良くなり、心の状態も良くなり、その結果良い瞑想につながる可能性が高くなります。食をいい加減にして、やる気だけで何とか良い瞑想をしようというのは無謀で愚かしいと言えましょう。

  ただ、食事の摂り方は個人差が激しくかなり難しいので、試行錯誤しながら自分にとっての最適量やバランスを見出し体得していくほかありません。基本的に、栄養バランスのよい少食ができると、頭が冴えて良い瞑想ができます。そうすると今度は逆にハマるのです。さらに少食にして、この調子でいこうと。ところが、その良い調子がずっと続くということはありません。個人差はありますが、瞑想修行のみの合宿でもせいぜい一週間が限度です。身体が持たないのです。まして日常生活を送りながら、仕事をしながらということであれば、なおさら簡単ではありません。

  しかし、いろいろ試して数々の失敗を経験しながら、食材やその分量、バランス、タイミング、そして変化していく体感や体調を詳細に観察していくと、だいたい自分に向いた食事の摂り方が分かってきます。それを基本にしていくと良いのですが、絶対的な拠りどころにはならないと心得ておきましょう。

  自分にとってどんなベストフードも、いつも間違いなく最高の状態をもたらしてくれるかというと、そうではないかもしれません。たとえ完璧な食事を用意しても、あらゆる条件が日々無常に変化しているので、毎回微妙に展開が異なっていくのです。歳も取ります。この1週間元気で健康だったか。体調を崩していたか。前日に食べた物は少食だったか、大食いしたか。メンタルな影響やストレスはどうか・・・。無量無数の条件が複雑に織りなされて今の一瞬を決定しています。同じ食物が同じように消化され、同じ結果や効果をもたらす保証はないのです。高い水準、同じ水準を保とうとするのはそれほど難しいのです。



Fさん:合宿に入った場合の食事で注意することは、どんなところでしょう。

アドバイス:
  合宿では少食が基本ですので、補給を上手に摂るのが肝要です。

  夕方になると、多かれ少なかれ昼食のエネルギーが切れてきます。すると個人差はありますが、ヤル気が落ちてくるし力が抜けてくるのです。ひどい場合には、低血糖症状を起こして貧血のようになる人もいます。そこで、たいていの人は補給をします。するとだいたい
1時間過ぎ、2時間以内でエネルギーが回ってきます。

  一番速く吸収されるのは蜂蜜、果物、ジュースのような果糖類です。その次が砂糖です。それから炭水化物の粉類、麺類、原形を留めた米です。消化吸収されエネルギーに変わるまでの時間の速さはこの順番ですね。

  いろいろ工夫してエネルギーを補給すると、それが適切だった時にはその後とても良い瞑想になります。これが一般的な流れですが、人の体と食べることは様々なものと相関していますので、補給した方がいい人、しない方がいい人、実はなんとも言えないのです。最終的には、単に人のやり方を真似るのではなく、参考にしつつもいろいろ自分で試してみて、良かった場合、失敗した場合の経験を記憶しながら、工夫し、身につけていってください。

  食べる瞑想も座る瞑想も歩く瞑想も、知識が豊富になれば、経験が豊かになれば、体調が良ければ、心が安定していれば、ヤル気が高まれば、諸々の力に助けられれば、徳があり良い流れに乗れれば・・・、不思議に、自然に、修行が進んでいきます。ミャンマーの瞑想センターで食事の瞑想の最中に預流果の悟りを得た方がいるという話を聞いたこともあります。

  食べる瞬間もその他のどんな一瞬もおろそかにしないで、しっかり修行していきましょう。

(文責:編集部)

 今月のダンマ写真 ~
 チェンマイ北部、森林僧院奥の院への1000余段入り口と頂上の仏塔 

     
               
 先生提供


    Web会だより  
『ケンタウロスへの道』 中野 祐三郎

私は、人生の目標をケンタウロスになることに置いてきました。ここで言うケンタウロスとは、ケン・ウィルパーが意識の成長・進化のサイクルの中で記した後期自我→成熟した自我→生物社会的領域→ケンタウロス→アートマン→ブラフマンのケンタウロスの段階を指したもので、自我を手放した状態、或いはありのままの自分を受け入れた状態を示します。天外伺郎氏によれば、後期自我から成熟した自我或いはケンタウロスに進むには、努力や頑張りでは難しく、瞑想がその助けになると瞑想を勧めていらっしゃいます。
  また、数年前に、私にとって幸せとは「こころ安らかに過ごすこと」だと気づきました。その後巡り会ったスマナサーラ老師の本に同じことが書かれていてそうなんだと確認しました。スマナサーラ老師も著書の中で瞑想を勧められていらっしゃいます。
  2年前、60歳を迎えた時、死ぬまでにやっておきたいことはないか、今までやり残していたことはないかと人生を振り返り、学生時代から興味がありながら今まで縁がなかった瞑想を経験してみようと考えました。これが瞑想を始めたきっかけです。
  さて、瞑想を始めてこの2年間で変化したことは、何か。
  まず、事実として確認できることは、競馬を休めるようになったことです。これまで何十年と週末に欠かさず馬券を買ってきました。一時は、一年365日毎日馬券を買っていた頃もありました。それが、最近、週末、時に競馬を休んでいる自分を発見します。大きな大きな変化です。
  また、母との関係にも変化が現れています。以前は、些細なことで互いに激高し口論しておりましたが最近めっきり口論が減りました。80歳を過ぎた母の側にも変化があるのでしょうが、母から「最近、優しくなったね」と言われました。この変化には、慈悲の瞑想が大きく関係していると考えます。母以外でも、慈悲の瞑想により、嫌いだった方が余り嫌いではなくなり、苦手だった方に対する苦手意識が薄くなりました。
  朝日カルチャーセンターの『朝の瞑想』に通い始めた頃、意識の成長が後期自我に達し、成熟した自我に一歩足を踏み入れた段階にあると自覚しておりました。今、振り返ると成熟した自我に足を踏み入れている「ふり」をしていただけだったと推察します。何故そのように推察するかというと、瞑想を始めた当初、時に集中が高まり良い瞑想状態に入ったと思えた日があったのに、日が経つに連れてそのような状態に入る日がなくなり、その頃は瞑想状態に入った「ふり」をしていたに過ぎなかったと考えるからです。
  現在は、瞑想に良い瞑想も悪い瞑想もなく、ただ、ありのままの自分に気づくだけであると考えています。まれに集中が良い時、足裏や腹のセンセーションがはっきり意識できるような日もあります。妄想だらけの日も多いです。でも、ほんの少しずつ妄想を手放せる様になってきました。知らないうちに成熟した自我に一歩踏み出しているのではと考えています。
  現在は、ケンタウロスの様な超自我へ進むことは、幻想であり、まずは、一歩ずつ成熟した自我に向かって歩んでいければと考えています。また、瞑想していて気持ち良くなるような日は無いものの、生活の中に少しずつ変化が現れています。一歩前に歩むため必要なことは、道元禅師が説いた、目的を持たずただひたすら瞑想することだと考えます。
  未だ私は苦しみの中にあります。仏陀は、四聖諦で苦しみを滅する道があると説かれました。瞑想は、その道に通じています。
  瞑想者として、3年目を迎えました。師と法友に恵まれたことを感謝しております。

                
   
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瞑想は綱渡りのように -41- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング

(承前)
心の状態に対する気づきの瞑想

ペーマスィリ長老:
 サティパッターナスッタに説かれている三番目の気づきの土台はチッターヌパッサナー(citt
ānupassanā:心随観)です。チッタ(cittā:心)は心、意識、意識の状態と訳されています。ですから、チッターヌパッサナーの原意は気づきを絶やさずに、心を対象にして瞑想するという意味になりますが、チッターヌパッサナーは心の状態、意識を対象にした気づきの瞑想です。どのような対象であれ、それを覚知し、理解するのは心であるということを知ります。


 繰り返しになりますが、心の状態に対する気づきの瞑想を実践する方法は身体に対する気づきの瞑想、感受に対する気づきの瞑想と同じです。特定の気づきの土台から始めて、他の三つの気づきの土台へと発展させていきます。心の状態に対する気づきの瞑想実践の場合は、心の状態に対する気づきの瞑想の実践から始めて身体に対する気づきの瞑想、感受に対する気づきの瞑想、心の対象に対する気づきの瞑想へと進めていきます。

 あなたはテープレコーダーのことを考えているようです。テープレコーダーを対象にしているのはあなたの心です。心がテープレコーダーを対象にしていることを知る、それが心の状態に対する気づきの瞑想です。テープレコーダーが物質の基本要素から成り立っていることを知ることは身体に対する気づきの瞑想です。あなたにとってどれだけ大事なものか、安楽さをもたらすのか苦しさをもたらすのかなどテープレコーダーに関する経験を知るのが感受に対する気づきの瞑想です。そして最後に、これが、形が生じることであり、これが、形が消え去ることである、と知るのが心の対象に対する気づきの瞑想です。変化が起こっています。心の対象に対する気づきの瞑想には、これが集中の生起であり、これが集中の消滅であると知ることも含まれます。このように気づきの四つの土台を実践することで、私たちは完璧な気づきがある、善なる心の状態を確立します。

デイヴィッド:
 テープレコーダーについての瞑想が身体に対する気づきの瞑想、カーヤーヌパッサナー(k
āyānupassanā:身随観)になるのですか?


ペーマスィリ長老:
 そうです。それは身体に対する気づきの瞑想の中にある、四つの物質の要素の分析、ダートゥ・マナシカーラ(dh
ātu-manasikāra:四界の作意)の範疇に入ります。この時点で瞑想実践は心の対象に対する気づきの瞑想へと変わります。ここでダンマーヌパッサナー(dhammānupassanā:法随観)が生じて来ます。


 途絶えることなく心の状態に注意を向け瞑想すること、チッターヌパッサナーにより、心が未熟さから離れて熟練へと向かうようにすることが出来ます。これは身体と感受の瞑想実践と全く同じです。身体に対する気づきの瞑想実践においては、期待することなく行為を行うことで身体を善の方向へ向かわせます。感受に対する気づきの瞑想実践においては、感受の本質を観察することで感受を善なる方向に向かわせます。心の状態に対する気づきの瞑想実践においては心と思考を善で有益な方向へと向かわせます。


心の対象に対する気づきの瞑想

 サティパッターナスッタに説かれている四番目の気づきの土台はダンマーヌパッサナーです。ここで使われているダンマ(dhamma:法)は心の対象という意味であり、過去・現在・未来、身体的・精神的、条件に左右されるもの・条件に左右されないもの、真実・想像の産物、いずれもあてはまります。ダンマーヌパッサナーとはダンマを対象にした瞑想です。ダンマーヌパッサナーは気づきながら、以下のような様々な心の対象を対象として瞑想することです。

・五つの集中の障害、ニーヴァラナnīvaraṇa:蓋)

・生命を構成する五つの塊、カンダ(khandha蘊)

・六つの内部ないし外部の感覚基盤、サラーヤタナ(saļāyatana:六処)

・七つの覚りの要素、ボッジャンガ(bojjhaṇga:覚支)

・四つの聖なる真理、アリヤサッチャ(ariya-sacca:聖諦)

 サティsati:念)が十分に開発されると、心の対象に対する気づきの瞑想の領域に入り、それが瞑想の大部分を占めるようになります。心は水であり、思考は色であると考えてみてください。純粋な水には色も、臭いも、形もありません。水に色素を入れると、水はその色に染まります。しかしながら一緒に混ざっても水と色素は別物です。水と色素は異なる別々の実体です。私たちが何かを考える場合も同じで、心は思考の色に染まります。思考は、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)に達する支えになることもあれば、それを妨害することもあります。瞑想の障害すなわちニーヴァラナとなる思考には、官能的快楽による興奮、悪意、怠惰と無気力、不穏と心配、疑い、が含まれます、思考が支えになるにせよ、障害になるにせよ、心と思考はやはり異なります。心と思考は全く別物です。

 心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーとは、こうした障害が私たちの心にあるのか、無いのかを認識するという意味です。「涅槃へ達することに対する障害が増えているだろうか?もしそうであれば、その障害はどのように生じ、どうしたら克服できるのか?」心の対象に対する気づきの瞑想には生命を構成する五つの塊、カンダ(khandha)すなわち、感受、認知、意思による形成作用、意識、物質性を認識することも含まれます。「生命を構成する塊はどのように生じ、どのように消え去るのか?」

 サティsati:念)が良好であれば、心は自動的に障害から離れます。心は自動的に有益な方向へと向かいます。

私たちは音を聞きます。鳥のさえずりを聞きます。心の対象はさえずりの音であり、それは実のところ存在が認められるもの、ルーパ(rūpa:色)です。さえずりを聞いた時点では、それはただのさえずりの音です。そしてそれを知るのは心です。私たちはさえずりに対し安楽である、苦しみである、あるいは苦しくも安楽でもないと感じます。心の対象が感受になることを知ります。また、さえずりに対する感受が生じては滅していることを知ります。また感受から様々な思考が生じることを知ります。これらは全て心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーです。

 心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーは、心の対象が心であるという意味です。私たちは心により、心に注意を向け瞑想します。経験の対象が変わるにつれて心が次々と変化することを瞑想します。

 もう一つ例をあげます。私たちはブッダの教えを信じて、苦しみからの解放を目指して修行します。しかし、なんらかの理由で怒りが生じます。智慧と理解とともに何かをしているまさにその時に、私たちは怒りに圧倒され、信が消え去り、怒りをおぼえます。次の瞬間には怒りが消え去り、欲が生じます。ある対象から別の対象へと心は変化します。私たちの思考は変化していきます。思考が生じるやいなや直ちにその思考に気づくためには良好なサティが必要です。サティにより、心に怒りがある時には怒りがあると知り、欲がある時には欲があると知ります。どのような障害が心に生じてもサティによりそれを直ちに認識することが出来ます。

デイヴィッド:
 私はしょっちゅう怒りが生じます。

ペーマスィリ長老:
 サティがあれば怒りという有害な状態を観察し、ラベリングして先へと進むことが出来ます。これは砂糖の味見をするのと似ています。ある人が砂糖の味についての文章を読みます。しかし、味について読むことと、実際に砂糖の味見をすることは全く異なります。あなたは怒りについて読むのではなく、実際に観察します。サティが無ければ怒りを観察することは決して出来ません。

デイヴィッド:
 怒りが爆発して誰かを傷つけてしまわないかと心配になります。
(つづく)

翻訳:影山幸雄+翻訳部

お断り:一部のパーリ語のフォントが表記されないため、他のフォントで代用しておりますことをご了承ください。
     例:「l」字の下に点→「ļ」


       

    南裕子著 『幸せはわたしの中に そしてあなたの中に』 
                                 (ぶどう社 2015年)

子どもたちが生まれた時、「私は『なるべく試練の少ない、平穏な人生でありますように』と願った。今はそうは思わない。なぜなら自分の人生をふり返った時、両親との軋轢、借金苦、翔の障害、難病、癌と、様々な試練に見舞われたけれど、そのたびぶざまにもがき苦しみ、時間はかかっても、こんな私でさえ乗り越えることができた。そしてひとつの試練を越えるたび、成長していく自分を感じることができたからだ」
  28カ月で自閉症と診断された長男、翌日伝えた夫の「それがどうした。翔は、翔だろう。万が一その通りで、翔に障害があるとしても、俺たちふたりの子に変わりはないだろう。そんなことで人を差別するのか」の言葉に救われる。しかし、心の奥の「差別意識」には、なかなか決別することができなかった。
  3歳から地域養育センター、4歳の春には保育園、アトピーのある次男の誕生。小学校から高校卒業後「とまと」での弁当作りと配達に通うまでの、母親としての悩み、苦しみそして奮闘が、エピソードを交えながら、家族の成長の話とともに抑えた筆致で語られる。
  その間「潰瘍性大腸炎」という難病に罹患、51歳の誕生日には乳がんと告げられる。術後2年目の検診で再発が認められ、すでに手術は難しく、否応でも死後のことを思わざるを得なくなった。「私は長生きをして、子どもを見守ることはできない。けれども自分の病を受け入れ、自暴自棄になることなく最後を迎えてみせる。それが最後に、君たちに残せる『伝えるべきこと』だと思うから」との心境に至る。
  自閉症の長男は、「わずかなことばしか持たないのに、具合が悪くなった家族がいれば、自分の食事を中断しても布団を敷いてあげる。キッチンのシンクに汚れたコップがあれば、通りすがりにサッと洗って片付ける。翔に、『この話は内緒ね』は通じない。翔は嘘をつくことができないので。持ち帰ったお給料を、『それを全部ちょうだい』と言ったら、きっと差し出してくれる。翔の価値観は、お金を中心に回っていない。来客がたとえ王様だとしても、『こんにちは~』で終わり。反対に飼い犬の足を踏んだときは、犬に土下座をして謝っていた」
  エゴに振り回されながら生きる人々とどちらが人間らしいのか。健常というものとの境目が見えなくなる。
  「いいお母さんだった」などと思われなくていい。「なあんだ、お母さんがいなくなっても、なにも困らないじゃない」と思われたいと言う。
  慈悲の瞑想に通じる逸話もあり、柔らかな感じの文章が続くが、しなやかな強さが全体から滲み出てくるような印象の一冊であった。(雅)


 


   

  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -41- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング

(承前)
心の状態に対する気づきの瞑想

ペーマスィリ長老:
 サティパッターナスッタに説かれている三番目の気づきの土台はチッターヌパッサナー(citt
ānupassanā:心随観)です。チッタ(cittā:心)は心、意識、意識の状態と訳されています。ですから、チッターヌパッサナーの原意は気づきを絶やさずに、心を対象にして瞑想するという意味になりますが、チッターヌパッサナーは心の状態、意識を対象にした気づきの瞑想です。どのような対象であれ、それを覚知し、理解するのは心であるということを知ります。

 繰り返しになりますが、心の状態に対する気づきの瞑想を実践する方法は身体に対する気づきの瞑想、感受に対する気づきの瞑想と同じです。特定の気づきの土台から始めて、他の三つの気づきの土台へと発展させていきます。心の状態に対する気づきの瞑想実践の場合は、心の状態に対する気づきの瞑想の実践から始めて身体に対する気づきの瞑想、感受に対する気づきの瞑想、心の対象に対する気づきの瞑想へと進めていきます。

 あなたはテープレコーダーのことを考えているようです。テープレコーダーを対象にしているのはあなたの心です。心がテープレコーダーを対象にしていることを知る、それが心の状態に対する気づきの瞑想です。テープレコーダーが物質の基本要素から成り立っていることを知ることは身体に対する気づきの瞑想です。あなたにとってどれだけ大事なものか、安楽さをもたらすのか苦しさをもたらすのかなどテープレコーダーに関する経験を知るのが感受に対する気づきの瞑想です。そして最後に、これが、形が生じることであり、これが、形が消え去ることである、と知るのが心の対象に対する気づきの瞑想です。変化が起こっています。心の対象に対する気づきの瞑想には、これが集中の生起であり、これが集中の消滅であると知ることも含まれます。このように気づきの四つの土台を実践することで、私たちは完璧な気づきがある、善なる心の状態を確立します。

デイヴィッド:
 テープレコーダーについての瞑想が身体に対する気づきの瞑想、カーヤーヌパッサナー(k
āyānupassanā:身随観)になるのですか?

ペーマスィリ長老:
 そうです。それは身体に対する気づきの瞑想の中にある、四つの物質の要素の分析、ダートゥ・マナシカーラ(dh
ātu-manasikāra:四界の作意)の範疇に入ります。この時点で瞑想実践は心の対象に対する気づきの瞑想へと変わります。ここでダンマーヌパッサナー(dhammānupassanā:法随観)が生じて来ます。

 途絶えることなく心の状態に注意を向け瞑想すること、チッターヌパッサナーにより、心が未熟さから離れて熟練へと向かうようにすることが出来ます。これは身体と感受の瞑想実践と全く同じです。身体に対する気づきの瞑想実践においては、期待することなく行為を行うことで身体を善の方向へ向かわせます。感受に対する気づきの瞑想実践においては、感受の本質を観察することで感受を善なる方向に向かわせます。心の状態に対する気づきの瞑想実践においては心と思考を善で有益な方向へと向かわせます。


心の対象に対する気づきの瞑想

 サティパッターナスッタに説かれている四番目の気づきの土台はダンマーヌパッサナーです。ここで使われているダンマ(dhamma:法)は心の対象という意味であり、過去・現在・未来、身体的・精神的、条件に左右されるもの・条件に左右されないもの、真実・想像の産物、いずれもあてはまります。ダンマーヌパッサナーとはダンマを対象にした瞑想です。ダンマーヌパッサナーは気づきながら、以下のような様々な心の対象を対象として瞑想することです。

・五つの集中の障害、ニーヴァラナnīvaraṇa:蓋)

・生命を構成する五つの塊、カンダ(khandha蘊)

・六つの内部ないし外部の感覚基盤、サラーヤタナ(saļāyatana:六処)

・七つの覚りの要素、ボッジャンガ(bojjhaṇga:覚支)

・四つの聖なる真理、アリヤサッチャ(ariya-sacca:聖諦)

 サティsati:念)が十分に開発されると、心の対象に対する気づきの瞑想の領域に入り、それが瞑想の大部分を占めるようになります。心は水であり、思考は色であると考えてみてください。純粋な水には色も、臭いも、形もありません。水に色素を入れると、水はその色に染まります。しかしながら一緒に混ざっても水と色素は別物です。水と色素は異なる別々の実体です。私たちが何かを考える場合も同じで、心は思考の色に染まります。思考は、ニッバーナ(nibbāna:涅槃)に達する支えになることもあれば、それを妨害することもあります。瞑想の障害すなわちニーヴァラナとなる思考には、官能的快楽による興奮、悪意、怠惰と無気力、不穏と心配、疑い、が含まれます、思考が支えになるにせよ、障害になるにせよ、心と思考はやはり異なります。心と思考は全く別物です。

 心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーとは、こうした障害が私たちの心にあるのか、無いのかを認識するという意味です。「涅槃へ達することに対する障害が増えているだろうか?もしそうであれば、その障害はどのように生じ、どうしたら克服できるのか?」心の対象に対する気づきの瞑想には生命を構成する五つの塊、カンダ(khandha)すなわち、感受、認知、意思による形成作用、意識、物質性を認識することも含まれます。「生命を構成する塊はどのように生じ、どのように消え去るのか?」

 サティsati:念)が良好であれば、心は自動的に障害から離れます。心は自動的に有益な方向へと向かいます。

私たちは音を聞きます。鳥のさえずりを聞きます。心の対象はさえずりの音であり、それは実のところ存在が認められるもの、ルーパ(rūpa:色)です。さえずりを聞いた時点では、それはただのさえずりの音です。そしてそれを知るのは心です。私たちはさえずりに対し安楽である、苦しみである、あるいは苦しくも安楽でもないと感じます。心の対象が感受になることを知ります。また、さえずりに対する感受が生じては滅していることを知ります。また感受から様々な思考が生じることを知ります。これらは全て心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーです。

 心の対象に対する気づきの瞑想、ダンマーヌパッサナーは、心の対象が心であるという意味です。私たちは心により、心に注意を向け瞑想します。経験の対象が変わるにつれて心が次々と変化することを瞑想します。

 もう一つ例をあげます。私たちはブッダの教えを信じて、苦しみからの解放を目指して修行します。しかし、なんらかの理由で怒りが生じます。智慧と理解とともに何かをしているまさにその時に、私たちは怒りに圧倒され、信が消え去り、怒りをおぼえます。次の瞬間には怒りが消え去り、欲が生じます。ある対象から別の対象へと心は変化します。私たちの思考は変化していきます。思考が生じるやいなや直ちにその思考に気づくためには良好なサティが必要です。サティにより、心に怒りがある時には怒りがあると知り、欲がある時には欲があると知ります。どのような障害が心に生じてもサティによりそれを直ちに認識することが出来ます。

デイヴィッド:
 私はしょっちゅう怒りが生じます。

ペーマスィリ長老:
 サティがあれば怒りという有害な状態を観察し、ラベリングして先へと進むことが出来ます。これは砂糖の味見をするのと似ています。ある人が砂糖の味についての文章を読みます。しかし、味について読むことと、実際に砂糖の味見をすることは全く異なります。あなたは怒りについて読むのではなく、実際に観察します。サティが無ければ怒りを観察することは決して出来ません。

デイヴィッド:
 怒りが爆発して誰かを傷つけてしまわないかと心配になります。
(つづく)

翻訳:影山幸雄+翻訳部

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   読んでみました
    南裕子著 『幸せはわたしの中に そしてあなたの中に』 
                                 (ぶどう社 2015年)

子どもたちが生まれた時、「私は『なるべく試練の少ない、平穏な人生でありますように』と願った。今はそうは思わない。なぜなら自分の人生をふり返った時、両親との軋轢、借金苦、翔の障害、難病、癌と、様々な試練に見舞われたけれど、そのたびぶざまにもがき苦しみ、時間はかかっても、こんな私でさえ乗り越えることができた。そしてひとつの試練を越えるたび、成長していく自分を感じることができたからだ」
  28カ月で自閉症と診断された長男、翌日伝えた夫の「それがどうした。翔は、翔だろう。万が一その通りで、翔に障害があるとしても、俺たちふたりの子に変わりはないだろう。そんなことで人を差別するのか」の言葉に救われる。しかし、心の奥の「差別意識」には、なかなか決別することができなかった。
  3歳から地域養育センター、4歳の春には保育園、アトピーのある次男の誕生。小学校から高校卒業後「とまと」での弁当作りと配達に通うまでの、母親としての悩み、苦しみそして奮闘が、エピソードを交えながら、家族の成長の話とともに抑えた筆致で語られる。
  その間「潰瘍性大腸炎」という難病に罹患、51歳の誕生日には乳がんと告げられる。術後2年目の検診で再発が認められ、すでに手術は難しく、否応でも死後のことを思わざるを得なくなった。「私は長生きをして、子どもを見守ることはできない。けれども自分の病を受け入れ、自暴自棄になることなく最後を迎えてみせる。それが最後に、君たちに残せる『伝えるべきこと』だと思うから」との心境に至る。
  自閉症の長男は、「わずかなことばしか持たないのに、具合が悪くなった家族がいれば、自分の食事を中断しても布団を敷いてあげる。キッチンのシンクに汚れたコップがあれば、通りすがりにサッと洗って片付ける。翔に、『この話は内緒ね』は通じない。翔は嘘をつくことができないので。持ち帰ったお給料を、『それを全部ちょうだい』と言ったら、きっと差し出してくれる。翔の価値観は、お金を中心に回っていない。来客がたとえ王様だとしても、『こんにちは~』で終わり。反対に飼い犬の足を踏んだときは、犬に土下座をして謝っていた」
  エゴに振り回されながら生きる人々とどちらが人間らしいのか。健常というものとの境目が見えなくなる。
  「いいお母さんだった」などと思われなくていい。「なあんだ、お母さんがいなくなっても、なにも困らないじゃない」と思われたいと言う。
  慈悲の瞑想に通じる逸話もあり、柔らかな感じの文章が続くが、しなやかな強さが全体から滲み出てくるような印象の一冊であった。(雅)


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