月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

職場でのサティと「慈悲の瞑想

Aさん:
  仕事の上でまるで攻撃を受けているように強く否定されたり、納得がいかない方針に従わなければならないことも多く、それが苦痛です。

アドバイス:
  大変ですね。なんとか対策を講じて、嫌なことから逃れられるとよいのですが、なかなか思いどおりにならないのが人生です。
  仏教では「一切皆苦」と言われますが、嫌なことがこの世から無くなることはありません。

  阿羅漢の聖者でも深刻な病気になったり殺されたりしました。ブッダですら、罵られたり、足に棘を刺したり、3ヶ月間も馬が食べる麦のようなものしか托鉢で得られなかったこともあったのです。
  苦は業の結果であり、過去世から今に至るまでに不善業を作らなかった人はいないので、苦がなくなることはありません。
  苦の現象は止められませんが、苦を嫌悪する怒りの心はゼロにできるのが悟りです。

  悟るのは大変ですが、ただ苦しむだけでも意味があるのだ、と発想を転換させることもできます。

*消えていく不善業
  あなたが嫌な思いをし、日々苦痛を感じるのは業の結果だと仏教では考えます。
  不善業を作れば、いつの日か必ず現象化してくるので、逃げられません。転職しても、引越しても、新しい職場やご近所の誰かから、同系・同類の嫌な思いをさせられるでしょう。
  相手に逆襲したり、上層部に直訴して方針を覆すこともできるでしょうが、それでは問題の不善業は無くなりません。一時停止ボタンを押して、その場をしのいだだけですから。
  ドゥッカ()に叩かれ、苦痛を感じた瞬間に、一つの不善業が現象化して消えていくのです。ただ苦しいだけの人生にも意味があるのは、業の負債返しをしているからです。

  嫌なことが起きるのは、不善業を消すためであり、心の成長のために必要不可欠な手続きなのだと考えて、心を汚すべきではありません。もし攻撃してくる相手に怒鳴り返したり、怒りの心で反逆すれば、その瞬間に新しい不善業が作られ、未来に再び苦を受けることになります。
  反対に、たとえ苦を受けても、怒りのカードを切らずに、きれいな善心所で反応することができれば、未来に善いカルマが作られていきます。至難の業ですが、そのために私たちは日々サティの瞑想をしているのです。どんなことにも反応せず、淡々と見送っていくのが、苦を乗り超えていく仏教のやり方です。

Bさん:
  介護で認知症の人の話を聞くことがありますが、眠たくなってしまいます。


アドバイス:
  それは、聞きたくないからではないでしょうか。
  眠くなるのは「昏沈・睡眠」という不善心所で、煩悩に分類されます。

  心が受け容れたくないものに対して反撃もできないし、逃げ出すこともできないときに、眠気に陥ることによって心の中で耳をふさぎ、拒否する作戦が取られるのです。
  『ああ、またか。嫌だな、聞きたくないな』という本心が眠気に逃げ込んでスルーしようとしていないか、その時の心をよく観察してください。
  眠気が来る前に、前触れとしてウンザリや嫌悪感があるはずです。本当にその順番で到来しているか、課題として観察すると良い心の随観ができるかもしれません。


*明日は我が身の老い・・・
  難しいかもしれませんが、できるだけ慈悲の心で対応できるようにしたいものです。
  自分の話を聞いてもらえた、ちゃんと相手をしてもらえたと思えることは、老人にとっては宝物のようなご褒美なのです。
  歳を取れば取るほど、寂しさが募ると多くの老人が言います。

  親しかった同世代は次々と先立ち、家族からあまり優しくしてもらえない老人の寂しさを想像してください。
  その老人のように、あなたがならないとは言い切れませんね。

  そうなった時、自分を介護してくれる人がちゃんと向き合ってくれて、自分を人間として尊重してくれていると感じられたら、嬉しいでしょう。
  認知症の老人は、脳の中で最もダメージの受けやすい海馬がやられるので記憶が悪くなり、結果として認知が乱れます。しかし、プライドはしっかり残っているし、相手が自分をどのように扱っているかは動物的直観で見抜いています。痴呆扱いは人間としての尊厳を傷つけることだし、もし自分が年老いて施設に入れられ、認知症になったとき同じ対応をされたら・・・と想像しながら、しっかり慈悲の瞑想をしてみてはいかがでしょうか。

Cさん:
  私も介護職をしています。怒って来る人に対して、「そんなことでなんで怒っているのか?」と常に判断(ジャッジ)が優先してしまいます。慈悲の瞑想でなんとか保っている感じです。ある人の話をヒントに、携帯の待ち受けを「ジャッジしない」に変えたらストレスが減りました。


アドバイス:
  視座を変え発想の転換を試みるのが、自己変革や自己超越に通じる修行です。
  相手が些細なことで怒り出したように、こちらも相手の表面的な態度に単純に反応していないだろうか・・と視点をずらして、自分を対象化して観るのはヴィパッサナー瞑想的ですね。

  その老人も自分も上っ面だけで反応していると気づけば、相手に興味を持ち、もっとよく観察することにもなっていきます。相手に気持ちが入っていかないと、慈悲の瞑想は言葉だけになり深まりません。

*ジャッジする→よく観る→優しくなる
  通常、ジャッジしている時の心は、対象に共感する要素は弱く、客観的でもあり冷淡でもあり、批判的な高みの見物になりがちです。そんな時の慈悲の瞑想は、慈悲のオーラで自分を守るのが精々で、相手に対する優しさや温かい思いやりの心は乏しくなる傾向です。
  慈悲の瞑想が通りいっぺんの域を出ないのは、相手に対する思い入れや想像力の欠如が要因の一つです。
  相手をよく知り、実状が本当に理解されると温かい想いが溢れてくるものです。
  よく知らないものはどうでもよくなり、事情や情況や本当の状態が分からなければ、人は冷淡になりやすいのです。
  相手に興味を持ち、真の要因を見出していくプロセスで、慈悲の瞑想が心からできるようになる可能性があります。
  もし慈悲の瞑想が深まれば、それだけでも事態を好転させる力になるでしょう。
  取るに足りないことで怒りをぶつけてくる人の真意は何なのか、探り当てようと推測をめぐらしてはいかがでしょうか。


*ジャッジする心に分け入る
  人の行動を駆り立てている真の原因が必ずあるものです。勘違いをして、怒りがリリースされていないか。何を誤解しているのだろう。些細なことで怒りのスイッチが入ったのは、心の奥に抑えがたい何かがあったからではないか。この人の怒りは何かの明確な意思表示であり、怒りのエネルギーを使って何を伝えたいのか、言いたいのか・・・。
  ジャッジする心は相手と積極的に関わろうとする要素が乏しく、のみならず、嫌悪や怒りを抑えるために、上から目線で相手を見ようとしていないかもチェックポイントになるでしょう。
  ジャッジしなくなったらストレスが減少したのは、ネガティブな負の感情が解放されたことを意味しているように思われます。その不善心所の一つは怒り系の心、もう一つは慢の心です。相手を見下そうとしている時と、相手を受け容れて優しい心になった時とを比べてください。どちらが疲れるでしょうか。
  不善心所は疲れるし、カルマも悪くなるし、割に合わないものです。


*張り紙効果
  心の切り換えをしたのが、携帯の待ち受けだったのも面白いですね。私は「張り紙効果」と呼んでいますが、私たちは、頻繁に目に入ってくるものの影響を強く受けてしまうものです。壁に仏像の写真を飾った場合と、ヌード写真を貼った場合とではまったく違うでしょう。
  見た瞬間、心に展開していくものが異なるのです。
  人は、いつも見ているもののようになっていくし、身近にいる人のようになっていく、とブッダも仰ってますね。
  張り紙効果で思い出しましたが、認知症の老人たちのお世話に疲れきっていた介護職の女性が、玄関のドアの近くに張り紙をしたそうです。毎朝家を出るときに、「あなたを拝みます」という文言を目に焼きつけて出勤していくのだそうです。一瞬、胸が打たれました。日々、どんな想いで、不善心所モードに陥りそうな自分と戦っているのかが想像されました。
  職場は、修行の場です。がんばってください。


Dさん:
  本日初めての参加です。いつも仕事でたいへん疲れている状態です。


アドバイス:
  仕事の量や労働時間が物理的にオーバーしているのであれば、何はともあれ、休養を取らなければなりませんね。精神が張りつめていれば、一定期間は維持されますが、限界に達し、糸が切れてしまった時のダメージは極めて深刻なものになってしまいます。多くの人が、最悪の事態になってから強制的に休息することになり後悔しています。
  くたくたに疲れれば、その疲労感の不快さだけでも嫌悪や怒りモードになりがちです。苦を補償するために快感獲得をしたくなり、美味しいものを食べたり、綺麗なものを見たり、聞いたり、楽しんだりして疲れを癒やそうとするのが一般的なやり方です。
  ごく普通のことで間違っている訳ではありませんが、問題は自分の感じている苦の原因を究明して、根本的に対処するやり方ではなく、苦から目を背けて忘れようとしているところです。ストレスや疲労が軽症の場合はOKでも、深刻な原因のある重症のケースでは、快感の上書きでは対処しきれません。


*心と体の苦を仕分ける 
  では、瞑想者はどのように疲れに対処するのでしょうか。

  まず身体的疲労と心理的疲労を仕分けます。体が疲れているのか心のストレスなのか自分でもよく分からず、漠然とゴッチャになっている状態が良くないのです。
  不快感だけが何となくドロリと拡がっていると、嫌悪や怒りや憤りなどのネガティブな妄想が多発しやすいのです。
  幼児が暗闇を怖がる一因は、この世のことがよく分かっていないので、暗闇で得体の知れない妄想がふくらみ恐怖心が煽りたてられるからでしょう。いかなる場合にも、現状を正確に、ありのままに把握できていれば、根拠のない不安や妄想にやられることはなく、イザという時に最適な対処ができるでしょう。
  仕事で疲れた場合、心理的なストレスや不快感がゼロということはまずありません。
  嫌な上司や顧客など人間関係に起因する苦しみ、仕事の量や工程やシステムに対する不満や嫌悪に起因する苦しみ、仕事中にも頭から離れない一身上の問題に起因する苦しみ等々、仕事と妄想が混然一体になって、仕事が辛い、苦しい、疲れた・・と嘆息をついていないでしょうか。


*人生の現場に斬り込むサティの瞑想
  自信のない人の場合は、実際の仕事よりも常に失敗を恐れて不安になったり、コンプレックスとの戦いなどでヘトヘトになって自滅するパターンがよく見受けられます。
  過ぎ去ったことを掴んでしまうタイプの人は、今の現実ではない過去と格闘する妄想で疲弊していきます。
  理由はさまざまですが、人は必ず、実際に取り組んでいる仕事と、仕事にまつわる妄想とを一緒くたにするものです。
  仕事で疲れたと言いますが、本当の疲れの原因は脳内に醸し出されているネガティブ妄想ではないか。事実だけに向き合い、脳内妄想を止めることができれば、疲れという名の苦しみは激減するでしょう。
  これは、ヴィパッサナー瞑想の本質そのものと言えるでしょう。
  人生の現場で、法と概念を仕分けるとはこういうことです。


*善心所モードの力
  では、どうやって疲れを取ればよいのでしょうか。
  前述したように、自分のための癒やしや快感獲得も悪くはありませんが、ベストとは言えません。心理学的にも知られていることですが、美食や買物などでエゴを満足させるよりも、人のお役に立てて感謝された喜びや達成感の方がはるかに幸福度が高いということです。善行の力というか、困っている人を助けることができたりすると、こちらの心は善心所モードいっぱいになります。
  疲れが吹き飛ぶのは、崇高なものに感動したり、バリバリの善心所モードになることなのです。試してみてください。疲れると不善心所モードになりがちで、嫌悪感からブーたれたりヤケ食いなどするとますます心が汚れてぐたぐたに疲れていきます。不善心所だから疲れるのです。そして疲れを一掃するのは、善心所モードになることです。


*善き心が疲れを癒やす
  7~8年前になりますが、89歳の母と二人で暮らしながら介護していたとき、日一日と疲れが蓄積され、体も心もヨレヨレになっていくと介護のクオリティが低下していくのを感じました。休息が必要不可欠なのです。どのような休息の取り方が最も効率がよいか。それは、いま申し上げたように、善心所モードになることです。
  私がどうしたかと言えば、デイサービスにしか行かなかった母にショートステイしてもらい、その間私は東京や大阪で瞑想会や1Day合宿を行なったのです。一瞬も気を抜けない瞑想会は、一瞬も不善心所に陥ることができないのと同じです。瞑想会が終わり一泊すると、どこにも寄らず、母の待つ故郷に直帰するだけです。
  一瞬も気の抜けない仕事と長い移動で肉体は疲労しているはずなのに、私の心は最高の善心所モードになっていて、高揚した前向きな心が凛々とみなぎってくるのでした。母に対面すると、リフレッシュされた優しさが込み上がってくるのをはっきり感じたものです。私にとって最高の休息は、ダンマの仕事に没頭し、善心所モードになり切ることでした。
  疲れが引き算され、疲労が抜けたのではありません。優しさとエネルギーが輝くように湧き立つ感覚なのです。これが、善心所モードの力です。これ以上の疲れの取り方を、私は知りません。どうぞ検証してみてください。


E
さん:
  仕事でミスをしないか、常に不安があります。


アドバイス:
  遺伝子も影響しますが、心配や不安を何度も繰り返せば心配症になるでしょうね。長い時間をかけて形成された反応パターンは簡単には変わりません。しかし諦めればますます固まって、その傾向が助長されます。この世に存在するものは全て、物も心も何もかも無常の法則に貫かれています。変わりにくいものはありますが、変わらないものはありません。強く決意すれば、そしてその決意がブレなければ、人生はそのようになっていくし、人は望んだ通りに生きられるのです。

*作られる完全主義
  完全主義の人は、ミスを恐れ不安に駆られる傾向があります。幼い頃から完全であることを求められれば、完全主義になるのは必然です。完全を求めた親もまた、幼少期から完全であることを期待され求められてきたはずです。しかし、完全主義やミスを恐れることは悪いことでしょうか。それも立派な個性として花開くのではないか。検品や経理関係はもちろん、校正もバグを見つけるのも、ミスは許されません。完全主義でないと困る分野もあるのです。長年繰り返した習慣的な特性は、一見ネガティブに思われても適材適所です。開き直ってプラス思考し、活用法を考えると、ドゥッカ()から解放されるでしょう。
  しかし、どうしても失敗の不安から解放されたいのであれば、サティの瞑想をしっかり修行することによって、浮かんでくる不安妄想を瞬時に見送ることができます。やるべきことをしっかりやったのであれば、無益な不安に駆られるのは愚かしいことですから、妄想を駆逐するサティの技術を習得すべきです。中心対象のセンセーションよりも妄想に気づくように意識の張り方を変えて、法随観に力点を置いたサティの瞑想をしてください。妄想に敏感に気づいて、たちどころに切り捨てていく練習です。


*失敗もミスも宝の山
  もしミスや失敗をしてしまったら、後悔や自責の念に苦しまないよう、逆転の発想を心がけます。ミスや失敗の価値に目を向け、失敗を逆に喜び歓迎するのです。人は成功した場合よりも、失敗からもっと多くのことを学ぶことができます。失敗すれば必ず反省し、抜本的に見直して改善するからです。一流の人が人間として大きく成長したきっかけが大失敗や挫折体験に由来しているのは、ほぼ例外なく共通している典型でしょう。
  クレームは宝の山、という言葉もあります。クレームをつけられるということは、創造性開発のビッグチャンスなのです。失敗を修正するプロセスで、原理的な構造そのものを根本から見直すこともあり得るし、新たな発想を得て、修正をさらに工夫し改良すれば、爆発的なヒットが生まれるかもしれません。
  科学の新たな発見は、何百回もの失敗の上になされているのも常識です。失敗を恐れれば、慎重で臆病な安全パイになり、創造的な魅力が乏しくなるでしょう。多くの企業が「大失敗賞」を設けたり、役に立たない実用性のないものを作るコンテストをしたりするのは、大胆でクリエイティブな発想をうながすためです。失敗もミスも、一時的な評価に過ぎません。人間万事塞翁が馬ですから、巨視的なタイムスケールで見れば、失敗は偉大な成功の布石に過ぎないと考えることができるでしょう。


*失敗と成功を等しく観る「捨」
  ヴィパッサナー瞑想の「捨(ウペッカー)」の立場に立てば、失敗と成功は等価なのです。つまり、失敗しても、ノーミスで首尾よくいっても、どっちでも良いことになります。
  私の言い方では、起きたことは全て正しいし、それで良いのです。
  失敗を恐れず、もし失敗したら仏教的な発想を思い出してください。


Fさん:
  新しい仕事になってから上司とうまくいかず、怒りが出るようなことがありました。その時に、「嫌なことをしてくれる人は神様?」と思い直したら観察出来るようになり、上司の気持ちもわかるようになりました。そうしているうちに観察するのが面白くなってもきました。最近は、「なんで私が怒られないといけないの?」から、「赦すという気持ちが大切?」となって、「赦すという練習をここに入れるべき」と思うようになりました。


アドバイス:

  素晴らしいレポートですね。ヴィパッサナー瞑想の教科書に載せたいくらいです。()
  法としての事実はただそれだけのことであって、それをどのように認識するかは各人各様、こちらの問題なのです。同じ対象や出来事を見ても、鷹には鷹の世界があり、犬には犬の認知があり、凡夫と聖者の認知ワールドは異なるのです。したがって、全対応型で苦しみを無くす仏教のやり方は、対象や環境を変えるのではなく、こちらの認識をいかに変容させるか、の問題なのです。
  頭に来る上司が神様に変わってしまう発想の転換こそ、ヴィパッサナー瞑想の反応系の修行です。


*神様は苦を与える?
  「嫌なことをしてくれる人は神様?」と同じことを「我以外、皆、師」と表現した方もいました。自分以外の全ての人が、雄弁に、訥々と、無言で法を説いてくれている・・・と観る視点です。
  「愚者が賢者から学ぶことよりも、賢者が愚者から学ぶことの方が多い」とブッダが言うのも、同じ発想や視座の転換を示唆していますね。私自身も、「自分に苦しみを与えてくるのは菩薩である」という一行を読み解こうとして、仏教や瞑想の世界に深入りし、今日に至っています。

  瞑想者として素晴らしいのは、上司を嫌う心が無くなったら、冷静に観察できるようになり、上司の気持ちが理解できるようになったことです。嫌悪という不善心所に満ちていれば、純粋な観察も瞑想もできないのです。エゴが勝手に編集した怒りの世界に住していれば、相手の真の姿が見えてこないし、愚かな怒りのエネルギーを出力しながら、ただカルマを悪くして未来に苦を受けることになります。
  怒りの心を手放してニュートラルな心になったら、相手の姿がありのままに観えるようになってきた。
  あるいは、ものごとをあるがままに観るためには、怒りや高慢や嫉妬や、諸々の不善心所を手放さなければならない。
  貪瞋痴の煩悩が無くなっていけば、苦しみもセットで無くなっていくし、心を浄らかにすることと、あるがままに観ることと、苦しみが無くなっていくことは、同じ一つの清浄道だったという理解になっていきます。


*赦すという練習
  赦しの修行にチャレンジしているのも素晴らしいですね。「怒り」から「赦し」へと視座が転換される狭間で、カルマ論的な理解がなされると、もっと腹に落ちるかもしれません。もし上司に難癖をつけられたとしたら、その原因は自分も過去世のどこかで人に難癖をつけてきた業の結果だ、と仏教では考えます。苦を受けることによって不善業が一つ消え、蒔いた種を刈り取ることができたのだから、本当はこれはありがたいことなのだ・・と考えることができれば、「赦す練習」が悪業を消してくれた相手への「感謝」の修行にもなります。
  赦しの修行は、ものごとを正しく理解する智慧が伴わなければならず、正しい智慧を得るにはエゴに固執した視座を手放さなければならないのです。つまり、「赦しの修行」とエゴを無くす「無我の修行」は同じ一つの修行につながってくるのです。


*黙って受け容れる・・・

  ヴィパッサナー瞑想をしている方でしたが、こんな事例もありました。
  顧客の方が100%悪いにもかかわらず、こちらが謝って淡々と仕事を続けていたら、帳簿を調べ直したか何かで顧客の側に非があったことに気付いたのです。慌てて謝ってくれたのですが、一言も文句を言わず、黙って受け容れ、赦しの修行をしているかのようなその瞑想者に感動し、熱烈なリピーターになってくれたそうです。 
  在家の瞑想者にとっての職場は、最高の修行のリングやグラウンドなのです。がんばってください。

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