月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~


            <欲望を回避する (1) (2) (3) (4)>)



欲望を回避する (1)

Aさん:欲望をどう抑制していくかについてお伺いします。たとえばサティを入れて食欲をコントロールしようとするのですが、結局は負けてしまって自己嫌悪という結果となることがあります。食欲に限らず、こうしたことはどう解決していけばよいのでしょうか。 

アドバイス:
  まず、少しでも欲望を制御し、執着を減らしていけば幸せに生きられるということ、最初にこのことをしっかり押さえておきましょう。
  ブッダが悟りを開かれた時になぜ伝道をためらわれたのかという質問が先ほど出されました。このテーマはその答えを基にして話しを進めるとよく理解されると思われますので、まずそこから始めることにいたします。

<生命の基本的エネルギー>
  ブッダが伝道をためらった理由について、経典には次のような詩句がブッダの心に浮かんだとあります。

  「困苦してわたしがさとり得たことを、今またどうして説くことができようか。貪りと瞋りに悩まされた人々が、この真理をさとることは容易ではない。これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ」

  そして続けて、「世尊がこのように省察しておられるときに、なにもしたくないという気持に心が傾いて、説法しようとは思わなかった」と書かれています。(注1)
  たびたび申し上げるのですが、私は原始仏教というのは、生命の基本的なエネルギーとは逆らう方向の教えであると思っています。どういうことかと言うと、生命というのは本来、何が何でも生存を続けたい、子孫を残したいという切実な思いが最強のプログラムとしてインプットされているということです。そのプログラムというのが貪りであり、怒りであり、生殖本能なのです。
  言い換えれば、欲望を貪るのは自身を生き長らえさせる原動力であり、怒りは敵に立ち向かって自分の生命を守る最強の武器なのです。また生殖本能が働かなければ、雌雄ある生命の存続が不可能であることは明らかです。
  ですから、それらを放置しておけば、生命は自ずとそれらのプログラムに沿った生き方になっていきます。さらに人間の場合には、地位や名誉や財産、また人間関係のもつれや不信なども加わって、なお複雑になります。ともかく、総じて生命の原初の姿というのは「貪って怒って苦しむもの」であると言っても良いのです。
  ところがブッダの教えは、「欲望を起こすのは真実の姿が分かっていないからであって、それに執着することが苦をもたらしている」「真実の姿を知って欲望を捨てることこそが究極の幸せへの道である」と言うものです。
  そして、苦しみを完全に無くすこと、苦しみからの完全な離脱、つまり解脱を目指して修行して、それが完成した時には、欲も怒りも完全に消滅してしまいます。これは突き詰めて言えば、生存欲を完璧に放棄してしまうということに他なりません。これはどう考えても、生命のエネルギーが本能として向かうベクトルとは逆方向です。
  このようなことから、阿羅漢というのは、阿羅漢になった瞬間にその場で出家するか死ぬかどっちかだと言われているのです。
  つまり、欲も怒りも完璧にゼロ、完全な無欲状態のままでは、もはやこの世では生命として存在し得ないようなことですから。まして私たちのように在家として生活している限り、「完全な無欲状態で生きていく」というのはもともと相容れない話なのです。
  このようなわけで、ブッダはご自身の悟られた真理がこの世に生きる人々に受け入れ難いものであるとの思いから、伝道をためらわれました。ここは本当にとても難しいところです。「貪瞋痴を無くしてしまえ」などと言うのはそもそも生命のプログラムに反するのですから。そういう意味では、仏教はなかなか分かってもらえそうにないという本質を持っています。

<利他心は準備されている>
  それでは、私たちに望みは無いのでしょうか?決してそうではありません。貪瞋痴を減らした分だけ人生から苦しみが無くなると言うのは厳然たる事実です。完璧にゼロには出来ないけれど、少し欲望にブレーキをかけてみよう、執着は思い切って止めましょう、そうすれば苦しみが減って幸せに生きられますよ、と言うことです。
  ブッダも在家の人に向けた経典では、この世で幸せに生きていくために相手に合わせてさまざまに法を説いています。それでも、貪瞋痴を「減らしていこう」と言うのさえ、生命の本質に逆らうものではないかと思われるかも知れません。
  確かに、生命の原初としての本能、生きること、子孫を残すことがその全てであるという場合には、そういう理屈になるでしょう。
  しかし、実は生命には、本能の働きを抑制する働きもすでに器質的に備わっているのです。以前に取り上げましたが、哺乳類で発達してきた脳、大脳新皮質の働きがこれに関連しています。もちろん種によってその程度は違っていますが、高等哺乳類、類人猿そして人間と、大脳新皮質は大きく発達を遂げてきました。(注2)
  たとえば象はハンデを背負った仲間を助けますが、これは他の仲間を個として見、それがどういう状態になっているかを認識する力がなければ出来ません。ボノボなどは強者が弱者にエサを分配し、食べものを共有します。あるいは動物同士が種を越えて面倒を見るとか、本能的な働きだけとは考えられないようなことさえあります。よくテレビでも取り上げられますので、見られたこともあると思います。
  最近では、京都大学のグループによって発表された、「前言語期にある10カ月の乳児が、苦境にある他者に対して原初的な同情的態度をとる」とされた研究もあり、さらには、「この苦境にある他者への反応は、後に発達する、より成熟した同情行動の基盤となっている可能性が考えられます」と結論づけています。(注3)
  こうした利他的な行為は、他の脳と連動しながら複雑で高度な働きをしている大脳新皮質によるものです。特に人間では、大脳新皮質の中でも発達した前頭葉の働きの重要な一つでもあります。つまりここで強調したいことは、本能的な働きをある程度抑制して利他的行動を促す脳が、高等哺乳類と呼ばれるものたち、類人猿、そして人類へと、器質的にすでに組み込まれているということです。したがって、本能をむき出しにしないで生きる、欲望や怒りを抑制して互いに支え合いながら生きていこうとする、そのような働きは、生物学的に言っても当然あるはずの姿なのだと言えるのです。
  しかし、そうした働きが常に自動的に起きるかというと、そうではありません。人間で言えば、信念を持って利他的な行動をする人もいれば、貪瞋痴のまま生きているように見える人もいます。また同一人物でも条件によって変わるのは常に経験することです。抑制する力は誰でも例外なく備えているはずなのに、放っておけば欲望のまま、また人間特有の欲求も起きて来て、苦しみから逃れられません。
  苦しみを少なくして幸せに生きるためには、私たちにはどうしても学習や訓練が必要なのです。仏教はそこのところをとても大切にします。これが仏教の考え方なのです。なぜなら、すべては因果関係で起こること、学習、訓練があって初めて確かな抑制力を自分のものに出来るからです。まずこの点をよく理解してください。
  では、欲望を制御する心と力を育てるための学習、訓練を仏教はどのように説いているでしょうか。かつて『月刊サティ!』紙上において、このテーマを正面から取り上げて解説いたしました。(注4)
  まず『大苦蘊経』から、苦を滅するためにはその原因となる欲、怒り、無明、そういうものを乗り越え、捨ててしまわなければならない、それしか方法はないというのが原始仏教の立場だということを述べました。これが大前提です。
  次に『清浄道論』では瞑想修行に焦点を当て、瞑想の妨げとなる煩悩をどのように断っていくかについて五つの道を紹介しました。
  そして『考相経』によって、不善心を回避する五つの方法として①対抗思念(善を伴った相を作る)、②危難の観察(危険要素のチェック)、③不念(考えない)、④思考の形成相(分析論)、⑤抑止(終了宣言)について解説いたしました。
  さらに、モッガラーナ尊者が説かれた『推理経』を取り上げました。これは、今日の自分は悪を避け善を為す方向に誤りなく向いていたか、一つ一つの行いを点検、省察し、間違っているところがあったら正していこうという、実に具体的で親切な助言となっています。
  なお、欲望に関しては「不浄随念」という一種の概念を使って抑制する修行法があります。ただ、これは合宿などで個々の状況をよく把握したうえで一対一での指導が基本ですので、ここでは、そのようなやり方もありますと言うことに留めます。これらはいずれも仏教が説いている正攻法的なやり方ですが、今回は質問の意図に添う意味で、普段の生活で実践するためのいろいろな対策をアドバイス:していきたいと思います。(つづく)(文責:編集部 )

(注)
)中村元編『原始仏典』筑摩書房 1974
)『月刊サティ!』 200812月号の「煩悩から離れるために-『大苦蘊経』と『推理経』- (1)
) 20136 13日、鹿子木康弘 (かなこぎやすひろ)教育学研究科特定助教らによる研究発表
)『月刊サティ!』『大苦蘊経』『清浄道論』『推理経』は2008.122009.3の「煩悩から離れるために-『大苦蘊経』と『推理経』-」というテーマで、『考相経』は2008.10の「不善心を回避する五つの方法-『考相経』から- ()」で解説しています。


欲望を回避する (2)

アドバイス:
  前回は、貪瞋痴を減らして欲望を抑制しようとする時には、どうしても学習と訓練によらなければならないということを述べました。
  今回はそれを受けて、日常生活で実践するためのさまざまな対策を挙げていきます。初めにヴィパッサナー瞑想からの正攻法とも言える方法、次に、仏教的に望ましい日常的なさまざまな工夫について見ていきます。

1.撤退と特化
  前回述べましたように、私たちの欲望や怒りは生命の本質から生じて来るのに加え、評価されたい、尊敬されたい、侮られた、裏切られたなどの、人間に特徴的なものとしても生み出されてきます。また欲望に関して言えば、すべては必ず思考のプロセスをたどって生まれてきます。どういうことかと言うと、欲望が起きる前には、私たちは必ずそれを刺激されるような思考をしていて、その因果関係によって欲望が生まれてくるからです。
  そこで、それらの欲望に対してどう対処していくかですが、第一義的には私たちが行っているサティの訓練という正面からのやり方で、撤退と特化があります。
  まず、心の中に不善心、欲望を刺激するような思考が浮かんだ瞬間、すかさずサティを入れて見送ってしまいます。ですが、もしその瞬間に気づかず思考が進んだ時には、その思考をしているという事実に鋭くサティを入れてストップします。いずれの場合も的確なラベリングが大いに助けになります。このようにして、その思考から連なって生じて来るであろう欲望、あるいはその他の煩悩を回避します。これが第一の対処法で「撤退」と言います。これは「純粋な気づき」という仕事の面から言える正攻法です。
  次は「特化」です。これは対象の本質をよく観て原因を突き止め、理解して離れるという、少し対象に踏み込んでいく対処法です。そのためには洞察智、すなわちものごとの本質を見通す智慧を育てなくてはなりません。もう少し詳しく言うと、洞察智というのは、サティを訓練してありのままを捉え、概念と事実とを識別する力を養い、その結果として対象の本質を鋭く洞察し直覚する智慧のことです。しかしこの洞察智は、厳密にはヴィパッサナー瞑想においてサマーディという非常に集中が高まったところでサティを純粋に機能させる、その状態になってはじめて起きてきます。ですから、はっきり言ってこれはとても難しいですし、プロの比丘でさえ何年も命がけで修行してというようなレベルではあります。
  しかし、たとえそのレベルまではいかなくても、私たちにも出来ることがあります。もちろん、努力に応じた結果も得られます。ヴィパッサナー修行によって少しでもエゴが薄まっていったところでサティが入るようになれば、たとえば「(チョコレートを食べたい)と思った」であれば、「(仕事の)焦り」とか「 (人間関係の)寂しさ」と言った気づきが飛び出してくるかも知れませんし、幼かった時に買ってもらえなかった「悔しさ」とか、それで感じた「(親への)憤り」など、普段は気づかなかった心の奥のものが浮かんできて、根本的な問題がどこにあったのかを教えてくれます。そうなったら、それをあるがままに認めて解消に向かって進みます。何時も申し上げることですがこれがヴィパッサナー瞑想の順路です。これは対象に焦点を絞るやり方で「特化」と言います。
  付け加えれば、「撤退」においてもそうでしたが、特に「特化」の訓練には的確なラベリングが不可決です。そのために、できるだけボキャブラリーを豊富にするように努めてください。なぜかと言えば、例えば、単に「妄想」ではなく過去か未来かで「回想」とか「計画」に分ける、「と思った」「思考」だけではなく、「羨望」「批判」「優越感」「わがまま」「後悔」などと仕分けをする、それが直感的に出て来るのは豊富なボキャブラリーが背景となってこの作業を助けてくれるからです。ただし、「何をつけようか?」と考え込んでは訓練になりませんので気をつけてください。より的確なラベリングがピタッと付くということは、その現象、事象がよく把握出来ているということ、つまりものごとを正確に認識していることを表しています。

2.環境設定へのさまざまな工夫
  さらに、このような、いわば正攻法としての対処以外に、さまざまに工夫して欲望を避けることも現実にはとても大事なことです。結果として欲望を少なく出来たなら、心の清浄道としては正解なのです。
  私は中でも、広い意味での環境設定が最も大切だと考えています。たやすく煩悩の世界にアクセス出来るような環境はやはり脆いところがあります。一方、例えば生命自体が危機に陥ったりすれば当然それに応じた欲求が生まれますし、何を求めるかという構造は条件によって全く変わってしまうものです。
  ですから、できる限り環境を整えてその力を良い方向に利用してください。そうすることが、単に欲望に限らず煩悩を抑制するだけではなく、瞑想修行を進める上でもとても大きな力となるのです。
  では、具体的な例をいろいろ挙げていきますので、それらを参考にしながら自分なりにいろいろ工夫をしてみてください。そして、自分に最も効果的なやり方を見出していきましょう。

 1)外的環境の工夫
  かつて私が瞑想を教えていた30代前半の男性が、スリランカの森の中の僧院で何カ月か修行した時の報告ですが、その間、全く異性のことが意識に上らなかったと言います。そこは新聞もラジオも無く、夜はアルコールランプ、周囲には仲間が修行をしているという、朝から晩まで瞑想に打ち込める、まさに結界とも言える清浄とした気に満たされた環境です。私もそこに滞在したことがありますが、ただ坐っただけで修行がぐんぐん引き上げられるような感覚を受けました。このように、外的な環境が及ぼす影響は智慧の大きな条件と言われているほど大きいのです。
  ですから、私たちはそのような環境を今すぐに求めることは出来ませんが、可能な限り清らかで清潔な所に住むと良いのです。しかし、現実的な工夫としては、現在の住まいという条件のもとで、まずは今の部屋を整理整頓して自分の身辺をすっきりさせることから始めてください。乱雑な状態が目に入れば心もその影響を受けて混乱します。部屋を掃除して整理すれば心の中もすっきりしてものの順序が付いてきますので、脳内に溜められたデータも効率的に働かせやすくなります。
  部屋を整理するだけでも心の混乱は鎮静化します。そうすると理性も働くようになり、煩悩のエネルギーは静まっていきます。ちょっと整理しただけで気分が良くなり落ち着いてリラックス出来たというようなことは、ごく普通の経験としてどなたもお持ちでしょう。ともかく、外的環境が整うということは心が整うということに対応しているのです。
  この逆の例で、信じ切っていた異性に裏切られたあまりのショックで心が混乱し、部屋ももう足の踏み場もないくらいになってしまったというような話もありました。逆説めきますが、やっかいなことにそのように心が混乱してわけが分からなくなっている時は、掃除をやろうという気さえ起きて来ないものです。
  しかし今は、部屋をすっきりさせると心の混乱も鎮まるということ、これをデータとして常に心に入れておいてください。なぜなら、私たちは多かれ少なかれ日常的に混乱と向き合っているのですから。とりあえずは外的な環境を整理する、まずは部屋を掃除することを心がけましょう。
  次に、整理整頓が済んだら今度は聖なるもの善なるものを目につくところに置いておくことを勧めます。ご家族など他の条件も考慮しながら、自分の出来る範囲で仏像やダンマカード等々、自分の心に善い効果を与えるものを目に触れるようにしておくのです。街で見られる標語や看板の表現の形は同様のパターンですし、企業の社訓であるとかスポーツの必勝スローガンなどもこれに類するものと言えるでしょう。私たちは仏教徒ですから、ぜひ座右の銘のようにブッダの言葉や画像などを身近にするような工夫をされたら良いのではないでしょうか。
  神戸市の三ノ宮駅前では、あまりの放置自転車の多さに人の目のアップ写真を看板にしたところ、違法駐輪が激減したそうです。見られている感覚の効果であろうということです。これは「不善行為防止版」ですが、ぜひ「善行為推進版」とか「煩悩削減版」を工夫してください。(つづく)(文責:編集部)

欲望を回避する (3)

アドバイス:
  前回お話ししましたように、環境というのは欲望の抑止に限らずたいへん大きな影響力があります。思うように修行できなかったり欲望に負けそうになると、修行者は悪戦苦闘しながらもなんとか頑張って自力で立て直そうとします。自分の身は自分で処する、もちろん結果が良ければ結構ですが、うまくいかないと修行への意欲が弱まってしまうことも無いとは言えません。
  修行が後戻りしないところまで行くのは本当に大変で、少し油断すると、やはり人はどうしようもなく流されるのです。ちょうど自転車で坂道を登っているようなもので、ペダルをこぐのを止めてしまうと、エゴが現れてきて煩悩的な発想に戻ってしまうのです。そして、分かっていても妄想が止まらない、不善心所を抑えられないというふうに、次々と展開していきます。
  ですから、常に努力して心をきれいにしようという決意はもちろんですが、修行モードに自然と戻れるような、あるいは否応なく軌道修正されるような環境設定が非常に重要になります。そこで今月は、先月の住空間の他にも、いろいろ 整えるべき環境があるということをお話ししたいと思います。

  2)人間環境を整える
  これは、人間関係で悩んでいる人に、何が何でも努力して修復しなさいという話ではありません。人間関係の問題はそれだけでひとつの課題ですので、別に取り上げます。ここでは、互いに良い影響を与え合う人間関係を積極的に結ぶように心がけましょうと言うことです。つまり、善い人々と交わる機会を生活の一部に組み込むのです。瞑想できる人、進んでいる人と付き合う。必ず自分を高めてくれるような善き友、法友と縁を結ぶことです。
  経典に有名な話があります。ある時、アーナンダはブッダに次のように問いかけました。(〔 〕内は訳者による)

「尊いお方様。よき友人、よき同志、よき仲間のあるだけでは、清らかな修行〔を行う環境として〕は、半ばであると思います」

するとブッダは、「アーナンダよ。そうではない。そうではない。実に、よき友人、よき同志、よき仲間のあることは、清らかな修行〔を行う環境として〕は、完全なのだ。アーナンダよ。よき友人、よき同志、よき仲間のあるその修行者には、次のことが期待される。〔すなわち〕八つの正しい道(八正道)を修行すること、八つの正しい道をくりかえし修行することである」と説かれました。(注1)
  例えば瞑想会に来ると、皆さんそれぞれかなりのテンションで修行しています。誰もが自宅で行う瞑想とはまた違うモードで頑張っています。そうすると、お互いに合わせ鏡のように刺激を受け合って高められ、賦活するでしょう。瞑想会は非日常的な空間ですから、そこに身を置けば当然それなりの影響は受けるのです。
  「類は友を呼ぶ」と言います。そういう善き友に定期的、周期的に会う機会を積極的に求め、またそれが継続するように努めてください。

3)体内環境を整える
  体内環境と言っても、ここでは「食べること」に限った話になりますが、良い瞑想のためには必要な栄養素はきちんと摂って、消化に負担をかけないために全体の量は少なく、そうして体の環境を整えていきます。
  好きなだけ食べていたら瞑想は全くダメだというのは確定的です。これは明白に検証出来ます。少食にしない限り体は濁り、心も鈍重になって良い瞑想は出来ません。瞑想者にとって食の取り方と言うのは、より直截的に言えば「何のために生きているか」という話にもなります。つまり、食べたいだけ食べて頭をぼんやりさせ眠気に流される、瞑想する人はそんなことのために生きているのではないのだ、と言うことです。
  しかし初めのうちは、何度も痛い目にあって、つまり食欲に流されたために「瞑想が全然出来ない」「やっぱりだめか」「情けない」等々の経験をして、ようやく体に叩き込まれるというプロセスをたどる例が少なくありません。消化力などにより個人差はありますが、どこかで骨身に染みると、否応なく少食への自覚が身に付くのです。
  さらに、食事のコントロールがうまくいった上で瞑想に打ち込めば、食べる快楽よりも良い瞑想が出来た時の方が百倍も千倍も素晴らしいことが分かってきます。そうすると自ずから普段食べているものにも意識が向けられるようになりますし、それに伴って食欲に無理なく抑制が掛かるようになっていきます。ぜひそうなるまで頑張って欲しいです。

4)望ましい生活習慣をつける
  生活習慣というのは行動のパターンですから、目には見えませんが自分を規制する働きをもった環境の一つと捉えることが出来るでしょう。例えば、生活上での良い習慣は中身に影響を及ぼすと同時に、たとえ一時的に中身が乱れても全てが崩れてしまうことから守ってくれます。そのような意味でも、「一日最低10分の瞑想」を毎日続けることは大きな意義があるのです。
  つまり、肝心なのは習慣づけることです。完全にシステムとしてルールのように決めてしまう、決めればそうできるのが人の心です。
  今私たちは不善心所に陥ることを避けようとしています。しかし、もし心がどうしようもなく流されてしまう状態になると、心をきれいにしようという発想すらなかなか浮かんで来なくなってしまうでしょう。ですから、毎日の食事や風呂と同じように否応なしにルール化、習慣化するのです。そうすれば必ず身に付いてきます。いざという時に「守られた」ことを実感するというのは、まさにこのことを示しています。
  いくつか例を挙げましょう。

 ・朝の決意
 朝の行為のどこかで、その日の決意を心に命じます。たとえば歯を磨きながら鏡の自分に向かって「今日は決して怒らないぞ!」とか、「今日は食べたくても決して余分に食べないぞ」と決意を確認します。タバコ、アルコール、ギャンブルなど、ネガティブな例が分かりやすいので挙げますが、外からの助けが必要な場合はともかく、自分で脱け出そうという時には、「今日一日はやらない」という積み重ねによって脱け出せる例が多いのです。
  ただ、瞑想のためには、ぜひそれに即した言葉を考えてみましょう。例えば「今日は○○頑張るぞ!」という感じで、○○のところは「マインドフルでいる」「心の動きに気づく」というような意味の言葉を入れるとか、あるいはもっと具体的に、「欲望が出たら必ずサティが飛び出す」「怒りが出たらすぐに慈悲の瞑想をする」などと心に決めるのです。
  そうすると、少なくとも生活のなかで煩悩に巻き込まれている時間は短くなるはずです。例えば朝「今日はマインドフルでいよう」と決心したとして、その日一日、たとえ大まかであっても自分が何をしているかというレベルの自覚を保つだけで、煩悩によるトラブルに巻き込まれることは驚くほど減少します。

 ・不善心所モードの転換
  不善心所のモードをだらだら引きずらないよう、心を切り替えるための方策をいろいろ工夫して習慣づけましょう。サティを入れて不善心所をすぐに手放すことが出来なかったら次善の策、それが駄目だったらさらに次の策というように、心が常に善心所モードでいられるような工夫です。これは生活の知恵でもあります。
  例えば、不善心所になったと感じたらとっさに慈悲の瞑想をしたり、善い方向へ発想の転換を促してくれる友だちと連絡を取ったりするのも良いでしょう。
  あるいは、今まで読んだ本で感動した所をチェックしたり書き出しておいて、ちょっと目を通してみます。その内容に意識のチャンネルが合えば心は変わります。人はとてもレベルの高いものに感動すると一瞬にしてつまらない煩悩はどこかへ飛んで行ってしまいます。
  このように、善心所にサッと戻れるような情報に触れるように、またそれを取り込めるように常に心を広げていると、不思議なもので、今度は相応しい情報が向こうの方から飛び込んでくるようになります。これは「類は友を呼ぶ」の情報版とも言えるでしょう。

<まとめ>
  ダンマパダに「つまらぬ快楽を捨てることによって、広大な楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ」(注2)とあります。
  今回は欲望を中心に取り上げましたが、すべての煩悩が当てはまります。煩悩に巻き込まれたら、その瞬間は快感を覚えるかもしれませんが、結局は苦が待っているだけです。まさにつまらぬ快楽を捨てて広大なる楽しみを得よ、と言われるとおりです。
  ブッダはまた、「怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て」(注3)とも言われています。
  結局、煩悩に苦しめられたらその反対のことをやる、そのような回路を脳の中に作っていってそこから離れるしかありません。反対のことをして自分の心を煩悩から守るのです。これはまさに反応系の修行です。
  特にここで強調したいポイントは、「そうすることが幸せな人生につながるのだ」ということを理性的に明確に理解して、その意識がすぐに浮かぶように徹底することなのです。
  しかし、人の心は条件によってどうなるか分からない危ういものです。好調な時はずっとそれが続くと思っていても、それを崩すような情報はこの世界に満ち満ちています。気持ちが後ろ向きになった時のために、やはり環境の中に何か工夫を施しておくことは大切なのです。私の経験でも、この場合は三宝に祈る、この場合は体を使った善行、あるいは、光り輝くイメージに集中する・・・などと、二重、三重に防護策を施しておきました。さまざまな対応策を重ね合わせたり、また新しい何かを考えたりして、ぜひ自分なりのやり方を工夫してください。
  いずれにしても、仏教の立場からは、煩悩が自分の中に生起しなければ何でも良いのです。思考でやろうがサティでやろうが他のことを考えようが、自分のやり方で、結果として貪瞋痴がなければ苦は起きないというのが仏教の理論なのですから。(終)(文責:編集部)


欲望を回避する (4)


Aさん:楽しいことや快楽を追求することが、なぜ苦しみにつながるのですか。

アドバイス:
★苦を避けて快楽を求めていくのが生命の基本的原理です。快楽原則と言いますが、どんな下等動物や単細胞生物も、生きとし生けるものは苦の感覚を嫌い快の感覚を求めるものです。しかし悲しいことに、快楽はやがて苦痛に帰着していくのです。なぜ快楽原則に従うと苦しみに至るのか、3つの理由が考えられます。 (【1】~【3】:編集部)

【1】生命世界の残酷な構造

  この世は、全ての動物や生き物が仲良く、楽しく、みんなそろって幸せになれるようにはできていないのです。誰かが笑えば誰かが泣く弱肉強食の原理が働いているからです。この世界を作ったのが神であれば、構造的欠陥を持った失敗作と言わなければなりません。
  自分が生きるために他の命を殺さなければならない世界。自分の子供を育てるのに、他の動物の子供の小さくて柔らかい肉を食べさせる世界なのです。自分が条件の良い縄張りで、美味しいものを食べ、楽しく満足して生きようとすると、誰かが条件の悪いところへ追いやられ、餌食にされて苦しむのです。
  獲物を襲って食べる快を求め、敵に襲われる苦を避ける構造です。苦しみから逃れたい、安定したい、豊かになりたい、もっと上を目指したい、贅沢したい・・・と、自分達の快楽と幸福を最大化しようとして他の動物に苦を与え、他の国や部族にまで襲いかかって資源や富を収奪し、その余剰エネルギーと時間で科学や文化を発達させてきた人間の歴史もあります。
  生は残酷なシステムであり、生きようとすると他者に苦を与えてしまう構造があることを知らなければなりません。

*苦を耐え忍んでいく大地
  仏教では、この世を娑婆と言いますが、「娑婆」の原語は「サハ―(sahā)→大地」を意味し、耐え忍んでいく大地の意味で「忍土」「忍界」という漢訳もあります。
  ライオンも豹もチータもハイエナも日々、アフリカのサバンナで殺しに明け暮れて生涯を終えます。獲物を捕食するだけではなく、競合する敵から獲物を奪い取り、それぞれの幼獣を見つけしだい容赦なく咬み殺すのが常なのです。
  「プライド」という名のハーレムの王として君臨するボスライオンも我が世の春を謳歌できるのはほんの数年で、野心と力にみなぎった若い放浪オスとの戦いに敗れ、群れから追放され、多くの場合は負傷して野垂れ死にします。最強の王が年老いて、若い兄弟オスとの1対3の闘いに敗れるドキュメンタリーを観たことがありますが、背後から噛まれて脊髄を折られる鈍い音がいまだに耳に残っています。しかしそれも致し方ないことで、自分もまったく同じやり方で群れを乗っ取り、老いたボスライオンに死の苦しみを与えてきたのです。
  地上でも水の中でも空を飛ぶ鳥や昆虫の世界でも、この世の現象の世界には、苦を与えれば苦を受ける因果の理法が貫かれています。快楽原則に従って生きていく限り自動的に苦を発生させてしまう非情な世界なのです。ただ生きようとして、苦を逃れようとして、快楽を追い求めようとして、他の生命に苦を与えてしまい、否応なくその報いを受けて苦しむ世界。・・・一切皆苦と言われる所以です。

【2】不満足性の苦(ドゥッカ)
  快楽の瞬間が存在するのは確かなことで、痺れるような快感にときめくことが生きる原動力になっているとも言えます。快楽を求めることが幸福だと考えていると、やがて失望し、苦に見舞われ、不幸な結末に至るでしょう。
  どうしてかと言うと、要因が3つあります。 “①エスカレートする。 ②執着する。 ③飽きる”です。

①エスカレートする。
  まず、「エスカレートする」のは快楽追求路線上、避けられませんね。楽しくて、快くて、気持ちいいことはまたやりたくなるし、繰り返したくなるのが快楽原則です。ところが、ここに落し穴があります。
  そもそも快感を感じるのは、脳内の報酬系に快感ホルモンが分泌される瞬間です。エンドルフィンやドーパミンなどが代表的ですが、快感は強い興奮状態なので生体防衛機構が働いて、快感ホルモンを受容する受け皿を減少させて調節するのです。例えば、初乗りのジェットコースターでキャーキャー大騒ぎして、楽しいのでもう一度乗るとそれほど楽しくなかった・・・。よくあることですが、これは、同じ快感ホルモンが分泌されても受け皿が減少したため色褪せたものに感じられる現象です。二度目は楽しくなかったと失望し、幻滅し、不満足の状態に陥り、苦に帰着したことになります。
  すると次に何が起きるか。刺激をドギツクさせるのです。もっと興奮する仕掛けや装置を施して、快感ホルモンの分量を増やす。すると最初と同じようにキャーキャー興奮できるでしょう。しかし次には受容体が減少し、いちだんと神経伝達物質を増量しなければならなくなる。・・・こうして強い快感をもたらしてくれるものに依存症が成立していくのです。アルコール依存、ゲーム依存、ギャンブル依存、買物依存、薬物依存・・・。快楽はエスカレートし、無限に満足することはできず、「ジャンキー」と呼ばれる末期的依存症になれば自力更生は不可能となり、廃人となり苦が極まる構造です。
  なぜ人は、自らを死に追いやるまで快楽を求めてしまうのでしょうか。

②執着する
  どこまでも求めてエスカレートしていくのは、妄想が原動力になっています。自然界の動物は、もはやこれまで・・・とわかると潔く諦めるように見えます。我が身を襲った出来事を受容する能力が人間以上に高いようです。潔さは、余計な妄想をするか否かしだいです。人間は、妄想する能力を手にしたがゆえに苦の根本原因である「渇愛」の問題にぶつかりました。「渇愛」は「執着」と同じ意味で、断じて諦めず、執拗に追い続け求め続けるのです。

例えば、動物達は満腹すれば食べるのを止めます。血糖の値など血液成分比が上昇すると視床下部の満腹中枢が刺激され、もうイイと感じるからです。

ところが、それでも止めないで食べ続けるのが人類です。妄想する能力を得てしまったが故に、体の情報を無視してもっと、もっと、と貪り続けるのです。激怒する人も、執着する人も、貪る人も、その脳内では、妄想が激しく飛び交っています。食べ吐きをする人達は、次の食物に目をやりながら、過度のストレスを与えてくる人のイメージ、どうしても手放せないコンプレックスのイメージ、不安で不安で押し潰されそうな暗澹たる将来像・・・など、ネガティブな妄想を打ち消そうとして食欲の快感に逃避する構造があります。動物達はそんなことをしないし、余計な妄想をする脳が備わっていないのです。

*諸刃の剣
  ものごとを概念化し、言葉で情報を伝達し、互いにコミュニケーションを取ることができるようになった人類は、力を合わせて集団を形成し、文明を発達させ、圧倒的な豊かさを手に入れることができました。
  しかし、自由に概念操作する能力が自らを苦しめることになり、過ぎ去ったことを悔やみ、明日を思い煩い、人と比べ、自虐モードに陥り、動物たちのように一瞬一瞬「無心に」生きることが難しくなったのです。自然の摂理による信号を無視して食べ続け、挙句の果てに、お金と時間と膨大な資源をトイレに吐き出して自己嫌悪に駆られ、それを忘れようとしてまたコンビニへ買物に行ってしまう。
  妄想するシステムを搭載した人類は、苦の元凶である「渇愛(=執着)」と果てしないバトルを続けなくてはならなくなりました。
  しかし今さら、大昔の単純な脳に戻すことができるでしょうか。進化は後戻りがきかないという特徴があるのです。こうして人類には妄想をコントロールしなければならない切実な必要が生じ、苦を乗り超える四聖諦の瞑想が必須アイテムになってきたと言えるでしょう。四聖諦とは、「苦→苦の原因(渇愛=執着)→苦の超越(悟り)→方法論(八正道)」という原始仏教の根幹をなす公式です。

③飽きる
  限度を無視して貪るのは、妄想が作り出す偽の欲望に操られているからです。苦しみの原因である「渇愛」は、妄想が諸悪の根源だったのです。それだけではありません。楽しかった現実が色褪せてしまうのは、なぜでしょうか。あんなにワクワク胸をときめかせてくれた人も、物も、環境も、出来事も、急につまらなくなり、魅力的に見えなくなってしまうのも、妄想の仕業なのです。
  飽きる。興醒めする。退屈する。幻滅する・・・。
  手に入れるまでは、到達するまでは、結ばれるまでは、完成するまでは・・・、あんなにワクワクさせてくれたものが、夢が現実になり、Dreams  come  true.(ドリームズ  カム  トゥルー)となった瞬間、未知のものが既知となり、気の抜けた炭酸水のように、脱ぎ捨てられた靴下のように、甘美なゴールの妄想が終焉し、崩れ去っていくのです。脳内の幻が滅していく瞬間、文字通り「幻滅」の構造が露わになっています。目に貼り付いていた妄想のウロコが剥がれ落ちた瞬間、ただの現実に向き合うしかないのです。この「幻滅」という言葉ほど、ヴィパッサナー瞑想の「サティの瞬間」を見事に表現しているものはないでしょう。

*快楽ではなく、渇愛ホルモン
  妄想を止めない限り、現実をあるがままに観ることはできません。妄想が出っぱなしの人間の脳は、いつでも現実に妄想やイメージを投影していることに気づきづらいのです。ドーパミンというホルモンは快楽を司るホルモンと考えられてきましたが、快楽を味わうのではなく、何かイイことありそうだ・・・と欲望を刺激し、人を行動に駆り立てている働きをしていることがわかってきました。「快楽ホルモン」ではなく、「渇愛ホルモン」と言ったほうが正確です。
  ドーパミンによって、バラ色の未来を夢見てワクワクし、欲しいものが手に入った瞬間の快楽を想像します。やりたい、行きたい、欲しい、楽しみたい・・・と妄想に駆り立てられてがんばり、夢が具現化した瞬間、現実に目を叩かれるのです。妄想は甘美だが、現実はどこかに不完全な要素があり、何よりも刻一刻と変化していく無常の法則に支配されています。

*山頂には、下り道しかない
  もし願いがかない夢が現実になれば、それ以上期待で胸を高鳴らせることはできません。達成されてしまった現実はそれ以上の甘美な妄想を形成する力を失うのです。大量に放出された快感ホルモンが退き始めると、たちまち満足感が急降下していきます。何度も妄想を反芻して楽しもうとする人は、そうでない人より長引くでしょうが、獲得してしまったものは必ず当たり前になり、命がけで求めていたワクワク感は失われます。
  素敵な結婚相手も、マイホームも、新しいパソコンやゲーム機も、二度目に行くレストランも、どんなものも渇愛の妄想が投影されなくなると青ざめ、快感が萎れて「飽きる」というドゥッカ()になるわけです。

*ニンジンと馬
  同じものの繰り返しはつまらなくて嫌なのです。珍しいもの、新しいもの、おもしろいものが飛び込んできた瞬間、キャッ、キャッ、と興奮したくて仕方がないのが人の脳の特性です。「新奇探索性」と呼ばれます。手に入れたものにはすぐに飽きてしまい、何か新しい獲物を見つけて甘美な快楽を夢見て、欲しがり求め、焦らされればますます欲しくなり、妄想すればするほどエスカレートし、何がなんでもと執着し、やっと手に入れた感動はたちまち色褪せ、幻滅し、また新たな欲望を作り出して、馬が鼻先のニンジンを得ようとして走り続けるように、ゲットする→次の欲望→ゲットする→次の欲望→・・・と弄ばれながら、随所で悪いカルマを作りながら歳をとって死んでいくのです。

【3】変滅する苦
  ヴィパッサナー瞑想のようなシステムの力を使わないと、妄想を離れてあるがままに観るのは至難の業です。仮にそのようなことができる人がいたとすると、愚かな妄想をして自ら苦しみを作り出すことは激減するでしょう。快感や楽受の瞬間がすぐに崩れ去って消滅しても、快楽に執着する妄想をしないので、失われていったものを嘆くことも苦しむこともないでしょう。苦しみを滅ぼす心のシステムを確立している聖者たちに近づいていると言えます。
  しかし、妄想で苦しみを作り出す凡夫の負のスパイラルから抜け出しても、残念ながら苦(ドゥッカ)は残るのです。この世に存在するものは全て無常の法則に支配されています。物は劣化し、どんなに美しい人も愛する家族も歳を取り老いていくし、業があれば事故に遭い病を得て死んでいくのです。
  体にも心にも苦受を受けた瞬間、解脱していないわれわれ凡夫はドゥッカ()を経験するでしょう。妄想を離れる度合いに比例して苦しみは無くなりますが、それでも、母親の臨終や死んでいく我が子の末期を看取る瞬間、心が痛むのではないですか。悲惨な苦しみは徳を積みカルマを善くしていくことによって乗り超えられますが、完璧にという訳にはいかないでしょう。あらゆる徳を積み、波羅蜜を究極まで高めてブッダになられた尊い御方ですら、時に下痢をし足に棘を刺し、異教徒に罵倒され、公衆の面前で「こいつに妊娠させられた」などと嘘をつかれて危うい瞬間もあったのです。
  つまり、過去の不善業を全て無化することは誰にもできないということです。不善業があれば必ず苦受の瞬間があります。それが限りなく少なくても、老いていくし、死んでいかなければならないし、幸福だった愛する人が病み、転落し、不幸な境遇に陥っていくのをどうしようもなく見ていなければならなくなることもあるのです。
  苦受も嫌だが、楽受が失われていくのも苦しいのです。生きている限り、この変滅する苦、無常の苦をなくすことはできません。永遠に続く楽受の連続はない・・・。これが、なぜ楽が苦になってしまうのかの究極の答えです。

Bさん:欲望をどう抑制していくかについてお伺いします。たとえばサティを入れて食欲をコントロールしようとするのですが、結局は負けてしまって自己嫌悪という結果になることがあります。食欲に限らず、このようなことはどう解決していけばよいのでしょうか。

アドバイス:
  生存に直結した食欲のコントロールはとても難しく、負けてしまうのは当然というか、自然なことです。もし簡単なら、世の中に肥満の人がいなくなるでしょう。人類の歴史は飢餓との戦いであり、存分に食べられるチャンスに食欲を抑制する機構など備わっていないのです。人は食べ過ぎるように作られていて、ブッダの時代の比丘達ですら例外ではなかったのです。

*ブッダの戒め
  「食べ過ぎるな」と、経典のあちこちでブッダは繰り返し戒めています。同じことを何度もブッダに言わせてしまうほど、過食する弟子が多かったということでしょう。食べ過ぎを抑止するのが難しいのは、2500年前も今も変わらないのです。
  望ましいことではないが、過食は避けがたいので、時に食べ過ぎても自虐モードに陥らないようにしましょうと、まず申し上げたいですね。貪って過食したことが第一の毒矢なら、後悔し自虐モードになるのは第二の毒矢です。毒矢を2本受けるより、1本だけにすべきです。さらに愚かな人は、自己嫌悪に陥ったことにムカついて第三の怒りの毒矢に打たれます。
  食べ過ぎてもいいんですよ。()  ただその後で頭がボーッとして、瞑想はできないし、経典の学習もダンマトークの聞法中も睡魔に襲われ、衣類に涎のシミを作って笑われる。これが、罰と言えば罰です。
  過食は本当にダメなんだ、と思い知り、心底から小食を決意しない限り、最強の欲である食欲をコントロールすることはできません。そう覚って、そういう気持ちになれるまでは性懲りもなく食べ過ぎるしかないのです。()・・・と偉そうに言ってますが、私も何度食べ過ぎて自分の愚かさぶりに溜息をついたかわからないんですよ。()

*気をつけておれ
  ブッダは、この問題の対処法をどのように考えていたのでしょう。経典のあちこちで、ブッダは繰り返し「よく気をつけておれ」と言ってます。また、「怒らないことによって怒りに打ち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て・・・」とも言ってます。この2つの言葉は、ブッダの方法の基本となるものでしょう。
  10年間サマタ瞑想に専念し行き詰まっていた時代の私の眼に、この言葉は突き刺さってきました。なるほど、怒らないことによって怒りに打ち勝ち、貪らないことによって貪欲に打ち勝つしかないのか。それは、「よく気をつけることによって」なされるのか・・・。
  このあまりにも当たり前な2つの言葉に吸い寄せられて、私は原始仏教の深遠な世界に分け入り、遂にヴィパッサナー瞑想にめぐり逢ったのです。「気をつけておれ」とは、後にサティのことだと判明しましたが、煩悩を抑止する魔法のような切り札は存在しない。常に、一瞬一瞬よく気をつけて、サティを入れ続け、善いことによって悪いことに打ち勝っていくしかない。それが、煩悩を滅尽させていくブッダの方法なのだと腹に落ちました。

*揺るぎない決意
  食欲という強敵に打ち勝つには、「よく気をつけて」「貪らないこと」をブッダは示唆しているようです。瞑想の修行用語としては、「サティ」と「決意(アディッターナ)」が大事ということになるでしょう。成しがたいことをやり遂げるには、特に「決意」が重要です。
  「必ず食欲を制する!」「どんなに微かでも、怒りの心が反応した時には必ずサティを入れる!」
  このように、修行目標を明確化し、必ずやる!やり遂げる!と決意すると、心の諸々のエネルギーが動き始めるのです。心というものは、強く命じられると何とかそうしようと頑張るものです。決意がブレなければ、業の法則上からもやがて具現化していくでしょう。
  何があろうともブレずに、揺るぎなく堅持される決意は「智慧」の力に支えられています。なぜそれが必要か、その目的が遂げられるとどうなるのか、たとえ成就しなくても悔いのない生き方になるのか・・等々、十分に考察し検証されて確立した決意は不動のものになるでしょう。
  この揺るぎない心を「信(サッダー)」と言います。智慧に支えられていない「信」は、愚かな盲信になりかねません。過去を正確に分析し考察し、あり得る可能性を想定し、経験的に検証されて得られていく実証的な智慧。その智慧に必要不可欠なのが「サティ」であることは言うまでもありません。
  「決意」は強力な意志(チェータナー)の別名であり、業を形成していく根源的な力です。決意が全てを変えていく所以です。
  断固たる決意は、必ず苦のない人生を実現させるでしょう。決意は「信」に支えられ、「信」は「智慧」に支えられ、「智慧」は事実の検証に支えられ、その現場は「サティ」によって取り仕切られていると言ってよいでしょう。

*なぜ食べる?  なぜ生きる?
  となると、なぜ食欲をコントロールしようとするのか、その目的や動機をもう一度確認した方がよいでしょう。
  なぜ食欲を抑制するのか。良い瞑想をしたいから。なぜ良い瞑想をしたいのか。心を浄らかにしたいから。なぜ心を浄らかにしたいのか。欲望と怒りと愚かさに汚れた心は不善業を作り、人生が苦しくなるから。今の自分の人生の苦しさを絞り込んでいくと結局、何が問題なのか。それは何に由来するのか。それを乗り超えるにはどうしたらよいのか。人に苦しみを与えないために戒をより厳密に守るのか。他人に善行をなすのか。それでも乗り超えられなかったら、どのように受け止めればよいのか・・・。
  こうしたことを徹底的に考察し、腹に落とし込み、今夜帰宅して必ずやるべきことを明確に自覚して夕食に臨んでください。スポーツ観戦しながらダラダラくつろいで寝るだけなのか。瞑想をするのか。クリエイティブな頭の使い方をする時と、重い荷物を二階に上げなくてはならない時では、腹七分にすべきか、満腹が良いのか、調整すべきです。
  やらなくてはならない大事なことがあり、小食にすべきなのはわかっているが、それでも美味いものを存分に食べなければオサマラナイ時もあるでしょう。何もかもわかりながら、また同じことを繰り返しますか。100回同じことをやり、100回後悔したなら、ここはサティを入れるべきでしょう。何にムシャクシャしているのか、自覚すべきです。ヤケ食いを始める前に、漠然と感じているストレスをきちんと整理して、不快な出来事をものを食べる快感獲得によってウヤムヤにしようとしているのではないかと、ありのままに知るべきです。分析も、考察も、究明も、できないし、やりたくない時こそ、苦しいからこそ、瞑想をやるべきです。思考を停めれば、お粗末なエゴの反応も鎮まり、見えなかったものが閃く瞬間が訪れるものです。
  食べることが、生きることです。仕事をすることも、家族とくつろぐことも、歩くことも、瞑想することも、生きることです。
  マインドフルに、よく気をつけて食べることが、自分の人生をどのように生きていくか、人生観や価値観を問い直すことにもなっていくでしょう。食欲ときちんと向き合うことによって、なぜ生きるのか、何を目指して、どのように生きていくのか、自分は何をやりたいのか、何をするために生まれてきたのか、を問うことに繋がります。何を、どのように、何のために、どのくらい食べるかを賢く決めることが、生きることそのものであり、その一瞬一瞬が良い瞑想の因となり、鋭い明晰な気づきの瞬間が、変哲もないただの日常を輝かせてくれるのです・・・。(文責:編集部)



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