月刊サティ!
―仏教を正しく理解するために― S.Dhammika 長老 |
(2011年5月号~12月号) 4.五戒 Q.仏教以外の宗教では、善悪を神の命令に基づいて判断します。あなた方仏教徒は神を信じないということですが、それではどうやって物事の善悪を判別するのですか。
A.もちろんあります。五戒が仏教徒の道徳の基本です。第一番目の戒律は生命を殺したり傷つけたりしない、二番目は盗みをしない、三番目は性的な過ちを犯さない、四番目は嘘をつかない、五番目は酒や人を酔わせるものをとらないことです。 5.再生 Q.私たち人間は何処から来て何処へ向かっているのですか。 Q .心はどのようにして一つの身体から次の身件へと移動するのですか。 A.心はラジオ波のようなものだと思ってください。ラジオ波は言葉や音楽ではありませんが、ある周波数のエネルギーが伝搬し、空間を移動して、受信機がそれを引き寄せて、キャッチし、言葉と音楽として放送されます。 心もこれによく似ています。死に際し、心のエネルギーは空間を伝わり、受精卵がこれを引き寄せ、キャッチします。 胎児が育つにつれ脳に中心を置くようになり、後に新しい人格として自分を「放送」することになります。 Q.人はいつも人間として再生するのですか。 A.いいえ。再生する可能性がある世界は六つあります。ある者は天界に再生し、あるものは地獄に再生し、またあるものは飢鬼として生まれたりします。 天界は場所と言うよりは存在の状態ととらえたほうが理にかなっています。そこでは生き物は微細な身体を持ち、心は主に楽しみを経験します。条件付けられた世界に共通することですが、天界も永続するものではなく、寿命が尽きれば再び人間として再生する可能性が十分にあります。同様に地獄も場所というよりは一つの存在様式です。 ここでは生命は微細な身体を持ち、心は主に不安と苦痛を経験します。餓鬼もまた存在様式の一つであり、やはり身体は微細で、心は絶えず渇望や不満に悩まされます。 このように、天界の生命は主に楽しみを、地獄の生命と餓鬼は主に苦しみを、人間は通常、苦しみと楽しみを経験します。人間界と他の世界の主な違いは身体の形態と経験の質です。 Q.死んだ後、どこに再生するのかは何が決めるのですか。 A.私たちがどこに再生しどのような生涯を送るのかを決める最も重要な要素は業です。ただし業だけというわけではありません。業という言葉の意味は行動で、意思を待った精神活動を指します。 言い換えれば、過去にどのように考え、行動したかが現在の私たちのあり方を決めます。同様に、今何を考え、どのように行動するかが将来の私たちの有り様を決めます。 柔和で、愛に満ちたタイプの人は天界に再生する傾向にあります。あるいは人間界に再生しても楽しい経験が多くなります。 心配性で、不安に満ち、ひどく残酷なタイプの人は地獄に再生する傾向にあります。あるいは人間界に再生し、不快な経験が主体の生涯を送ることになります。 異常な渇愛、激しい熱望、燃えるような野望、決して満たされることの無いこうした感情をつのらせてしまった人は、餓鬼に生まれ変わる傾向にあります。あるいは人間に生まれ変わりあれこれと欲しがり、欲求不満の生涯を送ります。 今生で増強した心の癖は何であれ単純に来世に持ち越されます。しかしながら多くの人は人間に再生します。 Q.すると業が私たちの全てを決めてしまうのではなく、私たち自身で業を変えることができるのですか。 A.もちろんできます。 だから聖なる八正道の構成要素の一つは完全なる努力になっています。私たちがどれだけ誠実になれるかにかかっています。どれだけのエネルギーを注ぎ、どのくらい強く習慣づけたかにかかっているのです。 しかし、単に過去生での習慣の影響を受けた生涯を送り、それを変えようと努力することも無く、不快な結果に甘んじている人たちがいることも事実です。そのような人たちは自分の良くない習慣を変えるまで苦しみ続けます。習慣が長く続けば続くほどそれを変えるのが難しくなります。 仏教徒はこのことを理解し、機会あるごとに不快な結果をもたらす心の癖をなおそうとします。そして快い結果をもたらす習慣を増強しようとします。瞑想は心の癖のパターンを修正する技法の一つです。 善い言葉を口にし、善くない言葉を謹む、あるいは善い行いを為し、善くない行いを謹むのです。仏教徒の生涯全体が心を清め解放するための訓練です。 例えば、忍耐強く親切であることが前世でのあなたの性格の際だった点であったとすると、その傾向は現世で再び現れることになります。現世でその性格を強化し増強すれば来世でさらに際だったものになります。 これは、長い時間をかけて確立した習慣を壊すのは難しいという、単純でだれにでも分かる事実に基づいています。 さて、あなたが忍耐強く、親切であれば、簡単には他人に腹をたてないようになります。人を恨むこともなく、皆から好かれ、より幸せな経験をするようになります。 もう一つ例をあげましょう。 過去生の心の癖により忍耐強く親切な人間になったとしましょう。しかし現世ではそのような傾向を増強する努力を怠ったとします。するとそれらの善い心の癖は徐々に弱まり、やがて消え去って、来世では全く無くなってしまうでしょう。 この場合う、忍耐と親切の心が弱いため、現世ないし来世で、短気で、怒りっぽく、残酷な性格になっていく可能性があります。 そしてそのような善くない態度がもたらす不快な経験に見舞われることになります。 最後にもう一つだけ例をあげましょう。 過去生での心の癖により、現世では短気で、怒りっぽく、残酷な傾向にあったとします。しかしそのような心の癖は不快をもたらすだけであると悟ったとします。 そうした心の癖を弱めることさえできれば、もちろん来世でも同様の心の癖は現れるとは思いますが、少し努力しただけでそれを根絶やしにし、善くない心がもたらす不快な結果を受けることがなくなるでしょう。 Q.再生についてたくさんのお話をされましたが、死んだら再生するという証拠はありますか。 A.仏教徒が信じる再生を支持する科学的証拠はあります。それだけでなく、来世の理論の中でそれを支持する証拠があるのは仏教だけです。天国の存在を証明する証拠は何一つありません。もちろん死後は何も存在しないという証拠も無いに違いありません。 しかし過去30年間、超心理学者たちは、過去生での記憶を鮮明に覚えている人々の報告を研究してきました。例えばイギリスに住む5歳の女の子は、現在の両親とは別の両親のことを思い出すことができると言い、まるで他の人の人生を語るように鮮明に話をしたそうです。 超心理学者が呼ばれ、何百という質問をしましたが全て的確に答えたそうです。女の子は過去生で住んでいたある村のことを話したそうですが、どうもスペインのようでした。住んでいた村の名前、通りの名前、近所の人たちの名前、そこでの日常生活の子細を語ったそうです。 そして涙ながらに車に轢かれ、その怪我がもとで二日後に亡くなったことを話しました。彼女の話の細かい点までチェックしましたが、間違いないことが判明しました。少女が告げた名前の村がスペインにありました。 また名前の上がった町角に彼女が表現した通りの家があったそうです。さらに、その家に住んでいた23歳の女性が5年前に交通事故で亡くなったということでした。 イギリスに住む5歳の少女が、スペインに行ったこともないのにこうしたこと全てを詳細に語ることなどできるでしょうか。 もちろんこの種の事例はこれに限りません。 バージニア大学、心理学部教授、イアン・スティーアンソン氏は彼の著作の中でこのような例を何十も挙げています。彼は公に認められた科学者であり、過去生を覚えている人々についての25年にわたる研究は、仏教で教える再生についての確固とした証拠です。 4.五戒 - 3 Q.過去生を思い出す能力は悪魔のなせる技だと言う人がいるかもしれません。 A.自分の信条に合わないものを全て悪魔の仕業として片付けてしまうことはできないでしょう。ある考えを支持する動かし難い事実があったら、それに反論するためには合理的、論理的に議論すべきです。悪魔を持ち出して非合理的で、迷信的な話をしてはいけません。 Q.再生について語ることもやや迷信的だと言えるのではないですか。 A.辞書を引くと「迷信」とは「根拠や事実に基づくことなく、魔術のような概念に結びついた信条」とあります。もしあなたが悪魔の存在を示す科学者の注意深い研究成果を持ち出すことができるなら、悪魔は迷信ではないと認めましょう。 しかしいまだかつて悪魔についての科学的研究を見たことがありません。だから私は悪魔が存在するという証拠は無いといっているのです。 たった今お話したように、再生が起こることを示唆する証拠はたくさんあります。少なくとも事実に基づいて再生を信じるならば、それを迷信とは言うことはできないと思います。 Q.そうですか。再生を信じる科学者は過去にもいたのですね。 A.はい。19世紀にイギリスの学校教育システムに科学が導入された際の責任者であり、ダーウィン理論を支持した最初の科学者であるトーマス・ハックスレーは生まれ変わりの考えを十分あり得ることだと信じていました。 名著『進化と倫理とその他のエッセー』の中で彼は言っています。 その由来が何であれ、輪廻の教義の中でバラモン教と仏教徒は宇宙から人間への道筋をうまく弁証する身近な方法を見いだしました。 そしてその正当化のための主張は他に比して確からしさの点で見劣りすることはありません。極めて軽率な思想家でもなければ、誰もばかげたことだと拒絶することはないでしょう。 進化論の教義そのものと同じように、輪廻の教義も現実の世界に根差しています。類推に基づく議論はそれを支持するのに十分であると主張できるでしょう。 スウェーデンの著名な天文学者で、物理学着で、アインシュタインの友人でもあるグスタフ・ストンバーグ教授も再生の概念は魅力的であると考えました。 人間の魂が地上に生まれ変わるかどうかについては意見が分かれます。 1936年にインドの政府当局が徹底的に調査し報告した大変興味深い事例があります。 デリー出身のシャンティー・デビーという少女が自分の過去生について正確に描写することができたと言います。彼女の過去生はデリーから500マイル離れたムットラという町で「その次の人生」が始まる2年前に終わったそうです。彼女は夫と子供の名前を言い当て、家とその生涯について語りました。 調査団は彼女を過去生の親戚のもとへ連れて行きました。親戚は彼女の訪を全て正しいと認めました。インドの人たちの間では生まれ変わりは普通に起こることとみなされています。 この事例で驚くべきことは少女が覚えていた数多くの事実です。この事例や、これに類似する複数の事例は、記憶は破壊されることが無いという理論のさらなる証拠とみなせると思います。 イギリスの卓越した科学者で、ユネスコの長官であったジュリアン・ハックスレー教授は、再生が科学的思考に合うものであると信じていました。 死に際し、永遠に生き続ける心という個性がなんらかの形で体から放たれる、特殊な働きをする送信装置から明確な無線メッセージとして放たれるということを否定するものはありません。 しかし無線メッセージは受信機、すなわち新しい物質構造に達しなければメッセージにならないことを忘れてはなりません。なんらかの形で身体を持たなければ考えたり感じたりすることはできません。私たちの個性はあまりにも身体に依存しているため、身体が無ければ、其の意味で個性と呼べるものが生き残ると想像するのは現実的に不可能です。 男でも女でも、無線のメッセージとして伝達装置に送られる何かが死ぬ時に放たれるとそのように考えることはできます。 しかしその場合死者は、目に見える形を保っている限り宇宙をさ迷う異なるパターンの障害以外の何物でもありまん。やがて心の受信装置として働く何かに接触し意識の現実へと戻るのです。 実際的で現実的なアメリカの実業家ヘンリー・フォードのような人でさえも再生の考えを受け入れています。フォードが再生という考えにひかれたのは、それが自分自身を向上させるための第2のチャンスを与えてくれるからです。フォードは言っています。 私は26歳の時に生まれ変わりの理論を受け入れました。宗教はこの点について何も的を得た答えを出してくれませんでした。仕事さえも完全な満足を与えてくれませんでした。一つの生涯で積み上げた経験を次の生涯で生かせなかったら仕事は不毛です。 生まれ変わりを知った時、まるで宇宙の計画を発見したような気分になりました。私の考えを実行するチャンスがあると知ったのです。もはや時間の制限はありません。私はもう時計の針の奴隷ではありません。才能は経験です。才能を誰かから与えられるもの、生まれつきの能力と考えている人もいるみたいですが、そうではなくて幾多の生涯での長い経験の結果です。 ある者は他人より経験豊かな心を持ち、より多くの事を知っています。生まれ変わりの発見により私は身軽になりました。この会話の記録を残すのであれば、人間の心が安らかになるように書いてください。長い目で人生を見ることにより得られる落ち着きを他の人にも伝えたいのです。 このように仏教における再生は科学的な根拠を持っています。論理的に一貫しており、人間の運命についての重要な問いに答えを出すところまで発展しています。また大変な安らぎを与えてくれます。たとえ今生で涅槃に達することができなくても、次の生涯でまたチャンスがあるとブッダは言っています。 今生で間違いを犯しても来世で間違いを正すことができます。真の意味で過ちから学ぶことができるのです。今生で実行したり成し遂げたりすることができなかった事も、来世でできる可能性が十分あります。なんとすばらしい教えではないでしょうか。 Q.これまでのお話全てが知的には満足できるものです。しかし正直まだ半信半疑です。 A.それで良いのです。あなた自身の理解に反するのに、仏教の考え方全てを信じるようにと強要することはありません。心の底ではとても信じられないのに、無理に信じさせたからといって、いったい何の意味があるでしょうか。 再生を信じなくとも、有益と思う事を実践し、理解したことを実行して利益を得てもかまいません。ひょっとしたらそのうちにあなたも再生の真実を知ることになるかもしれません。 6.瞑想 - 1 Q.瞑想とは何ですか。 A.瞑想とは心の働き方を変えようとする意統的な努力です。瞑想のことをパーリ語でバーヴァナーと言います。 「成長させる」「開発する」という意味です。 A.その通りです。善い人間になろうといかに願ったとしても、私たちの行動を決める欲望を変えることができなければ、自分を変えることは困難です。 例えば、ある人が妻に我慢できない自分を理解し、これからは妻に腹をたてないようにしようと誓ったとします。 しかし一時間後には自覚することなく怒りが生じて奥さんのことを怒鳴っているかもしれません。 瞑想は気づき、そして深く染み込んだ心の癖を変えるのに必要なエネルギーを育てます。 A.生きるためには塩が必要です。 しかし塩を1キログラム食べたらおそらく死んでしまうでしょう。現代生活には車が必要です。しかし交通ルールを守らず、飲酒運転をすれば車は凶器となり得ます。 瞑想も同じです。心の健康と福利に不可欠ですが、間違ったやり方で瞑想すると問題を起こす可能性があります。 抑うつ、理屈抜きの恐怖、統合失調症などの問題を抱えている人の中には、瞑想をその特効薬と考える人たちがいます。 彼らは瞑想を始めますが、時には症状が悪くなることもあります。こうした問題を持つ人たちはまず専門家の助言を求め、その後、症状が軽快したところで瞑想に着手するべきです。 瞑想を頑張り過ぎてしまう人たちもいます。瞑想を始めるのですが、ゆっくりと段階を追って修行するのではなく、過剰なエネルギーを注いで、長時間瞑想し、疲労困憊してしまいます。 しかし最もやっかいな問題を引き起こすのは、いわゆる「カンガルー瞑想」です。 ある指導者の所へ行き、しばらくはそのやり方で瞑想します。そのうち本で別のやり方を知り、それを試すことに決めます。1週間後に今度は有名な瞑想指導者が町を訪れ、その修行法の一部を自分の瞑想に取り入れようとします。程なく救いようのない混乱に陥ってしまいます。 ある指導者から他の指揮者へ、あるいは一つの瞑想法から別の瞑想法へとカンガルーのように飛び移るのは間違っています。 このように、あなたに重度の精神的問題がなく、瞑想に着手し、分別を持って修行するなら、それは自分の為にできる最善の行為の一つです。 Q.瞑想法は何種類あるのですか。 A.ブッダはたくさんの瞑想法を教えられました。それぞれが特定の問題を解決したり、特別な心の状態を育てたりする目的で考案されたものです。 しかしもっとも一般的で普通に行われている瞑想は、呼吸を念ずる瞑想(アナパナサティ)、と慈悲の瞑想(メツタバーヴァナー)です。 Q.呼吸を念ずる瞑想を実践したいと思ったらどのようにすれば良いのですか。 A.次のような四つの簡単なステップに従ってください。英語では四つの「P」、place(場所)、posture(姿勢)、practice(実践)、problems(問題)と表現されます。 まずは瞑想にふさわしい場所を探してください。あまりうるさくなく、邪魔されることがない部屋が良いでしょう。 次に楽な姿勢で坐ってください。足を組んで、お尻の下に座布を敷き、背中を真っ直ぐに伸ばし、手を重ねて膝の上に置き、目を閉じるのが良い姿勢です。背中を真っ直ぐにすれば椅子に坐ってもかまいません。 次は瞑想実践そのものです。目を閉じて静かに坐り、呼吸の出入りに集中します。呼吸の数を数えたり、あるいは腹部の膨らみ、縮みを観察したりすることで呼吸に集中することができます。 こうして瞑想を続けると問題や困難が生じます。身体が痒くていらいらしたり、膝が痛くなったりするかもしれません。こうしたことが起こったら、身体を動かさずにリラックスした状態を保つようにし、呼吸への集中を続けてください。おそらくたくさんの思考が心に浮かび邪魔をして、呼吸から注意がそれてしまうだろうと思います。 そうなったら、忍耐強く、そして穏やかに呼吸に注意を戻すようにしてください。このように注意を呼吸に戻す努力を続けるとやがて思考が静まり、集中が強くなって、深い心の落ち着きと平穏を経験するようになります。 Q.瞑想はどのくらいの時間続けたら良いですか。 A.最初の一週間は毎日15分瞑想するのが良いでしょう。その後は一週間ごとに5分ずつ瞑想時間を伸ばし、一日45分まで延長します。 毎日の瞑想を数週間続けると集中が良くなっていることがわかってくると思います。 Q.慈悲の瞑想についではどうですか。どのように実践したら良いですか。 A.呼吸への気づきに慣れて毎日実践するようになったら、慈悲の瞑想を始めてかまいません。 一週間に2、3回、呼吸への気づきが終わった後に慈悲の瞑想を実践してください。 最初は自分自身に注意を向け、「私は幸せでありますように、私は穏やかで落ち着いた人間でありますように、私が危険から守られますように、私は怒りの無い人でありますように、私の心が慈悲で満たされますように、私は幸せでありますように」と心の中で自分自身につぶやいてください。 その後は一人ずつ、始めは愛する人、次に好きでも嫌いでも無い人、最後に嫌いな人たちの幸せを自分自身と同じように願ってください。 Q.慈悲の瞑想にはどのような功徳がありますか。 A.慈悲の瞑想を正しい方法で毎日続けると、自分自身が善い方向に変わっていくのが分かるようになります。 これまで以上に自分を受け入れ、許すことができるようになります。愛する人々に対するのと同じ感情が増えていきます。これまで無関心で関わりが薄かった人たちとも友達になれます。 他人に対する悪意や恨みが弱まり、やがてはまったく無くなります。誰かが病気になったり、不幸に見舞われたり、災難に遭ったりしたら、そうした人々を慈悲の瞑想の対象にしてもかまいません。 慈悲の瞑想によってそのような人たちの状況が改善することがよくあります。 Q.なぜそのようなことが起るのですか。 A.正しく育てられた心は大変強力な道具となります。心のエネルギーを集中させ他者に送る方法を身につければ、相手に効果が現れる可能性があります。 あなた自身もそのような心の効果を経験されたことがあるかもしれません。 例えば混雑した部屋で誰かがあなたを見ているような感じを受けたとします。見回してみると確かに誰かがあなたを見ています。何が起こったかというと、あなたは心の中でその人の心のエネルギーを受け取ったのです。 慈悲の瞑想も同じです。私たちが善い心のエネルギーを送ると、相手はそれを受けて徐々に変わる可能性があります。 6.瞑想 - 2 Q.他にはどのような瞑想法がありますか。 A.はい。最後のしかし最も重要な瞑想法はヴィパッサナーと呼ばれています。 これは「見る」ないし「本質を見る」という意味で、通常、洞察瞑想と訳されています。 Q.洞察瞑想について説明して下さい。 A.洞察瞑想では瞑想者は何が起こっても、それについて考えたり、心を動かしたりしないでただ気づいているように努めます。 Q.洞察瞑想の目的は何ですか。 A.普通、私たちは何かを経験すると好きになったり嫌いになったり、考えを巡らしたり、夢をみたり、思い出したりします。 こうした反応は私たちの経験を歪め、ぼやけたものにしてしまいます。このため経験したことを正しく理解することができなくなります。 何の反応もせず気づいているように訓練すると、私たちがなぜ考えたり、話したり、行動したりするのかを理解するようになります。 そしてもちろんですが、自分で経験した知識が増えれば、それは私たちの人生に大変善い影響を及ぼします。洞察瞑想には他にも利点があります。 瞑想を始めてしばらくすると経験と自分自身との間にギャップが生じてきます。すると、それまでは誘惑や挑発に対して意識することなく自動的に反応していたものが、少し身を引いてそれをすべきか否か、あるいは行うにしても理由は何かを見極める余裕ができます。 こうして私たちは、今までよりも人生をコントロールすることが上手にできるようになります。強固な意志を育てたからではありません。単に物事を明瞭に見ることができるようになっただけです。 Q.すると洞察瞑想は私たちがより幸せで、より善い人間になるために役立つといっても良いのですね。 A.そうです、それが始まりです。大切な第一歩です。しかし瞑想の目的はもっと高尚なところにあります。 瞑想修行が熟し、気づきが深くなると、経験は私たちのものではなく、実際は「私」に関係なく起こり、それを生じさせる「私」は存在せず、経験している「私」もいないと分かるようになります。 最初はこのような事実がチラッ、チラッとわかるだけですが、時が経つに連れ、より明瞭になっていきます。 Q.なんだか怖いですね。 A.その通りですよね。実際、人によっては、最初にこのような経験をした時に少し脅えるかもしれません。 しかしすぐに恐怖は深い理解に変わります。それまでずっと自分とはこういうものだと考えてきたことが、実はそうではなかったと理解します。 徐々に自我は弱まり、やがて消え去ってしまいます。「私は」「私に」「私のもの」といった感覚も無くなります。この時点で初めて仏教徒の人生、そしてものの見方がまったく変わり始めます。考えてみてください。 多くの個人的・社会的問題、そして国際的問題さえもがエゴ、人種や国家のプライド、「不当に扱われた、侮辱された、脅された」という思いに端を発しています。 「これは私のものだ」「これは私に所有権がある」といった金切り声の叫びに端を発しています。 仏教によれば、本当の幸せは自分自身の正体を発見した時、初めて見つけることができます。これが悟りと呼ばれているものです。 Q.大変魅力的な考えですね。でも同時に危険な所もあるのではないでしょうか。悟りを開いた人は、自己や所有という感覚無しにどうやって役目を果たすのでしょうか。 A.なるほど。でも悟りを開いた人はきっとこう言うでしょう。自己という感覚を抱えてどうやって役目を果たすのですか。自分と他人の恐怖、嫉妬、悲哀、自尊心といった不快な物事にどうやって耐えていけると言うのでしょうか。これでもか、これでもかと掻き集めること、いつも隣人より良い立場に立ち、あわよくば出し抜こうという欲求、すべてを失ってしまうのではないかという悩ましい感情、こうしたことにうんざりしたことはないのですか。 悟りを開いた人は人生を実にうまく乗り切っているように見受けます。問題を抱え、新たな問題を引き起こすのは悟りを開いていない「私」や「あなた」の方です。 Q.わかりました。しかし悟りを開くまでとのくらいの期間瞑想しなければならないのでしょうか。 A.それは分からないし、あまり大事なことではありません。とにかく瞑想を始めてみて、自分がどう変化するか見てみたらいかがでしょう。 誠実に知性をもって修行に励めば、瞑想が生活の質を大きく改善することに気づくと思います。そのうち瞑想とダンマをより深く知りたいと思うようになるかもしれません。 後には瞑想が人生で最も大切なものになる可能性もあります。まだ旅の第一歩さえ踏み出していないのに、聖なる道の高い段階について推測したり心配したりはしないでください。一度に一歩ずつ進むようにしてください。 Q.瞑想を教えてくれる指導者は必要ですか。 A.どうしても指導者が必要というわけではありません。でも瞑想に熟達した人から個人的な指導を受けるのは間違いなく役にたちます。 残念ながら比丘や在家信者の一部は、自分が何をしているか分からずに瞑想指導者として看板を掲げています。評判が良く、人格のバランスがとれて、ブッダの教えに忠実に従う指導者を選ぶようにしてください。 Q.最近は多くの精神科医や心理学者が瞑想技法を使用するようになっていると聞いたことがありますが。 A.その通りです。現代では瞑想が心に対して高い治療効果をもつことが認められています。 現在、たくさんの精神衛生の専門家が瞑想を使ってリラックスさせたり、恐怖症を克服させたり、自分に対する気づきを導き出したりしています。 人間の心に対するブッダの洞察は遠い昔と同じように人々を助け続けています。 7.智慧と慈悲 Q.仏教徒が智慧と慈悲について話しているのをよく耳にします。この二つの用語の意味は何ですか。 A.一部の宗教は慈悲ないし愛(この二つは大変似ています)が最も重要な魂の特質と信じています。 しかし彼らは智慧について注意を向けることに失敗しています。結果として善い心を待った愚者、大変親切ではあるけれども、ほとんど、あるいは何も理解していない人で終わってしまいかねません。 科学のような別の思考体系は慈悲を含めた全ての感情を排除することで智慧を最もよく育てることができると信じています。そのため科学は結果のみに専心する傾向にあります。 科学は人をコントロールしたり支配したりするのではなく、人に役立つためにあるということを私たちは忘れてしまっています。そうでなければどうして科学者たちはその技術を核爆弾や細菌戦争に使ったのでしょうか。 仏教は真にバランスのとれた完璧な人間になるために智慧と慈悲を育てなければならないと敢えています。 Q.仏教における智慧とは何ですか。 A.最も優れた智慧は、すべての現象は不完全で、永続せず、自我をもたないという真理を悟ることです。このように理解することで私たちは解放され、涅槃と呼ばれる大いなる安心と幸福へと導かれるのです。 しかし、ブッダはただ聞いて理解するだけというレベルの智慧については価値を置いていません。聞いたことをただ信じるだけでは智慧とは言えません。本当の智慧とは自分自身で直接見て理解することです。 そのようなレベルに智慧が達すると、閉ざされた心は開かれた心へと変わり、それが続くようになります。偏狭な考えは無くなり、自分と異なる見方にも耳を傾けるようになります。砂に頭を埋めるように自分の信念に固執することはなくなり、自分の信条に反する事実についても注意深く検証するようになります。 偏見は無くなり、客観的に物事を見るようになります。強く感情に訴えるものや最初に提示されたものを単純に受け入れるのはやめ、時間をかけて意見や信条をまとめるようになります。 自分の信条に合わない事実が提示されたら、躊躇なく自分の考えを変えます。これが智慧というものです。このように実践する人は明らかに智慧があり、やがて真の理解を得ることは間違いないでしょう。 言われたことをただ信じるだけの道は簡単です。仏教徒の道は勇気と、忍耐と、柔軟性と、知性が必要なのです。 Q.そのようなことができる人はまずいないと思います。ごくわずかな人しか実戦できないとしたら、仏教に何の意味があるのでしょうか。 A.皆が仏教の真理を受け入れる状態にあるわけではないというのは真実です。 しかしたとえ現世でブッダの数えを理解できなかったとしても、来世で心が成長して理解できるようになる可能性はあります。 また適切な話をし、勇気づけるだけで理解を深めることができる人たちもたくさんいます。だから仏教徒は穏やかにそして静かに仏教の洞察を他者と分かち合おうと努力を続けるのです。 ブッダは慈悲の心で私たちに教えを説かれました。私たちもまた慈悲の心から他の人々に教えを説かなければなりません。 Q.仏教における慈悲とは何ですか。 A.智慧が知的な、あるいは理解を要する自然の側面をカバーするのと同じように、慈悲は情緒的、感情的な面をカバーします。 智慧と同じように、慈悲は人間だけが持つ特質です。慈悲は他者に強い同情心を抱くことです。 私たちは誰かが苦しんでいるのを見ると、痛みが自分のものであるかのように感じ、その人の痛みを取り除いたり軽減させたりしようと努力します。これが慈悲です。 人間が持つ最善のもの、そして分かち合い、安らぎを与え、同情し、関心を向け、世話をするといったブッダのような特質、これらすべてが慈悲の現れです。 慈悲深い人が他者に向ける思いやりや愛情は、その人自身に対する思いやりと愛情から生じたものであることが分かると思います。 私たちは自分自身を真に理解することで他者を最も良く理解することができるのです。 自分にとって何が最善か分かって、初めて他者にとって何が最善か分かります。自分自身に同情することができて、初めて他者にも同情できるようになります。 だから仏教では心が成長して花開くと、自然に他者の福利に関心が向くようになるのです。 ブッダの生涯はこの原則をよく表しています。ブッダは自分の福利を求めて6年間奮闘しましたが、その後人類全体に恩恵をもたらすことができるようになりました。 Q.自分自身を救った後ではじめて最もよく他者の手助けをすることができるというわけですね。それって少し利己的ではないですか。 A.私たちは普通、利他主義すなわち自分より先に他者のことを気遣うことは、利己主義すなわち他人よりもまず自分を尊重することと正反対であると考えます。 仏教における利他主義はそうではなく、二つが混ざったものです。 純粋な自分への気遣いは徐々に他者への気遣いへと熟していきます。 他者も自分もまったく同じであると理解するようになります。 これが純粋な慈悲です。 慈悲はブッダの教えの中で最も美しい宝です。 8.菜食主義 Q.仏教徒は菜食主義者でなければなりませんよね。 A.必ずしもそうとは言えません。ブッダご自身も菜食主義者ではありませんでした。弟子に菜食主義者になるようにと説いたこともありません。今日でさえ菜食主義者でない仏教徒はたくさんいます。仏典に次のような文章があります。 非道徳的な行為を為し、借金を踏み倒し、商売で詐欺を働き、人々を仲たがいさせること、これが人を不純にします。肉を食べたからではありません。」(小部経典スッタニパータ246&247) Q.しかし肉を食べれば、殺された動物に対する責任が生じます。五戒の一番目を破ったことになりませんか。 A.肉を食べれば間接的に、ないし部分的に生命の命を奪うことになり、それに対する責任が生じるのは確かです。 しかしそれは野菜を食べる場合も同じです。農夫は農薬を散布して、虫に食われていない野菜をあなた方の食卓に届けなければなりません。 またあなたのベルトやハンドバックを調達するために動物が殺されます。石鹸を作るための油や、その他にも多くの製品が生命の命を奪って作られます。 ある意味、他の生命の死に間接的に責任を負うことなく生きることは不可能です。これは普通の生命存在が苦しみであり、満足できるものではないという四聖諦の一番目のもう一つの例とも言えます。 五戒の一番目(殺生戒)を受け入れたら、他の生命の命を奪うことに直接加担しないようにしてください。 Q.大乗仏教の仏教徒は肉を食べません。 A.それは正しくありません。中国の大乗仏教は菜食主義を強調しましたが、日本、モンゴル、チベットでは比丘も在家信者も肉を食べます。 Q.でもやはり仏教徒は菜食主義者であるべきだと思うのですが。 A.ある人は厳格な菜食主義者だけれどもわがままで、不正直で、卑劣だったとします。またある人は菜食主義者ではないけれども他者を思いやり、正直で、寛大で、親切だったとします。この二人のどちらがより良い仏教徒でしょうか。 Q.正直で親切な人です。 A.なぜですか。 Q.そのような人は明らかに善い心を持っているからです。 A.その通りです。肉を食べてもきれいな心を持つことができるのは、肉を食べなくとも汚れた心の持ち主になる可能性があるのと全く同じです。 大事なのは心の質であって、食事の内容ではないと仏教は教えています。多くの人が肉を決して食べないようにと細心の注意を払いますが、わがままで、不正直で、残酷で、嫉妬深いことについてはあまり関心を示さないみたいです。 彼らは食事内容を変えますが、これは簡単なことです。一方で心を変えるという難しい作業はなおざりにします。 だからあなたが菜食主義者であろうがなかろうが、仏教では心をきれいにすることが最も大切な事であるということを忘れないでください。 Q.しかし仏教徒の観点からすれば、善い心を持ちかつ菜食主義の人の方が、善い心は持っているけれども菜食主義ではない人よりも善い人だということにはなりませんか。 A.もし善い心を持った菜食主義者がいて、動物への気づかいと残酷な現代の農産業に関わりたくないという気持ちから肉食を避けるのであれば、肉食主義者よりも高いレベルまで心を育てていることは間違いありません。 ダンマに従って心を育てると自然に菜食主義に向かうことに多くの人が気づいています。 Q.ブッダは腐った豚肉を食べたため亡くなったとだれかが言っていましたが本当ですか。 A.それは違います。経典にはブッダの最後の食事はsūkara maddavaという名前の料理であったと伝えています。この言葉の真の意味を知ることはもはやできませんが、sūkara は豚という意味であり、豚肉料理を指しているのかもしれません。 しかし野菜、ケーキ、その他の食べ物だったかもしれません。それが何であったとしても、この料理についての話から、一部の人々はそれを食べたためにブッダが亡くなったと考えるようになりました。ブッダは逝去された時80歳で、しばらく病気を患っていました。真相は老衰で亡くなったのだと思います。 9.幸運と運命 Q.魔術や占いについてブッダはどのように教えられたのですか。 A.ブッダは占い、魔除け、運勢の良い場所や日時を定めるといった行為は意味のない迷信であると考えておられました。弟子がそのようなことを実践することを明確に禁じていました。そのような行為はすべてレベルの低いトリックと呼んでいました。ブッダは次のようにおっしゃっています。 「一部の宗教家は信者が布施した食事で暮らす一方で、手相術、吉兆占い、夢判断、幸運や不運を呼び寄せること、縁起の良い建設地を選ぶことなどの低次元のトリックで生計を立てています。比丘ゴータマはそのような低レベルのトリック、誤った生計の手段には手を染めません」(長部経典1.戒蘊篇 梵網経 戒 大戒21-27) Q.それならなぜ人々はそのような事を信じて実践するのですか。 A.理由は貪欲と恐怖と無知です。仏教を理解すればすぐに、きれいな心は紙切れや金屑や呪文よりもはるかに効果的に自分を守ってくれることが分かると思います。もはやそのようなまやかしに頼ることはありません。 仏教では、正直、親切、理解、忍耐、寛大、寛容、忠義、その他の善い特質が真の意味で自分を守り、繁栄をもたらしてくれると敢えています。 Q.でもお守りが効く時もありますよね。 A.私の知人にお守りを売って儲けている人がいます。彼のお守りは幸運と繁栄を呼ぶと言い張り、宝くじの当選番号を予測できると保証しています。 でも彼の言うことが本当なら、なぜ彼自身は億万長者ではないのでしょうか。彼のお守りが本当に効くのなら、彼自身が毎週毎週宝くじに当選しないのはなぜでしょうか。彼が幸運だとすれば、彼のお守りを買うばかな人がいることです。 Q.幸運というようなものはありますか。 A.辞書を引くと、幸運とは「何かをする過程で良いことであれ、悪いことであれ、どのような事が起こっても、それを偶然、運命、運によるものだと信じること」と定義されています。ブッダはこのような考えを完全に否定しています。 すべての物事は一つないし複数の原因があって起こります。そして原因と結果の間にはなんらかの関係が必ずあります。例えば病気になる時はそれなりの原因があります。病原菌と接触する必要があり、また身体が弱っていて病原菌が易々と増殖できる状況になければなりません。 原因(病原菌と弱った身体)と結果(病気)の間には明確な関係があります。病原菌が生物を攻撃し病気を引き起こすことは誰でも知っています。しかし言葉を書いた紙切れを身につけることと、豊かになったり、試験に受かったりすることの間には関係を見いだすことはできません。 仏教は何が起ろうともそれは原因があってのことであり、幸運、チャンス、運命などによって起こったのではないと教えています。幸運に関心のある人はいつも何かを得ようとしています。より多くのお金や富を得たいと思っているのが普通です。ブッダは心を育てることのほうがずっと大事であると教えています。ブッダは次のように語られています。 「深く学び、熟達し、よく訓練され、良い言葉を話す、これが最高の幸運です。両親の面倒をみて、夫、妻、子供を大事にし、簡素な生活を送る、これが最高の幸運です。寛大で、親族を助け、行動に非の打ち所が無い、これが最高の幸運です。悪を避け、酒に溺れず、いかなるときも道徳がゆるがない、これが最高の幸運です。尊敬、謙遜、満足、感謝、法を聞くこと、これが最高の幸運です」(小部経典スッタニパータ261-266) (続く) (2012年1月~6月へ)→ |