月刊サティ!

2016年8月号 Monthly sati! August 2016


 今月の内容

 
  ブッダの瞑想と日々の修行  ~理解と実践のためのアドバイス~

        今月のテーマ:ラベリング(1) -その働きと付け方-
  ダンマ写真
   
Web会だより 『ヴィパッサナー瞑想との出会い』

  翻訳シリーズ 『瞑想は綱渡りのように』 -40-
  読んでみました 『驚きの介護民俗学』

                『解放老人』                 
  お知らせ

                     

『月刊サティ!』は、地橋先生の指導のもとに、広く、客観的視点の涵養を目指しています。  

    

   

  ブッダの瞑想と日々の修行 ~理解と実践のためのアドバイス~ 
                                                             地橋秀雄
  
今月のテーマ : ラベリング(1)  -その働きとつけ方- 
                     (おことわり)編集の関係で、(1)(2)・・・は必ずしも月を連ねてはおりません。 
 <ラベリングの基本>
Aさん:ラベリングと認識の関係について教えてください。

アドバイス:
 まずラベリングは対象の中に入らない、情報の中身には入らないというのが大原則です。
  「カァカァ」と聞こえたら、「からす」ではなくただ「音」「聞いた」とします。同じように赤でも紫でも色が出てきたなら「色」「見た」あるいは「イメージ」です。
  ここからはラベリングの威力の話になります。例えば「からす」とした人と「音」で止まった人はどこが違うかということです。もし「音」で止まれば、その先、スズメのチュンチュンだろうが犬のワンワンだろうが、「音」というラベリングの貼り方をするでしょう。そうすると、認識というのはラベリングの影響を必ず受けるので、自分の貼ったラベリングに沿うような認識になっていきます。つまり、そういう経験なのだ、「音」という経験なのだという見方に変わっていくのです。
  このように、現象に対する経験をどのようなラベリングで終了させるか、それがその人の認識の仕方に現れます。つまり、ラベリングの言葉は、その人がどのように現象を認識したかということとイコールだということです。したがって、その付け方によって、気づきの深さや客観視の程度まで解るわけです。
 もちろん、ラベリングは正確でなければなりません。認識の仕方をきちんと正しく捉えられるラベリングを使わなければ、心の変化は起きないのです。
  例えば、どんな色に対しても「見た」、どんな音に対してもただ「音」「聞いた」であれば、眼、耳に情報が接しただけの話です。このような、個々の対象の中身には入らない形でのラベリングは、すでにあらゆる現象から撤退する方向を向いています。ということは、心もすでにそちらを向いているわけで、これはそのまま欲や怒りを起こさない、煩悩を出さない訓練になるということです。
  こうして、言葉選択の方向性は、幸せになる技術という面からもたいへん重要なのです。
  対象の中身をいろいろ取捨選択しながら「好き」「嫌い」と反応しているのが世間です。「そういう反応をするな。中身に執着するな。それが幸せになる技術なのだ」ということです。面白い対象が出てこようが嫌いな対象が出てこようが、ただの音の現象、眼の現象という認知の仕方をして心は余裕綽々としている。対象から離れた、要するに無執着の心を作る一瞬一瞬、それがヴィパッサナー瞑想の訓練の現場です。
 

Bさん:中心対象から外れた時も、その外れたものに必ずラベリングして、行ったり来たりしています。


アドバイス:
  妄想が浮かんでそれに行ったり来たりしながらもサティが入っている、そういうことですね。これは、よく気づけていると言う意味では結構なのですが、オーソドックスな瞑想理論からは、集中力を高めていくためにやはり中心対象に帰るようにします。
  中心対象が感じられている時でも、他の妄想やら何やら、細かな泡みたいなものは観ようと思えば、いくらでも観えるのです。その泡みたいなものに対して行ったり来たりを繰り返していると、お腹の中心をもっと細かく細分化して生滅まで観ていくような仕事が出来なくなります。ですから、微かにチラチラしているような妄想は無視してください。それに対して、泡のようなものではなく、はっきりとお腹の感覚が消えてポーンと妄想が出た時には、立ち止まってしっかりラベリングを付けるのです。
  中心感覚が消えるほど強いものであれば何回ラベリングしても良いし、チラチラ程度のものには手を出さないで中心対象をもっと細かく観るようにします。一点に注意を絞り込み集中力(=サマーディ)を高めていく仕事と気づく仕事(=サティ)を並行して養っている状態と考えてください。ですから、微細なものにまで行ったり来たりは、基本的にはやらない方が良いでしょう。

<ラベリングの重要性>

Cさん:ヴィパッサナー瞑想でラベリングはなぜ重要なのですか。

アドバイス:
 
ラベリングを付けるのは、気づきという意識状態になっていくために必要かつ有効だからです。そしてもちろん、気づきがなければ妄想に引っ張られて心のコントロールは出来ないと言うことです。

  例えば、瞑想中に思考やイメージが出てきたとします。普通にはその時、「これは良くない」とか「もっと集中しよう」などと思うでしょうが、そう思ったところで心が統一されて思考やイメージの動きが止まるわけでもありません。因果関係によって次々に心は展開しますので、やはり妄想に巻き込まれる傾向は避けられないでしょう。つまり、心というものは心の法則に従って独自の展開をしていますので、基本的にコントロールが難しいわけです。自分が心を支配しているようでいて、実は心に振り回されている奴隷状態なのです。
  自然にしていれば心と心から生まれる感情に支配されてしまうのが私たちですが、サティという技法を使って一瞬一瞬気づきを打ち込んでゆくと、心が次々とかってに繋がっていくのを断ち切ることができます。サティというシステムの力を使えば心をコントロールすることも出来るのですが、それをきちっと訓練していくためにはどうしてもラベリングによって「妄想」「イメージ」「見ている」と言葉にすることから始めなければなりません。
  初心者の方にラベリングなしで歩く瞑想をしてごらんなさいと言うと大抵の方はすぐにサティが続かなくなります。ラベリングの力に頼ってなんとかサティを維持しているのが初心者の現状です。ラベリングの技術があるので、気づけるのです。ラベリングしないで「気づく心」だけを養おうとしても至難の業です。ですから最初はラベリングを丁寧に付けて一瞬一瞬の気づきを持続させることに集中しなければなりません。ラベリングに助けられながら気づく力(=サティ)が育ってくると、やがてラベリングなしのサティも入るようになるでしょう。
  「歩く」「座る」などの身体動作はセンセーションがはっきりしているのでラベリングなしでも出来そうです。実際ラベリングしない方が感覚をしっかり感じて集中できるのではないかと言う人もいるのですが、サマーディに偏ってサティが成長しないケースも多いのです。
  身随観はまだしも、心の微妙な動きや感情を随観する仕事は、言語による明確な認識確定効果を活用しないと不可能と言ってよいでしょう。さらに申せば、洞察の智慧というものはラベリングの進化(=認識の深まり)とともに養われていくものです。ですから慣れないとラベリングが面倒に感じるでしょうが、正確なラベリングが貼れる能力と智慧の発現は比例すると理解して正確なラベリングを心がけてください。
 

Dさん:ラベリングはどのように付ければ良いのでしょうか。

アドバイス:
 ラベリングは明確に言語で確認します。自己理解を深める、対象を明確に認識し確定するために、はっきりと言葉で断定的に言い切るという形です。

  心の現象であれば、これは「怒り」だ、「嫉妬」だというふうに断言すると終了できるのです。
  歩行やお腹の感覚の場合は、ラベリングは短めの方が望ましいでしょう。長いと言葉が感覚の展開に追いつかないからです。そうすると、順番待ちのようになって、いつまで経っても現在の瞬間に追いつけなくなります。中心対象に対しては記号的に、例えば膨らむ、縮むを「ふ」「ち」「ふ」「ち」と簡略化して、センセーションを感じることに集中するのも一理あると言えるでしょう。しかし原則として、サティの地力が付いていない初心者は丁寧にラベリングを練習した方がよいのです。
  また、ラベリングを外すことと局部的に省略することは違うので気をつけましょう。予定通りのラベリングを必ず付けなければと律儀に考えすぎる方に多いのですが、次の現象が起きてしまっているのに一つ前に戻ってラベリングしようとするのは間違いです。例えば、バランスが崩れて足が床に着いてしまったのに、一つ前の「進んだ」とラベリングしてから慌てて「着いた」とラベリングするような「巻き戻し」をやっていたのではいつまで経っても現在の瞬間を捉えることができなくなります。たとえ「進んだ」のサティが入らなかったとしても次の現象が明確に起きてしまったなら、潔く省略して「(足が)着いた」「(バランスが崩れ)よろめいた」と今の瞬間にサティを入れるのが原則です。
  基本的に「経験すること(感じること)」と「ラベリング」の比率は9対1ですから、感じたことを全てラベリングしようとするとラベリングだらけになってしまいます。ラベリングの個数を減らして、一つ一つの現象をよく観る、感じる、経験することが大事です。 


Eさん:ラベリングを付けないでもサティを入れられるでしょうか。

アドバイス:
  先ほども申したように、サティの地力が付いていない者にはラベリングを付けないでサティを入れられるのは短時間に限られるでしょう。「気づきの心」をラベリングなしで長時間続けるのは大変難しいのです。
  また、ラベリングを付けないとサティが入っていた証拠が出せないのです。
  私たちの普段の生活は、心が高速で相当スゴいことをしているにもかかわらず、それに気づかないでボーッと生きている状態です。それに対して、ヴィパッサナーの修行が深くなると、心がものすごい速さで生滅し、イメージが次々と転変しているのが分かるし、観えてくるのです。そんな時には高速すぎて一つ一つにラベリングは貼れませんから、自動的にラベリングなしのサティが入っていく状態になります。ラベリングなしで明確な気づきが連続しているのがはっきり観察できているのであればOKです。
  しかしそれは、合宿などでかなりトレーニングした結果体験するようなレベルで、普通はなかなかそうはいきません。「ラベリングなしのサティをちゃんとやっていました」と言う人がいますし、また実際そういうこともありますが、自己申告通り本当にできていたかどうかは疑わしい場合が多いですね。そういうわけで、ともかくラベリングが付けられていればサティが入っていた証拠になると言うことです。第三者に対しての証拠にもなるし、自分自身に対してもその瞬間サティの心が存在した証拠になるのです。先ずはきちんと基本が身に付くようにオーソドックスな修行に努めてください。


<ラベリングのポイント>

Fさん:ラベリングを付ける要点を教えてください。

アドバイス:
  先にも申しましたように、ラベリングで肝心なのは対象の中に入らないこと、つまり客観視の 要素が入っていることです。
  例えば、瞑想会に参加している時、「次は何やるんだろう」とポッと頭に浮かんだとします。それをそのまま「次は何やるんだろう」と心の中でオウム返ししただけでは客観視の要素があるか微妙です。ですがそれを括弧で括って、「(次は何をやるんだろう)と思った」とラベリングすれば、そういう思考をしたという確認になり、客観視が出来たことになります。
  このように、思考が出てきても、ラベリングによって今の自分の状態を客観的に正確に観ることができればそれで終わりになり、その結果、思考モードを離れて気づきモードに移ることが出来るということです。
  また別の角度から要点を言えば、センテンスや言葉で何か浮かんできた時には「妄想」「思考」とし、映像が出てきた時には「イメージ」「妄像」と仕分けてラベリングするのも良いでしょう。この仕分け方もヴィパッサナーが進んでいけば厳密になっていきますが、正確であるなら、とりあえず始めのうちは好きなようにやっていいのです。
  ラベリングは杓子定規にはいきません。こういうラベリングでなければ駄目だと考えると、言葉にとらわれて本来の仕事がやりづらくなってしまいます。

Gさん:ラベリングの言葉はどう選んだらよいのでしょうか。

アドバイス:
  アドバイス:瞑想修行中ということで考えてみましょう。例えば、一瞬特殊な感覚が頭皮に起こったとか、そういうものは、その瞬間に厳密な表現が出来なくてもまあ仕方がありません。原則としてラベリングの言葉探しに長々と考えてしまうのはバツですから、その時はただ「感じた」「感覚」とかするしかないでしょう。「違和感」などと即座に浮かんでくるとよいのでしょうが・・・。
  一過性の現象はその程度で良いのですが、お腹を中心対象にしている時にはそうはいきません。中心対象というのは一時的な現象ではなく、繰り返しずっと観るものです。したがって、それが曖昧な表現であったり、ずれた感じで付けているラベリングでは、実際に感じていることと違う認知をやっていることになるので良くないのです。
  ですから、もしいつもとは違う、固かったり緊張している感じがあったりして、その感覚が良く分かってしかも長く繰り返されている時には、「硬直している」とか「緊張している」とか、その現象に相応しい表現にします。
  実際に感じていることとズレたラベリングを長く続けているのは、まさに現実を正しく認識出来ずに、心が現実と食い違った妄想で占められていることになります。ところが正確なラベリングができれば、そのラベリングに触発されて「硬直しているのはお腹だけではないかもしれない」と観察のポイントがメンタルなものに向かい「心の緊張状態」に気づきが深まっていくかもしれません。正確なラベリングは、正しい認知の証しです。ありのままに現実を正しく観ることと、それを正確に認識することは不可分なのです。
  ところが瞬間的に正確なラベリングの言葉が浮かばないのが多くの人にとって悩みの種になっています。ラベリングの正確さにこだわってモタついていると現実から置いてきぼりにされてしまうし、現在の瞬間を逃さずに気づき続けようとすると当たらずとも遠からずの甘いラベリングで妥協しなければならない。・・・こうした不完全な印象の中でやっていくのが練習であり修行なのです。
  ではどうしたら良いかと言えば、洞察の眼を養い、正確に分析する力をつけ、ボキャブラリーを増やし、常日頃から正確な言葉を選んで話し、明晰な文章を書くように心がけるとラベリングは上達します。とても大変なことですが、智慧の人になるためにチャレンジしていきましょう。

Hさん:音を聞いた時に「音」とラベリングを入れ、それから「戻ります」とラベリングしてからお腹に戻しましたが、それで良いのでしょうか。

アドバイス:
  
それで結構です。もう少し厳密に言うと、ちゃんと音なら音を聞いてサティを入れ、その直後に「お腹に戻らなければ」という意志を感じた場合には、そういう心が生じたのですから、「(戻らなくては)と思った」あるいは「戻りたい」「戻ります」という形でラベリングし、それでフッとお腹に「膨らみ」「縮み」を感じた。これならマルです。

  ただ、「戻ります」というラベリングは微妙なところがあります。今お話ししたように、「お腹に帰らなくては」「戻りたい」「戻ろう」と現象として経験したならたいへん結構なのですが、そうではなく、機械的に「音」と付けて、掛け声のように「戻ります」と言ってお腹に帰っているのだとすると、ラベリングとしてはちょっとどうでしょうか。その瞬間の経験をどのように捉え認識したか、その言語的表現がラベリングだ、という定義からは、別に「戻ります」と言う必要はないのではないかという感じもします。「戻ります」と言わないとお腹の中心対象に意識が向けられないのなら、そう言うことに意味はあります。もしそうでもなければ、省略してもよいのではないでしょうか。

Iさん:私は、どこの感覚で捉えるかということを明確にしたい気持ちがあって、音がしたときに「聞いた」ではなく「耳」、「見た」ではなく「目」とういうふうにしていました。それで良いのでしょうか。

アドバイス:
 
方向としては、正しいです。ただ、これはシステムに沿ってきちんと進んでいくようになっています。あなたのそのラベリングは「六門確認」という技法なのです。全ては六門の現象に過ぎないと認識を深めていくのは段階的に進められていくべきなのです。まずその瞬間瞬間の自分の経験を自覚し、意識化する基本的な認識確定のラベリングを修練し、自分の人生を整理して捨てるべきものは捨て、残っている煩悩は煩悩としてありのままに心得ておく仕事が先です。それから全ての煩悩を手放し、この世から撤退していく方向に意識をフォーカスしていく。そういう段階に達した時にこの「六門確認」のラベリングが真価を発揮するのです。

  ですから、基礎トレーニングが終わっていない人がやってもうまくいきません。まず一瞬一瞬の自分の経験を自覚する具体的なラベリングが安定して付けられるようなサティの訓練が基盤になります。その上でのラベリングの変化、イコール認識の変化と間違いなく進めていくのがヴィパッサナーのシステムです。それにって着実に進められるよう頑張ってほしいです。(文責:編集部)

 今月のダンマ写真 ~
 ミャンマー、アーナンダ寺院 

     
               
 
 N.N.さん提供


    Web会だより  
『ヴィパッサナー瞑想との出会い』 森 健一郎
 私は、妻、子供2人の4人家族で暮らす43歳の公務員です。外からみれば一見、ある程度完成された一人前の男性と見えるかも知れません。しかし、私には学生の頃より20年以上、先天性の身体的理由により夢が断たれた所から始まる葛藤がありました。
  それは、「自分の一度しかない人生、本当にこれで良いのか?」という葛藤です。
  このような葛藤は、世に生まれ出た皆が感じることであるかも知れません。そして人それぞれが自分なりのやり方で受容していく、それが大人になるということだというのが一般的な考えかたと思われます。しかし、恥ずかしながら私にはそのことがいつまでも受容されることがありませんでした。
  受験、就職、転職、結婚、子供の誕生、昇進と時は流れ、子供の障害、難病の発覚等々いろいろありましたが、人生において何か一つ好きなことに打ち込んで何事かを成し遂げたい、いや、そうであらねばならないという考えが頭を離れることはありませんでした。
  幸か不幸か器用にも、表面上は浮世離れすること無く、現実を守りつつ生きていました。自分は五体満足で働けて、障害児を育てながら、こんな幼稚な悩みを持つ旦那を非難することのない妻に頭では感謝しつつも、最近は、この年になってもまだ自分探しをしている自分、この世の雑事に追いまくられている自分に、苦しさ、あせりというより、混乱、諦め、怒り、若干の寂しさ、を感じるようになっていました。
  そんな生活の中、自己啓発系の本を読み漁っているうちに、何冊かの本に「瞑想をすると本当の自分に出会う」という趣旨のことが載っており、瞑想について興味が湧いてきました。ただ、後にヴィパッサナー瞑想はそのような目的のものではないことを知るのですが・・・。
  勇んで参加した短期合宿の面接では、地橋先生より、身体的理由により挑戦すら出来ずに夢が断たれたのは、カルマが良くないこと、そして思考、妄想から夢や成功に執着して、自分から苦しくなる生き方をしているとの指摘を受けました。先生の一言一言に、両親のこと、子供たちへの接し方、目を逸らしてきた自分の醜い部分など思い当たる節があり、自分探し以前の問題でガックリしている自分に、「あなたのようなタイプの人は仏教の勉強をすると良いですよ」と励まして頂きました。
  初めて瞑想会に参加してから、1年が経過し、ようやく一日15分程度の瞑想が定着してきましたが、最近になって感じていることがあります。それは、ずっと自分は「貪」「瞋」のタイプだと考えていたのですが、どうも「痴」のタイプなのではないかということです。どんなに法に触れ、知識を吸収し、理解をして、反省したつもりになっていても、自分の想定を超える現実に不意に直面した時にはサティが入らず、入っても対象化はされず、あっさりと現象を掴んでしまうのです。
  「どうやら残念ながら自分には物事の理が見えておらず、智慧無き反応を繰り返してしまっている」とようやく気づき始めてきました。それからは、やったりやらなかったりだった瞑想も毎日続けるようになり、常に、「この考えこの行動は、真に智慧ある人間の考え、行動だろうか?」と自問する日々です。
  今までの人生の過程で様々な成功哲学、人生論、願望実現、自己啓発、スピリチュアル関係などに興味をもってきて、それらで救われることもありましたが、残念ながら根本的な解決には至りませんでした。しかし、解決に至らなかったおかげで、ヴィパッサナー瞑想と原始仏教の教えを学ぼうという気になりました。また、若い時であれば、原始仏教のちょっと厳しい考え方について行こうとは思えなかったかも知れませんが、思えば最良のタイミングで出会うことが出来たのかも知れません。

  短期合宿の最終日に先生は「さて、森さん、これからどうしますか?」と尋ねられました。
  1年経過した現在の答えは、「今のところ、ヴィパッサナー瞑想と仏教の教えを学び続け、実践すること以外になすべきこと、やりたいことは見当たりません」ということです。いつの日か自分の人生はこれで良かったのだと真に理解する日が来ることを信じて・・・。
  ん・・これも「執着」・・・なのかな?
  最後になりましたが、すべてのヴィパッサナー瞑想者の修行が進みますように。
 
              
 
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  翻訳シリーズ

瞑想は綱渡りのように -40- 
                 -ペーマスィリ長老と語る瞑想修行-
                              デイヴィッド・ヤング

(承前)
ペーマスィリ長老:サティが良好な時には、私たちの生活における全ての動作、瞬きから腕を伸ばす動作に至るまで全ての動作を四つの気づきの土台を通じて明瞭に観察します。動かしたいという気持ち、動かす動作、話すこと、目をこすること、書くこと、心で起こっていることに気づきます。気づきがさらに発展すると、四つの気づきの土台の関連にも気づきます。経験の中で生じる全てのことに完璧に気づきます。

感受に対する気づきの瞑想

サティパッターナ スッタ(Satipawwhāna sutta:念処経)に説かれている、四つの気づきの土台の二番目は感受に対する気づきの瞑想、ヴェーダナーヌパッサナー(vedanānupassanā:受随観)です。ヴェーダナー(vedanā:受)とアヌパッサナー(vedanānupassanā:随観)が組み合わさったものがヴェーダナーヌパッサナーであり、気づきを絶やさないようにして、感受を対象に瞑想することです。ヴェーダナーヌパッサナーは、感受を対象にした瞑想を、気づきとともに行うことです。身体と心に生じる感受に寄り添い、絶え間なく瞑想することです。感受には五種類あります。

1.安楽という身体の感受、カーイカスカヴェーダナー(kāyikasukha-vedanā:身の楽受)

2.苦しいという身体の感受、カーイカドゥッカヴェーダナー(kāyikadukkha-vedanā:身の苦受)

3.安楽という心の感受、チェータスィカスカヴェーダナー(cetasikasukha-vedanā:心の楽受)

4.苦しいという心の感受、チェータスィカスカヴェーダナー(cetasika dukkha -vedanā:心の楽受)

5.苦しくも安楽でもない感受、ウペッカー(upekkhā:不苦不楽受)

 感受は共通した要素です。最初の二つの感受、安楽という身体の感受、苦しいという身体の感受は身体、物質すなわちルーパ(rūpa:色)に関連します。次の二つ、安楽という心の感受、苦しいという心の感受は心理学的な感受、精神すなわちナーマ(nāma:名)に関連します。安楽という心の感受には喜びが含まれ、苦しいという心の感受には欲求不満と怒りが含まれます。五番目の種類の感受は苦しくも安楽でもない感受です。中立的な感受です。苦しくも安楽でもない身体ないし心の感受です。よくバランスがとれた心、嫌悪や執着から離れた心です。

 オートバイの事故であなたの友人が肩に怪我をします。彼女は心配になります。肩に不快な感覚があるのは確かです。しかし心配をすることにより、身体的な苦痛に心理的な苦痛が加わります。私たちは皆身体に苦しみの感覚を感じます。そしてそれを和らげるために手を尽くします。必要なら医師の診察を受けます。しかしながら、身体の苦しみの感覚だけではありません。身体の苦しみを心に取り込む、つまり身体の苦しみのことを考えてストレスを感じると、身体の苦しみは心理的な苦しみへと発展し、問題となります。本来必要のない問題です。その友人が自分の息子の話をする時、痛みのことを全て忘れてしまいます。息子のことを考えることで喜びが生じます。

 ブッダに石を投げつけたデーヴァダッタの話を憶えていますか? ブッダは足に怪我を負い、出血しました。比丘たちはブッダを王宮の医師であるジーヴァカの所へつれて行きました。治療を受けた後でブッダは僧院に戻りました。その夜、ジーヴァカは心配になりブッダの所に行きたいと思いました。しかし夜間は王宮の門は閉じられてしまうため、翌朝まで待たなければなりませんでした。

 「昨晩、怪我は痛んだでしょうか?」とジーヴァカは尋ねました。ブッダは「はい、足が少し痛みました。でも心に痛みは感じませんでした。」と答えました。ブッダは怪我のために身体に苦痛を感じましたが、その身体の痛みにより心乱れることは全くありませんでした。ブッダの場合、身体の苦痛はあっても心理的な苦しみはありません。これはアラハット(arahat:阿羅漢)も同じです。身体の苦しみは経験しますが、心に圧迫感を経験することはありません。

デイヴィッド:圧迫感とはどういう意味ですか?

ペーマスィリ長老:私たちは身体や心に重荷を背負うと圧迫感を感じます。この圧迫感は安楽であることもあれば、苦しいものであることもあります。例えば、友人が肩の痛みを訴えた時にあなたは苦しさを感じます。誰かがあなたと異なる見解を主張するとやはり苦しさを経験します。どちらの場合も精神的な苦しさを経験します。もちろん、なんらかの身体の苦しさを感じる場合もあります。

デイヴィッド:これは心身症的な苦しさですか?

ペーマスィリ長老:身体に何らかの苦しさを経験することはありますが、上記の二つの状況においては主に精神的な苦しさを経験しています。
  私たちは感受に対する気づきの瞑想、ヴェーダナーヌパッサナーを実践しますが、その方法は身体に対する気づきの瞑想と同じです。一つの気づきの土台から始めて、他の三つの気づきの土台へと発展させていきます。例えば、身体に対する気づきの瞑想はまず、食べること、飲むこと、呼吸、四つの物質の要素など身体の物質としての側面に注意を向けます。その後、感受に対する気づきの瞑想、心の状態に対する気づきの瞑想へと進み、最後に心の対象に対する気づきの瞑想へと発展させます。
  感受に対する気づきの瞑想は、生じてくる感受に気づくことから始めます。身体や心の感受が安楽なのか、苦しいのか、苦しくも安楽でもないのかを知覚します。安楽な感受、苦しい感受は私たちの心を示しています。安楽な感受、苦しい感受、安楽でもない楽しくもない感受をはっきりと確認します。そして残りの三つの気づきの土台へと発展させます。
  坐って瞑想していると膝が痛くなることが良くあります。この痛みを覚知することが感受に対する気づきの瞑想です。これが痛みの感受であることを知ります。そして、この痛みの感受が身体の一部である膝に生じたことを知ります。身体に痛みがあることを知ることが、感受に対する気づきの瞑想です。心の状態が善で有益なのか、不善で有害なのかを知ることは、心の状態に対する気づきの瞑想です。最後に、膝の痛みが生じて消え去ることを知るのが心の対象に対する気づきの瞑想です。膝の痛みが強くなったり弱くなったり変化することを知ります。

デイヴィッド:坐っている時の痛みは嫌いです。

ペーマスィリ長老:感受を経験するのは自分自身であり、他人が多くを語ることは出来ません。しかし、執着することなく自分の感受をよく調べて、「痛みとは何なのか?」と自分に問いかけてみてください。
  感受に対する気づきの瞑想により、感受をありのままに観察することが出来ます。そうすることにより、身体に苦しいという感受が生じても、心まで苦しむことは無くなります。その代わりに、苦しみに対する深い理解が生じてきます。

デイヴィッド:苦しさを安楽さに変えるのですか? あるいは苦しくも安楽でもない状態へと変えるのですか?

ペーマスィリ長老:身体の苦しさを経験したとしても、心の苦しさまで経験する必要はありません。身体の苦しさが生じても、心は苦しみません。身体の苦しさという感受を認識し、その苦しさという感受の本質を知ります。このようにすることで苦しさを巧みさへと変えていきます。

デイヴィッド:苦しさを保留するということですか? 

ペーマスィリ長老:これについて詳しく説明するためには、サティパッターナ スッタの内容にもっと踏み込む必要があります。ここではサティ、八正道のサティsati:念)に限定して議論したいと思います。(つづく)
翻訳:影山幸雄+翻訳部


       

   読んでみました
    六車由美著 『驚きの介護民俗学』 (医学書院 2012年)
    野村進著 『解放老人』 (講談社 2015)
 前者は大学で民俗学を教えていた著者が老人ホームの介護職員となり、聞き書きによって利用者たちの語る豊かな世界を綴ったもの。
 利用者の半数以上は認知症を患い、その言葉は一見すると意味の無いものと見なされがちだが、実はそうではない。しっかりと向き合えば、「その人の人生や生きてきた歴史や社会を織りなす布が形づくられていくように思う」と言う。「同じ問いの繰り返し」にも、実は予定調和として「同じ答えの繰り返し」が求められ、ある意味で民俗儀礼に似て、「安定が確保され」る。さらには、幻聴幻視のある利用者の話にも、「豊かな物語性に驚かされることが度々ある」と述べている。
  ここには、マニュアル化された「回想法」とは違う利用者との関係のあり方がある。日常的には常に介護「される側」にいる利用者が、知らない世界を教えてくれる師となり、能動的な「してあげる側」になる。たとえそれは一時的な関係ではあっても、そうした「ダイナミズムはターミナル期を迎えた高齢者の生活をより豊かにするきっかけとなるのではないか」と言うのである。

 「認知症の豊かな体験世界」という副題の後者は、著者が山形県南陽市の精神科病院の通称「重度認知症治療病棟」を長期取材したもの。そこには当初予期した「どんよりとした、重苦しい、灰色の世界」とばかりは言えない「ほのかな明るさ」があり、「外部から覗き見ただけでは分からない、別の生の実感」がその明るさに繋がっているのではないか、著者にはそんな仮説が生まれたという。その直感を、連日の訪問、たびたびの泊まり込み、お年寄りとの触れあいによる会話、あるいは患者どおしの関係や振る舞いを通して考えていこうとした。
  この病棟には山形県内から集まってきた50人近くのお年寄りが身を寄せる。シュールな幻想を語り続ける人、酒癖の悪さから入院となった事実を認めず、隙を見て抜け出し畑を見に行こうとする人、かつての職業の動作を繰り返しながら病棟のほぼ決まったコースを一日中歩き回る人、もの取られ妄想で罵詈雑言を叫び続ける人、戦争体験の記憶地獄から逃れられない人、年下の患者を姉と思ってどんなに嫌われてもまとわりついていく人等々、とても尽くせないほど幅の広いお年寄りたちの世界が広がっていた。
  自分を支えてきたものが、無慈悲にも剥ぎ取られていく時、それを乗り越える体力、知力はほとんど残されていない。「最も適応する力が衰えた時期に、最も厳しい適応を要求されている」(竹中星郎『老年精神科の病床』)というのが現実である。
  にもかかわず、著者は、「人生経験」「年の功」という体験の蓄積が病んだ脳にどう働きかけるかにひたすら思いを注ぎながら、「認知症を脳の病とだけ見るこれまでの視点は、認知症が秘めている豊かな可能性を、あたら切り捨ててしまう結果になってはいまいか」と考える。また、認知症患者の多くが癌の痛みに無縁な事実からも、「認知症は、終末期における適応の一様態とも見なすことが可能である」(大井玄『病から詩が生まれる』)とも。
  さらには、重度認知症のお年寄りたちには、「いわゆる悪知恵がまるでない。相手を出し抜いたり陥れたりは決してしないのである。それは単に病気のせいでは無いと思う。それは、俗世の汚れやら対面やらしがらみやらを削ぎ落として純化されつつある魂が、悪智恵を寄せ付けないのだ」として、「われらのいわば成れの果てが彼らではなく、逆に、われらの本来あるべき姿こそ彼らではないか」とまで思うに至る。
  その当否はともあれ、共通して既成のイメージに執らわれることの危うさを再確認させてくれる両書であった。(雅)  

 

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 <おしらせ>
 新「サティのひと言」をただいま準備中です。